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「国が滅んでも家族は滅ばず」映画「少年H」によせて

 国家や国民社会が滅んでも家族は残る。映画「少年H」を見てそう思った。私流に解釈すると、これは、国家がなす家族への虐待を乗り越えていく話である。家族の勝利である。国家が勝手に戦争したために、多くの家族の生活が貧困化するなか、主人公の家族も苦しめられるが、しのいで生きていく話である。
 国家の脆さと、家族の強さが対照的であった。また、勝手な戦争で家族の命を奪った国家主義という化物=社会病理を退治するのが、社会学の役目だと痛感した。
 国家を守るために戦争をすることが家族を守ることにはつながらない。国家を守ることと、家族を守ることはイコールでない。国家と家族には、根源的な差異がある。この差異を無視して、家族を守るために戦争をすることは愚かである。
 
 また、社会科学の立場からすると、「国家を守ることは、家族を守ることである。」という仮説は明らかに論理の飛躍がある誤謬である。この誤謬命題を強制されていたのが、戦前の軍国主義社会の国民たちである。
 しかし、敗戦によって、「国家が滅んでも家族は残る」という真理に目覚めた日本人たちは、あっさりと民主主義や普遍的な人権主義を採用し、国家主義を捨て去った。敗戦という絶対的事実の前に、国家が国民を守るという思想が嘘であり、また客観的に見ると、むしろ国家の戦争によって多くの家族の命が失われたことがわかったのである。
 
 してみれば、家族の自律性は、国家の存在を遥かに凌駕する。日本社会でも、朝鮮、中国、ブラジル、ベトナムなど、他国から来た家族が少なからず生活している。彼らは、強固な家族関係や親族関係を維持し、生活している。世界中に国を失った難民は溢れかえっているが、他の社会で、家族で助け合い、生きている。移民が可能なのは、国民社会と家族が分離可能だからである。そして、移民した後は、移民先の社会構造の組み込まれていく。どんな荒れ地でも、強い家族の絆さえあれば、国境を越えて家族は生きていく。
 
 家族システムのコードは(愛する/愛しない)である。愛とは、見返りを期待せずに与えることをいう。経済のような交換原理ではなく、一方的に与えることで完結する関係である。これを相互関係と区別して、非対称的関係という。
 例えば、当たり前のことであるが、障害をもった子が生まれて来ても、親は見返りなしに衣食住を与え続け、子供の幸福に喜びを感じる。子供に将来支えてもらおうとなんか思はない。もし相互的関係が家族の原理なら、障害をもった子を捨てる親もいるだろう。しかし、家族の原理が愛である限り、そうはならない。決して見捨てず、与え続ける。一方的な非対称な関係が家族の本質だからである。 家族関係は利他的で非対称的関係であり、人間が家族で生まれ育つかぎり、限定的な範囲での性善説が正しい。無論、一部の家族においては、それが崩れており、子を虐待する親もいるが・・・。
 
 戦前、国家が天皇を中心とする家族的国家観を植え付けようとした理由は、正に個々の家族の自律性を奪い取とり、「国家を守ることは、家族を守ることである。」を信じ込ませ、人々をコントロールすることにあった。
 しかし、どのような手段であろうと、原理的に家族の自律性を剥奪することはできない。そのような社会はいずれ滅ぶ。国親思想のように国が家族となるような国家観はやめるべきである。
 
 現在、小林よしのりや維新の会など国家主義が流行っているが、国家主義は、家族や個人よりも国家や民族社会を優先させることに思想的根幹がある。しかし、それは、人間が本来的に取り替えのきかない「個別的な家族」で生育するという社会学的真理に反する虚構なのである。
 国家の崩壊は家族の崩壊を招かないが、家族の崩壊は、社会の機能を低下させ、いずれ国家の崩壊を招く。人類社会は、国家主義から普遍的家族主義や普遍的個人主義へと進化していく。これからは、国民社会から世界社会へと思考を切り替える必要があるのである。家族は、国民社会ではなく、世界社会の単位なのである。

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by merca | 2013-08-18 22:39 | 社会分析 | Comments(0)

思想としてのエビデンス主義

 科学的事実には、科学的根拠としての証拠=エビデンスが求められる。エビデンスがない仮説は、科学的事実の権利が認められない。仮説が科学的事実として見なされるためにはエビデンスが必要であるという思想のことをエビデンス主義という。そして、現在、この思想が絶対化されている。

