盛山和夫著「社会学とは何か」書評

 一人の大物社会学者が真っ正面から社会学について論ずる一つの書物を書いた。それが、盛山和夫著「社会学とは何か」である。盛山氏には、「制度論の構造」という名著があるが、それを発展させたかたちになっている。以下、同著の批判的検証をしてみたい。

1、社会観念説
 盛山氏は、社会は実在するものではなく、人々が共有する理念的な意味世界であるという考え方から議論を組み立てている。社会に実体がないという発想は、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるという社会構築主義をはじめとして、意味システムとしてのルーマンの社会システム論や大澤真幸が唱える第三者の審級論にも見られる。ただし、森山氏が社会に実体がないという時、それは人々の心の中にある観念的存在ということを意味しており、社会構築主義のようにつくられた存在とか、システム論のように創発された存在とかという意味ではない。この点の区別は、正に要注意である。つくられた存在だから実体がないというのではなく、観念的存在だから観察可能な物理的実体がないということである。
 一方、システム論においては、社会は人々が共有する観念そのものではなく、行為やコミュニケーションとして観察可能なかたちで現象化・創発化し、実際に人々の認識に立ち現れる現象として社会を考えている。単に観念を保有している状態は何ら社会ではない。実際に、その観念に準拠して行為やコミュニケーションがなされないと、社会とは呼ばない。共有観念=社会ではない。共有ではなく、実演され、共演されないと、社会ではない。
 社会を曲に例えるのならば、盛山氏は楽譜がそのまま曲であると考える勘違いをおかしている。曲は演奏されてはじめて曲となり、それを聞くことで人々ははじめて曲を知るのである。別の例えを使うのなら、盛山氏は、建築物の設計図がそのまま建築物だと思い込んでいるようなものである。演奏されることで曲ははじめて曲となり、建築物はつくられることではじめて建築物となり、同じように社会も演じられることで、はじめて社会として生成するのである。人間社会が生成するためには、意味世界としての観念が必要であるが、社会イコール観念だと考えるのは間違いである。社会には実体がないが、かといって観察不可能な虚構存在ではなく、観察可能なかたちで立ち現れるものなのである。ただし、社会学理論という観察道具を使用した者(社会学者)のみが社会を正確かつ明快に観察できるわけであり、素人にははっきりと見えない。社会学がセカンドオーダーの観察であるとルーマンが喝破したごとくである。単なる統計調査ではなく、社会学理論という観察道具のほうが社会学にとっては、より根本的な観察道具であるということも付け加えておきたい。

2 社会学の方法 
 盛山氏が主張するように、社会が意味世界ならば、社会学の方法の本道は、数量的な統計調査ではなく、人々の内面的世界を理解する調査ということになる。というのは、もし社会が意味世界ならば、それは本質的に数量化できるものではないので、理解するものになるからである。人々の共有する観念をよりよく理解し、解釈することが社会学の本道となる。つまり、これは、端的にいうと、ウェーバーの理解社会学の方法である。
 しかし、となると、統計調査の役割は、せいぜい一つの観念がどれだけ多くの人に共有されているかという意義しかもたなくなってしまう。さらに、女性の方が男性よりも喫煙率が低いとか、高所得者のほうが低所得者よりもエンゲル係数は低いとかという類いの調査は、社会調査ではなくなってしまう。社会を調べることイコール人々の所有する共通観念だとしたら、そのような調査は社会についての調査ではなく、単なる経済調査にしかすぎなくなってしまうわけである。
 無論、私は、自然科学的方法では、社会の本質は捉えることはできないという点については、大賛成である。社会を記述するとは、必然的に社会創発のための種となる意味世界の理解なくしてはあり得ないからである。社会システムの要素であるコミュニケーションは、他者の意味世界=観念による了解なしには成り立たないのである。単なる統計調査で社会を記述したと勘違いしている学者が多いなか、社会を観察するには、観念の理解を伴うという点を重要視する盛山氏の視点は重要である。

