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ヒュームの連合観念説の誤謬

 ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である。要するに、連合観念説によれば、因果律は、人間の習慣的思い込みの結果にしかすぎないというわけである。人間主観が観念と観念を結合させるだけであり、対象の側にはその結合の根拠はないというわけである。
 実は、このヒュームの連合観念説には、大きな誤謬がある。ヒュームは、人間の認識が、結合を本質とするのではなく、区別を本質とすることを理解していない。ここに問題がある。詳しく説明しよう。
 人間は、対象世界を区別して分割して観念をつくりだすのであり、その逆ではない。つまり、不可分の連続する対象を区別して分割し、事物を認識するわけであり、従って区別されたものどうしは、本来、対応関係にある。一方がなければ、他方はないという相互依存関係なのである。人間が無理矢理区別して分離したにしかすぎないわけである。人間は、連続している対象世界を分割して、ひきちぎり、独立した別個の存在として一つの観念を形成するわけである。
 分離観念説が認識の本質なのであり、連合観念説は成り立たない。事物を区別・分離して観念を形成するわけであり、分離された観念どうしはそもそも不可分で関係しており、因果関係は成り立つのである。過去、現在、未来という時間の流れは連続しており、人間が恣意的に分割し、過去、現在、未来という三時の観念をつくりだしたにすぎない。本来、それらの観念が指し示す対象は、不可分の連続である。
 逆にいうと、ヒュームの連合観念説が成り立つためには、一切の存在が孤立的で無関係に存在し、はなから分離されているという形而上学=世界観が正しい場合だけである。しかし、このような無関係的世界観は、そもそも矛盾的で成り立たない。認識主体と対象も無関係だということになり、認識作用が生じて印象や観念が形成されることが不可能となり、認識論の一種である連合観念説もパラドクスに陥ることになるからである。
 ヒュームの連合観念説は、究極的には独我論にいきつく他ない。事物を結合するのが人間の認識であると勘違いしたヒュームははなから間違っているのである。認識論における初歩的なこの間違いに気づかず、未だにヒュームの哲学を信奉する学者がいるのが不思議である。

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by merca | 2014-06-10 22:00 | 理論

ヒュームの懐疑論は通用しない。

 デビット・ヒュームが、因果律は対象の側に内在する法則ではなく、人間の単なる習慣的な思い込みであると主張したことは有名である。所謂、ヒュームの懐疑論である。哲学や思想系の学徒なら誰でも学んでおり、よく知られている。
 ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、その後に起った現象を結果だと錯覚するわけである。本当に原因かどうかは確かめようがないというわけである。
 問題は、このヒュームの懐疑論からすると、因果律あるいは物理法則は、客観的に存在しないことになり、因果関係を探求する科学は全て虚構になるわけである。
 もし哲学者がヒュームの懐疑論でもって闇雲に科学者が見つけた科学的因果関係を否定したとしたら、科学者は怒るだろう。本当にヒュームの懐疑論は科学に勝利したのだろうか?
 
 ところが、実は、(外的視点/内的視点)という区別から観察すると、ヒュームの懐疑論は自然科学には通用しても、人間科学には通用しないことになる。例えば、人から押されて転倒した場合、倒れた当人の内的感覚からは押されて転倒したという因果関係は明確である。また、殴られて怒ったというケースでは、殴られたことで怒るという結果を引き起こしたという因果関係が当人の内的視点から確実である。さらに、他人が挨拶し、自分も挨拶したとしたら、礼儀作法に従って挨拶したという因果関係は当人に聞けばわかるのである。また、本が欲しいから店で本を買ったとかという目的手段関係による因果関係も聞くことで確認できる。このように、心理学や社会学のような人間行動や社会的行為を対象とする人間科学(社会科学も含めて)は、内的視点から理論を構成するために、全くヒュームの懐疑論は通用しない。
 
 ヒュームの懐疑論が通用するのは、外的視点から物体を観察する自然科学のみである。ビリヤードの前の玉が後ろの玉に衝突して動いた場合、衝突したから動いたのかどうかは後ろの玉に聞くことができないのである。人間には聞けるが玉には聞けないのである。
 このように、因果関係の確定は、内的視点をとる人間科学では確実であるが、外的視点をとる物理学では究極的に不確実である。人間科学の方が因果関係の究明については、自然科学よりも優れており、むしろ真理性は高いのである。人間科学には、実験やベイズ主義統計学に頼らなくても、観察や調査だけで因果関係の真理を確実に獲得できる利点があるのである。
 ともあれ、ヒュームの懐疑論は、限定付きであることを確認しておこう。

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by merca | 2013-07-15 22:03 | 理論

「科学を語るとはどういうことか」書評 伊勢田氏の誤算

 科学哲学者の伊勢田哲治は、戸田山和久と同じく、疑似科学批判やニセ科学批判で有名である。端的にニセ科学批判者と言えよう。
 伊勢田氏著「疑似科学と科学の哲学」については、ニセ科学批判者のバイブルであり、ニセ科学批判創始者である物理学者の菊池氏も重宝しており、疑似科学に対する両者の考えは、ほぼ思想的に同一である。
 さて、科学哲学と科学者の対談であれば、伊勢田氏と菊池氏の対談がまずは考えられるが、そうではなく、今回出版された「科学を語るとはどういうことか」という対談は、科学哲学に批判的な物理学者の須藤靖氏との過激な対談となっているのである。一体、これはどういうことか?

