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市民社会(普遍性)と国民国家(特殊性)の止揚としての近代社会(全体社会)

 ルーマン研究家の社会学者佐藤俊樹氏が「意味とシステム」という著作において、行為、コミュニケーション、システム等について根本的に議論している。私も興味をもって拝読したが、むしろ面白かったのは、システム論にまつわる本質的探求の部分ではなく、国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察している部分である。つまり、国民国家と市民社会は単純な対立概念ではなく、国民国家の複数性と市民社会の単一性が相互に依存しているという洞察である。国民国家は、世界に複数存在することで、個人に国家所属についての選択意識を表象させ、国家に包摂され尽くされない外部としての独立意識をもたらすことになる。このような個としての意識が市民社会の意識をつくりだす。

 逆に、国家は社会契約論的観点から、国民が市民たりうることで、本来的に自由な個人たる市民たちが契約によって国家をつくったという近代社会の成立根拠の正当性を担保できる。つまり、自由な市民だった国民によってつくられた、あるいは全ての国民の合意によって国家が成立したという建国物語をもつことができる。社会契約論という必要的虚構が国家の成立の本質的根拠となるわけである。

 さらに、国民国家の外に個人が市民として存在することで、国家は国民に自己負担させることができ、個人の責任を全て国家が丸抱えせずにすむことになる。

 複数ある国民国家は、特殊性、共同性を意味し、単一の市民社会は、普遍性、世界性を意味することになる。個人は、国民として国家共同体に所属しつつも、世界市民として市民社会(世界社会)の中にいることになる。近代社会は、国民国家と市民社会という一見対立している二つのファクターを含みつつ、両者を止揚することで、成り立つことになる。

 

 このような近代社会の見方は、根底から、カントの理想とする世界共和国の思想を覆す社会理論と言えよう。平和共和国という普遍性に偏った一元的なカントの社会観は、弁証法的にはあり得ない。弁証法的には、普遍性(単一の市民社会)は、特殊性(複数の国民国家)を前提としてしか成り立たないからである。

 さらに、国民と市民の二重意識は、後期近代社会=成熟社会に生きる我々の感覚に非常にフィットし、リアリティを感じる。市民社会の普遍的価値としての人権思想=革新主義=左翼思想と、国民国家としての郷土主義=伝統主義=右翼思想が対立するように見えて、互いに前提とするという円環的弁証法が見てとれるのである。普遍性と特殊性の弁証法である。

 ただし、国民国家あるいは国民社会は、同一性のあるシステムとして観察できるが、市民社会は、同一性のあるシステムとしては観察できないし、定義上からも、共同性はなく、システムではないとも言える。

 ルーマン社会学の視点からして、システムではないものを社会と呼ぶことがそもそもできるのか少し疑問である。普遍性を本質とする市民社会あるいは世界社会には、本来、内と外の区別がなく、(システム/環境)の区別がないでのある。


 ところが、市民社会も、一つの区別に準拠していると見なすことは可能である。(普遍性=市民社会/特殊性=国民社会)という区別によって創発したシステムとして観察できる可能性がある。国民国家と市民社会の二重体として近代社会を観察する立場は、システムとして両者を捉えることも可能である。市民社会の環境は、国家社会であり、国家社会の環境は、市民社会であるという区別が立ち現れると、システムとして存在が可能となる。


 そういう意味では、近代社会は、普遍性たる市民社会システムと特殊性たる国民国家システムという二つのシステムを止揚した何者かである。その何者かが真なる全体社会だとしたら、ルーマンのいう世界社会の解釈と合致する。ありとあらゆるコミュニケーションの包括的総体が社会システムだとしたら、市民社会と国家社会を包括した近代社会そのものが、全体社会となる。実は、全体社会は、単一でも複数でもなく、そのどちらを離れても実在しないシステムとして観察するほかないのである。弁証法的観察のみが全体社会を捉えることができるのである。

 対立しているものが実は相互に前提とし合っているという弁証法的思考で、システム論を再解釈すると、以上のようになるのである。


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by merca | 2016-10-29 09:57 | 社会分析 | Comments(0)

柄谷行人の交換史観による憲法9条の存在意義

 柄谷行人は、現代日本における真なる思想家である。独自の思想を構築しており、デリダ、レヴィナス、ドゥルーズに匹敵する現代思想家である。
 柄谷行人は、カントを援用しながら、長年にわたりマルクスと向き合うことで、一つの体系的な社会思想を完成させたのである。それが「トランスクリティーク」「世界史の構造」「帝国の構造」という三部作を通じて完成させた交換様式に準拠した社会理論である。私は、それを交換史観と呼びたい。つまり、社会(構成体)の在り様は、交換様式という経済構造によって規定されるという理論である。
 ただし、実証主義的な方法はとられていないので、社会科学的に一つの確立した社会理論として見なすことができるかどうかは検討の余地はあるが、マルクス主義よりも説明能力が高い理論体系であることには間違いがない。
 
 マルクス主義では、社会構成体においては下部構造が上部構造を規定すると考えるが、その下部構造についての捉え方が異なる。マルクスは下部構造を生産様式としてのみ捉えたが、柄谷行人は下部構造を交換様式として捉え直す。従って、マルクスにおいては上部構造だと考えられていた国家や民族共同体は、下部構造として見なされる。ここが柄谷行人の交換史観における最大の思想的な独創性である。
 
 交換史観について説明しよう。まず、三つの交換様式があり、それが混在しているのが現実の社会構成体であるという。その三つとは、民族=ネーションに準拠する互酬(贈与-返礼)という交換様式A、国家=ステートに準拠する略奪と再配分(支配と保護)という交換様式B、資本(商品交換)に準拠する交換様式Cである。そして、近代社会は、基本的に交換様式Cが中心となる社会構成体である。

