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「メカニズム論の誤謬」という菊池流科学思想

 先のエントリー「偽薬効果を前提にしたニセ科学批判はニセ科学である。」で一つのことが明らかになった。それは、「メカニズム論の誤謬」という思想をニセ科学批判者たちが共有していることである。
 偽薬効果という現象は、観察されているが、そのメカニズム=因果過程は解明されておらず、科学的根拠はない。しかし、観察されている現象なのだから、科学的に否定できない事実であるという。
 つまり、メカニズムがわからなくても事実として確認されれば、科学的事実であり、メカニズムがわからないから非科学・ニセ科学とするのは誤謬であるという考えである。これを彼らの言葉では、「メカニズム論の誤謬」という。偽薬効果もメカニズムがわからないが、臨床データに基づいて観察される事実なので、科学的事実であるという。
 ニセ科学批判者は、このような論理によって、偽薬効果の存在を肯定する。そして、偽薬効果しかないとしてホメオパシーを批判する。以下の菊池氏の立場にそれは代表されており、このメカニズム軽視の菊池氏独自の科学思想にほとんどのニセ科学批判者は洗脳されている。
 http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1190130520
 ニセ科学批判者たちは、ホメオパシー批判の穏健派と過激派の対立を越えて「メカニズム論の誤謬」という科学思想を共有している。ちなみに、この対立はニセ科学批判が創始者たる菊池氏の手を離れ、一段階思想的に進歩する契機になると期待していたが、残念ながら、やはりニセ科学批判クラスターには、自由性・多様性はなく、菊池教で統一されているのである。歴史上、一つの思想が発展するためには、分裂し、様々な流派ができることが必要なのである。予言しておくが、知識社会学的には、いずれニセ科学批判者に右派と左派が生ずることであろう。

 さて、私は、正統科学を考える上で、メカニズム(因果経路)が解明されていない現象と解明されている現象の差異は、決定的に重要であると考えている。以下、それについて説明しよう。

 過去に天動説=「太陽が地球の周りを回っている。」は、事実として観察されていた。つまり、事実だと人々に思われていた。確かに人々には直接的には太陽が動いているように客観的に観察される。しかし、その事実は嘘であり、後に「地球が自転している」ことが解明された。
 さらに、重要なことは地動説が「太陽が地球の周りを回っている。」ように人々が錯覚するメカニズムも説明できることであった。誤った仮説の誤り方も解明できる説明能力もあるのである。これこそが純粋な意味での科学的事実のレベルである。果たして偽薬効果にこのレベルの説明能力があるのだろうか? 甚だ疑問である。 
 
 単に観察された現象にしかすぎない偽薬効果を科学的事実と呼ぶことは、天動説を科学的事実であると言っているのと同じである。要するに、見たままではないかということである。科学的事実は見たままの現象ではない。メカニズム=因果関係確定がセットになってはじめて科学的事実となる。
 このことにニセ科学批判者は無頓着である。ニセ科学批判者たちは、メカニズムが解明されていなくても科学的事実たりうるという菊池氏の変な科学思想を継承しているのである。

  観察されることが、イコール科学的事実ではない。いくらそれが客観的であってもである。
 もし多くの人に観察されることがイコール科学的事実であるならば、幽霊や超能力もこれまで多くの人が観察してきたのだから、科学的に実在することになる。偽薬効果を認めるニセ科学批判者の理屈からは、幽霊や超能力を認めざるを得なくなる。幽霊や超能力を見た人たちは、自分たちが見たから否定のしようがないと言う。偽薬で治った人がいるのだから偽薬効果も科学的事実であるというわけである。

 偽薬投与で身体への効果が臨床的に観察されるからといっても、「効く薬だと思い込む」ことが身体状況に本当に変化をもたらしているとは限らない。例えば、薬だと思い込むことで、認知に歪みが生じ、身体状況の変化を全て薬の効果と解釈して認知するようになっているのかもしれない。身体状況の変化は自然治癒が原因なのに、それを薬の効果だと認知するわけである。自然治癒を薬の効果であると錯覚しているだけなのである。これは、偽薬効果ではなく、認知不協和理論による心理現象なのである。この場合、効果そのものが嘘であり、心理過程のみで説明がつくので、偽薬効果は否定される。(認知不協和理論については文末の参考欄を参照されたい。)
 偽薬効果が前提とする「効く薬だと思い込む」ことが原因で身体状況の改善につながるという因果関係は疑似相関関係にしかすぎないかもしれない。例えば、たまたま「効く薬だと思い込む」ことがある患者の精神的安定(リラックス状態)につながり、精神的安定(リラックス状態)が自然治癒を促進するという媒介要因が介在しているとすると、「精神的安定(リラックス状態)は病状の改善に寄与する」というのが科学的事実であって、「効く薬だと思い込む」が病状を改善するということは科学的事実ではない。この場合、「効く薬だと思い込む」が原因ではなく、精神的安定(リラックス状態)による自然治癒が病状の改善の真の原因となる。
 偽薬効果の効果は、定義上、直接的に身体的影響効果がある場合にだけ成立つ。心理過程のみの心理現象ではなく、原因たる心理現象と結果たる身体現象の因果関係が実在しなければ、意味がない。「効く薬だと思い込む」ことが精神的安定をもたらす人もおれば、そうでない人もいる。例えば、疾病利得の人は、病気で仕事をさぼりたいと思うので、薬が効いて欲しくなく、治りたくないと思っているので、精神的によけいに不安定になるであろう。
 
 思うに、ホメオパシーで治ったという人たちは、偽薬効果によって治ったのではなく、自然治癒をレメディの効果と勘違いしているわけであり、認知不協和理論による心理過程のみで説明がつくのである。わざわざ身体現象を伴う偽薬効果などという非科学的なものを持ち出して批判する必要もないのである。
 それにしても、偽薬効果は、科学的にメカニズムが解明されていないわけであり、科学的に解明されていない現象を肯定するのなら、幽霊や超能力も科学的に解明されていない現象として同等であり、肯定されなければならない。
 オカルト信者やマニアたちは、幽霊や超能力は、未だ科学で解明されていないだけであり、いずれ解明される可能性があり、科学的に否定することはできないとよく言う。このような言い分に対して、ニセ科学批判者は非常に毛嫌いするが、科学的にメカニズムが解明されていない点においては、偽薬効果も幽霊や超能力と同じなのである。
 「メカニズム論の誤謬」という菊池流科学思想からすると、幽霊や超能力は科学的に解明されていないが、多くの人に観察されているわけであり、科学的事実となるのである。
 メカニズム解明を科学の条件とするかどうかは、個々人の科学観によるものであり、科学の定義をどうするかという科学哲学上の問題であり、誤謬の問題ではない。
 私はメカニズム解明を科学の条件としたい。少なくとも「メカニズムの解明可能性」は必須条件であると考えたい。そもそもメカニズムが解明できないもの=原因のないもの=世界の根源的偶然性は、宗教の処理する領域だからである。

