タグ:思想 ( 34 ) タグの人気記事

時間的実体としての意味システム(意識と社会)

 生物体システムと意味システムの違いは、要素の配列の次元において、(空間/時間)という区別があることである。つまり、生物体システムにおいては、要素が空間に配置されており、意味システムにおいては時間に要素が配置されている。生物体は空間システムであり、意味システムは時間システムである。
 生物体システムの要素である細胞は、空間的に存在する。すでに過去に死滅した細胞は、現在のシステムの要素足り得ない。システムの内外環境も、空間的に存在する。
 
 しかし、意味システム(意識システムや社会システム)は、その要素である思考やコミュニケーションが、空間的に存在するのではなく、現在・過去という時間の配列の中に存在する。意識システムという意味システムにおいては、その都度の思考は、過去の思考(記憶)との関係で規定される。意識システムの要素は、現在意識化中の思念(要素)と過去に思考した複数の思念(要素)が連動し、要素間の関係が形成され、意識システムを創発させている。過去の思いと現在の思いが意識システムの要素となるのである。あるゆる意識が過去の意識(記憶)との関係で規定されることは明らかである。

 一方、社会システムの要素であるコミュニケーションは、現在生じているコミュニケーションと、直前や過去のコミュニケーションを合わせた集合である。複数の要素が、時間座標の中に収まっているのである。現在は消滅したコミュニケーションもシステムの構成要素として勘定のうちに入っているのである。もし現在生起しているコミュニケーションのみがシステムの要素なら、要素が単数となり、システムは成り立たない。複数の要素があって、かつ、それらの関係性があり、初めてシステムは成り立つ。

 コミュニケーションは、空間ではなく、時間に沿ってコミュケーションA→コミュニケーションB→コミュケーションC→コミュニケーションD→コミュニケーションEという具合に流れていく。この場合、A、B、C、D、Eと五つの時間を異にする要素からなる社会システムが生成することになる。Eの時点が現在だとすると、後の四つの要素は過去になるが、これらの過去のコミュニケーションがなければ、コミュニケーションEもシステムも創発されない。これらの5つのコミュニケーションが同一の区別コードでなされていると観察されて初めてシステムは創発される。
 そして、要素には順番、つまり序列的接続性がある。前のコミュニケーションそれ自体を観察することで、次のコミュニケーションが生ずる。曲(メロディ)に例えると、わかりやすい。音符という要素どうしの序列的つながりが曲を構成するが、過去の音符がないと、現在鳴っている音符が意味ある曲の要素として認識できなくなる。コードを外すと、不協和音となり、曲が成り立たない。曲は時間の中で生成する。同じく、意味システムも時間の中で生成する。曲も意味システムの一つである。
 
 社会システムは、時間システムである限り、三次元体としての物理的実体をもたない。社会は生物体のように空間に存在する物理的実体ではない。無論、意識システムとしての精神も、時間システムであり、空間に存在する物理的実体ではない。意味システムとしての社会システムも意識システムも、物理的実体ではないが、時間的実体をもち、存在するのである。また、意味システムにおいては、システムと環境の区別も、空間的になされない。意味境界によって区別される。
 このような空間に物理的実体をもたないにもかかわらず、確かに時間的に実在する意味システムなるものを発見したルーマンの功績は大きい。
 
 これは心身問題の解決策ともなる。すなわち、古来より哲学を悩まして来た精神と肉体の二元論問題の解決の糸口となる。生物体たる身体は、空間的システムとしての物理的実体であるが、意識=精神は時間的システムであり、時間的実体となるのである。心は時間に根拠をもち、身体は空間に根拠をもち、時空間の統合点として人間生命を捉えることができるのである。

 このように、存在の根拠について(空間的実体/時間的実体)という区別に基づき、存在を分類することが可能なのである。意識(精神)や社会は、時間的実体にカテゴライズされるのである。そして、時間的存在は、空間的存在と同等の実在性を有することを忘れてはならない。ここでは、存在(=システム)には、二種類があり、自らの要素が空間座標にある物質や生物、自らの要素が時間座標にある精神(意識)や社会に分類されることを押さえておこう。

 また、これまで、社会とその要素を空間的にイメージすることで、社会に対する認識に様々な誤謬が生じてきた。社会の空間的実体視である。例えば、国土の境界と社会の境界の混同することや、人間が社会の要素であるという考え方は、空間的実体のみが実存するという先入観に基づいている。時間的実体が確かに存在することを理解すれば、その先入観にとらわれなくてもすむのである。 

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2016-10-02 07:23 | 理論

思想・宗教より尊いもの

 世界には様々な思想や宗教が溢れている。
 しかし、思想や宗教が尊いのではない。
 尊いのは、思想や宗教を通して愛する者の幸福を願う人々の美しい心=他者愛である。
 たとえ、どのような優れた思想や宗教であったとしても、憎しみや利己心から思想や神仏を利用する者は、この世に破壊をもたらすであろう。
 
 本当に祈る人は、自分ではなく、愛する人たちを守ろうとし、愛する人たちの幸福のために、必死に思想にすがったり、神仏に祈ったりする。
 人は、自分のことではなく、家族や愛する人たちの幸福のために神仏に祈るのである。
 その時、尊いのは神仏というよりか、むしろ愛をもつ祈る者の方なのである。
 他者の幸福を祈った時、神仏は、その人に宿るのである。
 利己心から祈る者には、神仏は宿らない。
 利他心から祈る者にのみ神仏は宿るのである。
 