 マルクスは、国家主義と民族主義を単なる上部構造として甘く見ていたために、必然的に高度に発達した資本主義社会で社会主義革命が起ると考えてしまった。しかるに、先進国の資本主義社会では社会主義革命は起りはしなかった。先進国の資本主義社会では、民族としての平等性や統合性を強調したり、国家が資本に介入して不平等を是正したりすることで、階級格差による不満を押さえて来たために、共産主義革命などは起らず、依然として資本主義経済のままである。
 また一方で、多くの社会主義国は、民族主義をかかげる独裁者が現れるなどして、国家の力が強くなり、全体主義化し、人々の人権や自由を束縛した。つまり、国家主義と民族主義によって、資本主義社会が延命し、社会主義革命が全体主義化したのである。
 柄谷行人によれば、国家主義と民族主義は上部構造ではなく、社会構成体を決定する交換様式という下部構造なのであるが、マルクスはそれを見損なったというわけである。すなわち、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、全ての主権国家における国民社会においては、資本=民族=国家が三位一体となるボロメオの環が機能しているというわけである。ちなみに、これは、システム論的には、三つのシステムの構造論的カップリングとして記述できる。
 ともあれ、資本主義社会が福祉国家として階級格差を是正し自らを延命するとともに、社会主義社会においても、ソ蓮が崩壊し複数の民族国家に分裂し、中国が市場経済を導入するなど、民族主義や資本主義を導入することなしには、成り立たなくなっているのである。
 つまりは、政治形態が資本主義であれ、社会主義であれ、主権国家としての国民社会は、資本=民族=国家という三位一体のボロメオ型社会となるというわけである。社会学でいとうところの後期近代社会は、全てこの形態をとることになり、原則的に社会進化は終焉するわけである。柄谷行人は、これをフクヤマの歴史の終焉になぞらえている。
 しかし、柄谷行人は、この先に一つのユートピアを希求する。それがカントのいう世界共和国である。異なる国民社会どうしが互酬(贈与-返礼)を結び、超越論的仮象としての世界共和国を目指して、諸国連邦を形成するということである。交換様式Aの世界規模での回復としての交換様式Dによる下部構造をもつ社会構成体の実現である。
 ちなみに、交換史観では、世界社会は、四つのレベルで考えられている。交換様式Aのレベルの氏族社会=ミニ世界社会、交換様式Bのレベルの世界帝国、交換様式Cのレベルの世界経済、そして交換様式Dのレベルの世界共和国である。
 社会システム論の視点からいうと、柄谷行人が希求する交換様式Dの世界社会とは、交換様式A、交換様式B、交換様式Cが全て対等に自律的に機能分化する社会を意味している。それは、友愛をもたらす交換様式A、平等をもたらす交換様式B、自由をもたらす交換様式Cの三つが対等に互いに自律的に関係しあう世界規模の社会である。
 
 最後に、永遠平和を提唱する戦争放棄の憲法第9条こそが、日本国による全世界の国への贈与となり、世界規模での交換様式Dとしての意味を持ち、来たるべき世界共和国への第一歩となると提言する。
 しかし、武力を放棄することで、他国もその返礼として侵略しないという関係が本当に形成されるのか?
 ここに不安を抱く人も多いだろうが、これは他国が日本の憲法9条をどう評価しているか調査することでわかるであろう。戦争をしない憲法をもつ国を世界の諸国はどう観察するのだろうか?
 これは、自国の平和のみを願うという偏頗な意識ではなく、世界の平和を望むという高い意識の人々が登場することになしには困難だと思われる。交換様式Dによってつくられる人々の道徳意識は、「各人は他者をたんに手段としてのみならず同時に目的として扱え」であるからである。これは人権思想の根幹でもある。
 
 もはや世界平和なしに一国の平和もあり得なくなった時代であり、日本国のためではなく、世界平和のために憲法9条は必要だということである。
 このことを了解した上で、交換史観に根拠付けられた柄谷行人の護憲思想が若者に浸透していき、憲法9条改正反対運動の思想的根幹となっていくか観察していきたい。
 今流行っている学生社会運動であるSEALDs「自由と民主主義のための学生緊急行動」等に代表される平和主義の若者たちが、全共闘時代における古典的な唯物史観(マルクス主義)ではなく、世界平和を掲げる柄谷行人の交換史観を運動の思想的なベースとしていく可能性はないだろうか?平和主義運動をする若者たちが、こぞって交換史観を自己の思想的アイデンティティとしたとき、柄谷行人は今世紀最大の思想家となろう。
 やっと、マルクスの唯物史観ではなく、柄谷行人の交換史観による世界社会革命が始まりつつあるのである。

  参考
・マルクス主義でいう社会構成体という概念は、いわゆる社会学(システム論社会学)でいう社会ではない。この点を押さえておくべきである。社会学でいう社会とは、あくまでも、創発されたコミュニケーション(あるいは行為)の総体であるが、マルクス主義でいう社会構成体とは、コミュニケーションの結果生じた物象化された社会関係の総体をさす概念である。創発論的社会観ではなく、存在論的社会観に準拠した概念である。
 実のところ、社会システム論の観点からは、社会構成体は実体ではなく、(意識/存在)というコードで第二次観察された社会の記述にしかすぎない。


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by merca | 2015-07-12 10:24 | 理論 | Comments(0)

近代化の一貫性社会変動論

 アジア社会は、後発的近代化の道を辿っている。
 
 近代化とは、経済においては資本主義、政治においては民主主義、法においては人権主義と平等主義、教育においては学校主義、学問においては科学主義、思想においては言論の自由、宗教においては信教の自由、対人関係のスタイルは個人主義、軍事外交は平和主義、家族においては核家族主義となることをいう。それぞれの社会領域において、かくのごとき価値観が原理となる現象が近代化なのである。日本社会のように後期近代化社会=成熟社会に移行しても、あいるはポストモダンに突入したと主張しても、これらの近代的価値観は依然として根本原理のままである。
 
 どの社会領域から近代化するかは、国によって異なってくるが、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義は、近代的価値のセットとなっており、究極的には切り離すことはできない。これらは、近代化の尺度となり、これらが達成されている国は近代化されているのである。
 また、一つの社会領域が近代化すると、自らを維持するために、別の社会領域も近代化せざるを得なくなるのである。例えば、思想において言論の自由が進むと、政治の分野においても民主主義を採用ざるを得なくなってくる。言論の自由はあるのに、政治体制だけが全体主義という社会は不整合であり、その不整合を正すために社会変動が起きるわけである。
 
 ルーマンのシステム論的社会学では、各社会領域については、経済システム、政治システム、法システム、学システム、教育システム、宗教システムなど、自律的な機能システムとして記述する。こられの異なる機能システムが近代社会では、先述の近代的価値観でプログラミングされていることになる。それぞれの機能システムはコードによって自律的に閉じているが、一つの機能システムは、別の機能システムとの関係によって制限を受けることになる。
 また、異なる機能システムどうしの相性の良さを構造的カップリングという。例えば、資本主義をプログラミングした経済システムと民主主義をプログラミングした政治システムは相性が良く安定性がある。
 
 ここから一つの社会変動論を構築することができる。構造的カップリングによる社会変動論である。システム論的社会変動論である。定式化していうと、優位な社会領域システムに合わせて他の社会領域システムが構造的カップリングするように変動することになる。システム相互の力関係に左右されるものと考えられる。近代化については、近代的価値の一貫性による構造的カップリングが必要となり、そのような方向で各社会領域において社会変動が起るのである。
 
