国民性は、他国民につくられる。

 社会心理学では、アイデンティティは、他者との比較、集団への所属、他者からの評価によってつくられると考えられている。関係主義の公理からも、他者との差異関係がなければ、自己はない。
 このことは、国民社会レベルでも同じであり、一つの国民社会は、他の国民社会の存在を前提とする。一つの国民社会は、他の国民社会との区別によって成立する。
 同じく、国民性は、他国の国民性との比較、共通の文化圏や政治体制への所属、他国民からの評価によって構築される。
 例えば「日本人は礼儀正しい」という国民性は、他国民との比較や評価によって獲得されたアイデンティティであり、日本人がつくりあげたものではない。そして、日本人は国外において日本人らしく振る舞うことを要求される。また、社会科学的に国民性を調査する場合でも、基本的に他国との比較によって把握され、表現される。
 日本人の国民性は中国人の評価によって部分的につくられるし、中国人の国民性は日本人の評価によって部分的につくられる。韓国人、アメリカ人、フランス人、ロシア人・・・・全世界の国民も同様である。全ての国民社会の国民は、自身では国民性アイデンティティをつくることができず、他国に依存しているのである。
 言い換えれば、他国の存在を否定したり、他国との関係を断絶すると、他国と比較できなくなり、自らの国民性の否定につながるのである。
 
 奇妙なことであるが、国外においてこそ、日本人は日本人と見なされるのである。国外で「あなたは誰ですか」と聞かれたら、「私は日本人です。」と答えるであろう。国外においては、個としてよりも、日本国民として見なされてしまうのである。当然、敵国に行けば、個人の意思と関係なく、敵国民として非難・排除されるのである。
 反日教育で「日本人は悪い」と韓国人が思っていれば、善人の日本人が韓国に行ったとしても、日本人だから悪いと見なされるのである。罪のない個人がレッテルを貼られ、差別、排除、迫害がそこから生ずるわけである。ある人間を国民として観察するのか人類として観察するのか、その選択は、多くの場合、初対面の外国人であれば、国民として観察してくるであろう。
 つまり、他国民とコミュニケーションをとるためのメディアとして国民性はあるのである。国民性によって相手の反応を予期することで、複雑性を縮減し、コミュニケーションを可能にするのである。初対面の外国人であったとしても、その国の国民性がわかれば、コミュ二ケーションがとりやすくなるのである。そのように(自国民/他国民)という区別に準拠してなされるコミュニケーションは、国際社会システムを創発するのである。
 ちなみに国際社会システムは、世界社会とは区別される。国際社会システムのユニットは(諸)国民であるが、世界社会は人類がユニットだからである。つまり、全世界の異なる複数の国民社会から構成されるシステムこそが、国際社会なのである。また、国際社会システムの行政機関が国際連合である。
 
 ともあれ、国民の役割としての国民性は、国際社会において、他国民の期待によってつくられるのである。右翼は自国の歴史的伝統のみから国民性を導きだそうとしているが、他国民との差異と評価によって自国の国民性が形成されることに気づいていない。自国民が自国民は優れていると思っても、それは真なる国民性ではなく、単なる自己満足にしかすぎない。本当の国民性は、他国との関係で形成される対他規定性のものなのであるから。
 
 戦後の日本国民は、反戦主義の平和国家の国民として世界から期待されているのであり、その役割を遂行しなければならないのである。人類社会が進歩するために、世界からの期待として平和憲法が押し付けられたのは当然であり、戦争をしない国という役割を負わされてしまったのである。それが日本の宿命である。世界によってつくられた国民性である。
 日本国民は、戦後、「過去の戦争を反省する反戦主義の平和国家の国民」として役割期待を背負わされてきたのであり、この崇高な使命は、来たるべき世界(宇宙)社会の先駆けである。
 
 地球を外から眺める火の鳥(宇宙生命)は、日本国民たちを観察しながら、戦争を繰り返す人類がやっと自らの過ちに気づいたと思っているだろう。

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# by merca | 2015-02-01 23:23 | 社会分析

右傾化への対抗思想としてのクリティカルシンキング。

 今、世界が荒れている。人類は、(歴史的)事実という言葉に惑わされているのである。
 
 多くの日本人たちが、中国が言うような南京大虐殺、韓国が主張するような従軍慰安婦問題は存在しないと思うようになり、謝罪する必要がないと考えるようになっている。
 
 小林よしのりの「戦争論」というトンデモ本からはじまる新世代の保守右翼思想は、多くの若者たちに流布し、在特会、某国のイージス、KAZUYAなどのネットを中心とする右翼思想家が登場しだした。
 そして、これらのネット右翼思想のおかげで、ネットでは南京大虐殺や従軍慰安婦問題が事実であると主張する日本人はほとんどみかけなくなってしまった。
 おそらく、仮に南京大虐殺や従軍慰安婦問題が事実であると主張するブロガーがいたら、ネット右翼たちから攻撃され、炎上するものと考えられるのである。言論が一元化している状況は異常とも言えるが、つまるところ、南京大虐殺や従軍慰安婦問題が虚構であり、中国と韓国の言いがかりとして、多くの日本人が受け取るようになって来たという証拠である。
 ネットで南京大虐殺や従軍慰安婦問題は虚構であるとの発言が溢れかえっていると、それを見た一般大衆はいとも簡単に南京大虐殺や従軍慰安婦問題は虚構であると思い込んでしまうのである。今や新聞よりもネット言説のほうが正しいと思われる傾向がある。
 
 というのは、一般大衆は、一人の新聞記者の記事よりも、多数の人が支持していることが正しいと信じるからである。
 社会心理学者アッシュの集団力学の実験でも明らかなように、人の判断は多数の人の判断に作用されるのである。また、社会学者トマスの公理「人々がそれをリアルだと信じれば、結果においてもリアルになる」がはたらいているのである。このような社会学や心理学という人間科学の知識から観察すると、ネット言説の多さが、社会的事実を作り出すということになる。
 
 しかし、純粋に物理的リアリティとしての事実だけに向かい合うことができる人たちが日本に唯一いる。ニセ科学批判者たちである。ニセ科学批判が準拠するクリティカルシンキングの立場から、南京大虐殺を分析したサイトがある。
  「目からウロコの南京大虐殺論争」
  http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin00.htm#mokuji
 
