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盛山和夫著「社会学とは何か」書評

 一人の大物社会学者が真っ正面から社会学について論ずる一つの書物を書いた。それが、盛山和夫著「社会学とは何か」である。盛山氏には、「制度論の構造」という名著があるが、それを発展させたかたちになっている。以下、同著の批判的検証をしてみたい。

1、社会観念説
 盛山氏は、社会は実在するものではなく、人々が共有する理念的な意味世界であるという考え方から議論を組み立てている。社会に実体がないという発想は、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるという社会構築主義をはじめとして、意味システムとしてのルーマンの社会システム論や大澤真幸が唱える第三者の審級論にも見られる。ただし、森山氏が社会に実体がないという時、それは人々の心の中にある観念的存在ということを意味しており、社会構築主義のようにつくられた存在とか、システム論のように創発された存在とかという意味ではない。この点の区別は、正に要注意である。つくられた存在だから実体がないというのではなく、観念的存在だから観察可能な物理的実体がないということである。
 一方、システム論においては、社会は人々が共有する観念そのものではなく、行為やコミュニケーションとして観察可能なかたちで現象化・創発化し、実際に人々の認識に立ち現れる現象として社会を考えている。単に観念を保有している状態は何ら社会ではない。実際に、その観念に準拠して行為やコミュニケーションがなされないと、社会とは呼ばない。共有観念=社会ではない。共有ではなく、実演され、共演されないと、社会ではない。
 社会を曲に例えるのならば、盛山氏は楽譜がそのまま曲であると考える勘違いをおかしている。曲は演奏されてはじめて曲となり、それを聞くことで人々ははじめて曲を知るのである。別の例えを使うのなら、盛山氏は、建築物の設計図がそのまま建築物だと思い込んでいるようなものである。演奏されることで曲ははじめて曲となり、建築物はつくられることではじめて建築物となり、同じように社会も演じられることで、はじめて社会として生成するのである。人間社会が生成するためには、意味世界としての観念が必要であるが、社会イコール観念だと考えるのは間違いである。社会には実体がないが、かといって観察不可能な虚構存在ではなく、観察可能なかたちで立ち現れるものなのである。ただし、社会学理論という観察道具を使用した者(社会学者)のみが社会を正確かつ明快に観察できるわけであり、素人にははっきりと見えない。社会学がセカンドオーダーの観察であるとルーマンが喝破したごとくである。単なる統計調査ではなく、社会学理論という観察道具のほうが社会学にとっては、より根本的な観察道具であるということも付け加えておきたい。

2 社会学の方法 
 盛山氏が主張するように、社会が意味世界ならば、社会学の方法の本道は、数量的な統計調査ではなく、人々の内面的世界を理解する調査ということになる。というのは、もし社会が意味世界ならば、それは本質的に数量化できるものではないので、理解するものになるからである。人々の共有する観念をよりよく理解し、解釈することが社会学の本道となる。つまり、これは、端的にいうと、ウェーバーの理解社会学の方法である。
 しかし、となると、統計調査の役割は、せいぜい一つの観念がどれだけ多くの人に共有されているかという意義しかもたなくなってしまう。さらに、女性の方が男性よりも喫煙率が低いとか、高所得者のほうが低所得者よりもエンゲル係数は低いとかという類いの調査は、社会調査ではなくなってしまう。社会を調べることイコール人々の所有する共通観念だとしたら、そのような調査は社会についての調査ではなく、単なる経済調査にしかすぎなくなってしまうわけである。
 無論、私は、自然科学的方法では、社会の本質は捉えることはできないという点については、大賛成である。社会を記述するとは、必然的に社会創発のための種となる意味世界の理解なくしてはあり得ないからである。社会システムの要素であるコミュニケーションは、他者の意味世界=観念による了解なしには成り立たないのである。単なる統計調査で社会を記述したと勘違いしている学者が多いなか、社会を観察するには、観念の理解を伴うという点を重要視する盛山氏の視点は重要である。