 通常、エビデンスは、三種類が存在する。論理的根拠、規範的根拠、実証的根拠である。
 論理的根拠とは、三段論法でいうところの大前提と小前提にあたる。「ソクラテスは死ぬ」という命題が真である論拠は、大前提である「人間は死ぬ」と小前提である「ソクラテスは人間である」という命題が真であることである。この場合、実証されなくても、論理的必然性をもって結論が真であると導きだせるわけである。
 また、「AはBより大きい」という命題は、「AはCより大きい」と「CはBより大きい」という命題が真であれば、論理的根拠となる。ある命題の正しさは、実験をせずとも、別の命題の正しさによって証明されるわけである。複数の正しい別の命題との関係性から、ある一つの命題の正しさを導き出すことを論証といい、その根拠を論理的根拠という。論理的根拠もエビデンスの一つである。
 次に、規範的根拠とは、決められた規則や手続から逸脱していないことである。例えば、刑事裁判では、脅迫して自白させた供述や違法捜査で収集した証拠は採用されない。また、科学的実験の結果も、学会の示した厳密な手順に従っていないものは排除される。要するに、正しい規則や手続に従っているということがそのまま命題の正しさの証拠となるわけである。違法な捜査や間違った方法で得られた知識でないことが、エビデンスとなるのである。
 ちなみに、専門家が発した知識だから正しいと考えるのは、専門家が正しい知識を獲得する手段を使用していると人々が思っているからである。権威のある学者の論文を引用して自説の正しさの根拠とするのは、規範的根拠の一例である。文科系の学術論文の中には、この種の引用を多用することで、構成されているものが多い。
 最後に、実証的根拠とは、仮説を実証する実験結果や観測結果のことをいう。自然科学では、各種実験によって仮説の正しさを実証することになる。医学では、臨床実験を繰り返し、仮説の正しさを立証する。社会科学では、社会調査によって社会現象を観測したり、既存の調査の結果によって、自説の根拠とする。
 
 このうち、科学が採用する根拠、すなわちエビデンス主義の唱えるところの根拠とは、実験と観測による実証的根拠をさすことは言うまでもない。論理的根拠と規範的根拠もエビデンスであるのだが、なぜか実証的根拠のみが重宝されているわけである。さらに、実証的根拠がないものは全て科学的事実から排除され、非科学としてレッテルを貼られることになる。
 しかし、実は、エビデンス主義が、真理の対応説ではなく、究極的に真理の合意説に基づいていることはあまり知られていない。つまり、科学的事実にエビデンスがあっても、本当は対象と認識が一致した真理であるというわけではないのである。
 科学的事実は、自然界の現象を写し取った正しい認識ではなく、自然界に対する一つの確率論的解釈なのである。結論から言えば、ある一定の高い確率で起る現象について科学的事実として認定しましょうという科学者集団の合意によってあたかも真理のように一般化されているだけなのである。
 どのような確率で起ったら科学的事実と見なすかは、自然界が決めたものではなく、人間が勝手に決めて合意しただけであり、事実判断に価値判断が混入しているのである。医療におけるエビデンスレベルという考え方にそれは顕著に反映されている。医学的に有用かどうかの視点から、合意の上、科学的事実として採用するかどうか決めているにしかすぎない。

 もう少し詳しく説明しよう。エビデンス主義は、実証的根拠となる実験や観測について、決定論ではなく、確率的現象として記述する。例えば、Aという現象の後にBという現象が起った頻度をカウントし、95%の確率で起ったならば、AとBの間に統計的に有意な相関関係があると見なすことになる。しかし、これは確実にAがあればBがあるというのではなく、確率の信頼度にしかすぎないのである。世界を偶然的現象と見なし、その確率を記述することで、現象を解釈しようとしているだけなのである。
 一方、厳密な意味での決定論に基づく自然法則というのは、偶然性の支配する確率論の世界では存在しない。そもそも、決定論の世界では、確率は意味をなさない。確率論は、世界の偶然性に対する一つの数学的処理なのである。そして、単に確率的現象にしかすぎない仮説を真理へと一般化するための社会的装置がエビデンス主義である。エビデンスがあれば、真理であると人々は錯覚するのである。
 確率論に基づくエビデンス主義においては、因果関係や相関関係を確定することは究極的に不可能である。不可能であるからこそ、真理の対応説を放棄し、真理の合意説に身を委ねるしかない。要するに、ある一定の確率で起るのなら、その現象を科学的事実と見なしましょうという合意に委ねられることになる。合意であるからには、すでに自然現象ではなく、社会現象であり、様々な社会的要因が混ざり込み、時には強引な解釈もなされることになる。
 つまり、科学的事実は、エビデンス主義によって社会的に構成されているのである。例えば、医薬品の臨床実験における治療効果の確率も、世間の人々から見れば多少低くても、製薬会社の意向などを受けて、強引に統計的に有意だと解釈されることになる。どこからどこまでが有意であるかの線引きは究極的に合意=人為である。科学的事実が確率的現象にしかすぎないのなら、科学的事実を採用するかしないかは、本質的にギャンブルと同じてある。このギャンブルに乗るか乗らないかは、これまた個々人の自己選択となる。正しく子宮がんワクチンの論理である。

 エビデンス主義は、学問ではなく、一つの思想である。世界を確率的現象だと見なし、無数にある確率的現象のうち、人間にとって有意味や有用な確率で起る現象を科学的事実として真理化する思想なのである。エビデンス主義が、後期近代社会に適合的な思想であるかは、これからの分析を待たないとわからない。

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by merca | 2013-06-23 23:10 | 理論 | Comments(4)

