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反ホッブス命題・裏社会学への誘い

 社会学者パーソンズをはじめとする多くの理論社会学者たちは、「社会秩序はいかにして可能か?」という命題によって動機付けられ、社会理論を構築してきた。一般に「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、ホッブス命題と呼ばれている。
 社会秩序が存在するということは、人々の行動が一定の規則に従い、一定の範囲内で他者の行動が予測可能であり、社会が全体として秩序だったものとなっているということである。例えば、人々が使用する言葉は文法という規則に従うことで、伝達可能となっている。大凡、社会があることろには規則があり、規則に伴う秩序なしには社会は成り立たない。近代社会であろうと、前近代社会であろうと、これは普遍的な事実である。従って、社会を認識するとは、社会に存在する規則としての社会秩序を認識することに他ならないわけである。社会秩序を記述したものが社会理論の原型となる。これが典型的な表社会学の発想である。

 「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、現実の社会は規則による秩序があるものであり、それは自然なことではなく摩訶不思議な現象であり、秩序を維持するからくりが人為的に存在するという前提に基づいている。つまり、人々の集まりや諸関係は、自然状態としての無秩序=カオスが本来の姿であり、秩序があること自体が不自然なことであるという発想である。無秩序たるカオスから秩序たるノモスへの移行に社会の成立過程をみようとする立場なのである。
 
 ところが、もともと自然科学が対象とする物理世界では、森羅万象が因果法則に貫かれており、無秩序状態こそあり得ない。自然こそが必然の法則=絶対秩序の世界であり、ホッブスが想定するような自然状態こそが人為の産物である。だから、むしろ我々はこう問うべきである。「無秩序はいかにして可能か?」かと。本来自然界は秩序があるのに、なぜ人間だけが無秩序をつくりだすことが可能なのかということである。
 実は、無秩序とは、言い換えれば、偶然性や自由と言い換えることができる。そして、無秩序という観念は、個人の自由の意識の誕生と並行しているのである。万人の万人による闘争である自然状態は、個人が自由に振る舞うことができるという観念を前提としている。個人が本能や習慣や伝統に従い、規則正しく行動しているとすると、万人の万人による闘争などあり得ない。無秩序という観念は、伝統社会から近代社会への移行に伴い、人々に自由の意識が芽生えたことに起因しているわけである。 
 もっというのなら、近代社会が無秩序をつくりだしたのである。自由に基づく偶然性と無秩序を可能とする社会的からくりを解明することも、社会学の役目である。「社会秩序はいかにして可能か?」という命題を追求するのが表社会学だとすると、「無秩序はいかにして可能か?」を追求するのが裏社会学である。
 
 多くの社会学者は、表社会学の立場に立っており、ルーマンですら、その例外ではない。ルーマンは無限なる複雑性として世界そのものを捉えており、原初的状態としてカオスを前提にしている点において、ホッブス命題から思考している。反ホッブス命題である「無秩序(自由)はいかにして可能か?」から出発した社会学者にお目にかかったことがない。自然科学の対象である物理世界や動物世界は必然の規則で貫かれているのに、人間の近代社会のみに、自由に基づく偶然や無秩序がありうることこそが、社会の不思議、玄妙なのである。
 
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by merca | 2012-06-23 19:36 | 理論 | Comments(17)

科学哲学者・戸田山和久の科学観の矛盾

 科学哲学者たちは、科学とは何かについて探求し、一定の科学観を構築しようと努める。そして、科学と非科学(疑似科学)の境界線を引くことができる科学観こそが確立した科学観の資格をもつと考えられてきた。ただし、科学哲学者たちの科学観は、世界的に有名な超一流の社会学者たち、例えばウェーバー、マートン、ルーマン、ブルデューなどの社会学的視点による科学観とは異なる。社会学における科学と非科学の境界線は、社会システムの構造と相関しており、視点が異なるからである。社会学の場合は、科学的知識の内容の真偽は括弧に入れ、その社会的、歴史的な発生条件によって科学を定義することになる。
 
 さて、疑似科学批判者あるいはニセ科学批判者たちが準拠する科学観は、概ね伊勢田哲治(ベイズ主義)や戸田山和久などの科学哲学者の科学観に源流がある。ニセ科学批判の祖である菊池誠氏の科学観もこれらの科学思想を受け継いでいると考えられる。数年前に、社会学玄論ブログ内のコメントで、菊池氏が私に伊勢田哲治の「疑似科学と科学の哲学」を勧めてきたことも記憶に鮮明に残っている。
 菊池氏の科学観の特徴として、科学と疑似科学が連続しているというグレーゾーン論を見てとることができる。つまり、一つの学説は科学か疑似科学に完全に分けることができないが、限りなく疑似科学に近い学説を科学と称する場合、ニセ科学として批判するというわけである。さらに、科学と疑似科学を二分法的に明確に分ける科学観を批判している。
 現在のニセ科学批判クラスターたちも、グレイゾーン科学観を共有しているものと考えられる。戸田山和久氏著作の「「科学的思考」のレッスン」という著作においては、このグレイゾーン科学観が分かりやすく説明されている。以下、この科学観を批判的に検証していきたい。

 まず、科学哲学者・戸田山和久氏は、「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法に基づき、科学概念を整理する。「科学が語る言葉」とは、科学の研究対象物の属性を記述する科学的概念である。酸素、DNA、自然淘汰などである。一方、「科学を語る言葉」とは、仮説、理論、反証、実験など、科学的知識の獲得方法にまつわるメタ科学的概念である。さらに、戸田山氏は、これまでの科学教育が単なる科学的概念の伝授となっており、メタ科学的概念の学習こそが必要だと主張する。このメタ科学的概念を学習することで、一般市民の科学的リテラシーの基礎ができると考えている。
 明らかに、(科学的概念/メタ科学的概念)という区別は、(目的=知識内容/手段=知識内容の獲得方法)という区別に対応していることが分かるのである。つまり、科学のアイデンティティが、その知識内容にあるのではなく、知識獲得方法や手続きにあるとする科学観である。この点を押さえておこう。