 伊勢田氏は、クリティカルシンキング(批判的思考)という方法論を選択し、思考の誤謬を正すというかたちで自らの哲学的思索を行って来ており、ポストモダンや社会構成主義などに批判的な立場をとっている。疑似科学とともにソーカル問題に代表されるような思弁的なポストモダン哲学を葬り去ろうとしているのである。
 一方、物理学者の須藤靖は、日頃から科学哲学不要論の立場をとっており、ポストモダン哲学のみならず、科学哲学あるいは哲学そのものを疑問視している。役に立たない目的のない学問として科学哲学を批判する。その過激さは、伊勢田氏を遥かに凌駕する。
 
 このような両者の対談を読ませてもらった。非常に興味ある点があった。同じようにポストモダン哲学を嫌うくせに、互いに分かり合える部分が少なすぎるという点である。
 因果論、自由意思論、反実在論などが論題になったが、伊勢田氏の科学哲学の主張は、悉く須藤氏の科学観からしたら非常にナンセンスであり、意味のないものだとされていく。そして、須藤氏は、哲学議論の本質をほとんど理解しない。
 実は、この分かり合えなさや対立は、科学哲学と科学者の壁というよりも、まずは伊勢田氏のクリティカルシンキング(批判的思考)そのものに原因がある。
 まず、伊勢田氏のクリティカルシンキングは、科学知と競合する知となってしまっている。別の言い方をすれば、クリティカルシンキングは極めて科学的な思考なのである。つまり、現実の科学者の思考の不十分さをより科学的にしようとするために、現実の科学者と対立し、反発されることになる。クリティカルシンキングは哲学内科学である。クリティカルシンキングに基づく科学哲学は、現実の科学に対抗し、科学をより科学らしくせんとする脅威として、現実にいる普通の科学者にはうつるのである。
 伊勢田氏がクリティカルシンキングという方法で「疑似科学と科学の哲学」を著し、不十分な科学とそうでない科学を分別しようとしたことからも、その傾向は伺われる。伊勢田氏の科学哲学が科学的思考による科学哲学であるために、知の競合が起り、かえって須藤氏と対立し、分かり合える部分がなかったのである。
 さらに、クリティカルシンキングによる科学哲学は、実験をすることのない科学的思考である。実験をする科学的思考をする普通の物理学者は、現実の実験データを尊重するわけであり、実験なしに勝手に科学について考えられては困るのである。そのような嫌悪感が須藤氏から見て取れた。科学者は、現実の実験データを根拠とする仮説を正しいとして、理論を構築していき、未来を予測し、実践に生かしていく。
 
 面白いことに、ニセ科学批判者が科学と非科学を分ける基準の重点は、実験ではなく、クリティカルシンキングであるかないかというところにある。ニセ科学批判者は科学の定義の中にクリティカルシンキングを取り入れている。
 水伝問題において、実験ではなく、菊池氏が別の基準で非科学であることを主張したことにもそれは現れている。現実の科学者は実験結果を重視するが、ニセ科学批判者の科学観においては、実験よりもクリティカルシンキングによって解釈されているかどうかのほうが重要なのである。いくら実験しても、それがクリティカルシンキングによって検討されていなければニセ科学となる。実験だけで正しいというなという価値観である。この文脈から、伊勢田氏がポパーの反証主義に否定的であり、須藤氏がポパーの反証主義に賛同したのは、よく理解できる。
 要するに、実験重視の現実の科学者と、実験よりもクリティカルシンキングを重んじる科学哲学者とが分かり合えなかったのである。
 
 伊勢田氏の盲点がある。それは、科学が社会の近代化の中で誕生した知であるという事実である。社会を抜いた科学論は空虚である。近代化(社会分化)とセットにしないと、科学は語り得ない。
 社会学的観点から科学について述べると、近代社会から科学に求められている機能は、人々に共有の真理を提供することである。この場合、科学哲学的に本当に真理かどうかは関係なく、人々が真理だと認めて共有でき、実用できることの方が大切であり、理性的啓蒙であるクリティカルシンキングの基準とは全く異なる。真理の機能に着目して科学の価値を捉える、このような立場を社会学的啓蒙という。
 社会学的観点からは、科学者は科学哲学的思考に準拠せずにひたすら実験を重視して役割遂行することで、科学的真理の生産に寄与することになる。科学哲学に煩されることなく、科学的研究に没頭できる。その意味で科学哲学を嫌う須藤氏の価値観は科学者集団の価値観に極めて適合的である。
 このように、社会分化に伴う役割関係に無知であることから、伊勢田氏は対立の真なる原因=社会的原因を認識できなかったのである。
 伊勢田氏の誤算は、クリティカルシンキングが実験を懐疑する手段としてはたらき、実験を重視する現実の科学者集団の社会的エートスに反することが分からなかったことである。伊勢田氏は、社会学的啓蒙を学ぶ必要があるのである。

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by merca | 2013-07-15 17:29

思想としてのエビデンス主義

 科学的事実には、科学的根拠としての証拠=エビデンスが求められる。エビデンスがない仮説は、科学的事実の権利が認められない。仮説が科学的事実として見なされるためにはエビデンスが必要であるという思想のことをエビデンス主義という。そして、現在、この思想が絶対化されている。

 通常、エビデンスは、三種類が存在する。論理的根拠、規範的根拠、実証的根拠である。
 論理的根拠とは、三段論法でいうところの大前提と小前提にあたる。「ソクラテスは死ぬ」という命題が真である論拠は、大前提である「人間は死ぬ」と小前提である「ソクラテスは人間である」という命題が真であることである。この場合、実証されなくても、論理的必然性をもって結論が真であると導きだせるわけである。
 また、「AはBより大きい」という命題は、「AはCより大きい」と「CはBより大きい」という命題が真であれば、論理的根拠となる。ある命題の正しさは、実験をせずとも、別の命題の正しさによって証明されるわけである。複数の正しい別の命題との関係性から、ある一つの命題の正しさを導き出すことを論証といい、その根拠を論理的根拠という。論理的根拠もエビデンスの一つである。
 次に、規範的根拠とは、決められた規則や手続から逸脱していないことである。例えば、刑事裁判では、脅迫して自白させた供述や違法捜査で収集した証拠は採用されない。また、科学的実験の結果も、学会の示した厳密な手順に従っていないものは排除される。要するに、正しい規則や手続に従っているということがそのまま命題の正しさの証拠となるわけである。違法な捜査や間違った方法で得られた知識でないことが、エビデンスとなるのである。
 ちなみに、専門家が発した知識だから正しいと考えるのは、専門家が正しい知識を獲得する手段を使用していると人々が思っているからである。権威のある学者の論文を引用して自説の正しさの根拠とするのは、規範的根拠の一例である。文科系の学術論文の中には、この種の引用を多用することで、構成されているものが多い。
 最後に、実証的根拠とは、仮説を実証する実験結果や観測結果のことをいう。自然科学では、各種実験によって仮説の正しさを実証することになる。医学では、臨床実験を繰り返し、仮説の正しさを立証する。社会科学では、社会調査によって社会現象を観測したり、既存の調査の結果によって、自説の根拠とする。
 
