タグ:相対主義 ( 38 ) タグの人気記事

社会学玄論講義 相対化作法の類型3

 社会学玄論講義 相対化作法の類型3

(脱構築)
 デリダの脱構築も相対化作法の一つである。西洋形而上学は、善と悪、本質と現象、絶対と相対、客観と主観、真理と虚偽など、様々な二項対立図式から構成されている。しかも、善は悪よりも、本質は現象よりも、絶対は相対よりも、客観は主観よりも、真理は虚偽よりも、根源的で価値があると考えられてきた。形式化していうと、片方の項がもう片方の項よりも存在論的にも価値論的にも優位であると考えられてきた。このような二項対立図式を内部から解体する方法が脱構築と呼ばれる。脱構築によって二項の序列関係が逆転化されてしまうことになるのである。

 脱構築を使用すると、次のようになる。本質から現象が生じたのではなく、個々の現象を観察することで本質たるイデアの観念がつくられた。悪が先にあり、悪を防止するために善がつくられた。主観が先にあり、複数の主観の合意点として客観がつくられた。相対的な考えに耐えることができず絶対的なものを必要とするようになった。虚偽による失敗を防ぐために真理が述べられるようになった。つまり、このように優位と思われた項は、実は、劣位の項を条件として発生したものであることがわかる。そうなると、優位の項が劣位の項を完全に否定・排除しては成立たなくなる。

 ニセ科学批判とは、科学と名乗る学説や商品などの対象を本物科学とニセ科学とに区別し、ニセ科学を否定し、本物科学を肯定する思想である。脱構築をニセ科学批判に適用すると、こうなる。
 (本物科学/ニセ科学)のうち、本物科学のほうが先に存在し優位であると思われているが、実はニセ科学が存在するからこそ、科学主義たるニセ科学批判が発生したということになる。ニセ科学批判の成立条件は、ニセ科学の存在であり、ニセ科学を完全否定してはニセ科学批判は成立たなくなることになる。本物科学は、ニセ科学との差異によって根拠付けられることになり、ニセ科学を必要とすることになってしまう。脱構築の発想からすると、偽物の出現によって、はじめて本物も存在し、偽物と本物の区別はつくられるのである。先に本物が存在するのではなく、ある対象に偽物のレッテルを貼ることで、事後的に本物がつくられるのである。
 かくして、ニセ科学批判が準拠する二項対立図式である(本物/偽物)という区別の価値序列は解体され、破壊される。つまり、脱構築されることになる。
 脱構築は、二項対立図式の両項の序列関係を逆転させ、図式そのものを解体する相対化なのである。脱構築は解体のみに終わる単純な相対化ではなく、実は隠された視点=第三項を暴露することになる。そもそも、二項を区別する基準そのもの=第三項を露にして見せることになるからである。
 実は、科学は、自らが本物だと言うために他説に偽物のレッテルを貼ることでしか、自らのアイデンティティ=自己同一性を保つことができないほど、曖昧なものだということを露呈しているのである。何が科学かという論争はずっと結論が出ていないわけであり、科学観の曖昧性に耐えきれない脆弱な者たちが、他説に偽物のレッテルを張り、かろうじて自己満足しているのである。ニセ科学批判者にとっては、科学の自己同一性はニセ科学批判を通して事後的に構成されるのである。
                               続く

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-12 23:19 | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型2

