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社会構築主義による観察 言葉(概念)が現実をつくる。

 社会構成主義における、言葉(概念)が現実をつくるとはどういうことか?
 それを説明してみたい。
 つまり、それは、言葉の意味する役割や機能を遂行することで、あとから現実が構成されるというメカニズムのことである。言葉が先にあり、後から認識対象が形成されるというわけである。
 簡単な例でいうと、一本の竹竿があり、ある人が釣り竿と見なし、釣り竿として使用できれば釣り竿となるし、別の人が武器と見なし、武器として使用すれば武器となる。また、さらにまた別の人が物干竿として使用すれば物干竿になる。このように一本の竹竿について、釣り竿、武器、物干竿という概念を付与し、そのように機能すれば、本当に釣り竿、武器、物干竿という認識対象が出来上がり、実在することになる。
 そして、釣り竿、武器、物干竿という三つの認識は、どれも正しく、相対主義となる。一つの対象に複数の認識が妨げ合わず成り立つわけである。認識主観の側に認識の原因があり、認識主観のもつ目的に応じて、複数の真理がある世界となる。一つの真理しか認めない自然科学とは異なり、社会科学の世界では複数の真理が成り立つ相対主義の王国となる。 
 要するに、以上のように、何々として見なして使用することで、後から認識対象が構成されることになる。

 また、別の角度の例をあげてみたい。例えば、教師は教員資格に合格して生徒に教えるという役割を遂行することで教師として世間から認められる。役割存在は、役割を遂行し、役割が他者から承認されてはじめて役割存在となるわけである。教師は最初から教師になる人物に内存していた性質ではなく、役割という概念が先にあり、役割付与とその遂行を通して後から現実が形成されることになる。
 一般化していうと、言葉を付与され、その機能を果たしたり、その役割を遂行することで、事後的に社会的現実が形成されることになる。
 虐待という言葉が人々の相互作用を通して虐待をつくり、セクシャルハラスメントという言葉が人々の相互作用を通してセクシャルハラスメントをつくる。感情のレベルでも、親からの体罰的躾を虐待と解釈することで、あとから虐待を受けたという恨みの感情が生まれることがある。感情さえも後から言葉によってつくられる。犯罪行為も、法律による裁判を通して犯罪として社会的に構成される。
  このように、社会的事実においては、言葉(概念)が先にあり、後から現実が構築される。ポンイトは、後から構成されたとしても、認識対象が全くの無ではなく、実在するものとして人々の前に現象化するということである。社会的事実は、人々の意識(意味世界)の外にあるのではなく、意識を離れては成り立たない意存的対象ということになる。社会構築主義の立場からは、人々の意識から全く独立した自存的対象としての社会はあり得ないと結論付けられることになる。ちなみに、社会のメカニズムや構造は、人々の意識から独立して実在する自存的対象であると主張する批判的実在論の立場とは全く異なるわけである。
 
 そこで、種々の分類概念や分析概念をつくりだす社会学者が気をつけないといけないのは、自らがつくった社会理論が社会思想として人々に作用し、本当に社会的事実となることである。いわゆる予言の自己成就である。社会学理論が社会をつくるのである。マルクス主義がそれである。
 批判的実在論も例外ではなく、批判的実在論の科学観が社会をつくるのである。社会構築主義の観点からすると、近代社会における批判的実在論の役割は、科学を確固たる真理として社会に流布し、科学を正常に機能させることである。

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by merca | 2016-01-03 12:26 | 理論 | Comments(0)

「批判的実在論を考える」第2回 社会構築主義の克服

2 批判的実在論は、社会構築主義を克服したか?
 批判的実在論は、社会構築主義と一線を画する。社会構築主義は、科学も含む全ての人間の知識は社会的に構成された相対的なものであり、客観的なものではあり得ないと主張する。しかし、批判的実在論においては、人間の意識とは独立に外界に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとり、それらを把握することが科学の目的であると主張する。
  実験という方法で「閉じられた系」を作り出し、近似的に生成メカニズムや構造を解明していくことになるという。実験は意識が予測していない結果を出してくれるわけであり、意識の外にある自然界からの応答であるとも言える。つまり、人間の意識とは独立した自然界からの反応をメッセージとしてキャッチすることが実験の目的である。このような実験の意義については、自然科学の世界では当たり前の話であり、何も批判的実在論でなくても、たぶん科学者は普通にそのように考えていると思われる。実験が意味をもつためには、意識とは独立した存在=自存的対象を前提とする必要があるというわけである。
 さて、ここでポンイトは、外界に実存すると言っても、素朴実在論や経験的実在論のように経験的に存在する事物が実在すると言っているわけではないのを押さえておく必要がある。経験的に実在する事物は、意識によって加工された意存的対象にしかすぎない。例えば、目の前にあるイスや机などである。これらのように意識によって認識された目に見えたままの世界は、実在物ではなく、かえって意識や言葉によって構成されたものにしかすぎず、社会構築主義によってその実在性を骨抜きにされるのである。
 要するに、批判的実在論は、直接観察可能な事物=現象が実在すると言っているではなく、直接観察不可能であり実験でしか把握できないものこそが実在すると言っているである。この直接観察不可能で経験を越え、実験の積み重ねによる論理的推論やリトロダクションでしか捉えることができないものとは、生成メカニズムや構造のことであり、これのみが意識や社会による構成とは別に、世界で実在するというのである。
具体的にいうと、イスや机は意識によって把握された概念的存在=人工物であるが、イスや机を構成する木の細胞や細胞を構成する分子は実在するというのである。おそらく自然階層ごとの一個体のみが実在するということになると思われる。このような立場は、自然科学においては、科学的実在論というかたちで、洗練化されつつある。批判的実在論は、どらちかというと、社会科学をターゲットにしている。
 
 批判的実在論においては、人間の心も社会も直接観察不可能であるが、階層として異なる次元に独立に実在するという立場をとる。しかし、批判的実在論は、自然のメカニズムのように不動の存在として、社会が実在するとは捉えていないようである。
 バスカーは、社会構造に制約されたかたちで人間は相互行為をするが、その相互行為を通して社会構造も変化していくと捉えている。また、変化した社会構造が相互行為を制約する。パスカーは、このような螺旋状の循環的相互作用を見抜き、「社会構造とエージェンシーとの相互作用における分析的サイクル」として定式化している。これは、社会学者ギデンズの構造化理論と同型の社会理論である。
 
