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千葉雅也の切断論に対する哲学的批判

 哲学者・千葉雅也が切断論において唱える切断とは、非意味的切断のことである。非意味とは、自己選択によらない偶然の切断のことを指している。この点、ルーマンの自己選択=意味による複雑性の縮減とは根本的に異なる形而上学的概念であり、意識レベルではなく、存在レベルで語られている。
 
 意識レベルでは、存在論的に接続していても、意識の外においやることで、切断することはいくらでも可能である。つながっているもの全てを意識しているわけではなく、意識は常に意識されるものとされないものの区別をもち、意識化された事物のみを接続していると認識する。意識化されたものは認識作用を通じて接続されていく。そもそも、意識とは、意識化されていないものを意識するとともに、すでに意識化されたものを意識の外においやる運動である。接続と切断を同時に行う運動である。意識は、意味によって接続と切断を同時に行う同時的弁証法なのである。
 一方、切断論のいう非意味的切断(あるいは非意味的接続)は、このような意識が行う接続・切断運動のレベルではなく、意識の外での出来事であり、存在論レベルのことを指している。

 簡単に言うと、もともと永遠に無関係な存在どうしがあったり、切断されたら永遠に無関係になるものどうしがあったりするということである。しかし、そのような存在論は、関係主義に基づく哲学や仏教思想では否定されている。一切は一切のものと関係しているとする形而上学とは真っ向から対立する。全てのものは差異関係にあるという構造主義、全ての存在は関係し合っているとする縁起の法、それに全ての存在が全ての存在を映し出すというライプニッツのモナド論とも相容れない。
 
 このような関係主義の哲学を否定するために、千葉氏は、関係の外在性という観念を持ち出す。関係の外在性とは、関係が変わっても、関係項の本質が変わらないという原理である。例として、コップはテーブルの上にあるという位置関係を持ち出す。確かに、コップをテーブルから離しても、コップはコップとして変化しない。位置関係が変化しても、関係項の観念は変化しないわけである。コップの内的本質にとっては、テーブルは無関係であり、テーブルとの関係には左右されず、分離されているというわけである。コップが存在する原因はテーブルであるとは言えない。

 しかし、この議論には、この性=単独性が抜け落ちている。このコップがこのテーブルの上にある場合、このテーブルにのっている状態があってこそ、このコップをこのコップと指し示すことができる。このテーブルの上になければ、このコップではなく、別のコップになってしまう。このコップは、このテーブルの上にあることによって、このコップたりえ、あのコップと個別的に区別されるのである。このコップと別のコップの区別は、位置関係も含めて全ての具体的状態を含んでいる。世界に一つしかない個別=単独のものとしてコップを捉えると、このテーブルの上にあるという位置関係は根本的に重要である。このコップがこのテーブルの上に存在することによって、別のコップがこのテーブルの同じ位置に存在することができない関係にあるのである。かけがいのない今の瞬間にどのような具体的状態にあるのかという、この性は、明らかに全ての存在との位置関係に規定されている。
 そもそも、ライプニッツ の不可識別者同一の原理からしても、この世に同じ位置を占める存在はなく、全ての存在が全ての存在と異なるという関係性でかえって結合されているのである。
 
 実は、千葉氏の切断論は、一見、存在論を装いながらも、個別的関係=存在論的関係をコップの概念の同一性の問題にすりかえているのである。具体的個物は、他の具体的個物との関係によって、具体的個物足り得るのである。私の考えからすると、関係の外存性は、むしろ概念のレベルあるいは意識のレベルで成り立つのであり、存在論のレベルでは成り立たない。
 
 いかなる切断、無関係化も、存在論のレベルでは不可能である。そもそも、関係の存在形式には、最初から項と項が区別=切断されていることと同時に、項と項が不可分で同一であることが含まれている。関係性とは、切断=別異と接続=同一の二つの要素を含むのである。もし関係するものどうしが完全に同一なら関係は成り立たないし、もし完全に別異ならば無関係となり成り立たなくなる。関係するものどうしは、同一でもなく、別異でもなく、同一かつ別異でもなく、それら全てを離れても成り立たないと表現する他ない不思議なるものであり、それが存在の実相である。
 また、このような同一性と別異性を含んだ一切と一切の関係の形而上学は、ホーリズムに還元されず、他者性も確保できるのである。ジャン=リュック・ナンシーの「複数にして単数の存在」などにも、関係項どうしが同一性と差異性を含むものとして捉えられているが、ホーリズムに陥っていない。レヴィナスにおいても、他者性は他者との完全な切断ではなく、むしろ顔と顔の関係性のおいて捉えられている。
 関係性が即ホーリズムにつながるという千葉氏の思考は短絡的である。むしろ無関係性が独我論に陥るという論理的必然性こそを見極めてほしい。
 
