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若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因。

 ホームレス支援施設に、二十代、三十代の青年が入所しており、若年ホームレスの割合が増加しているという。
 若年ホームレス化は、経済的貧困や失業が原因というよりも、コミュニケーション能力の欠如のほうが根本原因であると言える。ホームレスになる前に、生活を立て直すために、他者の協力を得る対人関係能力や交渉能力がないからである。

 例えば、派遣切りにあっても、故郷の親や兄弟、元彼女、友人、元派遣先同僚などに頭を下げて宿泊させてもらうとか、当面のホテル代を貸してもらうなどして、住込み就労先を見つけるなどすることもできる。つまり、対人交渉能力があれば、他者の協力を取り付けることで、ホームレスにならずに済む。しかし、若年ホームレスには、それができない。なぜなら、人に頭を下げて相談し、援助を要請するコミュニケーション能力が欠如しているからである。また、プライドが高いので、人を頼ろうとはしない者もいる。

 他人が自分のために援助してくれるためには、日頃から良好な対人関係を保っておく必要があるが、自己中心的な若年ホームレスには頼れる友人も少なく、孤立化しており、いざという時に誰も助けてくれない。つまり、もともと対人関係が苦手なので、家族関係も友人関係も恋愛関係も保つことができず、いざという時に頼れず、ホームレス化するわけである。
 このように、コミュニケーション弱者が若年ホームレス化しているのである。湯浅氏が考えるような経済的要因=貧困が原因ではなく、対人関係能力が若年ホームレス化の真の原因なのである。
 
 ホームレスから立ち直るためには、ホームレス化したことを社会のせいにするのではなく、自身に対人関係能力が備わっていないという自己責任として事実認識し、自己の行動を改め、人間力をアップすることが大切なのである。若年ホームレスにとっては、社会責任論は自己の問題状況の合理化・正当化の手段にしかすぎない。社会責任論という観念的な物語に甘えるのではなく、コミュニケーション能力の欠如という具体的事実から出発することでしか、問題は解決しない。
 反貧困論は、若年ホームレスには人間力をアップすることがお金よりも大切であるという現実を覆い隠すことで、ホームレスを再生産する思想装置として働くのである。貧困化社会ではなく、コミュニケーション格差社会こそが日本社会の実態なのである。

 若年ホームレスに対しては、資金援助ではなく、心理療法たるSST(ソーシャルスキルトレーニング)の提供こそが真なる処方箋となるのである。

参考
反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く

貧困社会論、若者はかわいそう論は、ニセ社会問題

 ちなみに、若年ホームレス化の原因がコミュニケーション能力にあるという説は、様々な論客が唱えており、私だけが提唱しているわけではない。
 仮に若年ホームレス化の問題が社会にあるとしても、それは湯浅氏が主張するような貧困などのような経済的問題にあるのではなく、学校教育の問題である。学校教育は組織労働に耐えうるコミュニケーション能力をもつ人材を育成すべきであるのに、その教育機能が十分に発揮されていないわけである。
 
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by merca | 2010-10-31 17:21 | 社会分析

(目的/手段)という区別の脱構築

 (目的/手段)という二項図式においては、手段よりも目的のほうが時間的にも先にあり、価値論的にも優位であると考えられている。しかし、この二項図式も脱構築されてしまう。
 
 一般に行為の意味は、他者から(目的/手段)という枠組みで解釈され、人々に理解可能なものとなる。つまり、目的が手段たる行為をつくりだすのではなく、行為は他者に解釈されることで、後付けで目的がつくられる。他者に理解可能でコミュニケーションされた行為のみが、社会的事実だとすると、行為の目的や意味はあとでつくられるものである。目的があたかも時間的に先行したと思うのは、一つの錯覚である。犯罪行為の目的や動機が取調べ機関の濾過を経て、社会的に形成されることはよく知られている。行為の意味はあとから付与されるのである。
 
 とにかく、このように手段たる行為が先にあり、手段を条件として、他者の観察によって目的が形成されることになる。コミュニケーションとは、情報、伝達、理解の選択過程であり、特に他者がどのような区別を選択して理解するかが重要なのである。コミュニケーションの事後成立性は、目的と手段の優劣関係を逆転させることになる。
 
 また、(原因/結果)という区別から観察すると、手段が原因となって目的達成という結果を生み出すわけであり、これまた手段が目的をつくりだすことになる。目的は手段に依存していることになる。
 
 実は、何か目的があって手段を選択するというのは、意識システムの次元だけの話であり、意識システムにおいてのみ手段は目的に先行することになる。行為者の意識システムの目的や意図とは別様に、行為は他者による観察によって目的や意味が付与され、コミュニケーションされていくことで、社会的事実となるのである。