 アジア社会を見ると、中国社会では、政治システムが民主主義ではなく、近代化されていない。香港や上海で資本主義を採用しているが、政治システムと経済システムの構造的カップリングが悪く、経済が発展すると、自ずと民主主義国家に変わることになる。
 すでに、香港では自由選挙制を掲げて民主化を求めてデモが起っているが、システム論的社会変動論においては、当たり前の社会現象である。経済が近代化されると、他の分野も近代化されることになり、政治システムが民主主義を採用せざるを得なくなるのである。資本主義を維持するためには、自由選挙制=民主主義が必要である。また、民主主義を維持するためには資本主義が必要となる。
 
 世界は、資本主義、民主主義、人権主義、学校主義、科学主義、自由主義、平等主義、個人主義、平和主義、核家族主義に基づく近代化の方向に進んでおり、この流れをとめることは、今の人類にとっては不可能である。国連も準拠するこれらの近代的価値に共通する根本原理の正体は何か? これには私も哲学的関心を抱いてしまう。
 
 いずれにしろ、この流れからすると、究極的にはマルクス主義と国家主義は消滅することになり、非マルクス主義的左翼=ハイモダン主義が勝利することになるだろう。
 皮肉なことだが、ネット右翼も歴史に対する事実主義(科学主義)という近代的価値を採用する限り、自己の思想に不整合が生じ、近代的価値全体に取り込まれ、国家主義を捨てる方向に向かうことになるであろう。右翼にも左翼にも言いたいが、近代的価値という文化を越えて伝播する人類普遍の価値(と思われる)についての哲学的考察を怠ることなかれである。
 
 左翼であれ、右翼であれ、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義のうち、どれか一つでも近代的価値観を受け入れると、思想に論理的一貫性を保つために、近代的価値全体に染まってしまうことになるだろう。

 
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by merca | 2014-11-23 09:41 | Comments(1)

社会的包摂主義ファシズムの対抗思想としての切断論

 福祉の道に進んだ人たちや反貧困主義者は、(包摂/排除)という区別から社会を観察し、排除型社会を否定し、包摂型社会を理想としている。民主主義や平和主義という政治思想よりも、包摂主義を尊重する思想的傾向にある。また、政治家も官僚も基本的に包摂型社会を支持しており、包摂主義に準拠した施策を打ち出している。このように社会的包摂主義は、あらゆる分野において民主主義にとって変わる価値観になりつつある。
 包摂型社会とは、雇用、教育、経済、法律、科学、医療、政治、スポーツ、芸術等のあらゆる社会の分野において、特定の負因をもった人々が排除されず、コミュニケーションに参加できる社会をさす。正社員と非正社員の二極化社会に対する批判にかかる言説なども、この系譜に属する思想である。反貧困主義者たちが、階級闘争によって社会革命を起こそうとするマルクス主義(共産主義)に安易に吸収されないのは、包摂主義の価値観を所有しているためである。日本社会におけるあらゆる立場の人々に、包摂主義は浸透しており、共通の価値観になりつつある。
 しかし、一部には違う動きもある。例えば、ニセ科学批判のように、科学的コミュニケーションから、クリティカルシンキング(批判的思考)を欠いた疑似科学を排斥するという排除主義も認められる。疑似科学を科学として包摂する寛容性や価値観の多様性は、ニセ科学批判者にはない。同じく、ネット右翼のように政治的コミュニケーション等から外国人を排斥しようとする排除主義も認められる。とはいえ、包摂主義が現代社会の中心的価値観を占めつつあるということに変わりはない。
 
 論理的には、包摂主義は、民主主義と同じであり、論理的矛盾のある思想である。包摂主義は、排除主義を包摂しても排除しても、論理的に成り立たず、自己言及のパラドックスに陥るからである。一方、排除主義は、論理的には、包摂主義を排除することで論理的一貫性をもち、自己言及のパラドックスに陥ることはない。
 その意味で、排除主義は、道徳的には人々に賛同されないものの、論理的には包摂主義に勝ることになる。従って、論理的純粋性を尊重する人たちは、排除主義の立場をとるであろう。ニセ科学批判者しかり、ネット右翼しかりである。そして、さらに言うと、接続過剰社会を批判する切断論者もそうである。包摂による自己矛盾を抱えたくないために切断論者は、多様な存在との関係を断ち切り、自己の論理的一貫性を保とうとするのである。
 
 社会学的には、(包摂/排除)という区別は、そのまま(接続/切断)という区別に対応し、同じ内容を別の言葉で表現しているだけであり、機能的等価である。包摂されているものは接続されつながっており、排除されているものは切断され分離しているのである。
 従って、究極のところ、哲学者千葉雅也の切断論は、排除主義のカテゴリーに入るのである。接続過剰社会は包摂過剰社会と同義であり、接続過剰社会批判は包摂型社会批判でもあるのである。
 放浪生活を好んでしているホームレスに社会的包摂を勧める反貧困論者は、切断論者から根本的に否定されるであろう。社会的孤立者の中には、自ら自己選択で社会からの切断を望んだものがいる。にもかかわらず、強制的に、包摂主義者は、自己選択・自己責任でホームレスになった人たちを包摂し社会に関係づけようとするのである。包摂主義ファシズムである。
 
 実は、このような包摂主義ファシズムに対抗できる哲学的根拠を示したのが、千葉氏の切断論となるのである。切断論の本質は、排除論なのである。自己を束縛する社会(関係)を自己から排除することを唱える。
 そこで、包摂主義の流布や包摂主義に基づく国家の施策(ニート・ひきひもり支援など)によって、接続過剰型社会が生み出され、身動きがとれなくなっている人たちが多くいるという社会診断が正しいかどうか検証してみる必要があるのである。
千葉氏の切断論は、湯浅氏の反貧困論(社会的包摂論)とは逆の提案をしているわけであるが、それが有効であるためには、包摂を望む人たちと切断を望む人たちが、どれだけ社会にいるのか社会調査が必要かと思われる。有効な包摂主義ファシズムへの対抗思想になるかどうかはそれ次第である。 
 
 ここからは社会的予言をしておこう。社会学者ルーマンによれば、社会進化は分節化、階層化、機能分化(近代化)の段階で進んで来たが、今後、未来社会は(包摂/排除)に基づいた社会分化に進む可能性があると指摘している。おそらく、それは、社会の内にいることも社会の外にいることも、同時に肯定されるような社会であろう。社会の内を居場所とすることも、社会の外を居場所とすることも、自己選択することができる社会であろう。

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by merca | 2014-09-07 10:29 | Comments(1)