 しかし、ここまでくれば、社会構築主義とあまり変わらなくなる。基本的に、社会構築主義とは,社会は言語的コミュニケーションによってつくられたものであるという説である。その基礎は,バーガーとルックマンの知識社会学にある。社会構築主義の公理を定式化すると,外存化,客体化,内存化の三つの循環的過程となる。外存化とは,人間の内的世界が外部世界に投影され,なんらかの形をなすものとしてあらわれることを言う。客体化とは,その外在化されたものが所与の現実として客観的でリアルなものとして現れることを言う。さらに,内在化とは,その客体化された現実を内的世界に取り入れることである。例えば,法律は,人々がつくったものである(外存化)。その後,人々にとってその法律が社会環境の一部になる(客体化)。さらに,その法律を内面に取り入れ,自己の行動を規制していく内的な規範としていく(内在化)。
 
 批判的実在論と異なる点は、社会構築主義が社会の中に意識を取り込んだ理論にしている点である。パスカーによる「社会構造とエージェンシーとの相互作用論」では、意識の次元と存在の次元が交わることがない。ギデンズの構造化理論も同じてある。当事者の意識の次元と社会構造の次元を独立したものとして区別している。
 一方、社会構築主義は、意識の次元の内容が存在次元の客観的な規範=社会構造として外化し、さらにまたそれを意識が内在化することで個々人の行為に制約を加えるという構図になっている。
 かたやバスカーの相互作用論では、どのように社会構造が相互行為を制約し、どのように相互行為が社会構造を変化させるのか具体的に説明がない。
 というよりか、社会構造と相互行為の相互作用のメカニズムを説明していない。意識(=心)と社会が別次元の階層に属するという批判的実在論の立場からは、原理的に相互行為と社会構造の具体的関係は解明されないことになるのである。
 
 このような困難は、実はルーマンのシステム論では克服されている。別次元にありつつも、社会も意識も同じ意味システムであるという視点をとることで解決される。つまり、コミュニケーションを要素とする社会システムという発想で解決できるのである。
 コミュニケーションは、情報、伝達(発信)、理解についての選択からなる。意識システムが他の意識システムに何を伝えるか選択し、その伝達方法も選択し、そして他の意識システムが選択的に理解する。この一連の過程がコミュニケーションである。そして、コミュニケーションがどのようなコードに準拠して創発されたかで、創発されるシステムの種類が決まる。創発されたシステムは、コミュニケーションを通して自己を再生産する。事前のコミュニケーションが後続するコミュニケーションの前提となることで、コミュニケーションを再生産していくことになる。
 いずれにしろ、社会の創発に関して、意識システムが介在することになるわけであり、意識と存在の並行論とはならない。ルーマンは、社会構築主義と同じく、意識と存在の交差論の立場をとる。

 社会構造(ないしは社会システム)が前提となり、相互行為(コミュニケーション)をつくり、相互行為(コミュニケーション)が社会構造(ないしは社会システム)をつくるという循環過程については、社会学の本質的メカニズムにかかわる問題であり、簡単に語り尽くすことはできない。
 とりあえず、ここでは、並行論と交差論という二つの立場があることを確認しておこう。そして、批判的実在論が並行論をとることで、人々の意識によって社会が構築されるという相対性を排除していることを確認しておこう。

参考文献
 ロイ・バスカー著「科学と実在論」
 バース・ダナーマーク他著「社会を説明する」

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by merca | 2015-12-31 18:15 | 理論 | Comments(0)

超越論的実在論の科学観・・・メカニズム論の肯定

 超越論的実在論は、ロイ・バスカーが打ち立てた科学哲学である。超越論的実在論は、批判的実在論として発展していき、一つの思想的潮流を形成している。さらに、批判的実在論においては、今、社会構成主義=相対主義を越えた社会科学を基礎付ける哲学として注目されている。批判的実在論の哲学的基礎は、全てロイ・バスカーが提唱した超越論的実在論にある。

 超越論的実在論による科学観によれば、科学が追求する真理とは、観察可能な経験的現象ではなく、その背後にある実在する生成メカニズムについての真理であるという。しかるに、これまでの科学哲学においては、ヒュームの古典的経験論を源流とする経験論的実在論が科学哲学の主流を占め、経験的実在論のみが科学を基礎付けると勘違いされてきたというのである。経験論的実在論には、ポパーの反証主義も含まれるし、エビデンス主義に代表される統計的実証主義も含まれる。
 ロイ・バスカーは徹底的に経験的実在論の科学観を否定する。最大のアンチ・ヒューム主義者である。カントの認識論も超越論的観念論として位置づけ批判している。因果関係は人間の認識の形式ではなく、独立に外部世界に実在するメカニズムの発現であるという立場から、カントの観念論も否定される。
 近代科学を基礎付けることができるのは、経験的実在論でもなく超越論的観念論でもなく、唯一、バスカーによる超越論的実在論のみであるというわけである。言い換えれば、実験という科学の営みが意味をもつのは、超越論的実在論の世界観以外にはあり得ないということである。実験は、事象間の相関関係を検証するのが目的ではなく、その背後に潜むメカニズムや構造を見つけ出すことが目的である。色々な条件で実験し、探ろうとしているのは、単に事象間の統計的な相関関係ではないのである。科学者は、メカニズムを解明するために条件を変えていき実験しているわけである。
 例えば。統制された条件(閉じられた系)において、水は100度で沸騰するという命題が実証されたとしても、その命題は何ら科学的真理ではない。水の分子構造からその現象が説明されてはじめて科学的真理となるのである。つまり、メカニズムが解明されてはじめて科学的真理となるのである。また、気圧が低ければ、100度でなくても、水は沸騰するわけであり、それは水の分子構造を把握してはじめて説明できる現象である。
 医学の分野でも、偽薬効果が統計的に実証されても、そのメカニズムが解明されない限り、偽薬効果は科学的真理ではないのである。この点を勘違いし、偽薬効果を科学的真理だと思い込んで議論するニセ科学批判者はよく見かける。
 
