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思想・宗教より尊いもの

 世界には様々な思想や宗教が溢れている。
 しかし、思想や宗教が尊いのではない。
 尊いのは、思想や宗教を通して愛する者の幸福を願う人々の美しい心=他者愛である。
 たとえ、どのような優れた思想や宗教であったとしても、憎しみや利己心から思想や神仏を利用する者は、この世に破壊をもたらすであろう。
 
 本当に祈る人は、自分ではなく、愛する人たちを守ろうとし、愛する人たちの幸福のために、必死に思想にすがったり、神仏に祈ったりする。
 人は、自分のことではなく、家族や愛する人たちの幸福のために神仏に祈るのである。
 その時、尊いのは神仏というよりか、むしろ愛をもつ祈る者の方なのである。
 他者の幸福を祈った時、神仏は、その人に宿るのである。
 利己心から祈る者には、神仏は宿らない。
 利他心から祈る者にのみ神仏は宿るのである。
 
 この世の中にどんな優れた思想や宗教ができようとも、利己心から祈る者には、救いはないのである。どんな優れた社会思想であったとしても、恨みと憎しみの心を持つ人たちに利用されたら、世界を破滅に導くであろう。マルクス主義がその典型であった。マルクス主義を利用する醜い為政者たちのために、多くの人々が犠牲になった。
 赤軍派が自らの醜い自尊心のために同志をいじめ殺したり、また社会に恨みを持ったオウム真理教の麻原彰晃氏も仏教やインド思想を利用して若者を騙し信者として洗脳し、罪のない人たちを殺した。これらは、利他心ではなく、利己心を根本動機にして思想や宗教を利用した例である。
 神仏に家族の幸せを祈る平凡な庶民の方が尊い心=他者愛をもっているにもかかわらず、若者は安易にエゴイズムから奇妙な思想や宗教にかぶれるのである。

 しかし、心ある社会主義者を初めて知った。ムヒカ元大統領である。彼は、社会主義のために革命を望んだのではなく、愛する貧しい人たちを幸福にするために、戦ったのである。社会思想は、人々の幸福のための手段にしかすぎない。利欲や保身のために思想や宗教を絶対化したり、思想や宗教を利用して人を煽動するかぎり、戦争が起き、世界平和は到来しない。
 スターリンや毛沢東などの社会主義を標榜する独裁者は、多くの人々を殺戮した。暴力革命は民衆の命や幸福を奪う本末転倒の思想なのである。

 何のために思想に心酔しているのか、何のために宗教にすがっているのか、それを問うてみるがよい。もし保身や利己心のためであるのなら、自身と世界を破滅に導くであろう。
 ニーチェ思想にかぶれる多くの若者は、他者の幸福のためではなく、自我防衛のためにかぶれるのである。ムヒカ氏とニーチェは正反対なのである。

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by merca | 2016-05-03 22:23 | 反ニーチェ

つくられる反中感情の脱構築

 他国・他社会の視点・視座から構成された事実を虚構と見なし、自国・自社会の視点・視座のみに準拠して構成された事実に基づいて、他国・他社会を価値判断し、敵国感情を抱くことは、社会病理現象の一つである。
 中国社会は意図的に反日感情を煽る教育をしているわけではなく、中国社会の視点から構成された侵略行為という事実に基づいて自国の歴史教科書をつくっているわけである。この場合、侵略かどうかを決定する権利は被害を受けた側にあり、その視点から事実が構成されることになる。
 例えば、いじめはいじめを受けた者がいじめと思うことでいじめとなるのと同じであり、中国が日本から侵略を受けたというのなら、中国人たちのその思いは真実であり、日本人には否定できない。
 これは、少しでも臨床心理学、犯罪被害者学、社会構成主義を習得したものであれば、手に取るようにわかる原理である。これをわからずに中国を非難するのは、浅学と言わざるを得ない。
 
