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仲正昌樹によるソーカル教批判の甘さ

 哲学者・仲正昌樹氏がニセ科学批判者たちのことをソーカル教と呼んで批判しているが、変な議論になっている。

  「ソーカル教にすがりついてしまう廃人たち」
   http://meigetu.net/?p=3065
 
 仲正昌樹氏は、ニセ科学批判者たちの価値観とネットコミュニケーションの傾向を全く理解していないために、かなり勘違いをしている。というようりか、ニセ科学批判という巨大なネットジャンルが存在することを知らないと思われる。そのために議論に深入りしてしまっている。
 宮台氏、大澤氏、東氏ならニセ科学批判者たちを無視して流すところを真剣に議論しようとしている。この時点で、仲正氏はネット議論で負けである。ニセ科学批判者たちの怖さを知らない。これまで、何人もの相対主義の学者が潰されている事実を知らないのである。
 
 仲正氏は、ポストモダン論者が自然科学理論を借用するのは比喩としてだけであり、本質的な部分とは関係ないと考え、ソーカルのポストモダン論者への批判は、的を得ていないと断言している。
 そして、案の上、ポストモダン論者における自然科学理論の借用は比喩としての利用であり、本質的でないとする仲正氏のソーカル批判に対して、ソーカルを信奉するニセ科学批判者たちが噛み付いてきたのである。
 
 社会学を学んだ私からすれば、ソーカルの根本的間違いはそんなところにあるのではなく、単に思想と科学の区別ができなかったところにある。思想は、対象と認識が一致する知識を目指しているわけではなく、人々に流布し、自我統合と社会統合を機能を果たせばよいのである。思想は物語でもよいのである。ニーチェの哲学はまさしくそれである。一方、近代社会においては、科学は、対象と認識が一致する実証的知識を提供する役割を担っており、(真/偽)のコードに準拠している。近代社会で唯一信頼されうる知識体系である。
 
 ソーカルは、思想と科学を同レベルのコードで認識していたのである。社会システム論的にいうと、社会的機能の混同である。ポストモダン思想はあくまでも思想であり、科学ではないので、真偽で区別する必要はない。思想と科学の混同こそがソーカルへの正しい批判である。また、哲学も世界の観察道具であって、科学のように具体的対象に対する知識そのものではない。ソーカルには、観察道具と事実的知識の混同も見受けられる。
 ソーカルを批判するのなら、科学と思想の機能の混同、科学と哲学の機能の混同、つまり社会的カテゴリーの混同を指摘した方が効果的である。

 ともあれ、哲学者・仲正氏は、正規の学者たちが太刀打ちできないほどに集積された知識体系たるニセ科学批判という現象がネットにおいて自然発生し、一部のニセ科学批判者においては既存のアカデミックな学システムに属する学者から学術的知識についての真偽の決定権を剥奪するほどの知的能力を所有していることをわかっていない。
 ここで、仲正氏に告ぐ。今から勉強したまえ。私のブログにあるニセ科学批判の分析記事を閲覧したまえ。早く学習しないと、大変なことになるぞよ。
             同じ相対主義者としての忠告
                        論宅より

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by merca | 2015-08-28 21:40 | ニセ科学批判批判

「卑怯者の島」にドラゴンナイトが到来する時

 戦後70年に際して、小林よしのりが「卑怯者の島」というフィクション作品を出し、戦争について日本国民に問うた。これはフィクション作品ではあるが、価値伝達としての思想の押しつけは一切ない。小林よしのりは、戦争論のような事実を語る作品については思想漫画家として価値伝達を行うが、フィクション作品では価値観の強制がない優れた作品となることが多い。
 全くの直感としての予言(期待)ではあるが、将来、「卑怯者の島」は映画化され、話題を呼ぶと予想している。さらに、同作をニヒリストである北野武が監督をすると、アカデミー賞になると考えられる。この予言は根拠のない私の期待であるが、そうなったら素晴らしい。
 今後、小林よしのりには、是非とも漫画家の本分としてフィクション作品を書き続けて欲しいものである。
 