 この世の中にどんな優れた思想や宗教ができようとも、利己心から祈る者には、救いはないのである。どんな優れた社会思想であったとしても、恨みと憎しみの心を持つ人たちに利用されたら、世界を破滅に導くであろう。マルクス主義がその典型であった。マルクス主義を利用する醜い為政者たちのために、多くの人々が犠牲になった。
 赤軍派が自らの醜い自尊心のために同志をいじめ殺したり、また社会に恨みを持ったオウム真理教の麻原彰晃氏も仏教やインド思想を利用して若者を騙し信者として洗脳し、罪のない人たちを殺した。これらは、利他心ではなく、利己心を根本動機にして思想や宗教を利用した例である。
 神仏に家族の幸せを祈る平凡な庶民の方が尊い心=他者愛をもっているにもかかわらず、若者は安易にエゴイズムから奇妙な思想や宗教にかぶれるのである。

 しかし、心ある社会主義者を初めて知った。ムヒカ元大統領である。彼は、社会主義のために革命を望んだのではなく、愛する貧しい人たちを幸福にするために、戦ったのである。社会思想は、人々の幸福のための手段にしかすぎない。利欲や保身のために思想や宗教を絶対化したり、思想や宗教を利用して人を煽動するかぎり、戦争が起き、世界平和は到来しない。
 スターリンや毛沢東などの社会主義を標榜する独裁者は、多くの人々を殺戮した。暴力革命は民衆の命や幸福を奪う本末転倒の思想なのである。

 何のために思想に心酔しているのか、何のために宗教にすがっているのか、それを問うてみるがよい。もし保身や利己心のためであるのなら、自身と世界を破滅に導くであろう。
 ニーチェ思想にかぶれる多くの若者は、他者の幸福のためではなく、自我防衛のためにかぶれるのである。ムヒカ氏とニーチェは正反対なのである。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2016-05-03 22:23 | 反ニーチェ

ムヒカ元大統領の幸福論が世界社会を変える

 今、日本でウルグアイ元大統領であるムヒカ氏の旋風が起っている。この方は、マザーテレサ級の偉人である。また、何となくワンピースに登場しそうなキャラクターでもある。ネット右翼や小林よしのりの反応を見てみたいものである。
 左翼や右翼という既成概念にとらわれ、そのような固定観念による視点でしかムヒカ氏を見ることができないとしたら、思想的に愚かである。人々の幸福に左翼も右翼もない。そこにあるのは、ただ経験に根付いた社会的真理のみである。
 
 ムヒカ氏の重い言葉に比べれば、社会学者・古市憲寿氏の幸福論がいかに軽く浅薄なものであるか実感させられた。雲泥の差である。人間としての本当の幸福は、古市氏が考えるような軽薄のものではない。「絶望の国の幸福な若者たち」において、単なる内閣府の社会調査統計によって、日本の若者は、絶望の国にあって、意外に幸福だという非常に浅薄な結論を導き出しているが、本当の不幸と幸福を知らない者の戯言にしか思えない。
 
 まずは、絶望の国? 何が絶望だと言いたい。本当の絶望を知らないから、安易に絶望だと言い放つことができるだけである。また幸福な若者たちと言い放つが、本当の幸福が何か知らない若者たちばかりである。不幸のどん底を知ってはじめて本当の幸福を知ることできる。
 そもそも絶望とは、不幸のどん底である。不幸のどん底にある社会とは、今のような日本社会には該当しない。いつ自分が死ぬかわからない戦時中の日本こそが絶望の国であったのである。戦後の日本社会を絶望の国というのはおこがましいに程がある。ムヒカ氏は、投獄され、拷問を受け、不幸のどん底から、本当の幸福を悟った。古市氏は、絶望という言葉を軽々しくよく使えたものだと思う。

 ムヒカ氏の幸福論からすると、本当に貧しく不幸な人とは、無制限な欲望をもち、いくらあっても満たされることがない人である。また本当に豊かで幸福な人とは、少しのことで満足できる人のことであるという。
 消費社会に踊られている日本人は、貧しく豊かではなく不幸だということになる。また、人間は一人では生きていけない存在であるという、ムヒカ氏の悟った真理からすると、日本社会で孤独化している若者や高齢者は不幸になる。孤独が最大の不幸という思想は、ムヒカ氏の長い投獄経験によるものである。
 
 ムヒカ氏は、人々が分かち合うことで、貧困はなくなると考えているようである。他者と分かち合うとは、単に物資を分かち合うだけでなく、愛を分かち合うことになる。分かち合うためには、人に対する愛が前提にないとできないからである。なぜ人は分かち合うのか、それは人の幸福を思うからである。
 かの歴史主義者・司馬遼太郎氏は、社会とは人々が分かち合うための仕組みである考えていたようであるが、ムヒカ氏は、その思想の体現者である。ヒトラー、毛沢東、スターリンのような独裁者とは対極の人物である。今世紀最大の哲人政治家である。
 