相対化作法の類型2

(弁証法)
 弁証法による相対化について説明したい。弁証法と言えば、やはりヘーゲルやマルクスである。しかし、ヘーゲルやマルクスが流行っていた時代があったが、かなり廃れて来たように思える。あまり弁証法を使用するネット論客を見かけなくなった。寂しさを感じるのである。
 簡単に言うと、弁証法による相対化とは、相手の命題と反対の命題を立てることで、相手を相対化するという手法をとる。詳しく言うと、反対の命題を立てて、相手の命題とその反対の命題はともに同等の正当性があり、どちらの主張も正しいという自己矛盾を指摘し、その矛盾を止揚するジンテーゼに導き、相手の説を否定するとともに包含し、より高次の立場に導くわけである。だから、単なる相対化とは話が違うことになる。相手を相対化するものの、ジンテーゼという解決策を示すことで、ニヒリズムに陥ることもない。
 具体例を示そう。「世界は有限である。」という命題を相対化するために、「世界は無限である」という命題を立てる。カントのアンチノミーであるとおり、この二つの命題は互いに矛盾しているが、同等の正当性を主張し、どちらが正しいかわからない。そこで、「世界は生成変化する」という命題を提示することで、有限と無限を止揚することができる。生成変化においては、一瞬一瞬の状態は区別され有限であるが、次の瞬間に別のものに変わることで無限に続いていく。生成変化のエレメントとして、有限と無限があり、有限だけでも無限だけでも、生成変化という運動を説明することはできないのである。かくして、「世界は有限である」と「世界は無限である」という二つの命題は、「世界は生成変化する」という命題によって止揚される。
 ヘーゲルは、同一性と別異性、有と無、善と悪、真と偽などの哲学的な概念は、弁証法によって克服されていくと考えた。このような弁証法は、一般に正反合の過程で形式化される。
 これを科学主義やニセ科学批判を相対化することに応用するとなると、かなり難しい。弁証法は哲学的な抽象概念を相対化する技法であるからであり、かなりレベルを抽象化しないと適用しにくい。適用するとすると、科学やニセ科学批判の根本的前提にかかわる部分だけになる。
 
 例えば、ニセ科学批判者は「事実は一つしか存在しない」(客観主義)という命題を前提とし、ニセ科学の知識が虚偽であると批判するわけである。その場合、ニセ科学批判者の「事実は一つしか存在しない」という命題に対して、「事実は複数存在する」(主観主義)という対立命題を定立して科学を相対化したとする。どちらが正しいかは決めることができず、結局、決定不可能に陥る。そこで、事実は、対象と認識主体の関係性で形成・構成されると考え、同じ認識方法を採用すれば、事実は一つになり、異なる認識方法を採用すれば、事実は異なり複数になるという考え方で止揚する。
 つまり、同じ認識方法で認識すれば、必ず同じ認識内容を生ずることになり、対象についての事実は一つになる。一対一対応となり、客観化される。しかし、認識方法が異なると、事実も異なることになる。対象と認識主体の分離主義ではなく、関係主義をとることで、止揚することができる。認識内容の客観性は認識方法の同一性によって担保されるし、認識内容の主観性は認識方法の別異性によって担保されることになる。かくして、客観性と主観性の対立矛盾は、関係主義によって止揚されるのである。
 ニセ科学批判者は、相手の認識方法が異なることを無視し、事実は一つであるから、自己が正しいとしてニセ科学の主張を批判する。さらに、認識方法が全く異なるスピリチュアルまでも批判するのである。事実を根拠にして、相手を批判する場合は、相手も自己と同じ認識方法を採用している場合だけである。ニセ科学批判者は、しはしば、この鉄則に違反していることがあるので、要注意である。

 さて、以上のように、弁証法は、相手の説に対して反対の説を提示し、相手の説を相対化しつつも、相手の説を取り入れることで、思考を発展させていき、総合的解決へと導くのである。弁証法は、固定化された原理主義とはほど遠いのである。また、「相対性も特定の目的を実現するためにのみ有用」や機能的等価主義などとも異なる作法である。弁証法は対立する考えを総合する運動が目的であり、目的は固定化されているところが異なるのである。世界にある全ての異なる観点を総合へと向けて無限に発展させていくのである。目的が固定化されているからといっても、相手を完全排除するのではなく、むしろ包摂していくところが弁証法の特徴であると言えよう。特定の目的から相手を完全排除するタイプの相対主義のほうがむしろ原理主義になってしまうのである。

