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科学哲学者・戸田山和久の科学観の矛盾

 科学哲学者たちは、科学とは何かについて探求し、一定の科学観を構築しようと努める。そして、科学と非科学(疑似科学)の境界線を引くことができる科学観こそが確立した科学観の資格をもつと考えられてきた。ただし、科学哲学者たちの科学観は、世界的に有名な超一流の社会学者たち、例えばウェーバー、マートン、ルーマン、ブルデューなどの社会学的視点による科学観とは異なる。社会学における科学と非科学の境界線は、社会システムの構造と相関しており、視点が異なるからである。社会学の場合は、科学的知識の内容の真偽は括弧に入れ、その社会的、歴史的な発生条件によって科学を定義することになる。
 
 さて、疑似科学批判者あるいはニセ科学批判者たちが準拠する科学観は、概ね伊勢田哲治(ベイズ主義)や戸田山和久などの科学哲学者の科学観に源流がある。ニセ科学批判の祖である菊池誠氏の科学観もこれらの科学思想を受け継いでいると考えられる。数年前に、社会学玄論ブログ内のコメントで、菊池氏が私に伊勢田哲治の「疑似科学と科学の哲学」を勧めてきたことも記憶に鮮明に残っている。
 菊池氏の科学観の特徴として、科学と疑似科学が連続しているというグレーゾーン論を見てとることができる。つまり、一つの学説は科学か疑似科学に完全に分けることができないが、限りなく疑似科学に近い学説を科学と称する場合、ニセ科学として批判するというわけである。さらに、科学と疑似科学を二分法的に明確に分ける科学観を批判している。
 現在のニセ科学批判クラスターたちも、グレイゾーン科学観を共有しているものと考えられる。戸田山和久氏著作の「「科学的思考」のレッスン」という著作においては、このグレイゾーン科学観が分かりやすく説明されている。以下、この科学観を批判的に検証していきたい。

 まず、科学哲学者・戸田山和久氏は、「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法に基づき、科学概念を整理する。「科学が語る言葉」とは、科学の研究対象物の属性を記述する科学的概念である。酸素、DNA、自然淘汰などである。一方、「科学を語る言葉」とは、仮説、理論、反証、実験など、科学的知識の獲得方法にまつわるメタ科学的概念である。さらに、戸田山氏は、これまでの科学教育が単なる科学的概念の伝授となっており、メタ科学的概念の学習こそが必要だと主張する。このメタ科学的概念を学習することで、一般市民の科学的リテラシーの基礎ができると考えている。
 明らかに、(科学的概念/メタ科学的概念)という区別は、(目的=知識内容/手段=知識内容の獲得方法)という区別に対応していることが分かるのである。つまり、科学のアイデンティティが、その知識内容にあるのではなく、知識獲得方法や手続きにあるとする科学観である。この点を押さえておこう。

 科学の本質がその知識獲得方法にあるとするのなら、自ずと科学と疑似科学の境界線も、知識獲得方法を判断基準として、分別されることになる。しかるに、戸田山氏のグレーゾーン論は、そういう立場をとらずに、知識内容に準拠して科学と疑似科学の区別をつけようとしている。説明しよう。

 戸田山氏は、科学的知識は絶対的真理ではなく全て仮説であり、より良い仮説とそうでない仮説があるだけであると考える。さらに、より良い仮説とそうでない仮説を区別する基準は真理に近いことであるという真理の近似値説を否定する。
 その代わりに、「より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる」「その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くのことがらを、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」の三つの基準を用いることが妥当であると考える。言い換えると、予測能力、明確性、説明能力の三つが科学的知識の本質であるというわけである。例えば、天動説よりも地動説のほうが、予測能力、明確性、説明能力があり、より科学的だというわけである。
 ここでは、ある仮説や理論が事実そのものと合致していることが科学的であるとする論理実証主義的な素朴科学観は、否定されるわけである。事実と合致していることを確かめる手段として実験なるものが存在するが、実験で得られた仮説や理論があまり説明能力がないのなら、実験結果よりも既存の科学的仮説がよりよい科学的知識のまま君臨することになる。
 物理的リアリティに単純に訴えること、つまり自然による審判(実験)は二次的な要素にすぎないことになる。これは、ニセ科学批判者の菊池氏が水伝に対して既存の科学的学説と矛盾しており、反証実験の必要なしと喝破したのと同じ理屈である。既存の公認された科学的学説と矛盾することなく、既存の学説も含めて説明できることが求められるのである。
 
 幽霊や超能力や波動の研究などの超常現象を扱う研究は、いくら科学的手法で実験しても、既存の科学的学説と矛盾しており、予測能力、明確性、説明能力がないため、現代科学から排除されることになる。つまり、戸田山氏や菊池氏からすると、端的にニセ科学となる。これらは現代科学に居場所はない。

 いずれにしろ、予測能力、明確性、説明能力は個々の科学的知識の内容=仮説や理論を対象としている判断基準であり、その知識獲得方法や手続を対象にしている判断基準なわけではない。つまり、科学か疑似科学かの判断基準を科学的知識の内容に準拠して区別し、グレーゾーン論を唱えているわけである。本来は、知識獲得方法に準拠して科学と疑似科学は区別されるべきであるのに、科学的知識の内容に照準を合わせてしまっているわけである。戸田山氏は、折角、科学の本質はメタ科学的概念=科学的知識獲得手続にありきと提唱しているにも関わらず、科学と疑似科学の境界線を知識内容の予測能力、明確性、説明能力に求めてしまっているのである。この矛盾は誠に残念である。

 このように戸田山氏の科学観に矛盾が起るのは、一つの類推であるが、ニセ科学批判者特有の一つの先入観や価値観からではないかと考えられる。それは、はなから超常現象を扱う研究を科学から排除すべきだという先入観や価値観である。予測能力、明確性、説明能力の乏しさによって、超常現象を扱う研究は簡単に排除されるのであるから。
 公認された科学的手法で得られ、既存の科学的知識を覆す実験結果によって構築された仮説や理論が、予測能力、明確性、説明能力がなく、既存の学説と不整合であるとする理由だけで、却下され、ニセ科学のレッテルを貼られることは、科学の進歩の妨げになるのである。

 科学のアイデンティティをどこに求めるかで、科学とニセ科学の区別基準が変わってくるわけであるが、知識獲得手続を対象として境界線を引くことで、明確な二分法的基準を確立することができる可能性がある。例えば、科学界で公認された方法(観測・実験している/観測・実験していない)という二分法には、グレーゾーンは存在しないのでないとかと思われる。科学界で公認されていない観測・実験方法で得られた知識を科学的知識と豪語すると、はきっりとニセ科学となる。
 二分法的思考は重要なのである。実のところ、当の戸田山氏自身が「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法で科学概念を整理し、自らの科学観を確立しているわけであるから、自身が二分法を否定するのは自己矛盾なのである。さらに、二分法が駄目だという言明こそが、(断続性=二分法/連続性)という二分法に準拠しているというパラドクスにニセ科学批判者は盲目である。 システム論的に言うと、人間の思考は区別=二分法から生じ、区別=二分法に終わる他ないのであり、二分法は思考の根源である。さらに、一つの二分法への執着を別の二分法で相対化する営みこそが、必要とされ、それが本当の科学的リテラシーにつながるのである。

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by merca | 2012-01-08 11:34 | ニセ科学批判批判