千葉雅也の「切断論」よりもルーマンの「複雑性の縮減」の方が有効

 哲学者・千葉雅也が「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物を世に出した。日本のポストモダン思想の系譜でいうと、浅田彰の「構造と力」、東浩紀の「存在論的、郵便的」に続く大作であると騒がれており、注目されている。余談ではあるが、この人物が若手社会学者・古市憲寿と手を組むと、どうなるのか楽しみである。
 しかし、千葉氏が唱える「切断論」は大した思想ではない。接続過剰社会において、多数の関係に束縛され身動きが取れなくなることから解放されるために、自由に接続したり切断したりしながら生きようということに他ならない。言っていることは、おそらくノマド論と変わらない。
 
 千葉氏は、このような切断論を唱える思想的根拠をドゥルーズの哲学に求める。要約すると、ドゥルーズの哲学が、世界の連続的同一性(ホーリズム的関係主義)を唱えるベルグソンの生の哲学と世界の切断的原子論的世界観(無関係主義)を唱えるヒューム哲学の中間にあることを確認した上で、あえて切断の重要性を強調する。切断がなければ、個体の生成も他者性もなく、全てが一体化した世界に飲み込まれるというのである。最後に、神のモナドを抜いたモナドロジーこそがドゥルーズの哲学の究極的立場ではないかと類推しているように読め、千葉氏が唱える切断論の哲学的根拠をそこに定めている。
 かなり大雑把な要約で申し訳ないが、結局、思想的本質を述べるとかようになる。これ以上これ以下でもない。全体性や同一性を否定・批判する思想的傾向は全くポストモダン思想のそれであり、進歩はない。共同体や連帯性を主張する右翼思想や絶対主義を主張する左翼思想とは異なり、やはりポストモダン的である。
 ただし、これまでのポストモダン思想と少し異なる点は、切断論による関係主義批判を強調した点である。全てのものは差異関係の中にあり、実体がなく、相対的であるというポストモダンの関係主義から距離をとっている。全体性に準拠するツリーの関係のみならず、横の関係=リゾーム的関係も過剰ならば切断すべきだと論じている。全体性や共同体に包括されない単独的関係=非対称的関係も絶対化しないところに少し斬新さがある。現代社会が接続過剰であり、人々が身動きできなくなってしまっているという感覚があるのだろう。若者や老人の孤独化が問題視されるなか、逆に切断論は孤独化・原子化を勧める。接続可能な社会という言葉も流行っているが、その反対を主張している。

 千葉氏の切断論は、そもそも(接続/切断)という区別に準拠しているわけであるが、この区別に対して(全体/部分)と(現実態/可能態)という二つの区別から第二次観察していくことが可能である。
 例えば、あるものに全ての側面において接続しているのが嫌なだけであり、部分的に接続しているくらいなら接続を否定する必要はないかもしれない。何をするにも全てその人と一緒だと窮屈だが、部分的にある時間帯だけつき合うならかえってよいとも言える。全面接続による包括化は不自由だが、部分接続なら自由は確保できるのである。
 また、現実に接続している人、切断している人と、これから接続していく人、切断していく人を区別しておくことができる。全ての人との接続可能性と切断可能性を温存させておき、状況に応じて自己選択し、接続したり切断したりしていくことも可能である。
 このやり方は、ルーマン社会学における複雑性の縮減と同じである。各種のゼマンティクを使用し、あるものを接続するとともに、あるものを切断し、またその反対の可能性も温存していくのである。
 
 ルーマン社会学では、そもそも世界は無限の複雑性として前提されており、意識システムにとっては、接続過剰であるので、この複雑性を概念によって処理して縮減する。完全な切断や接続によって複雑性を処理するのではなく、部分的に接続・切断し処理する。現代成熟社会では、切断論に頼らなくても、社会システム論的には、コミュニケーションメディア(貨幣・権力・真理・愛など)によって接続過剰性は処理されているのである。
 千葉氏の切断論は、接続過剰社会における処方箋としては、単純すぎると言わざるを得ない。単につき合う人とそうでない人を整理しましょうみたいな話にしかならないだろう。あるいは過剰な対人関係から退却して無人島や山ごもりするという話にしかならない。そうではなく、社会システム論に基づく処方箋では、違うコードでコミュニケーションをして関わり方を変えることで、過剰な関係を縮減し無害化することも可能なのである。
 
 ともあれ、浅田彰の逃走論のように、千葉雅也の切断論も一つの思想として若者の価値観に採用され、生活スタイルに影響を与えていくか見ていきたい。切断論は、スローライフを重んじるメンタル系の若者やひきこもりには流行りそうな気がする次第である。

 余談
 ちなみに、ニセ科学批判者の視点からすると、おそらく「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物は、科学的実証性を欠く、わけのわからない空想であると相手にされないであろう。社会調査もなしに社会を語るなという人もいるだろう。

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by merca | 2014-06-11 00:02 | 理論 | Comments(0)

国家主義(右翼)も戦後民主主義(左翼)も同じ。

 今や日本社会は二分されている。二つの思想にである。国家主義と戦後民主主義の二つにである。国家主義とは、国家の目的のために個人が存在するという価値観に準拠しており、個人や家族の命よりも国家の存亡のほうが大切だとする思想である。戦前は、その思想を強制され、戦争に駆り出され、多くの人々が命を失い、自分の家族も失った。
 戦後民主主義とは、そのような軍国主義的な国家主義に対する反省のもとに、反戦主義・平和主義を中心に社会の民主化を唱える思想である。戦後民主主義を植え付けられることによって、日本人は日本を侵略した敵国アメリカを恨むことなく、復興を遂げてきた。 アメリカによって真の自由がもたらされたと思ったわけである。このような戦後民主主義の思想は、朝日新聞等のマスコミや左翼政党に受け継がれた。そして、自らは代案を示すことなく、闇雲に時の政治体制を批判することを役割としてきた。政治・国家を批判することで、社会はよくなると考えていた。
 しかし、戦後民主主義は、現実を直視しない理想主義のために、小林よしのりなどの事実主義を標榜する右翼思想家や保守政治家たちに批判され、今や衰退している。戦後民主主義者や護憲論者の主張は、事実認識があまく、論理的ではなく、頼りないイメージがある。基本的にマルクス主義的な左翼発想に準拠しているので、非科学的であり、そこが限界であったと言わざるを得ない。戦後民主主義を基礎付ける社会理論が左翼系のマルクス主義ではなく、全く別の社会学理論であれば、戦後右翼の事実主義者たちに太刀打ちできたであろう。戦後民主主義=左翼が敗北した理由は、マルクス主義しか理論がなかったからである。社会理論の貧困である。マルクス主義とは無縁の社会理論を取り入れる知的才能がなかったのである。