3 規範的秩序の外存性・拘束性
 規範の特徴は、人々を外から拘束して一定の行動へとしむけることにある。しかし、盛山氏の議論では、規範的秩序の外存性・拘束性が十分に説明できていない。社会が人々の共有観念だとしても、その観念が規範として働く仕組みが説明されなければならない。規範として働くとは、規範が期待する内容に合致すると他者(みんな)から肯定され、それに外れると他者(みんな)から否定されるということである。要するに、賞罰があるということである。そして、規範があたかも人を動かし、規範自らに賞罰を人々に下す力が宿るように思えたときに、はじめて一つの観念は規範化される。その意味で、神の観念は、規範の最高形態である。人々は神の観念を共有することで、善行をなし、悪行をなさないのである。規範としての神は自己の外にあり、自己を拘束する者として人々に表象される。
 しかし、真実は、規範が外存性・拘束性をもつ原因は、規範自身にあるのではなく、他者の反応たるサンクションにあるのである。他者のサンクションこそが規範を構築・維持させるものなのであり、規範があるからサンクションがあるのではない。元来的に他者は自己の外にあり、外から制限を加えてくる存在であり、その他者を一般化した観念が規範であるからである。ちなみに、大澤真幸のいう、第三者の審級がこれにあたる。
 ところが、人々は、他者のサンクョンが原因で規範が結果であるのに、規範が原因で他者のサンクョンが結果であると、転倒して考えてしまうのである。この転倒的錯誤こそが物象化作用と呼ばれるものであり、規範を強固に規範たらしめる根源的仕組みである。
 規範の成立根拠がもともと多数の他者からのサンクョンだとすると、社会(規範)の外存性と拘束性は当然のことであり、社会が個人の外に存在するという意識は正常なのである。ミードの説に従えば、多数の他者からの反応をまとめあげて他者一般が内面化され、規範として機能するのである。他者一般を平たく言えば、「みんな」という観念である。この「みんな」という観念に準拠してコミュニケーションが創発されたときに、社会は生成する。お金を払えばみんな商品を受け取ることができるとか、人から物を盗んだらみんなから非難されるとか、全てのコミュニケーションは、メタコードとして(みんな/みんなでない)に準拠している。みんなという観念に対応する外的対象は、これまで体験した外部の他者の反応であり、完全に対象物をもたない虚構観念ではない。外存性と拘束性の源は、みんなという観念にあるのだが、盛山氏は説明が十分でない。
 ただし、役割存在として外的対象を認識するとき、その対象以上の内容が付与されて認識されるという盛山氏の指摘は貴重である。大人として認識された人は、実際に大人としての振る舞いに欠いていても、大人としての振る舞いを期待されることになる。このような仕組みは、廣松渉の認識論の四肢構造で解き明かされている。廣松渉の認識論の四肢構造においては、究極的にいかなる純粋な客観的事物も世界には存在しない。人は、生の認識対象物に対してそれ以上の意味を付与する。商品を店で買うときに、客は店員を単なる人ではなく、特定の役割を帯びた存在として認識する。商品について聞いたら、その値段を教える存在だと思う。この属性は、店員がつくったものではなく、社会的に生成されたものである。人は、事物を「として」というかたちで認識する。この役割認識をみんなが共有しているはずであると思い込むことで、コミュニケーションが生成される。しかし、自己の目的のために道具的な「として」というかたちで利用するのと区別をつけておく必要がある。あくまでも、みんなが了解しているということが規範として作用するのには重要なのである。役割を付与するのは自己ではなく、みんなであるということで、はじめて規範となるのである。このみんなという観念の対応物は、外部の他者の反応であり、対応物のない純粋な虚構的観念ではない。役割体系を規範として支えるのは、みんなである。他者一般という観念が人の頭のなかにしかないとうことで社会を理念的ものと断定してしまうのは早計であり、その外的対応物はきちんとあるのである。
 つまり、社会には固定的実体はないが、外に存在し、拘束してくるというのは、ある意味、正しいのである。デュルケームが社会は人々の頭のなかにあるといいつつも、社会的事実は外存性・拘束性をもつと言わざるを得なかったのは、当然である。他者一般は観念として人々の頭のなかに出来上がるが、それはもともと外部の他者からの反応からできあがったわけであるから当然なのである。ただし、社会そのものは人々の頭の中の観念だけではなく、それを人々が選択・利用してコミュニケーションとして観察可能なかたちにならないと、生成しないことを、重ねて釘を刺しておきたい。この点の誤解が社会学に大きな混乱をもたらしているのである。
 社会規範が外存性・拘束性をもつ根拠は「みんな」という観念であり、その観念に基づいてコミュニケーションが生成されることで、さらに規範は外に立ち現れ、拘束するものとして、人に観察され、人は規範を再内面化するのである。この循環過程は、バーガー著「社会的世界の意味構成」で明かされているのである。それは有名な「外化・客観化・内在化」という社会構築主義の公理である。

  参考
 機能主義が人々の主観的意味世界を離れて、外的視点から社会の機能を特定し、その機能を維持するために社会秩序があると記述する場合があるが、そのような視点が単なる学者の意味世界として相対化されないなら、一つの社会科学的立場を確立できると考えられる。
 社会成員を再生産する装置として結婚・教育があるといった場合、それは人々=当事者の意味世界とは関係なく、主張できる理論である。社会内当事者の意識や意味世界とは関係なく、社会というものが客観的実体として存在するという理屈である。このような客観的機能主義を完全に否定しない限り、盛山氏の社会観念説は成り立たないと思われる。また、機能主義が完全に否定されないのなら、社会統計が社会学の有効な手段となると思われる。社会統計を重視する社会学者太郎丸氏がその点に敏感だと思われる。その点の克服については、ギデンズの二重の解釈学を読まれたい。外的視点と当事者の内的視点の統合こそ、社会学の役目だとするギデンズの理論がある。合わせて、ハーバーマスの(生活世界/システム)という区別も参考にされたい。

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙 
 http://mercamun.exblog.jp/15407334/

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# by merca | 2012-12-24 17:27 | 理論

選択肢の共有(偶然から必然が生ずるからくり。)

 個々の要素が自己選択性に基づいて偶然な動きをしているにもかからわらず、全体としては秩序が現れ必然の相をもって現象化することがある。
 例えば、1万2千人の人間がサイコロを振ったとする。個々人のサイコロが1から6のどの目を出すかは、全くの偶然である。にもかかわらず、全体としてはある一つの目が出た数は、限りなく2千に近い数となり、1から6の目のでる回数は均等分されてくる。偶然の総和がかえって秩序をもたらすのである。1万2千人の人がサイコロをふったら、ほぼ一つの目が出た回数は等しくなるという必然の秩序を生み出す。
 これと同じであり、社会においても、人々が自己選択性に基づいて好き勝手に行動しても、社会全体として必然の秩序を生み出すことになる。人々の自己選択に基づいた行為あるいはコミュニケーションが結果として、必然の秩序を生み出す仕組みを社会学は解明する役目がある。個々人の自由な消費行動が市場に秩序をもたらすと考えたアダムスミスの神の見えざる手も、これと同じ仕組みである。
 これまで、古典的な社会学では、共通の価値規範やそれに伴う賞罰によって、人々の行動に秩序が生ずると考えてきたが、そのような規範主義パラダイムに基づかなくても、社会秩序生成のメカニズムは説明しうる。ルーマンは、共通の価値規範を共有しなくても、二重の偶有性に基づく予期の総和によって秩序が生成されると考えていた。複雑性の縮減という考えにそのポイントがある。
 実は、社会秩序生成のからくりは、サイコロの例にヒントがある。サイコロの目は6つしかなく、無限に存在する他の自然数が出ることはない。例えば、7や10は出ないのである。つまり、このような限定された事象空間=選択肢を共有することで結果的に秩序をもたらしている。社会秩序もこれと同じである。人々があらかじめ範囲が限定された行為の選択肢を共有し、その範囲内で自己選択することで社会秩序は成り立つのである。例えば、ある商品を買う場合、誰でも100円で買える商品は限られているのである。このような限定された選択肢の共有こそが秩序をもたらすのである。無限の可能性と唯一の可能性の間に選択肢が存在することで、秩序は生成するのである。
 
 ルーマン社会学では、選択肢の範囲を限定することを複雑性の縮減という。簡単に言えば、人々は限られた同じ範囲から行為を選ぶということである。人々はサイコロを振らされているのと同じなのである。また、限られた選択肢から選択するので、自己の選択も他者は理解でき、コミュニケーションが接続していくのである。人々が自己選択における意味地平(選択肢の集合)を共有することで、秩序は可能となるのである。

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# by merca | 2012-12-02 10:22 | 理論