 このうち、科学が採用する根拠、すなわちエビデンス主義の唱えるところの根拠とは、実験と観測による実証的根拠をさすことは言うまでもない。論理的根拠と規範的根拠もエビデンスであるのだが、なぜか実証的根拠のみが重宝されているわけである。さらに、実証的根拠がないものは全て科学的事実から排除され、非科学としてレッテルを貼られることになる。
 しかし、実は、エビデンス主義が、真理の対応説ではなく、究極的に真理の合意説に基づいていることはあまり知られていない。つまり、科学的事実にエビデンスがあっても、本当は対象と認識が一致した真理であるというわけではないのである。
 科学的事実は、自然界の現象を写し取った正しい認識ではなく、自然界に対する一つの確率論的解釈なのである。結論から言えば、ある一定の高い確率で起る現象について科学的事実として認定しましょうという科学者集団の合意によってあたかも真理のように一般化されているだけなのである。
 どのような確率で起ったら科学的事実と見なすかは、自然界が決めたものではなく、人間が勝手に決めて合意しただけであり、事実判断に価値判断が混入しているのである。医療におけるエビデンスレベルという考え方にそれは顕著に反映されている。医学的に有用かどうかの視点から、合意の上、科学的事実として採用するかどうか決めているにしかすぎない。

 もう少し詳しく説明しよう。エビデンス主義は、実証的根拠となる実験や観測について、決定論ではなく、確率的現象として記述する。例えば、Aという現象の後にBという現象が起った頻度をカウントし、95%の確率で起ったならば、AとBの間に統計的に有意な相関関係があると見なすことになる。しかし、これは確実にAがあればBがあるというのではなく、確率の信頼度にしかすぎないのである。世界を偶然的現象と見なし、その確率を記述することで、現象を解釈しようとしているだけなのである。
 一方、厳密な意味での決定論に基づく自然法則というのは、偶然性の支配する確率論の世界では存在しない。そもそも、決定論の世界では、確率は意味をなさない。確率論は、世界の偶然性に対する一つの数学的処理なのである。そして、単に確率的現象にしかすぎない仮説を真理へと一般化するための社会的装置がエビデンス主義である。エビデンスがあれば、真理であると人々は錯覚するのである。
 確率論に基づくエビデンス主義においては、因果関係や相関関係を確定することは究極的に不可能である。不可能であるからこそ、真理の対応説を放棄し、真理の合意説に身を委ねるしかない。要するに、ある一定の確率で起るのなら、その現象を科学的事実と見なしましょうという合意に委ねられることになる。合意であるからには、すでに自然現象ではなく、社会現象であり、様々な社会的要因が混ざり込み、時には強引な解釈もなされることになる。
 つまり、科学的事実は、エビデンス主義によって社会的に構成されているのである。例えば、医薬品の臨床実験における治療効果の確率も、世間の人々から見れば多少低くても、製薬会社の意向などを受けて、強引に統計的に有意だと解釈されることになる。どこからどこまでが有意であるかの線引きは究極的に合意=人為である。科学的事実が確率的現象にしかすぎないのなら、科学的事実を採用するかしないかは、本質的にギャンブルと同じてある。このギャンブルに乗るか乗らないかは、これまた個々人の自己選択となる。正しく子宮がんワクチンの論理である。

 エビデンス主義は、学問ではなく、一つの思想である。世界を確率的現象だと見なし、無数にある確率的現象のうち、人間にとって有意味や有用な確率で起る現象を科学的事実として真理化する思想なのである。エビデンス主義が、後期近代社会に適合的な思想であるかは、これからの分析を待たないとわからない。

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by merca | 2013-06-23 23:10 | 理論

生命体の根源的偶然性を解釈する数学神話=確率論

 複数の要素が組み合わさり、要素に還元できない一つの性質を生み出す現象を創発という。そして、創発された性質のことを創発特性という。創発特性として現象を捉えると、要素は取り替えがきくことになる。例えば、生命体を一つの創発システムとして捉えると、細胞は新陳代謝しており、常に取り替えられており、一つの細胞を入れ替えても、生命体は死滅しない。
 また、臓器移植が可能なのは、生命体が要素に還元されないシステムだからである。一般に、この取り替え可能な要素の働きのことを機能的代替項目という。同じ働きをするのなら、別の同じ働きをするもので置き換えることができるという発想である。
 例えば、義足や義歯などの人工物であっても、同じ働きをするのなら、足や歯の代用物として生命体システムを支えることになる。ある意味、要素の取り替え可能性は、創発特性が実在する根拠となるのである。これは、社会システムでも同じであり、同一の機能を果たす行為やコミュニケーションがあれば、取り替え可能である。例えば、組織体システムでは、社長が変わっても組織は存続するわけである。取り替え不可能なのは、要素でなく、創発特性たる全体性だけである。取り替え不可能な全体性があるからこそ、取り替え可能な要素があることになる。
 
