人気ブログランキング | 話題のタグを見る

科学的知識とは、一種の推論である。


 科学的知識は、実験と観測による仮説の検証によって得られる。この検証というのは、部分から全体を推論する作業である。つまり、部分を調べて、全体も部分と同一の性質をもつだろうと統計学的に推論するわけである。ここで重要なことは、決して全体を直接に調査しているわけではなく、頭の中で全体を観念的に推論しているということである。統計学では、部分を標本集団と呼び、全体を母集団と呼ぶ。推論に頼る以上、科学は実証的でありつつも、推論する際の観念的な思考過程を必要不可欠とする。部分と全体の同一性を担保するものは、実験や調査ではなく、純粋に思考なのである。多くの場合は、統計的検定という統計学=確率論=数学による推論である。
 ほとんどの対象は全数調査が不可能である。全数調査が不可能な対象についての科学的知識は、全て客観的事実ではなく、確率論という純粋に人間の頭の中の論理でつくられた推論によって構築された観念的知識なのである。言うまでもなく、全数調査の不可能性がポパーの反証主義の前提となっている。
 ちなみに、部分と全体との間に完全な同一性が成立するのは、原子論的世界観である。世界のどの部分を切り取っても、原子という同じ要素から構成されているからである。これを自然の斉一性とも言う。金太郎飴の世界である。もしこの世界観が正しければ、一つの個体を調べるだけで全ての個体を調べたことと同じになり、確率論による推論はいらなくなる。部分即全体である。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

   
 
# by merca | 2008-12-21 00:10 | 理論

自己観察=社会観察


 自己認識は、同時に社会認識であり、社会認識は自己認識である。なぜなら、社会のシナリオ=役割は、我々人間の中に存在するからである。言語や規範の習得そのものが社会の内面化である。社会学では、人間が社会を内面化することを社会化という。この社会化が社会秩序を発生させる基盤であり、社会の素になる。だから、自己を観察することで、自己に内面化した社会を観察することができる。(人間は他者との関係性の中にあり、自己観察は同時に他者観察も含むことに注意)
 
 人が社会について語ることができるのは、実は自己に内面化した社会を観察できるからである。調べてもいないのに社会を語るなという人もいるが、これは社会学というものに対する無理解からくる。少しでも社会学を学べば、調べなくても社会を語ることは可能であることがわかる。社会は自己に内面化しているからである。人間は、社会を内面化することで社会生活を送ることができるのである。ただし、自己の中に内面化した社会なるものを学問として体系的に観察するためには、観察道具が必要である。その道具が様々な社会理論である。
 自己と分離した外にあるものとして社会を定立し、物のように調べることではかえって社会の本質を捉え損なう。人間と切り離して社会は存在し得ないからである。社会理論の使用可能性によって、社会学の客観性は生じるのである。社会学者が社会学として社会を語ることができるのは、統計調査によるのではなく、社会理論によるのでるある。統計調査は社会学者でなくてもマスコミや行政機関でもできる。統計調査イコール社会学ではない。この点、勘違いしている人たちが多い。例えば、反社会学講座は、その勘違いの典型である。
 人は社会の中で生き、社会と連動している。個々の人間は、社会全体を写し取る鏡である。ちょうど、一つのモナドが宇宙全体のモナドを表象しているというライプニッツのモナド論に例えられる。社会学をするとは、社会理論を使用して自己を観察することで、社会を語り、新たな社会理論を構築していく営みである。少なくとも、それは理論社会学者には当てはまる。

 参考
 これは、宇宙論にも通ずることかもしれない。人間は宇宙の一部であり、一人の人間は宇宙全体を表象しているとしたら、自己認識がそのまま宇宙論となる。哲学者は、宇宙を調べはしないが、宇宙全体を語ることができ、哲学を構築していくのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

   
# by merca | 2008-12-13 22:12 | 理論

説明可能性に基づく科学論


 自然科学が準拠する世界モデル=公理系は、因果法則が存在し、形式論理学や数学に合致した宇宙観である。素朴実在論的宇宙観と名付けよう。ポパーの反証主義も素朴実在論的宇宙観に基づいた物理世界を前提にしている。因果法則を超えた自由意志論や形式論理学を超えた物語論は、自然科学の外に置かれた虚偽世界となる。
 しかし、素朴実在論的宇宙観では説明できない現象が起きたときに、科学者は様々な宇宙論を展開しだす。ビッグバーン宇宙論や五次元宇宙論など、様々な宇宙論があるが、どれも反証(実験)可能性はなく、反証主義科学論からは科学だと言えないようである。観察と数学による推論などでつくられた宇宙モデルである。疑似科学であると非難されることもあるこのような宇宙論は間違いなのだろうか? 否、宇宙論に求められているのは反証可能性ではなく、説明可能性である。物理現象をよりよく説明することができる宇宙モデルは、それだけ妥当性があることになる。さらに、その宇宙モデルに基づき、個々の物理現象を予測し、予測結果を当てることができれば、ある意味、実証されたことになる。予測実験である。
 社会全体も反証実験が不可能であり、反証可能性を求めることはできない。しかし、社会のモデルはつくることができる。それが社会理論である。宇宙論と同じく、説明可能性が高い社会理論が妥当性をもつことになる。例えば、パーソンズの社会体系論は、社会理論の最たるものであり、個々の社会的行為を説明する能力もそれなりに高く、このモデルによって、ある程度、社会現象の予測も可能である。現代思想家のポストモダン社会論よりも説明能力は高い。
 宇宙論がそうであるように、社会理論も複数存在する。宇宙論が宇宙そのものを写し取ったものではなく、宇宙を説明する道具であるように、社会理論も社会そのものを写し取ったものではなく、社会を説明する道具である。実体そのものではないので、道具は複数あってかまわないのである。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