 一つの出来事は、多様な視点・視座によって、多様な解釈が与えられ、複数の事実が構成され、その事実に対する価値判断として複数の物語が誕生することになる。
 小林よしのりが反中感情を煽っているが、彼は客観的事実に準拠していると思い込んでいる。しかし、その客観的事実たるものこそ曲者である。例えば、同じ食べ物を食べても、ある人はまずいと感じ、ある人は美味しいと感じたりする。同じ物理的対象なのに味覚が異なることになる。しかし、二人とも自身の味覚を事実であると思い込み、言い争い、対立が続くのはナンセンスである。味覚が個人ごとに異なるという感覚の相対性が現実であるということを知っている賢者・相対主義者のみが二人の対立を和解させる視点を提供できるのである。

 出来事は単一であるが、事実は複数存在し、事実に関する解釈も複数存在する。このような人々の認識における相対主義を嫌う科学主義者は多いが、このこと(認識の相対性)は人間の事実認識の本質的構造であり、相対主義が正しいわけであり、それが現実である。
 この現実から目を背け、事実は一つであるという固定観念から、絶対主義的な独断によって、他者批判に至るのが一番怖いのである。相手の視点・視座を理解することで、絶対性の呪縛から解放され、人は寛容になれる。寛容さを欠いた反日・反中感情は愚かである。

 中国人が非人道的であり、利己的であると多くの日本人が思い込んでいるが、これは部分の全体化という認知の歪みであり、日本社会がもつ集団認知の歪み=社会病理現象である。
 まず、中国人が非人道的で利己的であるという人たちに対しては、具体的に中国人を対象とした規範意識の調査をしてみたのかと問いたい。どのような実証的な社会調査を根拠にして、このような認識を構成したのか問いたい。
 共同体の外にある他者に対する利他的行為というのなら、中国人のほうが優れているかもしれない。敵国である日本人の残留孤児を自らが貧困であるにもかかわらず、育てた中国人養父母は極めて人道的・倫理的である。日本人残留孤児を育てた中国人養父母たちは、共同体内部への帰属意識=愛国心のみを強調する小林よしのりよりも、哲学的に見て倫理的である。
 ちなみに、同じように共同体の外部に利他的であった人物は日本人にもいる。自国の命令に違反してまでも、出国ビザを発行しナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝である。
 中国人であろうと、日本人であろうと、人類は、状況によっては、元来共同体を越えた倫理性を創発する可能性をもっているのである。この倫理性への可能性はイエスの「汝の敵を愛せ」、仏教の「一切衆生悉く仏性あり」という世界宗教の根底をなすものである。他者性の哲学者レヴィナスが追い求めた究極の倫理性である。
 北朝鮮問題も、北朝鮮人民が悪いと思っている日本人は少ないと思われる。独裁制国家というシステムの問題であることを賢い日本国民は理解している。
 
 マスコミや煽動家の煽りに騙されず、つくられた反中感情・反日感情に翻弄されず、敵国感情を捨てよう。ジョンレノンのイマジンを思い出そう。国境がないと全世界の人類が思えば、全ての国家は一瞬にして消滅するのである。社会は、国家であれ、企業であれ、人々のコミュニケーションによって創発された仮象=システムにしかすぎないのである。創発の妙理からしても、原理的にジョンレノンのイマジン思想は、正しい。
 中国人養父と残留孤児の関係、杉原千畝とユダヤ人の関係においては、すでに国家は存在せず、寂滅し、倫理コミュニケーションが創発されているのである。

 事実の相対主義=寛容と倫理の単一性こそが平和をもたらすのである。
 
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by merca | 2010-12-19 10:59 | 社会分析

カルト信者をつくらない処方箋としての相対主義

 ニセ科学批判者やその系列のブロガーたちは、カルトだから悪いという発想をよくとっている。カルトというレッテルを貼ることで相手を貶めるわけであるが、カルトとは何を指すのか明確にしておいた方が良さそうである。(カルト/カルトでない)という区別がどのような基準によって構成されているのか確認しておきたい。
 カルトは、もともと崇拝・礼拝というラテン語から発生したものであるが、現代的な意味においては、カルト宗教だとかカルト団体だとかいう具合に使用されている。その意味するところは、下記のごとくだと思われる。