 科学の本質がその知識獲得方法にあるとするのなら、自ずと科学と疑似科学の境界線も、知識獲得方法を判断基準として、分別されることになる。しかるに、戸田山氏のグレーゾーン論は、そういう立場をとらずに、知識内容に準拠して科学と疑似科学の区別をつけようとしている。説明しよう。

 戸田山氏は、科学的知識は絶対的真理ではなく全て仮説であり、より良い仮説とそうでない仮説があるだけであると考える。さらに、より良い仮説とそうでない仮説を区別する基準は真理に近いことであるという真理の近似値説を否定する。
 その代わりに、「より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる」「その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くのことがらを、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」の三つの基準を用いることが妥当であると考える。言い換えると、予測能力、明確性、説明能力の三つが科学的知識の本質であるというわけである。例えば、天動説よりも地動説のほうが、予測能力、明確性、説明能力があり、より科学的だというわけである。
 ここでは、ある仮説や理論が事実そのものと合致していることが科学的であるとする論理実証主義的な素朴科学観は、否定されるわけである。事実と合致していることを確かめる手段として実験なるものが存在するが、実験で得られた仮説や理論があまり説明能力がないのなら、実験結果よりも既存の科学的仮説がよりよい科学的知識のまま君臨することになる。
 物理的リアリティに単純に訴えること、つまり自然による審判(実験)は二次的な要素にすぎないことになる。これは、ニセ科学批判者の菊池氏が水伝に対して既存の科学的学説と矛盾しており、反証実験の必要なしと喝破したのと同じ理屈である。既存の公認された科学的学説と矛盾することなく、既存の学説も含めて説明できることが求められるのである。
 
 幽霊や超能力や波動の研究などの超常現象を扱う研究は、いくら科学的手法で実験しても、既存の科学的学説と矛盾しており、予測能力、明確性、説明能力がないため、現代科学から排除されることになる。つまり、戸田山氏や菊池氏からすると、端的にニセ科学となる。これらは現代科学に居場所はない。

 いずれにしろ、予測能力、明確性、説明能力は個々の科学的知識の内容=仮説や理論を対象としている判断基準であり、その知識獲得方法や手続を対象にしている判断基準なわけではない。つまり、科学か疑似科学かの判断基準を科学的知識の内容に準拠して区別し、グレーゾーン論を唱えているわけである。本来は、知識獲得方法に準拠して科学と疑似科学は区別されるべきであるのに、科学的知識の内容に照準を合わせてしまっているわけである。戸田山氏は、折角、科学の本質はメタ科学的概念=科学的知識獲得手続にありきと提唱しているにも関わらず、科学と疑似科学の境界線を知識内容の予測能力、明確性、説明能力に求めてしまっているのである。この矛盾は誠に残念である。

 このように戸田山氏の科学観に矛盾が起るのは、一つの類推であるが、ニセ科学批判者特有の一つの先入観や価値観からではないかと考えられる。それは、はなから超常現象を扱う研究を科学から排除すべきだという先入観や価値観である。予測能力、明確性、説明能力の乏しさによって、超常現象を扱う研究は簡単に排除されるのであるから。
 公認された科学的手法で得られ、既存の科学的知識を覆す実験結果によって構築された仮説や理論が、予測能力、明確性、説明能力がなく、既存の学説と不整合であるとする理由だけで、却下され、ニセ科学のレッテルを貼られることは、科学の進歩の妨げになるのである。

 科学のアイデンティティをどこに求めるかで、科学とニセ科学の区別基準が変わってくるわけであるが、知識獲得手続を対象として境界線を引くことで、明確な二分法的基準を確立することができる可能性がある。例えば、科学界で公認された方法(観測・実験している/観測・実験していない)という二分法には、グレーゾーンは存在しないのでないとかと思われる。科学界で公認されていない観測・実験方法で得られた知識を科学的知識と豪語すると、はきっりとニセ科学となる。
 二分法的思考は重要なのである。実のところ、当の戸田山氏自身が「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法で科学概念を整理し、自らの科学観を確立しているわけであるから、自身が二分法を否定するのは自己矛盾なのである。さらに、二分法が駄目だという言明こそが、(断続性=二分法/連続性)という二分法に準拠しているというパラドクスにニセ科学批判者は盲目である。 システム論的に言うと、人間の思考は区別=二分法から生じ、区別=二分法に終わる他ないのであり、二分法は思考の根源である。さらに、一つの二分法への執着を別の二分法で相対化する営みこそが、必要とされ、それが本当の科学的リテラシーにつながるのである。

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by merca | 2012-01-08 11:34 | ニセ科学批判批判 | Comments(1)

ブルデュー「科学の科学」は、科学の民主化批判か?

 現代社会学の巨人であるブルデューが、科学の本質に対する深い分析を加えている。大学での科学をテーマにした講義をまとめて出版された「科学の科学」がそれである。これは、基本的に科学社会学の書である。
 STSの中心的存在である科学社会学者平川秀幸らが主張する専門性の民主化(「科学の民主化」を意味する)という流れとは全く逆の科学観に準拠していることがもっとも興味深い。ブルデューの科学観によれば、科学的知識とは、一定の資格をもつことで科学界に所属することを許された=科学者たちや科学者集団が作り出す権威付けられた専門的知識である。
 つまり、ブルデューによれば、科学的知識とは、科学者個人が単に研究対象との関係から得るのものではなく、科学界において他の科学者との競争・協力関係から構築されるものであり、集合的産物であるということである。
 自然科学の場合、数学、統計学、語学などの素養があり、特定の分野の専攻学歴があるという参入資格を得たメンバーたちによって、科学界が形成されており、観測と実験で得られた研究の成果は、科学界の他の科学者たちに検証、討議された後、合意を得て、はじめて対象と認識が一致した知識と公認され、科学的知識ができあがる。この社会的手続きなしには、客観的な科学的知識だとは言えない。そして、重要なのは、観測と実験の方法については科学界における特定の規則があり、その規則に従っていることが求められる。単純に実験における対象の反応結果が審判を下すのではなく、実験で得られた知識は、他の科学者による検証・討議による合意を得ないと駄目なのである。
 科学的知識とは、実験と観測で得られ、かつ科学界で検証・討議され合意を得た知識なのである。ブルデューは言っていないが、私見から言うと、それプラス国家=官僚が認めたことで、人々は科学的知識として安心して受容することになる。
 このような科学的知識の社会的構築過程を考えると、科学的リテラシーとか科学の民主化などは、ほとんど期待できない。まずは、数学の素養がないと科学的議論には参加できない。数学ができない文系人間は、科学的討論の外におかれることになる。非専門家が討議できるのは、科学的知識の社会における有用性くらいになる。