 弁証法はポストモダン思想の前に流行った思想であり、日本でも弁証法をうまく使用できるタイプのネット論客をほとんど見かけない。ヘーゲルのドイツ観念論をきっちりと習得したネット論客は少なく、いたとしてもかなり年配であり、つまらぬネット議論からは距離をとっておられることと思われる。若手のネオ・ヘーゲリアンの登場に期待したい。

                                    続く

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-12 12:38 | 理論 | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型1

相対化作法の類型1
 
 他者の説を相対化する作法を相対主義と定義するのなら、相対主義は色々な種類が存在する。それについて説明していきたい。
 さて、黒木玄さんの相対主義に関する見解が掲載されている以下のHPがある。
  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html#absolutism
 しかし、実はこれはかなり古すぎる考えであり、相対主義についての見解として単純・凡庸すぎる。認識と価値に区別して相対主義を分類する方法は、単純すぎる。他にも、別の区別に準拠して相対主義を考える必要がある。多くのニセ科学批判者は、相対主義の種類が単に認識論的相対主義と価値論的相対主義の二つしかないと考えており、相対主義について深く思索してきた人文系の研究者にとっては、全く話にならないのである。
 
(認識論的相対主義)
 まず、認識論的相対主義の基本を押さえておこう。このタイプの相対主義は、事実(真理)は一つという考え方は間違っており、認識方法が異なると対象は異なって認識されるので事実は複数存在しており、一つの認識方法に基づいた知識のみが正しいと考えるのは、間違いであるとして、他説を相対化する。例えば、同一対象についての科学的認識も宗教的認識も、どちらか一方のみが正しいのではなく、どちらも正しく、平等であると相対化する。進化論も創造論も同等の正しさがあると考えるわけである。同一の対象に矛盾した認識があっても、どちらも正しいとして肯定する。認識論的相対主義者という視点から観察すると、自己の認識のみが正しく他説は正しくないと否定する科学主義者やニセ科学批判者は、自説を他と比べて特別化・絶対化しているので、絶対主義者として観察されてしまう。言い換えると、事実は一つであり、他説は間違っていると堂々と批判するニセ科学批判者は、認識論的絶対主義ということになる。認識論的絶対主義の否定が認識論的相対主義である。
まとめると、次のようになる。

認識論的絶対主義・・・一つの対象についての事実は一つであり、正しい認識方法は一つしかない。暗黙に、対象が単相的・全体的であることを前提としている。
 
認識論的相対主義・・・一つの対象についての事実は複数であり、複数の異なる認識方法のどれも正しい。暗黙に、対象が複相的・部分的であるとことを前提としている。異なる認識方法は、対象の異なる部分を観察していると考えているのである。

 認識論的絶対主義も認識論的相対主義も、別の区別から観察すると、同一の観念であると観察できる。それは、いずれも真理の対応説に準拠しているからである。どちらの主義も、真理は対象と認識の一致という考えを採用している。この前提を共有していることについて、両者は盲目である。