 同サイトの山本弘氏は、ニセ科学批判の源流であるト学会なる組織の開祖であり、科学的根拠のないトンデモ本を取り上げて批評、批判する活動をしている。いわゆるトンデモ本おたくである。
かなり昔になるが、戦争論に対してトンデモ本としてレッテルを貼り、論争を繰り広げている。そして、どうみても、科学的には山本氏のクリティカルシンキングのほうが正しく、小林よしのりは間違っている。中国のいうような30万人を虐殺したのは事実ではないが、数万人(少なくとも1万人)は殺害したことは事実であるという山本氏の結論は、妥当であり、正しいと思った。数万人殺害したのなら、十分、謝罪を要求する国際的に正当な理由となる。数万人の南京大虐殺は存在したのであり、その歴史的事実に向き合っていると思われていないので、よけいに中国の反日教育に拍車をかけているのである。数十人しか殺害していないとする虐殺まぽろし派の小林よしのりの戦争論は、物語にしかすぎない。その虚構を真実と勘違いして自己正当化してできあがったのが、ネット右翼である。
 私はニセ科学批判批判者であるが、山本弘氏のクリティカルシンキングによる分析は賞賛に値する。もし中国側と歴史的事実をすり合わすのなら、クリティカルシンキングによって慎重になされるべきである。
 
 一方、小林よしのりの戦争論は、歴史書ではなく、思想書として人々は受け取るべきであったのに、歴史的事実として受け取った未熟な人たちがネット右翼になり、KAZUYAなどの若手右翼思想家を生み出して来た。小林よしのりは、事実に準拠する歴史家ではなく、価値観に準拠する漫画思想家である。だから、自らの漫画思想書によって、日本国民としてのアイデンティティを提供し、多くの人たちの自我統合をもたらし、初期ネット右翼を生み出して来た。実は、人々に日本国民としてのアイデンティティを供給する点では、平和思想、反戦思想を団塊世代の人々に伝えた「はだしのゲン」と同じである。システム論社会学の観点からすると、内容は正反対であるが、「戦争論」と「はだしのゲン」は機能的に等価である。戦争論は、「はだしのゲン」にとって代わり、見事に多数の人々における日本国民としてのアイデンティティの書き換えに勝利したのである。

 ところで、「目からウロコの南京大虐殺論争」における山本氏の結論については、異論がある。これは、山本氏が深く社会学を勉強していないことからくる。山本氏は、日本が中国に謝罪するというのではなく、実際に中国人を殺した日本人が殺された中国人やその遺族に謝罪すべきだと結論付け、日本人全てが謝罪する必要はないと主張する。そして、一部の日本人の属性をあたかも日本人全体の属性と決めつける思考の誤謬(部分の全体化)を差別的認識として批判する。
 山本氏の考え、つまりクリティカルシンキングからは、日本国民は謝罪する必要はなく、殺人の当事者らが個人として謝罪すべきだとする結論となるが、それは科学的には正しい。
 しかし、これは国際的には通用しない論理である。殺人の当事者が個人として謝罪すべきで、関係ない他の日本国民は謝罪しなくていいという主張をすると、中国も韓国も怒るであろう。
 
 中国や韓国は、戦後生まれの戦争に関係のない世代であっても、日本国民なら謝罪しろと求めてくるであろう。というのは、虐殺が国家の軍隊組織の役割として遂行されているかぎり、国家の責任となり、同時に国家の責任とはそれを支持した国家に属する国民の責任となるからである。日本人は、個人責任はないが、日本国民の役割行為として反省・謝罪する必要があることになる。少なくとも自虐史観の国家観からはそうなる。一個人として、あるいは一人の人間として、謝罪するのではなく、日本国民として謝罪することになる。
 戦後日本においては、反戦平和思想と平和憲法を尊重し、侵略戦争を反省することが日本国民の役割義務となってきた。つまり、日本国民の国際的役割概念の中にアジア諸国への謝罪と反戦の誓い、平和憲法遵守が含まれていたわけであり、右翼が批判する自虐史観の左翼知識人たちは、反日・売国奴であるどころか、かえって国際社会における日本国民の役割義務を果たしていたことになるのである。ちなみに、この日本国民の国際的役割に意義申し立てをしたのが他ならぬ戦争論である。
 従って、実は、社会学的には、右翼よりも、戦後民主主義者のほうが義務として平和憲法の精神を遵守しており愛国的なのである。この点、全く誤解されているようである。
 
 話を戻すと、山本氏の結論は、確かに自然科学的には正しい結論であるが、役割存在という社会的次元についての認識がないめために、社会科学的には間違った結論となっているのである。
 もし国家がなければ国家の役割としての軍隊もなく、戦争もなく、虐殺は存在しないわけである。虐殺の主体、犯人は個人ではなく、国家共同体=社会という化物なのである。この化物が人々に役割義務を内面化させることで、戦争という殺人をもたらすのである。それを殺人した軍人たちが個人として謝罪することだけですませるのは筋違いである。
 部分の全体化は認識論的誤謬であるが、部分の中に全体が入り込み、社会的なるものが創発されると、この誤謬が正しくなるのである。

 とはいえ、ト学会開祖である山本氏やニセ科学批判者たちの批判的思考が、虚構に彩られた吉本隆明などの戦後民主主義にとってかわり、右傾化に抗して、日本の平和主義を支える思想になる可能性がある。
 右翼に負けた戦後民主主義者はだらしないが、クリティカルシンキングなら、小林よしのり、在特会、KAZUYAなどの右翼思想に対抗できると思う次第である。思想多様性のためにも必要である。

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# by merca | 2015-01-24 11:19 | 社会分析

近代化の一貫性社会変動論

 アジア社会は、後発的近代化の道を辿っている。
 
 近代化とは、経済においては資本主義、政治においては民主主義、法においては人権主義と平等主義、教育においては学校主義、学問においては科学主義、思想においては言論の自由、宗教においては信教の自由、対人関係のスタイルは個人主義、軍事外交は平和主義、家族においては核家族主義となることをいう。それぞれの社会領域において、かくのごとき価値観が原理となる現象が近代化なのである。日本社会のように後期近代化社会=成熟社会に移行しても、あいるはポストモダンに突入したと主張しても、これらの近代的価値観は依然として根本原理のままである。
 
