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価値次元相対主義によるニセ科学批判批判

 現代社会は、様々な社会的領域に機能分化している。法律、経済、教育、政治、科学、宗教、福祉、医療、軍事、雇用、芸術、スポーツなどである。各社会領域は、独自の価値をもっており、他の社会的領域の価値に還元されず、対等であることが、成熟社会の完成体である。
 例えば、法システムは、経済システムからは完全に支配されず、経済システムも法システムに完全に支配されないわけである。
 私は、このような機能分化した社会的領域における価値が全て対等であるという考えをもっており、それを価値次元相対主義と呼んでいる。しかし、日本社会の近代化が経済中心に始まったために、経済的価値が他の社会的領域を制御するという構造が残っており、緩やかな価値序列がまだ存在しており、完全に水平的な機能分化を達成できていないことを指摘した。さらに、私は、ベーシックインカムこそが、雇用と経済を分離し、経済的価値を相対化し、水平的機能分化を可能にする社会政策的な処方箋であると考えた。

 それはさておき、このような価値次元相対主義に逆行する思想が存在する。それがニセ科学批判である。というのは、ニセ科学批判は、科学的事実に反する要素が少しでも含まれていると、科学以外の社会的領域であっても、平気で全否定するからである。ニセ科学批判においては、真偽のコードに準拠する科学システムが他のシステムに対して領域侵犯し、制御・支配することになる。科学的事実を最上位の価値とし、経済、法律、教育、宗教など他のシステムよりも優位なものと見なしているのである。

・教育の分野に関しては、ニセ科学批判者は、科学的事実に反する教育として水伝道徳授業を批判する。
 教育は科学に還元されない価値や目的をもっており、科学的事実に反することであっても、教育的価値があればよい。教育の目的は、社会に適応する人間をつくることであり、その目的に適合的であれば、科学的事実に反していても問題がない。例えば、西洋社会では、キリスト教に基づく道徳教育を行って来た。神という科学的事実に反する存在を前提にして、道徳を内面化させ、社会に適応する人間をつくってきた。科学的事実に反する教育であるが、教育の目的は達しているのである。
 個人的には水伝道徳授業に問題はないと言いたくはないが、科学的事実に反することは教育としての水伝授業の本質的批判にはならない。なのに、科学的事実に反することを根拠に教育批判している。
・宗教の分野に関しては、ニセ科学批判者は、科学的事実に反するとしてスピリチュアル批判を行っている。
 宗教は科学に還元されない価値や目的をもっており、科学的事実に反することであっても、宗教的価値があればよい。宗教の目的は、世界の根源的偶然性に意味付与することであり、科学的事実に反していても問題はない。神や輪廻転生は科学的事実に反するが、宗教的価値はある。なのに、ニセ科学批判者は神や輪廻転生を批判しようとする。
・医療の分野に関しては、ニセ科学批判者は、科学的事実に反するとしてホメオパシー批判を行っている。
 医療は、科学に還元されない価値や目的をもっており、科学はその手段にしかすぎない。医療は病気を治すことが目的であり、科学的事実に反していても、病気が治るのなら、医療的価値があることになる。漢方薬や針などの東洋医学は科学的に実証されていないが、現実にある程度病気が治るから使用しているわけである。ホメオパシーも科学的効果ではなく、偽薬効果による自然治癒でたまに病気が治ることがあるから使用している人がいるのだと思う。
・経済の分野に関しては、ニセ科学批判者が科学的事実に反するとしてマイナスイオン商品の批判を行っている。
 経済=商品は、科学に還元されない価値や目的をもっており、経済的価値があればよい。マイナスイオンは科学的に実証されていないというが、とにかく商品が売れれば企業にとっては経済的価値があるのである。ウソであっても、売れれば企業にとっては経済的価値はある。科学的事実がどうであれ、商品が売れて市場が活性化すれば、経済的に価値があることになる。
・雇用の分野に関しては、ニセ科学批判者は科学的事実に反するとして血液型性格判断を行う。
 雇用の目的は、科学とは関係ない。組織に貢献してくれる人材を雇うことが雇用システムの目的である。科学的に実証されていない血液型性格判断を利用して、企業が人材を雇用しても、問題はない。何を採用選定基準とするかは、企業の好みであり、自由である。血液型性格判断を基準にして雇用して、うまくいかなかったら、企業の自己責任である。企業の雇用システムに科学が口出しする権利はない。

 このように、ニセ科学批判は、科学以外の他の社会的領域の思想や商品に科学的事実に反する要素が含まれている場合、全否定するのである。他の社会的領域の価値判断よりも科学による価値判断が優先される仕組みになっているのである。ニセ科学批判においては、科学は他の社会的領域の監督者として特別な価値が認められているのである。反科学的であっても、その社会的領域における目的が十分に遂行できるのであれば、科学は口出しする権利はないのである。
 科学的価値による社会領域の支配こそが、ニセ科学批判という社会現象の本質であり、これは同時に社会病理でもある。
 価値次元相対主義に基づくと、科学的価値も他の社会領域の価値も同等であり、争うことなく、平和に相対化されるべきなのである。科学的事実を絶対化する価値次元絶対主義こそがニセ科学批判の本質であり、他の社会的領域を支配しようとしているわけである。他者に対してニセ科学批判者が押し付けや指図をすることが多いわけは、科学的価値を絶対化・中心化しているからなのである。ニセ科学批判が流行ると、科学者が社会の中心に君臨する社会、つまり科学主義化社会になってしまうのである。

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by merca | 2011-01-20 00:38 | ニセ科学批判批判