3 規範的秩序の外存性・拘束性
 規範の特徴は、人々を外から拘束して一定の行動へとしむけることにある。しかし、盛山氏の議論では、規範的秩序の外存性・拘束性が十分に説明できていない。社会が人々の共有観念だとしても、その観念が規範として働く仕組みが説明されなければならない。規範として働くとは、規範が期待する内容に合致すると他者(みんな)から肯定され、それに外れると他者(みんな)から否定されるということである。要するに、賞罰があるということである。そして、規範があたかも人を動かし、規範自らに賞罰を人々に下す力が宿るように思えたときに、はじめて一つの観念は規範化される。その意味で、神の観念は、規範の最高形態である。人々は神の観念を共有することで、善行をなし、悪行をなさないのである。規範としての神は自己の外にあり、自己を拘束する者として人々に表象される。
 しかし、真実は、規範が外存性・拘束性をもつ原因は、規範自身にあるのではなく、他者の反応たるサンクションにあるのである。他者のサンクションこそが規範を構築・維持させるものなのであり、規範があるからサンクションがあるのではない。元来的に他者は自己の外にあり、外から制限を加えてくる存在であり、その他者を一般化した観念が規範であるからである。ちなみに、大澤真幸のいう、第三者の審級がこれにあたる。
 ところが、人々は、他者のサンクョンが原因で規範が結果であるのに、規範が原因で他者のサンクョンが結果であると、転倒して考えてしまうのである。この転倒的錯誤こそが物象化作用と呼ばれるものであり、規範を強固に規範たらしめる根源的仕組みである。
 規範の成立根拠がもともと多数の他者からのサンクョンだとすると、社会(規範)の外存性と拘束性は当然のことであり、社会が個人の外に存在するという意識は正常なのである。ミードの説に従えば、多数の他者からの反応をまとめあげて他者一般が内面化され、規範として機能するのである。他者一般を平たく言えば、「みんな」という観念である。この「みんな」という観念に準拠してコミュニケーションが創発されたときに、社会は生成する。お金を払えばみんな商品を受け取ることができるとか、人から物を盗んだらみんなから非難されるとか、全てのコミュニケーションは、メタコードとして(みんな/みんなでない)に準拠している。みんなという観念に対応する外的対象は、これまで体験した外部の他者の反応であり、完全に対象物をもたない虚構観念ではない。外存性と拘束性の源は、みんなという観念にあるのだが、盛山氏は説明が十分でない。
 ただし、役割存在として外的対象を認識するとき、その対象以上の内容が付与されて認識されるという盛山氏の指摘は貴重である。大人として認識された人は、実際に大人としての振る舞いに欠いていても、大人としての振る舞いを期待されることになる。このような仕組みは、廣松渉の認識論の四肢構造で解き明かされている。廣松渉の認識論の四肢構造においては、究極的にいかなる純粋な客観的事物も世界には存在しない。人は、生の認識対象物に対してそれ以上の意味を付与する。商品を店で買うときに、客は店員を単なる人ではなく、特定の役割を帯びた存在として認識する。商品について聞いたら、その値段を教える存在だと思う。この属性は、店員がつくったものではなく、社会的に生成されたものである。人は、事物を「として」というかたちで認識する。この役割認識をみんなが共有しているはずであると思い込むことで、コミュニケーションが生成される。しかし、自己の目的のために道具的な「として」というかたちで利用するのと区別をつけておく必要がある。あくまでも、みんなが了解しているということが規範として作用するのには重要なのである。役割を付与するのは自己ではなく、みんなであるということで、はじめて規範となるのである。このみんなという観念の対応物は、外部の他者の反応であり、対応物のない純粋な虚構的観念ではない。役割体系を規範として支えるのは、みんなである。他者一般という観念が人の頭のなかにしかないとうことで社会を理念的ものと断定してしまうのは早計であり、その外的対応物はきちんとあるのである。
 つまり、社会には固定的実体はないが、外に存在し、拘束してくるというのは、ある意味、正しいのである。デュルケームが社会は人々の頭のなかにあるといいつつも、社会的事実は外存性・拘束性をもつと言わざるを得なかったのは、当然である。他者一般は観念として人々の頭のなかに出来上がるが、それはもともと外部の他者からの反応からできあがったわけであるから当然なのである。ただし、社会そのものは人々の頭の中の観念だけではなく、それを人々が選択・利用してコミュニケーションとして観察可能なかたちにならないと、生成しないことを、重ねて釘を刺しておきたい。この点の誤解が社会学に大きな混乱をもたらしているのである。
 社会規範が外存性・拘束性をもつ根拠は「みんな」という観念であり、その観念に基づいてコミュニケーションが生成されることで、さらに規範は外に立ち現れ、拘束するものとして、人に観察され、人は規範を再内面化するのである。この循環過程は、バーガー著「社会的世界の意味構成」で明かされているのである。それは有名な「外化・客観化・内在化」という社会構築主義の公理である。

  参考
 機能主義が人々の主観的意味世界を離れて、外的視点から社会の機能を特定し、その機能を維持するために社会秩序があると記述する場合があるが、そのような視点が単なる学者の意味世界として相対化されないなら、一つの社会科学的立場を確立できると考えられる。
 社会成員を再生産する装置として結婚・教育があるといった場合、それは人々=当事者の意味世界とは関係なく、主張できる理論である。社会内当事者の意識や意味世界とは関係なく、社会というものが客観的実体として存在するという理屈である。このような客観的機能主義を完全に否定しない限り、盛山氏の社会観念説は成り立たないと思われる。また、機能主義が完全に否定されないのなら、社会統計が社会学の有効な手段となると思われる。社会統計を重視する社会学者太郎丸氏がその点に敏感だと思われる。その点の克服については、ギデンズの二重の解釈学を読まれたい。外的視点と当事者の内的視点の統合こそ、社会学の役目だとするギデンズの理論がある。合わせて、ハーバーマスの(生活世界/システム)という区別も参考にされたい。

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙 
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by merca | 2012-12-24 17:27 | 理論 | Comments(0)

善悪(利他/利己)の対称性の破れ

 一応、善を利他と定義し、利己を悪と定義して考えてみたい。時折、人間は、善=利他心と悪=利己心の駆け引きが心の中で起り、行為の選択を迫られる。所謂、良心の呵責である。そして、天使と悪魔のささやきのどちらに組するのか決めるのは、本人自身である。実は、この自己選択性こそが倫理的行為の大前提である。
 他者論的倫理学からすると、天使の声とは、端的に他者の声と言えよう。助けを求めている他者を自己の都合をよりも優先させたり身代わりになって助けるかどうかの決断を迫られるわけである。自己の都合を優先させると、悪をなしたことになり、自己を犠牲にして他者を助けたら善をなしたことになる。
 
 いずれにしろ、人間は性善説でも性悪説でもなく、悪と善を含みつつも超越し、選択できる立場にあるというわけである。もう少し言うと、悪の心を完全に排除した善行は、善悪に関する選択性を欠くことになり、倫理的行為とはならない。悪の誘惑を断ち切って善を選択したときにこそ、本当の意味での尊い善行=倫理的行為となる。
 人間は性善説でも性悪説でもないと言ったが、善が悪よりも少し勝っているのが人間的真実である。この対称性の破れを説明しよう。善と悪の心が人間にあり、もし勇気を持って善を選択したのなら、一時的な自己の利益は失うが、悔いは残らず、すっきりと人生を歩むことができる。しかし、もし悪を選択したら、一生自己の善の心によって罪悪感に苛まれることになるのである。悪を選択しても、最初から善の心がある以上、罪悪感が人を責め続けるのである。戦場で上官の命令でやりたくない殺人をやってしまった兵士は、一生罪悪感で苛まれるのである。それは、悪をなしても、もともと善の心があるからである。罪悪感と償いの感情は利他心の現れである。この意味で、選択性に基づく悪は、善悪の葛藤のない単純な善行よりも倫理的である。ある意味、選択性があれば、善悪ともに倫理的行為である。そこで、次のような価値序列を立ててみた。
 
