「批判的実在論を考える」第1回 統計的実証主義の克服

 「批判的実在論を考える」第1回 
   サブテーマ 批判的実在論は、統計的実証主義を乗り越えたか?

 ロイ・バスカーを創始者とする超越論的実在論の思想的発展形態である批判的実在論が、統計的実証主義(エビデンス主義など)やそれと対立する社会構築主義を乗り越えたと豪語しているが、それが本当か理論的に検証してみたい。

1 統計的実証主義の克服・・・メカニズムを無視した認識論的誤謬
  批判的実在論は、とにもかくも、ヒュームに源流を持つ経験主義を嫌う。経験主義は、統計的実証主義(とりわけその最高形態であるエビデンズ主義)として近代科学思想に根付いている。統計的実証主義においては、現象の根底にある生成メカニズムが解明されなくても、統計的に有意な相関関係や因果関係を見いだすことができれば、科学的真理として認定し、実用することになる。その典型が医学における医薬品の効果におけるエビデンス主義である。
 しかし、批判的実在論の立場からは、生成メカニズムが解明されていない現象は、たとえ統計的に有意であっても、科学的真理として扱われず、実験を繰り返し、メカニズムが解明できれば、そのメカニズムそのものが科学的真理となる。
 
 「全てのカラスは黒い」という仮説は、白いカラスが発見された場合、統計的実証主義からは否定される。しかし、カラスの遺伝子構造というメカニズムが解明され、発見された白いカラスが遺伝子病からたまたま白くなっているだけであると分かれば、「全てのカラスは黒い」という仮説は、否定されなくなるし、このような例外についても遺伝子構造から説明可能となる。個体の内部構造が正常であれば、「全てのカラスは黒い」ということになる。反証主義のポパーは単純すぎるのである。
 この場合も、批判的実在論においては、「全てのカラスは黒い」という現象に関する命題が科学的真理であるわけではなく、カラスの羽を黒くする遺伝子構造というメカニズムが科学的真理ということになる。

 うつ病についても、脳内のセロトニン不足にあるという仮説があるが、どのような外部構造と内部構造を条件として、セロトニン不足がうつ状態という気分障害をもたらすのか、そのメカニズムを解明しないがきり、十分な科学的真理とは言えない。例えば、ストレスの少ない安定的環境にあれば、セロトニン不足であったとしても、気分障害という現象が発現しない場合もあると考えられる。その場合、環境が生成メカニズムの発現の抑止要因となっている。メカニズムが作動しているとしても、内外に存在する多様な諸要因が力としてはたらき、メカニズムによる症状発現を止めたり、変形したり、その程度を左右する。パスカーは、多様な諸要因が存在する状態のことを「開かれた系」と定義している。人体という生命体は「開かれた系」である。内外環境という要因を無視して、現象が偶然に生じることもあるという可能性を排除する統計的実証主義は不完全な認識なのである。研究対象となる現象の生起は、多様な内外環境に左右され、偶然の産物にしかすぎないおそれがあるのである。
 
 多要因の力関係で構成された「開かれた系」においては、様々な要因のペクトルの均衡点が現象であり、その意味において、現象は諸要因に影響される偶然であり、規則性を見いだすのは困難になる。これは、いわゆる複雑系である。そこで、批判的実在論においては、内外条件を統制し、実験を繰り返すことで、相対的に「閉じられた系」をつくりだし、純粋に生成メカニズムを浮き彫りにし、生成メカニズムを解明することを科学の目的として定めている。
 
 しかし、複雑系で注意しないといけないのは、創発特性である。批判的実在論においては、おおよそ原子、分子、生命体、精神、社会の順番において、階層が実在すると考えられている。例えば、生命体は、一つの階層であり、分子構造のみから説明することはできない性質=創発特性をもつ。従って、生成メカニズムとは、階層化された存在の働きに帰属することになる。
 実のところ、批判的実在論は、階層性という一種のホーリズムを密輸入している。複雑な分子構造からなる細胞という生命体が一個体として実在することを認めている。
 創発特性は、要素を条件とするが、要素に還元できない全体性をもつ。この全体性が要素の存在の条件として逆に作用もする。例えば、うつ病がセロトニン不足という脳神経システムたけでは説明がつかず、精神という別の階層に属する病気であるとすると、セロトニン不足は一つの条件ではあるが、精神=心的システムの病理となり、精神分析学が有効となるわけである。
 
 批判的実在論が、自然階層における一個体を実在するものと見なし、ホーリズムを科学に持ち込んだ功績は大きいと思われる。
 要素同士の相互作用、外部との相互作用だけから現象を説明するのなら、還元主義の一種にしかすぎないが、要素や外部という要因以外に、階層に伴うシステムとしての全体性が実在し、それがメカニズムの帰属先となっているという認識なのである。統計的実証主義は、要素同士の相互作用、外部との相互作用の関係を捉えることしかできないが、批判的実在論は階層システムを捉える。ただし、階層システムを捉える方法が客観的ではない。自然階層が存在すること自体は、究極的に学者の哲学的直観の産物なのである。つまり、経験を越えた超越論的な直観である。この直観に実証的根拠はないが、論理的にそれを前提とすることなしに現象を説明することができないというレベルでないといけない。それが批判的実在論の本質的方法であるリトロダクションと呼ばれる知的作業である。
 例えば、ハーバーマスのコミュニケーション的行為論において、理想的発話状況の前提として、真理性、正当性、誠実性の三つをあげているが、これは統計による実証的根拠によって得られた知識ではなく、リトロダクションによって得られたメカニズムなのである。ある現象を説明するのに前提とせざるを得ないものを論理的直観で把握することがリトロダクションなのである。ほとんどの社会理論がこの方法で見いだされており、リトロダクションによる生成メカニズム把握こそが科学の目的であるのである。統計的データは、その手段にしかすぎないのに、統計的モデル理論が幅を利かせている。しかし、統計的データのみからはいかなる理論も構築できない。
 論理的直観に対して科学的根拠はないと批判することは可能であるが、批判的実在論は論理的直観なしにメカニズム把握はできないと考えているのである。