ニーチェはいらない。

 善悪の内容は、社会によって異なり、相対的であるのが事実であり、異なる社会同士の道徳観は対立することもある。何を善とし、何を悪とするかは、倫理学の根本的テーマである。
 さて、古くから、西洋哲学では、功利主義(幸福主義)に基づく道徳観と理性主義に基づく道徳観との対立がある。ベンサムに代表される功利主義とは、人々の利益になることが善であり、人々の不利益になることが悪であると考える道徳観である。簡単に、アリストテレス風に表現すると、善とは幸福の手段であり、悪とは不幸の原因であるということになる。功利主義は、行為の結果に着目した道徳観と言える。
 これに対し、カントに代表される理性主義とは、損得とは関係なく、すべきことをし、してはならいことをしないことが善であり、すべきことをせず、してはならないことをすることが悪となる道徳観である。例えば、人の命を救うことは、すべきことであり、結果の損得とは関係なしに、善である。また、人の物を盗むことは、してはならないことであり、結果の損得とは関係なしに、悪である。このように、行為の結果に関係なく、善悪はあらかじめ無条件に定められているということになる。簡単に言えば、道徳規範に従うことが善であり、反することが悪であるということである。道徳規範の内容が問題になるが、カントの場合、実践理性による自由の実現が道徳規範の内容となる。

 いずれにしても、功利主義も理性主義も、何を善とし、何を悪とするかについて、満足のいく回答ではない。そこで、善悪を別の区別から観察してみたい。
 (利他/利己)という区別で観察すると、善は利他に対応し、悪は利己に対応することになる。よく思い起こしてみると、我々は、普通に利他的人物を見ると感動するし、利他的人格の人間をいい人だと人格判断している。宮台真司が指摘するように、多くの人々は利己主義者には感動が湧かず、利他主義者に感動と尊敬の念を抱き、その価値観に感染することは事実である。
 逆に、多くの人たちは、自分のことしか考えない利己的人物をつまらぬ悪い人だと感じる。全く他人に思いやりのない利己主義者は人から軽蔑され、嫌われる。
 このように、利他と利己は、純粋に善悪の観念と直結しているように思える。この感覚は重要であり、ここに功利主義と理性主義を越える秘訣が隠されている。
 
 実は、利他主義は、功利主義の要素と理性主義の要素の両方を含んでいる。利他主義は、目的において他者の利益や幸福のために行為するわけであるから功利主義的であるし、また自己の利益や幸福を度外視して他者のために行為すべきと考え、自己犠牲的に振る舞う点において理性主義的である。動機において自己の欲望を抑えてまでも他者のためにすべきと考え、結果において他者に利益と幸福をもたらそうとする。仮に、結果的に自己の行いが他者のためにはならなかったら、利他主義者は後悔の念に襲われ、自己を責めることになるだろう。つまり、利他主義こそが善なのである。そして、利他的行為を妨げる利己主義が悪となる。とにかく、利他主義は、功利主義と理性主義を止揚するジンテーゼの位置にあるのである。
 
 さらに、キリスト教、仏教、儒教などの世界宗教においては、(利他/利己)という区別はそのまま善悪と同義である。仏教では、端的に善行とは利他を意味している。儒教においても仁愛とは、他者への思いやりの情である。キリスト教の隣人愛も他者へのいたわりである。このように文化を越えて伝播する世界宗教は、善悪の基準として(利他/利己)という区別を採用している。世界宗教の場合、利他の「他」とは特定の共同体の内部を越えた人類全てを指すということはいうまでもない。利他的行為の対象である他者は全人類であり、全人類を救済の対象にするからこそ、世界宗教たりうるのである。

 人々のおおよその自然な善悪感覚及び世界宗教の倫理観からすると、「利他は善であり、利己は悪である。」 簡単であるが、これが事実的な善悪の基準の回答である。これには多くの人はさして異議はないと思うし、これで十分である。多少異議が有ろうとも、私は、利他を善と呼び、利己を悪と呼ぶことに違和感はない。
 
 なお、明確で厳密な善悪の基準の定義=概念を求めたがる人は、善悪の基準を法則と勘違いしている人である。人と人の関係に先立って、善悪は宇宙の法則のようにあらかじめ存在するものではない。人と人が関係しあうことでコミュニケーションが創発され、それを一つの区別から観察することで後から善悪は構成されるものである。
 私は、利他を善と名付け、利己を悪と名付けるだけであるし、そうすることで、他者とのコミュニケーションにおいて差し障りはない。私が利他的行為をなす人を見て善人であると言ったとしても、私の言葉の使い方がおかしいという人はいないであろう。
 私の場合は、ニーチェのように絶対的で明確な善悪の基準にこだわりすぎて、ニヒリズムに陥り、ことの本質を見失うということはないだろう。
  
 利他は善であり、利己は悪であることで、倫理は成立ち、世界社会は回るのである。ニーチェはいらないのである。

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by merca | 2010-12-26 23:35 | 理論

仮説主義科学論はニセ科学である。

 竹内薫氏は、科学作家であり、多くの科学評論を手がけており、科学マニアのうちでは特異な位置をしめている。著書においては、「99.9%は仮説」「なぜ科学は「ウソ」をつくのか」「白い仮説 黒い仮説」という疑似科学批判やニセ科学批判に関わる本をだしており、自身の科学観を浮き彫りにしている。竹内氏の科学観をひとことで言うと、仮説主義科学論ということになる。つまり、全ての科学的知識は、仮説であり、いずれ反証される可能性をもつ相対的知識であるということである。