善悪(利他/利己)の対称性の破れ

 一応、善を利他と定義し、利己を悪と定義して考えてみたい。時折、人間は、善=利他心と悪=利己心の駆け引きが心の中で起り、行為の選択を迫られる。所謂、良心の呵責である。そして、天使と悪魔のささやきのどちらに組するのか決めるのは、本人自身である。実は、この自己選択性こそが倫理的行為の大前提である。
 他者論的倫理学からすると、天使の声とは、端的に他者の声と言えよう。助けを求めている他者を自己の都合をよりも優先させたり身代わりになって助けるかどうかの決断を迫られるわけである。自己の都合を優先させると、悪をなしたことになり、自己を犠牲にして他者を助けたら善をなしたことになる。
 
 いずれにしろ、人間は性善説でも性悪説でもなく、悪と善を含みつつも超越し、選択できる立場にあるというわけである。もう少し言うと、悪の心を完全に排除した善行は、善悪に関する選択性を欠くことになり、倫理的行為とはならない。悪の誘惑を断ち切って善を選択したときにこそ、本当の意味での尊い善行=倫理的行為となる。
 人間は性善説でも性悪説でもないと言ったが、善が悪よりも少し勝っているのが人間的真実である。この対称性の破れを説明しよう。善と悪の心が人間にあり、もし勇気を持って善を選択したのなら、一時的な自己の利益は失うが、悔いは残らず、すっきりと人生を歩むことができる。しかし、もし悪を選択したら、一生自己の善の心によって罪悪感に苛まれることになるのである。悪を選択しても、最初から善の心がある以上、罪悪感が人を責め続けるのである。戦場で上官の命令でやりたくない殺人をやってしまった兵士は、一生罪悪感で苛まれるのである。それは、悪をなしても、もともと善の心があるからである。罪悪感と償いの感情は利他心の現れである。この意味で、選択性に基づく悪は、善悪の葛藤のない単純な善行よりも倫理的である。ある意味、選択性があれば、善悪ともに倫理的行為である。そこで、次のような価値序列を立ててみた。
 
 選択性を媒介とした善行が一番目に価値があり、選択性を媒介とした悪行は二番目に価値があり、選択性を介在としない善は三番目に価値があり、選択性を介在としない悪は一番価値がない、という道徳的価値序列をつけることができるのである。
 良心の呵責や罪悪感なしに人を殺す者は最低である。かたや、自己の所属する共同体からの制裁(悪の誘惑)があるにもかかわらず、あえて他者を助ける者こそ、最高善をなすものであり、この世で一番美しい倫理的行為なのである。罪悪感をもちつつも悪をなしてしまった凡人たちは、この最高善をなした者を敬い、信仰するのである。それが許しとなるのである。ニーチェはこのことに最後まで気づかなかった愚か者である。

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by merca | 2012-11-30 11:12 | 反ニーチェ | Comments(1)

反ホッブス命題・裏社会学への誘い

 社会学者パーソンズをはじめとする多くの理論社会学者たちは、「社会秩序はいかにして可能か?」という命題によって動機付けられ、社会理論を構築してきた。一般に「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、ホッブス命題と呼ばれている。
 社会秩序が存在するということは、人々の行動が一定の規則に従い、一定の範囲内で他者の行動が予測可能であり、社会が全体として秩序だったものとなっているということである。例えば、人々が使用する言葉は文法という規則に従うことで、伝達可能となっている。大凡、社会があることろには規則があり、規則に伴う秩序なしには社会は成り立たない。近代社会であろうと、前近代社会であろうと、これは普遍的な事実である。従って、社会を認識するとは、社会に存在する規則としての社会秩序を認識することに他ならないわけである。社会秩序を記述したものが社会理論の原型となる。これが典型的な表社会学の発想である。

 「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、現実の社会は規則による秩序があるものであり、それは自然なことではなく摩訶不思議な現象であり、秩序を維持するからくりが人為的に存在するという前提に基づいている。つまり、人々の集まりや諸関係は、自然状態としての無秩序=カオスが本来の姿であり、秩序があること自体が不自然なことであるという発想である。無秩序たるカオスから秩序たるノモスへの移行に社会の成立過程をみようとする立場なのである。
 
 ところが、もともと自然科学が対象とする物理世界では、森羅万象が因果法則に貫かれており、無秩序状態こそあり得ない。自然こそが必然の法則=絶対秩序の世界であり、ホッブスが想定するような自然状態こそが人為の産物である。だから、むしろ我々はこう問うべきである。「無秩序はいかにして可能か?」かと。本来自然界は秩序があるのに、なぜ人間だけが無秩序をつくりだすことが可能なのかということである。
 実は、無秩序とは、言い換えれば、偶然性や自由と言い換えることができる。そして、無秩序という観念は、個人の自由の意識の誕生と並行しているのである。万人の万人による闘争である自然状態は、個人が自由に振る舞うことができるという観念を前提としている。個人が本能や習慣や伝統に従い、規則正しく行動しているとすると、万人の万人による闘争などあり得ない。無秩序という観念は、伝統社会から近代社会への移行に伴い、人々に自由の意識が芽生えたことに起因しているわけである。 
 もっというのなら、近代社会が無秩序をつくりだしたのである。自由に基づく偶然性と無秩序を可能とする社会的からくりを解明することも、社会学の役目である。「社会秩序はいかにして可能か?」という命題を追求するのが表社会学だとすると、「無秩序はいかにして可能か?」を追求するのが裏社会学である。
 