 参考 認知不協和理論
 認知不協和理論とは、複数の情報に意味的整合性をもたせようとする心理作用をいう。薬が効くという情報を信じている人間は、身体状況の変化という情報を薬の効き目だと認知することで、整合性をもたせようとする。
 ホメオパシーを信じている人にとっては、自然治癒をレメディの効果であると認知することが整合性があることになる。さらに、ホメオパシーによって病状が悪化しても、それは好転反応であるという認知をすることで、レメディの改善効果の兆候として認知されることになる。好転反応は、レメディに効果があるというホメオパシーの物語に整合性を持たせるための概念装置である。好転反応は、新興宗教の信者が苦難を神の試練と見なすことと機能的に等価である。
 要するに、病状が改善しても改善しなくても、レメディ投与には効果があるという概念装置をもつことで、ホメオパシー信者は益々ホメオパシーを信じることになるのである。このような社会心理過程は、既存の宗教社会学の新興宗教論ですでに解明されているが、社会科学に疎いニセ科学批判者たちにはあまり論じられていない。宗教社会学という社会科学による知識から、一応、ホメオパシー批判をすることは可能である。しかし、批判の目的を正当化する立場自体(通俗道徳)が正しいとは限らない。

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by merca | 2011-01-30 00:11 | ニセ科学批判批判 | Comments(3)

ニーチェはいらない。

 善悪の内容は、社会によって異なり、相対的であるのが事実であり、異なる社会同士の道徳観は対立することもある。何を善とし、何を悪とするかは、倫理学の根本的テーマである。
 さて、古くから、西洋哲学では、功利主義(幸福主義)に基づく道徳観と理性主義に基づく道徳観との対立がある。ベンサムに代表される功利主義とは、人々の利益になることが善であり、人々の不利益になることが悪であると考える道徳観である。簡単に、アリストテレス風に表現すると、善とは幸福の手段であり、悪とは不幸の原因であるということになる。功利主義は、行為の結果に着目した道徳観と言える。
 これに対し、カントに代表される理性主義とは、損得とは関係なく、すべきことをし、してはならいことをしないことが善であり、すべきことをせず、してはならないことをすることが悪となる道徳観である。例えば、人の命を救うことは、すべきことであり、結果の損得とは関係なしに、善である。また、人の物を盗むことは、してはならないことであり、結果の損得とは関係なしに、悪である。このように、行為の結果に関係なく、善悪はあらかじめ無条件に定められているということになる。簡単に言えば、道徳規範に従うことが善であり、反することが悪であるということである。道徳規範の内容が問題になるが、カントの場合、実践理性による自由の実現が道徳規範の内容となる。

 いずれにしても、功利主義も理性主義も、何を善とし、何を悪とするかについて、満足のいく回答ではない。そこで、善悪を別の区別から観察してみたい。
 (利他/利己)という区別で観察すると、善は利他に対応し、悪は利己に対応することになる。よく思い起こしてみると、我々は、普通に利他的人物を見ると感動するし、利他的人格の人間をいい人だと人格判断している。宮台真司が指摘するように、多くの人々は利己主義者には感動が湧かず、利他主義者に感動と尊敬の念を抱き、その価値観に感染することは事実である。
 逆に、多くの人たちは、自分のことしか考えない利己的人物をつまらぬ悪い人だと感じる。全く他人に思いやりのない利己主義者は人から軽蔑され、嫌われる。
 このように、利他と利己は、純粋に善悪の観念と直結しているように思える。この感覚は重要であり、ここに功利主義と理性主義を越える秘訣が隠されている。
 
 実は、利他主義は、功利主義の要素と理性主義の要素の両方を含んでいる。利他主義は、目的において他者の利益や幸福のために行為するわけであるから功利主義的であるし、また自己の利益や幸福を度外視して他者のために行為すべきと考え、自己犠牲的に振る舞う点において理性主義的である。動機において自己の欲望を抑えてまでも他者のためにすべきと考え、結果において他者に利益と幸福をもたらそうとする。仮に、結果的に自己の行いが他者のためにはならなかったら、利他主義者は後悔の念に襲われ、自己を責めることになるだろう。つまり、利他主義こそが善なのである。そして、利他的行為を妨げる利己主義が悪となる。とにかく、利他主義は、功利主義と理性主義を止揚するジンテーゼの位置にあるのである。
 
 さらに、キリスト教、仏教、儒教などの世界宗教においては、(利他/利己)という区別はそのまま善悪と同義である。仏教では、端的に善行とは利他を意味している。儒教においても仁愛とは、他者への思いやりの情である。キリスト教の隣人愛も他者へのいたわりである。このように文化を越えて伝播する世界宗教は、善悪の基準として(利他/利己)という区別を採用している。世界宗教の場合、利他の「他」とは特定の共同体の内部を越えた人類全てを指すということはいうまでもない。利他的行為の対象である他者は全人類であり、全人類を救済の対象にするからこそ、世界宗教たりうるのである。

 人々のおおよその自然な善悪感覚及び世界宗教の倫理観からすると、「利他は善であり、利己は悪である。」 簡単であるが、これが事実的な善悪の基準の回答である。これには多くの人はさして異議はないと思うし、これで十分である。多少異議が有ろうとも、私は、利他を善と呼び、利己を悪と呼ぶことに違和感はない。
 
 なお、明確で厳密な善悪の基準の定義=概念を求めたがる人は、善悪の基準を法則と勘違いしている人である。人と人の関係に先立って、善悪は宇宙の法則のようにあらかじめ存在するものではない。人と人が関係しあうことでコミュニケーションが創発され、それを一つの区別から観察することで後から善悪は構成されるものである。
 私は、利他を善と名付け、利己を悪と名付けるだけであるし、そうすることで、他者とのコミュニケーションにおいて差し障りはない。私が利他的行為をなす人を見て善人であると言ったとしても、私の言葉の使い方がおかしいという人はいないであろう。
 私の場合は、ニーチェのように絶対的で明確な善悪の基準にこだわりすぎて、ニヒリズムに陥り、ことの本質を見失うということはないだろう。
  