 さて、国家主義(右翼)と戦後民主主義(左翼)は、前提を共有しており、同一だと人々は気づいていない。この盲点は、社会システム論のみが指摘できる。何が同一かというと、両者はともに政治主義であるということである。つまり、政治のあり方が変われば、社会が全て変わるという発想である。政治が社会をよくするという考えは、政治以外の社会の分野での活動を見えなくしている。いうまでもなく、人々は政治の中だけでは生きていない。
 最高の理論社会学的立場からいうと、後期近代社会においては、法システム、政治システム、経済システム、宗教システム、教育システム、科学システム、芸術システムなど、社会のそれぞれの分野が自律的に機能分化し、上下関係がなくなる。完全な成熟社会では、原理的に、一つのシステムは他のシステムに還元されず、支配されず、対等である。
 しかるに、国家主義も戦後民主主義も、政治システムが他の全てのシステムを統制する力をもつと考えている。確かに、戦前の軍国主義社会や共産主義社会では、政治システムが教育システムを支配し、国民を洗脳することがよくおこる。ある意味、中国社会や韓国社会も、戦前の日本軍国主義社会と同型の政治優先社会てあり、政治システムが教育システムを利用し、反日教育によって国民を統合しようとしている。しかし、社会進化論的には、このように一つのシステムが他のシステムを従属・支配するという構造の社会は、遅れているのである。また、社会病理学的には、社会構造にまつわる社会病理現象である。
 このように政治システムが他のシステムを従属させる社会病理現象を政治システムの中心化現象と呼ぼう。戦争がおこる条件の一つして、政治システムの中心化現象がある。例えば、経済システムを優先させれば、国家間の戦争は怒りにくくなるだろう。ある意味、政治に無関心な人々が多くいる社会ほど、成熟しており、平和である。
 経済システムにおいては、他国の会社との貿易なしには考えられず、多国籍企業も増えている。国家間の戦争は経済活動の妨げになる。科学システムは、既に国家の壁を越え、人類共通の知的財産の累積をつくりだしている。科学的知識の真理性は、国家によって左右されない独立性をもっており、科学には国境はない。また、宗教にも国境はなく、世界宗教は全世界に伝播している。教育においても、学校制度によって、組織(ゲゼルシャフト)への適応と科学的真理の伝授が行われている。法律においても、人権思想をベースに国際化してきている。人権に反する行為をした国家は国際的に弾劾される。各国の法律は、自由と平等という一つの方向性に収斂しつつある。芸術の分野では、日本のアニメも中国や韓国、そして全世界に受容されている。ディズニーはアメリカだが、全世界を相手にしている。政治システム以外の分野では、国境や政治的成果は二の次であり、異なる目標によって動いているのである。政治システムの目標とは関係なく、他のシステムは稼働しているのである。

 政治によって社会を変えようとするいかなる目論みも時代遅れである。政治主義を標榜する限り、国家主義も戦後民主主義も同じであり、限界がある。政治の口出しできない領域を確保していき、政治(あるいは国家)システムの肥大化を押さえることが、他のシステムを健全化させ、世界平和につながるのである。

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by merca | 2014-02-11 10:31 | 社会分析 | Comments(1)

古市憲寿著「誰も戦争を教えてくれなかった」書評を通して

 最近、社会学専攻の院生・古市憲寿氏があらゆるメディアに登場し、発言している。古市氏の著作「絶望の国の幸福な若者たち」については、すでに私は過去のエントリーで、若者による俗流若者論であると位置づけ、批判的に評論している。
 私の予測とは裏腹に、古市氏は多くのメディアに取り上げれ、若者論、国家論、戦争論と幅広く、発言をし、現在に至っている。だが、社会学の鉄人である宮台氏ほど社会学理論そのものに準拠した観察をしているとは言いがたい。これは仕方ない。
 ここでは、古市氏の最近の著作「誰も戦争を教えてくれなかった」について評論を加えるとともに、戦争が起きたら自分は逃げるという古市氏の国家観がネット右翼から道徳的に批判されている現状について社会学の立場から多少擁護したい。
 
 さて、古市著「誰も戦争を教えてくれなかった」においては、各国の戦争博物館を見学することで、アメリカ、中国、韓国、ドイツなど各国における戦争の記憶の残し方に焦点が当てられ、各国との比較において、日本社会における戦争の記憶の残し方を批判的に論じるている。
 結局、日本は国民全体が共有できる戦争の物語を構築できなかったと結論付けているようである。最後には、もはや日本社会においては戦争体験は古くなり、平和体験が長く続きすぎているので、この際、平和ポケを肯定し、平和体験に基づいて思想や政治を作り出していくことを提唱する。
 言い換えれば、平和体験に基づく国家観こそがこれからの日本社会の国家観ということになる。そして、平和体験に基づくことで、かえって条件付きの戦争を肯定するという方向に議論を進めている。
 
 まず、話は方法論にそれるが、同書の面白いところは、各国の戦争観を調査するのに、意識調査や統計調査に準拠するのではなく、博物館を観察するという手法をとっているところである。これは、俗流若者論者の後藤和智が若者論を分析する際に、文献調査や統計調査を重んじるあまり、市町村などにある青少年会館等の若者育成のための施設を見学するという手法を疎かにしているのとは対照的である。
 国家がどのように戦争体験を残そうとしているのかは、統計調査をせずとも、確かにその象徴である戦争博物館を調査すれば一目瞭然にわかるわけである。つまり、社会調査法的に言うと、代表性のある事例を一つ調査するだけで全体を調査したのと等価であるというわけである。統計調査よりもコストがかからず、全体を推し量ることができるのである。社会学系のあらゆる大学でゼミ生がこのような事例調査やフィールドワークを行い、卒論を書いている。今後も、古市氏にとっては、施設見学は事実を認識するために得意とする手法となっていくかもしれない。
 さらに、自国の社会を分析するのに、他国と比較し、相対化するという手法をとっている。物事は、比較して初めて明確になることが多い。また、他国との差異・区別によって国民社会を分析する際に、複数の国と比較しているところがポイントである。後発的近代化論からすると、欧米だけを基準にして社会の進歩や成熟度を測るという考えは古いのであり、アジア諸国との比較も必要なのである。
 