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# by merca | 2015-12-30 10:44 | 理論

超越論的実在論の科学観・・・メカニズム論の肯定

 超越論的実在論は、ロイ・バスカーが打ち立てた科学哲学である。超越論的実在論は、批判的実在論として発展していき、一つの思想的潮流を形成している。さらに、批判的実在論においては、今、社会構成主義=相対主義を越えた社会科学を基礎付ける哲学として注目されている。批判的実在論の哲学的基礎は、全てロイ・バスカーが提唱した超越論的実在論にある。

 超越論的実在論による科学観によれば、科学が追求する真理とは、観察可能な経験的現象ではなく、その背後にある実在する生成メカニズムについての真理であるという。しかるに、これまでの科学哲学においては、ヒュームの古典的経験論を源流とする経験論的実在論が科学哲学の主流を占め、経験的実在論のみが科学を基礎付けると勘違いされてきたというのである。経験論的実在論には、ポパーの反証主義も含まれるし、エビデンス主義に代表される統計的実証主義も含まれる。
 ロイ・バスカーは徹底的に経験的実在論の科学観を否定する。最大のアンチ・ヒューム主義者である。カントの認識論も超越論的観念論として位置づけ批判している。因果関係は人間の認識の形式ではなく、独立に外部世界に実在するメカニズムの発現であるという立場から、カントの観念論も否定される。
 近代科学を基礎付けることができるのは、経験的実在論でもなく超越論的観念論でもなく、唯一、バスカーによる超越論的実在論のみであるというわけである。言い換えれば、実験という科学の営みが意味をもつのは、超越論的実在論の世界観以外にはあり得ないということである。実験は、事象間の相関関係を検証するのが目的ではなく、その背後に潜むメカニズムや構造を見つけ出すことが目的である。色々な条件で実験し、探ろうとしているのは、単に事象間の統計的な相関関係ではないのである。科学者は、メカニズムを解明するために条件を変えていき実験しているわけである。
 例えば。統制された条件(閉じられた系)において、水は100度で沸騰するという命題が実証されたとしても、その命題は何ら科学的真理ではない。水の分子構造からその現象が説明されてはじめて科学的真理となるのである。つまり、メカニズムが解明されてはじめて科学的真理となるのである。また、気圧が低ければ、100度でなくても、水は沸騰するわけであり、それは水の分子構造を把握してはじめて説明できる現象である。
 医学の分野でも、偽薬効果が統計的に実証されても、そのメカニズムが解明されない限り、偽薬効果は科学的真理ではないのである。この点を勘違いし、偽薬効果を科学的真理だと思い込んで議論するニセ科学批判者はよく見かける。
 
 経験的実在論は、経験したままが真実だと勘違いしているのである。これを認識論的誤謬という。人間が認識したままの世界が真実であり、それが科学的知識であると思い込む誤謬である。
 手品を例にとろう。手品で人間を箱の中に入れて切断し、また体がもとにもどるというものがよくあるが、認識したままが本当なら、人間は切断されていることになる。また、ステックから鳩がでる手品なら、認識したままでいうと、本当にステックから鳩が生まれたことになる。お客は、手品で起った現象を真実だとは誰も思わない。手品には必ず種があり、背後に錯覚させるメカニズムがあるのである。もし種がなければ魔法使いだということになる。経験的実在論者は、手品師を魔法使いだと勘違いし、経験的に認識した出来事をそのまま科学的真理である独断するのである。
 バスカーの言わんとすることは、このような経験的現象を絶対化する経験的実在論に基づく科学は、真の意味で科学足り得ないということである。超越論的実在論からすると、事象間の有意な相関関係の統計的検定さえも、科学的根拠になり得ないのである。メカニズムを提示してこそ真なる科学的根拠となるのである。

 西條氏の構造構成主義の科学観も、超越論的実在論から否定される。構造構成主義は、外部の存在の実在性を否定し、人間の共同主観的な言葉の使用法の同一性を科学の根拠とする哲学的立場である。カントの観念論に近い立場である。
 ロイ・バスカーは科学を人間の社会的活動であると認めつつも、人間の認識とは独立に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとるわけであり、明らかに外部存在の実在性なしに科学が成り立つとする構造構成主義の科学観は否定されることになる。

 社会科学的関心からすると、最大の問題は、超越論的実在論ないしは批判的実在論が、社会構築主義を克服している科学哲学になりうるかである。反証主義や単なるエビデンス主義に代表される統計的実証主義の科学観よりも深い科学哲学だとは認めよう。
 実は、批判的実在論は、社会学にとっては、一つの救いとなる。理論社会学が提示する統計的根拠のない社会理論は物語ではなく、実在する社会のメカニズムであると言えることも可能であるからである。例えば、パーソンズの社会体系論は、観念論的ではなく、実在する社会のメカニズムや構造になるのである。統計的根拠がない社会理論は全て個々の学者によって構築された物語であるという考えを退け、相対主義を回避できるからである。
 
 しかし、事態はそんなに簡単なことではないだろう。社会のメカニズムを認識することが社会学の役目であるが、システム論のように社会が人間の行為ないしはコミュニケーションという要素から構成されているシステムだと考えると、人間は再帰的に社会のメカニズムを構築することもできるからである。社会のメカニズムに意義を申し立て、メカニズムの発現を阻止することもできるのである。 批判的実在論は、社会はその都度創発されものであるとするルーマンのラディカル構築主義と真っ向から対立する。批判的実在論は、マルクス主義同様に存在論的社会観に立脚するが、ルーマンの社会システム論は創発論的社会観に立脚する。
 
