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盛山和夫著「社会学とは何か」書評

 一人の大物社会学者が真っ正面から社会学について論ずる一つの書物を書いた。それが、盛山和夫著「社会学とは何か」である。盛山氏には、「制度論の構造」という名著があるが、それを発展させたかたちになっている。以下、同著の批判的検証をしてみたい。

1、社会観念説
 盛山氏は、社会は実在するものではなく、人々が共有する理念的な意味世界であるという考え方から議論を組み立てている。社会に実体がないという発想は、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるという社会構築主義をはじめとして、意味システムとしてのルーマンの社会システム論や大澤真幸が唱える第三者の審級論にも見られる。ただし、森山氏が社会に実体がないという時、それは人々の心の中にある観念的存在ということを意味しており、社会構築主義のようにつくられた存在とか、システム論のように創発された存在とかという意味ではない。この点の区別は、正に要注意である。つくられた存在だから実体がないというのではなく、観念的存在だから観察可能な物理的実体がないということである。
 一方、システム論においては、社会は人々が共有する観念そのものではなく、行為やコミュニケーションとして観察可能なかたちで現象化・創発化し、実際に人々の認識に立ち現れる現象として社会を考えている。単に観念を保有している状態は何ら社会ではない。実際に、その観念に準拠して行為やコミュニケーションがなされないと、社会とは呼ばない。共有観念=社会ではない。共有ではなく、実演され、共演されないと、社会ではない。
 社会を曲に例えるのならば、盛山氏は楽譜がそのまま曲であると考える勘違いをおかしている。曲は演奏されてはじめて曲となり、それを聞くことで人々ははじめて曲を知るのである。別の例えを使うのなら、盛山氏は、建築物の設計図がそのまま建築物だと思い込んでいるようなものである。演奏されることで曲ははじめて曲となり、建築物はつくられることではじめて建築物となり、同じように社会も演じられることで、はじめて社会として生成するのである。人間社会が生成するためには、意味世界としての観念が必要であるが、社会イコール観念だと考えるのは間違いである。社会には実体がないが、かといって観察不可能な虚構存在ではなく、観察可能なかたちで立ち現れるものなのである。ただし、社会学理論という観察道具を使用した者(社会学者)のみが社会を正確かつ明快に観察できるわけであり、素人にははっきりと見えない。社会学がセカンドオーダーの観察であるとルーマンが喝破したごとくである。単なる統計調査ではなく、社会学理論という観察道具のほうが社会学にとっては、より根本的な観察道具であるということも付け加えておきたい。

2 社会学の方法 
 盛山氏が主張するように、社会が意味世界ならば、社会学の方法の本道は、数量的な統計調査ではなく、人々の内面的世界を理解する調査ということになる。というのは、もし社会が意味世界ならば、それは本質的に数量化できるものではないので、理解するものになるからである。人々の共有する観念をよりよく理解し、解釈することが社会学の本道となる。つまり、これは、端的にいうと、ウェーバーの理解社会学の方法である。
 しかし、となると、統計調査の役割は、せいぜい一つの観念がどれだけ多くの人に共有されているかという意義しかもたなくなってしまう。さらに、女性の方が男性よりも喫煙率が低いとか、高所得者のほうが低所得者よりもエンゲル係数は低いとかという類いの調査は、社会調査ではなくなってしまう。社会を調べることイコール人々の所有する共通観念だとしたら、そのような調査は社会についての調査ではなく、単なる経済調査にしかすぎなくなってしまうわけである。
 無論、私は、自然科学的方法では、社会の本質は捉えることはできないという点については、大賛成である。社会を記述するとは、必然的に社会創発のための種となる意味世界の理解なくしてはあり得ないからである。社会システムの要素であるコミュニケーションは、他者の意味世界=観念による了解なしには成り立たないのである。単なる統計調査で社会を記述したと勘違いしている学者が多いなか、社会を観察するには、観念の理解を伴うという点を重要視する盛山氏の視点は重要である。