 視点は変わるが、先述のようにブルデューは、科学的知識が社会的に構築されたものであるという考えをとるものの、科学的知識の内容には社会的要因が入り込む余地がないと考える。ここが最大のポイントである。
 実は、対象と認識の一致=物理的リアリティを保証する装置として、科学界は機能していると言っているのである。科学社会学の祖であるマートンは、科学者集団によって科学的知識はつくられると言って入るが、その内容の真理性は括弧に入れており、不問にする。これは、ちょうど、宗教社会学者が研究対象である特定の宗教の教義内容の真理性や道徳的価値を問わないのと同じである。ちなみに、内容に対する真偽や善悪を問わないこの姿勢こそが社会学者に共通する価値中立の態度である。
 科学社会学の中には、エジンバラ学派のデヴィット・ブルアのように、科学的知識の内容が社会の影響を受けると考える流れもある。これは、科学的知識を相対化する極端な相対主義の立場をとることになる。ニセ科学批判者が一番嫌がるタイプの科学社会学である。科学的知識は社会によって異なるというテーゼは、科学の普遍性を卑しめることになる。このような相対主義ともブルデューは一線を画する。
 社会的条件が科学的知識の構築に影響を与えることにブルデューは、一面では否定しており、別の面では肯定しているようである。まず、ブルデューは、社会的条件が科学的知識の内容に影響を与えることはないと確信する。その理由は、科学界が存在するからである。科学界が専門的に定めた実験と観測の規則に従って得られた研究成果を携える各の学者たちが、一つの真理のポストを巡って討議し争うことで、社会に左右されない正しい知識が確定できると考えている。一つの知識は、実験と討議という二重の審判にかけられて真偽が決定されるわけである。
 このような社会的過程が、むしろ社会的条件が知識に影響を与えることを排除して、社会とは無縁な正しい物質に関する知識を得ることを可能にするというわけである。言い換えれば、科学界は、科学的知識における社会的影響排除機能があるのである。
 そして、科学界の機能が科学を進歩させてきたのである。しかし、この機能は、科学界が参入者の資格制限など閉鎖性をもつことで、担保されることは言うまでもない。
 ブルデューは、科学界の機能のおかけで、社会構築主義者の極端な知識相対主義と、物理的な真理の構築には他者の意見は必要ないとする素朴実在論という二つの極端な立場の対立を止揚することができると考えている。
 科学的知識は、社会(間主観的関係=科学界の検証・討議・合意)を必要とするが、そのことでかえって物理的リアリティを担保できるというわけである。個人ではなく、社会が物理的にも正しい科学的真理をつくりだすということである。つまり、社会を離れた科学的知識は存在しないものの、その内容それ自体は物理的に正しいのである。一番重要な点なので、何度ども強調するが、近代科学においては、知識獲得方法及び真理認定過程は社会的(共同主観的)であるが、知識内容それ自体は社会に左右されない真理として定立されるのである。

 ブルデューの議論からすると、平川氏のように、科学は誰のものかと叫び、科学的専門性の民主化を啓発し、万人に科学を解放すると、科学的知識の内容それ自体に社会の影響を持ち込むことになり、科学的知識の真理性を脅かすことになる。その意味で、平川氏のプランには、慎重さが必要である。
 科学の民主化・大衆化の事例としては、やはりニセ科学批判があげられる。ニセ科学批判は、素人による科学的知識の真偽の判定を伴っており、実験や観測もせず科学界の合意も得ていない自分の意見を述べて、言わばニセ科学コミュニケーションをしている。ニセ科学批判の祖である菊池氏も、専門外である医学まで口出ししている。
 科学的討論においては、その資格がある者のみが参加可能であり、科学界内部における限定された民主主義であることを弁えるべきである。 閉鎖性・自律性をもつ科学界への信頼を寄せるブルデューの議論からは、科学の民主化・大衆化は科学そのものを否定することになるのである。
 ブルデューの科学観については、ルーマンの「社会の科学」を読むことによって、さらに検討していくことにしたい。

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by merca | 2011-12-25 11:32 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

「居場所の社会学」書評 「自分探し」から「居場所探し」へ

 阿部真大という社会学者がいる。「居場所の社会学」という若者論を書いている。興味のある点は、居場所の社会学が独自の幸福観に準拠していることである。それは、居場所のない人間は生き辛さを感じ、不幸であり、居場所のある人間は幸福であるという思想である。この幸福観は、人間科学的に何ら実証的根拠をもつものではないが、阿部真大氏の個人の社会体験に根付いた貴重な思想なのである。
 阿部氏は、居場所がある人間は幸福であるという思想に基づき、家庭、職場、学校、地域社会、サークル、仲間集団、恋愛など、あらゆる社会的領域を人々の居場所にすることで、社会全体がよくなると考えている。
 ただし、各社会集団が人々の居場所となっても、それがイコール各社会集団の社会的機能遂行に直結するとは限らない。この点は、保留しておきたい。
 
 これまでの社会学の分析概念から居場所という概念に近い概念を考えてみたい。社会学者ハーバーマスが準拠する(システム/生活世界)という区別のうち、居場所というのは、生活世界に対応する。また、社会学者テンニースが準拠する(ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト)という区別のうち、居場所というのは、ゲマインシャフトに対応する。要するに、居場所は、肯定的である人格的、情緒的な人間関係が存在する場所ということになる。
 阿部氏は、居場所は個々の主観が居場所と感じる場所ということで客観的定義をすり抜けようとするが、それでは社会科学的には何も定義したことにならないのであり、私なりに定義すとる次のようになる。

