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小林よしのりの新戦争論は、事実を括弧に入れて読むべし

 ネット右翼の生みの親と呼ばれている小林よしのりが、ネット右翼の梯子を外しにかかるために、漫画思想書である新戦争論を書いた。過去に、小林よしのりは、エイズ薬害訴訟運動について、運動にのめり込むあまりに左翼思想に染まっていった若者たちの梯子を外したのと同じでバターンである。またかである。
 戦争論からネット右翼になった若手右翼思想家KAZUYAや古谷経衡たちは、ある意味、同書によって見事に梯子を外され、日常に戻って仕事で地道に頑張れと勧告されたことになるのである。若者たちは、思想家小林よしのりの梯子外しに気をつけるべきである。
 小林よしのりは、等身大を超えて膨張した自我が嫌いであるので、読者はその点を注意すべきであり、すぐにかぶれてはならないのである。自尊心を調教できない若者は排除されるのである。
 
 ちなみに、小林よしのりは、ネット右翼は戦争論の誤読によって生じたといい、自分だけがネット右翼の生みの親のように思い込んでいるが、嫌韓・嫌中の潮流はテレビ「たかじんのそこまで言って委員会」によって生み出されたことが大きいと思われるのである。この番組が関西人を右傾化させた役割は大きい。
 小林よしのりだけに右傾化の原因を押し付けるのは気の毒であるし、自分だけがネット右翼を作り出したという肥大化した意識を小林よしのりに植え付けてはいけない。
 
 ここで、多くの若者たちに、小林よしのりの漫画思想書を読むにあったての注意をしておきたい。その注意点は、二つである。

(事実として描かれている部分は括弧に入れ、物語として受けとめる。)
 まず、同書で事実と主張されていることは、括弧にいれて読むべきである。事実を分析した歴史書ではなく、あくまでも特定の価値を提示した思想書として読むべきである。
 歴史的事実については、大学の科学的な専門教育を受けた歴史学者にまかすか、あるいは自分で第一次文献にあたるべきである。そのような暇がないのなら、事実であるかどうかは判断できないので、事実判断はアポケーし、純粋に価値判断を提示する思想書として読むことを勧めたい。その思想に感銘するかしないかは、個人の判断で自由である。
 いずれにしろ、事実は括弧に入れて、事実のように描かれている部分は、物語として受け止める態度が、小林よしのりの漫画思想書を読む基本的な作法である。これを忘れる者がかぶれてしまい、自我を肥大化させ、挙げ句の果てに梯子を外される羽目になるのである。

(事実判断と価値判断を結合してはならない。)
 歴史的事実だから小林よしのりの保守思想の価値も正しいと思ってかぶれてはいけない。ここに心理学的詐術を見抜くべきである。戦争論にかぶれた多くの人たちは、歴史的事実だから、その思想も正しいと思い込んで洗脳されてしまったのである。
 例えば、本当は、ひめゆり学徒隊や神風特攻隊は自ら進んで志願したのであり、軍国主義による洗脳や強制ではないとことが事実であると描くことで、読者に太平洋戦争は悪ではないという価値観を植え付けることに成功しているのである。人々が自ら志願したことが事実であっても、太平洋戦争肯定という価値観には直結しない。戦争論にかぶれた右翼は、事実の正当性のインパクトが強いために、その事実に基づいた価値判断までも受け入れてしまう傾向にある。小林よしのりの書物全般に見られるこの心理トリック、すなわち認識と価値の同一化現象=「事実を述べる者は、価値判断においても正しい」という錯覚を見破らないといけない。事実を知る者が正しい倫理観をもつとは限らないのである。
 そもそも、事実判断と価値判断は別次元であり、事実判断が正しいからといって価値判断も適切であると言えないのである。
 例えば、人類社会は戦争の歴史であるという事実判断から、必然的に戦争は正しいという価値判断は導出されない。リンゴてあるという事実判断から、美味しいという価値判断が一般的に導出できないないとの同じである。リンゴが嫌いな人にとっては美味しくない。価値論的にいうと、真理は価値ではないのである。
 自虐史観が歴史的事実と異なるというインパクトを与えた上で、事実判断の正当性と価値判断の正当性を結合させるという心理的トリックによって、戦争論は、多くの若者を保守化へと誘ったのである。少し哲学や社会科学をかじった若者なら、この点のメディアリテラシーはあってもよさそうなものである。
 
 思想・哲学を表現した漫画家としては、手塚治虫のほうが断然レベルが高いことを忘れてはならない。マンガ史的にいうと、所詮、手塚治虫がいなかったら、日本の漫画会が成立しておらず、小林よしのりの漫画もないのである。戦争論を読んだあとに、火の鳥を読むと、戦争論で語られている価値観が非常にケツの穴が小さいことがわかるであろう。
 手塚治虫は事実に頼るのではなく、物語をつくることで深遠な哲学・思想を提示したのである。事実に頼ろうとする小林よしのりとは、その逆である。手塚治虫は世界で読まれるだろうが、小林よしのりは世界では読まれないだろう。
 