 選択性を媒介とした善行が一番目に価値があり、選択性を媒介とした悪行は二番目に価値があり、選択性を介在としない善は三番目に価値があり、選択性を介在としない悪は一番価値がない、という道徳的価値序列をつけることができるのである。
 良心の呵責や罪悪感なしに人を殺す者は最低である。かたや、自己の所属する共同体からの制裁(悪の誘惑)があるにもかかわらず、あえて他者を助ける者こそ、最高善をなすものであり、この世で一番美しい倫理的行為なのである。罪悪感をもちつつも悪をなしてしまった凡人たちは、この最高善をなした者を敬い、信仰するのである。それが許しとなるのである。ニーチェはこのことに最後まで気づかなかった愚か者である。

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by merca | 2012-11-30 11:12 | 反ニーチェ | Comments(1)

多原因相対主義の宣揚(究極の平和思想)

 一つの現象は、一つの原因から生ずるのではなく、多数の原因があってはじめて生ずると考える。これを多原因論という。例えば、仏教では、因縁説をとり、一切と一切が関係してはじめて一つの現象が生ずると説く。また、社会病理学の分野でも、犯罪非行、少子化、いじめ、虐待、貧困、戦争などの社会病理現象については、多原因論が正しい。貧困の原因は、失業のみならず、失業プラス他の複数の原因から起る。複数ある原因から一つの原因だけを絶対化し、あたかもその原因だけで現象が生ずると考えるのは、間違っているのである。ある一つの原因だげが一つの結果をもたらすと考えてしまうのは、認識主観の価値観による選択化にしかすぎない。
 
 一輪の花が咲くのは、空気があり、水があり、太陽からの光があり、土があるなど、自然界の複数の要因が重なってはじめて可能となる。自然科学の世界においても、多原因論は正しい。水だけで花が咲くと考えるのは間違いなのである。また宇宙がなぜ生じたのかというのも、多原因なのである。物理学は一つの理論で宇宙の成り立ちを説明しようとするが、それは原因の一元化という人間理性の誤謬である。同じく、社会がなぜ生ずるのかというのは多原因なのである。しかるに、法則科学は、現象を抽象化し、単一原因論に準拠し、自然界を記述する。例えば「石を投げたら地面に落下した。」という現象の原因は万有引力の法則から一元的に説明されるわけであるが、石を投げた人物の自由意志という原因は無視されている。石を投げるというその人物の心の決定がなければ、その石は投げられることもなく、落下することもないのである。
 このように、科学的説明においては、一つの現象が成り立つために必要な一つの原因だけがピックアップされ、他の原因は全て隠蔽されてしまうのである。具体的現象を抽象化することで、一つの原因を取り出し、一つの結果と結合することで、因果法則は構成されるのである。そういう意味では、科学が発見した全ての因果法則は、人間が独自の観点から自然界から抽象化して構築されたものにしかすぎない。厳密に言えば、ある視点から切り取られた人間の主観の産物である。
  
 ありのままの現実世界は把握しきれない無限の多原因からなる複雑な世界である。ありのままに世界を観察するとは、一つの原因を絶対化せずに無数の多原因を受け入れることである。つまり、全ての原因は等価であり、等しく価値があるとする究極の相対主義をとることである。このような全ての複数ある原因が存在論的に平等であるという立場を、多原因相対主義と呼ぼう。
 多原因相対主義の宇宙観は、仏教の縁起思想と同様に、宇宙に役に立たない存在は何ひとつなく、一つの存在が欠けるだけでも宇宙全体が成り立たなくなるという考えとなる。世界に一つしかいないあなたは尊いとするオンリーワン思想とは別の仕方で、全ての存在を肯定する思想を構築することが可能となる。一切が一切と関わることで宇宙全体は成り立ち、どの一つの存在も平等に必要であり、尊いことになる。
 
 しかし、複雑系科学を多原因相対主義と勘違いしてはならない。複雑系科学は、無限なる要素間の相互作用から一つの創発特性が生ずると説くが、多原因相対主義とは異なる。なぜならば、自己の外部の環境要因が排除されているからである。一つの創発特性は、自己のシステムの内部にある要素間の関係だけではなく、その外部にある存在との関係も必要とするのに、それが排除されているのである。あたかも自己の内部にある要素間の関係から自己が成り立つような記述になっている。やはり、ここでも抽象化が起きている。一輪の花が咲くのは、一輪の花を構成する細胞間の相互作用から成り立つと考えており、空気、水、光、土などの外部の要素を無視していることになるのである。やはり、複雑系科学も科学にしかすぎず、抽象化の産物なのである。
 自己組織化システム論の欠点は、自己の内部の要素に特権を与え、自己の外部の存在や要素が自己を支えているという観点を無視し、多原因的世界観を貫徹していないところにある。要素が要素を産出するという考えにそれが露骨に現れている。

 科学思想は、一つの原因を選択化し、他を必要なく排除するという争いにあけくれるが、一方、多原因相対主義は正反対である。
 一つの存在が存在するためには一切の存在が必要であり、一切の存在が存在するためには一つの存在が必要である。このような立場に立つ多原因相対主義は、他を排除しない争いのない究極の平和思想をもたらすのである!!