 ちなみに関係しているものは常に変化している。静止していては、互いに影響を与えていないことになり、関係していないことになるからである。関係することと、変化することは同一である。縁起の法と所行無常は同一である。変化するとは、関係する他者と関わる側面を変えていくことに他ならない。接続している部分と切断されている部分を変えていくということである。

 完全に無関係なものどうしは、論理的に互いを認識できないことになり、相互に独立したバラバラな独我となる。認識もできないし、関わることもできないものは、我々にとって存在しないのと同じであり、哲学的に思考することもできない。別の言い方をすると、世界には、関係の中にないものは存在しないのである。
 さらに、世界には究極的に一つの全体的存在しか存在しないというホーリズムも独我論=実体論である。世界に一つの存在しかないのなら、関係はあり得ない。関係は複数の存在が必要だからである。同じく世界には互いに影響を与えない存在がバラバラに存在するという原子論も、自分以外の存在を必要としない独我論=実体論である。ホーリズムも切断論(無関係論)も、他者に依存しない独我論という点においては全く同一である。切断論だけではなく、その反対であるホーリズムも関係性を否定する世界観であるという論理が千葉氏には全く哲学的に理解できていない。千葉氏は、ホーリズムこそが関係性を否定する形而上学であるということがわかっていないので、レヴィナスやナンシーの哲学も理解できていないと考えられる。千葉氏は、一切の存在が実体なき空なるものであるという龍樹の中論を勉強し、出直すべきである。
 
 最後に切断論を脱構築しておこう。
 切断とは接続されているものを切断するわけであり、接続とは切断されているものを接続するわけであり、そのような運動としてしか捉えることができず、接続と切断は関係し合っており、互いに前提となっている。接続が絶対あり得ない非意味的切断のような完全な切断は、自己矛盾的であり、決して成り立たない。完全な切断は、接続を肯定しても否定しても成り立たない。

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by merca | 2014-06-15 23:10 | 理論 | Comments(0)

千葉雅也の「切断論」よりもルーマンの「複雑性の縮減」の方が有効

 哲学者・千葉雅也が「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物を世に出した。日本のポストモダン思想の系譜でいうと、浅田彰の「構造と力」、東浩紀の「存在論的、郵便的」に続く大作であると騒がれており、注目されている。余談ではあるが、この人物が若手社会学者・古市憲寿と手を組むと、どうなるのか楽しみである。
 しかし、千葉氏が唱える「切断論」は大した思想ではない。接続過剰社会において、多数の関係に束縛され身動きが取れなくなることから解放されるために、自由に接続したり切断したりしながら生きようということに他ならない。言っていることは、おそらくノマド論と変わらない。
 
 千葉氏は、このような切断論を唱える思想的根拠をドゥルーズの哲学に求める。要約すると、ドゥルーズの哲学が、世界の連続的同一性(ホーリズム的関係主義)を唱えるベルグソンの生の哲学と世界の切断的原子論的世界観(無関係主義)を唱えるヒューム哲学の中間にあることを確認した上で、あえて切断の重要性を強調する。切断がなければ、個体の生成も他者性もなく、全てが一体化した世界に飲み込まれるというのである。最後に、神のモナドを抜いたモナドロジーこそがドゥルーズの哲学の究極的立場ではないかと類推しているように読め、千葉氏が唱える切断論の哲学的根拠をそこに定めている。
 かなり大雑把な要約で申し訳ないが、結局、思想的本質を述べるとかようになる。これ以上これ以下でもない。全体性や同一性を否定・批判する思想的傾向は全くポストモダン思想のそれであり、進歩はない。共同体や連帯性を主張する右翼思想や絶対主義を主張する左翼思想とは異なり、やはりポストモダン的である。
 ただし、これまでのポストモダン思想と少し異なる点は、切断論による関係主義批判を強調した点である。全てのものは差異関係の中にあり、実体がなく、相対的であるというポストモダンの関係主義から距離をとっている。全体性に準拠するツリーの関係のみならず、横の関係=リゾーム的関係も過剰ならば切断すべきだと論じている。全体性や共同体に包括されない単独的関係=非対称的関係も絶対化しないところに少し斬新さがある。現代社会が接続過剰であり、人々が身動きできなくなってしまっているという感覚があるのだろう。若者や老人の孤独化が問題視されるなか、逆に切断論は孤独化・原子化を勧める。接続可能な社会という言葉も流行っているが、その反対を主張している。

