タグ:予言の自己成就 ( 4 ) タグの人気記事

あやかし(物の怪)としての社会病理概念

 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなど、これらの言葉は、学者や専門家が人々のコミュニケーションを観察してつくった社会病理概念である。つまり、当事者ではなく、第二次観察の結果、つくられた概念である。
 そして、今や、これらの負の行為を行った加害者は、無条件に社会から非難され、人格を全否定される傾向にあり、道徳的排除の対象となるのである。妻に暴力を奮ったら、DV夫としてレッテルを貼られ、子供に体罰をすると虐待親としてレッテルを貼られ、片思いでつきまとうとストーカーとしてレッテルを貼られ、部下に怒鳴るとパワハラ上司としてレッテルを貼られ、生徒に体罰をすると暴力教師としてレッテルを貼られる。
 すなわち、一度、そのような負のレッテルを貼られると、その人物の人格が絶対悪として構成され全否定されてまい、以後、どのような善い振る舞いをしても究極的に善い人間として見なされはしなくなる。被害者からは、更生はあり得ないと思われるのである。
 
 実は、DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメント等のような社会病理概念は、大衆にとっては、(加害者/被害者)という二元コードに準拠し、さらにメタコードとして(善/悪)という道徳コードに準拠している。簡単に言うと、加害者と見なされると、全人格において絶対悪であると見なされることになる。
 やかっいなことに、このような負の全人格的レッテルのせいで、加害者と被害者の関係修復が困難となってしまうことがある。夫婦関係、親子関係、部下上司関係は、分離崩壊という選択肢しかなくなり、家族関係や人間関係を崩壊させるという病理現象を生み出している。
 社会構成主義の観点からすると、一度、加害者に対してそのような負の対人認識が出来上がると、被害者は、歪んだ認識で全ての加害者の行為を悪意として受け止め、コミュニケーションは悪化していくことになる。また、道徳的に悪と思われたくないために加害者も被害者に不適切な反発言動を行い、その反発言動を根拠として、DVや虐待等のコミュニケーションが再生産されていき、益々、社会病理行為はリアルになっていき、予言の自己成就をとげる。
 
 学者や臨床心理士が診断して社会病理概念を適用するのならまだしも、当事者が社会病理概念を恣意的に使用するようになってしまい、単なる夫婦喧嘩がDVとなり、単なる親子喧嘩や躾が虐待や体罰となり、単なる恋人への不満表明がストーカーになってしまっている。
 学者の二次観察によってつくれた社会病理概念は、あくまでも専門家の診断によるべきであるが、当事者が概念の取り扱いに注意することなく、その概念を乱用するために、道徳コードに準拠してしまうわけである。本来、社会病理概念には、その行為の加害者が悪であるという道徳的判断は含まれてないにもかかわらず、一度、当事者である大衆に流布するや否や、道徳コードと結合してしまうのである。そして、人間関係崩壊という二次病理現象を引き起こしているのである。

 本来、人間科学的には、社会病理概念の役割は、加害者がそのような社会病理的行為をしてしまうメカニズムを解明し、問題解決することであり、加害者に道徳的判断を下すことではない。にもかかわらず、社会病理概念は、人口に膾炙した時点で、(加害者/被害者)というコードを経由して、(善/悪)という道徳コードと結合し、自らを再生産するとともに、加害者の人格に対して道徳的排除を惹起させ、家族や人間関係の破壊という別の次元の病理現象を新たに生み出しているのである。
 システム論的には、学者による第二次観察である社会病理概念それ自体が大衆によって道徳コードに準拠して観察されたことになるわけである。所詮、学者や専門家の観察(=専門用語)も社会から超越した特別な観察ではなく、それ自体が一つの社会内観察にしかすぎず、大衆の道徳コードによる二次観察によって利用される宿命にあるのである。多くの場合、大衆は、人間科学の諸概念は道徳コードによって観察し、一方自然科学の諸概念は真偽のコードで観察するのである。このように学者がつくった専門概念を大衆が活用するのは、再帰的近代化した社会にとっては、避けられない現象であるが、社会学者は、その過程自体を明らかにし、問題提起する役割を負っているのである。要するに、科学的知識に対する大衆の二次観察によるコミュニケーションを分析することになる。
 
 そして、多くの場合、社会病理概念は道徳コードと結合した時に、息吹を得て、人々の情念に取り付く負のあやかし(物の怪)となるのを心得ておくべきである。無論、社会病理概念だけがあやかしとなるのではなく、思想もあやかしとなる。むしろ思想があやかしになることの方が多い。その代表がニーチェ思想やマルクス主義である。
 このあやかしが、喧嘩している夫婦や親子の情念に取り憑き、最悪の物語を作り出し、事態を悪化させ、家庭崩壊という不幸をもたらすことがある。DVとか虐待という専門用語に取り憑かれた関係を解除し、専門用語では決して一般化されない個別的な心の理をしっかりと受けとめる実力のある心理カウンセラーや福祉ケースワーカーの存在が求められるのである。学者や評論家のつくった言葉の副作用を知るべきである。
 