 経験的実在論は、経験したままが真実だと勘違いしているのである。これを認識論的誤謬という。人間が認識したままの世界が真実であり、それが科学的知識であると思い込む誤謬である。
 手品を例にとろう。手品で人間を箱の中に入れて切断し、また体がもとにもどるというものがよくあるが、認識したままが本当なら、人間は切断されていることになる。また、ステックから鳩がでる手品なら、認識したままでいうと、本当にステックから鳩が生まれたことになる。お客は、手品で起った現象を真実だとは誰も思わない。手品には必ず種があり、背後に錯覚させるメカニズムがあるのである。もし種がなければ魔法使いだということになる。経験的実在論者は、手品師を魔法使いだと勘違いし、経験的に認識した出来事をそのまま科学的真理である独断するのである。
 バスカーの言わんとすることは、このような経験的現象を絶対化する経験的実在論に基づく科学は、真の意味で科学足り得ないということである。超越論的実在論からすると、事象間の有意な相関関係の統計的検定さえも、科学的根拠になり得ないのである。メカニズムを提示してこそ真なる科学的根拠となるのである。

 西條氏の構造構成主義の科学観も、超越論的実在論から否定される。構造構成主義は、外部の存在の実在性を否定し、人間の共同主観的な言葉の使用法の同一性を科学の根拠とする哲学的立場である。カントの観念論に近い立場である。
 ロイ・バスカーは科学を人間の社会的活動であると認めつつも、人間の認識とは独立に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとるわけであり、明らかに外部存在の実在性なしに科学が成り立つとする構造構成主義の科学観は否定されることになる。

 社会科学的関心からすると、最大の問題は、超越論的実在論ないしは批判的実在論が、社会構築主義を克服している科学哲学になりうるかである。反証主義や単なるエビデンス主義に代表される統計的実証主義の科学観よりも深い科学哲学だとは認めよう。
 実は、批判的実在論は、社会学にとっては、一つの救いとなる。理論社会学が提示する統計的根拠のない社会理論は物語ではなく、実在する社会のメカニズムであると言えることも可能であるからである。例えば、パーソンズの社会体系論は、観念論的ではなく、実在する社会のメカニズムや構造になるのである。統計的根拠がない社会理論は全て個々の学者によって構築された物語であるという考えを退け、相対主義を回避できるからである。
 
 しかし、事態はそんなに簡単なことではないだろう。社会のメカニズムを認識することが社会学の役目であるが、システム論のように社会が人間の行為ないしはコミュニケーションという要素から構成されているシステムだと考えると、人間は再帰的に社会のメカニズムを構築することもできるからである。社会のメカニズムに意義を申し立て、メカニズムの発現を阻止することもできるのである。 批判的実在論は、社会はその都度創発されものであるとするルーマンのラディカル構築主義と真っ向から対立する。批判的実在論は、マルクス主義同様に存在論的社会観に立脚するが、ルーマンの社会システム論は創発論的社会観に立脚する。
 
 超越論的実在論のバスカーは、(閉じた系/開いた系)を区別し、実験は人間が作為的に閉じた系を作り出すことで可能となると考える。開いた系においては、多様な諸要因が働き、純粋にメカニズムが発現したり、発現を認識できたりし得ないというのである。社会は、雑多な開いた系であり、社会学では実験は困難であるという。
 しかし、ルーマンによれば、社会は開いた系ではなく、むしろ閉じた系、区別によって閉じられた閉鎖システムである。区別によって閉じられることで社会は創発されるのであり、バスカーの社会観とは逆である。バスカーは、社会よりも自然は閉じられており、実験しやすいと考えているが、本当は社会のほうが閉じられているのである。社会システムは自ら閉じることで社会システムたりえるのである。自ら条件統制された内部環境をつくりだすのである。一つの社会がどのような区別コードに準拠して閉じているか認識すること=第二次観察することが、社会の構造ないしはメカニズムを捉えたことになる。しかし、それは創発されたものにしかすぎず、創発された時には実在性はあるが、そうでない時には、可能態としてあるだけで実在性はない。
 例えば、コンビニに行くと、お金を払えば商品が手に入るという因果仮説は、店員と客が経済システムを創発することで可能となるのである。批判的実在論者ならば、売買行為を資本主義社会のメカニズムの発現として説明するであろう。資本主義社会が実在するので売買行為が存在するというわけである。
 しかし、究極の社会理論からは、それは逆である。むしろ売買行為が発生したから、資本主義社会が実現されたと考えるのである。もし売買行為が一切起らなかったら、資本主義社会は創発されず、そのメカニズムも実在しないのである。
 システム論社会学では、人々の相互行為によってメカニズムはあとからつくられるものなのであると考える。また、他人の意思による自己選択(他者性)は自己の意思を制限することになるので、それが社会の拘束性の源になる。最初に不動の資本主義社会のメカニズムが実在し、それが個々人の意思を制約するというのは、マルクス主義の錯誤的発想である。社会の拘束性と外存性は、大澤氏の第三審級論によって解明されているとおり、他者とのコミュニケーションによって作動する。
 
 とりあえず、ここで言えることは、批判的実在論は、自然科学には通用するが、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるかぎり、社会科学の世界には不適合であるということである。
 社会には、つくられざるメカニズムは存在しない。その代わり、その都度、創発される閉じたシステムがあるのみである。

  参考
「科学と実在論」ロイ・バスカー著
「「メカニズム論の誤謬」という菊池流科学思想」
 http://mercamun.exblog.jp/14829440/ 
「偽薬効果は現象的事実であって科学的事実にあらず!!」
 http://mercamun.exblog.jp/14839902/
「偽薬効果を前提にしたニセ科学批判はニセ科学である。」
 http://mercamun.exblog.jp/14793660/

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by merca | 2015-12-21 00:11 | 理論 | Comments(0)

世界の有意味性(一切肯定の境地)

 この世界において、無意味なもの、無価値なものは何ひとつ存在しない。宇宙の一切の存在は尊く価値が在る。
 
 なぜなら、一切の存在は一切の存在と関係し合っているからである。価値や意味は、自らのうちにあるのではなく、無数の他の存在との関係で生ずるのである。他の存在と関係している限り、価値や意味は無限に自ずと生ずる。
 
 無数の他者の他者性が価値や意味の源である。いくら自己存在が無意味や無価値だと思い込んでも、宇宙にある無数の他の存在と関係する限り、意味や価値が生ずるのである。一切肯定の境地とは、宇宙の一切の存在に意味や価値があると感じることができる心をさす。