善悪(利他/利己)の対称性の破れ

 一応、善を利他と定義し、利己を悪と定義して考えてみたい。時折、人間は、善=利他心と悪=利己心の駆け引きが心の中で起り、行為の選択を迫られる。所謂、良心の呵責である。そして、天使と悪魔のささやきのどちらに組するのか決めるのは、本人自身である。実は、この自己選択性こそが倫理的行為の大前提である。
 他者論的倫理学からすると、天使の声とは、端的に他者の声と言えよう。助けを求めている他者を自己の都合をよりも優先させたり身代わりになって助けるかどうかの決断を迫られるわけである。自己の都合を優先させると、悪をなしたことになり、自己を犠牲にして他者を助けたら善をなしたことになる。
 
 いずれにしろ、人間は性善説でも性悪説でもなく、悪と善を含みつつも超越し、選択できる立場にあるというわけである。もう少し言うと、悪の心を完全に排除した善行は、善悪に関する選択性を欠くことになり、倫理的行為とはならない。悪の誘惑を断ち切って善を選択したときにこそ、本当の意味での尊い善行=倫理的行為となる。
 人間は性善説でも性悪説でもないと言ったが、善が悪よりも少し勝っているのが人間的真実である。この対称性の破れを説明しよう。善と悪の心が人間にあり、もし勇気を持って善を選択したのなら、一時的な自己の利益は失うが、悔いは残らず、すっきりと人生を歩むことができる。しかし、もし悪を選択したら、一生自己の善の心によって罪悪感に苛まれることになるのである。悪を選択しても、最初から善の心がある以上、罪悪感が人を責め続けるのである。戦場で上官の命令でやりたくない殺人をやってしまった兵士は、一生罪悪感で苛まれるのである。それは、悪をなしても、もともと善の心があるからである。罪悪感と償いの感情は利他心の現れである。この意味で、選択性に基づく悪は、善悪の葛藤のない単純な善行よりも倫理的である。ある意味、選択性があれば、善悪ともに倫理的行為である。そこで、次のような価値序列を立ててみた。
 
 選択性を媒介とした善行が一番目に価値があり、選択性を媒介とした悪行は二番目に価値があり、選択性を介在としない善は三番目に価値があり、選択性を介在としない悪は一番価値がない、という道徳的価値序列をつけることができるのである。
 良心の呵責や罪悪感なしに人を殺す者は最低である。かたや、自己の所属する共同体からの制裁(悪の誘惑)があるにもかかわらず、あえて他者を助ける者こそ、最高善をなすものであり、この世で一番美しい倫理的行為なのである。罪悪感をもちつつも悪をなしてしまった凡人たちは、この最高善をなした者を敬い、信仰するのである。それが許しとなるのである。ニーチェはこのことに最後まで気づかなかった愚か者である。

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# by merca | 2012-11-30 11:12 | 反ニーチェ

多原因相対主義の宣揚(究極の平和思想)

 一つの現象は、一つの原因から生ずるのではなく、多数の原因があってはじめて生ずると考える。これを多原因論という。例えば、仏教では、因縁説をとり、一切と一切が関係してはじめて一つの現象が生ずると説く。また、社会病理学の分野でも、犯罪非行、少子化、いじめ、虐待、貧困、戦争などの社会病理現象については、多原因論が正しい。貧困の原因は、失業のみならず、失業プラス他の複数の原因から起る。複数ある原因から一つの原因だけを絶対化し、あたかもその原因だけで現象が生ずると考えるのは、間違っているのである。ある一つの原因だげが一つの結果をもたらすと考えてしまうのは、認識主観の価値観による選択化にしかすぎない。
 
 一輪の花が咲くのは、空気があり、水があり、太陽からの光があり、土があるなど、自然界の複数の要因が重なってはじめて可能となる。自然科学の世界においても、多原因論は正しい。水だけで花が咲くと考えるのは間違いなのである。また宇宙がなぜ生じたのかというのも、多原因なのである。物理学は一つの理論で宇宙の成り立ちを説明しようとするが、それは原因の一元化という人間理性の誤謬である。同じく、社会がなぜ生ずるのかというのは多原因なのである。しかるに、法則科学は、現象を抽象化し、単一原因論に準拠し、自然界を記述する。例えば「石を投げたら地面に落下した。」という現象の原因は万有引力の法則から一元的に説明されるわけであるが、石を投げた人物の自由意志という原因は無視されている。石を投げるというその人物の心の決定がなければ、その石は投げられることもなく、落下することもないのである。
 このように、科学的説明においては、一つの現象が成り立つために必要な一つの原因だけがピックアップされ、他の原因は全て隠蔽されてしまうのである。具体的現象を抽象化することで、一つの原因を取り出し、一つの結果と結合することで、因果法則は構成されるのである。そういう意味では、科学が発見した全ての因果法則は、人間が独自の観点から自然界から抽象化して構築されたものにしかすぎない。厳密に言えば、ある視点から切り取られた人間の主観の産物である。
  
 ありのままの現実世界は把握しきれない無限の多原因からなる複雑な世界である。ありのままに世界を観察するとは、一つの原因を絶対化せずに無数の多原因を受け入れることである。つまり、全ての原因は等価であり、等しく価値があるとする究極の相対主義をとることである。このような全ての複数ある原因が存在論的に平等であるという立場を、多原因相対主義と呼ぼう。
 多原因相対主義の宇宙観は、仏教の縁起思想と同様に、宇宙に役に立たない存在は何ひとつなく、一つの存在が欠けるだけでも宇宙全体が成り立たなくなるという考えとなる。世界に一つしかいないあなたは尊いとするオンリーワン思想とは別の仕方で、全ての存在を肯定する思想を構築することが可能となる。一切が一切と関わることで宇宙全体は成り立ち、どの一つの存在も平等に必要であり、尊いことになる。
 
 しかし、複雑系科学を多原因相対主義と勘違いしてはならない。複雑系科学は、無限なる要素間の相互作用から一つの創発特性が生ずると説くが、多原因相対主義とは異なる。なぜならば、自己の外部の環境要因が排除されているからである。一つの創発特性は、自己のシステムの内部にある要素間の関係だけではなく、その外部にある存在との関係も必要とするのに、それが排除されているのである。あたかも自己の内部にある要素間の関係から自己が成り立つような記述になっている。やはり、ここでも抽象化が起きている。一輪の花が咲くのは、一輪の花を構成する細胞間の相互作用から成り立つと考えており、空気、水、光、土などの外部の要素を無視していることになるのである。やはり、複雑系科学も科学にしかすぎず、抽象化の産物なのである。
 自己組織化システム論の欠点は、自己の内部の要素に特権を与え、自己の外部の存在や要素が自己を支えているという観点を無視し、多原因的世界観を貫徹していないところにある。要素が要素を産出するという考えにそれが露骨に現れている。

 科学思想は、一つの原因を選択化し、他を必要なく排除するという争いにあけくれるが、一方、多原因相対主義は正反対である。
 一つの存在が存在するためには一切の存在が必要であり、一切の存在が存在するためには一つの存在が必要である。このような立場に立つ多原因相対主義は、他を排除しない争いのない究極の平和思想をもたらすのである!!

