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反社会学講座の盲点をつく・・・批判的実在論の観点から

 反社会学講座は、ほとんどの場合、人々の抱く常識を統計的データや史実によって否定し、常識と反対の命題を提示するという脚本で出来上がっている。これは一見すると、常識の根拠を問い直す社会学の方法とよく似ている。
 しかし、この脚本が読者に功を奏するのは、統計的データや史実こそが客観的な事実であるという常識が人々に流布しているからである。もし人々が統計的データや史実こそが客観的事実であるという真理観・科学観を抱いていなかったら、何のリアリティもパオロ氏の説に抱かないであろう。統計的データは、科学でもなんでもなく、特定の観点から現象を記述したものであり、様々な諸要因から生じた偶然の産物にしかすぎないのにである。 
 このように、パオロ氏は、多くの人々に共有されている共通の真理観・科学観を利用して逆説的な自説を真実に見せかけているのである。
 ここで、もしパオロ氏が本気で自説が正しいと思っているのなら、「統計的データ=客観的事実」という世間の常識に自らが染まっていることになる。
 パオロ氏は人々は常識や通説に騙されていると主張するが、自らも社会の常識に騙されていることになるのである。きちんと科学哲学を知っていれば、「統計的データ=客観的事実」という短絡的思考に行き着くことはない。また、自己の論理を自己適用しないところがパオロ氏が社会学でない証拠でもある。 
 
 具体的に示そう。
 さて、パオロ氏は、昔に比べると少年犯罪は減少しているという統計データでもって、古い世代の人間は今の世代の人間よりも凶悪であると結論付けている。本当にそうか?
 実のところ、これは、端的に社会条件を無視した議論である。戦後間もなくの日本社会と現代日本社会とでは、全く社会条件が異なる。戦後間もなくは、経済的、政治的にも不安定な社会であり、食べるのに困る人たちで溢れかえっていた社会である。また、教育制度や刑事政策制度も今のように進んでいない。そのような不安定な社会では、犯罪が多発するのは当然である。秩序は緩み、生きていくために犯罪をする人たちも多くいたわけである。
 
 このような社会条件を無視して、古い世代の人間は現代の世代の人間よりも凶悪であるというのは全くの戯論である。過度の孤立、貧困、失業が犯罪を生み出す要因になるという犯罪発生のメカニズム、それと犯罪抑制要因である刑事政策の進歩を無視した非科学的思考である。
 同一の社会条件のもとで、犯罪が減少したのなら今の若者のほうが凶悪でないと言えるが、このように著しく社会条件が異なるのに同列に比較し評価する彼の手法は明らかに科学的に間違いである。
 
 また、逆に戦後社会が安定して教育制度も充実化して来たにもかかわらず、犯罪をする現在の少年の方が凶悪化しているとも言えるわけである。殺人をしてみたいから殺したという理由のない殺人=脱社会性の少年による猟奇的犯罪のほうが明らかに凶悪である。
 社会学者宮台氏の分析のほうが優れているのである。質的観点からいうと、裕福な家庭に育ち理由なき猟奇的殺人をする現代の少年のほうが、貧困にあえぎ食うに困って強盗する戦後間もなくの多数の少年よりも明らかに凶悪である。

 他にも、パオロ氏は、近代化論を無視して、前近代社会である江戸時代の日銭稼ぎの就労者と後期近代社会である現代のフリーターを同列に扱い、フリーターになることを奨励したりしている。社会条件が全く異なるのに、過去の日本人と現在の日本人を単純比較し、昔はパラサイトシングルやフリーターも肯定されていたみたいな説を唱えている。 

 いずれにしろ、ほとんどパウロ氏の議論は、故意かどうかわからないが、社会条件を無視して、比較できないものを比較するという過ちを犯している。この過ちは、「統計的データ=客観的事実」と考える統計的実証主義の科学観にありがちな誤謬である。パウロ氏には、批判的実在論を勉強することを勧めたいものである。

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# by merca | 2016-01-01 22:47