自己は無意味・無価値だと叫ぶ者たちよ! 
ニーチェに騙されるな!
聞くがよい。森羅万象における関係性の妙理を。
 
一輪の花にも神仏は宿る。
心傷ついた人は、たった一輪の花に救われ、一輪の花に神仏が現れるのを知る。

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by merca | 2015-10-05 22:14 | 反ニーチェ | Comments(0)

「卑怯者の島」にドラゴンナイトが到来する時

 戦後70年に際して、小林よしのりが「卑怯者の島」というフィクション作品を出し、戦争について日本国民に問うた。これはフィクション作品ではあるが、価値伝達としての思想の押しつけは一切ない。小林よしのりは、戦争論のような事実を語る作品については思想漫画家として価値伝達を行うが、フィクション作品では価値観の強制がない優れた作品となることが多い。
 全くの直感としての予言(期待)ではあるが、将来、「卑怯者の島」は映画化され、話題を呼ぶと予想している。さらに、同作をニヒリストである北野武が監督をすると、アカデミー賞になると考えられる。この予言は根拠のない私の期待であるが、そうなったら素晴らしい。
 今後、小林よしのりには、是非とも漫画家の本分としてフィクション作品を書き続けて欲しいものである。
 
 「卑怯者の島」は、戦争の当事者としての兵士の視点から戦争について描かれている。ストーリーも引き込まれやすい。主人公は、死ねなかったことで卑怯者としての罪の意識を持ち続け、その葛藤がよく描かれている。戦友が一人一人死ぬごとに、罪の意識が強まっていく。
 戦争とは、(敵/味方)という区別で創発された殺人ゲームである。この区別が実体化されると、善良な市民であった兵士も、戦場では殺し合いをし、地獄世界をつくりだす。その地獄絵図が「卑怯者の島」では克明に描かれている。
 生き残った者、死んだ者、誰一人として幸福になっていない。無念で死んだ者、生き残っても、手足を失い物乞いになったり、主人公のように一生罪の意識に苛まれながら生きている者もいる。
 
 (敵/味方)という区別が消滅することで戦争という地獄ゲームは終わるが、この区別がなくなるということは、同時に普通の人間(殺し合わない存在)にもどるということである。だから、本当に戦争という地獄ゲームから解放された兵士は、自分が死ねなかったことに対する罪の意識ではなく、人間として敵兵や敵国の市民を殺害したことに対する罪悪感をもつようになる。
 ところが、卑怯者の島の主人公は、戦後においても、敵兵を殺害したことに対する罪悪感はもたず、死ねなかった自分に対する負い目による罪悪感のみに縛り続けられており、(敵/味方)という区別から解放されていないのである。彼の心には終戦はないのである。
 もしかしたら地獄の戦争ゲームから多くの日本兵たちは、この主人公のように未だに解放されていないのだろうか?そのような疑問が湧いてくる。
 他者性に基づき、被害者意識ではなく、加害者意識をもつことが本当の戦争からの人間としての解放である。「卑怯者の島」の主人公には、本当の意味での他者性の意識が認められない。
 悲しいかな、それが小林よしのりの描く戦争の限界でもある。米兵にも家族があり、守るべきものがある。小林よしのりが描く日本兵には、そのような敵を対等な他者として認める視点が欠落している。敵兵である英国海軍422名を救助した日本海軍の軍人である工藤俊作艦長のような武士道に基づいた他者性もない。

 戦争が本当に終わるとは、人々の間に(敵/味方)という区別が消滅し、人間としての平和な日常生活にもどるということである。社会システム論の立場からすると、(敵/味方)の区別そのものがつくれた虚構にしかすぎない。だから、原理上、いつでも廃棄することができる。つまり、戦争ゲームを消滅させることができる
 実は、戦争中にもそういう奇跡が稀に起る。それがドラゴンナイトである。「世界の終わり」が歌うドラゴンナイトの到来である。ドラゴンナイトは、第一次世界大戦時にドイツ軍がフランス軍・イギリス軍と交戦し、戦争中に敵味方の区別なくクリスマスを一緒に祝いあったというクリスマス休戦をモチーフにしていると言われている。
 クリスマス休戦は、クリスマスを祝うテノール歌手の「きよしこの夜」の歌がドイツ陣営から聞こえて来て、フランス軍から拍手が沸き起こり、一挙に(敵/味方)という区別が消滅し、別の区別が生じたのである。戦争という地獄ゲームが解除され、クリスマスを祝う普通のヨーロッパの庶民に戻ったのである。
 ドラゴンナイトに似たような現象は稀に起る。ドラゴンナイトという曲には、世界中の全ての戦場にドラゴンナイトが到来することを願うという平和のメッセージがあると確信している。
 ここで、卑怯者の島にも、ドラゴンナイトが到来する可能性はあったか問いたい。いやむしろ、ドラゴンナイトが到来して欲しかったのである。
 社会学理論上は、ドラゴンナイト現象は、可能である。それは、(敵/味方)を無効にする別の区別が到来した時に起こりうる。社会学者は、社会病理現象である戦争システムを脱構築する技術を開発する必要があるのである。
 
 天から一つの音楽=カノンが降り注ぎ、傷ついた戦場の兵士たちを敵と味方の区別なく癒していき、殺し合うことが正義でないことを知り、武器を捨て、ドラゴンナイトが訪れるのである。

  参考
ドラゴンナイト的な現象には下のようなものがある。
・帝国海軍工藤俊作艦長による敵兵救助
・上杉謙信が武田信玄に塩を送った。
・日本人残留孤児を育てた中国人
・逆襲のシャア
 アクシズの墜落をジオン軍兵士も連邦軍兵士も一緒に防ぐ。
・起動戦士ガンダムのククルス・ドアン
 戦争で子供の親を殺し、ジオン軍から離脱する。
・超時空要塞マクロス 映画「愛・おぼえていますか」
 リン・ミンメイの歌声に敵が文化を感じ、停戦する。

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by merca | 2015-08-16 09:59 | Comments(0)