 超越論的実在論のバスカーは、(閉じた系/開いた系)を区別し、実験は人間が作為的に閉じた系を作り出すことで可能となると考える。開いた系においては、多様な諸要因が働き、純粋にメカニズムが発現したり、発現を認識できたりし得ないというのである。社会は、雑多な開いた系であり、社会学では実験は困難であるという。
 しかし、ルーマンによれば、社会は開いた系ではなく、むしろ閉じた系、区別によって閉じられた閉鎖システムである。区別によって閉じられることで社会は創発されるのであり、バスカーの社会観とは逆である。バスカーは、社会よりも自然は閉じられており、実験しやすいと考えているが、本当は社会のほうが閉じられているのである。社会システムは自ら閉じることで社会システムたりえるのである。自ら条件統制された内部環境をつくりだすのである。一つの社会がどのような区別コードに準拠して閉じているか認識すること=第二次観察することが、社会の構造ないしはメカニズムを捉えたことになる。しかし、それは創発されたものにしかすぎず、創発された時には実在性はあるが、そうでない時には、可能態としてあるだけで実在性はない。
 例えば、コンビニに行くと、お金を払えば商品が手に入るという因果仮説は、店員と客が経済システムを創発することで可能となるのである。批判的実在論者ならば、売買行為を資本主義社会のメカニズムの発現として説明するであろう。資本主義社会が実在するので売買行為が存在するというわけである。
 しかし、究極の社会理論からは、それは逆である。むしろ売買行為が発生したから、資本主義社会が実現されたと考えるのである。もし売買行為が一切起らなかったら、資本主義社会は創発されず、そのメカニズムも実在しないのである。
 システム論社会学では、人々の相互行為によってメカニズムはあとからつくられるものなのであると考える。また、他人の意思による自己選択(他者性)は自己の意思を制限することになるので、それが社会の拘束性の源になる。最初に不動の資本主義社会のメカニズムが実在し、それが個々人の意思を制約するというのは、マルクス主義の錯誤的発想である。社会の拘束性と外存性は、大澤氏の第三審級論によって解明されているとおり、他者とのコミュニケーションによって作動する。
 
 とりあえず、ここで言えることは、批判的実在論は、自然科学には通用するが、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるかぎり、社会科学の世界には不適合であるということである。
 社会には、つくられざるメカニズムは存在しない。その代わり、その都度、創発される閉じたシステムがあるのみである。

  参考
「科学と実在論」ロイ・バスカー著
「「メカニズム論の誤謬」という菊池流科学思想」
 http://mercamun.exblog.jp/14829440/ 
「偽薬効果は現象的事実であって科学的事実にあらず!!」
 http://mercamun.exblog.jp/14839902/
「偽薬効果を前提にしたニセ科学批判はニセ科学である。」
 http://mercamun.exblog.jp/14793660/

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# by merca | 2015-12-21 00:11 | 理論

他者愛は、自己愛に還元されない。

 他者愛とは、他者の他者性を尊び大切にすることをいう。従って、自己愛には決して還元されない。他者の他者性とは、自己には決して支配できない無限性・超越性だからである。他者の自由意志は、決して自己は支配できない。だから、他者というのである。
 もし自己が支配できるような存在、すなわち自己の同一性に包摂できるような存在であれば、真なる他者ではなく、自己の延長にしかすぎない。レヴィナスのいうように、他者の顔は、支配できない。
 自己にとっては、他者は決して届かぬ超越性、無限性である。だから、他者は自己にとって神である。他者は、超越性・無限性をもつ存在である限り、決して他者を殺すことはできない。殺人の不可能性は絶対的真理である。
 
「汝殺すことなかれ」は、他者の他者性を決して否定できぬことを意味しており、肉体的な意味での人間は殺せても、魂=自由意志としての人間を殺すことは決してできない。人間存在が魂=自由意志として実存する限り、いかなる殺人も不可能である。
 他者論倫理学からは、人は人を殺すことはできないのである。従って、人を殺そうとする者の欲望は決して満たされることはない。殺人願望ほど愚かな行為はない。人を殺してはいけないという倫理は、このような仕方で体得されるものであり、他者の他者性を受容する者だけが真に身につけることができる。

「なぜ人を殺してはならないのか?」という質問に対しては、真の意味で、人は人を殺すことができないからであり、不可能で愚かな行為であるからだと言っておこう。
 殺人の不可能性を悟った時、同時に他者を敬う気持ちが沸き起こり、それが他者愛となるのである。そして、自己愛には他者愛は還元されないのである。
 ニーチェの思想は自己愛の思想であり、他者性がなく、真理ではない。

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# by merca | 2015-10-20 00:28 | 反ニーチェ

世界の有意味性(一切肯定の境地)

 この世界において、無意味なもの、無価値なものは何ひとつ存在しない。宇宙の一切の存在は尊く価値が在る。
 
 なぜなら、一切の存在は一切の存在と関係し合っているからである。価値や意味は、自らのうちにあるのではなく、無数の他の存在との関係で生ずるのである。他の存在と関係している限り、価値や意味は無限に自ずと生ずる。
 
 無数の他者の他者性が価値や意味の源である。いくら自己存在が無意味や無価値だと思い込んでも、宇宙にある無数の他の存在と関係する限り、意味や価値が生ずるのである。一切肯定の境地とは、宇宙の一切の存在に意味や価値があると感じることができる心をさす。

自己は無意味・無価値だと叫ぶ者たちよ! 
ニーチェに騙されるな!
聞くがよい。森羅万象における関係性の妙理を。
 
一輪の花にも神仏は宿る。
心傷ついた人は、たった一輪の花に救われ、一輪の花に神仏が現れるのを知る。

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# by merca | 2015-10-05 22:14 | 反ニーチェ

仲正昌樹によるソーカル教批判の甘さ

 哲学者・仲正昌樹氏がニセ科学批判者たちのことをソーカル教と呼んで批判しているが、変な議論になっている。

  「ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち」
   http://meigetu.net/?p=3065
 
 仲正昌樹氏は、ニセ科学批判者たちの価値観とネットコミュニケーションの傾向を全く理解していないために、かなり勘違いをしている。というようりか、ニセ科学批判という巨大なネットジャンルが存在することを知らないと思われる。そのために議論に深入りしてしまっている。
 宮台氏、大澤氏、東氏ならニセ科学批判者たちを無視して流すところを真剣に議論しようとしている。この時点で、仲正氏はネット議論で負けである。ニセ科学批判者たちの怖さを知らない。これまで、何人もの相対主義の学者が潰されている事実を知らないのである。
 