 多くの社会学者は、表社会学の立場に立っており、ルーマンですら、その例外ではない。ルーマンは無限なる複雑性として世界そのものを捉えており、原初的状態としてカオスを前提にしている点において、ホッブス命題から思考している。反ホッブス命題である「無秩序(自由)はいかにして可能か?」から出発した社会学者にお目にかかったことがない。自然科学の対象である物理世界や動物世界は必然の規則で貫かれているのに、人間の近代社会のみに、自由に基づく偶然や無秩序がありうることこそが、社会の不思議、玄妙なのである。
 
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by merca | 2012-06-23 19:36 | 理論 | Comments(17)

世界とは何か?

 世界あるいは宇宙は、一つの全体性=同一性ではない。そのような全体性や同一性を越えたところに世界はある。もしかりに世界が一つの同一性であるのなら、その同一性を根拠付ける外部が必要となり、世界に外があることになる。世界の外があると、世界は世界足り得なくなる。世界とは、一切であり、その外に出ることができないから世界なのである。世界は、内外の区別を越える真無限である。
 また、世界は場所であり、実体ではないので、本来、主語化できないものである。世界は主語化された途端に、一つの実体となり、世界足り得なくなるのである。つまり、「世界はこれこれだ」と述定した途端に、世界に同一性が付与され、世界は世界でなくなってしまい、世界は捉えられなくなってしまう。つまり、原理的に、世界は決して認識することはできないのである。認識できはしないが、それがあることを私たちは知っているのである。このような世界に対する知は、科学的知識の外にある。科学が宇宙がこれこれだと分析した途端に、宇宙は宇宙でなくなるのである。宇宙は認識作用ではなく、別の仕方で感じ取るものなのである。認識作用ではない知を人々は忘れており、科学のような認識作用のみが知である勘違いしているのである。

 しかし、強いて言うと、世界とは、一切と一切の関係であり、万物はその関係項である。ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界が世界論を正確に捉えている。またルーマンは、世界を無限なる複雑性として捉えた。このような哲学者たちの知は、科学のような認識作用による知ではなく、生得的な直観知によって得ているのである。
 世界論では、世界は、それぞれの万物の唯一性によって成り立っていることになる。それぞれの万物に区別がないのなら、世界は同一化してしまい、世界は世界足り得なくなる。無数の万物が世界の無限性をもたらすのである。
 
 星空を眺めたときに、我々は一つの全体性ではなく、無限性として世界・宇宙を感じる。その無限性は、無数のそれぞれの星が輝いていることからくる。星が一つもない暗闇という同一性に世界を感じるのではなく、無数の星の存在があることに世界の無限を感じるのである。世界という感覚は、そのように感受される。それが生得的な直観知である。
 
 社会も一つの世界だと考えると、この生得的な直観知は、人類社会=世界社会=万人と万人の関係を知る場合にも、必要となってくるのである。ある種、認識作用を越えた知でもって、世界社会を観察するのが、理論社会学の要諦である。世界社会の無限性を考えるときに、無数の人々の行為やコミュニケーションのそれぞれ性、唯一性こそが必要となる。
 今回、世界社会は、国民社会を越えて、東日本大震災において海外から支援や励ましのメッセージが届き、それに感謝する被災地との倫理的コミュニケーションにおいて、創発されたことが観察できた。そのメッセージの唯一の無数性が世界社会の無限性を支えているのである。ともあれ、そのような世界社会を観察する知は、ある意味、直観知であり、社会学玄論の玄とは、そのような玄妙な知を意味するのである。

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by merca | 2011-09-10 08:43 | 理論 | Comments(0)

世界からの祈り(Pray for Japan) 他者愛の連鎖

 このサイトを見よ!!

 Pray for Japan
 http://prayforjapan.jp/message/
 
 東日本大震災が起こり、多くの人々が犠牲になった。しかし、世界中にいる無数の人たちが祈りを捧げてくれ、普通の人々の間で利他的行動が伝染・連鎖している。一体、これはどういうことか!!
これは、宮台真司が提唱する卓越した一人の利他的カリスマへのミメーシス(感染的模倣)とは全く異なる精神である。また、共同体を越えて、世界に住む無数の他者から祈りと支援が届いてくるわけであり、当然、小林よしのりが重んじる郷土愛・愛国心とも全く異なる精神である。
 カリスマでもなく、国家社会でもなく、平凡な普通の人たちの中にこそ、神仏はいるのである。これは物語ではなく、まぎれもない事実である。街角では、多くの人たちが献血や募金をしている。 ニーチェはこの事実に気づかず、ニヒリズムに陥った。レヴィナスやマザーテレサたちが、共同体を越えた一人一人の他者の中に神をみた。それは、他者愛である。他者愛は、平凡な一人一人の人々の中に宿る。
 それは、困っている人たちがいると、「あなたがたは、一人じゃない」と囁くのである。そして、そのメッセージは、共同体を越えて全世界の人々に連鎖していき、祈りと支援を生み出していくのである!! 
そして、世界平和がもたらされるのである。国家どうしの憎しみ合いは、他者愛の連鎖の前には消え去るのである。韓国と中国も日本を支援してくれている。他者愛の前には、小林よしのりの未熟な愛国心も何も意味をもたなくなる。我々は、異国=他者であるオバマの演説にむしろ励まされるのである。なぜだろうか?