 一つの創発特性は、確かに個々の要素には還元されないが、複数の要素が担う機能=役割の相互関係によって、維持されていることがわかる。その意味からすると、単純に考えると、創発特性という結果は、一応、複数の要素の働きから合成された多原因から発生したと記述できる。
 しかし、生命体が単なる複数の要素から合成された複合物であると捉えるであれば、実在するのは個々の要素であるという要素還元主義の亜種にしかすぎなくなり、複数の要素を確定すれば、必然的にその複合物という結果を類推できることになる。このような要素還元主義的な自然科学的思考は、物理学の世界では妥当かもしれないが、生物学や社会学の世界の説明原理としては不十分であるばかりか誤謬となる。
 そもそも複数の要素を原因として見なすことは妥当かという疑問も出てくる。要素に還元されない全体が、自らを維持するために、要素を選択しているという図式も成り立ちうるからである。つまり、因果関係を逆転し、結果こそが原因をつくりだすというふうに読み込む必要がある。端的に言うと、目的ー手段図式による解釈である。目的ー手段図式に従えば、結果は目的であり、原因は手段である。物理世界の因果関係を利用して、特定の結果を得るために、手段を選択するわけである。
例えば、生命体は外部から栄養を摂取し、自らを維持しているわけであるが、この現象を記述する際に、因果論的な記述ではなく、目的ー手段図式による解釈も可能である。
 因果論的な記述=要素還元論的記述をすると、外部から摂取した栄養が原因で生命体システムが維持されるという結果をもたらすというふうになる。
 片や目的=手段図式による記述=創発論的記述をすると、生命体が自らを維持する目的が根本原因となり、自らを動かして、外部から栄養を摂取して体を維持したという結果をもたらしたことになる。
 後者の記述のほうが、生命現象を捉える上で、説明能力が高いのは一目瞭然である。
 また、例えば、環境の変化によって、栄養を補給できない時には、栄養を摂取する代わりに冬眠のように一時的にエネルギー代謝を控え身体活動を休止するという選択肢によって、生命体維持の手段とする場合がある。生命体維持という目的を遂行するために、栄養摂取と機能的等価な別の選択肢を採用することもあるのである。
 つまり、生命体システムにおいては、一つの結果をもたらすのに、一つの原因が対応するわけではない。進化論は、自己選択性を前提としている。栄養摂取の手段として肉食と草食は機能的等価であるが、肉食を選択するか草食を選択するかは、種の進化にとって、必然的ではない。そもそも、物理世界から生命体が発生したのは、必然ではない。
 
 生物学では、物理学と違って、因果関係の特定は、容易ではないばかりか、選択性原理が働いており、そもそも不確定である。つまり、極論かもしれないが、ある状況において、目的のために、どの手段を選択するかは、個々の生命体の任意ではないかと考えられるわけである。人間の自由意志とは次元が異なるが、生命体は機械ではなく、自己選択性をもっているのである。同じ状況におかれても、同じ手段をとるとは限らず、厳密な因果関係が成り立たないというわけである。
 
 生物体が、そもそも自然界の複数ある機能的等価な因果法則から一つを選択・利用し、自らの目的を遂行する存在であるのなら、物理学のような単純な因果関係に基づいた分析は却下される。
 そして、人間という生物体に関する病理学としての医学には、要素還元論的な自然科学的手法は成り立たない。
病気とは、生命体の機能障害である。その機能を補う別の要素の働きによって代替できるのなら、治癒するのである。生命体という存在を要素還元論的因果図式で模写しようとする科学的手法は、間違いである。生命体という存在はシステム論的な目的-手段図式で模写することで、認識と対象が一致した記述になるのである。
 
 真理の対応説の観点からしても、生物学や医学の分野においては、単純な因果律を使用する科学的認識は誤謬である。要素に還元されない全体性が現象の原因となっているのが真実なのに、要素が原因と勘違いしているからである。そもそも生物学やその病理学としての医学においては、生命体に自己選択性があるために、厳密な意味での科学(自然科学を模範とする科学観)は、成り立たないのである。全ての個体に効く薬は存在しないのである。薬を効くように利用するかしないかは、個体の自己選択性にかかっているからである。薬の効用は、多くが効いたという確率の問題にしかすぎないのである。確率は科学の手段であるが、科学そのものではない。エビデンス主義は科学主義ではなく、確率論絶対主義である。
 
 ちなみに、生命体機械論を唱えるのではなく、生命体の自己選択性に生命体の生命体たる所以を求めるのなら、そこに新たな神学=生命学が成り立ち、医学上の奇跡と言われるものの説明領域となるであろう。医学ではメカニズムが不明な現象は多いが、それらは全て生命体の自己選択性という神学の領域によって処理・説明されることになるであろう。メカニズムはあったとしても、究極的にはそのメカニズム以外の機能的等価なメカニズムを選択することも、生命体にとっては可能なのであり、究極的に神学的領域を排除することは不可能である。これを生命体の根源的偶然性(自己選択性)と呼ぼう。この生命体の根源的偶然性にもっとも敏感であったのは、ブラックジャックの作者・手塚治虫医師なのである。
 
 生命体の根源的偶然性の領域は、因果律を標榜する科学主義の適用外であり、神話の領域である。そして、実は、エビデンスに基づく確率主義こそが生命体の根源的偶然性の記述方法の一つなのである。なぜなら、多くの個体の自己選択の数をカウントしたのが確率であるからである。世界が本当に必然ならば、確率はいらない。偶然だから確率になるのである。メカニズム不明である生命体の根源的偶然性の領域が、エビデンス主義=確率論という数学神話によって解釈されているのである。ちなみに、生命体の根源的偶然性の領域は、確率論ではなく、別の神話によって説明することも可能である。聖書の創造論もダーウィンの進化論も機能的等価な神話である。どの神話を採用するかは、社会の合意によって決定されるだけである。

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by merca | 2013-06-15 10:51 | ニセ科学批判批判