 仲正氏は、ポストモダン論者が自然科学理論を借用するのは比喩としてだけであり、本質的な部分とは関係ないと考え、ソーカルのポストモダン論者への批判は、的を得ていないと断言している。
 そして、案の上、ポストモダン論者における自然科学理論の借用は比喩としての利用であり、本質的でないとする仲正氏のソーカル批判に対して、ソーカルを信奉するニセ科学批判者たちが噛み付いてきたのである。
 
 社会学を学んだ私からすれば、ソーカルの根本的間違いはそんなところにあるのではなく、単に思想と科学の区別ができなかったところにある。思想は、対象と認識が一致する知識を目指しているわけではなく、人々に流布し、自我統合と社会統合を機能を果たせばよいのである。思想は物語でもよいのである。ニーチェの哲学はまさしくそれである。一方、近代社会においては、科学は、対象と認識が一致する実証的知識を提供する役割を担っており、(真/偽)のコードに準拠している。近代社会で唯一信頼されうる知識体系である。
 
 ソーカルは、思想と科学を同レベルのコードで認識していたのである。社会システム論的にいうと、社会的機能の混同である。ポストモダン思想はあくまでも思想であり、科学ではないので、真偽で区別する必要はない。思想と科学の混同こそがソーカルへの正しい批判である。また、哲学も世界の観察道具であって、科学のように具体的対象に対する知識そのものではない。ソーカルには、観察道具と事実的知識の混同も見受けられる。
 ソーカルを批判するのなら、科学と思想の機能の混同、科学と哲学の機能の混同、つまり社会的カテゴリーの混同を指摘した方が効果的である。

 ともあれ、哲学者・仲正氏は、正規の学者たちが太刀打ちできないほどに集積された知識体系たるニセ科学批判という現象がネットにおいて自然発生し、一部のニセ科学批判者においては既存のアカデミックな学システムに属する学者から学術的知識についての真偽の決定権を剥奪するほどの知的能力を所有していることをわかっていない。
 ここで、仲正氏に告ぐ。今から勉強したまえ。私のブログにあるニセ科学批判の分析記事を閲覧したまえ。早く学習しないと、大変なことになるぞよ。
             同じ相対主義者としての忠告
                        論宅より

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# by merca | 2015-08-28 21:40 | ニセ科学批判批判

「卑怯者の島」にドラゴンナイトが到来する時

 戦後70年に際して、小林よしのりが「卑怯者の島」というフィクション作品を出し、戦争について日本国民に問うた。これはフィクション作品ではあるが、価値伝達としての思想の押しつけは一切ない。小林よしのりは、戦争論のような事実を語る作品については思想漫画家として価値伝達を行うが、フィクション作品では価値観の強制がない優れた作品となることが多い。
 全くの直感としての予言(期待)ではあるが、将来、「卑怯者の島」は映画化され、話題を呼ぶと予想している。さらに、同作をニヒリストである北野武が監督をすると、アカデミー賞になると考えられる。この予言は根拠のない私の期待であるが、そうなったら素晴らしい。
 今後、小林よしのりには、是非とも漫画家の本分としてフィクション作品を書き続けて欲しいものである。
 
 「卑怯者の島」は、戦争の当事者としての兵士の視点から戦争について描かれている。ストーリーも引き込まれやすい。主人公は、死ねなかったことで卑怯者としての罪の意識を持ち続け、その葛藤がよく描かれている。戦友が一人一人死ぬごとに、罪の意識が強まっていく。
 戦争とは、(敵/味方)という区別で創発された殺人ゲームである。この区別が実体化されると、善良な市民であった兵士も、戦場では殺し合いをし、地獄世界をつくりだす。その地獄絵図が「卑怯者の島」では克明に描かれている。
 生き残った者、死んだ者、誰一人として幸福になっていない。無念で死んだ者、生き残っても、手足を失い物乞いになったり、主人公のように一生罪の意識に苛まれながら生きている者もいる。
 
 (敵/味方)という区別が消滅することで戦争という地獄ゲームは終わるが、この区別がなくなるということは、同時に普通の人間(殺し合わない存在)にもどるということである。だから、本当に戦争という地獄ゲームから解放された兵士は、自分が死ねなかったことに対する罪の意識ではなく、人間として敵兵や敵国の市民を殺害したことに対する罪悪感をもつようになる。
 ところが、卑怯者の島の主人公は、戦後においても、敵兵を殺害したことに対する罪悪感はもたず、死ねなかった自分に対する負い目による罪悪感のみに縛り続けられており、(敵/味方)という区別から解放されていないのである。彼の心には終戦はないのである。
 もしかしたら地獄の戦争ゲームから多くの日本兵たちは、この主人公のように未だに解放されていないのだろうか?そのような疑問が湧いてくる。
 他者性に基づき、被害者意識ではなく、加害者意識をもつことが本当の戦争からの人間としての解放である。「卑怯者の島」の主人公には、本当の意味での他者性の意識が認められない。
 悲しいかな、それが小林よしのりの描く戦争の限界でもある。米兵にも家族があり、守るべきものがある。小林よしのりが描く日本兵には、そのような敵を対等な他者として認める視点が欠落している。敵兵である英国海軍422名を救助した日本海軍の軍人である工藤俊作艦長のような武士道に基づいた他者性もない。

 戦争が本当に終わるとは、人々の間に(敵/味方)という区別が消滅し、人間としての平和な日常生活にもどるということである。社会システム論の立場からすると、(敵/味方)の区別そのものがつくれた虚構にしかすぎない。だから、原理上、いつでも廃棄することができる。つまり、戦争ゲームを消滅させることができる
 実は、戦争中にもそういう奇跡が稀に起る。それがドラゴンナイトである。「世界の終わり」が歌うドラゴンナイトの到来である。ドラゴンナイトは、第一次世界大戦時にドイツ軍がフランス軍・イギリス軍と交戦し、戦争中に敵味方の区別なくクリスマスを一緒に祝いあったというクリスマス休戦をモチーフにしていると言われている。
 クリスマス休戦は、クリスマスを祝うテノール歌手の「きよしこの夜」の歌がドイツ陣営から聞こえて来て、フランス軍から拍手が沸き起こり、一挙に(敵/味方)という区別が消滅し、別の区別が生じたのである。戦争という地獄ゲームが解除され、クリスマスを祝う普通のヨーロッパの庶民に戻ったのである。
 ドラゴンナイトに似たような現象は稀に起る。ドラゴンナイトという曲には、世界中の全ての戦場にドラゴンナイトが到来することを願うという平和のメッセージがあると確信している。
 ここで、卑怯者の島にも、ドラゴンナイトが到来する可能性はあったか問いたい。いやむしろ、ドラゴンナイトが到来して欲しかったのである。
 社会学理論上は、ドラゴンナイト現象は、可能である。それは、(敵/味方)を無効にする別の区別が到来した時に起こりうる。社会学者は、社会病理現象である戦争システムを脱構築する技術を開発する必要があるのである。
 