 利他は善であり、利己は悪であることで、倫理は成立ち、世界社会は回るのである。ニーチェはいらないのである。

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by merca | 2010-12-26 23:35 | 理論 | Comments(2)

東浩紀・宮台真司著「父として考える」書評

 東浩紀・宮台真司著「父として考える」という新書が出ている。これは、デリダのポストモダン思想を受け継いだ郵便的脱構築で有名な東浩紀と、ルーマン社会学を受け継いだ社会学の巨人・宮台真司の対談である。
 
 二人と言えば、俗流若者論批判者である後藤和智から批判されているのは周知のとおりである。思想地図においては、今や事実やエビデンスを絶対化する後藤氏らの事実主義思想の登場によって、観念的なポストモダンの論客は時代遅れとして否定されつつある。事実に基づかない反自然科学的な知識体系として、東浩紀や宮台真司らの思想は、駆逐すべきであるというわけである。
 今後、ニセ科学批判運動と同じく、学問の世界において、反自然科学的な知識体系が魔女狩りされていく傾向は強まっていくと考えられる。ルーマン社会学の観点からは、これは、ある意味、科学が自律性のあるシステムとして分出している現代社会では、仕方のないことである。(理論)社会学に残されている道は、社会思想として社会統合と自我統合を担うことに特化されていくことしかないかもしれない。

 さて、そのような思想地図で起こっている戦争状態を踏まえた上で、本書で面白いことが書かれていたので指摘しておきたい。本書は、父として考えるという表題であるが、基本的には社会を語っている社会評論=社会解釈である。
 
 宮台氏は、自らがラディカル構築主義者であるにもかかわらず、鋭く社会構成主義を批判する。
 全てはつくられたもの、つまり構成されたものであるとしても、視座によっては構成されたものは構成されざる無為のものとして観察され、虚構ではなく、真理=事実として認識されるという。詳しく言うと、共同体に所属している内的視座から観察すると、共同体を支える価値規範や知識体系は、根拠のない物語ではなく、真実であるということである。例えば、雷を神様が怒っていると考える共同体があるとすると、その知識体系は共同体に所属する人々にとっては真理であると受け取られるということである。もちろん、共同体の外にいる者の外的視座から観察すると、根拠レスの虚構とうつるわけである。雷は神様の怒りという知識体系があることで、回っている共同体では、それは違和感なく人々に受け取られ、真理として機能するのである。
 とにかく、宮台氏の主張を私なりに解釈すると、一つの共同体を支える価値規範や知識体系は、共同体の外から観察した時には虚構であり、根拠レスにうつるだけであるので、社会構成主義のようにやみくもに全ての共同体の価値規範を全て根拠レスと見なし否定するのはおかしいと指摘しているのである。言い換えれば、社会構成主義者の視座は、一切の共同体から超越した常に外的視座からの観察であり、外的視座を絶対化しているわけである。外的視座のみが正しいわけでなく、内的視座によって相対化されなければならない。社会構成主義者が全ての共同体の価値規範や知識体系は根拠レスであり真実ではないという時、自らを絶対化しているのである。これは、悪しき相対主義である。悪しき相対主義は、内的視座から観察すると、共同体の価値規範が真実であるという事実を虚偽とみなす誤謬を犯しているのである。

 このように(内/外)という別の区別を再参入することで、社会構成主義=相対主義の盲点を見抜き、相対化した宮台は、やはり哲学においても一流と言わざるを得ない。
 ただ、内外の区別は流動的であり、内的視座からの観察と外的視座からの観察が弁証法的な関係に有り、他なくしては自己もない縁起関係にあることも踏まえなければならない。内的視座からは事実であり、外的視座からは物語となるが、事実と物語が相まって共同体と外部は可能になるのである。これはレヴィナス級の哲人である柄谷行人の論理でもある。
 とにかく、一つの知識体系は、ある視座からは真理となり、別の視座からは虚偽となるのである。絶対的な視座たる神の視点は存在し得ず、視座の差異によって、真理値がコロコロと変わるのである。このように考えると、科学はどんな場合でも、真理であるとする科学主義者の観念は誤謬であることがわかる。科学が真理だと思うのは、科学が真理だと信じられている現代社会に属している内的視座から観察しているからである。このことに関してニセ科学批判者は盲目である。
 
 宮台氏は、後藤氏に対してエビデンス厨というレッテルを貼っているが、後藤氏は、自然科学的手続きを経た知識のみが根拠があり事実だと見なしましょうという現代社会の約束事に忠実なだけなのである。つまり、後藤氏は、現代社会の価値規範に過剰適応してしまっているのである。ニセ科学批判者の菊池氏も同様である。後藤氏も菊池氏も、科学的手続きを真理の根拠とみなす社会でたまたま教育されただけの話なのである。ただ、そのような社会学的見解を彼らに言うと、相対主義だと我々は見なされるのである。端的に言うと、彼らは、自己の視座を再帰的に認識できず、相対主義者よりも、視野が狭いということになる。それだけの話である。
 
 何を知識の正しさの根拠と見なすかは、社会によって異なり、その差異を観察するのが社会学の役目である。

 参考
 記憶が定かではないが、確か社会学者芹沢一也が脱社会性という言葉によって少年を怪物化し治安悪化神話の片棒を担いだと宮台氏を批判していたが、それに対して何かの書物で宮台氏が視座と視点の混同であると反論していたことがあったと思う。これが何を意味していたのかわからなかったが、もしかしたら、宮台氏は、体感治安という人々の内的視座による観察を一方的に非真実として棄却し、犯罪統計という外的視座のみを真理として絶対化する治安悪化神話論批判者の在り方を批判したのかもしれない。

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by merca | 2010-10-24 08:31 | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型5