 主にある一定の思想や信条を共有する組織を指す。(多くは宗教団体)
 既存の社会的価値から逸脱しており、反社会的である。
 教祖を絶対的に崇拝する。
 教義を絶対的真理とし、他を排除する。
 批判するものに対して極度に攻撃的である。
 強引に勧誘する。
 目的のために手段を選ばない。
 離脱の際に暴力や恐怖心がともなう。

などである。
 これらの性質が認められる宗教や集団をカルトと呼ぶことができる。これは社会学的に言うと、全体主義と性質が同じである。カルト宗教やカルト集団は、社会レベルではなく、集団レベルの全体主義である。過激な共産主義集団はカルト集団と同一の特性を持つことがわかる。カルト集団では、集団構成員の自己選択性=人間性が否定され、集団内部に制裁による虐待暴力が生ずることもよくある。

 ニセ科学批判がカルト化していると言われる際には、ネット社会に限定してのことであり、教祖を崇拝するという点、強引に勧誘(説得)するという点、自己の教義を絶対的真理とし、他を排除する点、批判するものに対して極度に攻撃的である点にあると思われる。
 ネット上のことであるが、ニセ科学批判にまつわる記事を書くと多くの信者さんが私を説得に来たことを記憶している。強引な他説攻撃による説得行為こそがニセ科学批判をカルト化する主な要因となっている。水伝やホメオパシーがカルトかどうかは、信者獲得のための強引な説得行為があるかどうかに関わっている。カルトとは、教義内容ではなく、組織運営形態や布教方法の問題なのである。例えば、既存の仏教やキリスト教は、その教義内容は反科学的であるにもかかわらず、強引に布教しないことで、社会からカルトと見なされない。
 つまり、カルトであるかカルトでないかは、教義内容や思想内容ではなく、組織運営形態と布教コミュニケーションの方法によるのである。(カルト/カルトでない)という区別は、(内容/方法)という区別に準拠しており、方法の項の出来事であることがわかる。組織体システムとそのコミュニケーションが全体主義化していることがカルトの社会学的本質である。反科学的であることがそのままカルトではない。ニセ科学批判者は、反科学的なものに対して闇雲に全てカルトであるというレッテルを貼り、価値を貶める傾向にあるので要注意である。反科学=カルトという図式を安易に使用しているブロガーがいるので、ここで釘を刺しておこう。

 社会学的には、カルト化の処方箋は、ニセ科学批判者が嫌う相対主義である。絶対的なものはなにもないという相対性感覚を保ち続けることがカルトにはまらないための予防線となる。教祖や教義を絶対化しているカルト集団には、相対主義者は入らないのである。みなが強い相対主義者であれば、カルト集団に入ることはありえず、カルト集団は信者を獲得できないのである。カルト信者から私たちの教義は絶対的に正しいから信じなさいと言われても、相対主義者は正しい思想が一つしかないというのはおかしいと思い、入らないのである。カルトに対する最大の処方箋は、原理主義的相対主義者になることである。
 
 ニセ科学批判者はニセ科学をカルトとして批判しているのに、ビリーバーをつくらない最大の処方箋である相対主義を嫌うという自己矛盾を起こしているのである。カルトを滅ぼすのは、ニセ科学批判ではなく、相対主義なのである。相対主義を批判するニセ科学批判者たちは、真理は一つであるという固定観念を人々に植え付け、その結果、真理は一つを求めるカルト信者を増やすことに寄与してしまうのである。事実としての真理は一つという自然科学の観念を持つ故にオウム真理教にはまった理系の若者たちがいた事実を自覚して欲しいのである。事実=真理は一つという固定観念でもって、ニセ科学が科学的に間違いであると批判することは、諸刃の剣である。そうなると、意識構造が変わらぬまま、ニセ科学ビリーバーはそのままニセ科学批判ビリーバーとなるのである。相対主義によって意識構造が変わらないと、真理は一つという固定観念を持つカルト信者は本質的に変わらないのである。