 天から一つの音楽=カノンが降り注ぎ、傷ついた戦場の兵士たちを敵と味方の区別なく癒していき、殺し合うことが正義でないことを知り、武器を捨て、ドラゴンナイトが訪れるのである。

  参考
ドラゴンナイト的な現象には下のようなものがある。
・帝国海軍工藤俊作艦長による敵兵救助
・上杉謙信が武田信玄に塩を送った。
・日本人残留孤児を育てた中国人
・逆襲のシャア
 アクシズの墜落をジオン軍兵士も連邦軍兵士も一緒に防ぐ。
・起動戦士ガンダムのククルス・ドアン
 戦争で子供の親を殺し、ジオン軍から離脱する。
・超時空要塞マクロス 映画「愛・おぼえていますか」
 リン・ミンメイの歌声に敵が文化を感じ、停戦する。

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# by merca | 2015-08-16 09:59

「仏教思想のゼロポイント」書評 弁証法的思考の欠落

 「日本仏教はなぜ悟れないのか」という衝撃的なフレーズが帯に掲げられ、「仏教思想のゼロポイント」という書物が発売されている。大型新人哲学者の書物らしい。知識人にも受けがよく、よく売れているらしいので、購読してみた。
 これは、仏教入門書というよりも、大乗仏教批判の書であることがわかった。私は、この書について、何が本来の仏教かどうかという視点よりも、論理的に正しいかどうかという側面で批評してみた。
 これは、魚川佑司氏による独特の仏教解釈の書である。大胆にも、涅槃の境地について論理的に述べられている。注意したいのは、魚川氏自身が解脱し涅槃の境地たるゼロポイントに体感的に身をおいて悟りを開いているわけではないことである。つまり、宗教家のように、自らの涅槃に至る解脱体験から、涅槃=ゼロポイントの本質を論じているわけではない。
 あくまでも、この書物は、仏典の解釈にしかすぎない。解脱体験者が書いたものではないので、ある種、説得力に欠くものの、論理構成は簡潔で、非常に分かりやすい。
 分かりやすいだけに、疑問点が露骨にいくつも見受けられたので、それを指摘しておきたい。一言で言えば、魚川氏の仏教解釈における誤謬は、弁証法的思考の欠落である。仏教でよく言われる有無の二偏に囚われている思考のまま仏教を解釈している。

1 「無我だからこそ輪廻する」について
 仏教は輪廻を唱えていないという学説があるが、魚川氏は仏教は輪廻を否定していないと解釈する。仏教が輪廻を否定しないというのは正しいが、その根拠となる論理が半分間違っている。
 魚川氏によれば、無我だからこそ輪廻(変化)していくという。つまり、そもそも輪廻する主体が固定的な実体我であっては、所行無常は成り立たず、輪廻はありえないというわけである。仏教は実体我のみを否定しているのであって、変化する体験我は否定していないというのである。
 しかし、輪廻するものは、完全に無我であっては輪廻しない。論理的には、無であるものは無のままであるからである。輪廻の主体が、実体我であっても完全な無我であっても、輪廻は成り立たない。
 輪廻が成り立つためには、輪廻の主体が有無を離れた存在でなければならない。輪廻する我は、有でもなく、無でもなく、有無を合わせたものでもなく、また有無によらずしては成り立たない同時的弁証法的存在なのである。この論理は、龍樹の中論に説かれている。龍樹に比べると、魚川氏の仏教解釈はかなり浅いと言わざるを得ない。

2 仏教が世界について無記の態度をとる根拠について
 「世界は常住か無常か、有限か無限か」については、仏教は無記の態度をとる。その根拠として、そもそも世界は人の煩悩によって構成された実体のない物語であることをあげている。
 従って、物語としての世界について判断するのはナンセンスということになり、何も答えない、すなわち無記である他ないと主張するわけである。カントのように理性にとって世界が不可知だから、答えられないというのではなく、そもそも世界は煩悩によって構成された物語だというのである。
 しかし、世界は誰か一人の煩悩によって構成されたものではなく、複数の他者との関係によって生成する。つまり、無数の存在の関係たる縁起の法こそ世界そのものである。華厳経でいう事々無碍法界こそが世界である。一つの存在が成り立つためには、無数の他の存在を必要とするような関係である。真なる世界とは、関係そのものであり、関係を否定することは縁起を否定することになってしまう。真なる縁起の世界は、不可思議故に、常住か無常か、有限か無限か、という思議を越えているから、無記の態度をとるというべきであろう。決して、世界が物語だからではない。
 また、物語世界であれば一人の自我で自由自在に作りかえることができるが、縁起の法界は無数の他者との関係によって形成されており、一人の自我では到底自由に作り変えられない世界なのである。世界は、その都度、状態は変化はするが、物語ではないのである。魚川氏の仏教解釈には、世界における他者性が欠落しているのである。