 居場所とは、ある人間にとって、肯定的である人格的、情緒的なかかわりを提供する人間関係や集団である。

 阿部氏は、高齢フリーターなどの職場に生き辛さを感じる人たちに「ひとりの居場所」という処方箋を提示しているが、これは人と無関係な場所というわけではなく、周囲が本人に関わらない配慮をするという形態の対人関係であり、完全な独我状態ではない。バスや電車の中で、全くの他人に話しかけないように人々が配慮するのと同じである。互いに話しかけないという無関心という名の配慮で、バスや電車の中は心地よい瞬間的な居場所になるのである。

 社会に存在するあらゆる集団や対人関係には、その社会的役割とは別に、自然に生々しい人間関係が発生し、好き嫌い、包摂・排除が起る。人間が役割存在としてだけ生きていない証拠である。学校や職場において、インフォーマルな仲間集団が形成され、そこで承認されなければ、生き辛さを感じ、結果的に挫折・離脱することになる。
 国家が不登校児童対策や就労支援対策としてどんな制度システムを構築しても、個々人の居場所にならなければ、定着性がなく、うまくいかない。ミクロ社会学の知見が必要となる。あるいは、社会学者・内藤朝雄氏の中間集団全体主義論の観点が必要である。

 社会的包摂とは、単にホームレスやニート等を職に就かせることだけではない。彼らにとってその職場が居場所にならなければすぐに辞めてしまい、包摂の意味がなくなる。社会的包摂の真の意味は、排除された人たちに居場所を与えることである。

 全ての人がどこかに居場所を見つけることができるような社会こそが阿部氏の理想とする社会であろう。阿部氏が社会のどこにも居場所を見つけることができず、生き辛さを感じていた青春時代を送っていたことが類推される。
 
 社会学では、意識調査などの統計調査よりも、このような学者個人の主観的な体験が実は一番客観的であったりする。それは、はなから社会という化物がストレートに阿部氏の主観に宿っているからである。主観的であればあるほど客観的になるのである。最高の玄妙なる立場から言うと、客観=社会と主観=個人の区別がなくなるところに、社会における真理は開ける。大型の理論社会学はその類いの真理である。
 
 若者の意識が「自分探し」から「居場所探し」へシフトしていることを察知した阿部氏の社会学的洞察眼は高く評価したい。そして、今後、阿部氏の居場所思想が若者の生き辛さ論と相まって居場所探しブームを引き起こすことを期待したい。

  参考 
 阿部氏は、宗教について語っていない。宗教が全ての社会的領域から排除された者の受皿=居場所として機能することを見落としている。社会の中に居場所を見いださせない者は、世界の中に居場所を見いだすのである。神仏から無条件で肯定される宗教の世界は、社会の不十分性を補完するのである。以下が参考記事である。
 コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能
 http://mercamun.exblog.jp/14456650/

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by merca | 2011-10-30 18:46 | 社会分析 | Comments(2)

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙

 ルーマンやブルデューと並ぶ現代社会学の巨人と言えば、英国の社会学者ギデンズである。ギデンズは、二重の解釈学、構造化理論、再帰的近代化、親密な関係など、多くの有意味な社会を観察する方法を提示し、日本の社会学者や大学院生に影響を与えている。
 ギデンズ社会学の核心は、二重の解釈学という考え方にある。これは、社会は対象と認識の一致という素朴な自然科学的な真理観では観察できないということを意味している。
 
 二重の解釈学によれば、出来事、行為、コミュニケーションなどの意味付けは、社会内で行為する当事者の共同主観的な意味付けと、社会学者が行う意味付けの二つのレベルが存在している。また、この二つのレベルは、相補的な関係にあり、当事者の主観的な行為が社会構造を創造・再生産するというのである。
 具体例を示そう。例えば、結婚するという行為は、結婚する当事者たちにとっては、恋愛を成就させて一緒に暮らしたいという目的で遂行されるわけであるが、社会システムから見れば、家族や社会階層の形成や将来の社会成員の再生産を意味していることになる。社会システムを維持するために結婚したという人はいないにもかかわらず、結婚によって未来の労働人口を確保し、結果として社会システムの構造を維持することにつながるのである。恋愛は結婚で成就する、あるいは結婚して家庭をつくることが人間の幸福という思想が共同主観として男女に内面化され、求婚活動を動機付けているのである。誰もわざわざ社会構造維持のために結婚して家庭をつくっていると思っておらず、好きな人と結婚して子供をつくりたいと思っているだけなのである。
 とにかく、社会内当事者たちが共同主観に基づいて主体的に行動すればするほど、社会の構造が再生産されるわけである。重要な点は、当事者の意味付けの内容と社会学者の意味付けの内容が一致してなくてもいいということである。時と場合によっては、内容が矛盾していても、かまわない。
 例えば、過去の全共闘運動においては、共産主義革命という意味付けの学園闘争をすればするほど、資本主義社会は成熟化していくという逆説的な結果が起こった。個々人の思惑を離れて、個々人の行為の総和が全く異なるかたちで社会全体に影響を与えるということは、よくある。これも一種の創発の妙理であろう。
 ちなみに、システム論の文脈で言うと、当事者間の意味付けは共同主観的意味付けであり、社会学者による意味付けは機能主義的意味付けということになる。前者は第一次観察に対応し、後者は第二次観察に対応する。また、ハーバーマス社会学の文脈でいうと、当事者間の意味付けは生活世界を構成し、社会学者による構造に対する意味付けは、システムということになる。
 ハーバーマスは、システムが生活世界を植民地化するという危機意識をもっていたが、ギデンズは構造が人々の主体的な行為を支配するのではなく、逆に人々の主体的な行為が構造を生産すると考えており、社会に対する疎外意識・拘束感を視野の外に入れた。
 
 ともあれ、社会学者は、対象となる出来事や行為に対して、当事者である人々による内面的な意味を把握しながらも、社会全体に対する意味を見つけ出し、この二つのレベルの相互関連を注意深く分析していくことになるのである。
 付け加えると、この二つのレベルの解釈は、どちらが正しいということはない。例えば、祭りは神様へのお礼のためにするという当事者たちの共同主観的意味と、祭りは共同体の凝集性を高めるという社会学者による機能主義的意味のどちらも間違いではないということである。むしろ、神様へのお礼という共同主観的意味が単純な科学主義によって否定され、人々が祭りをしなくなり、共同体がバラバラになるほうが有害なのである。社会学は、科学主義が事実の名のもとに人々の生活世界(意味世界)を破壊することを唯一防ぐことができる学問なのである。ギデンズの二重の解釈学は社会学的啓蒙の一つなのである。
 
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by merca | 2011-05-01 10:58 | 理論 | Comments(2)

東日本大震災の利他的支援活動が、ニヒリズムの敗北を実証する!!

