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「正しさよりもやさしさを」ニーチェへのメッセージ 


 「正しさよりもやさしさを」
 
これは、バッシング社会(排除型社会)への心理学的処方箋である。

多くの人は自分が正しいと思って他者を非難する。
しかし、愛のない正義(道徳)、愛のない権力、愛のない科学は、ニヒリズムに行きつくだろう。

例えば
人々は、正義という道徳的観点から犯罪者を評価し、社会から排除し、更生の機会を奪う。
しかし、それは正しくても、愛はなく、利己的である。
このように、正義に基づいた社会的排除が、かえって再犯を生み出し、被害者を出す。
これは社会学的真理である。

今、必要なのは、正しさよりもやさしさである。

                 ニーチェへのメッセージ

  
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# by merca | 2020-05-27 22:20 | 反ニーチェ

新型コロナウイルス感染拡大防止による自粛で、逆に自殺者は減少する。(デュルケームの自殺論からの考察)

 社会学を知らぬ多くの学者や評論家たちが、新型コロナウイルスによる外出や経済活動の自粛によって自殺者が増えると予測しているが、社会学からすると、これは大きな間違いである。
 対人接触を減少させるために、政府が休業要請や休校要請を行い、経済、教育、娯楽などの活動を停止させ、人々は外出せずに家庭にこもることが続いているが、このような社会全体における一連の自粛行為によって、DV、虐待、失業、経済苦などが起り、自殺が増えると、豪語している学者や評論家が多い。しかるに、これらには全く社会科学的根拠はない。 

 実は、社会学の伝統的立場からすると、新型コロナウイルスによる外出や経済活動の自粛によって、かえって自殺者は減少することになる。社会学の古典であるデュルケームの自殺論からは、自殺は減少すると予測されるのである。

 デュルケームは、集団凝集性の高低と社会統制の強弱によって、自殺を四類型に分けた。すなわち、自己本位的自殺、集団本位的自殺、アノミー的自殺、宿命的自殺である。
 自己本位的自殺とは、社会集団の凝集性が低くなり、対人関係が希薄化し、生きる意味を喪失し、自己否定に至る自殺である。つまり、孤独感や無意味感による自殺である。
 集団本位的自殺とは、集団の凝集性が高く、集団の中に人々が埋没し、集団のために自分の命を犠牲にするというものである。例えば、お家を守るための侍の切腹や宗教的な殉死が該当する。
 アノミー的自殺とは、社会秩序が崩れ、社会規範による社会統制が弱くなり、欲望を制限することができず、際限のない欲望に駆り立てられるものの、決して満たされることがなく、結局、自殺に至るというものである。
 宿命的自殺とは、社会統制が強すぎて、絶望を感じて自己否定する自殺である。例えば、受験や就職に失敗して、社会の勝ち組になれず、この社会では自分の未来はないと思い、自殺する場合がそうである。また、いじめ集団の集団規範から起こるいじめ自殺もこの類型に入る。
 このように、正しくデュルケームは、自殺は個人現象ではなく、社会現象であるという前提に立ち、自殺を分析したのである。

 ここから本題であるが、デュルケームは、戦争が起こると、自殺率が下がることを発見した。
 その理由とは何か?
 それは、戦時には、人々が共通の目的でもって連帯し、孤独感や無意味感から解放され、自己本位的自殺が起こりにくくなり、さらに社会の規制も強くなるので、欲望が制限され、アノミー的自殺も起こりにくくなるからである。近代社会の自殺の多くは、自己本位的自殺とアノミー的自殺であるわけであり、戦時は、これらの社会的原因が除去されることになる。

 さて、してみれば、コロナウイルス感染拡大予防のための緊急事態宣言による自粛と規制も、戦時と同じで、社会が連帯し、大きく欲望が規制されている社会状態になっている。
 また、一人一人の行動が全体に影響を与え、新規感染者が減ったことも明らかである。この社会全体の集合的行動によって、人々は、私は一人ではない、みんなとつながっている、一人一人の行動が社会全体のためになると感じたのである。
 確かに物理的な社会的距離をとり、対面的接触は減ったものの、家にこもったことで孤独になるのではなく、かえって社会的連帯や家族の連帯は高まっているのである。
 逆に、いつもは孤独な人も、社会から存在価値が付与され、自己有用感を得たのである。ひきこもりでさえもである。いやむしろ、家にこもることができる能力を持つひきこもりや仕事をしないニートの存在価値が評価されたのである。逆説的であるが、対人接触しない孤独な人ほど、評価され、社会的価値を付与され、社会的連帯の中に包摂されるわけである。
 さらに、例え失業や破産をしても、その不幸を多数の同じ境遇の人と共有することができるし、周囲も理解を示し、味方になってくれ、乗り越えられるエネルギーをもらえるので、自己否定の自殺に至らない。
 テレワークや休校によって、人々は、集団本位的自殺である過重労働による自殺、宿命的自殺であるパワハラ自殺やいじめ自殺からも解放されたのである。テレワークで労働時間が減ってメンタルヘルスが保持され、パワハラも減るし、いじめられっ子も学校に行かずにすむので、いじめられなくなる。

