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多原因相対主義の宣揚(究極の平和思想)

 一つの現象は、一つの原因から生ずるのではなく、多数の原因があってはじめて生ずると考える。これを多原因論という。例えば、仏教では、因縁説をとり、一切と一切が関係してはじめて一つの現象が生ずると説く。また、社会病理学の分野でも、犯罪非行、少子化、いじめ、虐待、貧困、戦争などの社会病理現象については、多原因論が正しい。貧困の原因は、失業のみならず、失業プラス他の複数の原因から起る。複数ある原因から一つの原因だけを絶対化し、あたかもその原因だけで現象が生ずると考えるのは、間違っているのである。ある一つの原因だげが一つの結果をもたらすと考えてしまうのは、認識主観の価値観による選択化にしかすぎない。
 
 一輪の花が咲くのは、空気があり、水があり、太陽からの光があり、土があるなど、自然界の複数の要因が重なってはじめて可能となる。自然科学の世界においても、多原因論は正しい。水だけで花が咲くと考えるのは間違いなのである。また宇宙がなぜ生じたのかというのも、多原因なのである。物理学は一つの理論で宇宙の成り立ちを説明しようとするが、それは原因の一元化という人間理性の誤謬である。同じく、社会がなぜ生ずるのかというのは多原因なのである。しかるに、法則科学は、現象を抽象化し、単一原因論に準拠し、自然界を記述する。例えば「石を投げたら地面に落下した。」という現象の原因は万有引力の法則から一元的に説明されるわけであるが、石を投げた人物の自由意志という原因は無視されている。石を投げるというその人物の心の決定がなければ、その石は投げられることもなく、落下することもないのである。
 このように、科学的説明においては、一つの現象が成り立つために必要な一つの原因だけがピックアップされ、他の原因は全て隠蔽されてしまうのである。具体的現象を抽象化することで、一つの原因を取り出し、一つの結果と結合することで、因果法則は構成されるのである。そういう意味では、科学が発見した全ての因果法則は、人間が独自の観点から自然界から抽象化して構築されたものにしかすぎない。厳密に言えば、ある視点から切り取られた人間の主観の産物である。
  
 ありのままの現実世界は把握しきれない無限の多原因からなる複雑な世界である。ありのままに世界を観察するとは、一つの原因を絶対化せずに無数の多原因を受け入れることである。つまり、全ての原因は等価であり、等しく価値があるとする究極の相対主義をとることである。このような全ての複数ある原因が存在論的に平等であるという立場を、多原因相対主義と呼ぼう。
 多原因相対主義の宇宙観は、仏教の縁起思想と同様に、宇宙に役に立たない存在は何ひとつなく、一つの存在が欠けるだけでも宇宙全体が成り立たなくなるという考えとなる。世界に一つしかいないあなたは尊いとするオンリーワン思想とは別の仕方で、全ての存在を肯定する思想を構築することが可能となる。一切が一切と関わることで宇宙全体は成り立ち、どの一つの存在も平等に必要であり、尊いことになる。
 
 しかし、複雑系科学を多原因相対主義と勘違いしてはならない。複雑系科学は、無限なる要素間の相互作用から一つの創発特性が生ずると説くが、多原因相対主義とは異なる。なぜならば、自己の外部の環境要因が排除されているからである。一つの創発特性は、自己のシステムの内部にある要素間の関係だけではなく、その外部にある存在との関係も必要とするのに、それが排除されているのである。あたかも自己の内部にある要素間の関係から自己が成り立つような記述になっている。やはり、ここでも抽象化が起きている。一輪の花が咲くのは、一輪の花を構成する細胞間の相互作用から成り立つと考えており、空気、水、光、土などの外部の要素を無視していることになるのである。やはり、複雑系科学も科学にしかすぎず、抽象化の産物なのである。
 自己組織化システム論の欠点は、自己の内部の要素に特権を与え、自己の外部の存在や要素が自己を支えているという観点を無視し、多原因的世界観を貫徹していないところにある。要素が要素を産出するという考えにそれが露骨に現れている。

 科学思想は、一つの原因を選択化し、他を必要なく排除するという争いにあけくれるが、一方、多原因相対主義は正反対である。
 一つの存在が存在するためには一切の存在が必要であり、一切の存在が存在するためには一つの存在が必要である。このような立場に立つ多原因相対主義は、他を排除しない争いのない究極の平和思想をもたらすのである!!