 竹内氏は、菊池氏のように科学的知識を知識獲得方法によって定義するのではなく、仮説であることにそのアイデンティティを見いだしている。また、複数の矛盾対立する仮説が乱立することも肯定している。さらに、自己と異なる他者の仮説を理解したうえで、議論することの重要性を説く。極めて寛容である。
 さらに、全ての科学的知識は仮説なわけであり、端的に言えば、科学はウソをつくという発想となる。従って、科学的知識は仮説であるにもかかわらず、それを事実とみなし、他人に押し付けることは、ウソを押し付けたことになる。科学的知識は仮説としての虚構なので、その虚構に基づいて他説を否定することはできないことになる。要するに、原理的に、仮説主義科学論は、ニセ科学批判の正当性そのものを否定することになる。これは、すでに一種のニセ科学批判批判である。
 ちなみに、社会構成主義は、全ての科学的知識は科学的方法によって科学者集団によって人為的に構成されたものであり、相対的なものであると主張する。従って、仮説は科学者によって構成されたものであると考える仮説主義科学論も、究極的に社会構成主義と同一であり、原理主義的相対主義を本質とする。
 ニセ科学批判者は相対主義を批判するが、当の科学が相対主義だったのかと思うと、自己矛盾的だと思った。

 システム論社会学の観点からすると、竹内氏の仮説主義科学論は、科学が絶対主義を含んでいることを見落としているという誤謬をおかしている。科学が、真理あるいは事実は一つという観念を所有していることを見落としている。科学システムは、もともと真偽というコードに準拠しており、社会的には事実は一つであるという前提に基づいて進化・発展してきたのである。事実が複数あるのなら、そもそも科学的議論自体がありえず、知識の真偽の区別はつかず、科学の進化もあり得ない。
 科学者は、正しい知識を求めて実験し、他の学者と議論することで、古い仮説を否定し、正しい仮説を真理として定立するのである。真理が複数あるのなら、古い仮説を否定する必要はなくなるのである。真理に近似している仮説が採用され、古い仮説は否定されるのである。観測や実験によって新しい仮説が採用され、古い仮説が否定されるのは、事実や真理が一つという観念が存在するからである。
 その点を完全に無視して、仮説だから全て科学的知識はウソであるというのなら、ウソである点において科学も迷信と変わらなくなるのである。

 相対主義者である私がこのような議論をするのはおかしなものであるが、真理が唯一性・絶対性(事実はひとつしかないという観念)をもつという科学観こそが正統であり、菊池氏に代表される過激派ニセ科学批判者こそが正統な西洋の自然科学の後継者なのである。科学純粋主義者からしたら、竹内氏は異端者である。異端審問にかかるおそれがある。

 竹内氏の仮説主義的科学論からは、ニセ科学批判は成立たない。全てが仮説であり、真理や事実が複数あるのなら、究極的に知識の正当性は皆同一になるからである。ニセ科学批判者が嫌う悪しき相対主義の典型である。
 
 これまでの科学的知識から演繹して水が人間の言葉に反応することはあり得ないとする菊池流の批判は、菊池氏が科学的知識を仮説ではなく、真理だと思っているからこそ、可能になる。これまでの科学的知識が仮説=ウソだと思っていたら、水伝を否定できなくなる。竹内氏の仮説主義的科学論からは、水伝、ホメオパシー、ゲーム脳も、全て批判できなくなるのである。仮説というウソでもってウソを否定することはできないからである。

 竹内氏の仮説主義科学論に準拠すると、全ての科学的知識は、仮説として平等であり、否定すべきではないことになる。そして、科学は仮説であり、全て究極的にはウソである、ということになる。
 これは、科学主義者によるニセ科学批判批判である。しかし、これは、より事実に一致した知識のみが真理だとする科学の理念に対する冒涜なのである。
 
 竹内氏の仮説主義科学論は、正しく科学の理念である真理は一つという観念を含まないニセ科学である。

 参考エントリー
科学の絶対性とは何か?


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by merca | 2010-11-21 10:15 | ニセ科学批判批判

社会妄想=マルクス主義による犯罪行為

 社会心理学者エリクソンによれば、近代社会においては、ちょうど大学生くらいになると、自我同一性=アイデンティティを確立することが発達課題となるらしい。職業社会に出るためには、若者は自分が何であるかを確立することが求められるわけである。
 その際に自我を統合するツールとして、思想は機能する。自我観念は、それを取り巻く世界観とセットになっており、若者は一定の確立した世界観を提供する思想に飛びつくことになる。新興宗教が大学生を狙って勧誘するのはこのためである。
 宗教でなくても、社会思想や政治思想も、青年期の若者の自我同一性を支える世界観を提供する。このようなエリクソンの近代社会における自我の発達段階理論こそが、あの過激な全共闘学生運動の意味を説明してくれる。要するに、全共闘の学生たちは、自我を確立するために、マルクス主義という物語に飛びついたのである。さらに、それが反体制的思想であったがために、親=社会に対する反抗期としても機能したのである。しかし、不幸なことにマルクス主義は、近代社会=資本主義社会に適合的な思想でないために、多くの若者はそれに埋没するほど犯罪行為に至り、社会不適応に至った。過激化し、カルト化していったのである。
 
 全共闘学生運動は、革命のためと言いつつも、結局、社会学的に分析すると、自我の確立という若者の利己的な動機をもととする活動にしかすぎなかったのである。それはともかく、当時、マルクス理論が実証的根拠を欠く非科学的ものであることを気づいていた学生はほとんどいなかった。
 当時の日本社会は、資本家によって搾取されて貧困が日常化しているどころか、高度経済成長期に入り、豊かになっていた時期である。むしろ、学生運動の大学生は、学歴社会の勝者であり、貧困とは無縁な存在である。低所得層のブルーワーカーになったヤンキー系の若者たちからみたら豊かなのである。頭もいいはずなのに、経済や労働状況などに関する戦後からの社会統計に目を通さず、一気に観念的なマルクス主義思想が真実だと勘違いし、飛びついたのである。自身の家庭が資本家に搾取されて貧乏だったという実感体験からマルクス主義を支持した大学生などいなかったのである。社会統計による事実も無視し、体感的な貧困感覚にも根付かず、知的な若者が自己の自我同一性を統合してくれる絶対的真理を求めて、マルクス主義に走り、全共闘運動に走ったのである。
 