 どの社会領域から近代化するかは、国によって異なってくるが、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義は、近代的価値のセットとなっており、究極的には切り離すことはできない。これらは、近代化の尺度となり、これらが達成されている国は近代化されているのである。
 また、一つの社会領域が近代化すると、自らを維持するために、別の社会領域も近代化せざるを得なくなるのである。例えば、思想において言論の自由が進むと、政治の分野においても民主主義を採用ざるを得なくなってくる。言論の自由はあるのに、政治体制だけが全体主義という社会は不整合であり、その不整合を正すために社会変動が起きるわけである。
 
 ルーマンのシステム論的社会学では、各社会領域については、経済システム、政治システム、法システム、学システム、教育システム、宗教システムなど、自律的な機能システムとして記述する。こられの異なる機能システムが近代社会では、先述の近代的価値観でプログラミングされていることになる。それぞれの機能システムはコードによって自律的に閉じているが、一つの機能システムは、別の機能システムとの関係によって制限を受けることになる。
 また、異なる機能システムどうしの相性の良さを構造的カップリングという。例えば、資本主義をプログラミングした経済システムと民主主義をプログラミングした政治システムは相性が良く安定性がある。
 
 ここから一つの社会変動論を構築することができる。構造的カップリングによる社会変動論である。システム論的社会変動論である。定式化していうと、優位な社会領域システムに合わせて他の社会領域システムが構造的カップリングするように変動することになる。システム相互の力関係に左右されるものと考えられる。近代化については、近代的価値の一貫性による構造的カップリングが必要となり、そのような方向で各社会領域において社会変動が起るのである。
 
 アジア社会を見ると、中国社会では、政治システムが民主主義ではなく、近代化されていない。香港や上海で資本主義を採用しているが、政治システムと経済システムの構造的カップリングが悪く、経済が発展すると、自ずと民主主義国家に変わることになる。
 すでに、香港では自由選挙制を掲げて民主化を求めてデモが起っているが、システム論的社会変動論においては、当たり前の社会現象である。経済が近代化されると、他の分野も近代化されることになり、政治システムが民主主義を採用せざるを得なくなるのである。資本主義を維持するためには、自由選挙制=民主主義が必要である。また、民主主義を維持するためには資本主義が必要となる。
 
 世界は、資本主義、民主主義、人権主義、学校主義、科学主義、自由主義、平等主義、個人主義、平和主義、核家族主義に基づく近代化の方向に進んでおり、この流れをとめることは、今の人類にとっては不可能である。国連も準拠するこれらの近代的価値に共通する根本原理の正体は何か? これには私も哲学的関心を抱いてしまう。
 
 いずれにしろ、この流れからすると、究極的にはマルクス主義と国家主義は消滅することになり、非マルクス主義的左翼=ハイモダン主義が勝利することになるだろう。
 皮肉なことだが、ネット右翼も歴史に対する事実主義(科学主義)という近代的価値を採用する限り、自己の思想に不整合が生じ、近代的価値全体に取り込まれ、国家主義を捨てる方向に向かうことになるであろう。右翼にも左翼にも言いたいが、近代的価値という文化を越えて伝播する人類普遍の価値(と思われる)についての哲学的考察を怠ることなかれである。
 
 左翼であれ、右翼であれ、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義のうち、どれか一つでも近代的価値観を受け入れると、思想に論理的一貫性を保つために、近代的価値全体に染まってしまうことになるだろう。

 
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# by merca | 2014-11-23 09:41

社会的包摂主義ファシズムの対抗思想としての切断論

 福祉の道に進んだ人たちや反貧困主義者は、(包摂/排除)という区別から社会を観察し、排除型社会を否定し、包摂型社会を理想としている。民主主義や平和主義という政治思想よりも、包摂主義を尊重する思想的傾向にある。また、政治家も官僚も基本的に包摂型社会を支持しており、包摂主義に準拠した施策を打ち出している。このように社会的包摂主義は、あらゆる分野において民主主義にとって変わる価値観になりつつある。
 包摂型社会とは、雇用、教育、経済、法律、科学、医療、政治、スポーツ、芸術等のあらゆる社会の分野において、特定の負因をもった人々が排除されず、コミュニケーションに参加できる社会をさす。正社員と非正社員の二極化社会に対する批判にかかる言説なども、この系譜に属する思想である。反貧困主義者たちが、階級闘争によって社会革命を起こそうとするマルクス主義(共産主義)に安易に吸収されないのは、包摂主義の価値観を所有しているためである。日本社会におけるあらゆる立場の人々に、包摂主義は浸透しており、共通の価値観になりつつある。
 しかし、一部には違う動きもある。例えば、ニセ科学批判のように、科学的コミュニケーションから、クリティカルシンキング(批判的思考)を欠いた疑似科学を排斥するという排除主義も認められる。疑似科学を科学として包摂する寛容性や価値観の多様性は、ニセ科学批判者にはない。同じく、ネット右翼のように政治的コミュニケーション等から外国人を排斥しようとする排除主義も認められる。とはいえ、包摂主義が現代社会の中心的価値観を占めつつあるということに変わりはない。
 
 論理的には、包摂主義は、民主主義と同じであり、論理的矛盾のある思想である。包摂主義は、排除主義を包摂しても排除しても、論理的に成り立たず、自己言及のパラドックスに陥るからである。一方、排除主義は、論理的には、包摂主義を排除することで論理的一貫性をもち、自己言及のパラドックスに陥ることはない。
 その意味で、排除主義は、道徳的には人々に賛同されないものの、論理的には包摂主義に勝ることになる。従って、論理的純粋性を尊重する人たちは、排除主義の立場をとるであろう。ニセ科学批判者しかり、ネット右翼しかりである。そして、さらに言うと、接続過剰社会を批判する切断論者もそうである。包摂による自己矛盾を抱えたくないために切断論者は、多様な存在との関係を断ち切り、自己の論理的一貫性を保とうとするのである。
 