スピリチュアルペインによるうつ症状に薬は効かない。

 スピリチュアルペインという痛みが存在し、それを治癒するための学会までもある。医師日野原重明氏が理事長をする日本スピリチュアルケア学会である。
 スピリチュアルペインとは、身体的苦痛、精神的苦痛、社会的苦痛ではなく、それらを超えた霊的苦痛のことを意味する。具体的には、不治の病や死期を迎えつつある時に感じる、自己の存在価値の消失に伴う苦痛のことである。また、愛する人の死に際する遺族の喪失感もスピリチュアルペインに含まれる。殺人事件の被害者遺族を襲う苦痛は、精神的苦痛ではなく、スピリチュアルペインである。
 スピリチュアルケアの第一人者である村田氏によれば、スピリチュアルペインは、カウンセリングや薬では治癒せず、傾聴等による気づきによって治癒するという。
 スピリチュアルペインは、うつ病の際にも、発現することがある。うつ病患者は、生きる意味がわからない、自分には価値がないという思いに苛まれ、苦痛を感じる。うつ病患者のこのようなスピリチュアルペインは薬やカウンセリングでは治癒しないのに、精神科医は投薬治療で治そうとする。自己肯定感の喪失によってうつ症状が出ている人に対して、投薬治療をし、薬漬けにする医師は最悪である。
 
 スピリチュアルペインによる苦痛は、薬やカウンセリングのような科学的処方箋ではなく、傾聴することや宗教や哲学による気づきによって治癒されると考えられている。私見であるが、音楽等の芸術を通しても、気づきにつながれば、治癒するかもしれない。例えば、パッヘルベルのカノンを聞くとスピリチュアルペインが和らぐのである。手塚治虫の火の鳥で治癒する人もいるかもしれない。魂に響く芸術もスピリチュアルペンインの一つの処方箋となる。
 
 スピリチュアルペインの正体について、システム論社会学から分析すると、生物体システム、心理システム、社会システムのどれにも還元されないシステムを想定するしかない。社会学では、唯一、パーソンズの想定したテリックシステムがそれに該当すると考えられる。ライプニッツのモナド論、スピノザの無限、仏教の事事無碍法界の思想、レヴィナスの他者論なども魂の次元の論理である。
 
 ともあれ、脳の機能障害に還元できない苦痛によるうつ症状を脳の機能障害と勘違いし、投薬治療する精神科医ほど罪な存在はない。スピリチュアルペインによるうつ症状は、抗うつ剤よりも、哲学、宗教、あるいは神曲であるパッヘルベルのカノンのほうが効くのである。
 スピリチュアルペインは、科学の対象ではなく、形而上学の対象であり、医学等の科学的処方箋は通用しないのである。医者たちは、医学の外で苦しむ者を医学で救おうとする愚者となっていないか自問する必要がある。かのブラックジャックにもこのテーマはよくでてくる。
 
 さて、魂の次元の痛みを対象とするスピリチュアルケア学会は、トンデモやカルトだろうか? おそらく、ニセ科学批判者は、トンデモやカルトと見なさないだろう。なぜなら、新興宗教ではなく、排他性のない既存宗教の信頼できる人たちが唱えているから、そうは見なさないだろう。同じことでも新興宗教が主催しているとトンデモやカルトと見なすのがニセ科学批判クラスタの選定基準だからである。
 
 ともあれ、魂の痛みを心身の痛みと勘違いし、痛みの原因を脳の機能障害と断定する医者こそニセ科学の人となるのである。全国自死遺族連絡会の調査で自殺者の7割が精神科を受診していたという事実もあるが、自殺願望や希死念虜というスピリチュアルペインを脳機能の障害と勘違いし、投薬治療を行った精神科医の罪は大きいと言わざるを得ない。時代は、医者自らが非科学であるスピリチュアルケアを重視する方向に進みつつある。

  参考記事
  鬱病の苦悩
  http://mercamun.exblog.jp/8140415/
 
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by merca | 2013-04-21 21:58 | ニセ科学批判批判

「バウマン社会理論の射程」書評 他者性の社会学は可能か?

 ジグムンド・バウマンと言えば、液状的近代(リキッドモダニティ)というポストモダン社会論で有名である。しかし、社会学者中島道男は、著書「バウマン社会理論の射程」において、リキッドモダニティ論以前のバウマンの道徳論にこそ彼の思想の本質があると主張している。
 まず、同著においては、バウマンの道徳論は、道徳の起源について、デュルケームの道徳社会学と全く反対の立場にあることを明確にしている。簡単に言えば、デュルケームは、道徳の起源を共同体に求めており、バウマンは他者(レヴィナスのいう)に求めているというわけである。また、中島氏は、この対比は、コミュ二タリア二ズムとリベラリズムの区別にも対応すると指摘している。ただし、デュルケームの道徳社会学がコミュ二タリア二ズムと対応するのはわかるが、レヴィナス流の他者論倫理学は単純にリベラリズムに対応しているとは言いがたい。リベラリズムは、共同体と離れた個人を単位とするものの、個人のエゴイズムと切り離せない概念であり、同じ個人でも、他者論倫理学の利他的な個人とは似ても似つかないからである。
 このような概念の未整理はあるものの、中島氏のバウマン解釈は、社会学に関わる根本的なテーマを提示している。それは、共同体を離れた単独者どうしの顔と顔の関係が社会科学の領域に属するか哲学の領域に属すると考えるかという難問である。パーソンズやミードなどの通常の社会学の考え方からすると、道徳は、社会共同体の教育によって個人に内面化されるわけであり、道徳は社会によって異なるとする相対主義をとることになる。しかし、他者論倫理学の立場からすると、倫理や道徳は、社会共同体とは関係なく、顔としての個人と個人の非対称的かつ単独的な関係で生ずることになり、人類世界の普遍的な倫理が存在することになるのである。つまり、社会学の道徳論は相対主義であり、他者論倫理学は絶対主義である。倫理と道徳においては、社会学の相対主義が正しいのか、他者論倫理学の絶対主義が正しいのかという本質的テーマを投げかけてくるのである。果たして、普遍的かつ絶対的倫理が生ずる他者論倫理学の領域は、社会学の領域に入るのであろうか? このような疑問がわいてくるのである。
 ちなみに、中島氏によれば、これと対応して、社会批判も二種類あるという。内在的社会批判と外在的社会批判である。内在的社会批判とは、社会共同体の歴史や伝統に照らし合わせて現代社会を批判する方法である。例えば、小林よしのりのように、日本には古来からの価値観や風習があり、現代日本社会はそこから外れており、正すべきという論法がそれである。この場合、他の共同体の歴史や伝統を基準にせず、あくまでも自己の所属する共同体の歴史と伝統を基準にすることになる。従って、道徳も、日本、アメリカ、中国、韓国、アフリカでは異なってくることになり、文化相対主義となる。保守主義者は本来相対主義者なのである。西部邁がその典型である。
 一方、外在的社会批判とは、共同体を離れた普遍的な価値から社会を批判する立場である。例えば、自由と平等という人類に普遍的だと思われている価値に基づく人権思想や民主主義の立場から、独裁制国家の人民殺戮や搾取を批判する場合である。また、ブッダがカースト社会の階級差別を批判したのも、生命の平等という普遍的価値からである。
 中島氏が提唱するこの二つの社会批判の区別は、思想地図をつくる上でもっとも有効な手段となると思われる。
 