 (別の区別の再参入)
 自己言及のパラドックスは、相手の言説が準拠する(相対/絶対)、(原因/結果)、(目的/手段)、(真/偽)、(善/悪)などの区別を暴露し、同じ区別を自己適用させることで、決定不可能な自己矛盾を指摘し、否定に追い込む方法であったが、それとは逆に、相手の言説が準拠する区別とは全く異なる区別を投入することで、相手の言説を相対化するとともに、コミュニケーションの契機として取り入れていく手法がある。それが、別の区別の再参入である。つまり、相手の言説を別の区別に準拠する観察点から観察し、コミュニケーションを連接さていくということである。相手の言説は別の意味に変容されることで相対化されるものの、コミュニケーションの中に別のかたちで生かされていくのである。
 これは、自己言及のパラドックスに陥り、コミュニケーションが行き詰まった時に、脱パラドックス化の手段として使用することもできる。
 
 宮台真司が、殺人がなぜ悪いかという哲学的難題について、別の区別の再参入によって脱パラドックス化を図ったのは有名である。殺人が悪であることは、哲学的議論として論証することはできない。なぜなら、善悪の基準を正当化するためには、その基準が正しいかどうかを判定するそのまた基準が必要になり、結局、基準の基準を無限遡及することになってしまうからである。善悪の絶対的な基準があってもなくても、道徳システムは成立しないのである。
 宮台氏は、このような道徳システムのパラドックス化を社会学の観点から救い上げたのである。道徳システムを(意味/強度)という別の区別に準拠して観察すると、善悪の絶対的な基準を論証しようとする態度は意味(理性)の立場に立っており、強度=好嫌や快苦の立場に立っていないことが暴露されることになる。さらに、社会学的に説明すると、社会は、仲間を殺すことはできないように人間を社会化しているのであり、社会化された普通の人間は殺人を生理的に嫌い殺人ができないようにプログラムされているのである。
 そこで、殺人がなぜ悪いかという問い自体は、いかにして社会が殺人を好むような人間をつくらないかという課題に変換され、コミュニケーションされていき、有意義化されるのである。善悪の究極的基準によって殺人禁止の道徳的根拠を見いだすという不毛な哲学論争は、社会学的観点から見事に相対化され、別のコミュニケーションへと変換され、有意義に連接していくことになるのである。

 科学は、認識と対象の一致という真理観を採用しているが、そのために認識と対象の一致を判断する基準そのものが正しいかどうか判断するそのまた基準が必要になり、最終的に対象と認識が一致しているという絶対的根拠を示すことができなくなる。(対象/認識)の区別に(対象/認識)を自己適用すると、パラドックスに陥る。かくして、対象と認識の一致として真理を捉える科学観は行き詰まることになる。そこで、構造構成主義などは、(対象/言葉)という別の区別から観察し、言葉(の使用法)の同一性から科学を根拠づけることで、客観性を担保しようとする。
 また、科学的真理の正しさは、事実についての認識の正しさという観点ではなく、利用可能性や説明可能性の観点から判断するということも可能である。すなわち、科学的真理が、事実についての絶対的に正しい認識であるかどうかが最終的に判断できないのなら、(利用可能/利用不可能)あるいは(説明可能/説明不可能)という別の区別から判断して正しさとすることもできるわけである。
 利用可能性とは、科学的真理が様々な目的のために利用価値があるかどうかである。現代人の生活は科学的知識を利用することで成立っている側面が多く、その意味では科学は真理として見なすことができる。また、あらゆる現象を説明する能力も科学は高いのであり、説明可能性からしても真理として見なすことができる。
 科学は、事実についての認識の正しさ、つまり対象と認識の一致という真理観を採用しなくても、現代社会では、利用可能性、説明可能性という観点から真理として正当化できるのである。対象と認識の一致という古い科学観に拘り続け、事実は一つしかないという観点から、他説をニセ科学として否定するニセ科学批判者の科学観は素朴で古すぎるのである。対象と認識の一致という真理観を採用する古典的科学主義こそがニセ科学批判者の科学観の本質である。真理の効用説=科学の利用可能性や真理の整合説=科学による説明可能性に基づいた新しい科学観からしたら、ニセ科学批判はナンセンスなのである。
 
 とにかく、別の区別の再参入は、相手が準拠する区別とは、別の区別から相手の区別を観察し、相手の区別それ自体を自己の区別の片方の項に入れ込むことで相対化し、コミュニケーションを連接していくわけである。重要な点は、相手の区別それ自体をうまく自己の区別の片方の項に入れ込む作業であり、入れ込みがうまくいかないと、コミュニケーションは連接していかないことになるので注意しないといけない。闇雲に、どんな区別からでも相手の区別を観察できるわけではなく、何でもありの相対主義にはならないことを釘をさしておこう。一つの目的によってなんでも他者の区別を手段化する方法とは一線を画するのである。
 斜めから別の区別を投入する技は、極めて社会学的センスが求められ、宮台レベルのコミュケーションの達人論客にしか使えない技と知るべきである。

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by merca | 2010-09-20 12:47 | 理論 | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型4

(自己言及のパラドックス)
 自己言及のパラドックスとは、相手の準拠する区別そのものに同じ区別を適用することで、相手の言説を決定不可能に導き、その絶対性を否定することである。
 例えば、相対主義者の用いる区別である(絶対/相対)という区別を相対主義にも適用した場合、決定不可能に陥る。相対主義が相対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は正しくなくなり成立たなくなるし、相対主義が絶対的であれば、相対主義の「絶対的な真理は存在しない」という命題は絶対的だということになり、矛盾することになる。相対主義の主張は、相対的であっても、絶対的であっても、自己矛盾を起こし、成立たなくなる。原理性相対主義は、このように自己言及のパラドックスを含んでおり、成立たない。
 ちなみに、絶対主義の命題である「絶対的な真理は存在する」という命題は、絶対的であれば、成立つことになり、自己言及のパラドックスは起きない。自己言及のトートーロジーが起きるだけである。片方の項のみに、自己言及のパラドックスが起こることになる。あるクレタ島人がクレタ島人は正直だと言った、という命題は、パラドックスは起きないのである。
 
 科学における反証主義自体に反証可能か不可能かを適用すると、自己矛盾が起きる。反証主義が反証されないとすると、反証不可能な命題となり、科学的に正しくなくなるし、逆に反証主義が反証されうるとすると、反証される可能性があるのだから、完全に科学的に正しくなくなることになる。ちなみに、実証主義には、このようなパラドックスは起きない。