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by merca | 2012-08-07 09:25 | 理論 | Comments(0)

社会学の科学力

 社会学は役が立たない学問であるとよく言われている。その科学性が未熟である故に、実学になり得ないというのである。この考え方に少し待ったをかけておきたい。というのは、科学の公準の一つである予測性という意味においては、かなりの精度をもつ理論があるからである。
 社会学について、予測性を語るのなら、大凡、四つの次元に分けることができる。

   1 行動(コミュニケーション)の予測性
   2 社会構造の変動の予測性
   3 価値意識の変動の予測性
   4 社会階層におけるライフコースの予測性

 行動の予測性はコミュニケーション・システムに対応し、社会構造の変動は社会システムに対応し、価値意識の変動は意識システムに対応し、ライフコースの予測は社会階層システムに対応している。簡単に言うと、人がどのように動くか当てることができ、社会がどうなるか当てることができ、人々がどう考えていくようになるのか当てることができ、人がどのような人生を歩むのか当てることができるということである。

1 社会学における行動の予測性について
 社会学は、様々な社会理論を使うことで、人の未来の行動を当てることができる。
 ある人間がコンビニに行き、商品をレジにおき、店員にお金を渡したとする。社会学からは、店員の次の行動は予測ができる。店員はその人を客として認識し商品を渡すことになる。また、警察官が赤信号なのに通過している原付バイクを運転している若者を見つけたとする。社会学からは、警察官が原付バイクを運転している若者を捕まえにいくことは予測できる。
 前者の売買行為については、合理的選択理論や権力の予期理論によって説明ができる。もし店員が代金を支払った客に商品を渡さないのなら、店員は客から訴えられ店長から怒られ解雇される可能性があるので、商品を渡すという行動にでるわけである。商品を渡さずにお金だけもらうという行動は選択せずに、商品を渡すのである。後者の警察の取締行動については、パーソンズの役割理論から簡単に説明がつくことになる。違法行為を取り締まることが警察官の役割内容だからである。

 一般に誰がどんな社会状況で誰に対してどんな行動したかを代入することで、その行動に対する反応行動を予測することができる。しかし、よくよく考えると、基本的に人々の自己選択・自由意思という偶然性からコミュニケーションが創発されているにもかかわらず、このような必然性が生み出されていること自体が一つの妙なのである。そこで、社会の必然性そのものも、つくられたものであるという観点を社会学はとる。社会の偶然性から社会の必然性をつくりだす装置のことを、物象化という。物象化は、貨幣、真理、権力、愛などの一般化されたコミュニケーションメディアというかたちで作用する。

 秩序が乱れている不安定な社会では、売買行為も警察の行為も、より不確定となり、必然性の度合いが低くなり、人々の行動予測が困難となるが、秩序が安定化した社会では、必然性の度合いが高くなり、人々の行動予測が可能となる。ルーマン社会学では、偶然性を低くすることを複雑性の縮減という。
 要するに、社会の安定性によって、予測性は変わってくるわけであり、社会学の予測能力という科学力も、各国民社会の状態ごとによって異なり、相対的なものなのである。自然科学の絶対的な予測能力とは異なる訳である。ただし、物象化装置そのものの作動の度合いは社会学のみが分析しうるのであり、国民社会ごとの社会診断は可能である。一般に、より近代化した社会すなわち機能分化した社会ほど、社会の必然性は高まるのである。
 もし日本社会でいうのなら、どこの地域のコンビ二においても、お金を支払えば、商品を渡すという行動が予測できるのである。金を支払う=原因が商品を渡す=結果は、必然であり、誰でも予測できるのである。社会学者のみならず、一般市民も他者の行為を予期することができ、社会は回っているのである。しかし、このような社会法則は単に維持されているにしかすぎないことを忘れないのが、社会学者が専門家である所以である。
 ちなみに、ジョンレノンがイマジンで、国家も人々の思い込みで維持されているにすぎないと喝破したのは驚くべきことである。イマジンは、再帰的近代化意識による社会学的啓蒙の一つである。

2 社会構造の変動の予測性
 社会構造とは、社会階層、国家、市場、組織体、家族、地域共同体などの一定の関係を指し、その関係の変化を予測できるかどうかが、社会学の科学力が問われるところである。社会変動論の中核は、近代化論である。近代化しつつある社会は、近代社会特有の構造をもつことになる。例えば、近代化が進めば、家族形態は、三世代家族から核家族になり、家族は生産ではなく、消費の単位となる。このような構造上の変化は、マクロ社会学的に予測可能である。社会学の近代化理論からすると、近代化しつつあるアジア社会の変化は予測できる。マルクス主義の社会変動論よりも、社会学の社会変動論のほうが、明らかに科学的なのである。

3 価値意識の変動の予測性
 人々の価値意識がどのように変化していくのか予測するのも社会学の役目である。基本的には、これも近代化理論によって予測可能である。自由や人権感覚の価値意識、男女平等の価値意識、民主主義を肯定する価値意識、個人主義などの価値意識が人々に内面化していくのである。近代化しつつあるアジア社会の価値意識の変化はこのように予測できる。

4 社会階層におけるライフコースの予測性
 ある特定の社会階層に生まれた者やある特定の学歴を取得した者が、どのような社会的地位につくのか予測できる。これは、ブルデューのハビトゥス論、文化的再生産論によって予測可能である。例えば、日本社会では、建築作業員のヤンキーの子は、学校で勉強ができなければ、ヤンキーになり、やはり建築作業員等のブルーワーカーになる。このような文化的再生産は頻繁に起っている。小学校の先生が家庭環境と本人の生育歴から類推してヤンキーの子がヤンキーになることを当てることができるのはそのためである。親の社会階層と家庭環境、それに能力と学力を掛け合わせると、大凡、その人が背負っている社会的宿命を予測でき、職業選択を含めたライフコースを予測できるのである。

まとめ
 臨床社会学の分野では、おそらくもっとも行動予測力が高く一般化できる実学は、やはりパーソンズの行為の準拠枠か宮台氏の権力の予期理論である。心理学理論よりも人の行動を予測できる科学力があると考えられる。宮台の権力の予期理論は、正確な個々の変数を代入することで、個人の行動を予測することができるのみならず、社会生成のメカニズムを同時に解明しているところに素晴らしさがある。宮台氏の権力の予期理論は、社会学における相対性理論と言っても過言ではない。

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by merca | 2012-03-04 11:18 | 理論 | Comments(2)