 人が自発的に他の人の利益になるためにする行動を向社会的行動という。向社会的行動は、端的に利他的行為であり、所謂、あらゆる社会や宗教で善と呼ばれる行為である。今、東日本大震災の発生を機に多くの人々が向社会的行動を行っている。
 被災者同士の助け合い、被災地以外にすむ県民からの支援、世界の国々からの支援があるが、これらは全て義務ではなく、自発的に行われる利他的行為である。災害時には、ほとんどの人たちが、このような自発的善たる向社会的行動をとる。
 しかし、このような人々の善意を蝕んで来た思想がある。それがニヒリズムである。その教祖がニーチェである。ニーチェは、絶対的な善悪の基準は存在しないという馬鹿の一つ覚えで、あらゆる善行を否定してきた。
 東日本大震災の支援のために起こった世界規模の人々の向社会的行動は、ニーチェのニヒリズムからは解釈できない。これは、端的にいうとニヒリズムの敗北である!!
 今回の地震で、多くの人々の中に、ためらいもなく自発的に利他的行動をとる道徳性が内面化されていることが実証されたのである。現代社会の人々は、善悪の基準に迷うことなく、人助け=利他的行動を善きこととし、善行をなしているのである。
 日本中、世界中からよせられている多くの人々の善意のオーラがニヒリズムを粉砕する。善悪の基準は存在しないから、困っている人を助けないというニヒリストは、いないのである。このような現実に準拠するのなら、成熟社会の人たちは、ニヒリズムでは生きておらず、利他的である。社会科学(社会化の理論)からすると、人々は、最初からニヒリズムではなく、利他性を内面化していたのである。
 
 さらに、システム論的にいうと、世界社会において、(利他/利己)という区別コードに準拠したボランティア(コミュニケーション)システムが創発されているのである。善悪という道徳の区別コードは、ボランティア・システムの区別コードである(利他/利己)によって観察されることで、脱パラドックス化され、ニヒリズムを駆逐できるのである。利他的行為は人から人へ伝染していき、善のオーラで世界中が包まれるのである。

 10年ほど前に、少年の猟奇的殺人が連続して起こったことを受けて、モラルパニックがおき、それに釣られて、永井均のような懐疑主義の思想家たちによって、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というニヒリスティックな問いが流行ったことがあったが、今やこのような問いもナンセンスで時代遅れである。そして、NHKしゃべり場で殺人は悪くないと豪語していた相対主義の知的若者に次のような光景を見せてやりたい。
 それは、被災地の子供たちが、学校で被災した人たちの世話などをし、助け合いを行って生活している姿である。
 
 ニーチェにかぶれた一部のポストモダンの論客や若者たちは、人々に利他性が最初から内面化している事実をどう扱うのだろうか?
          正しく、ニヒリズムは敗北したのである!

参考
被災した宮城県女川町の中国人「地元の人のおかげで助かった」
http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20110316/Searchina_20110316096.html

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by merca | 2011-03-21 11:13 | 反ニーチェ | Comments(2)

反ニーチェ講座 第二回「ニーチェを捨てよ!!」

 社会科学的には、ニーチェの道徳分析=道徳のルサンチマン説は、端的に嘘である。嘘、すなわち物語である。ニーチェが自説を正当化するためにつくった物語にすぎない。
 ニーチェは、弱者のルサンチマンによってキリスト教道徳=利他主義ができあがったと主張している。強者に虐げられている弱者が強者に悪のレッテルを張り、その反対である弱者が自らを善とすることで、強者から弱者が自己防衛するために善=利他主義が出来たという。
 しかし、この説には全く実証的な根拠はない。なぜなら、弱者という対象に意識調査を実施していないからである。まず、弱者とは何かを概念規定し、その上で弱者たちの一部をサンプリングし、弱者の所有する道徳意識がどのようなものであるか意識調査することで、はじめて実証的に解明される。
 そのような社会科学的な手続きを経ずに、ニーチェは西洋社会の道徳について弱者が強者にもつルサンチマンが起源であると断定する。このように社会科学的には全く根拠のない嘘であるニーチェの道徳論を思考を媒介とせずに、多くの若者たちや大学院の哲学科学生が支持しているのは誠に滑稽である!!

  人間科学の立場からすると、一般に道徳の起源は、社会学における社会化理論(価値規範の内面化)やコールバーグの道徳性発達理論、フロイトのエディプスコンプレックス説によって説明される。
 社会化の理論とは、人は他者と関わるなかで価値規範を身につけていくという説である。つまり、幼少時から親や学校や地域社会の人々とのコミュニケーションにおいて、道徳規範を学習し、取り入れていくというわけである。弱者だから道徳規範をもつのではなく、人との関わりで道徳規範を身につけていくわけである。そして、人々が共通の道徳規範を身につけることで、社会秩序が保たれると考える訳である。これは、社会学による道徳の起源の説明である。
 当たり前の話しであるが、自分がなぜ道徳を身につけたのか振り返ってみると、親や教師や周囲の大人などからの影響であるとすぐにわかるのである。自分は弱者だから道徳意識を身につけたという人間はいないのである。このような社会学による説明は、自明すぎるが、誰にも当てはまる実証的なものである。
 コールバーグの道徳性発達理論は、他者とのコミュニケーションを通じて具体的にどのように道徳規範を学習していくのか解明している。賞罰の意識から普遍的な善悪の意識が生ずる錬金術を見事に描いている。コールバーグの道徳性発達理論は、現実の人間の発達過程に対する臨床的観察から得た実証的なものである。まさしく、社会学における社会化理論の内実を補うものである。
 精神分析学のエディプスコンプレックス説も、フロイトが臨床知から得た理論であり、神話を比喩として用いているが、極めて臨床的な実証知である。エディプスコンプレックスとは、子供が父親に母親を奪われるのを防ぐために、父親のように強くなろうとして、父親をモデルとすることで、道徳規範としての超自我を形成するという説である。フロイトが、多くの現実の患者の治療を通して発見した道徳の発生原理であり、物語ではない。
 これらの人間科学の知見からすると、ニーチェの道徳論は幼稚すぎるのであり、実証主義社会学者コントに言わせれば、神話的段階の知識に相当するだろう。ニーチェのルサンチマン道徳論は、まさしく神話なのである。
 
