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反ホッブス命題・裏社会学への誘い

 社会学者パーソンズをはじめとする多くの理論社会学者たちは、「社会秩序はいかにして可能か?」という命題によって動機付けられ、社会理論を構築してきた。一般に「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、ホッブス命題と呼ばれている。
 社会秩序が存在するということは、人々の行動が一定の規則に従い、一定の範囲内で他者の行動が予測可能であり、社会が全体として秩序だったものとなっているということである。例えば、人々が使用する言葉は文法という規則に従うことで、伝達可能となっている。大凡、社会があることろには規則があり、規則に伴う秩序なしには社会は成り立たない。近代社会であろうと、前近代社会であろうと、これは普遍的な事実である。従って、社会を認識するとは、社会に存在する規則としての社会秩序を認識することに他ならないわけである。社会秩序を記述したものが社会理論の原型となる。これが典型的な表社会学の発想である。

 「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、現実の社会は規則による秩序があるものであり、それは自然なことではなく摩訶不思議な現象であり、秩序を維持するからくりが人為的に存在するという前提に基づいている。つまり、人々の集まりや諸関係は、自然状態としての無秩序=カオスが本来の姿であり、秩序があること自体が不自然なことであるという発想である。無秩序たるカオスから秩序たるノモスへの移行に社会の成立過程をみようとする立場なのである。
 
 ところが、もともと自然科学が対象とする物理世界では、森羅万象が因果法則に貫かれており、無秩序状態こそあり得ない。自然こそが必然の法則=絶対秩序の世界であり、ホッブスが想定するような自然状態こそが人為の産物である。だから、むしろ我々はこう問うべきである。「無秩序はいかにして可能か?」かと。本来自然界は秩序があるのに、なぜ人間だけが無秩序をつくりだすことが可能なのかということである。
 実は、無秩序とは、言い換えれば、偶然性や自由と言い換えることができる。そして、無秩序という観念は、個人の自由の意識の誕生と並行しているのである。万人の万人による闘争である自然状態は、個人が自由に振る舞うことができるという観念を前提としている。個人が本能や習慣や伝統に従い、規則正しく行動しているとすると、万人の万人による闘争などあり得ない。無秩序という観念は、伝統社会から近代社会への移行に伴い、人々に自由の意識が芽生えたことに起因しているわけである。 
 もっというのなら、近代社会が無秩序をつくりだしたのである。自由に基づく偶然性と無秩序を可能とする社会的からくりを解明することも、社会学の役目である。「社会秩序はいかにして可能か?」という命題を追求するのが表社会学だとすると、「無秩序はいかにして可能か?」を追求するのが裏社会学である。
 
 多くの社会学者は、表社会学の立場に立っており、ルーマンですら、その例外ではない。ルーマンは無限なる複雑性として世界そのものを捉えており、原初的状態としてカオスを前提にしている点において、ホッブス命題から思考している。反ホッブス命題である「無秩序(自由)はいかにして可能か?」から出発した社会学者にお目にかかったことがない。自然科学の対象である物理世界や動物世界は必然の規則で貫かれているのに、人間の近代社会のみに、自由に基づく偶然や無秩序がありうることこそが、社会の不思議、玄妙なのである。
 
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by merca | 2012-06-23 19:36 | 理論