3 規範的秩序の外存性・拘束性
 規範の特徴は、人々を外から拘束して一定の行動へとしむけることにある。しかし、盛山氏の議論では、規範的秩序の外存性・拘束性が十分に説明できていない。社会が人々の共有観念だとしても、その観念が規範として働く仕組みが説明されなければならない。規範として働くとは、規範が期待する内容に合致すると他者(みんな)から肯定され、それに外れると他者(みんな)から否定されるということである。要するに、賞罰があるということである。そして、規範があたかも人を動かし、規範自らに賞罰を人々に下す力が宿るように思えたときに、はじめて一つの観念は規範化される。その意味で、神の観念は、規範の最高形態である。人々は神の観念を共有することで、善行をなし、悪行をなさないのである。規範としての神は自己の外にあり、自己を拘束する者として人々に表象される。
 しかし、真実は、規範が外存性・拘束性をもつ原因は、規範自身にあるのではなく、他者の反応たるサンクションにあるのである。他者のサンクションこそが規範を構築・維持させるものなのであり、規範があるからサンクションがあるのではない。元来的に他者は自己の外にあり、外から制限を加えてくる存在であり、その他者を一般化した観念が規範であるからである。ちなみに、大澤真幸のいう、第三者の審級がこれにあたる。
 ところが、人々は、他者のサンクョンが原因で規範が結果であるのに、規範が原因で他者のサンクョンが結果であると、転倒して考えてしまうのである。この転倒的錯誤こそが物象化作用と呼ばれるものであり、規範を強固に規範たらしめる根源的仕組みである。
 規範の成立根拠がもともと多数の他者からのサンクョンだとすると、社会(規範)の外存性と拘束性は当然のことであり、社会が個人の外に存在するという意識は正常なのである。ミードの説に従えば、多数の他者からの反応をまとめあげて他者一般が内面化され、規範として機能するのである。他者一般を平たく言えば、「みんな」という観念である。この「みんな」という観念に準拠してコミュニケーションが創発されたときに、社会は生成する。お金を払えばみんな商品を受け取ることができるとか、人から物を盗んだらみんなから非難されるとか、全てのコミュニケーションは、メタコードとして(みんな/みんなでない)に準拠している。みんなという観念に対応する外的対象は、これまで体験した外部の他者の反応であり、完全に対象物をもたない虚構観念ではない。外存性と拘束性の源は、みんなという観念にあるのだが、盛山氏は説明が十分でない。
 ただし、役割存在として外的対象を認識するとき、その対象以上の内容が付与されて認識されるという盛山氏の指摘は貴重である。大人として認識された人は、実際に大人としての振る舞いに欠いていても、大人としての振る舞いを期待されることになる。このような仕組みは、廣松渉の認識論の四肢構造で解き明かされている。廣松渉の認識論の四肢構造においては、究極的にいかなる純粋な客観的事物も世界には存在しない。人は、生の認識対象物に対してそれ以上の意味を付与する。商品を店で買うときに、客は店員を単なる人ではなく、特定の役割を帯びた存在として認識する。商品について聞いたら、その値段を教える存在だと思う。この属性は、店員がつくったものではなく、社会的に生成されたものである。人は、事物を「として」というかたちで認識する。この役割認識をみんなが共有しているはずであると思い込むことで、コミュニケーションが生成される。しかし、自己の目的のために道具的な「として」というかたちで利用するのと区別をつけておく必要がある。あくまでも、みんなが了解しているということが規範として作用するのには重要なのである。役割を付与するのは自己ではなく、みんなであるということで、はじめて規範となるのである。このみんなという観念の対応物は、外部の他者の反応であり、対応物のない純粋な虚構的観念ではない。役割体系を規範として支えるのは、みんなである。他者一般という観念が人の頭のなかにしかないとうことで社会を理念的ものと断定してしまうのは早計であり、その外的対応物はきちんとあるのである。
 つまり、社会には固定的実体はないが、外に存在し、拘束してくるというのは、ある意味、正しいのである。デュルケームが社会は人々の頭のなかにあるといいつつも、社会的事実は外存性・拘束性をもつと言わざるを得なかったのは、当然である。他者一般は観念として人々の頭のなかに出来上がるが、それはもともと外部の他者からの反応からできあがったわけであるから当然なのである。ただし、社会そのものは人々の頭の中の観念だけではなく、それを人々が選択・利用してコミュニケーションとして観察可能なかたちにならないと、生成しないことを、重ねて釘を刺しておきたい。この点の誤解が社会学に大きな混乱をもたらしているのである。
 社会規範が外存性・拘束性をもつ根拠は「みんな」という観念であり、その観念に基づいてコミュニケーションが生成されることで、さらに規範は外に立ち現れ、拘束するものとして、人に観察され、人は規範を再内面化するのである。この循環過程は、バーガー著「社会的世界の意味構成」で明かされているのである。それは有名な「外化・客観化・内在化」という社会構築主義の公理である。