 さらに、知識社会学的にいうと、ニーチェのルサンチマン道徳論は、善悪の基準が絶対的に存在しないと考える思想つまりニヒリズムを正当化するための神話にしかすぎず、近代社会が生み出した一部の裕福な知識階級の子弟のイデオロギーにしかすぎない。つまり、全く実証的根拠を欠く自己のイデオロギーを正当化するための神話なのである。

 このような神話を本気で支持する人たちは、自らの思想であるニヒリズムを正当化するために、ニーチェにかぶれているにすぎないのに、それに気づいていない。

 大震災などの災害が起きた時に、助け合わなければならなという社会規範は強くなる。今、東北関東大震災によって多くの人々が被災しているが、このような危機場面においては、人々はかえって助け合い、利他的にふるまい、道徳意識が高まるのである。全国の人たちが助け合おうとしている。助け合うことは災害時規範と呼んでいいと思うが、阪神大震災の時も、被災者自らが利己的に振る舞わず、助け合い、神戸を復興させている。
 このような事実を考えると、ニーチェの利他主義批判は全く的を射ていないわけである。ニーチェのいう弱者の道徳など全くの虚構であり、社会学的に利他主義は社会的人間の中に最初から埋め込まれている道徳原理なのである。

 ニーチェ哲学では、人を助けたいという人たちの善なる心の本質を解明できないのである。ここでニーチェに心酔している知的な若者にはっきりと言いたい。
 ニーチェを捨てよ!!  社会学をコツコツと勉強し、ボランティア意識を身につけなさいと。

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by merca | 2011-03-16 00:42 | 理論 | Comments(4)

反ニーチェ講座 第一回「ニーチェは死んだ」

 
  はじめに 

 成熟社会である日本社会において、ニーチェの思想が流行っている。ニーチェの思想の眼目は、絶対的な真理や善悪は存在しないから、それゆえ自分の思うままに何をしてもいいということにつきる。認識論においては、唯一の事実は存在しえず、全ては解釈であるという極端な主観主義をとり、また価値論においては、善悪の基準は人間がつくりだしたものとして、極端な価値相対主義をとる。
 ニーチェは、科学も、キリスト教と同じく、真理の存在を前提とする信仰に支えられた思想であるとして、否定している。従って、ニセ科学批判なんてものは、ニーチェにとっては全くのナンセンスな代物ということになろう。そもそも、科学も宗教も真理を前提するという点において、ニーチェにとっては同じなのである。
 
 さて、現代社会科学からすると、ニーチェの思想は、狂人の戯言や妄想にしかすぎない。にもかかわらず、人々に広く流布するのは、それなりの理由があるからである。そして、戯言であっても、それがコミュニケーションされることで、ある種の社会的リアリティをもってくるのである。
 ニセ科学批判のような科学主義や通俗道徳に基づく思想が流行る一方で、全く逆の価値観をもつニーチェの思想が流行るという現象が起きている。
 成熟社会に適合的な思想は、科学主義(ニセ科学批判)かニーチェ主義かどちらであろうか?
 このテーマは奥深い。二つの対極にある思想を批判的に分析し、そして、どちらも止揚・相対化することが社会学の使命である。

 私は、これまで科学主義やニセ科学批判に対する批判を、くどいほどしてきたので、私をニーチェ主義者=相対性原理主義者と同じであると勘違いする人たちもいるかもしれない。私はニーチェのような単純な相対主義者でもなく、また科学主義者のような単純な絶対主義者でもない。
 いずれにしろ、しばらくニーチェの思想を批判していき、その虚構性と欠陥を暴き、ニーチェに騙されている人たちを覚醒させたいと考えている。そのために、当ブログにおいて反ニーチェ講座を連載していきたい。

 反ニーチェ講座 第一回 「ニーチェは死んだ」
 絶対的真理や絶対的善悪は存在しないから、それらは必要ないし、自由に生きればよい。ニーチェはこのように喝破し、キリスト教や科学を批判する。
 ところが、どうだろうか? 真理や善悪を追い求める人間は減るどころかポストモダン社会である現在においても存在し続けている。例えば、真理や善悪=人生の意味は要らないから、今をまったりと生きようと若者に呼びかけた宮台真司のまったり革命は、見事に頓挫した。意味を求めずにうまく今をまったりと生きているはずであったコギャルたちが、結局、メンへル系や自傷系へと落ち込んでいった。つまり、完全に意味を求めない生き方は、どこか無理が生ずるのである。成熟社会では、完全に意味を放棄すると、過剰流動性の中で自己を見失い、超人どころか、廃人となってしまうのである。まったり革命の失敗が、現在の宮台思想の保守化への転向の契機となったのである。
 ちなみに、仏教では、無意味=空無に執着する物の見方を但空観といい、偏った段階の思想として否定されることになる。
 
 実は、真理や善悪は不可能であるが、人間の生や社会にとって必要不可欠な観念なのである。真理や善悪という物語をもつことで、人は動機付けられ、他者と適切なコミュニケーションをとることができ、社会は秩序が与えられるのである。自我統合と社会統合は、真理と善悪なしには、あり得ないのである。
 社会学や心理学を学ばなかったために、こんな単純なことも、ニーチェはわからなかったのである。虚構でもいいから、真理や善悪があることで、人は意欲的に動き、社会は回るのである。
 現代社会では、科学が真理を独占し、人権思想(民主主義)が善悪を独占しているのである。科学も人権思想も一つの虚構ではあるが、それを全否定することはできず、人々の社会生活にとっては必要なのである。社会学の立場からすると、虚構は機能することでかえって真理となるのである。このような社会学上の妙理を悟ることができなかったことがニーチェの限界であり、欠陥でもある。
 
