<   2013年 07月 ( 2 )   > この月の画像一覧

ヒュームの懐疑論は通用しない。

 デビット・ヒュームが、因果律は対象の側に内在する法則ではなく、人間の単なる習慣的な思い込みであると主張したことは有名である。所謂、ヒュームの懐疑論である。哲学や思想系の学徒なら誰でも学んでおり、よく知られている。
 ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、その後に起った現象を結果だと錯覚するわけである。本当に原因かどうかは確かめようがないというわけである。
 問題は、このヒュームの懐疑論からすると、因果律あるいは物理法則は、客観的に存在しないことになり、因果関係を探求する科学は全て虚構になるわけである。
 もし哲学者がヒュームの懐疑論でもって闇雲に科学者が見つけた科学的因果関係を否定したとしたら、科学者は怒るだろう。本当にヒュームの懐疑論は科学に勝利したのだろうか?
 
 ところが、実は、(外的視点/内的視点)という区別から観察すると、ヒュームの懐疑論は自然科学には通用しても、人間科学には通用しないことになる。例えば、人から押されて転倒した場合、倒れた当人の内的感覚からは押されて転倒したという因果関係は明確である。また、殴られて怒ったというケースでは、殴られたことで怒るという結果を引き起こしたという因果関係が当人の内的視点から確実である。さらに、他人が挨拶し、自分も挨拶したとしたら、礼儀作法に従って挨拶したという因果関係は当人に聞けばわかるのである。また、本が欲しいから店で本を買ったとかという目的手段関係による因果関係も聞くことで確認できる。このように、心理学や社会学のような人間行動や社会的行為を対象とする人間科学(社会科学も含めて)は、内的視点から理論を構成するために、全くヒュームの懐疑論は通用しない。
 
 ヒュームの懐疑論が通用するのは、外的視点から物体を観察する自然科学のみである。ビリヤードの前の玉が後ろの玉に衝突して動いた場合、衝突したから動いたのかどうかは後ろの玉に聞くことができないのである。人間には聞けるが玉には聞けないのである。
 このように、因果関係の確定は、内的視点をとる人間科学では確実であるが、外的視点をとる物理学では究極的に不確実である。人間科学の方が因果関係の究明については、自然科学よりも優れており、むしろ真理性は高いのである。人間科学には、実験やベイズ主義統計学に頼らなくても、観察や調査だけで因果関係の真理を確実に獲得できる利点があるのである。
 ともあれ、ヒュームの懐疑論は、限定付きであることを確認しておこう。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

[PR]
by merca | 2013-07-15 22:03 | 理論

「科学を語るとはどういうことか」書評 伊勢田氏の誤算

 科学哲学者の伊勢田哲治は、戸田山和久と同じく、疑似科学批判やニセ科学批判で有名である。端的にニセ科学批判者と言えよう。
 伊勢田氏著「疑似科学と科学の哲学」については、ニセ科学批判者のバイブルであり、ニセ科学批判創始者である物理学者の菊池氏も重宝しており、疑似科学に対する両者の考えは、ほぼ思想的に同一である。
 さて、科学哲学と科学者の対談であれば、伊勢田氏と菊池氏の対談がまずは考えられるが、そうではなく、今回出版された「科学を語るとはどういうことか」という対談は、科学哲学に批判的な物理学者の須藤靖氏との過激な対談となっているのである。一体、これはどういうことか?

 伊勢田氏は、クリティカルシンキング(批判的思考)という方法論を選択し、思考の誤謬を正すというかたちで自らの哲学的思索を行って来ており、ポストモダンや社会構成主義などに批判的な立場をとっている。疑似科学とともにソーカル問題に代表されるような思弁的なポストモダン哲学を葬り去ろうとしているのである。
 一方、物理学者の須藤靖は、日頃から科学哲学不要論の立場をとっており、ポストモダン哲学のみならず、科学哲学あるいは哲学そのものを疑問視している。役に立たない目的のない学問として科学哲学を批判する。その過激さは、伊勢田氏を遥かに凌駕する。
 