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by merca | 2010-09-18 09:01 | 理論

思想化するニセ科学批判

 ニセ科学批判は、思想として観察することが適切である。今やニセ科学批判を科学として観察しては的を得ない。
 私は、これまで社会科学・自然科学を問わず、一つの観念体系が思想として人々に採用されていく現象を観察することに心がけてきた。宮台社会学についても、科学というよりも、思想として観察してきた。湯浅氏の反貧困理論、後藤氏の俗流若者論批判や浜井浩一らの治安悪化神話批判も、一つの思想として機能している。
 学説や理論は、いくら提唱者が科学や事実等と称しても、それとは次元を異にして、ネットやマスコミを通じて他者に伝達され、人口に膾炙した時点においては、人々に思想として利用されてしまうのである。そして、一度、思想となると、観念体系は別の機能をもちはじめる。これを観察することが、私のブログの目的である。

 社会学的立場からは、思想の定義は以下である。
思想とは、自我統合機能や社会統合機能をもつ観念体系である。
自我統合機能とは、自己のアイデンティティを支える機能である。思想は単なる知識とは異なり、それを否定されると自己概念も同時に否定されたことと同じになる。これを確かめるのは簡単であり、ある人の所有する知識を否定・非難した時に、その人が憤慨したら、その知識はその人の自己概念を支える物語として取り込まれており、思想となっていることがわかる。例えば、マルクス理論を批判されたら怒りだす全共闘時代の左翼の若者に見て取れる。つまり、その観念体系が知識としてではなく、自己概念の一部として組み込まれてしまっていることになるのである。
 社会統合機能とは、社会秩序を維持したり、あるいは集団形成を促す機能のことである。一つの観念体系が社会秩序の維持に役立っていることはよくある。例えば、社会学者マックス・ウェーバーがプロテスタンティズムの倫理で明らかにしたように、プロテスタントの宗教観念が西洋資本主義社会を支えたことはよく知られている。また、人権思想、自由主義、民主主義などの思想が、近代社会の在り方を支えている。
 また、一つの観念が多くの人々に共有され、一つの集団を形成することがある。各種社会運動や政党がその例である。マルクス理論が若者たちに共有され、学生運動組織が形成されたことは歴史上の事実であもある。反貧困理論が人々に流布し、反貧困運動及び組織体である反貧困ネットワークができたわけであるが、それは反貧困理論が社会思想として十分に機能している証である。そこで、特に社会統合機能をもつ思想を社会思想と定義しておこう。

 さて、科学=学問と思想は区別されるべきである。科学の役目それ自体には自我統合機能も社会統合機能もない。事実を探求することが科学の役目である。科学はその分限を守る限り有害ではない。ところが、菊池一派のニセ科学批判は、もはや科学ではなく、思想となっている。
 自己のニセ科学批判を否定されたり、異なった意見を言うと、とたんに目くじらを立てて怒りだす。これはネットにおけるニセ科学批判者のコメントを見れば一目瞭然である。彼らニセ科学批判者にとっては、ニセ科学批判という観念は自己概念を支える世界観となっており、だからこそその世界観を否定されたら自己も否定されたと思い込み、怒りだすのである。ニセ科学批判者にとって、ニセ科学は知識ではなく、思想である。
 また、ニセ科学批判は、ネット上で菊池氏を中心としたグループを形成している。さらに、ニセ科学批判をテーマにしたシンポジュウムを開いたり、組織化されたりして、社会運動化している。つまり、ニセ科学批判は社会統合機能をもちだしており、一つの社会思想になりつつある。
 理系の若者たちは、自己の知識に意味を与えてくれる思想に飢えているために、ニセ科学批判の思想的魅力の虜となり、自己の自我を保とうとしている。
 このように、自然科学が科学の領域を越えて思想化してしまっているのがニセ科学批判の現状である。科学は(知る/知らない)という知識レベルの営みであり、思想は(信じる/信じない)という価値判断レベルの営みである。火山学者である早川教授は、そのことに敏感であるようである。以下の同教授のブロクを参考にしてもらいたい。
 「ニセ科学を批判すること」
 http://kipuka.blog70.fc2.com/blog-entry-267.html
 ニセ科学批判者が他者にニセ科学を信じるなと勧めることは、もはや科学的行為から逸脱し、個人の思想にまで介入していることになるのである。ニセ科学批判ほど非科学的なものはないとあらためて思う次第である。ニセ科学批判こそ、非科学的であり、ニセ科学である。
 なお、早川教授がツィッターで私のブログ記事にリンクしていることに関して、批判しているニセ科学批判者たちがいるが、やはり普通の科学者や第三者の視点からはそのように写るわけである。ニセ科学批判者たちは、認知の歪みがなく、真摯に受けとめたほうがよいかと・・・。
 ニセ科学批判者たちには、早くニセ科学批判という思想的呪縛から解き放たれ、好きな学問に打ち込んで欲しいものである。