 若者たちは、社会統計的事実からも体感事実からも遊離した反科学的な思想=ウソであるマルクス主義に自我を託したのである。当時の学生の社会に対する妄想はすごい。教育問題、政治問題、家庭問題など全ての社会問題を資本主義社会の問題にしようとする認識の歪みが認められる。共産主義革命が起これば、全ての社会問題が解決されると考えていた。そして、全世界が共産主義革命が起こりつつあり、日本社会でも起こると考えていた。そして、有名大学の知的な若者が、強盗や暴力や殺人などの犯罪行為に手を染めていった。思想のために殺人を平気でするのである。
 命よりも大切なものがあると小林よしのりは言っているが、戦後は、皮肉なことに左翼思想によってそれが体現されているのである。人の命よりも、自己の自我を支える思想の方が若者にとっては大切に思えたのである。

 とにかく、マルクス主義は、極めて、実証性を欠く反社会科学的思考であり、妄想である。こんな根拠レスな社会妄想を打ち砕いてくれるエビデンス厨もいなかった。もし当時、俗流若者論批判者である後藤氏のような統計的事実主義者がいたら、面白かったことだろうに。連合赤軍の社会妄想を後藤氏なら見事に打ち砕くであろう。統計的にはマルクス主義は間違いということで、全共闘の学生たちの自我を一撃で粉砕したことであろう。「あんたら自分で社会調査して調べたのか?資本主義に原因があるという実証的証拠を見せてみなさい」というだけで、論破できるのである。
 もしそんな科学主義者たちがいたら、社会妄想から若者を解放し、連合赤軍の殺人行為も防げたかもしれない。マルクス主義というつまらぬ社会妄想のために、いじめを受けて死んでいった人たちは可哀想である。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」に描写されているとおりである。一度、見てみたらわかると思う。思想のために人を十二人殺している。
 
 とにかく、全共闘の学生たちは、マルクス主義理論による認識が事実であると勘違いし、物語として相対化できなかったのである。自身の思想を事実として絶対化し、それに従わぬ者に暴力的制裁を加えたのである。当時は、前期近代社会であり、物語を物語として相対化し、自己選択していく器用さがなかったのである。ウソだとわかりつつも、あえて選択するという成熟社会の意識ではなく、マルクス主義が不変の絶対的真理であるという感覚で受容していたところに問題があるのである。当時の若者たちは、動かぬ社会という感覚をもっており、社会を実体視していたのである。彼らは、社会がその都度生ずる空なるものであるという妙理=創発論的社会観を知らなかったのである。

 今、反貧困運動も学生運動家を育成しつつある。社会が悪い、という思考形態は、マルクス主義と同型であり、少し注意しておく必要がある。なんでも社会問題にしてしまう思考形態は、すぐに共産主義と結合する傾向にある。反貧困運動に参加する若者たちに、貧困体感経験があるのなら、まだ健全であるが、知識の上での貧困しか認識していない一流大学の学生には、反貧困理論を思想として内面化して欲しくないものである。

 学生運動と機能的に等価なのが、ボランティア活動である。ボランティア活動は分野も色々とあるし、思想的強制はないので、安全である。ボランティア活動が発展することで、他者と関わり、自我を確立することが成熟社会には適合的な在り方なのである。

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by merca | 2010-11-14 21:30 | 社会分析

東浩紀・宮台真司著「父として考える」書評

 東浩紀・宮台真司著「父として考える」という新書が出ている。これは、デリダのポストモダン思想を受け継いだ郵便的脱構築で有名な東浩紀と、ルーマン社会学を受け継いだ社会学の巨人・宮台真司の対談である。
 
 二人と言えば、俗流若者論批判者である後藤和智から批判されているのは周知のとおりである。思想地図においては、今や事実やエビデンスを絶対化する後藤氏らの事実主義思想の登場によって、観念的なポストモダンの論客は時代遅れとして否定されつつある。事実に基づかない反自然科学的な知識体系として、東浩紀や宮台真司らの思想は、駆逐すべきであるというわけである。
 今後、ニセ科学批判運動と同じく、学問の世界において、反自然科学的な知識体系が魔女狩りされていく傾向は強まっていくと考えられる。ルーマン社会学の観点からは、これは、ある意味、科学が自律性のあるシステムとして分出している現代社会では、仕方のないことである。(理論)社会学に残されている道は、社会思想として社会統合と自我統合を担うことに特化されていくことしかないかもしれない。

 さて、そのような思想地図で起こっている戦争状態を踏まえた上で、本書で面白いことが書かれていたので指摘しておきたい。本書は、父として考えるという表題であるが、基本的には社会を語っている社会評論=社会解釈である。
 