(機能的等価主義)
 これは、ある目的(あるいは意味)から観察すると、異なる知識や思想であっても、手段=機能として同一であるとし、相対化する方法である。例えば、仏教もキリスト教も、人々に死生観を与えて生きる意味を提供するという点においては、同一の機能を有することになる。教義内容は全く異なるが、生きる意味の提供という目的からすると、同一であり、どちらも正しく、互いに否定しあう必要もなく、対等である。信教の自由なので個人の選択まかせればよい。
 また、人々に科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識であると流布する目的(科学のイデオロギー化という目的)から観察すると、ニセ科学もニセ科学批判も、機能的等価である。この観点からすると、ニセ科学もニセ科学批判も目くそ鼻くそを笑う関係であり、ともに科学主義として観察されることになる。
 この観察点から最初に記事を書いたので、目くじらを立てて、菊池氏や天羽氏が私のブログに殴り込みに来た。つまり、科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識とその獲得方法であるという前提をニセ科学もニセ科学批判も共有していることに、盲目であることを指摘したら、怒って来たのである。ちなみに、ニセ科学とニセ科学批判が機能的に等価であるという視点は他にも多くある。(思想としての機能とか・・・)
 とにかく、あくまで特定の視点に立ったら、ニセ科学とニセ科学批判が相対化されてしまうことを理解できなかったようである。もちろん、他の視点から観察をすると、ニセ科学とニセ科学批判は差別化されると思われる。私は社会学の立場にたち、社会学的の視点(イデオロギー論的視点、知識社会学的視点)を選択化しているだけであり、絶対化しているわけではないのに、絶対化していると菊池氏は勘違いな反応をしてきたが、ナンセンスなので、あえて答えなかったを覚えている。
 このように機能的等価主義とは、特定の視点や目的から観察することで、異なるものを同一視して相対化する手法なのである。ただ、これと反対の作法である機能的不等価主義もあり、異なるものの中から一つのだけを絶対化する作法も理念としては考えられる。例えば、科学の公準などに含まれる実証性という点からは、科学は他の知識体系よりも優れており、絶対化されることになる。しかし、これも一つの観点にすぎないのに、ニセ科学批判者は他者に押し付けることで絶対化している。ニセ科学批判者は一つの観点を固定化し、それを他者にも共有することを強制し、相手を説得にかかる傾向にあるので、要注意である。
 正しい視点はあり得ないが、仮に同一の視点を共有することで、議論の正否は確定できるという穏健な態度を理解できていないので、ニセ科学批判者はコミュニケーションで摩擦が起きているのである。
やはり、コミュニケーション形式を観察すると、全てのニセ科学批判者は、自己の視点のみを他者に押し付けて正当化する原理主義者である。
 究極のメタな視点=神の視点が存在しなく、基本的には異なる全ての視点が平等であるという相対主義を機能的等価主義は前提としている。

     続く

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-11 12:25 | 理論 | Comments(0)

ニセ科学批判に釣られる相対主義者たち

 逆転の発想をとって別の視点から観察してみよう。もしや我々相対主義者たちは、ニセ科学批判者の本来の意図はさておき、結果として今までニセ科学批判に釣られてきたのではないか? 実際、そのようにも観察できる。私も含めて多くの文系相対主義ブロガーたちが、科学は絶対的でないとニセ科学批判者に言うことで、ニセ科学批判に釣られてきたのではないか?
 自説を絶対化している人間を見ると、一言いいたくなる傾向が相対主義者にはもともとある。そこをうまく利用され、今までニセ科学批判に釣られて来たとも言える。これは反省しないといけない。
 今更ながら、ニセ科学批判の恐るべし、ネットパワーを痛感する次第である。もうこれは一つのネット文化となっていると断言したい。あっぱれなり、ニセ科学批判!! 
 ネット議論で、ニセ科学批判関係ほど、甘美なものはない。これはもう科学論争として観察するよりも、ネットコミュニケーションによる大スペクタル・エンターティメントとして観察したほうが面白い。ニセ科学批判、おそるべし、おそるべし・・・。
 しかし、それでも、私は、科学は絶対的でないという主張をやめないであろう。もはやそれが私の役割として固定化しているからである。(これまでと異なる視点からの観察でした。)

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-08 01:02 | ニセ科学批判批判 | Comments(1)

情報学ブログさんへ(若干の回答)

情報学ブログさんが取り上げた私のブログに関するエントリーに論評を加えておきたい。
  「社会学玄論がダメな理由―相対主義の怖い罠」
 タイトルの書き方は、私のエントリーの書き方と似ている。相対主義がそんなに怖いかと思うが、このくらい大袈裟に書かないと、読者の気をひかない。エンターティメントとして観察すると、こういう表題を見ても、私は感情的にならない。さらに、ニセ科学批判者たちの批判を受けて慣れているからである。この点、ニセ科学批判者に感謝、感謝・・・!! 誠に、てーげーな状態なのである。