 社会学的には、(包摂/排除)という区別は、そのまま(接続/切断)という区別に対応し、同じ内容を別の言葉で表現しているだけであり、機能的等価である。包摂されているものは接続されつながっており、排除されているものは切断され分離しているのである。
 従って、究極のところ、哲学者千葉雅也の切断論は、排除主義のカテゴリーに入るのである。接続過剰社会は包摂過剰社会と同義であり、接続過剰社会批判は包摂型社会批判でもあるのである。
 放浪生活を好んでしているホームレスに社会的包摂を勧める反貧困論者は、切断論者から根本的に否定されるであろう。社会的孤立者の中には、自ら自己選択で社会からの切断を望んだものがいる。にもかかわらず、強制的に、包摂主義者は、自己選択・自己責任でホームレスになった人たちを包摂し社会に関係づけようとするのである。包摂主義ファシズムである。
 
 実は、このような包摂主義ファシズムに対抗できる哲学的根拠を示したのが、千葉氏の切断論となるのである。切断論の本質は、排除論なのである。自己を束縛する社会(関係)を自己から排除することを唱える。
 そこで、包摂主義の流布や包摂主義に基づく国家の施策(ニート・ひきひもり支援など)によって、接続過剰型社会が生み出され、身動きがとれなくなっている人たちが多くいるという社会診断が正しいかどうか検証してみる必要があるのである。
千葉氏の切断論は、湯浅氏の反貧困論(社会的包摂論)とは逆の提案をしているわけであるが、それが有効であるためには、包摂を望む人たちと切断を望む人たちが、どれだけ社会にいるのか社会調査が必要かと思われる。有効な包摂主義ファシズムへの対抗思想になるかどうかはそれ次第である。 
 
 ここからは社会的予言をしておこう。社会学者ルーマンによれば、社会進化は分節化、階層化、機能分化(近代化)の段階で進んで来たが、今後、未来社会は(包摂/排除)に基づいた社会分化に進む可能性があると指摘している。おそらく、それは、社会の内にいることも社会の外にいることも、同時に肯定されるような社会であろう。社会の内を居場所とすることも、社会の外を居場所とすることも、自己選択することができる社会であろう。

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# by merca | 2014-09-07 10:29

千葉雅也の切断論に対する哲学的批判

 哲学者・千葉雅也が切断論において唱える切断とは、非意味的切断のことである。非意味とは、自己選択によらない偶然の切断のことを指している。この点、ルーマンの自己選択=意味による複雑性の縮減とは根本的に異なる形而上学的概念であり、意識レベルではなく、存在レベルで語られている。
 
 意識レベルでは、存在論的に接続していても、意識の外においやることで、切断することはいくらでも可能である。つながっているもの全てを意識しているわけではなく、意識は常に意識されるものとされないものの区別をもち、意識化された事物のみを接続していると認識する。意識化されたものは認識作用を通じて接続されていく。そもそも、意識とは、意識化されていないものを意識するとともに、すでに意識化されたものを意識の外においやる運動である。接続と切断を同時に行う運動である。意識は、意味によって接続と切断を同時に行う同時的弁証法なのである。
 一方、切断論のいう非意味的切断(あるいは非意味的接続)は、このような意識が行う接続・切断運動のレベルではなく、意識の外での出来事であり、存在論レベルのことを指している。

 簡単に言うと、もともと永遠に無関係な存在どうしがあったり、切断されたら永遠に無関係になるものどうしがあったりするということである。しかし、そのような存在論は、関係主義に基づく哲学や仏教思想では否定されている。一切は一切のものと関係しているとする形而上学とは真っ向から対立する。全てのものは差異関係にあるという構造主義、全ての存在は関係し合っているとする縁起の法、それに全ての存在が全ての存在を映し出すというライプニッツのモナド論とも相容れない。
 
 このような関係主義の哲学を否定するために、千葉氏は、関係の外在性という観念を持ち出す。関係の外在性とは、関係が変わっても、関係項の本質が変わらないという原理である。例として、コップはテーブルの上にあるという位置関係を持ち出す。確かに、コップをテーブルから離しても、コップはコップとして変化しない。位置関係が変化しても、関係項の観念は変化しないわけである。コップの内的本質にとっては、テーブルは無関係であり、テーブルとの関係には左右されず、分離されているというわけである。コップが存在する原因はテーブルであるとは言えない。

 しかし、この議論には、この性=単独性が抜け落ちている。このコップがこのテーブルの上にある場合、このテーブルにのっている状態があってこそ、このコップをこのコップと指し示すことができる。このテーブルの上になければ、このコップではなく、別のコップになってしまう。このコップは、このテーブルの上にあることによって、このコップたりえ、あのコップと個別的に区別されるのである。このコップと別のコップの区別は、位置関係も含めて全ての具体的状態を含んでいる。世界に一つしかない個別=単独のものとしてコップを捉えると、このテーブルの上にあるという位置関係は根本的に重要である。このコップがこのテーブルの上に存在することによって、別のコップがこのテーブルの同じ位置に存在することができない関係にあるのである。かけがいのない今の瞬間にどのような具体的状態にあるのかという、この性は、明らかに全ての存在との位置関係に規定されている。
 そもそも、ライプニッツ の不可識別者同一の原理からしても、この世に同じ位置を占める存在はなく、全ての存在が全ての存在と異なるという関係性でかえって結合されているのである。
 
 実は、千葉氏の切断論は、一見、存在論を装いながらも、個別的関係=存在論的関係をコップの概念の同一性の問題にすりかえているのである。具体的個物は、他の具体的個物との関係によって、具体的個物足り得るのである。私の考えからすると、関係の外存性は、むしろ概念のレベルあるいは意識のレベルで成り立つのであり、存在論のレベルでは成り立たない。
 
 いかなる切断、無関係化も、存在論のレベルでは不可能である。そもそも、関係の存在形式には、最初から項と項が区別=切断されていることと同時に、項と項が不可分で同一であることが含まれている。関係性とは、切断=別異と接続=同一の二つの要素を含むのである。もし関係するものどうしが完全に同一なら関係は成り立たないし、もし完全に別異ならば無関係となり成り立たなくなる。関係するものどうしは、同一でもなく、別異でもなく、同一かつ別異でもなく、それら全てを離れても成り立たないと表現する他ない不思議なるものであり、それが存在の実相である。
 また、このような同一性と別異性を含んだ一切と一切の関係の形而上学は、ホーリズムに還元されず、他者性も確保できるのである。ジャン=リュック・ナンシーの「複数にして単数の存在」などにも、関係項どうしが同一性と差異性を含むものとして捉えられているが、ホーリズムに陥っていない。レヴィナスにおいても、他者性は他者との完全な切断ではなく、むしろ顔と顔の関係性のおいて捉えられている。
 関係性が即ホーリズムにつながるという千葉氏の思考は短絡的である。むしろ無関係性が独我論に陥るという論理的必然性こそを見極めてほしい。
 