 科学と通俗道徳を真理・善悪とみなし、それらに動機付けられ、意欲的に動いている人たちがいる。ニセ科学批判者たちである。ニーチェの提示する生き方とは逆のベクトルである。科学と通俗道徳によって自我統合と社会統合を達成した人たちである。ただ、科学と通俗道徳が絶対的だと思い込んでいる点において、限界があるが、ある意味、科学と通俗道徳が機能しているわけである。

 まとめると、過剰流動性のある成熟社会では、意味を求めない生き方=超人は、必ず、心の病にかかり、ひどい場合には廃人となる。ニーチェの思想は成熟社会では、通用しないのである。まさしく、ニーチェは死んだのである。
 
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by merca | 2011-03-06 23:53 | 理論 | Comments(17)

ホリスティックな思考は、全て非科学か?

 ホーリズムとは、要素に還元されない全体が要素を決定するという論理である。ホリスティックなどという言葉でもよく使用されており、自然治癒力を重視するホリスティック医療等というものも存在し、ホメオパシーの正当性を根拠付けている場合も見受けられる。
 ちなみに、ホーリズムに基礎をおく知識体系は、ニセ科学批判者に嫌われており、非科学として断罪されるケースが多い。例えば、脳科学者の茂木健一郎のクオリア論も、ニセ科学批判クラスターから叩かれた。クオリア論におけるクオリアは、要素に分解できない全体的感覚であり、要素還元主義からは説明がつかず、一種のホーリズムな知識体系である。また、複雑系や宇宙論もホーリズムと関連してくると、ニセ科学批判者の批判対象となる。トランスパーソナル心理学やニューエイジの東洋思想も、実証性を重んじるニセ科学批判者の批判の的になるのである。
 要するに、目に見えない怪しい全体なるものが存在し、その全体が部分に作用するという理屈は、ニセ科学批判者にとっては、ニセ科学と見なされる。
 例えば、人間は精神と肉体の二元論で説明することはできず、心身を統一する全体としての生命体として存在し、従って生命力があがれば、肉体面の病気も治るという考えは、ニセ科学批判者に否定されることになる。なぜなら、生命(魂)という全体的存在は、目に見えず、科学的に観測されないからである。自然科学的に直接認識できるのは、分子と分子の関係からなる細胞、さらにその細胞同士の関係にしかすぎず、生命体という全体は存在しないからである。自然科学からしたら、ホリスティックな生命全体は虚構であるというわけである。
 また、部分から説明がつかない全体の存在を認めてしまうと、永遠の生命の存在を容認することにもなりかねず、科学主義者は嫌がるわけである。
 実は、ホリスティックな存在は、直観的にしか捉えることができない。ホリスティックな認識は、全て直観的認識であり、自然科学的認識ではない。物の全体性を捉える能力は、最初から生得的に一部本能として人間に備わっているのである。我々は、多少間違うことはあるにしても、科学を学ばずに対象を生物か無生物かに直観的に区別することができる。(ちみなに自然科学は細胞から出来ていると生物だと判断する) さらに、人間は自然科学を学ばなくても、対象を触ることで液体と固体を区別することができる。また、一定の社会環境で、人間として育つと、音の羅列を音楽として認識し、色の羅列を絵画として認識することができる。
 このような全体性を捉えることができる直感的認識は、自然科学的認識より劣っており、偽であると断言することはできない。問題は、ホリスティックな全体性と思えるものは、単なる主観的な人間の認識枠組みなのか、それとも客観的な外部対象の属性なのかということである。この点は、検討の余地があり、一番本質的な課題である。
 それはさておくとしても、物事をホリスティックに捉えることは、有用であることには疑問の余地はない。我々人間はあらゆる物事を一つの全体として捉え、意味付与し、カテゴライズして外界の複雑性を縮減し、世界に適応しているからである。
 自然科学的立場を絶対化し、ホリスティックな思考を全てニセ科学として断罪し、嘘であると排除するのは、よくないのである。

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by merca | 2011-02-20 23:59 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)

因果関係確定とニセ科学批判者の二枚舌

 因果関係とは、AがあればBが生ずるという関係である。例えば、火があれば、煙が生ずるなどである。因果関係には、三世界論に対応して、以下の種類がある。
 
(物理的因果関係)
対象は、物質世界における因果関係。
観察方法は、外から五感を通して認識し、個物を一般化した相で捉え、帰納的に発見する。
記述方法は、必然の法則として記述する。同じ属性をもつ全ての物質に当てはまる。
例 エネルギー保存の法則、熱量の法則、万有引力の法則など、物理法則。
 
(心理的因果関係)
対象は、精神世界(意味世界)における因果関係。
観察方法は、分析対象そのものに質問して認識し、個別的な因果関係を構成する。
記述方法は、動機として記述する。個別のケースのみに当てはまる。ただし、類似の事例には類似の因果関係が蓋然的に認められることがあり、それを臨床知と呼ぶ。
例 精神分析学のヒステリー分析。

(社会的因果関係)
対象は、社会世界(意味システム)における因果関係。
観察方法は、コミュニケーションを観察して認識し、集合的な因果関係を構成する。
記述方法は、規則や規範として記述する。特定の共同体のみに当てはまる。
例 文法、売買行為(店で金を払うと、商品が手に入る)、違法行為(盗むと、逮捕される)等。
 