 合理主義の準拠する(目的/手段)図式に(目的/手段)を適用すると、目的それ自体も合理的でなければならず、別の目的の手段であることが必要であり、目的は別の目的の手段として相対化される。しかし、そうなると、目的の目的を無限遡及することになり、究極目的はないことになる。しかし、一方で、合理性が成立つためには、手段を最終的に根拠づける目的が必要となってくる。
 要するに究極目的が存在してもしなくても、自己矛盾を起こし、合理性は成立たなくなる。もし究極目的が存在するのなら、究極目的だけは非合理ということになり、世界は合理的であるという合理主義の命題は破綻する。また、究極目的が存在しないとすると、最終的に手段を合理化する根拠としての目的がないことになり、世界は合理的であるという命題は成立たなくなる。
 また、同様にして、決定論=因果律に因果律を自己適用すると、成立たなくなる。第一原因があってもなくても因果律の世界は成立たなくなるからである。

 社会科学が準拠する合理性も、自然科学が準拠する因果性も、ともに自らの準拠する区別を自己適用すると、成立たなくなり、自己言及のパラドックスに陥ることになる。
 一つの区別に準拠する閉じた形式体系は、必ずパラドックス命題を含んでおり、自身からは説明ができないのである。説明するためには、別の区別から観察していく他ないのである。次回、別の「区別の再参入」を紹介したい。
                                           続く

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by merca | 2010-09-18 23:51 | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型3

 社会学玄論講義 相対化作法の類型3

(脱構築)
 デリダの脱構築も相対化作法の一つである。西洋形而上学は、善と悪、本質と現象、絶対と相対、客観と主観、真理と虚偽など、様々な二項対立図式から構成されている。しかも、善は悪よりも、本質は現象よりも、絶対は相対よりも、客観は主観よりも、真理は虚偽よりも、根源的で価値があると考えられてきた。形式化していうと、片方の項がもう片方の項よりも存在論的にも価値論的にも優位であると考えられてきた。このような二項対立図式を内部から解体する方法が脱構築と呼ばれる。脱構築によって二項の序列関係が逆転化されてしまうことになるのである。

 脱構築を使用すると、次のようになる。本質から現象が生じたのではなく、個々の現象を観察することで本質たるイデアの観念がつくられた。悪が先にあり、悪を防止するために善がつくられた。主観が先にあり、複数の主観の合意点として客観がつくられた。相対的な考えに耐えることができず絶対的なものを必要とするようになった。虚偽による失敗を防ぐために真理が述べられるようになった。つまり、このように優位と思われた項は、実は、劣位の項を条件として発生したものであることがわかる。そうなると、優位の項が劣位の項を完全に否定・排除しては成立たなくなる。

 ニセ科学批判とは、科学と名乗る学説や商品などの対象を本物科学とニセ科学とに区別し、ニセ科学を否定し、本物科学を肯定する思想である。脱構築をニセ科学批判に適用すると、こうなる。
 (本物科学/ニセ科学)のうち、本物科学のほうが先に存在し優位であると思われているが、実はニセ科学が存在するからこそ、科学主義たるニセ科学批判が発生したということになる。ニセ科学批判の成立条件は、ニセ科学の存在であり、ニセ科学を完全否定してはニセ科学批判は成立たなくなることになる。本物科学は、ニセ科学との差異によって根拠付けられることになり、ニセ科学を必要とすることになってしまう。脱構築の発想からすると、偽物の出現によって、はじめて本物も存在し、偽物と本物の区別はつくられるのである。先に本物が存在するのではなく、ある対象に偽物のレッテルを貼ることで、事後的に本物がつくられるのである。
 かくして、ニセ科学批判が準拠する二項対立図式である(本物/偽物)という区別の価値序列は解体され、破壊される。つまり、脱構築されることになる。
 脱構築は、二項対立図式の両項の序列関係を逆転させ、図式そのものを解体する相対化なのである。脱構築は解体のみに終わる単純な相対化ではなく、実は隠された視点=第三項を暴露することになる。そもそも、二項を区別する基準そのもの=第三項を露にして見せることになるからである。
 実は、科学は、自らが本物だと言うために他説に偽物のレッテルを貼ることでしか、自らのアイデンティティ=自己同一性を保つことができないほど、曖昧なものだということを露呈しているのである。何が科学かという論争はずっと結論が出ていないわけであり、科学観の曖昧性に耐えきれない脆弱な者たちが、他説に偽物のレッテルを張り、かろうじて自己満足しているのである。ニセ科学批判者にとっては、科学の自己同一性はニセ科学批判を通して事後的に構成されるのである。
                               続く

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by merca | 2010-09-12 23:19 | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型1

相対化作法の類型1
 
 他者の説を相対化する作法を相対主義と定義するのなら、相対主義は色々な種類が存在する。それについて説明していきたい。
 さて、黒木玄さんの相対主義に関する見解が掲載されている以下のHPがある。
  http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/FN/relativism.html#absolutism
 しかし、実はこれはかなり古すぎる考えであり、相対主義についての見解として単純・凡庸すぎる。認識と価値に区別して相対主義を分類する方法は、単純すぎる。他にも、別の区別に準拠して相対主義を考える必要がある。多くのニセ科学批判者は、相対主義の種類が単に認識論的相対主義と価値論的相対主義の二つしかないと考えており、相対主義について深く思索してきた人文系の研究者にとっては、全く話にならないのである。
 
(認識論的相対主義)
 まず、認識論的相対主義の基本を押さえておこう。このタイプの相対主義は、事実(真理)は一つという考え方は間違っており、認識方法が異なると対象は異なって認識されるので事実は複数存在しており、一つの認識方法に基づいた知識のみが正しいと考えるのは、間違いであるとして、他説を相対化する。例えば、同一対象についての科学的認識も宗教的認識も、どちらか一方のみが正しいのではなく、どちらも正しく、平等であると相対化する。進化論も創造論も同等の正しさがあると考えるわけである。同一の対象に矛盾した認識があっても、どちらも正しいとして肯定する。認識論的相対主義者という視点から観察すると、自己の認識のみが正しく他説は正しくないと否定する科学主義者やニセ科学批判者は、自説を他と比べて特別化・絶対化しているので、絶対主義者として観察されてしまう。言い換えると、事実は一つであり、他説は間違っていると堂々と批判するニセ科学批判者は、認識論的絶対主義ということになる。認識論的絶対主義の否定が認識論的相対主義である。
まとめると、次のようになる。