    
# by merca | 2008-12-07 10:05 | 理論

世界論と真理観の相対主義


 他者がどの真理観に準拠して言説を述べているか、それを見極めることが非常に重要である。特定の真理観でもって、別の真理観に準拠した他者を非難する教養のない者たちがいる。ニセ科学批判者や治安悪化神話社会論者はその典型である。
 
真理観は、対応説、整合説、合意説、実用説に分けることができる。
対応説とは、模写説とも呼ばれるが、対象と一致する命題、言説、知識が真理だとする説である。自然科学は、この立場をとる。
整合説とは、形式論理学に反しない命題、言説、知識が真理だとする説である。要するに、論理的矛盾のない命題、言説、知識が真理だというのである。意味の整合性と考えてもよい。
合意説とは、人々の合意を得た命題、言説、知識が真理だとする説である。つまり、社会的に認められている命題が真理だとする説である。
実用説あるいは有用説とは、ある目的を達成するのに有用な手段である命題、言説、知識が真理だとする説である。

これを世界領域との対応でみると、
物理的世界=対応説 物理的事実  
心理的世界=整合説 心理的(精神的)事実 
社会的世界=合意説 社会的事実 
世界そのもの=世界の無限の複雑性(三世界を含む全体世界)=実用説 形而上学的事実
 
 基本的には、真理の実用説のみが全ての世界に関わることができる。システム論社会学や構造構成主義は、実用説に準拠した理論である。三世界の全てに自由自在に関わることができる立場である。

 ニセ科学批判者たちによるスピリチュアル批判は、真理の対応説に準拠している。しかし、江原氏などのスピリチュアルカウンセラーは、真理の対応説には準拠しておらず、真理の整合説や実用説などに準拠し、物語として語っている。
 心理的世界=精神的世界は、物語として意味の整合性さえあれば、それが本当だと思えば、外部世界と関係なく、本当にそれが事実になるのが原理である。このような世界は意識によってつくられていくものである。また実用説からすると、前世物語をもつことで、癒され生きる意味を得て生活が充実するという実用性があれば、それはそれで真理なのである。このように真理の整合説や対応説に準拠した言説=物語に対して、ニセ科学批判者のように真理の対応説に準拠して批判するのは間違いである。
 手厳しいかもしれないが、多くの場合、議論が噛み合ないのは、相手がどの真理観に準拠して発言しているのか類推する想像力が欠如しているからである。議論に際しては、全ての真理観を使い分ける器用さが必要なのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

          
# by merca | 2008-11-30 11:49 | ニセ科学批判批判

反証主義と実証主義は同一

 反証主義は、実証主義である。
 「全ての鳥類は、飛行できる。」という科学的命題は、鶏やペンギンが飛行ではないという事実によって、反証される。ところが、これは裏返すと、一つの命題の実証である。
 「全ての鳥類は、飛行できるわけではない。」という科学的命題は、鶏やペンギンが飛行できないという事実によって、実証されることになる。そうなると、「全ての鳥類は、飛行できるわけではない。」という命題は反証不可能な実証的真理となってしまう。反証主義の理窟を押し進めると、このようにかえって反証不可能な実証的真理の存在を認めることになってしまい、科学的命題は全て仮説であるという自己の前提と矛盾してしまうのである。
 このように反証主義は、実証主義を否定しては成立たない。自らのうちに実証主義を含んでいるからである。反証主義は、否定命題の実証主義である。要するに、反証主義の本質は、命題の形式を操作することで改竄された実証主義の変種である。

 また、反証主義は、有限個の存在物には適用できない。対象となる普遍名詞の集合の要素=個数が有限個の場合、破綻する。「全ての何々は、何々である」という場合の全ての何々が有限個ならば、全て調査することが可能であり、真理として実証されるからである。反証主義は、全てを把握できないという前提に基づいて構築された理論であるが、その全てが有限個ならば、把握できるのである。


人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

                      
# by merca | 2008-11-02 21:21 | ニセ科学批判批判