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by merca | 2010-10-11 22:46 | ニセ科学批判批判

斉藤環氏に見る俗流カルトバッシング論批判

 精神医学者(科学者)の斉藤環が、毎日新聞の時代の風において、「ホメオパシー」をめぐって、という論説を書いている。はてブもまたすごい。
 http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20101003ddm002070085000c.html
 
 この論説は、やはりニセ科学批判者によって批判されている。しかし、斉藤氏の主張は、単なる相対主義ではなく、文化相対主義と機能的等価主義を配合した高度な社会学的処方箋である。
 まず、医学的にはホメオパシーが偽薬効果以外はないと考えている側面は科学に準拠している。しかし、ここがポイントであるが、偽薬効果を肯定し、社会心理学的効用として自己承認欲求充足機能があると認めている。カルトについては、過激な文化的排除がカルト化をもたらすと指摘している。これは社会学的には正しい。社会が支持する価値観と反対する価値観を完全排除する恐ろしさを指摘している。
 実は、これは二重の意味で恐ろしい。一つは、迫害された者たちが過激化することである。斉藤氏はこれを指摘している。それとは別に、平和主義者である私は社会の支持する価値観を無反省に絶対化し、社会が逸脱者に暴力を加えるおそれを指摘しておきたい。社会による文化的排除による暴力現象で多くの人の命や精神が傷つけられて来た歴史を忘れてはなるまい。魔女狩りにその典型をみる。
 社会学では、文化的排除を扱う。ニセ科学批判者は、安易にカルトという言葉を使用し、他者の思想や技術にカルトのレッテルを貼り、社会的異常あるいは社会的逸脱として批判する。既存の社会的価値観から逸脱している反社会集団をカルトと呼ぶのなら、ローマ帝国内のキリスト教もカルトであったということになる。封建社会では、民主主義思想も自由主義思想もカルトであったことになる。中世ヨーロッパ社会では、科学者コペルニクスの地動説はカルト思想ということになる。
 このように、カルトという概念は、時代と地域ごとの社会に相関的な相対性のある概念であり、キリスト教、自由主義、マルクス主義、そして科学もカルトであったのであり、社会から集合的制裁=迫害を受けて来てたのである。
 
 科学が真理の王として君臨した現代社会では、科学に反する知識体系はカルト扱いされることになる。その尻馬にのっているのがニセ科学批判である。科学は自らが中世社会でカルトとして弾圧されてきたトラウマ記憶を忘れ、真理を主張する非科学的知識をバッシングするのである。
 社会が変われば、何がカルトであるかも変わるという社会学的真理を無視して、自らの立場が普遍的に正しく絶対的であると思い込み、自己に違和的な知識体験を文化的に排除するのである。ニセ科学批判や科学主義によるカルト批判は、文化的排除の一種である。

 社会学からすると、古代社会によるキリスト教弾圧や中世社会による科学者の弾圧と同じ社会的メカニズムで、ニセ科学批判が起こっているのである。人類は同じ過ちを繰り返してはならないのである。社会学のみがこの過ちに気づいているのである。
 こういうと、またニセ科学批判者が文化相対主義だと批判してきそうである。ところが、逆説的であるが、社会の秩序を支える知識体系や価値規範がそれに反する逸脱者に制裁を加えるという社会学的真理のみは、時代を通して不変であり、相対性を免れていることになるのである。そういう意味で、自然科学的真理よりも社会学的真理の方が普遍的で確かであるのではと思う次第である。