 リンカーンのスピリットを受け継いだ平和主義者オバマは、言う。
 「私たちは日本とともにいます」と。

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by merca | 2011-04-04 23:17 | 反ニーチェ | Comments(54)

東日本大震災の利他的支援活動が、ニヒリズムの敗北を実証する!!

 人が自発的に他の人の利益になるためにする行動を向社会的行動という。向社会的行動は、端的に利他的行為であり、所謂、あらゆる社会や宗教で善と呼ばれる行為である。今、東日本大震災の発生を機に多くの人々が向社会的行動を行っている。
 被災者同士の助け合い、被災地以外にすむ県民からの支援、世界の国々からの支援があるが、これらは全て義務ではなく、自発的に行われる利他的行為である。災害時には、ほとんどの人たちが、このような自発的善たる向社会的行動をとる。
 しかし、このような人々の善意を蝕んで来た思想がある。それがニヒリズムである。その教祖がニーチェである。ニーチェは、絶対的な善悪の基準は存在しないという馬鹿の一つ覚えで、あらゆる善行を否定してきた。
 東日本大震災の支援のために起こった世界規模の人々の向社会的行動は、ニーチェのニヒリズムからは解釈できない。これは、端的にいうとニヒリズムの敗北である!!
 今回の地震で、多くの人々の中に、ためらいもなく自発的に利他的行動をとる道徳性が内面化されていることが実証されたのである。現代社会の人々は、善悪の基準に迷うことなく、人助け=利他的行動を善きこととし、善行をなしているのである。
 日本中、世界中からよせられている多くの人々の善意のオーラがニヒリズムを粉砕する。善悪の基準は存在しないから、困っている人を助けないというニヒリストは、いないのである。このような現実に準拠するのなら、成熟社会の人たちは、ニヒリズムでは生きておらず、利他的である。社会科学(社会化の理論)からすると、人々は、最初からニヒリズムではなく、利他性を内面化していたのである。
 
 さらに、システム論的にいうと、世界社会において、(利他/利己)という区別コードに準拠したボランティア(コミュニケーション)システムが創発されているのである。善悪という道徳の区別コードは、ボランティア・システムの区別コードである(利他/利己)によって観察されることで、脱パラドックス化され、ニヒリズムを駆逐できるのである。利他的行為は人から人へ伝染していき、善のオーラで世界中が包まれるのである。

 10年ほど前に、少年の猟奇的殺人が連続して起こったことを受けて、モラルパニックがおき、それに釣られて、永井均のような懐疑主義の思想家たちによって、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というニヒリスティックな問いが流行ったことがあったが、今やこのような問いもナンセンスで時代遅れである。そして、NHKしゃべり場で殺人は悪くないと豪語していた相対主義の知的若者に次のような光景を見せてやりたい。
 それは、被災地の子供たちが、学校で被災した人たちの世話などをし、助け合いを行って生活している姿である。
 
 ニーチェにかぶれた一部のポストモダンの論客や若者たちは、人々に利他性が最初から内面化している事実をどう扱うのだろうか?
          正しく、ニヒリズムは敗北したのである!

参考
被災した宮城県女川町の中国人「地元の人のおかげで助かった」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20110316/Searchina_20110316096.html

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by merca | 2011-03-21 11:13 | 反ニーチェ | Comments(2)

「「正義」について論じます」書評 宮台対大澤!!

 宮台よりも観念的な社会学が存在する。それが大澤真幸の社会学である。大澤氏の著作はかなり読んできたが、あまり当ブログで取り上げることはなかった。大澤氏の第三者の審級論は、社会の根本原理を定式化したものとして名高い。
 また、大澤氏は、柄谷行人との親和性もあり、浅田彰、東浩紀などのポストモダンの論客たちと、最高度の文化的かつ知的な日本の思想界を形成してきたのである。
 そんな大澤氏が社会学の鉄人である宮台氏と対談し出版されたものが「「正義」について論じます」である。日本思想界における最高度の観念論的知性がぶつかりあう姿は興味をひいた。数ページ開くと、二人の顔のアップが突然出てくる。すでに、二人とも、学者ではなく、思想家の顔であった。
 大澤氏はいく分普通に見えたが、やはり宮台氏の顔はどこか違っていた。それは、単なる思想家ではなく、社会変革者の顔なのである。私は直感的・霊的にそれを察知できた。
 もうすでに、宮台思想は、ニーチェのごとき陳腐な西洋哲学を越えているのである。日本の学者や思想家は遅れていると思っている西洋かぶれした大学院生たちは多いが、実は、宮台氏に限っていうと、世界レベルの哲学的知性なのである。