後発的近代化論と世界社会論による愚民社会論(宮台・大塚対談)批判

 宮台真司と大塚英志の対談をまとめた「愚民社会」という書物が社会に出ている。愚民社会といういかにも民衆をバカにしたタイトルのように思えるが、実際のところ、内容もそのとおりである。
 まず、宮台氏と大塚氏は、近代化をすべきだという点において、共通の目標をもっている。端的にいうと、日本社会は近代化に失敗しており、日本人は愚民のままであるという。愚民とは「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」という三つの特徴をもつという。さらに皮肉を込めて愚民ではなく、二人とも土人という用語を使用している。宮台氏は、この三つに対して、「引き受けて考える社会」「知識を尊重する社会」「善いことをすると儲かる社会」を提案し、近代化を完成させる社会的処方箋と考えている。特に、個人ではなく、地域自治体を主体とした自立的共同体にその可能性を期待している。
 大塚英志に至っては、阪神大震災と東日本大震災の両方の被災者に対して、行政を頼りにする点において、愚民だと思っているようである。例えば、原子力発電所の津波による被害の可能性などは、震災前から共産党の赤旗などで流されていたわけであり、情報を収集をしなかった方が悪いという論調である。
 
 さて、果たして、このような近代化の失敗が全ての諸悪の根源であるという仮説は今更成り立つであろうか?そもそも近代化が失敗したと言えるのだろうか? またこれまで、宮台氏は、現代日本社会を成熟社会つまり後期近代社会として論じてきたが、日本社会がそもそも近代化した社会ではないのなら、宮台氏の成熟社会論は破綻することになる。
 
 結論からいうと、社会学の権威である富永健一の近代化論などの正統派社会学の立場からすると、現代日本社会は、近代化した社会であり、後期近代社会=成熟社会である。ただし、西洋諸国と異なり、後発的近代化というかたちで近代化が進んできた。社会学者富永健一によれば、欧米社会の近代化が、社会的近代化と文化的近代化から始まり、政治的近代化を経て経済的近代化へと進展したのと反対に、日本社会を含むアジア社会の近代化は、経済的近代化から始まり、政治的近代化を経て、社会的近代化と文化的近代化が進んだという。このことは、欧米社会と日本社会の歴史を少しでも紐といてみれば明らかである。西洋社会では対人関係のスタイルや思想などの分野から近代化から始まるわけであるが、日本や中国などの後発近代化社会では経済や政治という社会の構造(システム)から始まり、対人関係のスタイルや思想が近代化されるという順番となる。
 
 この分析からわかるように、日本社会では、宮台氏が指摘する「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」などという人々の心の習慣は最終段階で近代化されることになる。なので、社会変動論的には、後発的近代化社会においては、これは当たり前の現象なのであり、意識面における近代化の遅れの原因を日本人の文化的特性に帰属させるのは社会科学的には誤りである。
 宮台氏と大塚氏がこのような誤謬に陥るのは、西洋社会の近代化モデルにとらわれているからである。近代化には多様なかたちがあると認める後発的近代化論の立場からは、近代化を西洋モデルだけで判定しようとする両氏の愚民社会論は成り立たない。愚民社会論を唱える両氏は(西洋/非西洋)という区別に準拠し、西洋をマークし、その観点から日本社会を観察しているにすぎない。

 さらにいうと、もう一つの盲点がある。それは、小林よしのりと同様に、両者の議論が国民社会だけに準拠した議論になっている点である。両者の議論の対象はあくまでも、日本社会に限定されており、従って頻繁に天皇制や自治的共同体とか、あるいは三島由紀夫や柳田民俗学などの国民社会レベルの事柄が論じられている。しかし、近代化が進み、後期近代社会になると、コミュニケーションは世界規模になる。全体社会は国民社会ではなく、世界社会となる。震災時に世界からの援助やメッセージがあったのは無視できない事実である。また、一つの国民社会が滅亡しようとしても、多数の他国が必ず介入し、人々を支援したりする。
 意識しようがしまいが、今や世界の人々は国際社会=世界社会に支えられて生きている。経済(市場)、政治、法律、宗教、科学、スポーツ、恋愛など、一つの国民社会を越えて、コミュニケーションが創発されている。我々は国家が統治する国民社会の中に生きている前に、世界社会の中にいるのである。ルーマンやボルツが全体社会がもはや国民社会ではなく、世界社会であると喝破したごとくである。ポストモダン社会は世界社会が範囲となるのであり、国民社会ではない。ここでも、両者は(国民社会/世界社会)という区別に準拠し、国民社会維持という観点から愚民社会論を唱えているのである。

 このように愚民社会論が準拠する区別を相対化し、世界社会という別の観察地点から観察すると、全く日本人は愚民ではないことがわかるであろう。震災においては、世界から日本人の行動は賞賛されているのである。

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by merca | 2012-02-12 11:41 | 社会分析 | Comments(0)

被災者の視点「被災地の本当の話をしよう」書評

 東日本大震災によって東北の海岸沿いにある多くの市町村が壊滅状態になった。この事実は、マスコミによって報道され、そして多くの支援や励ましが日本全国や海外から届いた。
 陸前高田市もこの未曾有の大震災の津波被害によって、壊滅状態になったが、復興に向けて、同市の市長は、負けずに命を懸けている。陸前高田市の市長である戸羽太氏が、全国の人々に向けて、一つのメッセージを発した。それが、今回の「被災地の本当の話をしよう」という新書である。
 戸羽氏は妻と自宅を亡くした被災者である。つまり、同著では、被災者自身の視点から、被災地の現状が語られているのである。マスコミ報道は外的な視点に立ち客観的な事実を伝えるが、同著を読むことで、被災者自身から震災がどんな意味を持ち、さらに被災に対する支援がどのような役目をもっているのか克明に理解することができる。被災者の気持ちが伝わってくる。
 