 今、コロナウイルス感染拡大予防のための緊急事態宣言による自粛や規制によって、デュルケームのいう全ての類型の自殺が起こりにくい状態になっているのである。
 それを裏付けるように、実際に、去年に比べて、緊急事態宣言が始まった今年4月の自殺は減少している。

 社会学の古典的な知見であるデュルケームの自殺論による仮説は、今でも有効なのである。
 
 
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# by merca | 2020-05-25 00:58 | 社会分析

続世界論 

我々は、世界に意味や目的を求めようとする

しかし、

世界には、意味や目的はない

世界は、意味や目的を与えられた途端に閉じてしまい

世界でなくなるからである

世界は、決して誰も支配できない

世界は、大いなる自由である

この大いなる自由の中で、我々は生きている

存在の意味や目的は、自己でもなく、他者でもなく、

その両方でもなく、またその両方を離れてはあり得ない

一切の存在と一切の存在の関係性たる世界から、その都度、

個々の存在の多様な意味や目的が生まれてくる

ただそれだけであるが、それ故に、我々は自由なのである

(ニーチェへのメッセージ)

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# by merca | 2020-04-12 20:42 | 反ニーチェ

社会学者なら、トイレットペーパー不足デマによるパニックを解決する社会的処方箋を考案すべし!!

 今回のコロナウイルスに関連付けられたトイレットペーパー不足デマによるパニックは、石油ショックのトイレットペーパー不足デマによるパニックとは異なり、社会学でいうところの単純な予言の自己成就ではない。石油ショックの教訓が生かされていないと嘆いている評論家もいるが、むしろ逆であり、石油ショックの教訓が生かされたために起きた現象である。鋭い本当の社会学者なら、そう分析するだろう。

 まず、予言の自己成就とは、嘘=デマが本当になるという社会現象である。例えば、銀行が倒産するという噂を聞いて、多数の顧客がその噂を信じてお金を引き降ろすと、銀行に資金がなくなり、本当に倒産してしまうということがある。また、ある商品が不足するというデマが流れると、多数の人々がそのデマを信じてその商品を買占め、本当にその商品が品薄になって不足してしまう。
 確かに、今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックは、大勢の人々がトイレットペーパーを買占め、一時的に店頭で品薄のような状態になっているように思えるわけであり、予言の自己成就として分析できるのではないかと思ってしまう。

 ところが、今回のトイレットペーパーデマの複雑なところは、人々はコロナウイルスとは関係なく在庫がありデマだとわかりつつも、買占めている点である。
 この現象を分析するに、デマであるトイレットペーパー不足を信じて多くの人々が買占めるという予期(予言の自己成就が起るという予期)、さらにはトイレットペーパー不足を信じて多くの人々が買占めるという予期に基づいてデマとわかりつつも人々が買占めるという予期(予言の自己成就が起るという予期の予期)がはたらき、買占めているのである。
  つまり、予言の自己成就が起るという予期に加えて、予言の自己成就が起るという予期を多数の人が信じて買占めるという予期による自己言及的な二重のパニック現象である。言い換えれば、今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックは、人々が予言の自己成就(デマが本当になる社会現象)という社会学理論が正しいと信じること、またその社会学理論を正しいと信じる人が多数いると信じることで、起きていると考えられる。
 従って、単なる予言の自己成就ではなく、予言の自己成就の予期の予期なのである。石油ショックでデマが本当になるという社会現象=予言の自己成就を学んだ国民は、予言の自己成就の観点から今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックを観察し、あるいはその観察を観察し、買占めパニックに至っているのである。
 厳密に言うと、今回のパニックは、予言の自己成就の予期(の予期)を前提とした社会的選択による人々の行動結果であり、適用される社会学理論としては、マートンの予言の自己成就ではなく、社会的選択理論あるいは合理的選択理論による分析が正解なのである。ここを誤解して単に予言の自己成就だと分析している学者は、全く本質を理解していないことになる。
また、人々の合理的選択が集合化することで、全体として不合理な社会的状況をつくりだしており、合理性が不合理性を生み出す社会学的パラドックスも観察できるのである。

 普通に合理的に考えると人々は在庫があって不足はデマだとわかった時点で買占めはしないはずであるが、人々は石油ショックでデマが本当になるという社会現象=予言の自己成就を学んだために、このような買占めのパニックに陥っているのである。
 今回のトイレットペーパーデマの社会学的原因は、予言の自己成就という社会学理論を人々が暗黙のうちに共有していることにある。正しく社会学理論が社会をつくるのである。
 
 そこで、今回のトイレットペーパー不足デマによるパニックを解決する社会学的処方箋として考えられるのは、人々の予期の構造(厳密には予期の予期の構造)を変えることである。
 当たり前であるが、基本は在庫があり買占めをする人がいなくなったという情報を流すことである。特に買占めをやめた多数の人々の映像を流すことである。みんな買占めをしていないのなら、買占め行動を促す予期の構造は破綻するのである。
 さらに、例えば、トイレットペーパーを買い損ねて困っている老人の姿を映し、「今、すぐに必要な人が困っています。買占めをしているあなたは、デマを流した人と同罪です。」という内容のCMを流し、道徳的に負い目を掻き立て、余分な買占めを抑止する方法もある。

全ての社会学者に呼びかけたい。

今こそ自然科学や心理学ではできない社会学独自の実践のチャンスである。
社会学理論を使い、デマによるパニックを解決する社会学的処方箋を考案するべし!!