 ちなみに関係しているものは常に変化している。静止していては、互いに影響を与えていないことになり、関係していないことになるからである。関係することと、変化することは同一である。縁起の法と所行無常は同一である。変化するとは、関係する他者と関わる側面を変えていくことに他ならない。接続している部分と切断されている部分を変えていくということである。

 完全に無関係なものどうしは、論理的に互いを認識できないことになり、相互に独立したバラバラな独我となる。認識もできないし、関わることもできないものは、我々にとって存在しないのと同じであり、哲学的に思考することもできない。別の言い方をすると、世界には、関係の中にないものは存在しないのである。
 さらに、世界には究極的に一つの全体的存在しか存在しないというホーリズムも独我論=実体論である。世界に一つの存在しかないのなら、関係はあり得ない。関係は複数の存在が必要だからである。同じく世界には互いに影響を与えない存在がバラバラに存在するという原子論も、自分以外の存在を必要としない独我論=実体論である。ホーリズムも切断論(無関係論)も、他者に依存しない独我論という点においては全く同一である。切断論だけではなく、その反対であるホーリズムも関係性を否定する世界観であるという論理が千葉氏には全く哲学的に理解できていない。千葉氏は、ホーリズムこそが関係性を否定する形而上学であるということがわかっていないので、レヴィナスやナンシーの哲学も理解できていないと考えられる。千葉氏は、一切の存在が実体なき空なるものであるという龍樹の中論を勉強し、出直すべきである。
 
 最後に切断論を脱構築しておこう。
 切断とは接続されているものを切断するわけであり、接続とは切断されているものを接続するわけであり、そのような運動としてしか捉えることができず、接続と切断は関係し合っており、互いに前提となっている。接続が絶対あり得ない非意味的切断のような完全な切断は、自己矛盾的であり、決して成り立たない。完全な切断は、接続を肯定しても否定しても成り立たない。

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# by merca | 2014-06-15 23:10 | 理論

千葉雅也の「切断論」よりもルーマンの「複雑性の縮減」の方が有効

 哲学者・千葉雅也が「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物を世に出した。日本のポストモダン思想の系譜でいうと、浅田彰の「構造と力」、東浩紀の「存在論的、郵便的」に続く大作であると騒がれており、注目されている。余談ではあるが、この人物が若手社会学者・古市憲寿と手を組むと、どうなるのか楽しみである。
 しかし、千葉氏が唱える「切断論」は大した思想ではない。接続過剰社会において、多数の関係に束縛され身動きが取れなくなることから解放されるために、自由に接続したり切断したりしながら生きようということに他ならない。言っていることは、おそらくノマド論と変わらない。
 
 千葉氏は、このような切断論を唱える思想的根拠をドゥルーズの哲学に求める。要約すると、ドゥルーズの哲学が、世界の連続的同一性(ホーリズム的関係主義)を唱えるベルグソンの生の哲学と世界の切断的原子論的世界観(無関係主義)を唱えるヒューム哲学の中間にあることを確認した上で、あえて切断の重要性を強調する。切断がなければ、個体の生成も他者性もなく、全てが一体化した世界に飲み込まれるというのである。最後に、神のモナドを抜いたモナドロジーこそがドゥルーズの哲学の究極的立場ではないかと類推しているように読め、千葉氏が唱える切断論の哲学的根拠をそこに定めている。
 かなり大雑把な要約で申し訳ないが、結局、思想的本質を述べるとかようになる。これ以上これ以下でもない。全体性や同一性を否定・批判する思想的傾向は全くポストモダン思想のそれであり、進歩はない。共同体や連帯性を主張する右翼思想や絶対主義を主張する左翼思想とは異なり、やはりポストモダン的である。
 ただし、これまでのポストモダン思想と少し異なる点は、切断論による関係主義批判を強調した点である。全てのものは差異関係の中にあり、実体がなく、相対的であるというポストモダンの関係主義から距離をとっている。全体性に準拠するツリーの関係のみならず、横の関係=リゾーム的関係も過剰ならば切断すべきだと論じている。全体性や共同体に包括されない単独的関係=非対称的関係も絶対化しないところに少し斬新さがある。現代社会が接続過剰であり、人々が身動きできなくなってしまっているという感覚があるのだろう。若者や老人の孤独化が問題視されるなか、逆に切断論は孤独化・原子化を勧める。接続可能な社会という言葉も流行っているが、その反対を主張している。

 千葉氏の切断論は、そもそも(接続/切断)という区別に準拠しているわけであるが、この区別に対して(全体/部分)と(現実態/可能態)という二つの区別から第二次観察していくことが可能である。
 例えば、あるものに全ての側面において接続しているのが嫌なだけであり、部分的に接続しているくらいなら接続を否定する必要はないかもしれない。何をするにも全てその人と一緒だと窮屈だが、部分的にある時間帯だけつき合うならかえってよいとも言える。全面接続による包括化は不自由だが、部分接続なら自由は確保できるのである。
 また、現実に接続している人、切断している人と、これから接続していく人、切断していく人を区別しておくことができる。全ての人との接続可能性と切断可能性を温存させておき、状況に応じて自己選択し、接続したり切断したりしていくことも可能である。
 このやり方は、ルーマン社会学における複雑性の縮減と同じである。各種のゼマンティクを使用し、あるものを接続するとともに、あるものを切断し、またその反対の可能性も温存していくのである。
 