 その中で、もっとも印象が深かったのは、戸羽市長が日本全国や海外からの支援や励ましに対する被災者の気持ちを語っている部分である。市長によれば、震災による辛い日々を耐えてきたことができたのは、日本全国や海外からの支援や励ましによって、一人じゃないんだという実感がもてたことであり、そのことを恩に感じており、それを忘れてはならないという気持ちがあるというのである。 多くの心ある人たちからの支援やメッセージは、このように被災者の復興のエネルギーの一部になっているのである。また、どの国が、また誰が支援してくれたかを忘れてはならないということで、支援者の個別性にも気を配っている。感謝という行為は、支援者一般ではなく、そのそれぞれ性に対して向けられることが大切だとわかっているのである。励ましが寄せ書きのかたちで送られてくるのは、それぞれ性を感じることができるためである。日本全国や海外のそれぞれの人たちとつながっているという感覚を感じることができることが大切なのである。宇宙が無限だと感じるのは、それぞれの無数の星が輝いているからである。無限の基礎は、画一的な全体性ではなく、唯一のぞれぞれ性、無数性にある。
 
 ともあれ、ここでも他者論的な倫理的関係が創発されているのである。マスコミを通じて困っている人々の存在を知り、自発的にそれを支援したいと思う人々が、支援し、そして、支援を受ける側もそのそれぞれの支援に感謝を感じるわけである。もしも支援に対する被災者の感謝に倫理や美しさを見ることができない者がいたとすると、それこそ真のニヒリストである。

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by merca | 2011-09-04 01:26 | Comments(0)

生物多様性は自然の摂理 思想多様性は社会の摂理

 相対主義は、多様性を肯定する思想である。実は、人為を越えた自然界も相対主義が貫かれており、意外にも、相対主義の根拠は自然界にもある。
 考えてみよう。もし自然界に一つの種類の生物しか存在しないのなら、生物は絶滅しているだろう。生物多様性という言葉が流行っているが、生物は多様性をもつことで、生き残ってきたのである。さらに、その多様な種類の生物が関係すること(食物連鎖=生態系の形成)で、それぞれの種が維持されている。多様な生物は相互依存することで、生き残っている。
 自然界では、どれか一つの形態の生物のみが正しいわけではない。みんな正しいのである。多様性を肯定し、多くの選択肢を温存させるこの自然界の知恵=摂理こそが、相対主義の原型なのである。
 
 思想においても、同様であり、人間社会に溢れる多くの異なる思想は、どれか一つだけが正しいというわけではなく、多様性をもちつつ、相互依存しているのである。人類は多様な思想を生産してきたからこそ、状況に応じて多数の思想から適切な思想を選択し、現在、生き残っているである。人類社会は、多様な思想を生産することで、発展し、絶滅を逃れているのである。
 自然界の多様な個々の生物は、他の生物の存在との関係性を前提として生かされており、バラバラに存在するのではない。関係性こそが多様性を可能にしているのである。それと同じく、一つの思想が他の思想と関係し合うことで、一つの思想は成り立つ。多様な思想はバラバラでは存在し得なくなるのである。論理面において、このことに最初に気づいたのが西洋ではヘーゲルである。
 なお、念のためにいうと、悪しき相対主義は孤立的にバラバラに思想が存在すると捉えるが、私の主張する相対主義は関係性を前提とした相対主義であり、全く異なる。この点の重要な区別がつかず、原理性相対主義などと私を批判する者がいるが、それは的外れだと言えよう。私の相対主義を批判する者たちは、(関係性/無関係性)というコードのうち、無関係性のコードに準拠していることに気づかない未熟な論客なのである。
 さて、話を戻すと、生物多様性が自然界の摂理であるように、思想多様性は、社会の摂理である。
 にもかかわらず、科学のみが正しい知識・思想であるという科学主義がはびこり、思想多様性が破壊されつつある。ニセ科学批判がそれである。ニセ科学批判者は、相対主義を批判することで、思想多様性という人類の社会進化を否定していることになるのである。
 ニセ科学批判という思想は、ニセ科学という思想を獲物にしなければ生存できないわけであり、ニセ科学を完全に否定しては成り立たないのである。また、ニセ科学批判は通俗道徳という他の思想に依存しなければ死滅する。
 相対主義たる思想多様性の摂理に基づき、思想の生態系=思想地図を作成し、思想の相互依存性を解明することは、まさしく、これからの新知識社会学の使命なのである。

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by merca | 2011-07-24 09:58 | 理論 | Comments(0)

反ニーチェ講座 第二回「ニーチェを捨てよ!!」

 社会科学的には、ニーチェの道徳分析=道徳のルサンチマン説は、端的に嘘である。嘘、すなわち物語である。ニーチェが自説を正当化するためにつくった物語にすぎない。
 ニーチェは、弱者のルサンチマンによってキリスト教道徳=利他主義ができあがったと主張している。強者に虐げられている弱者が強者に悪のレッテルを張り、その反対である弱者が自らを善とすることで、強者から弱者が自己防衛するために善=利他主義が出来たという。
 しかし、この説には全く実証的な根拠はない。なぜなら、弱者という対象に意識調査を実施していないからである。まず、弱者とは何かを概念規定し、その上で弱者たちの一部をサンプリングし、弱者の所有する道徳意識がどのようなものであるか意識調査することで、はじめて実証的に解明される。
 そのような社会科学的な手続きを経ずに、ニーチェは西洋社会の道徳について弱者が強者にもつルサンチマンが起源であると断定する。このように社会科学的には全く根拠のない嘘であるニーチェの道徳論を思考を媒介とせずに、多くの若者たちや大学院の哲学科学生が支持しているのは誠に滑稽である!!