 さて、本題の書評の内容に入りたい。三つの話題に絞りたい。三つの話題とは、私なりに整理すると、「正義の唯一性と善の多様性」「利他性への感染(ミメーシス)」「社会的包摂における中間集団の必要性」ということになる。

・「正義の唯一性と善の多様性」について
 正義の唯一性と善の多様性について議論されていた。これは、文化相対主義の問題である。正義とは、各々の文化共同体を越えて人類が従うべき一つの正義=道徳規範を意味する。一方、善とは、各々の文化共同体が所有する個別の道徳規範であり、現実的には共同体の数だけ多様である。
 この二つの区別の重要性が説かれ、さらに正義の唯一性という観念は現実には不可能であるが、必要不可欠であるという議論に収斂していくことになる。この議論は、共同体を越えた外部を思考することと同じであり、他者性の認識不可能性=超越性と哲学的には同義である。
 残念ながら、柄谷行人の名著「探求Ⅰ」「探求Ⅱ」において、この種の議論は結論が出ており、そちらを読むことをすすめたい。ちなみに、柄谷行人の言葉では、正義が倫理に対応し、善が道徳に対応することになる。
 
 宮台と大澤の対談では正義の結論はでなかったが、ここで、正義の唯一性と善の多様性の問題解決についての回答を言っておきたい。
 正義の唯一性は人類社会という無限世界を前提としており、超越的であり、具体的な内容としては認識できず、到達不可能であるが、超越的である故に、かえって善の多様性の前提を形成することになる。唯一の正義は、神のごとく、自身は具体的・個別的な姿を現さず、内容のレベルでは認識不可能であるが、具体的な善の多様性の前提を形成するというかたちで作用しているのである。
 このように正義の問題は、否定神学的弁証法のみが解決してくれることになる。これは、相対主義と絶対主義が対立的に依存関係にあるという論理と同じてある。わかりにくければ、ベタであるが、善の多様性も正義の唯一性の範囲内で許容されるとでも言っておきたい。これが回答である。

・「利他性への感染(ミメーシス)」について
 次に、利他性のある人物への感染についてテーマになっている。人は利己的な人物をモデルにするのではなく、利他性のある人物に魅力を感じ、その価値観に感染するようになるという。これは、宮台氏の考えであるが、非常に現実的である。確かに、そのように私も感じる。
 例えば、薬物依存やリストカットや虐待で悩む多くの若者を救ってきた夜回り先生という人は有名であり、多くの若者たちが夜回り先生という高度な利他性を所有する人格に感染し、自分も他者を助けたいと思うようになっている。
 さて、本当の利他性とは何かと考えていくと、共同体の外の他者への利他性ということになる。自己の所属する共同体に属する仲間のためだけではなく、自己の外にいる他者を救う者が一番感染性がある。大澤氏は聖書の「善きサマリア人の喩え」の例を引き、弱者への感染の可能性を述べていたが、本質は弱者への感染ではない。弱者という他者ではなく、共同体の外の他者を救った高度な利他性への感染こそが、この説話の本質なのである。
 共同体の内外に関係なく、他者を救う者こそが本当の利他性をもっており、そのような利他性に人は感染し、その感染の連鎖こそが、文化相対主義を越え、人類社会の正義の唯一性へとつながっているのである。このような思考回路を論理的に開いたのは、柄谷行人であるが、「利他性への感染」という事実に立脚して、正義の唯一性という到達不可能な倫理の存在の作用を例示した宮台の観察眼はやはり一流である。

・「社会的包摂における中間集団の必要性」について
 中間集団の重要性が議論されていた。中間集団の存在を無視したリベラリズムもコミュ二タリアリズムも、成立たないということが議論されていた。これは極めて社会学的な立場からの議論であり、個人と全体社会の二元論に基づく観念的な政治哲学と一線を画する。
 
 日本では、成熟社会に入り、家族・親族・企業・労働組合・新興宗教などの、全体社会(国民社会=国家と市場)と個人の間に存在する中間集団の凝集性が弱まり、その恩恵にあずかることが困難になってきたという。そのために、国民社会の代表機関である国家が個人をサポートしなければならないという発想が出て来た。中間集団から排除された個人を国家がサポートすべきというわけである。
 この考えの典型が、貧困は社会責任=国家責任とする湯浅氏の反貧困思想である。国家が排除された個人のセフティーネットを構築し、最低限の生活保障をしてやるというわけである。
 しかし、このような考え方は、すでにヨーロッパでは古いという。むしろ、国家と個人の間に存在する中間集団の自立性が焦点となっているらしい。つまり、自立的な中間集団が個人を包摂するというかたちで、社会的排除を防止することが大切であると考えられているのである。反貧困思想のように、国家のみが個人をサポートするという発想は極めて時代遅れでおかしいのである。これは、日本だけである。
 ともあれ、宮台氏も大澤氏も、社会学者であり、個人が相対的に中間集団に包摂されることが重要であると認識しているのである。個人責任でもなく、社会責任でもなく、家族責任や企業責任や学校責任など中間集団の責任という概念を流布すべきであるという結論となる。
 中間集団が責任をとるためには、中間集団の自立性・自律性が求められる。国家や市場に相対的にしか依存しない自立的な中間集団の存在が必要であり、社会的排除の解決策の本丸は中間集団にありとするのが、社会学の本流の考え方である。
 よく考えてみればわかるが、個人は様々な社会集団に関わりながら、欲望を充足するわけであり、全体社会と直結しているわけではない。従って、個人が所属する社会集団が個人の面倒を部分的に見ていくことが、古典的な国家のみによるセフティーネットよりも現実的なのである。
 