 宮台氏は、自らがラディカル構築主義者であるにもかかわらず、鋭く社会構成主義を批判する。
 全てはつくられたもの、つまり構成されたものであるとしても、視座によっては構成されたものは構成されざる無為のものとして観察され、虚構ではなく、真理=事実として認識されるという。詳しく言うと、共同体に所属している内的視座から観察すると、共同体を支える価値規範や知識体系は、根拠のない物語ではなく、真実であるということである。例えば、雷を神様が怒っていると考える共同体があるとすると、その知識体系は共同体に所属する人々にとっては真理であると受け取られるということである。もちろん、共同体の外にいる者の外的視座から観察すると、根拠レスの虚構とうつるわけである。雷は神様の怒りという知識体系があることで、回っている共同体では、それは違和感なく人々に受け取られ、真理として機能するのである。
 とにかく、宮台氏の主張を私なりに解釈すると、一つの共同体を支える価値規範や知識体系は、共同体の外から観察した時には虚構であり、根拠レスにうつるだけであるので、社会構成主義のようにやみくもに全ての共同体の価値規範を全て根拠レスと見なし否定するのはおかしいと指摘しているのである。言い換えれば、社会構成主義者の視座は、一切の共同体から超越した常に外的視座からの観察であり、外的視座を絶対化しているわけである。外的視座のみが正しいわけでなく、内的視座によって相対化されなければならない。社会構成主義者が全ての共同体の価値規範や知識体系は根拠レスであり真実ではないという時、自らを絶対化しているのである。これは、悪しき相対主義である。悪しき相対主義は、内的視座から観察すると、共同体の価値規範が真実であるという事実を虚偽とみなす誤謬を犯しているのである。

 このように(内/外)という別の区別を再参入することで、社会構成主義=相対主義の盲点を見抜き、相対化した宮台は、やはり哲学においても一流と言わざるを得ない。
 ただ、内外の区別は流動的であり、内的視座からの観察と外的視座からの観察が弁証法的な関係に有り、他なくしては自己もない縁起関係にあることも踏まえなければならない。内的視座からは事実であり、外的視座からは物語となるが、事実と物語が相まって共同体と外部は可能になるのである。これはレヴィナス級の哲人である柄谷行人の論理でもある。
 とにかく、一つの知識体系は、ある視座からは真理となり、別の視座からは虚偽となるのである。絶対的な視座たる神の視点は存在し得ず、視座の差異によって、真理値がコロコロと変わるのである。このように考えると、科学はどんな場合でも、真理であるとする科学主義者の観念は誤謬であることがわかる。科学が真理だと思うのは、科学が真理だと信じられている現代社会に属している内的視座から観察しているからである。このことに関してニセ科学批判者は盲目である。
 
 宮台氏は、後藤氏に対してエビデンス厨というレッテルを貼っているが、後藤氏は、自然科学的手続きを経た知識のみが根拠があり事実だと見なしましょうという現代社会の約束事に忠実なだけなのである。つまり、後藤氏は、現代社会の価値規範に過剰適応してしまっているのである。ニセ科学批判者の菊池氏も同様である。後藤氏も菊池氏も、科学的手続きを真理の根拠とみなす社会でたまたま教育されただけの話なのである。ただ、そのような社会学的見解を彼らに言うと、相対主義だと我々は見なされるのである。端的に言うと、彼らは、自己の視座を再帰的に認識できず、相対主義者よりも、視野が狭いということになる。それだけの話である。
 
 何を知識の正しさの根拠と見なすかは、社会によって異なり、その差異を観察するのが社会学の役目である。

 参考
 記憶が定かではないが、確か社会学者芹沢一也が脱社会性という言葉によって少年を怪物化し治安悪化神話の片棒を担いだと宮台氏を批判していたが、それに対して何かの書物で宮台氏が視座と視点の混同であると反論していたことがあったと思う。これが何を意味していたのかわからなかったが、もしかしたら、宮台氏は、体感治安という人々の内的視座による観察を一方的に非真実として棄却し、犯罪統計という外的視座のみを真理として絶対化する治安悪化神話論批判者の在り方を批判したのかもしれない。

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by merca | 2010-10-24 08:31

カルト信者をつくらない処方箋としての相対主義

 ニセ科学批判者やその系列のブロガーたちは、カルトだから悪いという発想をよくとっている。カルトというレッテルを貼ることで相手を貶めるわけであるが、カルトとは何を指すのか明確にしておいた方が良さそうである。(カルト/カルトでない)という区別がどのような基準によって構成されているのか確認しておきたい。
 カルトは、もともと崇拝・礼拝というラテン語から発生したものであるが、現代的な意味においては、カルト宗教だとかカルト団体だとかいう具合に使用されている。その意味するところは、下記のごとくだと思われる。

 主にある一定の思想や信条を共有する組織を指す。(多くは宗教団体)
 既存の社会的価値から逸脱しており、反社会的である。
 教祖を絶対的に崇拝する。
 教義を絶対的真理とし、他を排除する。
 批判するものに対して極度に攻撃的である。
 強引に勧誘する。
 目的のために手段を選ばない。
 離脱の際に暴力や恐怖心がともなう。

などである。
 これらの性質が認められる宗教や集団をカルトと呼ぶことができる。これは社会学的に言うと、全体主義と性質が同じである。カルト宗教やカルト集団は、社会レベルではなく、集団レベルの全体主義である。過激な共産主義集団はカルト集団と同一の特性を持つことがわかる。カルト集団では、集団構成員の自己選択性=人間性が否定され、集団内部に制裁による虐待暴力が生ずることもよくある。