  人間科学の立場からすると、一般に道徳の起源は、社会学における社会化理論(価値規範の内面化)やコールバーグの道徳性発達理論、フロイトのエディプスコンプレックス説によって説明される。
 社会化の理論とは、人は他者と関わるなかで価値規範を身につけていくという説である。つまり、幼少時から親や学校や地域社会の人々とのコミュニケーションにおいて、道徳規範を学習し、取り入れていくというわけである。弱者だから道徳規範をもつのではなく、人との関わりで道徳規範を身につけていくわけである。そして、人々が共通の道徳規範を身につけることで、社会秩序が保たれると考える訳である。これは、社会学による道徳の起源の説明である。
 当たり前の話しであるが、自分がなぜ道徳を身につけたのか振り返ってみると、親や教師や周囲の大人などからの影響であるとすぐにわかるのである。自分は弱者だから道徳意識を身につけたという人間はいないのである。このような社会学による説明は、自明すぎるが、誰にも当てはまる実証的なものである。
 コールバーグの道徳性発達理論は、他者とのコミュニケーションを通じて具体的にどのように道徳規範を学習していくのか解明している。賞罰の意識から普遍的な善悪の意識が生ずる錬金術を見事に描いている。コールバーグの道徳性発達理論は、現実の人間の発達過程に対する臨床的観察から得た実証的なものである。まさしく、社会学における社会化理論の内実を補うものである。
 精神分析学のエディプスコンプレックス説も、フロイトが臨床知から得た理論であり、神話を比喩として用いているが、極めて臨床的な実証知である。エディプスコンプレックスとは、子供が父親に母親を奪われるのを防ぐために、父親のように強くなろうとして、父親をモデルとすることで、道徳規範としての超自我を形成するという説である。フロイトが、多くの現実の患者の治療を通して発見した道徳の発生原理であり、物語ではない。
 これらの人間科学の知見からすると、ニーチェの道徳論は幼稚すぎるのであり、実証主義社会学者コントに言わせれば、神話的段階の知識に相当するだろう。ニーチェのルサンチマン道徳論は、まさしく神話なのである。
 
 さらに、知識社会学的にいうと、ニーチェのルサンチマン道徳論は、善悪の基準が絶対的に存在しないと考える思想つまりニヒリズムを正当化するための神話にしかすぎず、近代社会が生み出した一部の裕福な知識階級の子弟のイデオロギーにしかすぎない。つまり、全く実証的根拠を欠く自己のイデオロギーを正当化するための神話なのである。

 このような神話を本気で支持する人たちは、自らの思想であるニヒリズムを正当化するために、ニーチェにかぶれているにすぎないのに、それに気づいていない。

 大震災などの災害が起きた時に、助け合わなければならなという社会規範は強くなる。今、東北関東大震災によって多くの人々が被災しているが、このような危機場面においては、人々はかえって助け合い、利他的にふるまい、道徳意識が高まるのである。全国の人たちが助け合おうとしている。助け合うことは災害時規範と呼んでいいと思うが、阪神大震災の時も、被災者自らが利己的に振る舞わず、助け合い、神戸を復興させている。
 このような事実を考えると、ニーチェの利他主義批判は全く的を射ていないわけである。ニーチェのいう弱者の道徳など全くの虚構であり、社会学的に利他主義は社会的人間の中に最初から埋め込まれている道徳原理なのである。

 ニーチェ哲学では、人を助けたいという人たちの善なる心の本質を解明できないのである。ここでニーチェに心酔している知的な若者にはっきりと言いたい。
 ニーチェを捨てよ!!  社会学をコツコツと勉強し、ボランティア意識を身につけなさいと。

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by merca | 2011-03-16 00:42 | 理論 | Comments(4)

反ニーチェ講座 第一回「ニーチェは死んだ」

 
  はじめに 

 成熟社会である日本社会において、ニーチェの思想が流行っている。ニーチェの思想の眼目は、絶対的な真理や善悪は存在しないから、それゆえ自分の思うままに何をしてもいいということにつきる。認識論においては、唯一の事実は存在しえず、全ては解釈であるという極端な主観主義をとり、また価値論においては、善悪の基準は人間がつくりだしたものとして、極端な価値相対主義をとる。
 ニーチェは、科学も、キリスト教と同じく、真理の存在を前提とする信仰に支えられた思想であるとして、否定している。従って、ニセ科学批判なんてものは、ニーチェにとっては全くのナンセンスな代物ということになろう。そもそも、科学も宗教も真理を前提するという点において、ニーチェにとっては同じなのである。
 
 さて、現代社会科学からすると、ニーチェの思想は、狂人の戯言や妄想にしかすぎない。にもかかわらず、人々に広く流布するのは、それなりの理由があるからである。そして、戯言であっても、それがコミュニケーションされることで、ある種の社会的リアリティをもってくるのである。
 ニセ科学批判のような科学主義や通俗道徳に基づく思想が流行る一方で、全く逆の価値観をもつニーチェの思想が流行るという現象が起きている。
 成熟社会に適合的な思想は、科学主義(ニセ科学批判)かニーチェ主義かどちらであろうか?
 このテーマは奥深い。二つの対極にある思想を批判的に分析し、そして、どちらも止揚・相対化することが社会学の使命である。

 私は、これまで科学主義やニセ科学批判に対する批判を、くどいほどしてきたので、私をニーチェ主義者=相対性原理主義者と同じであると勘違いする人たちもいるかもしれない。私はニーチェのような単純な相対主義者でもなく、また科学主義者のような単純な絶対主義者でもない。
 いずれにしろ、しばらくニーチェの思想を批判していき、その虚構性と欠陥を暴き、ニーチェに騙されている人たちを覚醒させたいと考えている。そのために、当ブログにおいて反ニーチェ講座を連載していきたい。