 DV、虐待、ストーカー、パワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメントなどに含まれる道徳的判断をアポケーし、事実を事実として受け入れ、人の心の理を把握し、どのような道筋でその人に社会病理概念や思想が取り憑いたのか見極めるのが、真の臨床家である。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2016-08-10 09:15 | 社会分析 | Comments(0)

祝 人気ブログランキング社会科学部門1位

 社会学玄論のブログが、1月5日午前0時48分現在、人気ブログランキング社会科学部門1位となりました。
 読者の皆様!! 応援、ありがとうございます。
 ついでに、社会学玄論のツィッターを紹介しておきます。
 https://mobile.twitter.com/rontaku14?p=s
 今年は、ネット社会学者、ネット思想家の立場から、著名な思想家や学者に議論をふっかけていきたいと思います!!
              放浪の社会学ブロガー 論宅より

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2016-01-05 00:55 | Comments(0)

「かぐや姫の物語」評論「もし天人の音楽ではなく、カノンだったら」

 高畑監督の「かぐや姫の物語」のラストシーンにおいて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンがある。このシーンは、色々と話題になっているようである。特に、BGM 「天人の音楽」はあまりにも軽快で明るく優美であったために、違和感を感じる人も多かったようである。
 しかし、天人の音楽は、極めてスピリチュアルであり、この音楽でないと、この場面は成り立たない。かぐや姫の本心である地上界に止まりたいとする欲望は、あけっなく無慈悲に断たれる。優美で明るいにもかかわらず、この曲が怖いと感じた人たちも多くいるようである。それは、天人の世界とは涅槃=死を意味するからである。涅槃とは一切の煩悩のない境地である。高畑監督の描写でも分かるように、天人の世界は、苦悩のない平和な阿弥陀仏の極楽浄土と同じであり、出迎えの光景は阿弥陀二十五菩薩来迎図そのものである。
 死とは、自己の意思とは関係なく、そのように無慈悲に突然やってくるものである。死によって、人生は突然途切れる。地上でのかぐや姫の生も途切れ、この世における一切の記憶はなくなる。記憶がなくなることで一切の煩悩から解放される。この場面における天人の音楽が怖いと感じる人たちは、自己の生もいずれは死によって途切れるという恐怖からくる。
 しかし、一方で、涅槃への誘いとしての昇天は、全ての記憶を失いリセットされる感覚があり、何も考えず、一切から解放され、自由になった気分もする。実は、この昇天の儀式そのものが何度も繰り返されてきたような感覚に襲われる。この昇天の儀式そのものがとても懐かしい気がする。心地よさと懐かしさを感じるのは、私だけであろうか?
 それにしても、死に際して、全てを忘れて何も残さず地上から去ることができる人などいるであろうか? 多くの人たちは、煩悩を断ち切れず、幽霊として地上界に半ば止まり続けているような気がする。
 ともあれ、天人の音楽には、どんなことも全て忘れてリセットしようじゃないかみたいなスピリチュアルメッセージがある。かぐや姫の物語を見てこの曲が耳に残った人たちが多くいるようである。魂の深い部分と共鳴したものと考えられる。昇天の儀式の記憶である。皮肉な事であるが、地上の記憶は忘れてしまうが、逆に昇天の儀式の記憶は魂に刻まれているのである。
 
 さて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンが、もし天人の音楽ではなく、神曲「パッヘルベルのカノン」だったらどうなるだろうか? カノンは、天から授かった人類史上最高のスピリチュアルな曲である。カノンは、一切肯定の曲である。記憶も含めて全てのこれまでの過去を肯定し、未来永劫に生きることを肯定する曲である。煩悩も肯定され昇華されていくことになる。これに対して、天人の音楽は、過去の生を無にするリセットの曲である。ある意味、対極にある。仏教的にいうと、阿弥陀教と法華経の違いである。
 あのシーンに、カノンを流すと、おそらく、かぐや姫の物語の意味が一変することになる。かぐや姫は自己の生を肯定し、煩悩の意味を転換し、昇天し、永遠の生命を生きることになる。
 そうすると、高畑監督が描こうとした物語のテーマを変えてしまうことになる。手塚治虫の火の鳥と同じになってしまう。カノンのスピリチュアルメッセージである「宇宙に存在するものには全て意味がある」が物語の意味を一変させてしまう。かぐや姫の物語から切なさが消えてしまうだろう。
 そうなると、かぐや姫が輪廻転生して再度地上界に生まれ、同じく来世でも夫婦になった竹取の翁のもとに子供として生まれないといけなくなっしまう。宇宙生命によって、がくや姫の煩悩は肯定されることになる。その際、カノンを流すべきである。カノンは生命の曲である。
 