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by merca | 2010-07-24 10:36 | ニセ科学批判批判

価値観強制としての教育

 
 若者達の間に、人に価値観を押し付けてはいけないという規範が流布している。この規範を若者が絶対化するために、教育そのものが成立たないと悲鳴をあげる大人たちがいる。なぜならば、教育の目的は、社会に適応できる人間をつくるために、子供に価値を伝達することであるからだ。教育の本質は、価値観の押し付けである。プロ教師の会という教育思想集団がこの現実にもっとも自覚的である。彼等の思想は、教育を子供の社会化(社会的価値の内面化)として捉える古典的社会学理論(規範主義パラダイム)に準拠している。

 教育社会学の古典的な思考枠組みからは、殺人禁止道徳=価値観(命は尊い)についても、最初から子供が所有しているわけではなく、後天的に教育によって植え付けられると考えられる。従って、この立場からは、殺人禁止道徳を所有していない人間は教育の失敗として捉えられる。

 少年による猟奇的殺人が起きた時には、まずは教育の失敗として考えられ、マスコミの報道を通して、事件を起した当人だけではなく、世間の全ての子供に十分に教育が行き渡ってないと憶断され、教育パニックなるものが起り、教育者によって命の大切さを押しつける道徳教育が施されるわけである。殺人を肯定する子供が出るということは、教育者からしたら、価値伝達(人間として生きるための価値の伝達)の失敗であり、教育の敗北を意味する。

 ところが、先にいかなる価値観も押し付けてはならぬという価値規範を内面化してしまっている若者達は、価値観の押し付けである教育そのものを拒否するため、殺人禁止の価値観も押し付けることができないのである。ここでジレンマが起きてくる。個人主義の絶対的原理である価値観強制禁止道徳と、人権主義の根本原理である殺人禁止道徳の対立である。どちらを優先させるべきかである。言い換えれば、これは相対主義と絶対主義のどちらを選択するかと同じである。

 この問題を解決するには、価値観の種類を分類する必要がある。価値観は、善/悪、損/得、好/嫌、恥/名誉の四つに分類される。まずは、好/嫌は人の好みの問題であり、押し付けるべきものではない。損/得や恥/名誉も、同じである。周りから見て他人が損をしていたり、恥をかいているのを見て、助言ぐらいはできるが、考え方や行為を強制することはできない。自己選択の世界である。
 さて、善/悪はどうだろうか? 善/悪とは、他者との関係性における規範である。関係性とは、自分の行為が他者に影響を与えるという事態をさす。自己は、他者の幸不幸に影響を与える責任を負うことになる。結論からすると、善悪の価値観だけは他の価値とは異なり、他人に押し付けることが許される価値観である。要するに、他人との関係で生じてくるものであるからである。

 実は、価値観強制禁止道徳それ自体が、善悪の次元の価値観であり、これを他人に主張することで、すでに自己の価値観を押し付けているのである。そのことに若者は気づいていない。他人から価値観を押し付けてきた時に、いかなる価値観も押し付けてはいけないという理由で拒否したら、それは押し付けてきた他人に対する価値観の押し付けになるのである。自己言及のパラドックスと構造は同じである。言い換えれば、価値観強制禁止道徳は、価値観を押し付けてくる他者からの価値観を受け入れても拒否しても、矛盾が生じ、成立しないのである。

 現実社会に価値観強制禁止道徳を生かすためには、価値観の分類という新しい区別から観察する必要がある。要するに、個人だけにかかわる損/得、好/嫌、恥/名誉の価値観に関しては押し付けてはいけないという原理を適用し、他者との責任関係に関わる善悪の価値観に関してだけは適用外とするわけである。そうすることで、価値観強制禁止道徳はうまく機能する。だから、人権思想に基づく殺人禁止道徳は、善悪の次元の価値観なので、価値観強制禁止道徳の適用外であり、押し付けてもいいわけである。

 善悪の価値観は、他の次元の価値観と異なり、形式的には、はなから他者に押し付けてもいいという定義が含まれているのである。社会学的にいうと、個人の趣味や利害だけに関わる価値観だったら、最初から道徳とは言わないのである。なのに、他者との関係性のレベルの価値観と個人のレベルの価値観を混同して、やたら価値観強制禁止道徳を主張しまくる自己防衛的自我をもつ若者たちが多いのである。

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by merca | 2007-03-11 11:11 | 理論