 社会学的には、国家は各々の中間集団を調整・支援し、各々の中間集団が個人を支援するというかたちがベストなのである。社会責任論を前提とした国家による個人のサポートを強化するという政策は、財政破綻をきたすだけであり、無意味である。
 国家と個人の二項関係こそが、現実的な個人の孤立化を意味しているのであり、中間集団の支援なしに生活保護を受けるのは孤立化をすすめることと機能的に等価である。国家と個人の二項関係に準拠した反貧困思想こそが孤立化の温床となってしまう逆説があるのである。
 中間集団=共同体の再帰的再構築と、中間集団の国家や市場からの相対的自立性によって、個人を包摂することが貧困問題・虐待問題などの解決策となるのである。国家から相対的に自立した中間集団による個人の社会的包摂こそが、孤立化による貧困問題を解決する社会学的処方箋なのである。

 全般的に、大澤氏の社会学思想というよりも、大澤氏が宮台思想を引き出したという対談の内容であると思った。
 
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by merca | 2010-12-04 11:37 | 社会分析 | Comments(0)

コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能

 成熟社会においては、経済的資本や文化的資本をいくら所有していても、人間は幸福になれない仕組みになっている。この社会では、社会関係資本(人脈・友人関係など)こそが決定的な幸福格差をつくる。社会関係資本の産出・使用には、コミュニケーション能力が必要となる。
 コミュニケーション能力とは、場の空気(状況)を読み、他者を理解し、正確に自身の意思を伝え、他者を動かすことで、コミュニケーションを連接させていく能力のことを指す。このような能力に長けたものが、いつでも頼ることができる人間関係を構築し、成熟社会の勝者となる。
 残念ながらコミュニケーション能力の差によって排除されることは社会責任にすることはできない。例えば、結婚できないことや恋人ができないことは、自己責任だと思われている。社会が悪いから俺は恋人ができないという言葉に共感する者はほとんどいないだろう。それと同じで、俺を雇ってくれないのは社会のせいだというのも、おかしいことがわかる。成熟社会では、恋愛・結婚と同じく、失業・就職も自己責任として処理される。共同体的呪縛から解放された成熟社会では、むき出しの個と個の関係が中心となり、あらゆる行為は社会的に自己選択・自己責任として処理される。

 また、コミュニケーション弱者は、様々な社会的排除の対象となる。コミュニケーション能力の欠如は、自己責任であり、セフティネットがなく、社会的に排除され続ける。

(職業社会からの排除)
 組織労働における対人関係に適応できずに、失業する。また、コミュニケーション能力を重視する企業から面接で落とされる。
(家族関係からの排除)
親を説得する話術がないために、良好な家族関係を保てず、家を追い出される。
(結婚・恋愛・性からの排除)
コミュニケーション能力が低いために、不器用で異性の気持ちを理解できず、恋愛ができず、見合いをしても断られ、結婚できない。自ずと、性的関係まで至らず、性欲もセックスで満たすことができない。
(学校社会からの排除)
コミュニケーション弱者は、スクールカーストの身分は下層となり、学校の学業に適応できても、友人関係やクラス内のグループに参加できず、孤立化する。いじめの標的となり、不登校となり、排除される。
(友人関係からの排除)
コミュニケーション能力が低いために会話に面白みがなく、友達ができない。
(自身からの排除)
 人は他者から褒められるなど、コミュニケーションを通して自己肯定感をえるものであるが、それがないために否定的な自己イメージしかもてず、自己肯定感が低い。

 上記のようなコミュニケーション能力のなさによる社会的領域からの排除がコミュニケーション弱者の経済的貧困・ホームレス化をもたらすわけであり、景気や経済的貧困によって社会的に排除されるわけではない。湯浅氏は、この部分の因果関係を見誤っている。

 しかし、どんなコミュニケーション弱者も唯一受容してくれるものがある。それが宗教である。宗教は、コミュニケーションができるかどうかで人を評価しないからである。これからは、コミュニケーション弱者を取り込む新興宗教が益々大きくなる可能性がある。
 宗教によって自身を肯定されたコミュニケーション弱者は、宗教に認められたことを足がかりに一気に積極的なコミュニケーションをとりだし、熱く人に布教するであろう。これは、よくあることである。
 もし宗教による受容が怪しくて嫌なら、ボランティアや福祉サークルへの参加によって、無宗教的に自己肯定感を高める処方箋もある。ボランティアや福祉の世界も、コミュニケーション能力によって人を評価せず、人権ということだけで受け入れてくれる仕組みになっているからである。ボランティや福祉は、コミュニケーション弱者がカルト新興宗教に吸収されないようにする防波堤として機能しているのである。

 システム論社会学の立場からすると、コミュニケーション弱者救済のシステムをつくりだすことが急務である。反貧困論やマルクス主義のような浅薄な社会責任論・社会原因論ではなく、社会システム論を前提とした高度に再帰性な自己選択論・自己責任論に立脚したシステム構築が必要なのである。社会科学を専攻する者ですら、古典的な社会観にとらわれており、この点を理解できる者は極めて少ないのである。

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by merca | 2010-11-23 11:16 | 社会分析 | Comments(0)

耳かき殺人事件・・・善良な市民=裁判員は人を殺せない?