 さらに、ムヒカ氏は、マララと同じく、自分を虐待して来た人たちに対して恨みや憎しみをもつことは不毛であり、暴力革命ではなく、文化を変えることで、社会はよくなると信じている。ムヒカ氏は、愛する人とともに生活できることが最大の幸福であると信じている。
 世界社会となった今や、ムヒカ氏が理想とする博愛の社会は、平和を分かち合う世界社会においてはじめて達成される。個人のレベルだけでなく、世界の各国が平和を分かち合うことが求められている。日本国憲法における戦争放棄の思想は、来たるべき世界思想の先駆けとなるであろう。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2016-04-25 23:25 | 社会分析

他者愛は、自己愛に還元されない。

 他者愛とは、他者の他者性を尊び大切にすることをいう。従って、自己愛には決して還元されない。他者の他者性とは、自己には決して支配できない無限性・超越性だからである。他者の自由意志は、決して自己は支配できない。だから、他者というのである。
 もし自己が支配できるような存在、すなわち自己の同一性に包摂できるような存在であれば、真なる他者ではなく、自己の延長にしかすぎない。レヴィナスのいうように、他者の顔は、支配できない。
 自己にとっては、他者は決して届かぬ超越性、無限性である。だから、他者は自己にとって神である。他者は、超越性・無限性をもつ存在である限り、決して他者を殺すことはできない。殺人の不可能性は絶対的真理である。
 
「汝殺すことなかれ」は、他者の他者性を決して否定できぬことを意味しており、肉体的な意味での人間は殺せても、魂=自由意志としての人間を殺すことは決してできない。人間存在が魂=自由意志として実存する限り、いかなる殺人も不可能である。
 他者論倫理学からは、人は人を殺すことはできないのである。従って、人を殺そうとする者の欲望は決して満たされることはない。殺人願望ほど愚かな行為はない。人を殺してはいけないという倫理は、このような仕方で体得されるものであり、他者の他者性を受容する者だけが真に身につけることができる。

「なぜ人を殺してはならないのか?」という質問に対しては、真の意味で、人は人を殺すことができないからであり、不可能で愚かな行為であるからだと言っておこう。
 殺人の不可能性を悟った時、同時に他者を敬う気持ちが沸き起こり、それが他者愛となるのである。そして、自己愛には他者愛は還元されないのである。
 ニーチェの思想は自己愛の思想であり、他者性がなく、真理ではない。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2015-10-20 00:28 | 反ニーチェ

世界の有意味性(一切肯定の境地)

 この世界において、無意味なもの、無価値なものは何ひとつ存在しない。宇宙の一切の存在は尊く価値が在る。
 
 なぜなら、一切の存在は一切の存在と関係し合っているからである。価値や意味は、自らのうちにあるのではなく、無数の他の存在との関係で生ずるのである。他の存在と関係している限り、価値や意味は無限に自ずと生ずる。
 
 無数の他者の他者性が価値や意味の源である。いくら自己存在が無意味や無価値だと思い込んでも、宇宙にある無数の他の存在と関係する限り、意味や価値が生ずるのである。一切肯定の境地とは、宇宙の一切の存在に意味や価値があると感じることができる心をさす。

自己は無意味・無価値だと叫ぶ者たちよ! 
ニーチェに騙されるな!
聞くがよい。森羅万象における関係性の妙理を。
 
一輪の花にも神仏は宿る。
心傷ついた人は、たった一輪の花に救われ、一輪の花に神仏が現れるのを知る。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2015-10-05 22:14 | 反ニーチェ

「卑怯者の島」にドラゴンナイトが到来する時

 戦後70年に際して、小林よしのりが「卑怯者の島」というフィクション作品を出し、戦争について日本国民に問うた。これはフィクション作品ではあるが、価値伝達としての思想の押しつけは一切ない。小林よしのりは、戦争論のような事実を語る作品については思想漫画家として価値伝達を行うが、フィクション作品では価値観の強制がない優れた作品となることが多い。
 全くの直感としての予言(期待)ではあるが、将来、「卑怯者の島」は映画化され、話題を呼ぶと予想している。さらに、同作をニヒリストである北野武が監督をすると、アカデミー賞になると考えられる。この予言は根拠のない私の期待であるが、そうなったら素晴らしい。
 今後、小林よしのりには、是非とも漫画家の本分としてフィクション作品を書き続けて欲しいものである。
 
 「卑怯者の島」は、戦争の当事者としての兵士の視点から戦争について描かれている。ストーリーも引き込まれやすい。主人公は、死ねなかったことで卑怯者としての罪の意識を持ち続け、その葛藤がよく描かれている。戦友が一人一人死ぬごとに、罪の意識が強まっていく。
 戦争とは、(敵/味方)という区別で創発された殺人ゲームである。この区別が実体化されると、善良な市民であった兵士も、戦場では殺し合いをし、地獄世界をつくりだす。その地獄絵図が「卑怯者の島」では克明に描かれている。
 生き残った者、死んだ者、誰一人として幸福になっていない。無念で死んだ者、生き残っても、手足を失い物乞いになったり、主人公のように一生罪の意識に苛まれながら生きている者もいる。
 