「仏教思想のゼロポイント」書評 弁証法的思考の欠落

 「日本仏教はなぜ悟れないのか」という衝撃的なフレーズが帯に掲げられ、「仏教思想のゼロポイント」という書物が発売されている。大型新人哲学者の書物らしい。知識人にも受けがよく、よく売れているらしいので、購読してみた。
 これは、仏教入門書というよりも、大乗仏教批判の書であることがわかった。私は、この書について、何が本来の仏教かどうかという視点よりも、論理的に正しいかどうかという側面で批評してみた。
 これは、魚川佑司氏による独特の仏教解釈の書である。大胆にも、涅槃の境地について論理的に述べられている。注意したいのは、魚川氏自身が解脱し涅槃の境地たるゼロポイントに体感的に身をおいて悟りを開いているわけではないことである。つまり、宗教家のように、自らの涅槃に至る解脱体験から、涅槃=ゼロポイントの本質を論じているわけではない。
 あくまでも、この書物は、仏典の解釈にしかすぎない。解脱体験者が書いたものではないので、ある種、説得力に欠くものの、論理構成は簡潔で、非常に分かりやすい。
 分かりやすいだけに、疑問点が露骨にいくつも見受けられたので、それを指摘しておきたい。一言で言えば、魚川氏の仏教解釈における誤謬は、弁証法的思考の欠落である。仏教でよく言われる有無の二偏に囚われている思考のまま仏教を解釈している。

1 「無我だからこそ輪廻する」について
 仏教は輪廻を唱えていないという学説があるが、魚川氏は仏教は輪廻を否定していないと解釈する。仏教が輪廻を否定しないというのは正しいが、その根拠となる論理が半分間違っている。
 魚川氏によれば、無我だからこそ輪廻(変化)していくという。つまり、そもそも輪廻する主体が固定的な実体我であっては、所行無常は成り立たず、輪廻はありえないというわけである。仏教は実体我のみを否定しているのであって、変化する体験我は否定していないというのである。
 しかし、輪廻するものは、完全に無我であっては輪廻しない。論理的には、無であるものは無のままであるからである。輪廻の主体が、実体我であっても完全な無我であっても、輪廻は成り立たない。
 輪廻が成り立つためには、輪廻の主体が有無を離れた存在でなければならない。輪廻する我は、有でもなく、無でもなく、有無を合わせたものでもなく、また有無によらずしては成り立たない同時的弁証法的存在なのである。この論理は、龍樹の中論に説かれている。龍樹に比べると、魚川氏の仏教解釈はかなり浅いと言わざるを得ない。

2 仏教が世界について無記の態度をとる根拠について
 「世界は常住か無常か、有限か無限か」については、仏教は無記の態度をとる。その根拠として、そもそも世界は人の煩悩によって構成された実体のない物語であることをあげている。
 従って、物語としての世界について判断するのはナンセンスということになり、何も答えない、すなわち無記である他ないと主張するわけである。カントのように理性にとって世界が不可知だから、答えられないというのではなく、そもそも世界は煩悩によって構成された物語だというのである。
 しかし、世界は誰か一人の煩悩によって構成されたものではなく、複数の他者との関係によって生成する。つまり、無数の存在の関係たる縁起の法こそ世界そのものである。華厳経でいう事々無碍法界こそが世界である。一つの存在が成り立つためには、無数の他の存在を必要とするような関係である。真なる世界とは、関係そのものであり、関係を否定することは縁起を否定することになってしまう。真なる縁起の世界は、不可思議故に、常住か無常か、有限か無限か、という思議を越えているから、無記の態度をとるというべきであろう。決して、世界が物語だからではない。
 また、物語世界であれば一人の自我で自由自在に作りかえることができるが、縁起の法界は無数の他者との関係によって形成されており、一人の自我では到底自由に作り変えられない世界なのである。世界は、その都度、状態は変化はするが、物語ではないのである。魚川氏の仏教解釈には、世界における他者性が欠落しているのである。

3 「本来性」と「現実性」の二元論について
 魚川氏は、煩悩によって構成された物語の世界と、煩悩を離れた構成されざる無為の境地である涅槃を分け、仏教が目指す涅槃こそ本来性であるという。すなわち、不生不滅の無為の世界としての本来性と、生成消滅する有為の世界としての現実性の二元論を唱える。これは、西洋哲学における本質と現象という二元コードと同じである。
 しかるに、このような二項対立図式は、簡単に脱構築されてしまう。物語世界を否定することで涅槃に至るのなら、かえって物語世界に涅槃が依存してしまうことになるからである。
 そして、論理的には物語世界を否定しても肯定しても、本来性は矛盾を抱えて成り立たなくなってしまう。本来性は現実性を離れてはなく、現実性も本来性を離れてない。この二つは世界の二側面であり、弁証法的に止揚される。大乗仏教でいうところの生死即涅槃、煩悩即菩提という弁証法的論理によって脱構築されてしまうことになる。物語世界に相対することで、涅槃も絶対化できなくなってしまうわけである。涅槃という片方の項の優越性、根源性を主張する魚川氏の二元論の論理では、涅槃が絶対化、実体化されると同時に、逆に劣位の項である現実性に依存することになり、矛盾を抱えって成り立たなくなるのである。
 
 また、涅槃を目指すこと、すなわち一切の煩悩を断つことも、一つの欲=自己愛であり、それ自体一つの煩悩である。その最後の煩悩を捨てるには、利他業=他者愛を組み込むしかない。いわゆる菩薩道である。システム論的に言うと、涅槃を目指すこともそれ自体一つの欲であるという解脱における自己言及のパラドックスについて、(利他/利己)という区別で脱パラドックス化したのが、大乗仏教の菩薩道なのである。
 この点における仏教の進化について、当書を推薦している宮崎哲弥も鈍感なのかもしれない。大乗仏教革命における仏教の脱バラドックス化の意味について、魚川氏は理解していない。真実には、菩薩道を経由することなしに、真なる解脱・涅槃はあり得ないのである。これが、致命的な魚川氏の誤謬あり、同時に小乗仏教の限界でもある。
 
 ともあれ、これは、論理上における本質的な構成主義の難点でもある。(本来性/現実性)というコードに基づいて観察する限り、仏教は単なる心理構成主義ということになってしまう。そして、本来性に基づいて、現実性たる物語世界を相対化し、無限定に現実世界を肯定する立場に行き着くことになる。現実世界は、全て虚構だから、どれを選択しても自由だということになり、結局、何も選択できないニヒリズムに陥る。

 惜しいことは、仏教思想が極めて単純で浅薄な教えとなってしまっている。しかし、魚川氏の観察は、小乗仏教の観察だから仕方ないと言える。結局、ゼロポイントからニヒリズムに行き着くことになるだろう。
 