3 「本来性」と「現実性」の二元論について
 魚川氏は、煩悩によって構成された物語の世界と、煩悩を離れた構成されざる無為の境地である涅槃を分け、仏教が目指す涅槃こそ本来性であるという。すなわち、不生不滅の無為の世界としての本来性と、生成消滅する有為の世界としての現実性の二元論を唱える。これは、西洋哲学における本質と現象という二元コードと同じである。
 しかるに、このような二項対立図式は、簡単に脱構築されてしまう。物語世界を否定することで涅槃に至るのなら、かえって物語世界に涅槃が依存してしまうことになるからである。
 そして、論理的には物語世界を否定しても肯定しても、本来性は矛盾を抱えて成り立たなくなってしまう。本来性は現実性を離れてはなく、現実性も本来性を離れてない。この二つは世界の二側面であり、弁証法的に止揚される。大乗仏教でいうところの生死即涅槃、煩悩即菩提という弁証法的論理によって脱構築されてしまうことになる。物語世界に相対することで、涅槃も絶対化できなくなってしまうわけである。涅槃という片方の項の優越性、根源性を主張する魚川氏の二元論の論理では、涅槃が絶対化、実体化されると同時に、逆に劣位の項である現実性に依存することになり、矛盾を抱えって成り立たなくなるのである。
 
 また、涅槃を目指すこと、すなわち一切の煩悩を断つことも、一つの欲=自己愛であり、それ自体一つの煩悩である。その最後の煩悩を捨てるには、利他業=他者愛を組み込むしかない。いわゆる菩薩道である。システム論的に言うと、涅槃を目指すこともそれ自体一つの欲であるという解脱における自己言及のパラドックスについて、(利他/利己)という区別で脱パラドックス化したのが、大乗仏教の菩薩道なのである。
 この点における仏教の進化について、当書を推薦している宮崎哲弥も鈍感なのかもしれない。大乗仏教革命における仏教の脱バラドックス化の意味について、魚川氏は理解していない。真実には、菩薩道を経由することなしに、真なる解脱・涅槃はあり得ないのである。これが、致命的な魚川氏の誤謬あり、同時に小乗仏教の限界でもある。
 
 ともあれ、これは、論理上における本質的な構成主義の難点でもある。(本来性/現実性)というコードに基づいて観察する限り、仏教は単なる心理構成主義ということになってしまう。そして、本来性に基づいて、現実性たる物語世界を相対化し、無限定に現実世界を肯定する立場に行き着くことになる。現実世界は、全て虚構だから、どれを選択しても自由だということになり、結局、何も選択できないニヒリズムに陥る。

 惜しいことは、仏教思想が極めて単純で浅薄な教えとなってしまっている。しかし、魚川氏の観察は、小乗仏教の観察だから仕方ないと言える。結局、ゼロポイントからニヒリズムに行き着くことになるだろう。
 
 ここで、大乗的観点から、ゼロポイントを再解釈しておこう。
 真なるゼロポイントは、単なるゼロではなく、プラスとマイナスの逆方向のベクトルが存在することで、力が相殺されて、ゼロとなる均衡点をいう。
 プラスとしての現実性とマイナスとしての本来性が二つあってゼロになっているのである。本来性だけを否定すると、ゼロではなくなり、現実性が実体化されてしまう。逆に現実性だけを否定すると、ゼロではなくなり、本来性が実体化されてしまう。涅槃の実体化である。従って、対等に本来性と現実性が統合された時に、力のバランスがとれ、真なるゼロポイントが出現するのである。
それが二偏を双照する中道第一義諦たる龍樹の中観思想なのである。
 龍樹のように (本来性/現実性)というコードそのものを脱構築した大乗仏教の方が、やはり思想としては優れていると言わざるを得ない。

   参考
 知性発展段階説
 http://mercamun.exblog.jp/13926104/

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# by merca | 2015-07-20 15:45

柄谷行人の交換史観による憲法9条の存在意義

 柄谷行人は、現代日本における真なる思想家である。独自の思想を構築しており、デリダ、レヴィナス、ドゥルーズに匹敵する現代思想家である。
 柄谷行人は、カントを援用しながら、長年にわたりマルクスと向き合うことで、一つの体系的な社会思想を完成させたのである。それが「トランスクリティーク」「世界史の構造」「帝国の構造」という三部作を通じて完成させた交換様式に準拠した社会理論である。私は、それを交換史観と呼びたい。つまり、社会(構成体)の在り様は、交換様式という経済構造によって規定されるという理論である。
 ただし、実証主義的な方法はとられていないので、社会科学的に一つの確立した社会理論として見なすことができるかどうかは検討の余地はあるが、マルクス主義よりも説明能力が高い理論体系であることには間違いがない。
 
 マルクス主義では、社会構成体においては下部構造が上部構造を規定すると考えるが、その下部構造についての捉え方が異なる。マルクスは下部構造を生産様式としてのみ捉えたが、柄谷行人は下部構造を交換様式として捉え直す。従って、マルクスにおいては上部構造だと考えられていた国家や民族共同体は、下部構造として見なされる。ここが柄谷行人の交換史観における最大の思想的な独創性である。
 
 交換史観について説明しよう。まず、三つの交換様式があり、それが混在しているのが現実の社会構成体であるという。その三つとは、民族=ネーションに準拠する互酬(贈与-返礼)という交換様式A、国家=ステートに準拠する略奪と再配分(支配と保護)という交換様式B、資本(商品交換)に準拠する交換様式Cである。そして、近代社会は、基本的に交換様式Cが中心となる社会構成体である。