「批判的実在論を考える」第2回 社会構築主義の克服

2 批判的実在論は、社会構築主義を克服したか?
 批判的実在論は、社会構築主義と一線を画する。社会構築主義は、科学も含む全ての人間の知識は社会的に構成された相対的なものであり、客観的なものではあり得ないと主張する。しかし、批判的実在論においては、人間の意識とは独立に外界に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとり、それらを把握することが科学の目的であると主張する。
  実験という方法で「閉じられた系」を作り出し、近似的に生成メカニズムや構造を解明していくことになるという。実験は意識が予測していない結果を出してくれるわけであり、意識の外にある自然界からの応答であるとも言える。つまり、人間の意識とは独立した自然界からの反応をメッセージとしてキャッチすることが実験の目的である。このような実験の意義については、自然科学の世界では当たり前の話であり、何も批判的実在論でなくても、たぶん科学者は普通にそのように考えていると思われる。実験が意味をもつためには、意識とは独立した存在=自存的対象を前提とする必要があるというわけである。
 さて、ここでポンイトは、外界に実存すると言っても、素朴実在論や経験的実在論のように経験的に存在する事物が実在すると言っているわけではないのを押さえておく必要がある。経験的に実在する事物は、意識によって加工された意存的対象にしかすぎない。例えば、目の前にあるイスや机などである。これらのように意識によって認識された目に見えたままの世界は、実在物ではなく、かえって意識や言葉によって構成されたものにしかすぎず、社会構築主義によってその実在性を骨抜きにされるのである。
 要するに、批判的実在論は、直接観察可能な事物=現象が実在すると言っているではなく、直接観察不可能であり実験でしか把握できないものこそが実在すると言っているである。この直接観察不可能で経験を越え、実験の積み重ねによる論理的推論やリトロダクションでしか捉えることができないものとは、生成メカニズムや構造のことであり、これのみが意識や社会による構成とは別に、世界で実在するというのである。
具体的にいうと、イスや机は意識によって把握された概念的存在=人工物であるが、イスや机を構成する木の細胞や細胞を構成する分子は実在するというのである。おそらく自然階層ごとの一個体のみが実在するということになると思われる。このような立場は、自然科学においては、科学的実在論というかたちで、洗練化されつつある。批判的実在論は、どらちかというと、社会科学をターゲットにしている。
 
 批判的実在論においては、人間の心も社会も直接観察不可能であるが、階層として異なる次元に独立に実在するという立場をとる。しかし、批判的実在論は、自然のメカニズムのように不動の存在として、社会が実在するとは捉えていないようである。
 バスカーは、社会構造に制約されたかたちで人間は相互行為をするが、その相互行為を通して社会構造も変化していくと捉えている。また、変化した社会構造が相互行為を制約する。パスカーは、このような螺旋状の循環的相互作用を見抜き、「社会構造とエージェンシーとの相互作用における分析的サイクル」として定式化している。これは、社会学者ギデンズの構造化理論と同型の社会理論である。
 
 しかし、ここまでくれば、社会構築主義とあまり変わらなくなる。基本的に、社会構築主義とは,社会は言語的コミュニケーションによってつくられたものであるという説である。その基礎は,バーガーとルックマンの知識社会学にある。社会構築主義の公理を定式化すると,外存化,客体化,内存化の三つの循環的過程となる。外存化とは,人間の内的世界が外部世界に投影され,なんらかの形をなすものとしてあらわれることを言う。客体化とは,その外在化されたものが所与の現実として客観的でリアルなものとして現れることを言う。さらに,内在化とは,その客体化された現実を内的世界に取り入れることである。例えば,法律は,人々がつくったものである(外存化)。その後,人々にとってその法律が社会環境の一部になる(客体化)。さらに,その法律を内面に取り入れ,自己の行動を規制していく内的な規範としていく(内在化)。
 
 批判的実在論と異なる点は、社会構築主義が社会の中に意識を取り込んだ理論にしている点である。パスカーによる「社会構造とエージェンシーとの相互作用論」では、意識の次元と存在の次元が交わることがない。ギデンズの構造化理論も同じてある。当事者の意識の次元と社会構造の次元を独立したものとして区別している。
 一方、社会構築主義は、意識の次元の内容が存在次元の客観的な規範=社会構造として外化し、さらにまたそれを意識が内在化することで個々人の行為に制約を加えるという構図になっている。
 かたやバスカーの相互作用論では、どのように社会構造が相互行為を制約し、どのように相互行為が社会構造を変化させるのか具体的に説明がない。
 というよりか、社会構造と相互行為の相互作用のメカニズムを説明していない。意識(=心)と社会が別次元の階層に属するという批判的実在論の立場からは、原理的に相互行為と社会構造の具体的関係は解明されないことになるのである。
 