 ここで、大乗的観点から、ゼロポイントを再解釈しておこう。
 真なるゼロポイントは、単なるゼロではなく、プラスとマイナスの逆方向のベクトルが存在することで、力が相殺されて、ゼロとなる均衡点をいう。
 プラスとしての現実性とマイナスとしての本来性が二つあってゼロになっているのである。本来性だけを否定すると、ゼロではなくなり、現実性が実体化されてしまう。逆に現実性だけを否定すると、ゼロではなくなり、本来性が実体化されてしまう。涅槃の実体化である。従って、対等に本来性と現実性が統合された時に、力のバランスがとれ、真なるゼロポイントが出現するのである。
それが二偏を双照する中道第一義諦たる龍樹の中観思想なのである。
 龍樹のように (本来性/現実性)というコードそのものを脱構築した大乗仏教の方が、やはり思想としては優れていると言わざるを得ない。

   参考
 知性発展段階説
 http://mercamun.exblog.jp/13926104/

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by merca | 2015-07-20 15:45 | Comments(0)

正義からの解放(相対主義の勝利)

 人類は、そろそろ正義という暴力装置から解放されるべきである。社会学的に分析すると、正義という暴力装置は、肥大化すると、世界を破壊する悪魔と化す。実は、絶対化された正義そのものが、社会病理現象である。
 国家や共同体が正義を独占した時に、この社会病理現象は人々に蔓延し、人々を集合的に殺人鬼に変える。国家は、正義を自己目的化してはならない。
 
 正義のために戦争は行われ
 正義のためにテロは行われ
 正義のためにいじめは行われ
 正義のために差別され
 正義のためにバッシングされ
 正義のために排除され
 そして、正義のために、人々は家族、友人、居場所、そして自分も失い、不幸になっていく。

 社会科学に出来ることは、この正義という暴力装置を科学的に解明し、正義の副作用を無効化する処方箋をつくることである。
 ニーチェは、正義を無効化する思想=積極的ニヒリズムを開発したが、この思想は諸刃の剣であり、成熟社会では、もはや十分に機能していない。ニーチェの企ては失敗したのである。
 いかなる正義も自己目的化すると、世界を破壊する力となる。正義は常に相対化されることで、人類社会は平和でいることができる。
 古来より、あらゆる哲学者が正義とは何かという問いを追求して来たが、カントを含めて万人を納得させる結論を出した者は未だいない。相対主義の勝利である。
 神は、決して人間に正義を与えることはないであろう。もし正義を手にした者がいたとしたら、正義に反する者を殺戮する悪魔となるのであろうから。
 プロタゴラスに始まる相対主義は、正義の暴走をとめる優れた人類の英知である。してみれば、正義は、暴力であり、煩悩である。

正義によって煽動されることなかれ
正義への囚われを捨てよ
正義を得たと思った瞬間に、人は堕落し、他者を迫害するであろう
だから、宇宙の法則=相対主義は、人に正義を与えない
もし正義という化物が世界を支配しようとしたら、許しと愛が解毒剤となろう

 参考
 「西洋道徳の本質は暴力」
  http://mercamun.exblog.jp/6329988 
 「アドルフに告ぐ」・・・手塚治虫の反戦漫画
  正義の愚かさが説かれている。

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by merca | 2015-05-06 11:07 | Comments(0)

ヒュームの連合観念説の誤謬

 ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である。要するに、連合観念説によれば、因果律は、人間の習慣的思い込みの結果にしかすぎないというわけである。人間主観が観念と観念を結合させるだけであり、対象の側にはその結合の根拠はないというわけである。
 実は、このヒュームの連合観念説には、大きな誤謬がある。ヒュームは、人間の認識が、結合を本質とするのではなく、区別を本質とすることを理解していない。ここに問題がある。詳しく説明しよう。
 人間は、対象世界を区別して分割して観念をつくりだすのであり、その逆ではない。つまり、不可分の連続する対象を区別して分割し、事物を認識するわけであり、従って区別されたものどうしは、本来、対応関係にある。一方がなければ、他方はないという相互依存関係なのである。人間が無理矢理区別して分離したにしかすぎないわけである。人間は、連続している対象世界を分割して、ひきちぎり、独立した別個の存在として一つの観念を形成するわけである。
 分離観念説が認識の本質なのであり、連合観念説は成り立たない。事物を区別・分離して観念を形成するわけであり、分離された観念どうしはそもそも不可分で関係しており、因果関係は成り立つのである。過去、現在、未来という時間の流れは連続しており、人間が恣意的に分割し、過去、現在、未来という三時の観念をつくりだしたにすぎない。本来、それらの観念が指し示す対象は、不可分の連続である。
 逆にいうと、ヒュームの連合観念説が成り立つためには、一切の存在が孤立的で無関係に存在し、はなから分離されているという形而上学=世界観が正しい場合だけである。しかし、このような無関係的世界観は、そもそも矛盾的で成り立たない。認識主体と対象も無関係だということになり、認識作用が生じて印象や観念が形成されることが不可能となり、認識論の一種である連合観念説もパラドクスに陥ることになるからである。
 ヒュームの連合観念説は、究極的には独我論にいきつく他ない。事物を結合するのが人間の認識であると勘違いしたヒュームははなから間違っているのである。認識論における初歩的なこの間違いに気づかず、未だにヒュームの哲学を信奉する学者がいるのが不思議である。

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by merca | 2014-06-10 22:00 | 理論 | Comments(15)

「科学を語るとはどういうことか」書評 伊勢田氏の誤算

 科学哲学者の伊勢田哲治は、戸田山和久と同じく、疑似科学批判やニセ科学批判で有名である。端的にニセ科学批判者と言えよう。
 伊勢田氏著「疑似科学と科学の哲学」については、ニセ科学批判者のバイブルであり、ニセ科学批判創始者である物理学者の菊池氏も重宝しており、疑似科学に対する両者の考えは、ほぼ思想的に同一である。
 さて、科学哲学と科学者の対談であれば、伊勢田氏と菊池氏の対談がまずは考えられるが、そうではなく、今回出版された「科学を語るとはどういうことか」という対談は、科学哲学に批判的な物理学者の須藤靖氏との過激な対談となっているのである。一体、これはどういうことか?