 「魔法のプリセンセスミンキーモモ」を知っているだろうか? 実は、大体、 魔女っ子物シリーズは古典竹取物語の設定にモデルがある。 同作も設定が似ており、夢のファナリナーサから来て、地上世界の夫婦のもとで暮らするというパターンである。いずれ別れはやってくるが、その別れがかぐや姫と異なる。主人公のモモは、子供をかばって交通事故で死ぬが、今度は地上界の父母の本当の子供として生まれ変わることになる。まさしく、ミンキーモモの最終話こそが、かぐや姫の希望=煩悩の肯定の物語なのである。このような物語ならば、天人の音楽ではなく、生命の再生・誕生を肯定するカノンがふさわしくなるであろう。
 確かに「かぐや姫の物語」においても、ラストに地球を見て自然に涙するかぐや姫と月に映し出された赤ん坊のかぐや姫のシーンによって、地上界の思い出は煩悩の消滅した極楽浄土に行っても意識としての記憶からは消えるが、魂の記憶として未来永劫に残るという可能性を示唆して終わっている。
 しかし、それは、あくまでも魂の記憶としてであり、本当にまた地上界の懐かしき場所に帰ってくることができるかはわからない。だから、切なさが表現できる。そして、魂の記憶としてこの希望はかえって永遠化されることになる。
 私は、「かぐや姫の物語」に、魂に刻まれた記憶は永遠不滅である、というメッセージを読みとったのである。このメッセージを伝えるためには、天人の音楽による極楽浄土の描写がないといけない。カノンを使用すると、昇天によって記憶を永遠に魂に封じ込めるのではなく、命の再生のイメージとなってしまい、昇天が新たな別の生を生きるための儀式となってしまう。
 お迎えの場面のBGMをカノンにしたら、「かぐや姫の物語」は、魂の記憶の問題ではなく、永遠の生命(輪廻転生)をテーマとしたものとなってしまうのである。物語のもう一つの可能性として、それはそれでよしかもしれない。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 

 
[PR]
by merca | 2015-03-21 15:51 | Comments(0)

県民性性格判断はニセ科学批判を越える。

 県民性性格判断が流行っている。県民性性格判断とは、異なる地域社会=県に育った人間は、異なる性格傾向や行動傾向を有するという仮説である。東京と大阪で育った人間が異なる文化を身につけ、異なる行動様式を身につけていることはよく指摘される。そもそも、言葉が違っており、思考形態が異なるのかもしれない。血液型性格判断はニセ科学かもしれないが、県民性性格判断は、社会学理論と実に適合的である。
 社会学では、人間は社会によって共通の価値観や規範を埋め込まれ、行為すると考える。パーソンズ社会学は、それを精緻に分析し、理論化している。また、ブルデューのハビトゥス論も育った社会によって人の趣味や嗜好が異なることを理論化している。いずれにしろ、社会学のこれまでの知識体系と、県民性性格判断は矛盾しない。県民性性格判断は、社会学で言うところの人間の社会化という事実に理論的根拠をもっている。育った社会が異なれば、異なる性格と行動になるというのは、社会学的には真理である。
 
 ただし、県民性がアイデンティティとして強く意識されると、異なる局面を迎える。例えば、大阪人は大阪人らしく何事に関しても笑いをとらなければならないということが規範化され、それを演じるように作用するようになるのである。本当は静かにしたい大阪人も、大阪人として振る舞うことを強いられ、東京人に対して無理に笑いをとろうとするようになる。このような大阪人をよく見かける。他県民の前で、自己の県民性を演じる義務を負うことになるのである。県民性が過度に誇張され、過剰役割意識となるのである。こうなると、社会化ではなく、物語化となる。大阪人はいつでも漫才師のように笑いをとるということが、育った環境というよりも、そのようなアイデンティティ物語を所有していることで、本当にそうなるのである。
 
 さて、ここで鋭い人ならもうお分かりだろう。所謂、社会学でいう予言の自己成就が起こっているのである。大阪人は笑いをとるという県民性性格判断そのものが、大阪人をして笑いを取るようにしむけ、本当になるのである。
 そうなると、もともとあった地域社会での社会化のせいで県民性ができたのか、それとも県民性性格判断が流行ったせいで県民性がつくられたのか、区別ができなくなるし、実際上は区別しても意味がなくなるのである。ウソ(対象と認識の不一致)が本当(対象と認識の一致)になり、ウソと本当の区別が無効になるのが、社会学上の真理であり、自然科学とは全く異なる原理で社会は観察されなければならないのである。当初、デタラメであった一部の県民性性格判断も、流行れば事実になるのである。
 
 これと全く同じで、脱社会性やニートという若者概念も、それが流行り、若者が自らのアイデンティティとして採用すると、本当にそうなるのである。宮台社会学における若者概念も、それが流布し、大人たちが若者に対して使用し始めると、両者の相互作用の結果、若者に内面化・規範化され、本当にそうなるのである。学習障害や人格障害やアドルトチルドレンなどの精神医学的あるいは心理学的レッテルも、流行って内面化されれば、本当にそうなるのである。単純な実証主義は社会には通用しない。実演主義のみが社会的真理を獲得するのである。
 
 ニセが本当になる社会科学の世界において、ニセ(社会)科学などは存在しないし、無意味である。その意味において、ニセ科学批判は自然科学のみに限定するというニセ科学批判者天羽氏の姿勢は極めて正しいのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2010-07-13 00:04 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)