 このような困難は、実はルーマンのシステム論では克服されている。別次元にありつつも、社会も意識も同じ意味システムであるという視点をとることで解決される。つまり、コミュニケーションを要素とする社会システムという発想で解決できるのである。
 コミュニケーションは、情報、伝達(発信)、理解についての選択からなる。意識システムが他の意識システムに何を伝えるか選択し、その伝達方法も選択し、そして他の意識システムが選択的に理解する。この一連の過程がコミュニケーションである。そして、コミュニケーションがどのようなコードに準拠して創発されたかで、創発されるシステムの種類が決まる。創発されたシステムは、コミュニケーションを通して自己を再生産する。事前のコミュニケーションが後続するコミュニケーションの前提となることで、コミュニケーションを再生産していくことになる。
 いずれにしろ、社会の創発に関して、意識システムが介在することになるわけであり、意識と存在の並行論とはならない。ルーマンは、社会構築主義と同じく、意識と存在の交差論の立場をとる。

 社会構造(ないしは社会システム)が前提となり、相互行為(コミュニケーション)をつくり、相互行為(コミュニケーション)が社会構造(ないしは社会システム)をつくるという循環過程については、社会学の本質的メカニズムにかかわる問題であり、簡単に語り尽くすことはできない。
 とりあえず、ここでは、並行論と交差論という二つの立場があることを確認しておこう。そして、批判的実在論が並行論をとることで、人々の意識によって社会が構築されるという相対性を排除していることを確認しておこう。

参考文献
 ロイ・バスカー著「科学と実在論」
 バース・ダナーマーク他著「社会を説明する」

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# by merca | 2015-12-31 18:15 | 理論

「批判的実在論を考える」第1回 統計的実証主義の克服

 「批判的実在論を考える」第1回 
   サブテーマ 批判的実在論は、統計的実証主義を乗り越えたか?

 ロイ・バスカーを創始者とする超越論的実在論の思想的発展形態である批判的実在論が、統計的実証主義(エビデンス主義など)やそれと対立する社会構築主義を乗り越えたと豪語しているが、それが本当か理論的に検証してみたい。

1 統計的実証主義の克服・・・メカニズムを無視した認識論的誤謬
  批判的実在論は、とにもかくも、ヒュームに源流を持つ経験主義を嫌う。経験主義は、統計的実証主義(とりわけその最高形態であるエビデンズ主義)として近代科学思想に根付いている。統計的実証主義においては、現象の根底にある生成メカニズムが解明されなくても、統計的に有意な相関関係や因果関係を見いだすことができれば、科学的真理として認定し、実用することになる。その典型が医学における医薬品の効果におけるエビデンス主義である。
 しかし、批判的実在論の立場からは、生成メカニズムが解明されていない現象は、たとえ統計的に有意であっても、科学的真理として扱われず、実験を繰り返し、メカニズムが解明できれば、そのメカニズムそのものが科学的真理となる。
 
 「全てのカラスは黒い」という仮説は、白いカラスが発見された場合、統計的実証主義からは否定される。しかし、カラスの遺伝子構造というメカニズムが解明され、発見された白いカラスが遺伝子病からたまたま白くなっているだけであると分かれば、「全てのカラスは黒い」という仮説は、否定されなくなるし、このような例外についても遺伝子構造から説明可能となる。個体の内部構造が正常であれば、「全てのカラスは黒い」ということになる。反証主義のポパーは単純すぎるのである。
 この場合も、批判的実在論においては、「全てのカラスは黒い」という現象に関する命題が科学的真理であるわけではなく、カラスの羽を黒くする遺伝子構造というメカニズムが科学的真理ということになる。

 うつ病についても、脳内のセロトニン不足にあるという仮説があるが、どのような外部構造と内部構造を条件として、セロトニン不足がうつ状態という気分障害をもたらすのか、そのメカニズムを解明しないがきり、十分な科学的真理とは言えない。例えば、ストレスの少ない安定的環境にあれば、セロトニン不足であったとしても、気分障害という現象が発現しない場合もあると考えられる。その場合、環境が生成メカニズムの発現の抑止要因となっている。メカニズムが作動しているとしても、内外に存在する多様な諸要因が力としてはたらき、メカニズムによる症状発現を止めたり、変形したり、その程度を左右する。パスカーは、多様な諸要因が存在する状態のことを「開かれた系」と定義している。人体という生命体は「開かれた系」である。内外環境という要因を無視して、現象が偶然に生じることもあるという可能性を排除する統計的実証主義は不完全な認識なのである。研究対象となる現象の生起は、多様な内外環境に左右され、偶然の産物にしかすぎないおそれがあるのである。
 