 以上は古市氏の良い点であるが、一方でかなり抜けている点もあった。それは、日本社会には戦争体験に対する共通の物語がなく、残し方も中途半端であると見なしている点である。これは事実とは異なる。
 戦後の日本社会では、日教組を中心とする教師たちが、戦後民主主義教育というかたちで、軍国主義を悪とし、反戦主義、平和主義を子供に教育し、マスコミを中心に社会もそれを支持してきた。図書館に反戦教育の急先鋒として配置された「はだしのゲン」のテーマは正しくこれである。戦争は絶対だめという価値観は、左翼だけでなく、多くの戦争体験者からも発せされた。戦争絶対悪という価値観は、左翼でなくても、団塊の世代を中心に染み付いているのである。終戦記念日にNHKが戦争ドキュメンタリーを深夜に流し続け、戦争反対という価値観を国民に教育している。田原総一郎が言う通り、戦争を生理的に嫌うのが戦後日本社会の共有する価値観であった。
 日本社会が共有する絶対的反戦主義や絶対的平和主義は、最近、小林よしのりやネット右翼によって自虐史観として批判され、多少揺らいできているが、古市氏も絶対的反戦主義の相対化を試みようとし、戦争も場合によってはOKみたいな相対主義的な戦争観を若者に流布しようとしている。
 しかし、古市氏が考えるほど、日本人に植え付けられた絶対的反戦主義や絶対的平和主義は浅いものではない。なぜなら、それは田原総一郎が考えるように、理屈を越えて戦後の日本人の心に染み込んでいるからである。
 戦争体験者が戦争の悲惨さを語り、平和の大切さを唱えるというかたちの教育方法は価値伝達の手段としてはかなり有効であり、子供たちにこのような手法の教育が施されてきた。また、家庭でも祖父が戦争体験を語り、戦争は絶対にするなと言い聞かせることも多くある。社会学的には、道徳は物語=体験とセットになってはじめて効果的に内面化される。従って、戦後民主主義教育が日本人に植え付けた反戦主義・平和主義の価値観や思想は、そんなに簡単に変わるものではない。実は、戦後日本社会において、平和主義の内面化は、唯一成功した道徳教育である。
 そしてさらにいうならば、反戦主義・平和主義という価値観は、根本的に人権主義という普遍主義思想が根拠となっており、世界思想そのものであり、国際社会から認められている。戦争を放棄し崇高な世界思想に合致した価値観をもつ日本国は、倫理的に世界から否定されないことになる。このように反戦主義と平和主義はもともと人類普遍の価値と合致しているために、倫理的に否定することが困難であり、相対化し辛いのである。
 いくらネット右翼や小林よしのりが、反戦主義や平和主義を相対化したところで、人類社会は明らかに成熟した世界社会へと進化しつつあり、その普遍性・絶対性を論破することは困難である。
 一方、小林よしのりやネット右翼は、人類共通の絶対的価値規範は存在しないとする相対主義が本質であることを忘れてはならない。右翼は、基本的に、人類社会の普遍的価値はなく、それ故に、それぞれの社会ごとに異なる伝統に従うべきだとする保守的相対主義が本質てある。つまり、絶対的に正しい価値はないから、既存の伝統にすがるべきだとする思想である。人権思想に準拠した右翼は見たことがない。メタな視点からすると、左翼=絶対主義と右翼=相対主義の対立として描くことができる。
 
 要するに、若者の戦争観について(知識/価値)の区別に準拠して観察すると、戦後日本社会においては、必ずしも戦争の事実に対する知識は十分に伝達されていないかもしれないが、反戦主義や平和主義の価値観はきっちりと伝達されているのである。
 実際、「誰も戦争を教えてくれなかった」の巻末対談において、古市氏が若者の代表としてももいろクローバーZに対して戦争の知識について質問しているが、戦争の詳しい知識はないにもかかわらず、しっかりと戦争否定の価値観を内面化していることがわかる。若者にも、戦争に対する知識は伝達が不十分であるかもしれないが、価値伝達はなされているのである。
 つまり、戦争は悪であると誰もが教えてくれる社会であるが、戦争の歴史的経緯は詳しくは知らないというのが事実である。古市氏が知識伝達のみをもって戦争を教える教育だと勘違いしたことは非常に残念である。むしろ、社会学的には、知識伝達よりも、平和主義や反戦主義という価値伝達のほうが大切なのである。
また、歴史的知識習得は、社会階層によって異なる。古市氏のようにインテリ階層であれば、詳しい歴史的知識を知っているが、非インテリ層は詳しい歴史的知識をもっていないし、そのような知識がなくても生きていけるわけである。古市氏は自ら属している社会階層が若者の全体像であるというバイアスに気づいていない。
 
 ある番組で、古市氏が戦争が起ったら逃げるという発言をしたために、ネット右翼から批判されているが、社会学の基礎知識があれば、そう答えるのは原理的に間違いでない。社会システム論的にいうと、個人は国家システムの要素ではないからである。個人が国民として創発するコミュニケーションは国家システムの要素であるが、個人は国家の要素でなく、国家と分離可能である。
 このようなことは、社会学の基礎中の基礎である。個人は、究極的には(国民/非国民)のどちらも自己選択できる。
 ネット右翼等の国家主義者が古市氏の発言に戸惑うのは、社会の仕組みを扱う社会学を知らない無知からである。国家主義者が、古市氏を非道徳者として批判するのは、そもそも国家主義が個人は国家の部品であるべきだという思想に準拠しているからである。国家主義は、科学的真理ではなく、人間は国家の部品であるという虚構に準拠した思想なのである。国家主義が社会的真理であると唱える社会学者がいたとしたら、ニセ社会科学である。
 「人間は国家の部品である」という思想を本当だと信じ込むか、あるいはあえて演じることを是とする合意があった時のみ、国家全体主義的社会は創発されることになる。多くの人間が「人間は国家の部品である」という思想を共有・共演しなくなると、瞬時に消滅するはかないものである。
 ちなみに、人類の歴史においては近代国民国家の誕生は新しく、日本国民が誕生したのは明治以降の話である。それまでは、庶民にとっては、村落社会が全体社会(欲望充足に必要な範囲)であり、日本列島全域が全体社会ではなかった。これも社会学の基礎知識である。社会科学的知識の欠如こそがネット右翼の問題点であり、若者に社会学原理を必須科目として教えると、国家主義者はいなくなるだろう。
 ともあれ、古市氏は、社会学を学んだために国家主義者からバッシングされているのである。

 最後に、戦争が殺人を伴わなくなってくるという古市氏の仮説は、あまりにも安易である。全ての戦争の先に核戦争があるという認識が全くできていない。アメリカが躍起になって核拡散を防止しようとするのは、核戦争をおそれてのためである。戦争イコール核戦争による全人類の絶滅というイメージこそが正しいのである。

 田原総一郎に認められたそうだが、これからが古市氏の試練だと思う。今後、右翼(国家主義)と左翼(戦後民主主義)の相互から批判されるおそれもあり、かつまた後藤和智氏が批判する実証性のない東浩紀のごときポストモダンおたくになることも避けないとならないからである。
 私としては、社会的事実を観察する社会学理論が古市氏においては未熟なために混乱が起きているようなので、早く自らが準拠する社会学理論を確立し、その立場を明示するべきだと思う次第である。

  追伸
 「誰も戦争を教えてくれなかった」のなら、戦争に行ってみたら分かるよ。戦場カメラマンみたいに戦場に行ったらどうかね。外から眺めても真実はわからないかもしれない。それでどんな思いを持つかが大切だ。兵士や戦争に巻き込まれている人の気持ちがわかるかも。