 マルクスは、国家主義と民族主義を単なる上部構造として甘く見ていたために、必然的に高度に発達した資本主義社会で社会主義革命が起ると考えてしまった。しかるに、先進国の資本主義社会では社会主義革命は起りはしなかった。先進国の資本主義社会では、民族としての平等性や統合性を強調したり、国家が資本に介入して不平等を是正したりすることで、階級格差による不満を押さえて来たために、共産主義革命などは起らず、依然として資本主義経済のままである。
 また一方で、多くの社会主義国は、民族主義をかかげる独裁者が現れるなどして、国家の力が強くなり、全体主義化し、人々の人権や自由を束縛した。つまり、国家主義と民族主義によって、資本主義社会が延命し、社会主義革命が全体主義化したのである。
 柄谷行人によれば、国家主義と民族主義は上部構造ではなく、社会構成体を決定する交換様式という下部構造なのであるが、マルクスはそれを見損なったというわけである。すなわち、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、全ての主権国家における国民社会においては、資本=民族=国家が三位一体となるボロメオの環が機能しているというわけである。ちなみに、これは、システム論的には、三つのシステムの構造論的カップリングとして記述できる。
 ともあれ、資本主義社会が福祉国家として階級格差を是正し自らを延命するとともに、社会主義社会においても、ソ蓮が崩壊し複数の民族国家に分裂し、中国が市場経済を導入するなど、民族主義や資本主義を導入することなしには、成り立たなくなっているのである。
 つまりは、政治形態が資本主義であれ、社会主義であれ、主権国家としての国民社会は、資本=民族=国家という三位一体のボロメオ型社会となるというわけである。社会学でいとうところの後期近代社会は、全てこの形態をとることになり、原則的に社会進化は終焉するわけである。柄谷行人は、これをフクヤマの歴史の終焉になぞらえている。
 しかし、柄谷行人は、この先に一つのユートピアを希求する。それがカントのいう世界共和国である。異なる国民社会どうしが互酬(贈与-返礼)を結び、超越論的仮象としての世界共和国を目指して、諸国連邦を形成するということである。交換様式Aの世界規模での回復としての交換様式Dによる下部構造をもつ社会構成体の実現である。
 ちなみに、交換史観では、世界社会は、四つのレベルで考えられている。交換様式Aのレベルの氏族社会=ミニ世界社会、交換様式Bのレベルの世界帝国、交換様式Cのレベルの世界経済、そして交換様式Dのレベルの世界共和国である。
 社会システム論の視点からいうと、柄谷行人が希求する交換様式Dの世界社会とは、交換様式A、交換様式B、交換様式Cが全て対等に自律的に機能分化する社会を意味している。それは、友愛をもたらす交換様式A、平等をもたらす交換様式B、自由をもたらす交換様式Cの三つが対等に互いに自律的に関係しあう世界規模の社会である。
 
 最後に、永遠平和を提唱する戦争放棄の憲法第9条こそが、日本国による全世界の国への贈与となり、世界規模での交換様式Dとしての意味を持ち、来たるべき世界共和国への第一歩となると提言する。
 しかし、武力を放棄することで、他国もその返礼として侵略しないという関係が本当に形成されるのか?
 ここに不安を抱く人も多いだろうが、これは他国が日本の憲法9条をどう評価しているか調査することでわかるであろう。戦争をしない憲法をもつ国を世界の諸国はどう観察するのだろうか?
 これは、自国の平和のみを願うという偏頗な意識ではなく、世界の平和を望むという高い意識の人々が登場することになしには困難だと思われる。交換様式Dによってつくられる人々の道徳意識は、「各人は他者をたんに手段としてのみならず同時に目的として扱え」であるからである。これは人権思想の根幹でもある。
 
 もはや世界平和なしに一国の平和もあり得なくなった時代であり、日本国のためではなく、世界平和のために憲法9条は必要だということである。
 このことを了解した上で、交換史観に根拠付けられた柄谷行人の護憲思想が若者に浸透していき、憲法9条改正反対運動の思想的根幹となっていくか観察していきたい。
 今流行っている学生社会運動であるSEALDs「自由と民主主義のための学生緊急行動」等に代表される平和主義の若者たちが、全共闘時代における古典的な唯物史観(マルクス主義)ではなく、世界平和を掲げる柄谷行人の交換史観を運動の思想的なベースとしていく可能性はないだろうか?平和主義運動をする若者たちが、こぞって交換史観を自己の思想的アイデンティティとしたとき、柄谷行人は今世紀最大の思想家となろう。
 やっと、マルクスの唯物史観ではなく、柄谷行人の交換史観による世界社会革命が始まりつつあるのである。

  参考
・マルクス主義でいう社会構成体という概念は、いわゆる社会学(システム論社会学)でいう社会ではない。この点を押さえておくべきである。社会学でいう社会とは、あくまでも、創発されたコミュニケーション(あるいは行為)の総体であるが、マルクス主義でいう社会構成体とは、コミュニケーションの結果生じた物象化された社会関係の総体をさす概念である。創発論的社会観ではなく、存在論的社会観に準拠した概念である。
 実のところ、社会システム論の観点からは、社会構成体は実体ではなく、(意識/存在)というコードで第二次観察された社会の記述にしかすぎない。


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# by merca | 2015-07-12 10:24 | 理論

正義からの解放(相対主義の勝利)

 人類は、そろそろ正義という暴力装置から解放されるべきである。社会学的に分析すると、正義という暴力装置は、肥大化すると、世界を破壊する悪魔と化す。実は、絶対化された正義そのものが、社会病理現象である。
 国家や共同体が正義を独占した時に、この社会病理現象は人々に蔓延し、人々を集合的に殺人鬼に変える。国家は、正義を自己目的化してはならない。
 
 正義のために戦争は行われ
 正義のためにテロは行われ
 正義のためにいじめは行われ
 正義のために差別され
 正義のためにバッシングされ
 正義のために排除され
 そして、正義のために、人々は家族、友人、居場所、そして自分も失い、不幸になっていく。

 社会科学に出来ることは、この正義という暴力装置を科学的に解明し、正義の副作用を無効化する処方箋をつくることである。
 ニーチェは、正義を無効化する思想=積極的ニヒリズムを開発したが、この思想は諸刃の剣であり、成熟社会では、もはや十分に機能していない。ニーチェの企ては失敗したのである。
 いかなる正義も自己目的化すると、世界を破壊する力となる。正義は常に相対化されることで、人類社会は平和でいることができる。
 古来より、あらゆる哲学者が正義とは何かという問いを追求して来たが、カントを含めて万人を納得させる結論を出した者は未だいない。相対主義の勝利である。
 神は、決して人間に正義を与えることはないであろう。もし正義を手にした者がいたとしたら、正義に反する者を殺戮する悪魔となるのであろうから。
 プロタゴラスに始まる相対主義は、正義の暴走をとめる優れた人類の英知である。してみれば、正義は、暴力であり、煩悩である。

正義によって煽動されることなかれ
正義への囚われを捨てよ
正義を得たと思った瞬間に、人は堕落し、他者を迫害するであろう
だから、宇宙の法則=相対主義は、人に正義を与えない
もし正義という化物が世界を支配しようとしたら、許しと愛が解毒剤となろう