 報道によると、耳かき殺人事件の裁判員裁判による判決が、被害者の意に反して、死刑ではなく、無期懲役になった。裁判員は、自己の感情・価値観に忠実に従ったと言われている。そのことは次の事実を証明している。 
 人間は、もともと人を殺すことができないようにつくられている。これを社会化という。特に、近代化した社会では、自国の人間だけではなく、全ての人間を殺してはいけないという感性が人々に埋め込まれているのである。これは、理念的な価値規範だけではなく、好悪のレベル=生理的レベルにおいてもそうである。まともに社会化された人間は、殺人は悪であり、また殺人をするのは生理的に嫌であると感じるのである。
 要するに、推測するに、耳かき殺人事件の裁判員は、自身が社会から埋め込まれた感情・価値観によって、殺人ができなかったのである。殺人にすべき事案であっても、社会から殺人ができない価値規範と感情・感性をもともと埋め込まれている善良な市民なので、死刑を避けることは、当然の社会科学的帰結である。

 特殊な状況において、職務として、人を殺さなければならない職業がある。つまり、合法的殺人をしなければならない職業である。例えば、軍人、警察官、裁判官、刑務官、医者、大臣である。軍人は、敵国の兵士を殺害し、自国を守る義務がある。警察官は、時と場合によっては、市民を守るために発砲することがある。裁判官は死刑の宣告、刑務官は執行をする。医者は妊娠中絶をする。大臣は、大臣として、戦争の決断、死刑の執行にかかわる。
 職務として殺人をしなければならないわけであるが、これらの殺人の正当性は、国を守るため、人命を守るため、保安のためとか正当化されている。人を殺すことが可能なために専門的訓練を受けているのではないかと思われる。
 
 裁判員に相応しい善良な市民ほど、殺人禁止という社会的価値観が強く埋め込まれており、殺人はできないのである。裁判員が死刑制度に賛成であったとしても、それは理屈の上での話であり、実際には殺人はしたくないのである。裁判員にとって、被告人は自分とは直接関係のない人物であり、恨みもないので、殺す理由はない。善良な市民は、自分に危害を加えていない人物を殺すことができない。
 一般市民である裁判員には、殺人ができるような職業的訓練が施されていないのである。そのために、心的外傷を受けるおそれがあるのである。

 裁判官から見たら法律的には死刑の事案であっても、裁判員が殺人ができないという社会の価値規範・感情・感性を身につけているために、正当な法律の適用が妨げられることになるのである。かくして、裁判員裁判における法律の適切な適用は困難になるのである。

 裁判員制度は、社会学者による「人は人を殺さないようにできている」という社会科学的事実を無視した制度なのである。確かに、徴兵制がある国では、合法的殺人に対する敷居が低く、市民が訓練を受けており、合法的殺人に躊躇はないが、日本のような徴兵制のない国では、合法的殺人に躊躇するのである。

 制度設計の際に、法曹関係の専門家は社会学の真理を無視したために、適切な法律の適用ができなくなったのである。もし裁判員制度を可能にしたいのなら、全ての市民に合法的殺人ができるように訓練しないといけないことになる。あるいは、死刑制度を廃止するかである。
 裁判員制度を存続したいのなら、国家が合法的殺人に躊躇しないという価値規範・感性を国民に教育するか、それとも死刑を廃止するのか選択する必要がある。

 テレビの前に座り、報道される凶悪犯罪の容疑者に「世の中は犯罪者に甘い。そんなやつは、すぐに死刑にすべきだ!」と豪語している小市民的道徳オヤジほど、実際には自分が直接合法的殺人をする勇気はないのである。ただ、そのような小市民的道徳オヤジの公憤が厳罰化の国民の声として、裁判員制度ができたのは皮肉である。無責任発言の代償として、自分で手を汚してもらうことになるのである。一連の厳罰化の流れが、事件や裁判などの刑事司法的現実を自分の世界の出来事ではなく、テレビの中の出来事だと妄想し、無責任発言を連発している小市民的道徳オヤジであることはもう許されないのである。
 刑事政策は国家の犯罪に対する戦争である。この戦争のために職業専門家ではなく、国民が裁判員として徴兵されているのである。裁判員制度は、全国民が合法的殺人をしなければならない司法的徴兵制なのである。

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by merca | 2010-11-03 10:31 | 社会分析 | Comments(0)