認識論的絶対主義・・・一つの対象についての事実は一つであり、正しい認識方法は一つしかない。暗黙に、対象が単相的・全体的であることを前提としている。
 
認識論的相対主義・・・一つの対象についての事実は複数であり、複数の異なる認識方法のどれも正しい。暗黙に、対象が複相的・部分的であるとことを前提としている。異なる認識方法は、対象の異なる部分を観察していると考えているのである。

 認識論的絶対主義も認識論的相対主義も、別の区別から観察すると、同一の観念であると観察できる。それは、いずれも真理の対応説に準拠しているからである。どちらの主義も、真理は対象と認識の一致という考えを採用している。この前提を共有していることについて、両者は盲目である。

(機能的等価主義)
 これは、ある目的(あるいは意味)から観察すると、異なる知識や思想であっても、手段=機能として同一であるとし、相対化する方法である。例えば、仏教もキリスト教も、人々に死生観を与えて生きる意味を提供するという点においては、同一の機能を有することになる。教義内容は全く異なるが、生きる意味の提供という目的からすると、同一であり、どちらも正しく、互いに否定しあう必要もなく、対等である。信教の自由なので個人の選択まかせればよい。
 また、人々に科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識であると流布する目的(科学のイデオロギー化という目的)から観察すると、ニセ科学もニセ科学批判も、機能的等価である。この観点からすると、ニセ科学もニセ科学批判も目くそ鼻くそを笑う関係であり、ともに科学主義として観察されることになる。
 この観察点から最初に記事を書いたので、目くじらを立てて、菊池氏や天羽氏が私のブログに殴り込みに来た。つまり、科学こそが現代社会においてもっとも信頼できる正しい知識とその獲得方法であるという前提をニセ科学もニセ科学批判も共有していることに、盲目であることを指摘したら、怒って来たのである。ちなみに、ニセ科学とニセ科学批判が機能的に等価であるという視点は他にも多くある。(思想としての機能とか・・・)
 とにかく、あくまで特定の視点に立ったら、ニセ科学とニセ科学批判が相対化されてしまうことを理解できなかったようである。もちろん、他の視点から観察をすると、ニセ科学とニセ科学批判は差別化されると思われる。私は社会学の立場にたち、社会学的の視点(イデオロギー論的視点、知識社会学的視点)を選択化しているだけであり、絶対化しているわけではないのに、絶対化していると菊池氏は勘違いな反応をしてきたが、ナンセンスなので、あえて答えなかったを覚えている。
 このように機能的等価主義とは、特定の視点や目的から観察することで、異なるものを同一視して相対化する手法なのである。ただ、これと反対の作法である機能的不等価主義もあり、異なるものの中から一つのだけを絶対化する作法も理念としては考えられる。例えば、科学の公準などに含まれる実証性という点からは、科学は他の知識体系よりも優れており、絶対化されることになる。しかし、これも一つの観点にすぎないのに、ニセ科学批判者は他者に押し付けることで絶対化している。ニセ科学批判者は一つの観点を固定化し、それを他者にも共有することを強制し、相手を説得にかかる傾向にあるので、要注意である。
 正しい視点はあり得ないが、仮に同一の視点を共有することで、議論の正否は確定できるという穏健な態度を理解できていないので、ニセ科学批判者はコミュニケーションで摩擦が起きているのである。
やはり、コミュニケーション形式を観察すると、全てのニセ科学批判者は、自己の視点のみを他者に押し付けて正当化する原理主義者である。
 究極のメタな視点=神の視点が存在しなく、基本的には異なる全ての視点が平等であるという相対主義を機能的等価主義は前提としている。

     続く

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by merca | 2010-09-11 12:25 | 理論 | Comments(0)

知性発展段階説

 相対主義の問題については、実はかなり前から以下の説=知性発展段階説のように私は捉えている。あまりにも難解なことなので、あえて単純な相対主義の立場をとっていたし、現状ではそれが適切だと判断していたのである。
 情報学ブログさんが色々と誤解している節がある。(意図的に誤解していただき、議論を発展させたいのだと思うことに期待) しかし、なかなかおもろしい議論なのでのってみよう。単純な相対主義とそうでない相対主義の区別を明確化しておく必要があるからである。天台仏教にアイディアがあるが、人間の知性は次のような段階で発展すると私は考えている。

1 有見=素朴実在論
 認識できる現象には全て実体があり、存在するものの根拠=底があるという考え方。素朴実在論がそれにあたる。我々の日常的思考である。日常生活を円滑におくる上で、必要な思考である。真理の対応説をとる。科学も基本的には、この立場であると考えられる。
 しかし、このものの見方にこだわり、相対的な現象を永遠不変な実体であると思い込み、それに執着すると、我着となり。苦が生ずる。
 
2 空観=単純相対主義
 一切の事物は、つくれたものであり、無常であり、固定的な実体がなく、相対的であると悟るものの見方である。仏教では空の思想と呼ばれる。現代風にいうと、底が抜けているということである。真理や道徳に絶対的で固定的な基準自体などなく、底が抜けていると考えるわけである。所謂、相対主義である。老荘思想や社会構成主義などがこの立場に入る。
 ただし、空観も、これを絶対化すると、一切が無意味だというニヒリズムに陥る。世界にある全ての思想を絶対的でなく、相対化して否定するだけであり、何も現実に選択できなくなるからである。生きるとは価値判断の連続であり、何かを選択することなしには生きていくことができないのである。仏教でも、空観=単純相対主義が悪しき場合には、無見と呼ばれることになる。私がこの立場に陥っていると情報学さんは思っている。
  