 (敵/味方)という区別が消滅することで戦争という地獄ゲームは終わるが、この区別がなくなるということは、同時に普通の人間(殺し合わない存在)にもどるということである。だから、本当に戦争という地獄ゲームから解放された兵士は、自分が死ねなかったことに対する罪の意識ではなく、人間として敵兵や敵国の市民を殺害したことに対する罪悪感をもつようになる。
 ところが、卑怯者の島の主人公は、戦後においても、敵兵を殺害したことに対する罪悪感はもたず、死ねなかった自分に対する負い目による罪悪感のみに縛り続けられており、(敵/味方)という区別から解放されていないのである。彼の心には終戦はないのである。
 もしかしたら地獄の戦争ゲームから多くの日本兵たちは、この主人公のように未だに解放されていないのだろうか?そのような疑問が湧いてくる。
 他者性に基づき、被害者意識ではなく、加害者意識をもつことが本当の戦争からの人間としての解放である。「卑怯者の島」の主人公には、本当の意味での他者性の意識が認められない。
 悲しいかな、それが小林よしのりの描く戦争の限界でもある。米兵にも家族があり、守るべきものがある。小林よしのりが描く日本兵には、そのような敵を対等な他者として認める視点が欠落している。敵兵である英国海軍422名を救助した日本海軍の軍人である工藤俊作艦長のような武士道に基づいた他者性もない。

 戦争が本当に終わるとは、人々の間に(敵/味方)という区別が消滅し、人間としての平和な日常生活にもどるということである。社会システム論の立場からすると、(敵/味方)の区別そのものがつくれた虚構にしかすぎない。だから、原理上、いつでも廃棄することができる。つまり、戦争ゲームを消滅させることができる
 実は、戦争中にもそういう奇跡が稀に起る。それがドラゴンナイトである。「世界の終わり」が歌うドラゴンナイトの到来である。ドラゴンナイトは、第一次世界大戦時にドイツ軍がフランス軍・イギリス軍と交戦し、戦争中に敵味方の区別なくクリスマスを一緒に祝いあったというクリスマス休戦をモチーフにしていると言われている。
 クリスマス休戦は、クリスマスを祝うテノール歌手の「きよしこの夜」の歌がドイツ陣営から聞こえて来て、フランス軍から拍手が沸き起こり、一挙に(敵/味方)という区別が消滅し、別の区別が生じたのである。戦争という地獄ゲームが解除され、クリスマスを祝う普通のヨーロッパの庶民に戻ったのである。
 ドラゴンナイトに似たような現象は稀に起る。ドラゴンナイトという曲には、世界中の全ての戦場にドラゴンナイトが到来することを願うという平和のメッセージがあると確信している。
 ここで、卑怯者の島にも、ドラゴンナイトが到来する可能性はあったか問いたい。いやむしろ、ドラゴンナイトが到来して欲しかったのである。
 社会学理論上は、ドラゴンナイト現象は、可能である。それは、(敵/味方)を無効にする別の区別が到来した時に起こりうる。社会学者は、社会病理現象である戦争システムを脱構築する技術を開発する必要があるのである。
 
 天から一つの音楽=カノンが降り注ぎ、傷ついた戦場の兵士たちを敵と味方の区別なく癒していき、殺し合うことが正義でないことを知り、武器を捨て、ドラゴンナイトが訪れるのである。

  参考
ドラゴンナイト的な現象には下のようなものがある。
・帝国海軍工藤俊作艦長による敵兵救助
・上杉謙信が武田信玄に塩を送った。
・日本人残留孤児を育てた中国人
・逆襲のシャア
 アクシズの墜落をジオン軍兵士も連邦軍兵士も一緒に防ぐ。
・起動戦士ガンダムのククルス・ドアン
 戦争で子供の親を殺し、ジオン軍から離脱する。
・超時空要塞マクロス 映画「愛・おぼえていますか」
 リン・ミンメイの歌声に敵が文化を感じ、停戦する。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2015-08-16 09:59

「仏教思想のゼロポイント」書評 弁証法的思考の欠落

 「日本仏教はなぜ悟れないのか」という衝撃的なフレーズが帯に掲げられ、「仏教思想のゼロポイント」という書物が発売されている。大型新人哲学者の書物らしい。知識人にも受けがよく、よく売れているらしいので、購読してみた。
 これは、仏教入門書というよりも、大乗仏教批判の書であることがわかった。私は、この書について、何が本来の仏教かどうかという視点よりも、論理的に正しいかどうかという側面で批評してみた。
 これは、魚川佑司氏による独特の仏教解釈の書である。大胆にも、涅槃の境地について論理的に述べられている。注意したいのは、魚川氏自身が解脱し涅槃の境地たるゼロポイントに体感的に身をおいて悟りを開いているわけではないことである。つまり、宗教家のように、自らの涅槃に至る解脱体験から、涅槃=ゼロポイントの本質を論じているわけではない。
 あくまでも、この書物は、仏典の解釈にしかすぎない。解脱体験者が書いたものではないので、ある種、説得力に欠くものの、論理構成は簡潔で、非常に分かりやすい。
 分かりやすいだけに、疑問点が露骨にいくつも見受けられたので、それを指摘しておきたい。一言で言えば、魚川氏の仏教解釈における誤謬は、弁証法的思考の欠落である。仏教でよく言われる有無の二偏に囚われている思考のまま仏教を解釈している。