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# by merca | 2012-08-07 09:25 | 理論

複雑系科学は、社会を捉えきれない。

 創造システム論という形而上学を唱える社会学者がいる。社会学者井庭崇である。創造システム論は、西條氏の構造構成主義に匹敵するほどの独創的な和製の理論である。簡単に言えば、全ての存在は、創造システムとして観察することが可能であるという壮大な形而上学である。自然科学と社会科学の両方の対象も射程に入れている。この理論は、複雑系科学から必然的に導かれる一つの思想的帰結である。社会構成主義の帰結が構造構成主義であったように、複雑系科学の帰結は創造システム論なのである。
 しかし、創造システム論が準拠する複雑性と自己組織化という概念は、ある一つの社会原理を見落としている。以下、それを説明しよう。
 
 複数の存在(要素)が関係し合い、その関係性によって自然に一つの特性が発生することを自己組織化という。秩序は、誰かの意図や作為によって計画的に出来上がるのではなく、偶然に生じたものであるというところが、自己組織化理論の面白さである。そして、社会もそのような要素間の相互作用による偶然性の産物であるということになる。社会変動には、マルクス主義が想定したような必然の法則などなく、単に偶然の積み重ねによって社会は出来上がっている。出来上がった社会秩序(言語、規範、習慣、法律)は、何ら根拠もなく、人々の相互行為の偶然の賜物であるということになる。
 しかし、このような社会秩序の究極的非合理性・無根拠性に耐えうるのは困難であり、人々は社会秩序に対して納得のいく意味付けを与えようとする。例えば、神から与えられた掟であるとか、人権を守るためとか、科学的根拠があるとか、一定の社会的機能を有するためにあるとかである。偶然では耐えきれず、秩序の存在理由を追求するのが人間の人間たる所以である。実は、このような人間の意味付与作用こそが自己組織化の原理を無効化する社会的装置なのである。
 
 一つの社会秩序が人々に受容され、生き残るためには、意味が与えられなければならない。無意味なものは採用されず、滅び行く定めにある。社会秩序は、複数の意識システムによる第二次観察にさらされており、様々な区別に準拠して観察され、意味付与される。そして、一つの意味が多くの人々に共有されることで、逆に人々の行為を拘束することになり、社会秩序が再生産されることになる。これを物象化原理という。物象化によって無根拠性と偶然性は隠蔽され、社会秩序には存在理由=価値が宿ると人々は思うようになるわけである。同一のコミュニケーションが再生産される仕組みは、物象化理論にある。かくして、社会秩序の本当の成立過程である複雑性による自己組織化は隠蔽され、別の物語が付与され、書き換えられるのである。そして、一度、社会秩序が機能しだすと、自己組織化という誕生過程は隠蔽され、書き換えられた新たな物語が実演され、社会的リアリティを獲得し、社会内真実となるのである。自己組織化による誕生秘話は雑音として外部に追いやられるのである。
 
 創造システムがいくら創造物をつくったとしても、その生成過程は隠蔽され、書き換えられ、人々が賛同する別の物語にすり替えられるのである。例えば、人類の誕生は無根拠な偶然であるのが真実だとしても、神による創造神話や科学的物語である進化論によって、書き換えられ、社会に流布するのである。人類の誕生は、全くデタラメの偶然から自然発生したという複雑系科学による真実は人々には堪え難いのである。宗教に準拠して神の子として作られたとか、進化論科学に準拠して進化の頂点として人類は誕生したとか、様々な物語を付与するのである。ちなみに、この意味において、創造論と進化論は機能的等価であると言えよう。
 
 いずれにしろ、仮に社会秩序生成がカオスからの自己組織化によるものだとしても、それは最初だけの話であり、成立後においては、社会システムは物象化原理によって維持されているのであり、自己組織化がなくても回るのである。もっと正確にいうならば、社会秩序は物象化のために必要な意味を付与されるまでは社会秩序として機能しないのである。

  参考エントリー
  「物象化現象の記述」
  http://mercamun.exblog.jp/7502792/
  「言語の恣意性と物象化現象」
  http://mercamun.exblog.jp/10421161/

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# by merca | 2012-08-05 10:54 | 理論

反ホッブス命題・裏社会学への誘い

 社会学者パーソンズをはじめとする多くの理論社会学者たちは、「社会秩序はいかにして可能か?」という命題によって動機付けられ、社会理論を構築してきた。一般に「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、ホッブス命題と呼ばれている。
 社会秩序が存在するということは、人々の行動が一定の規則に従い、一定の範囲内で他者の行動が予測可能であり、社会が全体として秩序だったものとなっているということである。例えば、人々が使用する言葉は文法という規則に従うことで、伝達可能となっている。大凡、社会があることろには規則があり、規則に伴う秩序なしには社会は成り立たない。近代社会であろうと、前近代社会であろうと、これは普遍的な事実である。従って、社会を認識するとは、社会に存在する規則としての社会秩序を認識することに他ならないわけである。社会秩序を記述したものが社会理論の原型となる。これが典型的な表社会学の発想である。

 「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、現実の社会は規則による秩序があるものであり、それは自然なことではなく摩訶不思議な現象であり、秩序を維持するからくりが人為的に存在するという前提に基づいている。つまり、人々の集まりや諸関係は、自然状態としての無秩序=カオスが本来の姿であり、秩序があること自体が不自然なことであるという発想である。無秩序たるカオスから秩序たるノモスへの移行に社会の成立過程をみようとする立場なのである。
 