 ルーマン社会学では、そもそも世界は無限の複雑性として前提されており、意識システムにとっては、接続過剰であるので、この複雑性を概念によって処理して縮減する。完全な切断や接続によって複雑性を処理するのではなく、部分的に接続・切断し処理する。現代成熟社会では、切断論に頼らなくても、社会システム論的には、コミュニケーションメディア(貨幣・権力・真理・愛など)によって接続過剰性は処理されているのである。
 千葉氏の切断論は、接続過剰社会における処方箋としては、単純すぎると言わざるを得ない。単につき合う人とそうでない人を整理しましょうみたいな話にしかならないだろう。あるいは過剰な対人関係から退却して無人島や山ごもりするという話にしかならない。そうではなく、社会システム論に基づく処方箋では、違うコードでコミュニケーションをして関わり方を変えることで、過剰な関係を縮減し無害化することも可能なのである。
 
 ともあれ、浅田彰の逃走論のように、千葉雅也の切断論も一つの思想として若者の価値観に採用され、生活スタイルに影響を与えていくか見ていきたい。切断論は、スローライフを重んじるメンタル系の若者やひきこもりには流行りそうな気がする次第である。

 余談
 ちなみに、ニセ科学批判者の視点からすると、おそらく「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物は、科学的実証性を欠く、わけのわからない空想であると相手にされないであろう。社会調査もなしに社会を語るなという人もいるだろう。

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# by merca | 2014-06-11 00:02 | 理論

ヒュームの連合観念説の誤謬

 ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である。要するに、連合観念説によれば、因果律は、人間の習慣的思い込みの結果にしかすぎないというわけである。人間主観が観念と観念を結合させるだけであり、対象の側にはその結合の根拠はないというわけである。
 実は、このヒュームの連合観念説には、大きな誤謬がある。ヒュームは、人間の認識が、結合を本質とするのではなく、区別を本質とすることを理解していない。ここに問題がある。詳しく説明しよう。
 人間は、対象世界を区別して分割して観念をつくりだすのであり、その逆ではない。つまり、不可分の連続する対象を区別して分割し、事物を認識するわけであり、従って区別されたものどうしは、本来、対応関係にある。一方がなければ、他方はないという相互依存関係なのである。人間が無理矢理区別して分離したにしかすぎないわけである。人間は、連続している対象世界を分割して、ひきちぎり、独立した別個の存在として一つの観念を形成するわけである。
 分離観念説が認識の本質なのであり、連合観念説は成り立たない。事物を区別・分離して観念を形成するわけであり、分離された観念どうしはそもそも不可分で関係しており、因果関係は成り立つのである。過去、現在、未来という時間の流れは連続しており、人間が恣意的に分割し、過去、現在、未来という三時の観念をつくりだしたにすぎない。本来、それらの観念が指し示す対象は、不可分の連続である。
 逆にいうと、ヒュームの連合観念説が成り立つためには、一切の存在が孤立的で無関係に存在し、はなから分離されているという形而上学=世界観が正しい場合だけである。しかし、このような無関係的世界観は、そもそも矛盾的で成り立たない。認識主体と対象も無関係だということになり、認識作用が生じて印象や観念が形成されることが不可能となり、認識論の一種である連合観念説もパラドクスに陥ることになるからである。
 ヒュームの連合観念説は、究極的には独我論にいきつく他ない。事物を結合するのが人間の認識であると勘違いしたヒュームははなから間違っているのである。認識論における初歩的なこの間違いに気づかず、未だにヒュームの哲学を信奉する学者がいるのが不思議である。

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# by merca | 2014-06-10 22:00 | 理論

国家主義(右翼)も戦後民主主義(左翼)も同じ。

 今や日本社会は二分されている。二つの思想にである。国家主義と戦後民主主義の二つにである。国家主義とは、国家の目的のために個人が存在するという価値観に準拠しており、個人や家族の命よりも国家の存亡のほうが大切だとする思想である。戦前は、その思想を強制され、戦争に駆り出され、多くの人々が命を失い、自分の家族も失った。
 戦後民主主義とは、そのような軍国主義的な国家主義に対する反省のもとに、反戦主義・平和主義を中心に社会の民主化を唱える思想である。戦後民主主義を植え付けられることによって、日本人は日本を侵略した敵国アメリカを恨むことなく、復興を遂げてきた。 アメリカによって真の自由がもたらされたと思ったわけである。このような戦後民主主義の思想は、朝日新聞等のマスコミや左翼政党に受け継がれた。そして、自らは代案を示すことなく、闇雲に時の政治体制を批判することを役割としてきた。政治・国家を批判することで、社会はよくなると考えていた。
 しかし、戦後民主主義は、現実を直視しない理想主義のために、小林よしのりなどの事実主義を標榜する右翼思想家や保守政治家たちに批判され、今や衰退している。戦後民主主義者や護憲論者の主張は、事実認識があまく、論理的ではなく、頼りないイメージがある。基本的にマルクス主義的な左翼発想に準拠しているので、非科学的であり、そこが限界であったと言わざるを得ない。戦後民主主義を基礎付ける社会理論が左翼系のマルクス主義ではなく、全く別の社会学理論であれば、戦後右翼の事実主義者たちに太刀打ちできたであろう。戦後民主主義=左翼が敗北した理由は、マルクス主義しか理論がなかったからである。社会理論の貧困である。マルクス主義とは無縁の社会理論を取り入れる知的才能がなかったのである。