1 「無我だからこそ輪廻する」について
 仏教は輪廻を唱えていないという学説があるが、魚川氏は仏教は輪廻を否定していないと解釈する。仏教が輪廻を否定しないというのは正しいが、その根拠となる論理が半分間違っている。
 魚川氏によれば、無我だからこそ輪廻(変化)していくという。つまり、そもそも輪廻する主体が固定的な実体我であっては、所行無常は成り立たず、輪廻はありえないというわけである。仏教は実体我のみを否定しているのであって、変化する体験我は否定していないというのである。
 しかし、輪廻するものは、完全に無我であっては輪廻しない。論理的には、無であるものは無のままであるからである。輪廻の主体が、実体我であっても完全な無我であっても、輪廻は成り立たない。
 輪廻が成り立つためには、輪廻の主体が有無を離れた存在でなければならない。輪廻する我は、有でもなく、無でもなく、有無を合わせたものでもなく、また有無によらずしては成り立たない同時的弁証法的存在なのである。この論理は、龍樹の中論に説かれている。龍樹に比べると、魚川氏の仏教解釈はかなり浅いと言わざるを得ない。

2 仏教が世界について無記の態度をとる根拠について
 「世界は常住か無常か、有限か無限か」については、仏教は無記の態度をとる。その根拠として、そもそも世界は人の煩悩によって構成された実体のない物語であることをあげている。
 従って、物語としての世界について判断するのはナンセンスということになり、何も答えない、すなわち無記である他ないと主張するわけである。カントのように理性にとって世界が不可知だから、答えられないというのではなく、そもそも世界は煩悩によって構成された物語だというのである。
 しかし、世界は誰か一人の煩悩によって構成されたものではなく、複数の他者との関係によって生成する。つまり、無数の存在の関係たる縁起の法こそ世界そのものである。華厳経でいう事々無碍法界こそが世界である。一つの存在が成り立つためには、無数の他の存在を必要とするような関係である。真なる世界とは、関係そのものであり、関係を否定することは縁起を否定することになってしまう。真なる縁起の世界は、不可思議故に、常住か無常か、有限か無限か、という思議を越えているから、無記の態度をとるというべきであろう。決して、世界が物語だからではない。
 また、物語世界であれば一人の自我で自由自在に作りかえることができるが、縁起の法界は無数の他者との関係によって形成されており、一人の自我では到底自由に作り変えられない世界なのである。世界は、その都度、状態は変化はするが、物語ではないのである。魚川氏の仏教解釈には、世界における他者性が欠落しているのである。

3 「本来性」と「現実性」の二元論について
 魚川氏は、煩悩によって構成された物語の世界と、煩悩を離れた構成されざる無為の境地である涅槃を分け、仏教が目指す涅槃こそ本来性であるという。すなわち、不生不滅の無為の世界としての本来性と、生成消滅する有為の世界としての現実性の二元論を唱える。これは、西洋哲学における本質と現象という二元コードと同じである。
 しかるに、このような二項対立図式は、簡単に脱構築されてしまう。物語世界を否定することで涅槃に至るのなら、かえって物語世界に涅槃が依存してしまうことになるからである。
 そして、論理的には物語世界を否定しても肯定しても、本来性は矛盾を抱えて成り立たなくなってしまう。本来性は現実性を離れてはなく、現実性も本来性を離れてない。この二つは世界の二側面であり、弁証法的に止揚される。大乗仏教でいうところの生死即涅槃、煩悩即菩提という弁証法的論理によって脱構築されてしまうことになる。物語世界に相対することで、涅槃も絶対化できなくなってしまうわけである。涅槃という片方の項の優越性、根源性を主張する魚川氏の二元論の論理では、涅槃が絶対化、実体化されると同時に、逆に劣位の項である現実性に依存することになり、矛盾を抱えって成り立たなくなるのである。
 
 また、涅槃を目指すこと、すなわち一切の煩悩を断つことも、一つの欲=自己愛であり、それ自体一つの煩悩である。その最後の煩悩を捨てるには、利他業=他者愛を組み込むしかない。いわゆる菩薩道である。システム論的に言うと、涅槃を目指すこともそれ自体一つの欲であるという解脱における自己言及のパラドックスについて、(利他/利己)という区別で脱パラドックス化したのが、大乗仏教の菩薩道なのである。
 この点における仏教の進化について、当書を推薦している宮崎哲弥も鈍感なのかもしれない。大乗仏教革命における仏教の脱バラドックス化の意味について、魚川氏は理解していない。真実には、菩薩道を経由することなしに、真なる解脱・涅槃はあり得ないのである。これが、致命的な魚川氏の誤謬あり、同時に小乗仏教の限界でもある。
 
 ともあれ、これは、論理上における本質的な構成主義の難点でもある。(本来性/現実性)というコードに基づいて観察する限り、仏教は単なる心理構成主義ということになってしまう。そして、本来性に基づいて、現実性たる物語世界を相対化し、無限定に現実世界を肯定する立場に行き着くことになる。現実世界は、全て虚構だから、どれを選択しても自由だということになり、結局、何も選択できないニヒリズムに陥る。

 惜しいことは、仏教思想が極めて単純で浅薄な教えとなってしまっている。しかし、魚川氏の観察は、小乗仏教の観察だから仕方ないと言える。結局、ゼロポイントからニヒリズムに行き着くことになるだろう。
 