 話はそれたが、他者論倫理学は、共同体の歴史や伝統とは無縁であり、単独者どうしの関係において、普遍的に「汝殺すことなかれ」という倫理が生ずるという考えである。バウマンは、この立場に立ち、ナチスドイツのホロコーストを批判した。近代官僚制が、顔と顔の関係を隠蔽することで、個人の責任感覚や倫理観を希薄化させ、ユダヤ人虐殺を可能にしたというのである。社会学が現代社会を批判する「公共哲学としての社会学」を目指すのなら、文化相対主義に基づく内在的社会批判だけでいいのかという問題が出てくる。これは大きな問題である。

 この問題は、人間存在の二重性とも関わってくる。人間は、役割を持つ共同体的存在であると同時に、世界に一つしかいない単独者でもある。「私は教師である」という判断においては、「私」は単独者であり、「教師」は共同体内の役割である。レヴィナス流に言えば、役割存在は「他者とともにあること」に対応し、単独者は「他者のためにあること」に対応している。前者は他者とともに共同体を維持してく側面であり、後者は共同体とは関係なく、他者に関わっていることを示している。
 ポイントは、単独者は独我でなく、かえって他者との関係によって成り立つ倫理的主体だということである。他者から呼びかけられたら、他の誰でもなく、この私に呼びかけられており、その他者に返事するかしないか選択を迫られることになり、そこに世界に一つしかない私という存在が意識されることになる。「私は私である」という判断は、他者からの呼びかけによって可能となるわけである。独我では、私は成り立たないのである。一方、「私は教師である」という判断は、私の判断ではなく、共同体の判断によって可能となる。
 このような絶対主語と述語の連結こそが人間存在の二重性を意味しており、実は社会生成の根本的条件をなしている。ちなみに、「私は教師である」という判断をしても、実際に教師としての役割を演じなければ社会共同体は生成しない。個人には演じることをしない選択の自由があるからである。これを自己選択性という。そして、他者の自己選択性は自己にとっての他者性として立ち現れる。
 問題は、この二つの側面が矛盾対立するものであるかどうかである。現代の社会学理論の構築に成功するかどうかは、この二つの側面をうまく取り入れることができるかどうかにかかっている。
 実は、パーソンズですら、規範主義パラダイムに準拠しながらも、ダブルコンテンジェンシーというかたちで他者の偶然性を取り入れている。ルーマンは、社会システムの要素を個人ではなくコミュニケーションにすることで、この問題を処理している。ゴフマンは、役割距離という概念で個人と役割の差異を描いた。
 現代社会学では、「私は教師である」という判断と役割遂行は、役割概念を適用する具体的な他者の判断や自己の選択にも委ねられており、コミュ二タリア二ズムが言うような自動的で強固に安定したものではない。政治学、法学、経済学の出身の学者がよくコミュ二タリア二ズムと社会学を同一視しているが、コミュ二タア二ズムと社会学を同一視するのは間違いである。社会学は、共同体を記述するだけではなく、他者の偶然性や自己選択性を含む人間存在の二重性も理論に組み入れようとしているのである。共同体のロボットとして人間を捉えているわけではない。
 ただし、単独者と単独者の関係を他者の偶然性や自己選択性というかたちではなく、倫理として捉え返し、共同体を越えた普遍的倫理として観察する社会学者はほとんどいない。中島氏が指摘するとおり、バウマンのみである。社会共同体の道徳は、その社会共同体の役割と地位の体系に付随する価値内容を観察すれば記述でき、その内容を明確化しやすい。一方、顔と顔の関係あるいは単独者と単独者の関係においては、どのような方法でその普遍的形式を記述したらいいのかわからず、明確な社会の倫理道徳として確立するのは困難かもしれない。しかし、何らかの普遍的な一定の形式構造があると考えるのなら、それを倫理として普遍化することで、内容をもつ人類の普遍の倫理道徳となると思われる。個と個の関係の論理的かつ普遍的構造は、ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界、ナンシーの無為の共同体など、形而上学的探求はなされているが、これを現実の社会構造を批判するために使用するのは見たことはない。
 しかし、私見では、それは可能であり、共同体の道徳内容が顔と顔の普遍的な関係性に反する場合、それを批判するというかたちで、「公共哲学としての社会学」が成り立つのではないかと思われる。これは私が究極的に目指す立場である。ただし、それは自然科学的方法とは全く異なる。
 ちなみに、この方法が確立すれば、倫理学や道徳学において、構造構成主義的発想はいらなくなる。社会学を悩ませてきた原理性相対主義はここに克服されるわけである。