 千葉氏の切断論は、そもそも(接続/切断)という区別に準拠しているわけであるが、この区別に対して(全体/部分)と(現実態/可能態)という二つの区別から第二次観察していくことが可能である。
 例えば、あるものに全ての側面において接続しているのが嫌なだけであり、部分的に接続しているくらいなら接続を否定する必要はないかもしれない。何をするにも全てその人と一緒だと窮屈だが、部分的にある時間帯だけつき合うならかえってよいとも言える。全面接続による包括化は不自由だが、部分接続なら自由は確保できるのである。
 また、現実に接続している人、切断している人と、これから接続していく人、切断していく人を区別しておくことができる。全ての人との接続可能性と切断可能性を温存させておき、状況に応じて自己選択し、接続したり切断したりしていくことも可能である。
 このやり方は、ルーマン社会学における複雑性の縮減と同じである。各種のゼマンティクを使用し、あるものを接続するとともに、あるものを切断し、またその反対の可能性も温存していくのである。
 
 ルーマン社会学では、そもそも世界は無限の複雑性として前提されており、意識システムにとっては、接続過剰であるので、この複雑性を概念によって処理して縮減する。完全な切断や接続によって複雑性を処理するのではなく、部分的に接続・切断し処理する。現代成熟社会では、切断論に頼らなくても、社会システム論的には、コミュニケーションメディア(貨幣・権力・真理・愛など)によって接続過剰性は処理されているのである。
 千葉氏の切断論は、接続過剰社会における処方箋としては、単純すぎると言わざるを得ない。単につき合う人とそうでない人を整理しましょうみたいな話にしかならないだろう。あるいは過剰な対人関係から退却して無人島や山ごもりするという話にしかならない。そうではなく、社会システム論に基づく処方箋では、違うコードでコミュニケーションをして関わり方を変えることで、過剰な関係を縮減し無害化することも可能なのである。
 
 ともあれ、浅田彰の逃走論のように、千葉雅也の切断論も一つの思想として若者の価値観に採用され、生活スタイルに影響を与えていくか見ていきたい。切断論は、スローライフを重んじるメンタル系の若者やひきこもりには流行りそうな気がする次第である。

 余談
 ちなみに、ニセ科学批判者の視点からすると、おそらく「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物は、科学的実証性を欠く、わけのわからない空想であると相手にされないであろう。社会調査もなしに社会を語るなという人もいるだろう。

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by merca | 2014-06-11 00:02 | 理論 | Comments(0)

ヒュームの連合観念説の誤謬

 ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である。要するに、連合観念説によれば、因果律は、人間の習慣的思い込みの結果にしかすぎないというわけである。人間主観が観念と観念を結合させるだけであり、対象の側にはその結合の根拠はないというわけである。
 実は、このヒュームの連合観念説には、大きな誤謬がある。ヒュームは、人間の認識が、結合を本質とするのではなく、区別を本質とすることを理解していない。ここに問題がある。詳しく説明しよう。
 人間は、対象世界を区別して分割して観念をつくりだすのであり、その逆ではない。つまり、不可分の連続する対象を区別して分割し、事物を認識するわけであり、従って区別されたものどうしは、本来、対応関係にある。一方がなければ、他方はないという相互依存関係なのである。人間が無理矢理区別して分離したにしかすぎないわけである。人間は、連続している対象世界を分割して、ひきちぎり、独立した別個の存在として一つの観念を形成するわけである。
 分離観念説が認識の本質なのであり、連合観念説は成り立たない。事物を区別・分離して観念を形成するわけであり、分離された観念どうしはそもそも不可分で関係しており、因果関係は成り立つのである。過去、現在、未来という時間の流れは連続しており、人間が恣意的に分割し、過去、現在、未来という三時の観念をつくりだしたにすぎない。本来、それらの観念が指し示す対象は、不可分の連続である。
 逆にいうと、ヒュームの連合観念説が成り立つためには、一切の存在が孤立的で無関係に存在し、はなから分離されているという形而上学=世界観が正しい場合だけである。しかし、このような無関係的世界観は、そもそも矛盾的で成り立たない。認識主体と対象も無関係だということになり、認識作用が生じて印象や観念が形成されることが不可能となり、認識論の一種である連合観念説もパラドクスに陥ることになるからである。
 ヒュームの連合観念説は、究極的には独我論にいきつく他ない。事物を結合するのが人間の認識であると勘違いしたヒュームははなから間違っているのである。認識論における初歩的なこの間違いに気づかず、未だにヒュームの哲学を信奉する学者がいるのが不思議である。

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by merca | 2014-06-10 22:00 | 理論 | Comments(15)