 多要因の力関係で構成された「開かれた系」においては、様々な要因のペクトルの均衡点が現象であり、その意味において、現象は諸要因に影響される偶然であり、規則性を見いだすのは困難になる。これは、いわゆる複雑系である。そこで、批判的実在論においては、内外条件を統制し、実験を繰り返すことで、相対的に「閉じられた系」をつくりだし、純粋に生成メカニズムを浮き彫りにし、生成メカニズムを解明することを科学の目的として定めている。
 
 しかし、複雑系で注意しないといけないのは、創発特性である。批判的実在論においては、おおよそ原子、分子、生命体、精神、社会の順番において、階層が実在すると考えられている。例えば、生命体は、一つの階層であり、分子構造のみから説明することはできない性質=創発特性をもつ。従って、生成メカニズムとは、階層化された存在の働きに帰属することになる。
 実のところ、批判的実在論は、階層性という一種のホーリズムを密輸入している。複雑な分子構造からなる細胞という生命体が一個体として実在することを認めている。
 創発特性は、要素を条件とするが、要素に還元できない全体性をもつ。この全体性が要素の存在の条件として逆に作用もする。例えば、うつ病がセロトニン不足という脳神経システムたけでは説明がつかず、精神という別の階層に属する病気であるとすると、セロトニン不足は一つの条件ではあるが、精神=心的システムの病理となり、精神分析学が有効となるわけである。
 
 批判的実在論が、自然階層における一個体を実在するものと見なし、ホーリズムを科学に持ち込んだ功績は大きいと思われる。
 要素同士の相互作用、外部との相互作用だけから現象を説明するのなら、還元主義の一種にしかすぎないが、要素や外部という要因以外に、階層に伴うシステムとしての全体性が実在し、それがメカニズムの帰属先となっているという認識なのである。統計的実証主義は、要素同士の相互作用、外部との相互作用の関係を捉えることしかできないが、批判的実在論は階層システムを捉える。ただし、階層システムを捉える方法が客観的ではない。自然階層が存在すること自体は、究極的に学者の哲学的直観の産物なのである。つまり、経験を越えた超越論的な直観である。この直観に実証的根拠はないが、論理的にそれを前提とすることなしに現象を説明することができないというレベルでないといけない。それが批判的実在論の本質的方法であるリトロダクションと呼ばれる知的作業である。
 例えば、ハーバーマスのコミュニケーション的行為論において、理想的発話状況の前提として、真理性、正当性、誠実性の三つをあげているが、これは統計による実証的根拠によって得られた知識ではなく、リトロダクションによって得られたメカニズムなのである。ある現象を説明するのに前提とせざるを得ないものを論理的直観で把握することがリトロダクションなのである。ほとんどの社会理論がこの方法で見いだされており、リトロダクションによる生成メカニズム把握こそが科学の目的であるのである。統計的データは、その手段にしかすぎないのに、統計的モデル理論が幅を利かせている。しかし、統計的データのみからはいかなる理論も構築できない。
 論理的直観に対して科学的根拠はないと批判することは可能であるが、批判的実在論は論理的直観なしにメカニズム把握はできないと考えているのである。

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# by merca | 2015-12-30 10:44 | 理論

超越論的実在論の科学観・・・メカニズム論の肯定

 超越論的実在論は、ロイ・バスカーが打ち立てた科学哲学である。超越論的実在論は、批判的実在論として発展していき、一つの思想的潮流を形成している。さらに、批判的実在論においては、今、社会構成主義=相対主義を越えた社会科学を基礎付ける哲学として注目されている。批判的実在論の哲学的基礎は、全てロイ・バスカーが提唱した超越論的実在論にある。