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by merca | 2013-11-04 00:31 | 社会分析 | Comments(1)

「国が滅んでも家族は滅ばず」映画「少年H」によせて

 国家や国民社会が滅んでも家族は残る。映画「少年H」を見てそう思った。私流に解釈すると、これは、国家がなす家族への虐待を乗り越えていく話である。家族の勝利である。国家が勝手に戦争したために、多くの家族の生活が貧困化するなか、主人公の家族も苦しめられるが、しのいで生きていく話である。
 国家の脆さと、家族の強さが対照的であった。また、勝手な戦争で家族の命を奪った国家主義という化物=社会病理を退治するのが、社会学の役目だと痛感した。
 国家を守るために戦争をすることが家族を守ることにはつながらない。国家を守ることと、家族を守ることはイコールでない。国家と家族には、根源的な差異がある。この差異を無視して、家族を守るために戦争をすることは愚かである。
 
 また、社会科学の立場からすると、「国家を守ることは、家族を守ることである。」という仮説は明らかに論理の飛躍がある誤謬である。この誤謬命題を強制されていたのが、戦前の軍国主義社会の国民たちである。
 しかし、敗戦によって、「国家が滅んでも家族は残る」という真理に目覚めた日本人たちは、あっさりと民主主義や普遍的な人権主義を採用し、国家主義を捨て去った。敗戦という絶対的事実の前に、国家が国民を守るという思想が嘘であり、また客観的に見ると、むしろ国家の戦争によって多くの家族の命が失われたことがわかったのである。
 
 してみれば、家族の自律性は、国家の存在を遥かに凌駕する。日本社会でも、朝鮮、中国、ブラジル、ベトナムなど、他国から来た家族が少なからず生活している。彼らは、強固な家族関係や親族関係を維持し、生活している。世界中に国を失った難民は溢れかえっているが、他の社会で、家族で助け合い、生きている。移民が可能なのは、国民社会と家族が分離可能だからである。そして、移民した後は、移民先の社会構造の組み込まれていく。どんな荒れ地でも、強い家族の絆さえあれば、国境を越えて家族は生きていく。
 
 家族システムのコードは(愛する/愛しない)である。愛とは、見返りを期待せずに与えることをいう。経済のような交換原理ではなく、一方的に与えることで完結する関係である。これを相互関係と区別して、非対称的関係という。
 例えば、当たり前のことであるが、障害をもった子が生まれて来ても、親は見返りなしに衣食住を与え続け、子供の幸福に喜びを感じる。子供に将来支えてもらおうとなんか思はない。もし相互的関係が家族の原理なら、障害をもった子を捨てる親もいるだろう。しかし、家族の原理が愛である限り、そうはならない。決して見捨てず、与え続ける。一方的な非対称な関係が家族の本質だからである。 家族関係は利他的で非対称的関係であり、人間が家族で生まれ育つかぎり、限定的な範囲での性善説が正しい。無論、一部の家族においては、それが崩れており、子を虐待する親もいるが・・・。
 
 戦前、国家が天皇を中心とする家族的国家観を植え付けようとした理由は、正に個々の家族の自律性を奪い取とり、「国家を守ることは、家族を守ることである。」を信じ込ませ、人々をコントロールすることにあった。
 しかし、どのような手段であろうと、原理的に家族の自律性を剥奪することはできない。そのような社会はいずれ滅ぶ。国親思想のように国が家族となるような国家観はやめるべきである。
 
 現在、小林よしのりや維新の会など国家主義が流行っているが、国家主義は、家族や個人よりも国家や民族社会を優先させることに思想的根幹がある。しかし、それは、人間が本来的に取り替えのきかない「個別的な家族」で生育するという社会学的真理に反する虚構なのである。
 国家の崩壊は家族の崩壊を招かないが、家族の崩壊は、社会の機能を低下させ、いずれ国家の崩壊を招く。人類社会は、国家主義から普遍的家族主義や普遍的個人主義へと進化していく。これからは、国民社会から世界社会へと思考を切り替える必要があるのである。家族は、国民社会ではなく、世界社会の単位なのである。

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by merca | 2013-08-18 22:39 | 社会分析 | Comments(0)

後発的近代化論と世界社会論による愚民社会論(宮台・大塚対談)批判

 宮台真司と大塚英志の対談をまとめた「愚民社会」という書物が社会に出ている。愚民社会といういかにも民衆をバカにしたタイトルのように思えるが、実際のところ、内容もそのとおりである。
 まず、宮台氏と大塚氏は、近代化をすべきだという点において、共通の目標をもっている。端的にいうと、日本社会は近代化に失敗しており、日本人は愚民のままであるという。愚民とは「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」という三つの特徴をもつという。さらに皮肉を込めて愚民ではなく、二人とも土人という用語を使用している。宮台氏は、この三つに対して、「引き受けて考える社会」「知識を尊重する社会」「善いことをすると儲かる社会」を提案し、近代化を完成させる社会的処方箋と考えている。特に、個人ではなく、地域自治体を主体とした自立的共同体にその可能性を期待している。
 大塚英志に至っては、阪神大震災と東日本大震災の両方の被災者に対して、行政を頼りにする点において、愚民だと思っているようである。例えば、原子力発電所の津波による被害の可能性などは、震災前から共産党の赤旗などで流されていたわけであり、情報を収集をしなかった方が悪いという論調である。
 
 さて、果たして、このような近代化の失敗が全ての諸悪の根源であるという仮説は今更成り立つであろうか?そもそも近代化が失敗したと言えるのだろうか? またこれまで、宮台氏は、現代日本社会を成熟社会つまり後期近代社会として論じてきたが、日本社会がそもそも近代化した社会ではないのなら、宮台氏の成熟社会論は破綻することになる。
 
 結論からいうと、社会学の権威である富永健一の近代化論などの正統派社会学の立場からすると、現代日本社会は、近代化した社会であり、後期近代社会=成熟社会である。ただし、西洋諸国と異なり、後発的近代化というかたちで近代化が進んできた。社会学者富永健一によれば、欧米社会の近代化が、社会的近代化と文化的近代化から始まり、政治的近代化を経て経済的近代化へと進展したのと反対に、日本社会を含むアジア社会の近代化は、経済的近代化から始まり、政治的近代化を経て、社会的近代化と文化的近代化が進んだという。このことは、欧米社会と日本社会の歴史を少しでも紐といてみれば明らかである。西洋社会では対人関係のスタイルや思想などの分野から近代化から始まるわけであるが、日本や中国などの後発近代化社会では経済や政治という社会の構造(システム)から始まり、対人関係のスタイルや思想が近代化されるという順番となる。
 