 ここで、大乗的観点から、ゼロポイントを再解釈しておこう。
 真なるゼロポイントは、単なるゼロではなく、プラスとマイナスの逆方向のベクトルが存在することで、力が相殺されて、ゼロとなる均衡点をいう。
 プラスとしての現実性とマイナスとしての本来性が二つあってゼロになっているのである。本来性だけを否定すると、ゼロではなくなり、現実性が実体化されてしまう。逆に現実性だけを否定すると、ゼロではなくなり、本来性が実体化されてしまう。涅槃の実体化である。従って、対等に本来性と現実性が統合された時に、力のバランスがとれ、真なるゼロポイントが出現するのである。
それが二偏を双照する中道第一義諦たる龍樹の中観思想なのである。
 龍樹のように (本来性/現実性)というコードそのものを脱構築した大乗仏教の方が、やはり思想としては優れていると言わざるを得ない。

   参考
 知性発展段階説
 http://mercamun.exblog.jp/13926104/

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2015-07-20 15:45

柄谷行人の交換史観による憲法9条の存在意義

 柄谷行人は、現代日本における真なる思想家である。独自の思想を構築しており、デリダ、レヴィナス、ドゥルーズに匹敵する現代思想家である。
 柄谷行人は、カントを援用しながら、長年にわたりマルクスと向き合うことで、一つの体系的な社会思想を完成させたのである。それが「トランスクリティーク」「世界史の構造」「帝国の構造」という三部作を通じて完成させた交換様式に準拠した社会理論である。私は、それを交換史観と呼びたい。つまり、社会(構成体)の在り様は、交換様式という経済構造によって規定されるという理論である。
 ただし、実証主義的な方法はとられていないので、社会科学的に一つの確立した社会理論として見なすことができるかどうかは検討の余地はあるが、マルクス主義よりも説明能力が高い理論体系であることには間違いがない。
 
 マルクス主義では、社会構成体においては下部構造が上部構造を規定すると考えるが、その下部構造についての捉え方が異なる。マルクスは下部構造を生産様式としてのみ捉えたが、柄谷行人は下部構造を交換様式として捉え直す。従って、マルクスにおいては上部構造だと考えられていた国家や民族共同体は、下部構造として見なされる。ここが柄谷行人の交換史観における最大の思想的な独創性である。
 
 交換史観について説明しよう。まず、三つの交換様式があり、それが混在しているのが現実の社会構成体であるという。その三つとは、民族=ネーションに準拠する互酬(贈与-返礼)という交換様式A、国家=ステートに準拠する略奪と再配分(支配と保護)という交換様式B、資本(商品交換)に準拠する交換様式Cである。そして、近代社会は、基本的に交換様式Cが中心となる社会構成体である。

 マルクスは、国家主義と民族主義を単なる上部構造として甘く見ていたために、必然的に高度に発達した資本主義社会で社会主義革命が起ると考えてしまった。しかるに、先進国の資本主義社会では社会主義革命は起りはしなかった。先進国の資本主義社会では、民族としての平等性や統合性を強調したり、国家が資本に介入して不平等を是正したりすることで、階級格差による不満を押さえて来たために、共産主義革命などは起らず、依然として資本主義経済のままである。
 また一方で、多くの社会主義国は、民族主義をかかげる独裁者が現れるなどして、国家の力が強くなり、全体主義化し、人々の人権や自由を束縛した。つまり、国家主義と民族主義によって、資本主義社会が延命し、社会主義革命が全体主義化したのである。
 柄谷行人によれば、国家主義と民族主義は上部構造ではなく、社会構成体を決定する交換様式という下部構造なのであるが、マルクスはそれを見損なったというわけである。すなわち、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、全ての主権国家における国民社会においては、資本=民族=国家が三位一体となるボロメオの環が機能しているというわけである。ちなみに、これは、システム論的には、三つのシステムの構造論的カップリングとして記述できる。
 ともあれ、資本主義社会が福祉国家として階級格差を是正し自らを延命するとともに、社会主義社会においても、ソ蓮が崩壊し複数の民族国家に分裂し、中国が市場経済を導入するなど、民族主義や資本主義を導入することなしには、成り立たなくなっているのである。
 つまりは、政治形態が資本主義であれ、社会主義であれ、主権国家としての国民社会は、資本=民族=国家という三位一体のボロメオ型社会となるというわけである。社会学でいとうところの後期近代社会は、全てこの形態をとることになり、原則的に社会進化は終焉するわけである。柄谷行人は、これをフクヤマの歴史の終焉になぞらえている。
 しかし、柄谷行人は、この先に一つのユートピアを希求する。それがカントのいう世界共和国である。異なる国民社会どうしが互酬(贈与-返礼)を結び、超越論的仮象としての世界共和国を目指して、諸国連邦を形成するということである。交換様式Aの世界規模での回復としての交換様式Dによる下部構造をもつ社会構成体の実現である。
 ちなみに、交換史観では、世界社会は、四つのレベルで考えられている。交換様式Aのレベルの氏族社会=ミニ世界社会、交換様式Bのレベルの世界帝国、交換様式Cのレベルの世界経済、そして交換様式Dのレベルの世界共和国である。
 社会システム論の視点からいうと、柄谷行人が希求する交換様式Dの世界社会とは、交換様式A、交換様式B、交換様式Cが全て対等に自律的に機能分化する社会を意味している。それは、友愛をもたらす交換様式A、平等をもたらす交換様式B、自由をもたらす交換様式Cの三つが対等に互いに自律的に関係しあう世界規模の社会である。
 