 ところが、もともと自然科学が対象とする物理世界では、森羅万象が因果法則に貫かれており、無秩序状態こそあり得ない。自然こそが必然の法則=絶対秩序の世界であり、ホッブスが想定するような自然状態こそが人為の産物である。だから、むしろ我々はこう問うべきである。「無秩序はいかにして可能か?」かと。本来自然界は秩序があるのに、なぜ人間だけが無秩序をつくりだすことが可能なのかということである。
 実は、無秩序とは、言い換えれば、偶然性や自由と言い換えることができる。そして、無秩序という観念は、個人の自由の意識の誕生と並行しているのである。万人の万人による闘争である自然状態は、個人が自由に振る舞うことができるという観念を前提としている。個人が本能や習慣や伝統に従い、規則正しく行動しているとすると、万人の万人による闘争などあり得ない。無秩序という観念は、伝統社会から近代社会への移行に伴い、人々に自由の意識が芽生えたことに起因しているわけである。 
 もっというのなら、近代社会が無秩序をつくりだしたのである。自由に基づく偶然性と無秩序を可能とする社会的からくりを解明することも、社会学の役目である。「社会秩序はいかにして可能か?」という命題を追求するのが表社会学だとすると、「無秩序はいかにして可能か?」を追求するのが裏社会学である。
 
 多くの社会学者は、表社会学の立場に立っており、ルーマンですら、その例外ではない。ルーマンは無限なる複雑性として世界そのものを捉えており、原初的状態としてカオスを前提にしている点において、ホッブス命題から思考している。反ホッブス命題である「無秩序(自由)はいかにして可能か?」から出発した社会学者にお目にかかったことがない。自然科学の対象である物理世界や動物世界は必然の規則で貫かれているのに、人間の近代社会のみに、自由に基づく偶然や無秩序がありうることこそが、社会の不思議、玄妙なのである。
 
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# by merca | 2012-06-23 19:36 | 理論

社会学の科学力

 社会学は役が立たない学問であるとよく言われている。その科学性が未熟である故に、実学になり得ないというのである。この考え方に少し待ったをかけておきたい。というのは、科学の公準の一つである予測性という意味においては、かなりの精度をもつ理論があるからである。
 社会学について、予測性を語るのなら、大凡、四つの次元に分けることができる。

   1 行動(コミュニケーション)の予測性
   2 社会構造の変動の予測性
   3 価値意識の変動の予測性
   4 社会階層におけるライフコースの予測性

 行動の予測性はコミュニケーション・システムに対応し、社会構造の変動は社会システムに対応し、価値意識の変動は意識システムに対応し、ライフコースの予測は社会階層システムに対応している。簡単に言うと、人がどのように動くか当てることができ、社会がどうなるか当てることができ、人々がどう考えていくようになるのか当てることができ、人がどのような人生を歩むのか当てることができるということである。

1 社会学における行動の予測性について
 社会学は、様々な社会理論を使うことで、人の未来の行動を当てることができる。
 ある人間がコンビニに行き、商品をレジにおき、店員にお金を渡したとする。社会学からは、店員の次の行動は予測ができる。店員はその人を客として認識し商品を渡すことになる。また、警察官が赤信号なのに通過している原付バイクを運転している若者を見つけたとする。社会学からは、警察官が原付バイクを運転している若者を捕まえにいくことは予測できる。
 前者の売買行為については、合理的選択理論や権力の予期理論によって説明ができる。もし店員が代金を支払った客に商品を渡さないのなら、店員は客から訴えられ店長から怒られ解雇される可能性があるので、商品を渡すという行動にでるわけである。商品を渡さずにお金だけもらうという行動は選択せずに、商品を渡すのである。後者の警察の取締行動については、パーソンズの役割理論から簡単に説明がつくことになる。違法行為を取り締まることが警察官の役割内容だからである。

 一般に誰がどんな社会状況で誰に対してどんな行動したかを代入することで、その行動に対する反応行動を予測することができる。しかし、よくよく考えると、基本的に人々の自己選択・自由意思という偶然性からコミュニケーションが創発されているにもかかわらず、このような必然性が生み出されていること自体が一つの妙なのである。そこで、社会の必然性そのものも、つくられたものであるという観点を社会学はとる。社会の偶然性から社会の必然性をつくりだす装置のことを、物象化という。物象化は、貨幣、真理、権力、愛などの一般化されたコミュニケーションメディアというかたちで作用する。

 秩序が乱れている不安定な社会では、売買行為も警察の行為も、より不確定となり、必然性の度合いが低くなり、人々の行動予測が困難となるが、秩序が安定化した社会では、必然性の度合いが高くなり、人々の行動予測が可能となる。ルーマン社会学では、偶然性を低くすることを複雑性の縮減という。
 要するに、社会の安定性によって、予測性は変わってくるわけであり、社会学の予測能力という科学力も、各国民社会の状態ごとによって異なり、相対的なものなのである。自然科学の絶対的な予測能力とは異なる訳である。ただし、物象化装置そのものの作動の度合いは社会学のみが分析しうるのであり、国民社会ごとの社会診断は可能である。一般に、より近代化した社会すなわち機能分化した社会ほど、社会の必然性は高まるのである。
 もし日本社会でいうのなら、どこの地域のコンビ二においても、お金を支払えば、商品を渡すという行動が予測できるのである。金を支払う=原因が商品を渡す=結果は、必然であり、誰でも予測できるのである。社会学者のみならず、一般市民も他者の行為を予期することができ、社会は回っているのである。しかし、このような社会法則は単に維持されているにしかすぎないことを忘れないのが、社会学者が専門家である所以である。
 ちなみに、ジョンレノンがイマジンで、国家も人々の思い込みで維持されているにすぎないと喝破したのは驚くべきことである。イマジンは、再帰的近代化意識による社会学的啓蒙の一つである。

2 社会構造の変動の予測性
 社会構造とは、社会階層、国家、市場、組織体、家族、地域共同体などの一定の関係を指し、その関係の変化を予測できるかどうかが、社会学の科学力が問われるところである。社会変動論の中核は、近代化論である。近代化しつつある社会は、近代社会特有の構造をもつことになる。例えば、近代化が進めば、家族形態は、三世代家族から核家族になり、家族は生産ではなく、消費の単位となる。このような構造上の変化は、マクロ社会学的に予測可能である。社会学の近代化理論からすると、近代化しつつあるアジア社会の変化は予測できる。マルクス主義の社会変動論よりも、社会学の社会変動論のほうが、明らかに科学的なのである。