 この分析からわかるように、日本社会では、宮台氏が指摘する「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」などという人々の心の習慣は最終段階で近代化されることになる。なので、社会変動論的には、後発的近代化社会においては、これは当たり前の現象なのであり、意識面における近代化の遅れの原因を日本人の文化的特性に帰属させるのは社会科学的には誤りである。
 宮台氏と大塚氏がこのような誤謬に陥るのは、西洋社会の近代化モデルにとらわれているからである。近代化には多様なかたちがあると認める後発的近代化論の立場からは、近代化を西洋モデルだけで判定しようとする両氏の愚民社会論は成り立たない。愚民社会論を唱える両氏は(西洋/非西洋)という区別に準拠し、西洋をマークし、その観点から日本社会を観察しているにすぎない。

 さらにいうと、もう一つの盲点がある。それは、小林よしのりと同様に、両者の議論が国民社会だけに準拠した議論になっている点である。両者の議論の対象はあくまでも、日本社会に限定されており、従って頻繁に天皇制や自治的共同体とか、あるいは三島由紀夫や柳田民俗学などの国民社会レベルの事柄が論じられている。しかし、近代化が進み、後期近代社会になると、コミュニケーションは世界規模になる。全体社会は国民社会ではなく、世界社会となる。震災時に世界からの援助やメッセージがあったのは無視できない事実である。また、一つの国民社会が滅亡しようとしても、多数の他国が必ず介入し、人々を支援したりする。
 意識しようがしまいが、今や世界の人々は国際社会=世界社会に支えられて生きている。経済(市場)、政治、法律、宗教、科学、スポーツ、恋愛など、一つの国民社会を越えて、コミュニケーションが創発されている。我々は国家が統治する国民社会の中に生きている前に、世界社会の中にいるのである。ルーマンやボルツが全体社会がもはや国民社会ではなく、世界社会であると喝破したごとくである。ポストモダン社会は世界社会が範囲となるのであり、国民社会ではない。ここでも、両者は(国民社会/世界社会)という区別に準拠し、国民社会維持という観点から愚民社会論を唱えているのである。

 このように愚民社会論が準拠する区別を相対化し、世界社会という別の観察地点から観察すると、全く日本人は愚民ではないことがわかるであろう。震災においては、世界から日本人の行動は賞賛されているのである。

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by merca | 2012-02-12 11:41 | 社会分析 | Comments(0)

「居場所の社会学」書評 「自分探し」から「居場所探し」へ

 阿部真大という社会学者がいる。「居場所の社会学」という若者論を書いている。興味のある点は、居場所の社会学が独自の幸福観に準拠していることである。それは、居場所のない人間は生き辛さを感じ、不幸であり、居場所のある人間は幸福であるという思想である。この幸福観は、人間科学的に何ら実証的根拠をもつものではないが、阿部真大氏の個人の社会体験に根付いた貴重な思想なのである。
 阿部氏は、居場所がある人間は幸福であるという思想に基づき、家庭、職場、学校、地域社会、サークル、仲間集団、恋愛など、あらゆる社会的領域を人々の居場所にすることで、社会全体がよくなると考えている。
 ただし、各社会集団が人々の居場所となっても、それがイコール各社会集団の社会的機能遂行に直結するとは限らない。この点は、保留しておきたい。
 
 これまでの社会学の分析概念から居場所という概念に近い概念を考えてみたい。社会学者ハーバーマスが準拠する(システム/生活世界)という区別のうち、居場所というのは、生活世界に対応する。また、社会学者テンニースが準拠する(ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト)という区別のうち、居場所というのは、ゲマインシャフトに対応する。要するに、居場所は、肯定的である人格的、情緒的な人間関係が存在する場所ということになる。
 阿部氏は、居場所は個々の主観が居場所と感じる場所ということで客観的定義をすり抜けようとするが、それでは社会科学的には何も定義したことにならないのであり、私なりに定義すとる次のようになる。

 居場所とは、ある人間にとって、肯定的である人格的、情緒的なかかわりを提供する人間関係や集団である。

 阿部氏は、高齢フリーターなどの職場に生き辛さを感じる人たちに「ひとりの居場所」という処方箋を提示しているが、これは人と無関係な場所というわけではなく、周囲が本人に関わらない配慮をするという形態の対人関係であり、完全な独我状態ではない。バスや電車の中で、全くの他人に話しかけないように人々が配慮するのと同じである。互いに話しかけないという無関心という名の配慮で、バスや電車の中は心地よい瞬間的な居場所になるのである。

 社会に存在するあらゆる集団や対人関係には、その社会的役割とは別に、自然に生々しい人間関係が発生し、好き嫌い、包摂・排除が起る。人間が役割存在としてだけ生きていない証拠である。学校や職場において、インフォーマルな仲間集団が形成され、そこで承認されなければ、生き辛さを感じ、結果的に挫折・離脱することになる。
 国家が不登校児童対策や就労支援対策としてどんな制度システムを構築しても、個々人の居場所にならなければ、定着性がなく、うまくいかない。ミクロ社会学の知見が必要となる。あるいは、社会学者・内藤朝雄氏の中間集団全体主義論の観点が必要である。

 社会的包摂とは、単にホームレスやニート等を職に就かせることだけではない。彼らにとってその職場が居場所にならなければすぐに辞めてしまい、包摂の意味がなくなる。社会的包摂の真の意味は、排除された人たちに居場所を与えることである。

 全ての人がどこかに居場所を見つけることができるような社会こそが阿部氏の理想とする社会であろう。阿部氏が社会のどこにも居場所を見つけることができず、生き辛さを感じていた青春時代を送っていたことが類推される。
 
 社会学では、意識調査などの統計調査よりも、このような学者個人の主観的な体験が実は一番客観的であったりする。それは、はなから社会という化物がストレートに阿部氏の主観に宿っているからである。主観的であればあるほど客観的になるのである。最高の玄妙なる立場から言うと、客観=社会と主観=個人の区別がなくなるところに、社会における真理は開ける。大型の理論社会学はその類いの真理である。
 
 若者の意識が「自分探し」から「居場所探し」へシフトしていることを察知した阿部氏の社会学的洞察眼は高く評価したい。そして、今後、阿部氏の居場所思想が若者の生き辛さ論と相まって居場所探しブームを引き起こすことを期待したい。

  参考 
 阿部氏は、宗教について語っていない。宗教が全ての社会的領域から排除された者の受皿=居場所として機能することを見落としている。社会の中に居場所を見いださせない者は、世界の中に居場所を見いだすのである。神仏から無条件で肯定される宗教の世界は、社会の不十分性を補完するのである。以下が参考記事である。
 コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能
 http://mercamun.exblog.jp/14456650/

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by merca | 2011-10-30 18:46 | 社会分析 | Comments(2)