3 仮観=相対主義の相対化
 一切の現象には固定的な実体がなく、構成されたものであるが、その都度、現実に差別相をもって現象は立ち現れており、全くの無ではない。従って、やみくもに事物を相対化して否定するのではなく、状況に応じて選択していくことが求められる。仮観とは、固定的なものの見方をせず、その都度、適切なことを判断していく立場である。胃が悪い人には胃薬を、目が悪い人には目薬を与えるわけである。胃薬も目薬も同じであると相対化し、胃の悪い人に目薬を与えては間違いとなる。現実の差別相を観察し、目的に応じた適切な選択をとるのである。
 この立場は、相対主義の相対化と呼ばれるものである。例えば、現代社会においては、民主主義には絶対的な正しさはないと悟りつつも、あえて民主主義を採用しているわけである。宮台真司が、「民主主義の不可避性と不可能性」」という主張をしているがそれにあたる。ポストモダン社会においては、絶対的なものはないと知りつつも、あえて現実を生きるために仮に民主主義のような相対的なものであっても、目的に応じて選択していくことが求められるというのである。
ちなみに構造構成主義は、相対主義そのものを前提として、全ての科学の統合を目指そうとしているわけであり、この段階の思想である。
 宮台流の「あえて主義」については、このブログでも何度も論じて来た。情報学ブログさんも、この段階の思想であり、自らは相対主義ではないと言っているのである。そして、情報学ブログさんは、おそらく私の思想を空観の相対主義だと見なし、自己とは異なると考えている。
 情報学ブログさんが悪しき相対主義に陥らず、科学を肯定的に捉えようとする態度に表れている。ただし、科学を仮に肯定する究極目的は明かしていないように思われる。時と場合によっては、科学を批判し、ニセ科学を肯定するおそれがあるので、ニセ科学批判者が気味悪がっているのだと思う。
 ニーチェの積極的ニヒリズムもこの段階の思想かと思われるが、肯定するための目的が不明確であるため、結果として、悪しき相対主義と変わらない。
 仏教では、この立場が悪しきものになると、亦有亦無見と呼ばれることになる。

4 中道第一義観=関係主義 
 これは、全てのものには、実体がなく、底が抜けているというものの見方=空観(相対主義)と、それでもあえて状況に応じて現実に選択していくことが必要であるというものの見方=仮観(相対主義の相対化)が、互いに依存しあっているとするものの見方である。
 仮観だけならば、現実を選択肯定するだけで終わってしまう。しかし、選択においては何かを肯定することが常に別の何かを否定することをともなっていることを悟る必要がある。あえて何かを選択することは、あえて別の何かを否定することを伴う。肯定することだけに目が奪われ、この否定の側面=相対化の側面が見落とされると、不十分となる。あえて民主主義や科学を選択することは、それ以外のものの仮の相対化を伴う。
 いずれにしろ、これまで述べてきた全ての知性の段階は、バラバラに存在するのではなく、つながっており、関係し合っている。その関係性を深く認識し、なぜ人がそのようなものの見方に陥るのか観察していくことが求められるのである。

 平和のためには、単純な相対主義をあえて選択したほうがいいというのが、私の立場である。
 また、私は、ニセ科学批判者や科学主義者などの原理主義者にはあえて単純な相対主義で対応しておいた方が適切であると選択している。その理由は、原理主義者は自己の主張を究極のところで絶対化しているからである。この我着=絶対主義を否定しておかなくては、次の段階の思想に進めないのである。徹底的な相対化を経ないと、知性は後退したままになるのである。相対主義も方便であり、人を見て法を説けということである。

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by merca | 2010-09-05 03:37 | 理論 | Comments(0)

科学主義者(ニセ科学批判者)が相対主義者を嫌う根本的理由

 これまでニセ科学批判に関する記事を書いて来たが、ニセ科学批判者や科学主義者がなぜかくも相対主義を嫌うのかという根本的理由について考察を加えたい。情報学ブログさんがやはり相対主義と科学主義の問題を提起している。相対主義を嫌悪する感情的反応の根本となる科学主義者の思考枠組みを解明したい。

  参考···ブログ記事 情報学ブログ
  「ネットに蔓延する科学教を考える」
  http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-1933.html
 
 まず、相対主義者というと、私も含め、色々な思想的立場の人たちが含まれる。社会構成主義、構造構成主義、ニーチェ主義、脱構築論、弁証法、そしてシステム論である。
 私は、ラディカル社会構成主義者であり、もとっも過激な相対主義の立場をとる。ちなみに、基本的に、社会学は相対主義である。絶対主義者の社会学者を見たことはない。そういう意味で、常に社会学は科学主義と対立する。ネット論客では、情報学ブログさん、ポストヒューマンさん、on the groundさんなども典型的な相対主義者の系譜に属する。
 とにかく、これらを一括してポストモダン思想と称するのには抵抗があるが、科学主義者は同じ仲間だと見なしている。
 
 これらの相対主義的な論者が、正しさにおいて、科学的知識やその方法を、宗教、占い、迷信などの非科学的な知識と同列に扱うと途端に怒りだすことになる。過度の相対化やメタな視点だと言って嫌がり、科学的知識のみを正しい知識=客観的事実として特権化=絶対化しようとする。
 一方、科学を特権化し他の知識や信仰を排除する科学主義者やニセ科学批判者に対し、我々相対主義者はある種の違和感を抱くのである。その違和感とは、正しさ=事実は社会的に構成された限定的で相対的なものにしかすぎないのに、その相対的なものを絶対化している違和感である。相対的なものの絶対化という誤謬を感じる訳である。相対的であるにもかかわらず、躊躇せず他説を否定する絶対性が怖いのである。

 しかし、科学主義者が科学的知識を他の知識から特権化してしまう理由は、科学主義者が科学を単なる人間の「多数ある認識枠組みの一つ」を越えていると思っているからである。要するに、科学は、人間のコミュニケーションの外にある自然から付与された知識であると思っているからである。実験を通じて、人間のコミュニケーションとは関係なく存在する自然からの反応を観察·記述して得た知識であると確信しているのである。
 具体的にいうと、科学的知識は、相対主義的な人間の世界を越えた絶対的な自然そのものを実験という手法で取り込んだものであり、社会的に規定された他の知識とは階層が異なるというのである。自然から与えられ、それを写し取った知識であり、人為の構成を越えているというのである。私は、過去に、このような知識の正しさの感覚を物理的リアリティと呼んでおいた。
 人為を越えた、構成されざるものは存在しないと見なすのが、構造構成主義などの構成主義の立場である。しかし、実は、私は構成されざるものは存在すると考えている。ラディカルに構成主義を突き詰めると、かえって構成されざるものを想定しないと、構成主義そのものが成立たなくなるからである。
 システム論でも、コミュニケーションの外=世界そのもの=無限の複雑性があると考えている。ただし、それはかえって神秘的なものとなり、正しさという観念とは無縁である。宇宙=自然そのものは、本来、理性にとっては不可知であるからである。
 