3 価値意識の変動の予測性
 人々の価値意識がどのように変化していくのか予測するのも社会学の役目である。基本的には、これも近代化理論によって予測可能である。自由や人権感覚の価値意識、男女平等の価値意識、民主主義を肯定する価値意識、個人主義などの価値意識が人々に内面化していくのである。近代化しつつあるアジア社会の価値意識の変化はこのように予測できる。

4 社会階層におけるライフコースの予測性
 ある特定の社会階層に生まれた者やある特定の学歴を取得した者が、どのような社会的地位につくのか予測できる。これは、ブルデューのハビトゥス論、文化的再生産論によって予測可能である。例えば、日本社会では、建築作業員のヤンキーの子は、学校で勉強ができなければ、ヤンキーになり、やはり建築作業員等のブルーワーカーになる。このような文化的再生産は頻繁に起っている。小学校の先生が家庭環境と本人の生育歴から類推してヤンキーの子がヤンキーになることを当てることができるのはそのためである。親の社会階層と家庭環境、それに能力と学力を掛け合わせると、大凡、その人が背負っている社会的宿命を予測でき、職業選択を含めたライフコースを予測できるのである。

まとめ
 臨床社会学の分野では、おそらくもっとも行動予測力が高く一般化できる実学は、やはりパーソンズの行為の準拠枠か宮台氏の権力の予期理論である。心理学理論よりも人の行動を予測できる科学力があると考えられる。宮台の権力の予期理論は、正確な個々の変数を代入することで、個人の行動を予測することができるのみならず、社会生成のメカニズムを同時に解明しているところに素晴らしさがある。宮台氏の権力の予期理論は、社会学における相対性理論と言っても過言ではない。

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# by merca | 2012-03-04 11:18 | 理論

科学と疑似科学の境界線は恣意的である。

 ニセ科学批判クラスタのサブリーダーである、なとろむ氏が早川教授と議論しているのを見つけた。しきりに、なとろむ氏は、ニセ科学批判批判者である私の議論を薄っぺらいと批判している。
  http://togetter.com/li/69786
  http://togetter.com/li/77766
 しかし、ニセ科学批判の本質が科学主義を利用した通俗道徳主義であるという私の分析は、いまや多くのニセ科学批判批判者たちが共有している認識であり、社会学的にも正しいと考えられる。社会運動論的には、菊池派のニセ科学批判は科学主義と通俗道徳という二重構造をもつことで、議論に負けない正論となっており、その正論にのっかりたがるネット論客たちが菊池氏のもとに参集し、現在のニセ科学批判クラスタが生成した。正論に安住してネット議論できるニセ科学批判という思想は、ネット議論好きの人たちが寄生するネット思想として急速に流布していき、彼らの自尊心の拠り所となった。ここまでの分析は、普通の社会学者なら誰でもわかる部分である。
 そしてさらに「ニセ科学批判」とか「ニセ科学批判批判」という言葉が多くのブロガーにコミュニケートされ、これらの言葉に多くの意味が付与されるようになり、ニセ科学批判議論は一つの確立したジャンルを形成してきた。このような思想伝達のコミュニケーション過程を分析するのが社会学の役目である。ニセ科学批判者たちが自分たちと反発する論者と議論することにより、第三者=世間の観察に晒され、好むと好まざるに関係なく、ニセ科学批判の一定の社会的なイメージが構築されていくわけである。私はニセ科学批判について自己のブログで言明することで、このような社会的過程を促進させたと思っている。
 多くの人たちにコミュニケートされて出来上がったニセ科学批判という言葉にまつわる意味や価値を受容できない者はニセ科学批判から卒業していった。それがTAKESAN氏である。同氏は、ニセ科学批判がコミュニケートされる社会過程が自分たちの意図せざる方向に暴走する恐ろしさを嗅ぎ取り、ニセ科学批判という言葉から距離をとったと思われる。
 また、ちなみにニセ科学批判クラスタが平川氏のSTSに噛み付く現象も興味深い。STSにはニセ科学批判クラスタたちを脅かす要素が隠されていると見ている。

 さて、なとろむ氏は科学と疑似科学の境界線について以下のように疑問を呈している。
   http://twitpic.com/3egpj3
 ここでは、グレーゾーン論の例として、白と黒の明度のスペクトラムが取り上げられている。結論からというと、限定付きで線引きは可能である。まず、任意の二つの明度の比較は可能だと考えられる。異なる明度Aと別の異なる明度Bを比較し、どらちが黒に近いか比較することができ、その中間点に線引きすれば分けることができる。比較できるということは、比較するための判断基準があるからである。それは光の反射量である。光の反射量という連続性尺度が隠蔽されているのである。科学と疑似科学が連続的であっとしても、比較する判断基準が必ず隠されているのであり、任意の二つの点を比較することで区別可能となる。
 さらに、実は、ニセ科学批判者が採用するグレーゾーン論は、より科学的かどうかを比較する判断基準そのものが論者によって異なり、曖昧であるという事実を隠蔽する手段である。逆にいうと、曖昧な量的な思考で科学と疑似科学を分けているだけであり、はなから質的な二分法で分けるという発想を理由なく排除している。ニセ科学批判者は、科学であるかどうかの問題について、量の問題として捉え、質の問題として捉えることを避けているのである。例えば、どこまでが明るくてどこまでが暗いのか、どこまでが寒くてどこまでが暑いのかという量の問題は、それを判断する主観に委ねられる。同じく、科学であるかどうかを量の問題として捉えると、どこまでが科学でどこまでが科学でないかは、それを判断する主観に委ねられる。科学を量の問題として捉える限り、科学と疑似科学の境界線は、ニセ科学批判者の主観すなわち恣意性に委ねられることになるのである。そして、自分たちの恣意的な判断を客観に見せかけて、非難対象にレッテルを貼るのがニセ科学批判者の常套手口である。
 そもそも、ある現象に対して、観察道具として連続性尺度を採用するか、質的二分法を採用するかは、観察者の全くの恣意的な事柄である。ニセ科学批判者は、科学という知識に対して、連続性尺度を適用する必然性があるかのように装っているわけである。連続性尺度の場合、任意の点を基準にして、白黒の区別をつけることになる。つまり、任意の基準点は、判断者の恣意性や価値観に委ねられることになる。ニセ科学批判者による科学と疑似科学の区別は、恣意性や価値判断が混入しているので要注意である。恣意性に科学という名前を使うことで正当性があるように見せかけているのである。
 ニセ科学批判者は、科学とは何にかという本質的問題から逃避し、非難対象にニセ科学のレッテルを貼ることで我こそは正当科学だと自己満足しているのである。