 超越論的実在論による科学観によれば、科学が追求する真理とは、観察可能な経験的現象ではなく、その背後にある実在する生成メカニズムについての真理であるという。しかるに、これまでの科学哲学においては、ヒュームの古典的経験論を源流とする経験論的実在論が科学哲学の主流を占め、経験的実在論のみが科学を基礎付けると勘違いされてきたというのである。経験論的実在論には、ポパーの反証主義も含まれるし、エビデンス主義に代表される統計的実証主義も含まれる。
 ロイ・バスカーは徹底的に経験的実在論の科学観を否定する。最大のアンチ・ヒューム主義者である。カントの認識論も超越論的観念論として位置づけ批判している。因果関係は人間の認識の形式ではなく、独立に外部世界に実在するメカニズムの発現であるという立場から、カントの観念論も否定される。
 近代科学を基礎付けることができるのは、経験的実在論でもなく超越論的観念論でもなく、唯一、バスカーによる超越論的実在論のみであるというわけである。言い換えれば、実験という科学の営みが意味をもつのは、超越論的実在論の世界観以外にはあり得ないということである。実験は、事象間の相関関係を検証するのが目的ではなく、その背後に潜むメカニズムや構造を見つけ出すことが目的である。色々な条件で実験し、探ろうとしているのは、単に事象間の統計的な相関関係ではないのである。科学者は、メカニズムを解明するために条件を変えていき実験しているわけである。
 例えば。統制された条件(閉じられた系)において、水は100度で沸騰するという命題が実証されたとしても、その命題は何ら科学的真理ではない。水の分子構造からその現象が説明されてはじめて科学的真理となるのである。つまり、メカニズムが解明されてはじめて科学的真理となるのである。また、気圧が低ければ、100度でなくても、水は沸騰するわけであり、それは水の分子構造を把握してはじめて説明できる現象である。
 医学の分野でも、偽薬効果が統計的に実証されても、そのメカニズムが解明されない限り、偽薬効果は科学的真理ではないのである。この点を勘違いし、偽薬効果を科学的真理だと思い込んで議論するニセ科学批判者はよく見かける。
 
 経験的実在論は、経験したままが真実だと勘違いしているのである。これを認識論的誤謬という。人間が認識したままの世界が真実であり、それが科学的知識であると思い込む誤謬である。
 手品を例にとろう。手品で人間を箱の中に入れて切断し、また体がもとにもどるというものがよくあるが、認識したままが本当なら、人間は切断されていることになる。また、ステックから鳩がでる手品なら、認識したままでいうと、本当にステックから鳩が生まれたことになる。お客は、手品で起った現象を真実だとは誰も思わない。手品には必ず種があり、背後に錯覚させるメカニズムがあるのである。もし種がなければ魔法使いだということになる。経験的実在論者は、手品師を魔法使いだと勘違いし、経験的に認識した出来事をそのまま科学的真理である独断するのである。
 バスカーの言わんとすることは、このような経験的現象を絶対化する経験的実在論に基づく科学は、真の意味で科学足り得ないということである。超越論的実在論からすると、事象間の有意な相関関係の統計的検定さえも、科学的根拠になり得ないのである。メカニズムを提示してこそ真なる科学的根拠となるのである。

 西條氏の構造構成主義の科学観も、超越論的実在論から否定される。構造構成主義は、外部の存在の実在性を否定し、人間の共同主観的な言葉の使用法の同一性を科学の根拠とする哲学的立場である。カントの観念論に近い立場である。
 ロイ・バスカーは科学を人間の社会的活動であると認めつつも、人間の認識とは独立に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとるわけであり、明らかに外部存在の実在性なしに科学が成り立つとする構造構成主義の科学観は否定されることになる。

 社会科学的関心からすると、最大の問題は、超越論的実在論ないしは批判的実在論が、社会構築主義を克服している科学哲学になりうるかである。反証主義や単なるエビデンス主義に代表される統計的実証主義の科学観よりも深い科学哲学だとは認めよう。
 実は、批判的実在論は、社会学にとっては、一つの救いとなる。理論社会学が提示する統計的根拠のない社会理論は物語ではなく、実在する社会のメカニズムであると言えることも可能であるからである。例えば、パーソンズの社会体系論は、観念論的ではなく、実在する社会のメカニズムや構造になるのである。統計的根拠がない社会理論は全て個々の学者によって構築された物語であるという考えを退け、相対主義を回避できるからである。
 
 しかし、事態はそんなに簡単なことではないだろう。社会のメカニズムを認識することが社会学の役目であるが、システム論のように社会が人間の行為ないしはコミュニケーションという要素から構成されているシステムだと考えると、人間は再帰的に社会のメカニズムを構築することもできるからである。社会のメカニズムに意義を申し立て、メカニズムの発現を阻止することもできるのである。 批判的実在論は、社会はその都度創発されものであるとするルーマンのラディカル構築主義と真っ向から対立する。批判的実在論は、マルクス主義同様に存在論的社会観に立脚するが、ルーマンの社会システム論は創発論的社会観に立脚する。
 