 最後に、永遠平和を提唱する戦争放棄の憲法第9条こそが、日本国による全世界の国への贈与となり、世界規模での交換様式Dとしての意味を持ち、来たるべき世界共和国への第一歩となると提言する。
 しかし、武力を放棄することで、他国もその返礼として侵略しないという関係が本当に形成されるのか?
 ここに不安を抱く人も多いだろうが、これは他国が日本の憲法9条をどう評価しているか調査することでわかるであろう。戦争をしない憲法をもつ国を世界の諸国はどう観察するのだろうか?
 これは、自国の平和のみを願うという偏頗な意識ではなく、世界の平和を望むという高い意識の人々が登場することになしには困難だと思われる。交換様式Dによってつくられる人々の道徳意識は、「各人は他者をたんに手段としてのみならず同時に目的として扱え」であるからである。これは人権思想の根幹でもある。
 
 もはや世界平和なしに一国の平和もあり得なくなった時代であり、日本国のためではなく、世界平和のために憲法9条は必要だということである。
 このことを了解した上で、交換史観に根拠付けられた柄谷行人の護憲思想が若者に浸透していき、憲法9条改正反対運動の思想的根幹となっていくか観察していきたい。
 今流行っている学生社会運動であるSEALDs「自由と民主主義のための学生緊急行動」等に代表される平和主義の若者たちが、全共闘時代における古典的な唯物史観(マルクス主義)ではなく、世界平和を掲げる柄谷行人の交換史観を運動の思想的なベースとしていく可能性はないだろうか?平和主義運動をする若者たちが、こぞって交換史観を自己の思想的アイデンティティとしたとき、柄谷行人は今世紀最大の思想家となろう。
 やっと、マルクスの唯物史観ではなく、柄谷行人の交換史観による世界社会革命が始まりつつあるのである。

  参考
・マルクス主義でいう社会構成体という概念は、いわゆる社会学(システム論社会学)でいう社会ではない。この点を押さえておくべきである。社会学でいう社会とは、あくまでも、創発されたコミュニケーション(あるいは行為)の総体であるが、マルクス主義でいう社会構成体とは、コミュニケーションの結果生じた物象化された社会関係の総体をさす概念である。創発論的社会観ではなく、存在論的社会観に準拠した概念である。
 実のところ、社会システム論の観点からは、社会構成体は実体ではなく、(意識/存在)というコードで第二次観察された社会の記述にしかすぎない。


人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2015-07-12 10:24 | 理論

正義からの解放(相対主義の勝利)

 人類は、そろそろ正義という暴力装置から解放されるべきである。社会学的に分析すると、正義という暴力装置は、肥大化すると、世界を破壊する悪魔と化す。実は、絶対化された正義そのものが、社会病理現象である。
 国家や共同体が正義を独占した時に、この社会病理現象は人々に蔓延し、人々を集合的に殺人鬼に変える。国家は、正義を自己目的化してはならない。
 
 正義のために戦争は行われ
 正義のためにテロは行われ
 正義のためにいじめは行われ
 正義のために差別され
 正義のためにバッシングされ
 正義のために排除され
 そして、正義のために、人々は家族、友人、居場所、そして自分も失い、不幸になっていく。

 社会科学に出来ることは、この正義という暴力装置を科学的に解明し、正義の副作用を無効化する処方箋をつくることである。
 ニーチェは、正義を無効化する思想=積極的ニヒリズムを開発したが、この思想は諸刃の剣であり、成熟社会では、もはや十分に機能していない。ニーチェの企ては失敗したのである。
 いかなる正義も自己目的化すると、世界を破壊する力となる。正義は常に相対化されることで、人類社会は平和でいることができる。
 古来より、あらゆる哲学者が正義とは何かという問いを追求して来たが、カントを含めて万人を納得させる結論を出した者は未だいない。相対主義の勝利である。
 神は、決して人間に正義を与えることはないであろう。もし正義を手にした者がいたとしたら、正義に反する者を殺戮する悪魔となるのであろうから。
 プロタゴラスに始まる相対主義は、正義の暴走をとめる優れた人類の英知である。してみれば、正義は、暴力であり、煩悩である。

正義によって煽動されることなかれ
正義への囚われを捨てよ
正義を得たと思った瞬間に、人は堕落し、他者を迫害するであろう
だから、宇宙の法則=相対主義は、人に正義を与えない
もし正義という化物が世界を支配しようとしたら、許しと愛が解毒剤となろう

 参考
 「西洋道徳の本質は暴力」
  http://mercamun.exblog.jp/6329988 
 「アドルフに告ぐ」・・・手塚治虫の反戦漫画
  正義の愚かさが説かれている。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2015-05-06 11:07