 既存の社会の価値観を疑うことなしに、社会が支持する通俗道徳に準拠して、他者批判を行うニセ科学批判者は社会に洗脳されており、基本的に保守的である。ニセ科学のビリーバーに対して信じるな疑えと言っているが、当のニセ科学批判者自体が通俗道徳のビリーバーなのである。ビリーバーという観点からは、目くそ鼻くそを笑う関係である。
 ニセ科学批判者は社会を疑わない人たちであり、自己の属する社会を疑い、相対化し、洞察を深める社会学の徒とはそこが決定的に異なる点である。

 斉藤氏は、菊池氏や後藤氏のように俗流カルトバッシングに走るのではなく、異なる価値観をもつ人たちを排除せず、役割分担させ、共存の道を探るという極めて社会学的には妥当な処方箋を示しているだけなのである。ニセ科学批判者たちがこの処方箋を理解できないのは、彼らが自己の所属する社会の支持する科学と通俗道徳を絶対化し、思考停止に陥っているからである。さらに、他の観点を受け入れず、また自己の観点のみが議論するに相応しいと絶対化するのも特徴である。斉藤氏が提示した観点を単なる相対主義と思うのは浅学の者なのである。

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by merca | 2010-10-11 12:13 | ニセ科学批判批判

社会学玄論講義 相対化作法の類型4

(自己言及のパラドックス)
 自己言及のパラドックスとは、相手の準拠する区別そのものに同じ区別を適用することで、相手の言説を決定不可能に導き、その絶対性を否定することである。
 例えば、相対主義者の用いる区別である(絶対/相対)という区別を相対主義にも適用した場合、決定不可能に陥る。相対主義が相対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は正しくなくなり成立たなくなるし、相対主義が絶対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は絶対的だということになり、矛盾することになる。相対主義の主張は、相対的であっても、絶対的であっても、自己矛盾を起こし、成立たなくなる。原理性相対主義は、このように自己言及のパラドックスを含んでおり、成立たない。
 ちなみに、絶対主義の命題である「絶対的な真理は存在する」という命題は、絶対的であれば、成立つことになり、自己言及のパラドックスは起きない。自己言及のトートーロジーが起きるだけである。片方の項のみに、自己言及のパラドックスが起こることになる。あるクレタ島人がクレタ島人は正直だと言った、という命題は、パラドックスは起きないのである。
 
 科学における反証主義自体に反証可能か不可能かを適用すると、自己矛盾が起きる。反証主義が反証されないとすると、反証不可能な命題となり、科学的に正しくなくなるし、逆に反証主義が反証されうるとすると、反証される可能性があるのだから、完全に科学的に正しくなくなることになる。ちなみに、実証主義には、このようなパラドックスは起きない。

 合理主義の準拠する(目的/手段)図式に(目的/手段)を適用すると、目的それ自体も合理的でなければならず、別の目的の手段であることが必要であり、目的は別の目的の手段として相対化される。しかし、そうなると、目的の目的を無限遡及することになり、究極目的はないことになる。しかし、一方で、合理性が成立つためには、手段を最終的に根拠づける目的が必要となってくる。
 要するに究極目的が存在してもしなくても、自己矛盾を起こし、合理性は成立たなくなる。もし究極目的が存在するのなら、究極目的だけは非合理ということになり、世界は合理的であるという合理主義の命題は破綻する。また、究極目的が存在しないとすると、最終的に手段を合理化する根拠としての目的がないことになり、世界は合理的であるという命題は成立たなくなる。
 また、同様にして、決定論=因果律に因果律を自己適用すると、成立たなくなる。第一原因があってもなくても因果律の世界は成立たなくなるからである。

 社会科学が準拠する合理性も、自然科学が準拠する因果性も、ともに自らの準拠する区別を自己適用すると、成立たなくなり、自己言及のパラドックスに陥ることになる。
 一つの区別に準拠する閉じた形式体系は、必ずパラドックス命題を含んでおり、自身からは説明ができないのである。説明するためには、別の区別から観察していく他ないのである。次回、別の「区別の再参入」を紹介したい。
                                           続く

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by merca | 2010-09-18 23:51

情報学ブログさんへ(若干の回答)