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by merca | 2013-01-14 13:07 | 理論

多原因相対主義の宣揚(究極の平和思想)

 一つの現象は、一つの原因から生ずるのではなく、多数の原因があってはじめて生ずると考える。これを多原因論という。例えば、仏教では、因縁説をとり、一切と一切が関係してはじめて一つの現象が生ずると説く。また、社会病理学の分野でも、犯罪非行、少子化、いじめ、虐待、貧困、戦争などの社会病理現象については、多原因論が正しい。貧困の原因は、失業のみならず、失業プラス他の複数の原因から起る。複数ある原因から一つの原因だけを絶対化し、あたかもその原因だけで現象が生ずると考えるのは、間違っているのである。ある一つの原因だげが一つの結果をもたらすと考えてしまうのは、認識主観の価値観による選択化にしかすぎない。
 
 一輪の花が咲くのは、空気があり、水があり、太陽からの光があり、土があるなど、自然界の複数の要因が重なってはじめて可能となる。自然科学の世界においても、多原因論は正しい。水だけで花が咲くと考えるのは間違いなのである。また宇宙がなぜ生じたのかというのも、多原因なのである。物理学は一つの理論で宇宙の成り立ちを説明しようとするが、それは原因の一元化という人間理性の誤謬である。同じく、社会がなぜ生ずるのかというのは多原因なのである。しかるに、法則科学は、現象を抽象化し、単一原因論に準拠し、自然界を記述する。例えば「石を投げたら地面に落下した。」という現象の原因は万有引力の法則から一元的に説明されるわけであるが、石を投げた人物の自由意志という原因は無視されている。石を投げるというその人物の心の決定がなければ、その石は投げられることもなく、落下することもないのである。
 このように、科学的説明においては、一つの現象が成り立つために必要な一つの原因だけがピックアップされ、他の原因は全て隠蔽されてしまうのである。具体的現象を抽象化することで、一つの原因を取り出し、一つの結果と結合することで、因果法則は構成されるのである。そういう意味では、科学が発見した全ての因果法則は、人間が独自の観点から自然界から抽象化して構築されたものにしかすぎない。厳密に言えば、ある視点から切り取られた人間の主観の産物である。
  
 ありのままの現実世界は把握しきれない無限の多原因からなる複雑な世界である。ありのままに世界を観察するとは、一つの原因を絶対化せずに無数の多原因を受け入れることである。つまり、全ての原因は等価であり、等しく価値があるとする究極の相対主義をとることである。このような全ての複数ある原因が存在論的に平等であるという立場を、多原因相対主義と呼ぼう。
 多原因相対主義の宇宙観は、仏教の縁起思想と同様に、宇宙に役に立たない存在は何ひとつなく、一つの存在が欠けるだけでも宇宙全体が成り立たなくなるという考えとなる。世界に一つしかいないあなたは尊いとするオンリーワン思想とは別の仕方で、全ての存在を肯定する思想を構築することが可能となる。一切が一切と関わることで宇宙全体は成り立ち、どの一つの存在も平等に必要であり、尊いことになる。
 
 しかし、複雑系科学を多原因相対主義と勘違いしてはならない。複雑系科学は、無限なる要素間の相互作用から一つの創発特性が生ずると説くが、多原因相対主義とは異なる。なぜならば、自己の外部の環境要因が排除されているからである。一つの創発特性は、自己のシステムの内部にある要素間の関係だけではなく、その外部にある存在との関係も必要とするのに、それが排除されているのである。あたかも自己の内部にある要素間の関係から自己が成り立つような記述になっている。やはり、ここでも抽象化が起きている。一輪の花が咲くのは、一輪の花を構成する細胞間の相互作用から成り立つと考えており、空気、水、光、土などの外部の要素を無視していることになるのである。やはり、複雑系科学も科学にしかすぎず、抽象化の産物なのである。
 自己組織化システム論の欠点は、自己の内部の要素に特権を与え、自己の外部の存在や要素が自己を支えているという観点を無視し、多原因的世界観を貫徹していないところにある。要素が要素を産出するという考えにそれが露骨に現れている。

 科学思想は、一つの原因を選択化し、他を必要なく排除するという争いにあけくれるが、一方、多原因相対主義は正反対である。
 一つの存在が存在するためには一切の存在が必要であり、一切の存在が存在するためには一つの存在が必要である。このような立場に立つ多原因相対主義は、他を排除しない争いのない究極の平和思想をもたらすのである!!

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by merca | 2012-08-07 09:25 | 理論

複雑系科学は、社会を捉えきれない。

 創造システム論という形而上学を唱える社会学者がいる。社会学者井庭崇である。創造システム論は、西條氏の構造構成主義に匹敵するほどの独創的な和製の理論である。簡単に言えば、全ての存在は、創造システムとして観察することが可能であるという壮大な形而上学である。自然科学と社会科学の両方の対象も射程に入れている。この理論は、複雑系科学から必然的に導かれる一つの思想的帰結である。社会構成主義の帰結が構造構成主義であったように、複雑系科学の帰結は創造システム論なのである。
 しかし、創造システム論が準拠する複雑性と自己組織化という概念は、ある一つの社会原理を見落としている。以下、それを説明しよう。
 
 複数の存在(要素)が関係し合い、その関係性によって自然に一つの特性が発生することを自己組織化という。秩序は、誰かの意図や作為によって計画的に出来上がるのではなく、偶然に生じたものであるというところが、自己組織化理論の面白さである。そして、社会もそのような要素間の相互作用による偶然性の産物であるということになる。社会変動には、マルクス主義が想定したような必然の法則などなく、単に偶然の積み重ねによって社会は出来上がっている。出来上がった社会秩序(言語、規範、習慣、法律)は、何ら根拠もなく、人々の相互行為の偶然の賜物であるということになる。
 しかし、このような社会秩序の究極的非合理性・無根拠性に耐えうるのは困難であり、人々は社会秩序に対して納得のいく意味付けを与えようとする。例えば、神から与えられた掟であるとか、人権を守るためとか、科学的根拠があるとか、一定の社会的機能を有するためにあるとかである。偶然では耐えきれず、秩序の存在理由を追求するのが人間の人間たる所以である。実は、このような人間の意味付与作用こそが自己組織化の原理を無効化する社会的装置なのである。
 