「かぐや姫の物語」評論「もし天人の音楽ではなく、カノンだったら」

 高畑監督の「かぐや姫の物語」のラストシーンにおいて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンがある。このシーンは、色々と話題になっているようである。特に、BGM 「天人の音楽」はあまりにも軽快で明るく優美であったために、違和感を感じる人も多かったようである。
 しかし、天人の音楽は、極めてスピリチュアルであり、この音楽でないと、この場面は成り立たない。かぐや姫の本心である地上界に止まりたいとする欲望は、あけっなく無慈悲に断たれる。優美で明るいにもかかわらず、この曲が怖いと感じた人たちも多くいるようである。それは、天人の世界とは涅槃=死を意味するからである。涅槃とは一切の煩悩のない境地である。高畑監督の描写でも分かるように、天人の世界は、苦悩のない平和な阿弥陀仏の極楽浄土と同じであり、出迎えの光景は阿弥陀二十五菩薩来迎図そのものである。
 死とは、自己の意思とは関係なく、そのように無慈悲に突然やってくるものである。死によって、人生は突然途切れる。地上でのかぐや姫の生も途切れ、この世における一切の記憶はなくなる。記憶がなくなることで一切の煩悩から解放される。この場面における天人の音楽が怖いと感じる人たちは、自己の生もいずれは死によって途切れるという恐怖からくる。
 しかし、一方で、涅槃への誘いとしての昇天は、全ての記憶を失いリセットされる感覚があり、何も考えず、一切から解放され、自由になった気分もする。実は、この昇天の儀式そのものが何度も繰り返されてきたような感覚に襲われる。この昇天の儀式そのものがとても懐かしい気がする。心地よさと懐かしさを感じるのは、私だけであろうか?
 それにしても、死に際して、全てを忘れて何も残さず地上から去ることができる人などいるであろうか? 多くの人たちは、煩悩を断ち切れず、幽霊として地上界に半ば止まり続けているような気がする。
 ともあれ、天人の音楽には、どんなことも全て忘れてリセットしようじゃないかみたいなスピリチュアルメッセージがある。かぐや姫の物語を見てこの曲が耳に残った人たちが多くいるようである。魂の深い部分と共鳴したものと考えられる。昇天の儀式の記憶である。皮肉な事であるが、地上の記憶は忘れてしまうが、逆に昇天の儀式の記憶は魂に刻まれているのである。
 
 さて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンが、もし天人の音楽ではなく、神曲「パッヘルベルのカノン」だったらどうなるだろうか? カノンは、天から授かった人類史上最高のスピリチュアルな曲である。カノンは、一切肯定の曲である。記憶も含めて全てのこれまでの過去を肯定し、未来永劫に生きることを肯定する曲である。煩悩も肯定され昇華されていくことになる。これに対して、天人の音楽は、過去の生を無にするリセットの曲である。ある意味、対極にある。仏教的にいうと、阿弥陀教と法華経の違いである。
 あのシーンに、カノンを流すと、おそらく、かぐや姫の物語の意味が一変することになる。かぐや姫は自己の生を肯定し、煩悩の意味を転換し、昇天し、永遠の生命を生きることになる。
 そうすると、高畑監督が描こうとした物語のテーマを変えてしまうことになる。手塚治虫の火の鳥と同じになってしまう。カノンのスピリチュアルメッセージである「宇宙に存在するものには全て意味がある」が物語の意味を一変させてしまう。かぐや姫の物語から切なさが消えてしまうだろう。
 そうなると、かぐや姫が輪廻転生して再度地上界に生まれ、同じく来世でも夫婦になった竹取の翁のもとに子供として生まれないといけなくなっしまう。宇宙生命によって、がくや姫の煩悩は肯定されることになる。その際、カノンを流すべきである。カノンは生命の曲である。
 
 「魔法のプリセンセスミンキーモモ」を知っているだろうか? 実は、大体、 魔女っ子物シリーズは古典竹取物語の設定にモデルがある。 同作も設定が似ており、夢のファナリナーサから来て、地上世界の夫婦のもとで暮らするというパターンである。いずれ別れはやってくるが、その別れがかぐや姫と異なる。主人公のモモは、子供をかばって交通事故で死ぬが、今度は地上界の父母の本当の子供として生まれ変わることになる。まさしく、ミンキーモモの最終話こそが、かぐや姫の希望=煩悩の肯定の物語なのである。このような物語ならば、天人の音楽ではなく、生命の再生・誕生を肯定するカノンがふさわしくなるであろう。
 確かに「かぐや姫の物語」においても、ラストに地球を見て自然に涙するかぐや姫と月に映し出された赤ん坊のかぐや姫のシーンによって、地上界の思い出は煩悩の消滅した極楽浄土に行っても意識としての記憶からは消えるが、魂の記憶として未来永劫に残るという可能性を示唆して終わっている。
 しかし、それは、あくまでも魂の記憶としてであり、本当にまた地上界の懐かしき場所に帰ってくることができるかはわからない。だから、切なさが表現できる。そして、魂の記憶としてこの希望はかえって永遠化されることになる。
 私は、「かぐや姫の物語」に、魂に刻まれた記憶は永遠不滅である、というメッセージを読みとったのである。このメッセージを伝えるためには、天人の音楽による極楽浄土の描写がないといけない。カノンを使用すると、昇天によって記憶を永遠に魂に封じ込めるのではなく、命の再生のイメージとなってしまい、昇天が新たな別の生を生きるための儀式となってしまう。
 お迎えの場面のBGMをカノンにしたら、「かぐや姫の物語」は、魂の記憶の問題ではなく、永遠の生命(輪廻転生)をテーマとしたものとなってしまうのである。物語のもう一つの可能性として、それはそれでよしかもしれない。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 

 
[PR]
by merca | 2015-03-21 15:51