 伊勢田氏は、クリティカルシンキング(批判的思考)という方法論を選択し、思考の誤謬を正すというかたちで自らの哲学的思索を行って来ており、ポストモダンや社会構成主義などに批判的な立場をとっている。疑似科学とともにソーカル問題に代表されるような思弁的なポストモダン哲学を葬り去ろうとしているのである。
 一方、物理学者の須藤靖は、日頃から科学哲学不要論の立場をとっており、ポストモダン哲学のみならず、科学哲学あるいは哲学そのものを疑問視している。役に立たない目的のない学問として科学哲学を批判する。その過激さは、伊勢田氏を遥かに凌駕する。
 
 このような両者の対談を読ませてもらった。非常に興味ある点があった。同じようにポストモダン哲学を嫌うくせに、互いに分かり合える部分が少なすぎるという点である。
 因果論、自由意思論、反実在論などが論題になったが、伊勢田氏の科学哲学の主張は、悉く須藤氏の科学観からしたら非常にナンセンスであり、意味のないものだとされていく。そして、須藤氏は、哲学議論の本質をほとんど理解しない。
 実は、この分かり合えなさや対立は、科学哲学と科学者の壁というよりも、まずは伊勢田氏のクリティカルシンキング(批判的思考)そのものに原因がある。
 まず、伊勢田氏のクリティカルシンキングは、科学知と競合する知となってしまっている。別の言い方をすれば、クリティカルシンキングは極めて科学的な思考なのである。つまり、現実の科学者の思考の不十分さをより科学的にしようとするために、現実の科学者と対立し、反発されることになる。クリティカルシンキングは哲学内科学である。クリティカルシンキングに基づく科学哲学は、現実の科学に対抗し、科学をより科学らしくせんとする脅威として、現実にいる普通の科学者にはうつるのである。
 伊勢田氏がクリティカルシンキングという方法で「疑似科学と科学の哲学」を著し、不十分な科学とそうでない科学を分別しようとしたことからも、その傾向は伺われる。伊勢田氏の科学哲学が科学的思考による科学哲学であるために、知の競合が起り、かえって須藤氏と対立し、分かり合える部分がなかったのである。
 さらに、クリティカルシンキングによる科学哲学は、実験をすることのない科学的思考である。実験をする科学的思考をする普通の物理学者は、現実の実験データを尊重するわけであり、実験なしに勝手に科学について考えられては困るのである。そのような嫌悪感が須藤氏から見て取れた。科学者は、現実の実験データを根拠とする仮説を正しいとして、理論を構築していき、未来を予測し、実践に生かしていく。
 
 面白いことに、ニセ科学批判者が科学と非科学を分ける基準の重点は、実験ではなく、クリティカルシンキングであるかないかというところにある。ニセ科学批判者は科学の定義の中にクリティカルシンキングを取り入れている。
 水伝問題において、実験ではなく、菊池氏が別の基準で非科学であることを主張したことにもそれは現れている。現実の科学者は実験結果を重視するが、ニセ科学批判者の科学観においては、実験よりもクリティカルシンキングによって解釈されているかどうかのほうが重要なのである。いくら実験しても、それがクリティカルシンキングによって検討されていなければニセ科学となる。実験だけで正しいというなという価値観である。この文脈から、伊勢田氏がポパーの反証主義に否定的であり、須藤氏がポパーの反証主義に賛同したのは、よく理解できる。
 要するに、実験重視の現実の科学者と、実験よりもクリティカルシンキングを重んじる科学哲学者とが分かり合えなかったのである。
 
 伊勢田氏の盲点がある。それは、科学が社会の近代化の中で誕生した知であるという事実である。社会を抜いた科学論は空虚である。近代化(社会分化)とセットにしないと、科学は語り得ない。
 社会学的観点から科学について述べると、近代社会から科学に求められている機能は、人々に共有の真理を提供することである。この場合、科学哲学的に本当に真理かどうかは関係なく、人々が真理だと認めて共有でき、実用できることの方が大切であり、理性的啓蒙であるクリティカルシンキングの基準とは全く異なる。真理の機能に着目して科学の価値を捉える、このような立場を社会学的啓蒙という。
 社会学的観点からは、科学者は科学哲学的思考に準拠せずにひたすら実験を重視して役割遂行することで、科学的真理の生産に寄与することになる。科学哲学に煩されることなく、科学的研究に没頭できる。その意味で科学哲学を嫌う須藤氏の価値観は科学者集団の価値観に極めて適合的である。
 このように、社会分化に伴う役割関係に無知であることから、伊勢田氏は対立の真なる原因=社会的原因を認識できなかったのである。
 伊勢田氏の誤算は、クリティカルシンキングが実験を懐疑する手段としてはたらき、実験を重視する現実の科学者集団の社会的エートスに反することが分からなかったことである。伊勢田氏は、社会学的啓蒙を学ぶ必要があるのである。

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by merca | 2013-07-15 17:29 | Comments(0)

「バウマン社会理論の射程」書評 他者性の社会学は可能か?