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by merca | 2012-08-07 09:25 | 理論

複雑系科学は、社会を捉えきれない。

 創造システム論という形而上学を唱える社会学者がいる。社会学者井庭崇である。創造システム論は、西條氏の構造構成主義に匹敵するほどの独創的な和製の理論である。簡単に言えば、全ての存在は、創造システムとして観察することが可能であるという壮大な形而上学である。自然科学と社会科学の両方の対象も射程に入れている。この理論は、複雑系科学から必然的に導かれる一つの思想的帰結である。社会構成主義の帰結が構造構成主義であったように、複雑系科学の帰結は創造システム論なのである。
 しかし、創造システム論が準拠する複雑性と自己組織化という概念は、ある一つの社会原理を見落としている。以下、それを説明しよう。
 
 複数の存在(要素)が関係し合い、その関係性によって自然に一つの特性が発生することを自己組織化という。秩序は、誰かの意図や作為によって計画的に出来上がるのではなく、偶然に生じたものであるというところが、自己組織化理論の面白さである。そして、社会もそのような要素間の相互作用による偶然性の産物であるということになる。社会変動には、マルクス主義が想定したような必然の法則などなく、単に偶然の積み重ねによって社会は出来上がっている。出来上がった社会秩序(言語、規範、習慣、法律)は、何ら根拠もなく、人々の相互行為の偶然の賜物であるということになる。
 しかし、このような社会秩序の究極的非合理性・無根拠性に耐えうるのは困難であり、人々は社会秩序に対して納得のいく意味付けを与えようとする。例えば、神から与えられた掟であるとか、人権を守るためとか、科学的根拠があるとか、一定の社会的機能を有するためにあるとかである。偶然では耐えきれず、秩序の存在理由を追求するのが人間の人間たる所以である。実は、このような人間の意味付与作用こそが自己組織化の原理を無効化する社会的装置なのである。
 
 一つの社会秩序が人々に受容され、生き残るためには、意味が与えられなければならない。無意味なものは採用されず、滅び行く定めにある。社会秩序は、複数の意識システムによる第二次観察にさらされており、様々な区別に準拠して観察され、意味付与される。そして、一つの意味が多くの人々に共有されることで、逆に人々の行為を拘束することになり、社会秩序が再生産されることになる。これを物象化原理という。物象化によって無根拠性と偶然性は隠蔽され、社会秩序には存在理由=価値が宿ると人々は思うようになるわけである。同一のコミュニケーションが再生産される仕組みは、物象化理論にある。かくして、社会秩序の本当の成立過程である複雑性による自己組織化は隠蔽され、別の物語が付与され、書き換えられるのである。そして、一度、社会秩序が機能しだすと、自己組織化という誕生過程は隠蔽され、書き換えられた新たな物語が実演され、社会的リアリティを獲得し、社会内真実となるのである。自己組織化による誕生秘話は雑音として外部に追いやられるのである。
 
 創造システムがいくら創造物をつくったとしても、その生成過程は隠蔽され、書き換えられ、人々が賛同する別の物語にすり替えられるのである。例えば、人類の誕生は無根拠な偶然であるのが真実だとしても、神による創造神話や科学的物語である進化論によって、書き換えられ、社会に流布するのである。人類の誕生は、全くデタラメの偶然から自然発生したという複雑系科学による真実は人々には堪え難いのである。宗教に準拠して神の子として作られたとか、進化論科学に準拠して進化の頂点として人類は誕生したとか、様々な物語を付与するのである。ちなみに、この意味において、創造論と進化論は機能的等価であると言えよう。
 
 いずれにしろ、仮に社会秩序生成がカオスからの自己組織化によるものだとしても、それは最初だけの話であり、成立後においては、社会システムは物象化原理によって維持されているのであり、自己組織化がなくても回るのである。もっと正確にいうならば、社会秩序は物象化のために必要な意味を付与されるまでは社会秩序として機能しないのである。

  参考エントリー
  「物象化現象の記述」
  http://mercamun.exblog.jp/7502792/
  「言語の恣意性と物象化現象」
  http://mercamun.exblog.jp/10421161/

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by merca | 2012-08-05 10:54 | 理論