 超越論的実在論のバスカーは、(閉じた系/開いた系)を区別し、実験は人間が作為的に閉じた系を作り出すことで可能となると考える。開いた系においては、多様な諸要因が働き、純粋にメカニズムが発現したり、発現を認識できたりし得ないというのである。社会は、雑多な開いた系であり、社会学では実験は困難であるという。
 しかし、ルーマンによれば、社会は開いた系ではなく、むしろ閉じた系、区別によって閉じられた閉鎖システムである。区別によって閉じられることで社会は創発されるのであり、バスカーの社会観とは逆である。バスカーは、社会よりも自然は閉じられており、実験しやすいと考えているが、本当は社会のほうが閉じられているのである。社会システムは自ら閉じることで社会システムたりえるのである。自ら条件統制された内部環境をつくりだすのである。一つの社会がどのような区別コードに準拠して閉じているか認識すること=第二次観察することが、社会の構造ないしはメカニズムを捉えたことになる。しかし、それは創発されたものにしかすぎず、創発された時には実在性はあるが、そうでない時には、可能態としてあるだけで実在性はない。
 例えば、コンビニに行くと、お金を払えば商品が手に入るという因果仮説は、店員と客が経済システムを創発することで可能となるのである。批判的実在論者ならば、売買行為を資本主義社会のメカニズムの発現として説明するであろう。資本主義社会が実在するので売買行為が存在するというわけである。
 しかし、究極の社会理論からは、それは逆である。むしろ売買行為が発生したから、資本主義社会が実現されたと考えるのである。もし売買行為が一切起らなかったら、資本主義社会は創発されず、そのメカニズムも実在しないのである。
 システム論社会学では、人々の相互行為によってメカニズムはあとからつくられるものなのであると考える。また、他人の意思による自己選択(他者性)は自己の意思を制限することになるので、それが社会の拘束性の源になる。最初に不動の資本主義社会のメカニズムが実在し、それが個々人の意思を制約するというのは、マルクス主義の錯誤的発想である。社会の拘束性と外存性は、大澤氏の第三審級論によって解明されているとおり、他者とのコミュニケーションによって作動する。
 
 とりあえず、ここで言えることは、批判的実在論は、自然科学には通用するが、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるかぎり、社会科学の世界には不適合であるということである。
 社会には、つくられざるメカニズムは存在しない。その代わり、その都度、創発される閉じたシステムがあるのみである。

  参考
「科学と実在論」ロイ・バスカー著
「「メカニズム論の誤謬」という菊池流科学思想」
 http://mercamun.exblog.jp/14829440/ 
「偽薬効果は現象的事実であって科学的事実にあらず!!」
 http://mercamun.exblog.jp/14839902/
「偽薬効果を前提にしたニセ科学批判はニセ科学である。」
 http://mercamun.exblog.jp/14793660/

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# by merca | 2015-12-21 00:11 | 理論

他者愛は、自己愛に還元されない。

 他者愛とは、他者の他者性を尊び大切にすることをいう。従って、自己愛には決して還元されない。他者の他者性とは、自己には決して支配できない無限性・超越性だからである。他者の自由意志は、決して自己は支配できない。だから、他者というのである。
 もし自己が支配できるような存在、すなわち自己の同一性に包摂できるような存在であれば、真なる他者ではなく、自己の延長にしかすぎない。レヴィナスのいうように、他者の顔は、支配できない。
 自己にとっては、他者は決して届かぬ超越性、無限性である。だから、他者は自己にとって神である。他者は、超越性・無限性をもつ存在である限り、決して他者を殺すことはできない。殺人の不可能性は絶対的真理である。
 
「汝殺すことなかれ」は、他者の他者性を決して否定できぬことを意味しており、肉体的な意味での人間は殺せても、魂=自由意志としての人間を殺すことは決してできない。人間存在が魂=自由意志として実存する限り、いかなる殺人も不可能である。
 他者論倫理学からは、人は人を殺すことはできないのである。従って、人を殺そうとする者の欲望は決して満たされることはない。殺人願望ほど愚かな行為はない。人を殺してはいけないという倫理は、このような仕方で体得されるものであり、他者の他者性を受容する者だけが真に身につけることができる。

「なぜ人を殺してはならないのか?」という質問に対しては、真の意味で、人は人を殺すことができないからであり、不可能で愚かな行為であるからだと言っておこう。
 殺人の不可能性を悟った時、同時に他者を敬う気持ちが沸き起こり、それが他者愛となるのである。そして、自己愛には他者愛は還元されないのである。
 ニーチェの思想は自己愛の思想であり、他者性がなく、真理ではない。

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# by merca | 2015-10-20 00:28 | 反ニーチェ