情報学ブログさんが取り上げた私のブログに関するエントリーに論評を加えておきたい。
  「社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠」
 タイトルの書き方は、私のエントリーの書き方と似ている。相対主義がそんなに怖いかと思うが、このくらい大袈裟に書かないと、読者の気をひかない。エンターティメントとして観察すると、こういう表題を見ても、私は感情的にならない。さらに、ニセ科学批判者たちの批判を受けて慣れているからである。この点、ニセ科学批判者に感謝、感謝・・・!! 誠に、てーげーな状態なのである。

○ 情報学ブログさんもやはり相対主義である。
 情報学ブログにおいては、絶対的に正しい真理や道徳の基準は存在しないと考え、それをベースにして、原理主義を回避し、目的に応じて、異なる相対的視点を用いて議論されている。構造構成主義と同じく、絶対的に正しい真理や善悪は存在しないということを根本仮説として立てていることから、基本的に相対主義であると言える。つまり、相対主義を否定しては、情報学さんの考えは成立たなくなる。相対主義を原理として利用している。むしろ、そのような徹底した相対主義に立っているからこそ、原理主義に陥らず、臨機応変に対応することができる。私のように、相対主義者と宣言されたほうがすっきりとするのではと思う。
  参考
 私は、ニセ科学批判者の問題を、単なるニセ科学の被害のレベルではなく、ニセ科学批判者のもつ世界観及びそれに基づく自我の統合の在り方の問題として観察している。同じく情報学ブログさんの認識構造についても、同じようなレベルで観察させてもらっている。メタな視点なので、当人が自覚しているレベルと自ずと異なるかもしれない。当然のごとく、私の思想についても、他者の観察にさらされる他はないのである。目的が異なるからといって無視するかどうかで、議論は変わってくる。

○現代社会のあり方はどうなっているのか?
 相対主義が社会に既に蔓延しており、今更相対主義を唱えても意味がないという主張であるが、逆であると認識している。相対主義が蔓延しているのは一部のインテリ階層や日本の若者であり、全世界に行き渡っていると思えない。前期近代社会の段階の社会もあり、科学や民主主義が絶対的なものであると信奉している方も多い。近代化思想の絶対化である。非西洋は、もともと神仏習合など多神教的世界観=相対主義的感覚をもっており、後から来た近代化のせいで西洋の原理主義的思考が混入されてしまったというべきである。
 現代社会を日本の国民社会と捉えるのか、ルーマンのように世界社会として捉えるのかで異なると考えられ、成熟社会化している国民社会はまだ世界には少なく、原理主義的な思考はかなり多くある。また、欧米、西洋、イスラムは一神教の文化が根付いており、原理主義的文化を払拭するのは困難である。相対主義が行き渡っている階層に関しても、相対主義やニヒリズムに耐える力こそ必要であるのに、安易に科学主義などに陥っている。

○ニセ科学批判者にメタな視点はない。
 多くのニセ科学批判者は、宗教、占い、オカルトなどニセ科学でない領域まで批判する。菊池氏にこそその本質が伺える。菊池氏は、江原氏のスピリチュアルを批判している。科学的事実のみが正しいという科学原理主義の発想をとらないと、このような領域侵犯は起こらない。また他者を強く批判し、他人のブログに侵入してくるなど、絶対的な自信がないとできないことである。ニセ科学批判を布教するコミュニケーション形式から判断して、科学原理主義者である。菊池氏には、メタな視点はないと考える。多くのニセ科学批判者は、相対主義を毛嫌いしており、自らのうちに相対主義を取り込み、生かそうとする態度が認められない。

 基本的に情報ブログさんの観察もありうるので、否定はしませんが、私の他に相対性原理主義者がいるかどうか教えてもらいたいです。いなければ、数少ない立場として希少価値があるので、当分、この立場を利用させていただくことも視野に入れています。

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by merca | 2010-09-05 12:17 | 他ブログコメント