 一つの社会秩序が人々に受容され、生き残るためには、意味が与えられなければならない。無意味なものは採用されず、滅び行く定めにある。社会秩序は、複数の意識システムによる第二次観察にさらされており、様々な区別に準拠して観察され、意味付与される。そして、一つの意味が多くの人々に共有されることで、逆に人々の行為を拘束することになり、社会秩序が再生産されることになる。これを物象化原理という。物象化によって無根拠性と偶然性は隠蔽され、社会秩序には存在理由=価値が宿ると人々は思うようになるわけである。同一のコミュニケーションが再生産される仕組みは、物象化理論にある。かくして、社会秩序の本当の成立過程である複雑性による自己組織化は隠蔽され、別の物語が付与され、書き換えられるのである。そして、一度、社会秩序が機能しだすと、自己組織化という誕生過程は隠蔽され、書き換えられた新たな物語が実演され、社会的リアリティを獲得し、社会内真実となるのである。自己組織化による誕生秘話は雑音として外部に追いやられるのである。
 
 創造システムがいくら創造物をつくったとしても、その生成過程は隠蔽され、書き換えられ、人々が賛同する別の物語にすり替えられるのである。例えば、人類の誕生は無根拠な偶然であるのが真実だとしても、神による創造神話や科学的物語である進化論によって、書き換えられ、社会に流布するのである。人類の誕生は、全くデタラメの偶然から自然発生したという複雑系科学による真実は人々には堪え難いのである。宗教に準拠して神の子として作られたとか、進化論科学に準拠して進化の頂点として人類は誕生したとか、様々な物語を付与するのである。ちなみに、この意味において、創造論と進化論は機能的等価であると言えよう。
 
 いずれにしろ、仮に社会秩序生成がカオスからの自己組織化によるものだとしても、それは最初だけの話であり、成立後においては、社会システムは物象化原理によって維持されているのであり、自己組織化がなくても回るのである。もっと正確にいうならば、社会秩序は物象化のために必要な意味を付与されるまでは社会秩序として機能しないのである。

  参考エントリー
  「物象化現象の記述」
  http://mercamun.exblog.jp/7502792/
  「言語の恣意性と物象化現象」
  http://mercamun.exblog.jp/10421161/

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by merca | 2012-08-05 10:54 | 理論

反ホッブス命題・裏社会学への誘い

 社会学者パーソンズをはじめとする多くの理論社会学者たちは、「社会秩序はいかにして可能か?」という命題によって動機付けられ、社会理論を構築してきた。一般に「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、ホッブス命題と呼ばれている。
 社会秩序が存在するということは、人々の行動が一定の規則に従い、一定の範囲内で他者の行動が予測可能であり、社会が全体として秩序だったものとなっているということである。例えば、人々が使用する言葉は文法という規則に従うことで、伝達可能となっている。大凡、社会があることろには規則があり、規則に伴う秩序なしには社会は成り立たない。近代社会であろうと、前近代社会であろうと、これは普遍的な事実である。従って、社会を認識するとは、社会に存在する規則としての社会秩序を認識することに他ならないわけである。社会秩序を記述したものが社会理論の原型となる。これが典型的な表社会学の発想である。

 「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、現実の社会は規則による秩序があるものであり、それは自然なことではなく摩訶不思議な現象であり、秩序を維持するからくりが人為的に存在するという前提に基づいている。つまり、人々の集まりや諸関係は、自然状態としての無秩序=カオスが本来の姿であり、秩序があること自体が不自然なことであるという発想である。無秩序たるカオスから秩序たるノモスへの移行に社会の成立過程をみようとする立場なのである。
 
 ところが、もともと自然科学が対象とする物理世界では、森羅万象が因果法則に貫かれており、無秩序状態こそあり得ない。自然こそが必然の法則=絶対秩序の世界であり、ホッブスが想定するような自然状態こそが人為の産物である。だから、むしろ我々はこう問うべきである。「無秩序はいかにして可能か?」かと。本来自然界は秩序があるのに、なぜ人間だけが無秩序をつくりだすことが可能なのかということである。
 実は、無秩序とは、言い換えれば、偶然性や自由と言い換えることができる。そして、無秩序という観念は、個人の自由の意識の誕生と並行しているのである。万人の万人による闘争である自然状態は、個人が自由に振る舞うことができるという観念を前提としている。個人が本能や習慣や伝統に従い、規則正しく行動しているとすると、万人の万人による闘争などあり得ない。無秩序という観念は、伝統社会から近代社会への移行に伴い、人々に自由の意識が芽生えたことに起因しているわけである。 
 もっというのなら、近代社会が無秩序をつくりだしたのである。自由に基づく偶然性と無秩序を可能とする社会的からくりを解明することも、社会学の役目である。「社会秩序はいかにして可能か?」という命題を追求するのが表社会学だとすると、「無秩序はいかにして可能か?」を追求するのが裏社会学である。
 
 多くの社会学者は、表社会学の立場に立っており、ルーマンですら、その例外ではない。ルーマンは無限なる複雑性として世界そのものを捉えており、原初的状態としてカオスを前提にしている点において、ホッブス命題から思考している。反ホッブス命題である「無秩序(自由)はいかにして可能か?」から出発した社会学者にお目にかかったことがない。自然科学の対象である物理世界や動物世界は必然の規則で貫かれているのに、人間の近代社会のみに、自由に基づく偶然や無秩序がありうることこそが、社会の不思議、玄妙なのである。
 
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by merca | 2012-06-23 19:36 | 理論