 ニセ科学批判がカルト化していると言われる際には、ネット社会に限定してのことであり、教祖を崇拝するという点、強引に勧誘(説得)するという点、自己の教義を絶対的真理とし、他を排除する点、批判するものに対して極度に攻撃的である点にあると思われる。
 ネット上のことであるが、ニセ科学批判にまつわる記事を書くと多くの信者さんが私を説得に来たことを記憶している。強引な他説攻撃による説得行為こそがニセ科学批判をカルト化する主な要因となっている。水伝やホメオパシーがカルトかどうかは、信者獲得のための強引な説得行為があるかどうかに関わっている。カルトとは、教義内容ではなく、組織運営形態や布教方法の問題なのである。例えば、既存の仏教やキリスト教は、その教義内容は反科学的であるにもかかわらず、強引に布教しないことで、社会からカルトと見なされない。
 つまり、カルトであるかカルトでないかは、教義内容や思想内容ではなく、組織運営形態と布教コミュニケーションの方法によるのである。(カルト/カルトでない)という区別は、(内容/方法)という区別に準拠しており、方法の項の出来事であることがわかる。組織体システムとそのコミュニケーションが全体主義化していることがカルトの社会学的本質である。反科学的であることがそのままカルトではない。ニセ科学批判者は、反科学的なものに対して闇雲に全てカルトであるというレッテルを貼り、価値を貶める傾向にあるので要注意である。反科学=カルトという図式を安易に使用しているブロガーがいるので、ここで釘を刺しておこう。

 社会学的には、カルト化の処方箋は、ニセ科学批判者が嫌う相対主義である。絶対的なものはなにもないという相対性感覚を保ち続けることがカルトにはまらないための予防線となる。教祖や教義を絶対化しているカルト集団には、相対主義者は入らないのである。みなが強い相対主義者であれば、カルト集団に入ることはありえず、カルト集団は信者を獲得できないのである。カルト信者から私たちの教義は絶対的に正しいから信じなさいと言われても、相対主義者は正しい思想が一つしかないというのはおかしいと思い、入らないのである。カルトに対する最大の処方箋は、原理主義的相対主義者になることである。
 
 ニセ科学批判者はニセ科学をカルトとして批判しているのに、ビリーバーをつくらない最大の処方箋である相対主義を嫌うという自己矛盾を起こしているのである。カルトを滅ぼすのは、ニセ科学批判ではなく、相対主義なのである。相対主義を批判するニセ科学批判者たちは、真理は一つであるという固定観念を人々に植え付け、その結果、真理は一つを求めるカルト信者を増やすことに寄与してしまうのである。事実としての真理は一つという自然科学の観念を持つ故にオウム真理教にはまった理系の若者たちがいた事実を自覚して欲しいのである。事実=真理は一つという固定観念でもって、ニセ科学が科学的に間違いであると批判することは、諸刃の剣である。そうなると、意識構造が変わらぬまま、ニセ科学ビリーバーはそのままニセ科学批判ビリーバーとなるのである。相対主義によって意識構造が変わらないと、真理は一つという固定観念を持つカルト信者は本質的に変わらないのである。

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by merca | 2010-10-11 22:46 | ニセ科学批判批判

斉藤環氏に見る俗流カルトバッシング論批判

 精神医学者(科学者)の斉藤環が、毎日新聞の時代の風において、「ホメオパシー」をめぐって、という論説を書いている。はてブもまたすごい。
 http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/opinion/jidainokaze/news/20101003ddm002070085000c.html
 
 この論説は、やはりニセ科学批判者によって批判されている。しかし、斉藤氏の主張は、単なる相対主義ではなく、文化相対主義と機能的等価主義を配合した高度な社会学的処方箋である。
 まず、医学的にはホメオパシーが偽薬効果以外はないと考えている側面は科学に準拠している。しかし、ここがポイントであるが、偽薬効果を肯定し、社会心理学的効用として自己承認欲求充足機能があると認めている。カルトについては、過激な文化的排除がカルト化をもたらすと指摘している。これは社会学的には正しい。社会が支持する価値観と反対する価値観を完全排除する恐ろしさを指摘している。
 実は、これは二重の意味で恐ろしい。一つは、迫害された者たちが過激化することである。斉藤氏はこれを指摘している。それとは別に、平和主義者である私は社会の支持する価値観を無反省に絶対化し、社会が逸脱者に暴力を加えるおそれを指摘しておきたい。社会による文化的排除による暴力現象で多くの人の命や精神が傷つけられて来た歴史を忘れてはなるまい。魔女狩りにその典型をみる。
 社会学では、文化的排除を扱う。ニセ科学批判者は、安易にカルトという言葉を使用し、他者の思想や技術にカルトのレッテルを貼り、社会的異常あるいは社会的逸脱として批判する。既存の社会的価値観から逸脱している反社会集団をカルトと呼ぶのなら、ローマ帝国内のキリスト教もカルトであったということになる。封建社会では、民主主義思想も自由主義思想もカルトであったことになる。中世ヨーロッパ社会では、科学者コペルニクスの地動説はカルト思想ということになる。
 このように、カルトという概念は、時代と地域ごとの社会に相関的な相対性のある概念であり、キリスト教、自由主義、マルクス主義、そして科学もカルトであったのであり、社会から集合的制裁=迫害を受けて来てたのである。
 
 科学が真理の王として君臨した現代社会では、科学に反する知識体系はカルト扱いされることになる。その尻馬にのっているのがニセ科学批判である。科学は自らが中世社会でカルトとして弾圧されてきたトラウマ記憶を忘れ、真理を主張する非科学的知識をバッシングするのである。
 社会が変われば、何がカルトであるかも変わるという社会学的真理を無視して、自らの立場が普遍的に正しく絶対的であると思い込み、自己に違和的な知識体験を文化的に排除するのである。ニセ科学批判や科学主義によるカルト批判は、文化的排除の一種である。