 このような両者の対談を読ませてもらった。非常に興味ある点があった。同じようにポストモダン哲学を嫌うくせに、互いに分かり合える部分が少なすぎるという点である。
 因果論、自由意思論、反実在論などが論題になったが、伊勢田氏の科学哲学の主張は、悉く須藤氏の科学観からしたら非常にナンセンスであり、意味のないものだとされていく。そして、須藤氏は、哲学議論の本質をほとんど理解しない。
 実は、この分かり合えなさや対立は、科学哲学と科学者の壁というよりも、まずは伊勢田氏のクリティカルシンキング(批判的思考)そのものに原因がある。
 まず、伊勢田氏のクリティカルシンキングは、科学知と競合する知となってしまっている。別の言い方をすれば、クリティカルシンキングは極めて科学的な思考なのである。つまり、現実の科学者の思考の不十分さをより科学的にしようとするために、現実の科学者と対立し、反発されることになる。クリティカルシンキングは哲学内科学である。クリティカルシンキングに基づく科学哲学は、現実の科学に対抗し、科学をより科学らしくせんとする脅威として、現実にいる普通の科学者にはうつるのである。
 伊勢田氏がクリティカルシンキングという方法で「疑似科学と科学の哲学」を著し、不十分な科学とそうでない科学を分別しようとしたことからも、その傾向は伺われる。伊勢田氏の科学哲学が科学的思考による科学哲学であるために、知の競合が起り、かえって須藤氏と対立し、分かり合える部分がなかったのである。
 さらに、クリティカルシンキングによる科学哲学は、実験をすることのない科学的思考である。実験をする科学的思考をする普通の物理学者は、現実の実験データを尊重するわけであり、実験なしに勝手に科学について考えられては困るのである。そのような嫌悪感が須藤氏から見て取れた。科学者は、現実の実験データを根拠とする仮説を正しいとして、理論を構築していき、未来を予測し、実践に生かしていく。
 
 面白いことに、ニセ科学批判者が科学と非科学を分ける基準の重点は、実験ではなく、クリティカルシンキングであるかないかというところにある。ニセ科学批判者は科学の定義の中にクリティカルシンキングを取り入れている。
 水伝問題において、実験ではなく、菊池氏が別の基準で非科学であることを主張したことにもそれは現れている。現実の科学者は実験結果を重視するが、ニセ科学批判者の科学観においては、実験よりもクリティカルシンキングによって解釈されているかどうかのほうが重要なのである。いくら実験しても、それがクリティカルシンキングによって検討されていなければニセ科学となる。実験だけで正しいというなという価値観である。この文脈から、伊勢田氏がポパーの反証主義に否定的であり、須藤氏がポパーの反証主義に賛同したのは、よく理解できる。
 要するに、実験重視の現実の科学者と、実験よりもクリティカルシンキングを重んじる科学哲学者とが分かり合えなかったのである。
 
 伊勢田氏の盲点がある。それは、科学が社会の近代化の中で誕生した知であるという事実である。社会を抜いた科学論は空虚である。近代化(社会分化)とセットにしないと、科学は語り得ない。
 社会学的観点から科学について述べると、近代社会から科学に求められている機能は、人々に共有の真理を提供することである。この場合、科学哲学的に本当に真理かどうかは関係なく、人々が真理だと認めて共有でき、実用できることの方が大切であり、理性的啓蒙であるクリティカルシンキングの基準とは全く異なる。真理の機能に着目して科学の価値を捉える、このような立場を社会学的啓蒙という。
 社会学的観点からは、科学者は科学哲学的思考に準拠せずにひたすら実験を重視して役割遂行することで、科学的真理の生産に寄与することになる。科学哲学に煩されることなく、科学的研究に没頭できる。その意味で科学哲学を嫌う須藤氏の価値観は科学者集団の価値観に極めて適合的である。
 このように、社会分化に伴う役割関係に無知であることから、伊勢田氏は対立の真なる原因=社会的原因を認識できなかったのである。
 伊勢田氏の誤算は、クリティカルシンキングが実験を懐疑する手段としてはたらき、実験を重視する現実の科学者集団の社会的エートスに反することが分からなかったことである。伊勢田氏は、社会学的啓蒙を学ぶ必要があるのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

[PR]
by merca | 2013-07-15 17:29