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# by merca | 2012-02-25 09:58 | ニセ科学批判批判

後発的近代化論と世界社会論による愚民社会論(宮台・大塚対談)批判

 宮台真司と大塚英志の対談をまとめた「愚民社会」という書物が社会に出ている。愚民社会といういかにも民衆をバカにしたタイトルのように思えるが、実際のところ、内容もそのとおりである。
 まず、宮台氏と大塚氏は、近代化をすべきだという点において、共通の目標をもっている。端的にいうと、日本社会は近代化に失敗しており、日本人は愚民のままであるという。愚民とは「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」という三つの特徴をもつという。さらに皮肉を込めて愚民ではなく、二人とも土人という用語を使用している。宮台氏は、この三つに対して、「引き受けて考える社会」「知識を尊重する社会」「善いことをすると儲かる社会」を提案し、近代化を完成させる社会的処方箋と考えている。特に、個人ではなく、地域自治体を主体とした自立的共同体にその可能性を期待している。
 大塚英志に至っては、阪神大震災と東日本大震災の両方の被災者に対して、行政を頼りにする点において、愚民だと思っているようである。例えば、原子力発電所の津波による被害の可能性などは、震災前から共産党の赤旗などで流されていたわけであり、情報を収集をしなかった方が悪いという論調である。
 
 さて、果たして、このような近代化の失敗が全ての諸悪の根源であるという仮説は今更成り立つであろうか?そもそも近代化が失敗したと言えるのだろうか? またこれまで、宮台氏は、現代日本社会を成熟社会つまり後期近代社会として論じてきたが、日本社会がそもそも近代化した社会ではないのなら、宮台氏の成熟社会論は破綻することになる。
 
 結論からいうと、社会学の権威である富永健一の近代化論などの正統派社会学の立場からすると、現代日本社会は、近代化した社会であり、後期近代社会=成熟社会である。ただし、西洋諸国と異なり、後発的近代化というかたちで近代化が進んできた。社会学者富永健一によれば、欧米社会の近代化が、社会的近代化と文化的近代化から始まり、政治的近代化を経て経済的近代化へと進展したのと反対に、日本社会を含むアジア社会の近代化は、経済的近代化から始まり、政治的近代化を経て、社会的近代化と文化的近代化が進んだという。このことは、欧米社会と日本社会の歴史を少しでも紐といてみれば明らかである。西洋社会では対人関係のスタイルや思想などの分野から近代化から始まるわけであるが、日本や中国などの後発近代化社会では経済や政治という社会の構造(システム)から始まり、対人関係のスタイルや思想が近代化されるという順番となる。
 
 この分析からわかるように、日本社会では、宮台氏が指摘する「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」などという人々の心の習慣は最終段階で近代化されることになる。なので、社会変動論的には、後発的近代化社会においては、これは当たり前の現象なのであり、意識面における近代化の遅れの原因を日本人の文化的特性に帰属させるのは社会科学的には誤りである。
 宮台氏と大塚氏がこのような誤謬に陥るのは、西洋社会の近代化モデルにとらわれているからである。近代化には多様なかたちがあると認める後発的近代化論の立場からは、近代化を西洋モデルだけで判定しようとする両氏の愚民社会論は成り立たない。愚民社会論を唱える両氏は(西洋/非西洋)という区別に準拠し、西洋をマークし、その観点から日本社会を観察しているにすぎない。

 さらにいうと、もう一つの盲点がある。それは、小林よしのりと同様に、両者の議論が国民社会だけに準拠した議論になっている点である。両者の議論の対象はあくまでも、日本社会に限定されており、従って頻繁に天皇制や自治的共同体とか、あるいは三島由紀夫や柳田民俗学などの国民社会レベルの事柄が論じられている。しかし、近代化が進み、後期近代社会になると、コミュニケーションは世界規模になる。全体社会は国民社会ではなく、世界社会となる。震災時に世界からの援助やメッセージがあったのは無視できない事実である。また、一つの国民社会が滅亡しようとしても、多数の他国が必ず介入し、人々を支援したりする。
 意識しようがしまいが、今や世界の人々は国際社会=世界社会に支えられて生きている。経済(市場)、政治、法律、宗教、科学、スポーツ、恋愛など、一つの国民社会を越えて、コミュニケーションが創発されている。我々は国家が統治する国民社会の中に生きている前に、世界社会の中にいるのである。ルーマンやボルツが全体社会がもはや国民社会ではなく、世界社会であると喝破したごとくである。ポストモダン社会は世界社会が範囲となるのであり、国民社会ではない。ここでも、両者は(国民社会/世界社会)という区別に準拠し、国民社会維持という観点から愚民社会論を唱えているのである。

 このように愚民社会論が準拠する区別を相対化し、世界社会という別の観察地点から観察すると、全く日本人は愚民ではないことがわかるであろう。震災においては、世界から日本人の行動は賞賛されているのである。

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# by merca | 2012-02-12 11:41 | 社会分析

科学哲学者・戸田山和久の科学観の矛盾

 科学哲学者たちは、科学とは何かについて探求し、一定の科学観を構築しようと努める。そして、科学と非科学(疑似科学)の境界線を引くことができる科学観こそが確立した科学観の資格をもつと考えられてきた。ただし、科学哲学者たちの科学観は、世界的に有名な超一流の社会学者たち、例えばウェーバー、マートン、ルーマン、ブルデューなどの社会学的視点による科学観とは異なる。社会学における科学と非科学の境界線は、社会システムの構造と相関しており、視点が異なるからである。社会学の場合は、科学的知識の内容の真偽は括弧に入れ、その社会的、歴史的な発生条件によって科学を定義することになる。
 