○ 情報学ブログさんもやはり相対主義である。
 情報学ブログにおいては、絶対的に正しい真理や道徳の基準は存在しないと考え、それをベースにして、原理主義を回避し、目的に応じて、異なる相対的視点を用いて議論されている。構造構成主義と同じく、絶対的に正しい真理や善悪は存在しないということを根本仮説として立てていることから、基本的に相対主義であると言える。つまり、相対主義を否定しては、情報学さんの考えは成立たなくなる。相対主義を原理として利用している。むしろ、そのような徹底した相対主義に立っているからこそ、原理主義に陥らず、臨機応変に対応することができる。私のように、相対主義者と宣言されたほうがすっきりとするのではと思う。
  参考
 私は、ニセ科学批判者の問題を、単なるニセ科学の被害のレベルではなく、ニセ科学批判者のもつ世界観及びそれに基づく自我の統合の在り方の問題として観察している。同じく情報学ブログさんの認識構造についても、同じようなレベルで観察させてもらっている。メタな視点なので、当人が自覚しているレベルと自ずと異なるかもしれない。当然のごとく、私の思想についても、他者の観察にさらされる他はないのである。目的が異なるからといって無視するかどうかで、議論は変わってくる。

○現代社会のあり方はどうなっているのか?
 相対主義が社会に既に蔓延しており、今更相対主義を唱えても意味がないという主張であるが、逆であると認識している。相対主義が蔓延しているのは一部のインテリ階層や日本の若者であり、全世界に行き渡っていると思えない。前期近代社会の段階の社会もあり、科学や民主主義が絶対的なものであると信奉している方も多い。近代化思想の絶対化である。非西洋は、もともと神仏習合など多神教的世界観=相対主義的感覚をもっており、後から来た近代化のせいで西洋の原理主義的思考が混入されてしまったというべきである。
 現代社会を日本の国民社会と捉えるのか、ルーマンのように世界社会として捉えるのかで異なると考えられ、成熟社会化している国民社会はまだ世界には少なく、原理主義的な思考はかなり多くある。また、欧米、西洋、イスラムは一神教の文化が根付いており、原理主義的文化を払拭するのは困難である。相対主義が行き渡っている階層に関しても、相対主義やニヒリズムに耐える力こそ必要であるのに、安易に科学主義などに陥っている。

○ニセ科学批判者にメタな視点はない。
 多くのニセ科学批判者は、宗教、占い、オカルトなどニセ科学でない領域まで批判する。菊池氏にこそその本質が伺える。菊池氏は、江原氏のスピリチュアルを批判している。科学的事実のみが正しいという科学原理主義の発想をとらないと、このような領域侵犯は起こらない。また他者を強く批判し、他人のブログに侵入してくるなど、絶対的な自信がないとできないことである。ニセ科学批判を布教するコミュニケーション形式から判断して、科学原理主義者である。菊池氏には、メタな視点はないと考える。多くのニセ科学批判者は、相対主義を毛嫌いしており、自らのうちに相対主義を取り込み、生かそうとする態度が認められない。

 基本的に情報ブログさんの観察もありうるので、否定はしませんが、私の他に相対性原理主義者がいるかどうか教えてもらいたいです。いなければ、数少ない立場として希少価値があるので、当分、この立場を利用させていただくことも視野に入れています。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-05 12:17 | 他ブログコメント | Comments(9)

科学はつくられたもの。(反証主義批判)