 参考
 「西洋道徳の本質は暴力」
  http://mercamun.exblog.jp/6329988 
 「アドルフに告ぐ」・・・手塚治虫の反戦漫画
  正義の愚かさが説かれている。

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# by merca | 2015-05-06 11:07

「かぐや姫の物語」評論「もし天人の音楽ではなく、カノンだったら」

 高畑監督の「かぐや姫の物語」のラストシーンにおいて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンがある。このシーンは、色々と話題になっているようである。特に、BGM 「天人の音楽」はあまりにも軽快で明るく優美であったために、違和感を感じる人も多かったようである。
 しかし、天人の音楽は、極めてスピリチュアルであり、この音楽でないと、この場面は成り立たない。かぐや姫の本心である地上界に止まりたいとする欲望は、あけっなく無慈悲に断たれる。優美で明るいにもかかわらず、この曲が怖いと感じた人たちも多くいるようである。それは、天人の世界とは涅槃=死を意味するからである。涅槃とは一切の煩悩のない境地である。高畑監督の描写でも分かるように、天人の世界は、苦悩のない平和な阿弥陀仏の極楽浄土と同じであり、出迎えの光景は阿弥陀二十五菩薩来迎図そのものである。
 死とは、自己の意思とは関係なく、そのように無慈悲に突然やってくるものである。死によって、人生は突然途切れる。地上でのかぐや姫の生も途切れ、この世における一切の記憶はなくなる。記憶がなくなることで一切の煩悩から解放される。この場面における天人の音楽が怖いと感じる人たちは、自己の生もいずれは死によって途切れるという恐怖からくる。
 しかし、一方で、涅槃への誘いとしての昇天は、全ての記憶を失いリセットされる感覚があり、何も考えず、一切から解放され、自由になった気分もする。実は、この昇天の儀式そのものが何度も繰り返されてきたような感覚に襲われる。この昇天の儀式そのものがとても懐かしい気がする。心地よさと懐かしさを感じるのは、私だけであろうか?
 それにしても、死に際して、全てを忘れて何も残さず地上から去ることができる人などいるであろうか? 多くの人たちは、煩悩を断ち切れず、幽霊として地上界に半ば止まり続けているような気がする。
 ともあれ、天人の音楽には、どんなことも全て忘れてリセットしようじゃないかみたいなスピリチュアルメッセージがある。かぐや姫の物語を見てこの曲が耳に残った人たちが多くいるようである。魂の深い部分と共鳴したものと考えられる。昇天の儀式の記憶である。皮肉な事であるが、地上の記憶は忘れてしまうが、逆に昇天の儀式の記憶は魂に刻まれているのである。
 
 さて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンが、もし天人の音楽ではなく、神曲「パッヘルベルのカノン」だったらどうなるだろうか? カノンは、天から授かった人類史上最高のスピリチュアルな曲である。カノンは、一切肯定の曲である。記憶も含めて全てのこれまでの過去を肯定し、未来永劫に生きることを肯定する曲である。煩悩も肯定され昇華されていくことになる。これに対して、天人の音楽は、過去の生を無にするリセットの曲である。ある意味、対極にある。仏教的にいうと、阿弥陀教と法華経の違いである。
 あのシーンに、カノンを流すと、おそらく、かぐや姫の物語の意味が一変することになる。かぐや姫は自己の生を肯定し、煩悩の意味を転換し、昇天し、永遠の生命を生きることになる。
 そうすると、高畑監督が描こうとした物語のテーマを変えてしまうことになる。手塚治虫の火の鳥と同じになってしまう。カノンのスピリチュアルメッセージである「宇宙に存在するものには全て意味がある」が物語の意味を一変させてしまう。かぐや姫の物語から切なさが消えてしまうだろう。
 そうなると、かぐや姫が輪廻転生して再度地上界に生まれ、同じく来世でも夫婦になった竹取の翁のもとに子供として生まれないといけなくなっしまう。宇宙生命によって、がくや姫の煩悩は肯定されることになる。その際、カノンを流すべきである。カノンは生命の曲である。
 
 「魔法のプリセンセスミンキーモモ」を知っているだろうか? 実は、大体、 魔女っ子物シリーズは古典竹取物語の設定にモデルがある。 同作も設定が似ており、夢のファナリナーサから来て、地上世界の夫婦のもとで暮らするというパターンである。いずれ別れはやってくるが、その別れがかぐや姫と異なる。主人公のモモは、子供をかばって交通事故で死ぬが、今度は地上界の父母の本当の子供として生まれ変わることになる。まさしく、ミンキーモモの最終話こそが、かぐや姫の希望=煩悩の肯定の物語なのである。このような物語ならば、天人の音楽ではなく、生命の再生・誕生を肯定するカノンがふさわしくなるであろう。
 確かに「かぐや姫の物語」においても、ラストに地球を見て自然に涙するかぐや姫と月に映し出された赤ん坊のかぐや姫のシーンによって、地上界の思い出は煩悩の消滅した極楽浄土に行っても意識としての記憶からは消えるが、魂の記憶として未来永劫に残るという可能性を示唆して終わっている。
 しかし、それは、あくまでも魂の記憶としてであり、本当にまた地上界の懐かしき場所に帰ってくることができるかはわからない。だから、切なさが表現できる。そして、魂の記憶としてこの希望はかえって永遠化されることになる。
 私は、「かぐや姫の物語」に、魂に刻まれた記憶は永遠不滅である、というメッセージを読みとったのである。このメッセージを伝えるためには、天人の音楽による極楽浄土の描写がないといけない。カノンを使用すると、昇天によって記憶を永遠に魂に封じ込めるのではなく、命の再生のイメージとなってしまい、昇天が新たな別の生を生きるための儀式となってしまう。
 お迎えの場面のBGMをカノンにしたら、「かぐや姫の物語」は、魂の記憶の問題ではなく、永遠の生命(輪廻転生)をテーマとしたものとなってしまうのである。物語のもう一つの可能性として、それはそれでよしかもしれない。

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# by merca | 2015-03-21 15:51