 小林よしのりは、国家という大きなものに依存して自我が肥大化した右傾化した人たちに日常に戻れと宣告するが、それは自らにも言えることなのである。小林よしのりは、天下国家についてゴーマンをかますことで多くの人たちを煽動して来た自己を天才と思い込む万能感を調教し、普通の漫画家に戻るべきなのである。漫画家は事実ではなく、物語をつくるプロなのであり、安易に事実に頼るな!! と言いたい。
 
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by merca | 2015-02-21 21:01 | Comments(0)

国民性は、他国民につくられる。

 社会心理学では、アイデンティティは、他者との比較、集団への所属、他者からの評価によってつくられると考えられている。関係主義の公理からも、他者との差異関係がなければ、自己はない。
 このことは、国民社会レベルでも同じであり、一つの国民社会は、他の国民社会の存在を前提とする。一つの国民社会は、他の国民社会との区別によって成立する。
 同じく、国民性は、他国の国民性との比較、共通の文化圏や政治体制への所属、他国民からの評価によって構築される。
 例えば「日本人は礼儀正しい」という国民性は、他国民との比較や評価によって獲得されたアイデンティティであり、日本人がつくりあげたものではない。そして、日本人は国外において日本人らしく振る舞うことを要求される。また、社会科学的に国民性を調査する場合でも、基本的に他国との比較によって把握され、表現される。
 日本人の国民性は中国人の評価によって部分的につくられるし、中国人の国民性は日本人の評価によって部分的につくられる。韓国人、アメリカ人、フランス人、ロシア人・・・・全世界の国民も同様である。全ての国民社会の国民は、自身では国民性アイデンティティをつくることができず、他国に依存しているのである。
 言い換えれば、他国の存在を否定したり、他国との関係を断絶すると、他国と比較できなくなり、自らの国民性の否定につながるのである。
 
 奇妙なことであるが、国外においてこそ、日本人は日本人と見なされるのである。国外で「あなたは誰ですか」と聞かれたら、「私は日本人です。」と答えるであろう。国外においては、個としてよりも、日本国民として見なされてしまうのである。当然、敵国に行けば、個人の意思と関係なく、敵国民として非難・排除されるのである。
 反日教育で「日本人は悪い」と韓国人が思っていれば、善人の日本人が韓国に行ったとしても、日本人だから悪いと見なされるのである。罪のない個人がレッテルを貼られ、差別、排除、迫害がそこから生ずるわけである。ある人間を国民として観察するのか人類として観察するのか、その選択は、多くの場合、初対面の外国人であれば、国民として観察してくるであろう。
 つまり、他国民とコミュニケーションをとるためのメディアとして国民性はあるのである。国民性によって相手の反応を予期することで、複雑性を縮減し、コミュニケーションを可能にするのである。初対面の外国人であったとしても、その国の国民性がわかれば、コミュ二ケーションがとりやすくなるのである。そのように(自国民/他国民)という区別に準拠してなされるコミュニケーションは、国際社会システムを創発するのである。
 ちなみに国際社会システムは、世界社会とは区別される。国際社会システムのユニットは(諸)国民であるが、世界社会は人類がユニットだからである。つまり、全世界の異なる複数の国民社会から構成されるシステムこそが、国際社会なのである。また、国際社会システムの行政機関が国際連合である。
 
 ともあれ、国民の役割としての国民性は、国際社会において、他国民の期待によってつくられるのである。右翼は自国の歴史的伝統のみから国民性を導きだそうとしているが、他国民との差異と評価によって自国の国民性が形成されることに気づいていない。自国民が自国民は優れていると思っても、それは真なる国民性ではなく、単なる自己満足にしかすぎない。本当の国民性は、他国との関係で形成される対他規定性のものなのであるから。
 
 戦後の日本国民は、反戦主義の平和国家の国民として世界から期待されているのであり、その役割を遂行しなければならないのである。人類社会が進歩するために、世界からの期待として平和憲法が押し付けられたのは当然であり、戦争をしない国という役割を負わされてしまったのである。それが日本の宿命である。世界によってつくられた国民性である。
 日本国民は、戦後、「過去の戦争を反省する反戦主義の平和国家の国民」として役割期待を背負わされてきたのであり、この崇高な使命は、来たるべき世界(宇宙)社会の先駆けである。
 
 地球を外から眺める火の鳥(宇宙生命)は、日本国民たちを観察しながら、戦争を繰り返す人類がやっと自らの過ちに気づいたと思っているだろう。

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by merca | 2015-02-01 23:23 | 社会分析 | Comments(0)