 さて、国家主義(右翼)と戦後民主主義(左翼)は、前提を共有しており、同一だと人々は気づいていない。この盲点は、社会システム論のみが指摘できる。何が同一かというと、両者はともに政治主義であるということである。つまり、政治のあり方が変われば、社会が全て変わるという発想である。政治が社会をよくするという考えは、政治以外の社会の分野での活動を見えなくしている。いうまでもなく、人々は政治の中だけでは生きていない。
 最高の理論社会学的立場からいうと、後期近代社会においては、法システム、政治システム、経済システム、宗教システム、教育システム、科学システム、芸術システムなど、社会のそれぞれの分野が自律的に機能分化し、上下関係がなくなる。完全な成熟社会では、原理的に、一つのシステムは他のシステムに還元されず、支配されず、対等である。
 しかるに、国家主義も戦後民主主義も、政治システムが他の全てのシステムを統制する力をもつと考えている。確かに、戦前の軍国主義社会や共産主義社会では、政治システムが教育システムを支配し、国民を洗脳することがよくおこる。ある意味、中国社会や韓国社会も、戦前の日本軍国主義社会と同型の政治優先社会てあり、政治システムが教育システムを利用し、反日教育によって国民を統合しようとしている。しかし、社会進化論的には、このように一つのシステムが他のシステムを従属・支配するという構造の社会は、遅れているのである。また、社会病理学的には、社会構造にまつわる社会病理現象である。
 このように政治システムが他のシステムを従属させる社会病理現象を政治システムの中心化現象と呼ぼう。戦争がおこる条件の一つして、政治システムの中心化現象がある。例えば、経済システムを優先させれば、国家間の戦争は怒りにくくなるだろう。ある意味、政治に無関心な人々が多くいる社会ほど、成熟しており、平和である。
 経済システムにおいては、他国の会社との貿易なしには考えられず、多国籍企業も増えている。国家間の戦争は経済活動の妨げになる。科学システムは、既に国家の壁を越え、人類共通の知的財産の累積をつくりだしている。科学的知識の真理性は、国家によって左右されない独立性をもっており、科学には国境はない。また、宗教にも国境はなく、世界宗教は全世界に伝播している。教育においても、学校制度によって、組織(ゲゼルシャフト)への適応と科学的真理の伝授が行われている。法律においても、人権思想をベースに国際化してきている。人権に反する行為をした国家は国際的に弾劾される。各国の法律は、自由と平等という一つの方向性に収斂しつつある。芸術の分野では、日本のアニメも中国や韓国、そして全世界に受容されている。ディズニーはアメリカだが、全世界を相手にしている。政治システム以外の分野では、国境や政治的成果は二の次であり、異なる目標によって動いているのである。政治システムの目標とは関係なく、他のシステムは稼働しているのである。

 政治によって社会を変えようとするいかなる目論みも時代遅れである。政治主義を標榜する限り、国家主義も戦後民主主義も同じであり、限界がある。政治の口出しできない領域を確保していき、政治(あるいは国家)システムの肥大化を押さえることが、他のシステムを健全化させ、世界平和につながるのである。

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# by merca | 2014-02-11 10:31 | 社会分析

国家主義による俗流日本人論、俗流韓国人論、俗流中国人論

 非常に単純なことであるが、社会学から冷静に分析すると、反日・嫌韓・反中は、全て国家主義が原因である。このような社会学的的真理が分かっていない連中が騒いでいるだけなのである。
 万民に対して、社会学的啓蒙を施すと、たちどころに、反日思想、嫌韓思想、反中思想の束縛から人々は解き放たれるであろう。

 (国民社会/世界社会)という区別に準拠して観察すると、反日思想、嫌韓思想、反中思想は、国民社会の次元におけるイデオロギーだということになる。
 韓国が国家として反日教育を行い、自国民を洗脳しているが、これは人々に対する国家主義の押し付けにしかすぎない。親日を選択する自由を国家が剥奪しているのである。端的に、国家による思想の自由の制限という人権侵害である。
 そもそも日本人全てが悪であるという思想を国家が植え付けているのがおかしい。社会調査によって、日本人に対する道徳観・倫理観を調べて統計的に分析したことがないのに、日本人全てが悪であるという虚構を主張しているのである。これは俗流若者論よりひどい。韓国による俗流日本人論である。
 一方、日本社会では、国家が韓国人や中国人が全て悪であるという思想を植え付けたりはしていないし、特定の国家に所属する人たちを貶める教育など、非人道的であり、行ったりしない。
 しかし、日本でも国家主義に基づいて、韓国人や中国人に道徳性・倫理性が欠如していると主張し、ヘイトスピーチをしている連中もいる。科学的根拠なしに、俗流韓国人論や俗流中国人論を発する人たちが多くいる。また、非科学的な反中・嫌韓の憎悪本がよく売れている。
 
 国家が悪いことをしたら、その国家に属する全ての国民も悪いという思考形態は、社会学的に誤謬である。社会共同体と個に根本的差異があるという社会学的真理がわかっていない。
 韓国社会と中国社会に蔓延る国家主義者たちが、反日思想を自らの国民に植え付けているのである。一方、日本でも国家主義に基づき、ネット右翼などが韓国人や中国人に対する差別発言をしているのである。実は、あまりにも韓国国家や中国国家による反日発言が多いために、日本人による親中や親韓の発言はほとんどネットでは見られなくなってしまった。さらに、反日発言が経済・宗教・教育・芸術・スポーツなどの分野での庶民間の交流の障害になっている。
さらに、韓国による従軍慰安婦問題提起は、人権主義の立場から主張しているように装っているが、実は人権主義ではなく、国家主義であり、本質はなんらネット右翼と変わらない。韓国が、真の人権主義国家であれば、国家による反日教育の押しつけをやめるべきであろう。日本はアメリカに原爆を投下されたが、反米教育はしていない。万民の基本的人権が尊重されているので、ある特定の国を卑しめるような教育はしない。しかし、差別発言をするネット右翼は国家主義に基づいてるために、他国民にヘイトスピーチし、人権侵害をする。 
 ちなみに、社会病理学的には、皮肉な事に、韓国・中国による反日発言や反日行動がネット右翼層をつくりあけだ根本原因であり、ネット右翼のアイデンティティはかえって韓国・中国の反日に依存しているのである。

  さて、社会システム論的にいうと、国家主義社会とは、国家(政治)システムが他のシステムを支配する構造の社会である。全てのシステムが対等に機能分化している成熟社会とはかけ離れており、遅れた社会である。庶民は果たして政治システムを優先させる社会=国家主義的社会を望んでいるのだろうか? 中国、韓国、日本も、庶民のレベルでは、国家に束縛されず、豊かに自由に生きていきたいと思ってるのではないか?
反日思想、嫌韓思想、反中思想も、全て国家主義が正体であり、科学的根拠のない俗流日本人論、俗流韓国人論、俗流中国人論を生み出し、世界平和を乱し、経済・宗教・教育・スポーツ・芸術などの交流を阻害しているのである。

 人々は、経済・宗教・教育・スポーツ・芸術などにおいて世界社会の中で生きているのであり、国民社会の中だけでは生きていないのである。韓国も中国も日本のネット右翼も、国民社会を絶対化する価値観である国家主義に毒されているのである。
  私は、後藤和智のような狭い国民社会を範囲とした俗流若者論批判ではなく、世界社会に準拠した俗流日本人論批判、俗流韓国人論批判、俗流中国人論批判を展開する論客の登場期待しているのである。