今、社会学者の社会的存在意義が問われているのである。
 
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# by merca | 2020-03-06 01:16 | 社会分析

公認心理師の欠格事由 精神疾患者の資格からの社会的排除

 公認心理師という科学的な国家資格ができた。
これによって、占師まがいの非科学的なカウンセラーは、カウンセリング市場から排除されることになったという意見も聞く。
 国家のお墨付き=科学的と考えている現代日本社会の大衆の短絡的な思考形態にはぴったりな資格である。
なので、多くのカウンセラー志望の老若男女がこぞって受験したのだ!!
 ちなみに、第一回公認心理師試験において、社会構成主義の問題が出ていたが、専門的な社会学の立場からしたら全く社会構成主義の本質を理解しておらず、非社会科学的だと思った。だが、心理学だから社会科学に音痴なのは仕方ないから、それはいいとしよう。

 さて、今日、取り上げるのは、令和元年12月14日から施行された公認心理師の欠格事由にかかる一部改正である。 
 http://shinri-kenshu.jp/topics/20191225_1606.html

これまでの成年被後見人又は被保佐人が欠格事由だったところ、下のように改正された。
●公認心理師法
 第1号 心身の故障により公認心理師の業務を適正に行うことができない者として文部科学省令・厚生労働省令で定めるもの 
●文部科学省令・厚生労働省令
 第1条 公認心理師法第3条第1号の文部科学省令・厚生労働省令で定める者は、精神の機能の障害により公認心理師の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない者とする。

論点は、
「精神の機能の障害により公認心理師の業務を適正に行うに当たって必要な認知、判断及び意思疎通を適切に行うことができない」という定義が何をさすかである。
そして、問題は、どんな精神障害・精神疾患が含まれるかである。

 加齢による認知症のことだけをさすのなら、わからなくもないが、抑うつ障害、双極性障害、統合失調症、不安障害、発達障害、依存症などの人たちも、公認心理師になれないことになるのではないかと思ってしまうわけである。
 そうなると、やっかいなことになる。
 潜在的に欠格事由をもつ公認心理師やそれを目指す人たちは多いのではないかと思われるからである。自身の心の病やコミュニケーション障害を治癒・克服せんがために、心理の道を目指し、カウンセラーになる人たちは多くいる。そういう人たちが、大学院に行き、心理学や精神医学という人間科学を学び、精神保健福祉士、臨床心理士、公認心理師などになっているわけである。
 なので、心療内科や精神科にかかったら、その通院歴から取得できなかったり、取り消されたりしないかと不安に怯えてしまうわけである。いじめを受けて精神疾患となり、長いひきこもり生活から抜け出て、大学と大学院に進学し、いざ公認心理師を取得しようと志したら、通院中で投薬中だったら、アウトとなるわけである。
 ましてや精神障害者福祉手帳があったら、もうおしまいである。
こんな不安をもつ敏感な公認心理師を目指すカウンセリングおたくは多くいるはずである。

 以上は、私が危惧する最悪のシナリオであり、未来は異なるかもしれないが、もしこうなっていくようなら、人権擁護のエージェントである社会福祉士たちは、この改正に対して精神障害者を職業社会からはじき出す社会的排除だと猛烈に抗議するだろう。

そのような心の病をもつカウンセラー志望の人たちを救済する術はないのか?
 ひとつあるとしたら、カウンセラーの民間資格の多様化である。
 例えば、そのなかでも、臨床心理士やシニア産業カウンセラーなどは非常にレベルが高い。
 また、心屋仁之助の学派もあり、一部の大衆から支持を得ている。
 幸いなことに、公認心理師は業務独占の資格ではなく、名称独占の資格だから、誰でも心理カウンセラーになれるわけであり、心理学ではなく、極端な話し、東洋思想に基づいたカウンセリングもOKなのである。
実際、森田療法や内観療法は、非科学的である東洋思想に基づいている。漢方薬や整体師と同じであり、人口に膾炙している。

 私は、思想多様性を肯定する相対主義者なので、色々な心理学の流派と多様なカウンセラー資格が存在することが同業界の発展につながると思っている。心理カウンセラー業界にも、適者生存の進化論的観点と経済学でいう市場原理の導入が必要である。国家権威主義かつ科学主義たる公認心理師による独占市場は、特定の科学思想の絶対化を生みだし、人々の思考の可能性を制限することになってしまうだろう。

心理国家資格から排除された多くのカウンセラー志望者たちを救済することが急務なのである。
そのためには、思想多様性に基づいたカウンセリング資格の多様化が必要である。
武道に多くの流派があるのと同じあり、多様な選択肢があることで、一つの業界や分野は発展していくのである。

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# by merca | 2019-12-31 15:44 | 社会分析