 実験=人為を越えた自然から与えられた知識=正しいという科学主義者の飛躍的思考には要注意である。対象と認識が一致しているかどうかは、究極的には確かめることはできず、科学でいう正しさとは人為的に構成された正しさであり、合意的な正しさである。これを無条件的な正しさ=客観的事実とはき違える論客が、科学原理主義者と呼んで相応しい人たちである。確かに実験は自然からの反応であると言えるが、それと正しさは別問題である。
 また、客観的事実なるものがあらかじめ存在し、それに照らし合わせれば、科学の立場から認識枠組みが異なる非科学的知識も否定できると考えるのも、科学主義者がもつ典型的な錯覚である。真理の対応説を非科学的な知識体系はとらないからである。
 
 さらに、科学にはもう一つの隠された正しさの構成についてのトリックがある。カントの言うように、本質的に理性にとって自然は不可知である。この不可知な自然=宇宙そのものに対して、それが斉一性をもつことを無根拠に前提=信仰することで、科学的知識は絶対性を確保しようとする。例えば、斉一性とは、宇宙に存在する全ての水は条件が同じならば熱すると蒸発して気化するのであって、個々の水分子ごとに個性があり個別的に気化しない現象は起こりえないということである。斉一性とは、金太郎飴の宇宙観である。「自然は斉一性をもつ。」を前提とすることで、科学は普遍的知識として構成されるのである。
 ちなみに、カントの理性のアンチノミーである「世界は必然か偶然か」という命題において、世界は必然であるという判断に科学の前提である「自然は斉一性をもつ。」という判断は対応する。ご存知のとおり、哲学的には、これは理性の能力を越えた越権行為であり、独断的判断であり、信仰にしかすぎない。
 とにかく、「自然は斉一性をもつ。」という無根拠な独断論的前提を共有し、実験によって自然からの反応を観察·記述し、統計的推論をもって自然の法則性を定立することで、正しさを人為的に構成するのが、科学の正体である。このように、科学は自然の反応を取り入れるものの、人為を離れた純粋な正しさではないことがわかる。
 科学的知識が構成された正しさであるにもかかわらず、純粋な客観的事実であると信仰し、非科学的な他説を批判するのが、科学主義に基づくニセ科学批判者である。
 
 もし科学教というのなら、その崇拝対象は物理宇宙たる自然であり、教義は「自然は斉一性をもつ」と「実験は自然からのメッセージ」の二つになるのである。そして、科学者が発見した自然法則は自然からのメッセージを記した聖書となるのである。科学者は自然という神からのメッセージを人に伝える預言者である。そして、本当の自然からのメッセージを与えられた学説を巡って科学内の異端審問が始まる。ニセ科学批判は、魔女狩りに相当する。
 ちなみに、自然を科学以外の仕方で感得することも可能である。感覚や直感や本能で自然を知ることもできるのである。生きていることそれ自体が自然と関わっていることであるし、そもそも我々も自然の一部であるからである。
 ただし、客観的正しさという余分な西洋的観念が付け加わっているのは科学だけである。この正しさの観念が、科学による異端審問とニセ科学批判という暴力の本質である。

 相対主義は、多神教であり、寛容であり、平和をもたらす使者である。

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by merca | 2010-08-29 11:08 | Comments(4)

真理のコミュニケーション説(社会学の真理観)

 社会とは、コミュニケーションを要素とするシステムである。経済、法律、教育、政治、宗教、科学などは、社会そのものではなく、コミュニケーションを要素とするシステムたる社会が生み出した産物(人工物)=社会現象にしかすぎない。
 しかし、経済システム、法律システム、教育システム、政治システム、宗教システム、科学システムとなれば、それぞれ独自のコードに準拠したコミュニケーションを要素とするシステムであり、社会である。社会学独自の対象は、コミュニケーションを要素とするシステムであり、経済、法律、教育、政治、宗教、科学は社会学そのものの対象ではなく、それ故、これらの社会的産物を扱うのは、経済学、法律学、政治学などの他の社会科学である。

 社会そのものと社会的産物(人工物)との区別は、社会学にとって非常に重要である。例えば、犯罪発生率、人口増加率、経済成長率、貧困率、科学的真理などは、コミュニケーションの外にあるもの、つまり社会の外にあるものである。これらの社会的産物は、人々に情報や知識や思想としてコミュニケートされてはじめて社会的事実となる。実は、犯罪発生率、人口増加率、経済成長率などの統計的事実を語ることは、社会そのものを語ることにはならない。社会そのものを語るためには、それらの社会的産物についてのコミュニケーション過程を語らなければならない。
 
 ところが、どんなかたちであれ、社会について語ることが社会をつくるという自己言及的側面を忘れてはならない。語るとは、すでにある種のコミュニケーション過程であるからである。
 ただし、厳密にいうと語るだけでは学コミュニケーションを創発したにすぎない。人々が実演することで本当の意味での社会的事実となる。経済成長率が上がったという情報がマスコミで人々に伝えられ、その情報に促され、消費行動=売買コミュニケーションに変化が生じた時には、社会的事実となる。また、治安が悪化したというマスコミの報道を人々が受けて、それを信じて人々が防犯活動をしだした時には、社会的事実となる。このように人々のコミュニケーション過程の内実に影響を与えることができた時のみ、社会的産物は社会的事実となる。
 社会学的発想からは、コミュニケートされないものは実在しないのである。つまり、実在するとは、コミュニケートされることである。科学主義者ドーキンスがどういおうが、神についてのコミュニケーションが接続されるかぎり、社会学的には神は実在するのである。これは、物理的事実と対等の実在性をもつ。
 ここで釘を刺しておこう。物理的事実のみが本当の実在性だと考えるのは、科学至上主義者の発想である。学問的には、物理的事実も社会的事実も心理的事実も同等の実在性をもつ。神は物理的事実としては無であるかもしれないが、社会的事実や心理的事実としては実在するのである。物理的世界、社会的世界、心理的世界の三つは対等であり、物理的世界のみが正しいとするのは科学絶対主義者の偏った発想なのである。

 とにかく、このような真理のコミュニケーション説こそが、社会学の真理観である。犯罪発生率や人口増加率という社会外の事実をもって社会を客観的に語ったという人たちは、社会学とは何であるかをまったく理解していないのである。理論社会学を勉強していない社会学の素人である。
 コミュニケーション過程に無関係な事実は社会学的には価値はなく、そもそも原理的に社会学の対象外である。これらは、他の社会科学に委ねるべきなのである。

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by merca | 2010-08-22 09:21 | 理論 | Comments(0)