 さて、疑似科学批判者あるいはニセ科学批判者たちが準拠する科学観は、概ね伊勢田哲治(ベイズ主義)や戸田山和久などの科学哲学者の科学観に源流がある。ニセ科学批判の祖である菊池誠氏の科学観もこれらの科学思想を受け継いでいると考えられる。数年前に、社会学玄論ブログ内のコメントで、菊池氏が私に伊勢田哲治の「疑似科学と科学の哲学」を勧めてきたことも記憶に鮮明に残っている。
 菊池氏の科学観の特徴として、科学と疑似科学が連続しているというグレーゾーン論を見てとることができる。つまり、一つの学説は科学か疑似科学に完全に分けることができないが、限りなく疑似科学に近い学説を科学と称する場合、ニセ科学として批判するというわけである。さらに、科学と疑似科学を二分法的に明確に分ける科学観を批判している。
 現在のニセ科学批判クラスターたちも、グレイゾーン科学観を共有しているものと考えられる。戸田山和久氏著作の「「科学的思考」のレッスン」という著作においては、このグレイゾーン科学観が分かりやすく説明されている。以下、この科学観を批判的に検証していきたい。

 まず、科学哲学者・戸田山和久氏は、「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法に基づき、科学概念を整理する。「科学が語る言葉」とは、科学の研究対象物の属性を記述する科学的概念である。酸素、DNA、自然淘汰などである。一方、「科学を語る言葉」とは、仮説、理論、反証、実験など、科学的知識の獲得方法にまつわるメタ科学的概念である。さらに、戸田山氏は、これまでの科学教育が単なる科学的概念の伝授となっており、メタ科学的概念の学習こそが必要だと主張する。このメタ科学的概念を学習することで、一般市民の科学的リテラシーの基礎ができると考えている。
 明らかに、(科学的概念/メタ科学的概念)という区別は、(目的=知識内容/手段=知識内容の獲得方法)という区別に対応していることが分かるのである。つまり、科学のアイデンティティが、その知識内容にあるのではなく、知識獲得方法や手続きにあるとする科学観である。この点を押さえておこう。

 科学の本質がその知識獲得方法にあるとするのなら、自ずと科学と疑似科学の境界線も、知識獲得方法を判断基準として、分別されることになる。しかるに、戸田山氏のグレーゾーン論は、そういう立場をとらずに、知識内容に準拠して科学と疑似科学の区別をつけようとしている。説明しよう。

 戸田山氏は、科学的知識は絶対的真理ではなく全て仮説であり、より良い仮説とそうでない仮説があるだけであると考える。さらに、より良い仮説とそうでない仮説を区別する基準は真理に近いことであるという真理の近似値説を否定する。
 その代わりに、「より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる」「その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くのことがらを、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」の三つの基準を用いることが妥当であると考える。言い換えると、予測能力、明確性、説明能力の三つが科学的知識の本質であるというわけである。例えば、天動説よりも地動説のほうが、予測能力、明確性、説明能力があり、より科学的だというわけである。
 ここでは、ある仮説や理論が事実そのものと合致していることが科学的であるとする論理実証主義的な素朴科学観は、否定されるわけである。事実と合致していることを確かめる手段として実験なるものが存在するが、実験で得られた仮説や理論があまり説明能力がないのなら、実験結果よりも既存の科学的仮説がよりよい科学的知識のまま君臨することになる。
 物理的リアリティに単純に訴えること、つまり自然による審判(実験)は二次的な要素にすぎないことになる。これは、ニセ科学批判者の菊池氏が水伝に対して既存の科学的学説と矛盾しており、反証実験の必要なしと喝破したのと同じ理屈である。既存の公認された科学的学説と矛盾することなく、既存の学説も含めて説明できることが求められるのである。
 
 幽霊や超能力や波動の研究などの超常現象を扱う研究は、いくら科学的手法で実験しても、既存の科学的学説と矛盾しており、予測能力、明確性、説明能力がないため、現代科学から排除されることになる。つまり、戸田山氏や菊池氏からすると、端的にニセ科学となる。これらは現代科学に居場所はない。

 いずれにしろ、予測能力、明確性、説明能力は個々の科学的知識の内容=仮説や理論を対象としている判断基準であり、その知識獲得方法や手続を対象にしている判断基準なわけではない。つまり、科学か疑似科学かの判断基準を科学的知識の内容に準拠して区別し、グレーゾーン論を唱えているわけである。本来は、知識獲得方法に準拠して科学と疑似科学は区別されるべきであるのに、科学的知識の内容に照準を合わせてしまっているわけである。戸田山氏は、折角、科学の本質はメタ科学的概念=科学的知識獲得手続にありきと提唱しているにも関わらず、科学と疑似科学の境界線を知識内容の予測能力、明確性、説明能力に求めてしまっているのである。この矛盾は誠に残念である。

 このように戸田山氏の科学観に矛盾が起るのは、一つの類推であるが、ニセ科学批判者特有の一つの先入観や価値観からではないかと考えられる。それは、はなから超常現象を扱う研究を科学から排除すべきだという先入観や価値観である。予測能力、明確性、説明能力の乏しさによって、超常現象を扱う研究は簡単に排除されるのであるから。
 公認された科学的手法で得られ、既存の科学的知識を覆す実験結果によって構築された仮説や理論が、予測能力、明確性、説明能力がなく、既存の学説と不整合であるとする理由だけで、却下され、ニセ科学のレッテルを貼られることは、科学の進歩の妨げになるのである。

 科学のアイデンティティをどこに求めるかで、科学とニセ科学の区別基準が変わってくるわけであるが、知識獲得手続を対象として境界線を引くことで、明確な二分法的基準を確立することができる可能性がある。例えば、科学界で公認された方法(観測・実験している/観測・実験していない)という二分法には、グレーゾーンは存在しないのでないとかと思われる。科学界で公認されていない観測・実験方法で得られた知識を科学的知識と豪語すると、はきっりとニセ科学となる。
 二分法的思考は重要なのである。実のところ、当の戸田山氏自身が「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法で科学概念を整理し、自らの科学観を確立しているわけであるから、自身が二分法を否定するのは自己矛盾なのである。さらに、二分法が駄目だという言明こそが、(断続性=二分法/連続性)という二分法に準拠しているというパラドクスにニセ科学批判者は盲目である。 システム論的に言うと、人間の思考は区別=二分法から生じ、区別=二分法に終わる他ないのであり、二分法は思考の根源である。さらに、一つの二分法への執着を別の二分法で相対化する営みこそが、必要とされ、それが本当の科学的リテラシーにつながるのである。

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# by merca | 2012-01-08 11:34 | ニセ科学批判批判