 反ニーチェ講座 第一回 「ニーチェは死んだ」
 絶対的真理や絶対的善悪は存在しないから、それらは必要ないし、自由に生きればよい。ニーチェはこのように喝破し、キリスト教や科学を批判する。
 ところが、どうだろうか? 真理や善悪を追い求める人間は減るどころかポストモダン社会である現在においても存在し続けている。例えば、真理や善悪=人生の意味は要らないから、今をまったりと生きようと若者に呼びかけた宮台真司のまったり革命は、見事に頓挫した。意味を求めずにうまく今をまったりと生きているはずであったコギャルたちが、結局、メンへル系や自傷系へと落ち込んでいった。つまり、完全に意味を求めない生き方は、どこか無理が生ずるのである。成熟社会では、完全に意味を放棄すると、過剰流動性の中で自己を見失い、超人どころか、廃人となってしまうのである。まったり革命の失敗が、現在の宮台思想の保守化への転向の契機となったのである。
 ちなみに、仏教では、無意味=空無に執着する物の見方を但空観といい、偏った段階の思想として否定されることになる。
 
 実は、真理や善悪は不可能であるが、人間の生や社会にとって必要不可欠な観念なのである。真理や善悪という物語をもつことで、人は動機付けられ、他者と適切なコミュニケーションをとることができ、社会は秩序が与えられるのである。自我統合と社会統合は、真理と善悪なしには、あり得ないのである。
 社会学や心理学を学ばなかったために、こんな単純なことも、ニーチェはわからなかったのである。虚構でもいいから、真理や善悪があることで、人は意欲的に動き、社会は回るのである。
 現代社会では、科学が真理を独占し、人権思想(民主主義)が善悪を独占しているのである。科学も人権思想も一つの虚構ではあるが、それを全否定することはできず、人々の社会生活にとっては必要なのである。社会学の立場からすると、虚構は機能することでかえって真理となるのである。このような社会学上の妙理を悟ることができなかったことがニーチェの限界であり、欠陥でもある。
 
 科学と通俗道徳を真理・善悪とみなし、それらに動機付けられ、意欲的に動いている人たちがいる。ニセ科学批判者たちである。ニーチェの提示する生き方とは逆のベクトルである。科学と通俗道徳によって自我統合と社会統合を達成した人たちである。ただ、科学と通俗道徳が絶対的だと思い込んでいる点において、限界があるが、ある意味、科学と通俗道徳が機能しているわけである。

 まとめると、過剰流動性のある成熟社会では、意味を求めない生き方=超人は、必ず、心の病にかかり、ひどい場合には廃人となる。ニーチェの思想は成熟社会では、通用しないのである。まさしく、ニーチェは死んだのである。
 
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by merca | 2011-03-06 23:53 | 理論 | Comments(17)

偽薬効果は現象的事実であって科学的事実にあらず!!

 一般にメカニズムを解明するとは、因果関係を解明することである。メカニズムを解明しない関係は、疑似相関のおそれがあり、誤っていることがある。観測された事実は事実ではあるが、科学的には虚偽であることがある。事実が虚偽であることを暴くのが科学の面白いところである。
 例えば、「年齢があがると、持ち家をもつ人が多くなる。」ということが、統計上、観測されたとする。これは確かに事実であると言えるが、科学的事実としては間違っている。
 年齢があがることが原因で持ち家をもつ人が多くなるという結果をもたらすわけではない。そこで、収入を統制すると、年齢による持ち家所有率に差がなくなったとする。つまり、統計的分析の結果、年齢があがると収入も増えるので、持ち家の所有率が増えることがわかったとする。年収が原因で持ち家を買う人が増えるという結果をもたらすという因果関係があることが判明したとする。
 この場合、年齢と持ち家所有率の関係は疑似相関と呼ばれ、嘘の因果関係なのである。

「年齢があがると、持ち家をもつ人が多くなる。」は現象的事実であるが、この因果関係は嘘であり、「収入があがると、持ち家をもつ人が多くなる。」というのが科学的事実である。

現象的事実
  「年齢があがると、持ち家をもつ人が多くなる。」=嘘
科学的事実
  「収入があがると、持ち家をもつ人が多くなる。」=真理

 現象的事実は客観的に確かめられたデータであるものの、嘘であり、メカニズムが解明され因果関係が確定した事実のみが、科学的事実と呼ばれるものである。

 これを偽薬効果に適用すると、次のようになる。
 偽薬効果とは、偽薬を本当の薬だと信じ込んで服用するという原因が、身体状況の改善という結果をもたらすということである。信じ込み(原因)→身体現象の改善(結果)=偽薬効果なのである。
 しかし、この因果関係が疑似相関である可能性は高く、本当のメカニズムは解明されていない。信じ込みと身体現象の改善の両者の間に、それを媒介する要因がいくつもあるのではないかと容易に想像がつくわけである。
 偽薬効果は、現象的事実であり、未だ科学的事実の域に達していないのである。現象的事実にしかすぎない嘘を科学的事実だと見なすのは、ニセ科学である。科学的だと称して、偽薬効果という嘘を前提にして、ホメオパシーを批判することは、当然のごとくニセ科学である。

 観測された事実だからといって、それが科学的に本当であるわけではない。現象的事実に潜むメカニズムを解明し、事実こそが嘘であると暴くことが科学の役割なのである。現象的事実としての偽薬効果は、メカニズムが解明されておらず、科学的事実ではないのである。
 このように客観的に観測される事実である現象的事実のメカニズムを解明し、根底にある科学的事実を発見するのが科学の本道であるのに、メカニズム論の誤謬という偏った科学思想に立脚するニセ科学批判者は、非科学的・ニセ科学的になってしまっているのである。
 ニセ科学批判者たちよ!! 偽薬効果というニセ科学に騙されるな!! 偽薬効果こそニセ科学批判の対象になるのである。

  余談
 件のエントリーでトラックバックいただいたニセ科学批判者・第一世代のTAKESANさんの「論宅さんの混乱」という記事の下のSponsored Linkが「ホメオパシー商品ご自宅へ」や「レメディ通販」とホメオパシーの宣伝が表示されているのが痛々しい。なとろむ氏と異なり、せっかくホメオパシー完全否定派なのに皮肉である。なとろむ氏より徹底している点は評価できる。

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by merca | 2011-01-31 22:31 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)