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# by merca | 2014-01-25 10:07 | 社会分析

若者論に科学的根拠はいらない。

 俗流若者論批判で有名な後藤和智が、とうとう「「あいつらは自分たちとは違う」という病」という書物をだし、自らの主張を整理した。同著は、これまでの若者論が基本的に科学的根拠のない思いつきにしかすぎず、世代アイデンティティとして活用されきたと主張し、科学的根拠のある若者層の実態把握を提唱する。
 私は、当ブログにおいて、あらゆる学説や論は、真実か虚構か、また科学的か非科学的かに関わらず、思想として受容される可能性があると指摘して来た。若者論が若者や若者を批判する大人の側の自我統合=アイデンティティの統合(あるいは獲得に)をもたらすことは、社会学からは当たり前のことである。例えば、宮台社会学、反貧困論、ニセ科学批判などが、学問ではなく、思想として観察できると繰り返し述べて来た。簡単に言えば、思想として機能するとは、自我統合や社会統合(集団生成や社会規範の補強)をもたらすことである。各時代の若者論が世間に流布し、受容されるということは、人々にアイデンティティを付与することなのである。
 
 例えば、俗流若者論で登場するフリーター、ニート、ひきこもり、ヤンキー、おたくなどの若者概念は、若者自身の自己概念に採用され、若者自身がその価値観を内面化し、それを演じ、その結果、特定の若者層を形成するに至っている。これらは、若者が選択する生き方の種類であり、ある意味、人生の指南として機能する。
 実は、科学的根拠のない若者論が作り出した適応類型概念は、若者に影響を与え、自らの概念を社会的事実として成就させているのである。日本社会では、若者の実態が先にあるのではなく、若者論が先にあり、実態はあとでできあがることになるのである。無論、若者に採用されなかった若者論は、真実になり得なかった虚構として退けられることになる。
 
 社会心理学では、アイデンティティは、他者からの評価、他者との比較、集団への所属で獲得されるものである。つまり、「あいつらは自分たちとは違う」という差異化の意識が必要となる。一つの世代層は、他の世代層との比較によってしかアイデンティティを得ることはできない仕組みになっている。若者論は、必然的に比較論になる。たとえ科学的に若者の実態を調査しても、比較することなしに、その実態に意味を付与することはできない。そして、何と比べるかによって、意味が異なってくる。これは、貧困論も同じ構造を持つ。若者世代は、他の世代と比較して、規範意識が希薄だとか、個人主義的だとか判断することが可能になる。
 つまり、同一の実態調査でも、比較対象が異なると、全く世代の特性は異なって記述されることになる。さらに、何を比較対象とするかは、恣意的であり、調査者の目的や価値基準に左右される。例えば、調査によって現在の若者の平均収入がわかったとしても、どの世代と比較するかによって、異なった評価となるのである。ロスジェネ世代は、自分たちの世代は貧乏だと思っているようだが、バブル世代との比較にしかすぎず、戦前の若者に比べれば、かなり裕福である。
 若者に対する科学的調査であっても、結局は、比較対象選択の恣意性によって、解釈が多様になってしまい、真実は一つではなくなるのである。調査者自身の解釈の相対性を考慮しないと、本当の意味での科学性は担保できない。
 
 また、もし仮に統計的調査によって、世代別の実態が科学的に把握できたとしても、かえってアイデンティティとして利用されるであろう。つまり、科学的根拠というお墨付きになるので、よけいに採用されやすくなるであろう。後藤氏は科学的根拠のある実態把握であればアイデンティティとして利用されないと思っているようであるが、それは全く逆である。科学的根拠があると思えば思うほど、真実味が増し、人々にアイデンティティとして利用されるであろう。ニセ科学が流行る理屈と同じである。
 科学的根拠のある若者実態調査をするにしても、調査目的を明らかにし、その目的によって比較対象が選定された理由を説明した上で、人々に公表しないと、俗流若者論よりもひどい結果になるのである。古市氏は、現在の若者は幸福であると豪語するが、比較対象の恣意性を説明していないところに欠点がある。

 後藤氏は、「世代論を今一度科学や政策のフィールドに下ろして論じなければならない。」と述べ、若者論における世代論の不毛からの脱却を短絡的に科学的根拠のある若者の実態把握に求めているが、それは根本的解決にならない。
 そうではなく、原理上は、比較対象を変更することが根本的解決になる。つまり、他の世代の若者と比較してデータを解釈するのではなく、他県の若者との比較、異なる社会階層に所属する若者との比較、学歴別の若者の比較、他国の若者との比較などにすれば、世代論から脱却できるのである。科学的根拠があっても、世代ごとのデータを集めて世代間の比較によって分析する限り、世代論からは脱却できないのである。

 究極の立場からすると、若者論が人々にアイデンティティを供給することが役割であるとしたら、若者論にわざわざ科学的根拠は要らない。さらに、事実とは無縁な「べき論=若者への役割期待」でもかまわない。統計調査で対象とするのは、若者一般である。
 してみれば、若者一般は、実在しない虚構であり、個別対象としては存在しない。概念としてのみ存在する。若者一般は、後から構成されたものである。統計調査が若者一般をつくるのであって、統計調査の前にあらかじめ若者一般が存在するわけではない。

 参考
 ブロ教師の会の諏訪哲二は、「オレ様化する子供たち」という俗流若者論を展開している。彼は全国の子供に意識調査をして統計的に分析し、子供たちが自己中心的になっていると判断しているわけではないのに、「子供が自己中心的になっている」という仮説を事実のごとく語っている。しかし、諏訪哲二の仮説は、規範主義社会学的な視点(規範に従うことで秩序が成立するという立場)から多数の子供たちを観察した結果であり、教師としての彼の臨床的知識に基づいている。世代の異なる多くの子供を見て来ているのである。
 統計のように間接的ではなく、このように対象に直接触れていることで知ることができる事実がある。医者も臨床的知識に基づいて診断することがある。このようなプロの臨床的知識は、科学的知識よりも確かであることが多い。

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# by merca | 2013-12-01 23:57 | 社会分析