  参考
 機能主義が人々の主観的意味世界を離れて、外的視点から社会の機能を特定し、その機能を維持するために社会秩序があると記述する場合があるが、そのような視点が単なる学者の意味世界として相対化されないなら、一つの社会科学的立場を確立できると考えられる。
 社会成員を再生産する装置として結婚・教育があるといった場合、それは人々=当事者の意味世界とは関係なく、主張できる理論である。社会内当事者の意識や意味世界とは関係なく、社会というものが客観的実体として存在するという理屈である。このような客観的機能主義を完全に否定しない限り、盛山氏の社会観念説は成り立たないと思われる。また、機能主義が完全に否定されないのなら、社会統計が社会学の有効な手段となると思われる。社会統計を重視する社会学者太郎丸氏がその点に敏感だと思われる。その点の克服については、ギデンズの二重の解釈学を読まれたい。外的視点と当事者の内的視点の統合こそ、社会学の役目だとするギデンズの理論がある。合わせて、ハーバーマスの(生活世界/システム)という区別も参考にされたい。

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙 
 http://mercamun.exblog.jp/15407334/

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by merca | 2012-12-24 17:27 | 理論

選択肢の共有(偶然から必然が生ずるからくり。)

 個々の要素が自己選択性に基づいて偶然な動きをしているにもかからわらず、全体としては秩序が現れ必然の相をもって現象化することがある。
 例えば、1万2千人の人間がサイコロを振ったとする。個々人のサイコロが1から6のどの目を出すかは、全くの偶然である。にもかかわらず、全体としてはある一つの目が出た数は、限りなく2千に近い数となり、1から6の目のでる回数は均等分されてくる。偶然の総和がかえって秩序をもたらすのである。1万2千人の人がサイコロをふったら、ほぼ一つの目が出た回数は等しくなるという必然の秩序を生み出す。
 これと同じであり、社会においても、人々が自己選択性に基づいて好き勝手に行動しても、社会全体として必然の秩序を生み出すことになる。人々の自己選択に基づいた行為あるいはコミュニケーションが結果として、必然の秩序を生み出す仕組みを社会学は解明する役目がある。個々人の自由な消費行動が市場に秩序をもたらすと考えたアダムスミスの神の見えざる手も、これと同じ仕組みである。
 これまで、古典的な社会学では、共通の価値規範やそれに伴う賞罰によって、人々の行動に秩序が生ずると考えてきたが、そのような規範主義パラダイムに基づかなくても、社会秩序生成のメカニズムは説明しうる。ルーマンは、共通の価値規範を共有しなくても、二重の偶有性に基づく予期の総和によって秩序が生成されると考えていた。複雑性の縮減という考えにそのポイントがある。
 実は、社会秩序生成のからくりは、サイコロの例にヒントがある。サイコロの目は6つしかなく、無限に存在する他の自然数が出ることはない。例えば、7や10は出ないのである。つまり、このような限定された事象空間=選択肢を共有することで結果的に秩序をもたらしている。社会秩序もこれと同じである。人々があらかじめ範囲が限定された行為の選択肢を共有し、その範囲内で自己選択することで社会秩序は成り立つのである。例えば、ある商品を買う場合、誰でも100円で買える商品は限られているのである。このような限定された選択肢の共有こそが秩序をもたらすのである。無限の可能性と唯一の可能性の間に選択肢が存在することで、秩序は生成するのである。
 
 ルーマン社会学では、選択肢の範囲を限定することを複雑性の縮減という。簡単に言えば、人々は限られた同じ範囲から行為を選ぶということである。人々はサイコロを振らされているのと同じなのである。また、限られた選択肢から選択するので、自己の選択も他者は理解でき、コミュニケーションが接続していくのである。人々が自己選択における意味地平(選択肢の集合)を共有することで、秩序は可能となるのである。

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by merca | 2012-12-02 10:22 | 理論