 科学議論に対して、(本質/構成)という区別で観察し、科学はつくられたものであるという基本的な前提を忘却する者どもに警告を発したい。

 反証主義は、「反証可能性のある命題は、科学的である。」という命題を主張する。ならば、反証主義のこの命題それ自体は科学的なのだろうか? そのためには、「反証可能性のある命題は、科学的である。」という命題それ自体が、反証可能性があるかどうか吟味しないといけない。しかし、この命題に反証可能性があったとしても、なかったとしても、命題は成立しない。反証可能性があったとしたら、いずれは反証され、命題は正しくない可能性があるということであり、命題が完全に正しいということは証明できなくなる。反証可能性がなかったとしたら、反証可能性のない命題となり、科学的な命題ではなくなる。
 このように反証主義は、自らの区別である(反証可能性/反証不可能性)を自己適用すると、自己言及のパラドックスに陥る。科学の中心的定義だと思われている反証主義は、科学的であることを自ら根拠付けすることができないのである。このことが意味するのは、本質主義によるいかなる科学の定義も不可能であるということである。本質主義とは、あらかじめ科学という客観的実体が存在し、その対象の本質的性質を把握することで、科学を定義したとする考えである。ポパーの反証主義は典型的な本質主義である。
 しかし、万民を納得させる科学の定義など、最初から存在しない。むしろ、構築主義的には、多数派の科学者集団に受け入れられることよって仮に特定の科学観が正当な科学の定義として公認されるだけの話である。科学は、人々のコミュニケーション過程を離れては存在するものではなく、極めて社会的につくられた一つの文化なのである。
 ここで注意しないといけないのは、人々のコミュニケーション過程で生み出されたものだと言っても、人々の合意や約束事によって科学が定義されると考えてはならないことである。合意主義や規約主義は、往々にして本質主義に走る傾向がある。つまり、人は科学とは何であるかを討議して話し合う場合、(真/偽)の区別を密輸入し、「本当の科学(ニセ科学)とは何か?科学とはどうあるべきか?」という本質主義的な方向に走る。様々なブログで認められるニセ科学批判論争は、この方向に走っている。区別をさかのぼる思考である。そのために、各人の科学観が実体化され、摩擦がおき、排他的・攻撃的・閉鎖的になってしまう。科学は、そもそもつくられていく人工物であり、最初はニセも本当もないという基本的な認識を喪失してしまっているのである。
 (特に、自然科学者は、自然という非人工物を扱うので、科学がつくられた人工物という認識を喪失しやすい。)
 
 構造構成主義者がいうように、科学は、人々の偶然なコミュニケーション過程における使用法の同一性にしかその実質を見い出すことはできない。

   (参考)
ハーバーマスの理想的発話状況における討議的理性によって真理を確定するという発想は、コミュニケーションを優先させているようであるが、ある意味、本質主義の典型である。合意主義、規約主義は、ともすると、本質主義に陥り、パラドックスに陥る。


 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
[PR]
by merca | 2008-08-10 08:40 | 理論 | Comments(0)

「事実」という物語

 科学的事実あるいは客観的事実を重視する連中、すなわちニセ科学批判者やスピリチュアル批判者は、結局、事実そのものではなく、「事実」という物語を求めているにすぎないという視点も成立ちうる。事実を物語(思想)として受容し、それが自己観念と結合してしまっているのである。従って、事実を否定されたら、とたんに目くじらを立て怒りだす。正しく、これは、ニセ科学批判者に認められる心的傾向である。事実が自己のアイデンティティと結合し、物語化あいるは規範化してしまっているのである。(事実を事実として受容する人間は、事実と違うことを見ても怒らない。)
  ポストモダン社会となり、全てが相対化され、その相対性に適応できない連中が、「事実」という物語にしがみつき、自我を支えようとしているのである。科学に「事実」というレッテルを貼り、それに依存するのである。

 科学に生きる意味=物語を見い出す人たちは、他ならぬニセ科学批判者たちなのである。「事実」という物語で他者を批判するのはいかに甘美なことであろうか。事実を物語として受容していることに気づかないうちは・・・。彼等は、事実を必要としているのではなく「事実」という物語を必要としているのである。

  参考・・・他ブログ
   事実が必要とされない理由
  

  人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。

人気blogランキングへ

[PR]
by merca | 2008-03-11 00:43 | 社会分析 | Comments(11)

価値観強制としての教育

 
 若者達の間に、人に価値観を押し付けてはいけないという規範が流布している。この規範を若者が絶対化するために、教育そのものが成立たないと悲鳴をあげる大人たちがいる。なぜならば、教育の目的は、社会に適応できる人間をつくるために、子供に価値を伝達することであるからだ。教育の本質は、価値観の押し付けである。プロ教師の会という教育思想集団がこの現実にもっとも自覚的である。彼等の思想は、教育を子供の社会化(社会的価値の内面化)として捉える古典的社会学理論(規範主義パラダイム)に準拠している。