 これらの三つの世界は、相互影響(構造的カップリング)=相互条件にあるが、原理的に互いに閉じており、システムとしては自律している。従って、相互に関係はあるが直接的にコントロールできるまでの関係性(一対一対応)はない。
 例えば、物体に浮かび上がれと念じたところで、浮遊することはない。(心理的要因が物質的要因をコントロールできない。) また、気温があがったからといっても、喜ぶ人もおれば残念がる人もいる。(物理的要因が心理的要因をコントロールできない。) さらに、一人の受験生が受験競争なんてなくなれと思っても、行動しなければ(コミュニケーション過程にあがってこなければ)、社会の仕組みは変わらない。(心理的要因が社会的要因をコントロールできない。)
 このような三世界における「相互コントロール不可能の原則」は、宇宙の根源的秩序である。ちなみに、この原則を破った世界観は、松本人志監督の「しんぼる」で描かれている。この原則が破れた世界ほど怖いカオスはない。

 さて、それぞれの世界における因果関係は、観察方法が異なる。
 物理現象においては、外から物体を観察することになる。ある現象の後にある現象が生ずることが繰り返されることで、因果関係を発見していこうとする。実験と呼ばれる方法である。しかし、ある現象に含まれるどの要因が本当の原因かわかるまで、疑似相関を排除するために、要因に統制を加えて精度を高めていくことになる。観測と実験が自然科学における因果確定の方法である。

 では、心理現象においては、因果関係の確定はどのようになされるのであろうか? 自然科学のように外から観察していても、心理内容は記述できないことは言うまでもない。表情や行動だけからの観察は類推の域をでない。そこで、分析対象そのものに質問して聞くことになる。
 例えば、カウンセラーが悩んでいる学生に質問し、「辛い気持ちになっている原因は、不登校で親から怒られているからです。」と答えたとする。「親から怒られる」ことが原因で辛い気持ちという結果をもたらしているという因果関係を確定できるわけである。しかし、あくまでも個別的因果関係を確定していることに注意しておこう。親から怒られると辛いという心理的次元における因果関係は全ての学生に当てはまるとは限らないからである。また、辛いという気持ちを起こす原因は親から怒られることだけではなく、いくらでも存在するのである。これは、個別のケースに関する現在における特定の因果関係の確定である。
 精神分析に基づく心理療法は、カウンセリングを通じて、因果関係をこのように個別的に特定していく。さらに、本人が気づかなかった(抑圧・隠蔽されていた)因果関係を気づくようにもっていくことになる。分析対象自身が因果関係を知っているというわけである。因果関係確定の根拠は、外からの観察ではなく、本人自身にあるということである。これを非科学的と言って切り捨てることはできない。そればかりか、内からの観察なので疑似相関に悩まされる自然科学よりも完璧な因果関係の確定となる。因果関係の確定に関しては、外側からしか観測できず不確かな自然科学よりも精神分析学のほうが完璧なのである。この点、全く気づかれていない。
 
 次に、社会現象については、人々のコミュニケーションを観察することになる。心理現象は、観察対象が個人の内面であったが、社会学の場合は、人々の行為となる。コンビニでお金を出して商品を買うという社会現象は、心理過程とは異なる次元である。例えば、一人の男がコンビ二で弁当を買ったとしても、その男がなぜ弁当を買うのかという動機(心理的次元)を店員が理解していなくても、お金を支払うだけで、店員は行為の意味を理解し、弁当を男に手渡すであろう。コミュニケーションにおいては、相互の内面的動機を提示しなくても、成立するわけである。
 また、同じ国民社会内では、どこのコンビ二に行っても、お金を支払うだけ弁当を買えるのである。金を払うという行為が原因となり、商品が手に入るという結果が成立しており、一つの因果関係が成立っているのである。
 さらに、この因果関係は規則・規範として維持されていることで、逸脱現象は起こらない。金を支払わずに商品を手に入れようとすると、万引きや強盗で逮捕され、処罰されるのである。逸脱現象に社会的制裁が伴うことで、社会的因果法則は保たれているのである。賞罰があることで社会的因果関係は維持されているのである。
 重要な点は、社会的因果関係は、社会学者自身が社会生活を送り、コミュニケーションをすることで観察・発見することができるものであり、自然科学のように、統計や実験はいらないことである。 平たく言えば、それなりに社会生活を送っていれば、わかることである。しかし、社会理論を使用して社会生活におけるコミュニケーションを観察・記述することができなければ、社会学とは言えない。社会理論という観察道具のない人の観察は、ただの居酒屋談義である。
 理論社会学の基礎を修めていない統計屋は、社会学者ではない。新聞社の世論調査そのものは社会学ではない。パオロ氏の反社会学講座は全く理論社会学の観点からの考察が抜けており、社会学的手法とはほど遠いのである。何度も述べているところであるが、人々のコミュニケーション過程にあがってこない客観的統計は、いくら正しくても社会を構成することはできず、社会的事実の資格はないということである。客観的統計=社会的事実と思い込んでいるパオロ氏の反社会学講座は、全くそのことを理解していない未熟な思考なのである。(真理のコミュニケーション説)

 因果関係の確定は、分析対象を内面から知ることができる心理学や社会学のほうが明確である。それに比べて自然科学は物質に聞くとこができず、外からしか観察することができないわけであり、実験を繰り返し、疑似相関を排除していく手続きが必要であり、因果関係の確定はいつも不明瞭なのである。「科学は全て仮説だから」という弁解が多いのはこのためである。偽薬効果は科学的仮説の段階であって確定した科学的事実ではない。
 自然科学中心主義のニセ科学批判者は、仮説に逃げることで自説の絶対化から免れつつも、仮説なのに他者を批判して自説を絶対化する二枚舌が特徴である。

 ニセ科学批判者は、科学を絶対化しているというニセ科学批判批判者や多くの常識人からの助言を真摯に受け取らず、仮説だから絶対的に正しいとは思っていないと弁解し、科学を理解していないと反論するわけであるが、その一方でその仮説でもって他説を全否定することで、自己が正しいと絶対化しているのである。この二枚舌のからくりは、科学の本質とも関係してくるのでニセ科学批判者の誤りだけに帰責できないかもしれないが、この課題をどう処理するのか見守っていきたい。

 さらに、ニセ科学批判者による科学と通俗道徳の使い分けにも注意しておう。この点についてはまたの機会に論じたい。

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by merca | 2011-02-06 11:54 | ニセ科学批判批判 | Comments(0)