 ジグムンド・バウマンと言えば、液状的近代(リキッドモダニティ)というポストモダン社会論で有名である。しかし、社会学者中島道男は、著書「バウマン社会理論の射程」において、リキッドモダニティ論以前のバウマンの道徳論にこそ彼の思想の本質があると主張している。
 まず、同著においては、バウマンの道徳論は、道徳の起源について、デュルケームの道徳社会学と全く反対の立場にあることを明確にしている。簡単に言えば、デュルケームは、道徳の起源を共同体に求めており、バウマンは他者(レヴィナスのいう)に求めているというわけである。また、中島氏は、この対比は、コミュ二タリア二ズムとリベラリズムの区別にも対応すると指摘している。ただし、デュルケームの道徳社会学がコミュ二タリア二ズムと対応するのはわかるが、レヴィナス流の他者論倫理学は単純にリベラリズムに対応しているとは言いがたい。リベラリズムは、共同体と離れた個人を単位とするものの、個人のエゴイズムと切り離せない概念であり、同じ個人でも、他者論倫理学の利他的な個人とは似ても似つかないからである。
 このような概念の未整理はあるものの、中島氏のバウマン解釈は、社会学に関わる根本的なテーマを提示している。それは、共同体を離れた単独者どうしの顔と顔の関係が社会科学の領域に属するか哲学の領域に属すると考えるかという難問である。パーソンズやミードなどの通常の社会学の考え方からすると、道徳は、社会共同体の教育によって個人に内面化されるわけであり、道徳は社会によって異なるとする相対主義をとることになる。しかし、他者論倫理学の立場からすると、倫理や道徳は、社会共同体とは関係なく、顔としての個人と個人の非対称的かつ単独的な関係で生ずることになり、人類世界の普遍的な倫理が存在することになるのである。つまり、社会学の道徳論は相対主義であり、他者論倫理学は絶対主義である。倫理と道徳においては、社会学の相対主義が正しいのか、他者論倫理学の絶対主義が正しいのかという本質的テーマを投げかけてくるのである。果たして、普遍的かつ絶対的倫理が生ずる他者論倫理学の領域は、社会学の領域に入るのであろうか? このような疑問がわいてくるのである。
 ちなみに、中島氏によれば、これと対応して、社会批判も二種類あるという。内在的社会批判と外在的社会批判である。内在的社会批判とは、社会共同体の歴史や伝統に照らし合わせて現代社会を批判する方法である。例えば、小林よしのりのように、日本には古来からの価値観や風習があり、現代日本社会はそこから外れており、正すべきという論法がそれである。この場合、他の共同体の歴史や伝統を基準にせず、あくまでも自己の所属する共同体の歴史と伝統を基準にすることになる。従って、道徳も、日本、アメリカ、中国、韓国、アフリカでは異なってくることになり、文化相対主義となる。保守主義者は本来相対主義者なのである。西部邁がその典型である。
 一方、外在的社会批判とは、共同体を離れた普遍的な価値から社会を批判する立場である。例えば、自由と平等という人類に普遍的だと思われている価値に基づく人権思想や民主主義の立場から、独裁制国家の人民殺戮や搾取を批判する場合である。また、ブッダがカースト社会の階級差別を批判したのも、生命の平等という普遍的価値からである。
 中島氏が提唱するこの二つの社会批判の区別は、思想地図をつくる上でもっとも有効な手段となると思われる。
 
 話はそれたが、他者論倫理学は、共同体の歴史や伝統とは無縁であり、単独者どうしの関係において、普遍的に「汝殺すことなかれ」という倫理が生ずるという考えである。バウマンは、この立場に立ち、ナチスドイツのホロコーストを批判した。近代官僚制が、顔と顔の関係を隠蔽することで、個人の責任感覚や倫理観を希薄化させ、ユダヤ人虐殺を可能にしたというのである。社会学が現代社会を批判する「公共哲学としての社会学」を目指すのなら、文化相対主義に基づく内在的社会批判だけでいいのかという問題が出てくる。これは大きな問題である。

 この問題は、人間存在の二重性とも関わってくる。人間は、役割を持つ共同体的存在であると同時に、世界に一つしかいない単独者でもある。「私は教師である」という判断においては、「私」は単独者であり、「教師」は共同体内の役割である。レヴィナス流に言えば、役割存在は「他者とともにあること」に対応し、単独者は「他者のためにあること」に対応している。前者は他者とともに共同体を維持してく側面であり、後者は共同体とは関係なく、他者に関わっていることを示している。
 ポイントは、単独者は独我でなく、かえって他者との関係によって成り立つ倫理的主体だということである。他者から呼びかけられたら、他の誰でもなく、この私に呼びかけられており、その他者に返事するかしないか選択を迫られることになり、そこに世界に一つしかない私という存在が意識されることになる。「私は私である」という判断は、他者からの呼びかけによって可能となるわけである。独我では、私は成り立たないのである。一方、「私は教師である」という判断は、私の判断ではなく、共同体の判断によって可能となる。
 このような絶対主語と述語の連結こそが人間存在の二重性を意味しており、実は社会生成の根本的条件をなしている。ちなみに、「私は教師である」という判断をしても、実際に教師としての役割を演じなければ社会共同体は生成しない。個人には演じることをしない選択の自由があるからである。これを自己選択性という。そして、他者の自己選択性は自己にとっての他者性として立ち現れる。
 問題は、この二つの側面が矛盾対立するものであるかどうかである。現代の社会学理論の構築に成功するかどうかは、この二つの側面をうまく取り入れることができるかどうかにかかっている。
 実は、パーソンズですら、規範主義パラダイムに準拠しながらも、ダブルコンテンジェンシーというかたちで他者の偶然性を取り入れている。ルーマンは、社会システムの要素を個人ではなくコミュニケーションにすることで、この問題を処理している。ゴフマンは、役割距離という概念で個人と役割の差異を描いた。
 現代社会学では、「私は教師である」という判断と役割遂行は、役割概念を適用する具体的な他者の判断や自己の選択にも委ねられており、コミュ二タリア二ズムが言うような自動的で強固に安定したものではない。政治学、法学、経済学の出身の学者がよくコミュ二タリア二ズムと社会学を同一視しているが、コミュ二タア二ズムと社会学を同一視するのは間違いである。社会学は、共同体を記述するだけではなく、他者の偶然性や自己選択性を含む人間存在の二重性も理論に組み入れようとしているのである。共同体のロボットとして人間を捉えているわけではない。
 ただし、単独者と単独者の関係を他者の偶然性や自己選択性というかたちではなく、倫理として捉え返し、共同体を越えた普遍的倫理として観察する社会学者はほとんどいない。中島氏が指摘するとおり、バウマンのみである。社会共同体の道徳は、その社会共同体の役割と地位の体系に付随する価値内容を観察すれば記述でき、その内容を明確化しやすい。一方、顔と顔の関係あるいは単独者と単独者の関係においては、どのような方法でその普遍的形式を記述したらいいのかわからず、明確な社会の倫理道徳として確立するのは困難かもしれない。しかし、何らかの普遍的な一定の形式構造があると考えるのなら、それを倫理として普遍化することで、内容をもつ人類の普遍の倫理道徳となると思われる。個と個の関係の論理的かつ普遍的構造は、ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界、ナンシーの無為の共同体など、形而上学的探求はなされているが、これを現実の社会構造を批判するために使用するのは見たことはない。
 しかし、私見では、それは可能であり、共同体の道徳内容が顔と顔の普遍的な関係性に反する場合、それを批判するというかたちで、「公共哲学としての社会学」が成り立つのではないかと思われる。これは私が究極的に目指す立場である。ただし、それは自然科学的方法とは全く異なる。
 ちなみに、この方法が確立すれば、倫理学や道徳学において、構造構成主義的発想はいらなくなる。社会学を悩ませてきた原理性相対主義はここに克服されるわけである。

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by merca | 2013-01-14 13:07 | 理論 | Comments(0)