 教育社会学の古典的な思考枠組みからは、殺人禁止道徳=価値観(命は尊い)についても、最初から子供が所有しているわけではなく、後天的に教育によって植え付けられると考えられる。従って、この立場からは、殺人禁止道徳を所有していない人間は教育の失敗として捉えられる。

 少年による猟奇的殺人が起きた時には、まずは教育の失敗として考えられ、マスコミの報道を通して、事件を起した当人だけではなく、世間の全ての子供に十分に教育が行き渡ってないと憶断され、教育パニックなるものが起り、教育者によって命の大切さを押しつける道徳教育が施されるわけである。殺人を肯定する子供が出るということは、教育者からしたら、価値伝達(人間として生きるための価値の伝達)の失敗であり、教育の敗北を意味する。

 ところが、先にいかなる価値観も押し付けてはならぬという価値規範を内面化してしまっている若者達は、価値観の押し付けである教育そのものを拒否するため、殺人禁止の価値観も押し付けることができないのである。ここでジレンマが起きてくる。個人主義の絶対的原理である価値観強制禁止道徳と、人権主義の根本原理である殺人禁止道徳の対立である。どちらを優先させるべきかである。言い換えれば、これは相対主義と絶対主義のどちらを選択するかと同じである。

 この問題を解決するには、価値観の種類を分類する必要がある。価値観は、善/悪、損/得、好/嫌、恥/名誉の四つに分類される。まずは、好/嫌は人の好みの問題であり、押し付けるべきものではない。損/得や恥/名誉も、同じである。周りから見て他人が損をしていたり、恥をかいているのを見て、助言ぐらいはできるが、考え方や行為を強制することはできない。自己選択の世界である。
 さて、善/悪はどうだろうか? 善/悪とは、他者との関係性における規範である。関係性とは、自分の行為が他者に影響を与えるという事態をさす。自己は、他者の幸不幸に影響を与える責任を負うことになる。結論からすると、善悪の価値観だけは他の価値とは異なり、他人に押し付けることが許される価値観である。要するに、他人との関係で生じてくるものであるからである。

 実は、価値観強制禁止道徳それ自体が、善悪の次元の価値観であり、これを他人に主張することで、すでに自己の価値観を押し付けているのである。そのことに若者は気づいていない。他人から価値観を押し付けてきた時に、いかなる価値観も押し付けてはいけないという理由で拒否したら、それは押し付けてきた他人に対する価値観の押し付けになるのである。自己言及のパラドックスと構造は同じである。言い換えれば、価値観強制禁止道徳は、価値観を押し付けてくる他者からの価値観を受け入れても拒否しても、矛盾が生じ、成立しないのである。

 現実社会に価値観強制禁止道徳を生かすためには、価値観の分類という新しい区別から観察する必要がある。要するに、個人だけにかかわる損/得、好/嫌、恥/名誉の価値観に関しては押し付けてはいけないという原理を適用し、他者との責任関係に関わる善悪の価値観に関してだけは適用外とするわけである。そうすることで、価値観強制禁止道徳はうまく機能する。だから、人権思想に基づく殺人禁止道徳は、善悪の次元の価値観なので、価値観強制禁止道徳の適用外であり、押し付けてもいいわけである。

 善悪の価値観は、他の次元の価値観と異なり、形式的には、はなから他者に押し付けてもいいという定義が含まれているのである。社会学的にいうと、個人の趣味や利害だけに関わる価値観だったら、最初から道徳とは言わないのである。なのに、他者との関係性のレベルの価値観と個人のレベルの価値観を混同して、やたら価値観強制禁止道徳を主張しまくる自己防衛的自我をもつ若者たちが多いのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

[PR]
by merca | 2007-03-11 11:11 | 理論 | Comments(0)