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ブルデュー「科学の科学」は、科学の民主化批判か?

 現代社会学の巨人であるブルデューが、科学の本質に対する深い分析を加えている。大学での科学をテーマにした講義をまとめて出版された「科学の科学」がそれである。これは、基本的に科学社会学の書である。
 STSの中心的存在である科学社会学者平川秀幸らが主張する専門性の民主化(「科学の民主化」を意味する)という流れとは全く逆の科学観に準拠していることがもっとも興味深い。ブルデューの科学観によれば、科学的知識とは、一定の資格をもつことで科学界に所属することを許された=科学者たちや科学者集団が作り出す権威付けられた専門的知識である。
 つまり、ブルデューによれば、科学的知識とは、科学者個人が単に研究対象との関係から得るのものではなく、科学界において他の科学者との競争・協力関係から構築されるものであり、集合的産物であるということである。
 自然科学の場合、数学、統計学、語学などの素養があり、特定の分野の専攻学歴があるという参入資格を得たメンバーたちによって、科学界が形成されており、観測と実験で得られた研究の成果は、科学界の他の科学者たちに検証、討議された後、合意を得て、はじめて対象と認識が一致した知識と公認され、科学的知識ができあがる。この社会的手続きなしには、客観的な科学的知識だとは言えない。そして、重要なのは、観測と実験の方法については科学界における特定の規則があり、その規則に従っていることが求められる。単純に実験における対象の反応結果が審判を下すのではなく、実験で得られた知識は、他の科学者による検証・討議による合意を得ないと駄目なのである。
 科学的知識とは、実験と観測で得られ、かつ科学界で検証・討議され合意を得た知識なのである。ブルデューは言っていないが、私見から言うと、それプラス国家=官僚が認めたことで、人々は科学的知識として安心して受容することになる。
 このような科学的知識の社会的構築過程を考えると、科学的リテラシーとか科学の民主化などは、ほとんど期待できない。まずは、数学の素養がないと科学的議論には参加できない。数学ができない文系人間は、科学的討論の外におかれることになる。非専門家が討議できるのは、科学的知識の社会における有用性くらいになる。

 視点は変わるが、先述のようにブルデューは、科学的知識が社会的に構築されたものであるという考えをとるものの、科学的知識の内容には社会的要因が入り込む余地がないと考える。ここが最大のポイントである。
 実は、対象と認識の一致=物理的リアリティを保証する装置として、科学界は機能していると言っているのである。科学社会学の祖であるマートンは、科学者集団によって科学的知識はつくられると言って入るが、その内容の真理性は括弧に入れており、不問にする。これは、ちょうど、宗教社会学者が研究対象である特定の宗教の教義内容の真理性や道徳的価値を問わないのと同じである。ちなみに、内容に対する真偽や善悪を問わないこの姿勢こそが社会学者に共通する価値中立の態度である。
 科学社会学の中には、エジンバラ学派のデヴィット・ブルアのように、科学的知識の内容が社会の影響を受けると考える流れもある。これは、科学的知識を相対化する極端な相対主義の立場をとることになる。ニセ科学批判者が一番嫌がるタイプの科学社会学である。科学的知識は社会によって異なるというテーゼは、科学の普遍性を卑しめることになる。このような相対主義ともブルデューは一線を画する。
 社会的条件が科学的知識の構築に影響を与えることにブルデューは、一面では否定しており、別の面では肯定しているようである。まず、ブルデューは、社会的条件が科学的知識の内容に影響を与えることはないと確信する。その理由は、科学界が存在するからである。科学界が専門的に定めた実験と観測の規則に従って得られた研究成果を携える各の学者たちが、一つの真理のポストを巡って討議し争うことで、社会に左右されない正しい知識が確定できると考えている。一つの知識は、実験と討議という二重の審判にかけられて真偽が決定されるわけである。
 このような社会的過程が、むしろ社会的条件が知識に影響を与えることを排除して、社会とは無縁な正しい物質に関する知識を得ることを可能にするというわけである。言い換えれば、科学界は、科学的知識における社会的影響排除機能があるのである。
 そして、科学界の機能が科学を進歩させてきたのである。しかし、この機能は、科学界が参入者の資格制限など閉鎖性をもつことで、担保されることは言うまでもない。
 ブルデューは、科学界の機能のおかけで、社会構築主義者の極端な知識相対主義と、物理的な真理の構築には他者の意見は必要ないとする素朴実在論という二つの極端な立場の対立を止揚することができると考えている。
 科学的知識は、社会(間主観的関係=科学界の検証・討議・合意)を必要とするが、そのことでかえって物理的リアリティを担保できるというわけである。個人ではなく、社会が物理的にも正しい科学的真理をつくりだすということである。つまり、社会を離れた科学的知識は存在しないものの、その内容それ自体は物理的に正しいのである。一番重要な点なので、何度ども強調するが、近代科学においては、知識獲得方法及び真理認定過程は社会的(共同主観的)であるが、知識内容それ自体は社会に左右されない真理として定立されるのである。

 ブルデューの議論からすると、平川氏のように、科学は誰のものかと叫び、科学的専門性の民主化を啓発し、万人に科学を解放すると、科学的知識の内容それ自体に社会の影響を持ち込むことになり、科学的知識の真理性を脅かすことになる。その意味で、平川氏のプランには、慎重さが必要である。
 科学の民主化・大衆化の事例としては、やはりニセ科学批判があげられる。ニセ科学批判は、素人による科学的知識の真偽の判定を伴っており、実験や観測もせず科学界の合意も得ていない自分の意見を述べて、言わばニセ科学コミュニケーションをしている。ニセ科学批判の祖である菊池氏も、専門外である医学まで口出ししている。
 科学的討論においては、その資格がある者のみが参加可能であり、科学界内部における限定された民主主義であることを弁えるべきである。 閉鎖性・自律性をもつ科学界への信頼を寄せるブルデューの議論からは、科学の民主化・大衆化は科学そのものを否定することになるのである。
 ブルデューの科学観については、ルーマンの「社会の科学」を読むことによって、さらに検討していくことにしたい。

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by merca | 2011-12-25 11:32 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)