 社会学からすると、古代社会によるキリスト教弾圧や中世社会による科学者の弾圧と同じ社会的メカニズムで、ニセ科学批判が起こっているのである。人類は同じ過ちを繰り返してはならないのである。社会学のみがこの過ちに気づいているのである。
 こういうと、またニセ科学批判者が文化相対主義だと批判してきそうである。ところが、逆説的であるが、社会の秩序を支える知識体系や価値規範がそれに反する逸脱者に制裁を加えるという社会学的真理のみは、時代を通して不変であり、相対性を免れていることになるのである。そういう意味で、自然科学的真理よりも社会学的真理の方が普遍的で確かであるのではと思う次第である。

 既存の社会の価値観を疑うことなしに、社会が支持する通俗道徳に準拠して、他者批判を行うニセ科学批判者は社会に洗脳されており、基本的に保守的である。ニセ科学のビリーバーに対して信じるな疑えと言っているが、当のニセ科学批判者自体が通俗道徳のビリーバーなのである。ビリーバーという観点からは、目くそ鼻くそを笑う関係である。
 ニセ科学批判者は社会を疑わない人たちであり、自己の属する社会を疑い、相対化し、洞察を深める社会学の徒とはそこが決定的に異なる点である。

 斉藤氏は、菊池氏や後藤氏のように俗流カルトバッシングに走るのではなく、異なる価値観をもつ人たちを排除せず、役割分担させ、共存の道を探るという極めて社会学的には妥当な処方箋を示しているだけなのである。ニセ科学批判者たちがこの処方箋を理解できないのは、彼らが自己の所属する社会の支持する科学と通俗道徳を絶対化し、思考停止に陥っているからである。さらに、他の観点を受け入れず、また自己の観点のみが議論するに相応しいと絶対化するのも特徴である。斉藤氏が提示した観点を単なる相対主義と思うのは浅学の者なのである。

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by merca | 2010-10-11 12:13 | ニセ科学批判批判

社会学玄論講義 相対化作法の類型5

 (別の区別の再参入)
 自己言及のパラドックスは、相手の言説が準拠する(相対/絶対)、(原因/結果)、(目的/手段)、(真/偽)、(善/悪)などの区別を暴露し、同じ区別を自己適用させることで、決定不可能な自己矛盾を指摘し、否定に追い込む方法であったが、それとは逆に、相手の言説が準拠する区別とは全く異なる区別を投入することで、相手の言説を相対化するとともに、コミュニケーションの契機として取り入れていく手法がある。それが、別の区別の再参入である。つまり、相手の言説を別の区別に準拠する観察点から観察し、コミュニケーションを連接さていくということである。相手の言説は別の意味に変容されることで相対化されるものの、コミュニケーションの中に別のかたちで生かされていくのである。
 これは、自己言及のパラドックスに陥り、コミュニケーションが行き詰まった時に、脱パラドックス化の手段として使用することもできる。
 
 宮台真司が、殺人がなぜ悪いかという哲学的難題について、別の区別の再参入によって脱パラドックス化を図ったのは有名である。殺人が悪であることは、哲学的議論として論証することはできない。なぜなら、善悪の基準を正当化するためには、その基準が正しいかどうかを判定するそのまた基準が必要になり、結局、基準の基準を無限遡及することになってしまうからである。善悪の絶対的な基準があってもなくても、道徳システムは成立しないのである。
 宮台氏は、このような道徳システムのパラドックス化を社会学の観点から救い上げたのである。道徳システムを(意味/強度)という別の区別に準拠して観察すると、善悪の絶対的な基準を論証しようとする態度は意味(理性)の立場に立っており、強度=好嫌や快苦の立場に立っていないことが暴露されることになる。さらに、社会学的に説明すると、社会は、仲間を殺すことはできないように人間を社会化しているのであり、社会化された普通の人間は殺人を生理的に嫌い殺人ができないようにプログラムされているのである。
 そこで、殺人がなぜ悪いかという問い自体は、いかにして社会が殺人を好むような人間をつくらないかという課題に変換され、コミュニケーションされていき、有意義化されるのである。善悪の究極的基準によって殺人禁止の道徳的根拠を見いだすという不毛な哲学論争は、社会学的観点から見事に相対化され、別のコミュニケーションへと変換され、有意義に連接していくことになるのである。

 科学は、認識と対象の一致という真理観を採用しているが、そのために認識と対象の一致を判断する基準そのものが正しいかどうか判断するそのまた基準が必要になり、最終的に対象と認識が一致しているという絶対的根拠を示すことができなくなる。(対象/認識)の区別に(対象/認識)を自己適用すると、パラドックスに陥る。かくして、対象と認識の一致として真理を捉える科学観は行き詰まることになる。そこで、構造構成主義などは、(対象/言葉)という別の区別から観察し、言葉(の使用法)の同一性から科学を根拠づけることで、客観性を担保しようとする。
 また、科学的真理の正しさは、事実についての認識の正しさという観点ではなく、利用可能性や説明可能性の観点から判断するということも可能である。すなわち、科学的真理が、事実についての絶対的に正しい認識であるかどうかが最終的に判断できないのなら、(利用可能/利用不可能)あるいは(説明可能/説明不可能)という別の区別から判断して正しさとすることもできるわけである。
 利用可能性とは、科学的真理が様々な目的のために利用価値があるかどうかである。現代人の生活は科学的知識を利用することで成立っている側面が多く、その意味では科学は真理として見なすことができる。また、あらゆる現象を説明する能力も科学は高いのであり、説明可能性からしても真理として見なすことができる。
 科学は、事実についての認識の正しさ、つまり対象と認識の一致という真理観を採用しなくても、現代社会では、利用可能性、説明可能性という観点から真理として正当化できるのである。対象と認識の一致という古い科学観に拘り続け、事実は一つしかないという観点から、他説をニセ科学として否定するニセ科学批判者の科学観は素朴で古すぎるのである。対象と認識の一致という真理観を採用する古典的科学主義こそがニセ科学批判者の科学観の本質である。真理の効用説=科学の利用可能性や真理の整合説=科学による説明可能性に基づいた新しい科学観からしたら、ニセ科学批判はナンセンスなのである。
 
 とにかく、別の区別の再参入は、相手が準拠する区別とは、別の区別から相手の区別を観察し、相手の区別それ自体を自己の区別の片方の項に入れ込むことで相対化し、コミュニケーションを連接していくわけである。重要な点は、相手の区別それ自体をうまく自己の区別の片方の項に入れ込む作業であり、入れ込みがうまくいかないと、コミュニケーションは連接していかないことになるので注意しないといけない。闇雲に、どんな区別からでも相手の区別を観察できるわけではなく、何でもありの相対主義にはならないことを釘をさしておこう。一つの目的によってなんでも他者の区別を手段化する方法とは一線を画するのである。
 斜めから別の区別を投入する技は、極めて社会学的センスが求められ、宮台レベルのコミュケーションの達人論客にしか使えない技と知るべきである。

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by merca | 2010-09-20 12:47 | 理論

社会学玄論講義 相対化作法の類型4

(自己言及のパラドックス)
 自己言及のパラドックスとは、相手の準拠する区別そのものに同じ区別を適用することで、相手の言説を決定不可能に導き、その絶対性を否定することである。
 例えば、相対主義者の用いる区別である(絶対/相対)という区別を相対主義にも適用した場合、決定不可能に陥る。相対主義が相対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は正しくなくなり成立たなくなるし、相対主義が絶対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は絶対的だということになり、矛盾することになる。相対主義の主張は、相対的であっても、絶対的であっても、自己矛盾を起こし、成立たなくなる。原理性相対主義は、このように自己言及のパラドックスを含んでおり、成立たない。
 ちなみに、絶対主義の命題である「絶対的な真理は存在する」という命題は、絶対的であれば、成立つことになり、自己言及のパラドックスは起きない。自己言及のトートーロジーが起きるだけである。片方の項のみに、自己言及のパラドックスが起こることになる。あるクレタ島人がクレタ島人は正直だと言った、という命題は、パラドックスは起きないのである。
 
 科学における反証主義自体に反証可能か不可能かを適用すると、自己矛盾が起きる。反証主義が反証されないとすると、反証不可能な命題となり、科学的に正しくなくなるし、逆に反証主義が反証されうるとすると、反証される可能性があるのだから、完全に科学的に正しくなくなることになる。ちなみに、実証主義には、このようなパラドックスは起きない。

 合理主義の準拠する(目的/手段)図式に(目的/手段)を適用すると、目的それ自体も合理的でなければならず、別の目的の手段であることが必要であり、目的は別の目的の手段として相対化される。しかし、そうなると、目的の目的を無限遡及することになり、究極目的はないことになる。しかし、一方で、合理性が成立つためには、手段を最終的に根拠づける目的が必要となってくる。
 要するに究極目的が存在してもしなくても、自己矛盾を起こし、合理性は成立たなくなる。もし究極目的が存在するのなら、究極目的だけは非合理ということになり、世界は合理的であるという合理主義の命題は破綻する。また、究極目的が存在しないとすると、最終的に手段を合理化する根拠としての目的がないことになり、世界は合理的であるという命題は成立たなくなる。
 また、同様にして、決定論=因果律に因果律を自己適用すると、成立たなくなる。第一原因があってもなくても因果律の世界は成立たなくなるからである。

 社会科学が準拠する合理性も、自然科学が準拠する因果性も、ともに自らの準拠する区別を自己適用すると、成立たなくなり、自己言及のパラドックスに陥ることになる。
 一つの区別に準拠する閉じた形式体系は、必ずパラドックス命題を含んでおり、自身からは説明ができないのである。説明するためには、別の区別から観察していく他ないのである。次回、別の「区別の再参入」を紹介したい。
                                           続く

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by merca | 2010-09-18 23:51

(目的/手段)という区別の脱構築

 (目的/手段)という二項図式においては、手段よりも目的のほうが時間的にも先にあり、価値論的にも優位であると考えられている。しかし、この二項図式も脱構築されてしまう。
 
 一般に行為の意味は、他者から(目的/手段)という枠組みで解釈され、人々に理解可能なものとなる。つまり、目的が手段たる行為をつくりだすのではなく、行為は他者に解釈されることで、後付けで目的がつくられる。他者に理解可能でコミュニケーションされた行為のみが、社会的事実だとすると、行為の目的や意味はあとでつくられるものである。目的があたかも時間的に先行したと思うのは、一つの錯覚である。犯罪行為の目的や動機が取調べ機関の濾過を経て、社会的に形成されることはよく知られている。行為の意味はあとから付与されるのである。
 
 とにかく、このように手段たる行為が先にあり、手段を条件として、他者の観察によって目的が形成されることになる。コミュニケーションとは、情報、伝達、理解の選択過程であり、特に他者がどのような区別を選択して理解するかが重要なのである。コミュニケーションの事後成立性は、目的と手段の優劣関係を逆転させることになる。
 
 また、(原因/結果)という区別から観察すると、手段が原因となって目的達成という結果を生み出すわけであり、これまた手段が目的をつくりだすことになる。目的は手段に依存していることになる。
 
 実は、何か目的があって手段を選択するというのは、意識システムの次元だけの話であり、意識システムにおいてのみ手段は目的に先行することになる。行為者の意識システムの目的や意図とは別様に、行為は他者による観察によって目的や意味が付与され、コミュニケーションされていくことで、社会的事実となるのである。

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by merca | 2010-09-18 09:01 | 理論