 「卑怯者の島」は、戦争の当事者としての兵士の視点から戦争について描かれている。ストーリーも引き込まれやすい。主人公は、死ねなかったことで卑怯者としての罪の意識を持ち続け、その葛藤がよく描かれている。戦友が一人一人死ぬごとに、罪の意識が強まっていく。
 戦争とは、(敵/味方)という区別で創発された殺人ゲームである。この区別が実体化されると、善良な市民であった兵士も、戦場では殺し合いをし、地獄世界をつくりだす。その地獄絵図が「卑怯者の島」では克明に描かれている。
 生き残った者、死んだ者、誰一人として幸福になっていない。無念で死んだ者、生き残っても、手足を失い物乞いになったり、主人公のように一生罪の意識に苛まれながら生きている者もいる。
 
 (敵/味方)という区別が消滅することで戦争という地獄ゲームは終わるが、この区別がなくなるということは、同時に普通の人間(殺し合わない存在)にもどるということである。だから、本当に戦争という地獄ゲームから解放された兵士は、自分が死ねなかったことに対する罪の意識ではなく、人間として敵兵や敵国の市民を殺害したことに対する罪悪感をもつようになる。
 ところが、卑怯者の島の主人公は、戦後においても、敵兵を殺害したことに対する罪悪感はもたず、死ねなかった自分に対する負い目による罪悪感のみに縛り続けられており、(敵/味方)という区別から解放されていないのである。彼の心には終戦はないのである。
 もしかしたら地獄の戦争ゲームから多くの日本兵たちは、この主人公のように未だに解放されていないのだろうか?そのような疑問が湧いてくる。
 他者性に基づき、被害者意識ではなく、加害者意識をもつことが本当の戦争からの人間としての解放である。「卑怯者の島」の主人公には、本当の意味での他者性の意識が認められない。
 悲しいかな、それが小林よしのりの描く戦争の限界でもある。米兵にも家族があり、守るべきものがある。小林よしのりが描く日本兵には、そのような敵を対等な他者として認める視点が欠落している。敵兵である英国海軍422名を救助した日本海軍の軍人である工藤俊作艦長のような武士道に基づいた他者性もない。

 戦争が本当に終わるとは、人々の間に(敵/味方)という区別が消滅し、人間としての平和な日常生活にもどるということである。社会システム論の立場からすると、(敵/味方)の区別そのものがつくれた虚構にしかすぎない。だから、原理上、いつでも廃棄することができる。つまり、戦争ゲームを消滅させることができる
 実は、戦争中にもそういう奇跡が稀に起る。それがドラゴンナイトである。「世界の終わり」が歌うドラゴンナイトの到来である。ドラゴンナイトは、第一次世界大戦時にドイツ軍がフランス軍・イギリス軍と交戦し、戦争中に敵味方の区別なくクリスマスを一緒に祝いあったというクリスマス休戦をモチーフにしていると言われている。
 クリスマス休戦は、クリスマスを祝うテノール歌手の「きよしこの夜」の歌がドイツ陣営から聞こえて来て、フランス軍から拍手が沸き起こり、一挙に(敵/味方)という区別が消滅し、別の区別が生じたのである。戦争という地獄ゲームが解除され、クリスマスを祝う普通のヨーロッパの庶民に戻ったのである。
 ドラゴンナイトに似たような現象は稀に起る。ドラゴンナイトという曲には、世界中の全ての戦場にドラゴンナイトが到来することを願うという平和のメッセージがあると確信している。
 ここで、卑怯者の島にも、ドラゴンナイトが到来する可能性はあったか問いたい。いやむしろ、ドラゴンナイトが到来して欲しかったのである。
 社会学理論上は、ドラゴンナイト現象は、可能である。それは、(敵/味方)を無効にする別の区別が到来した時に起こりうる。社会学者は、社会病理現象である戦争システムを脱構築する技術を開発する必要があるのである。
 
 天から一つの音楽=カノンが降り注ぎ、傷ついた戦場の兵士たちを敵と味方の区別なく癒していき、殺し合うことが正義でないことを知り、武器を捨て、ドラゴンナイトが訪れるのである。

  参考
ドラゴンナイト的な現象には下のようなものがある。
・帝国海軍工藤俊作艦長による敵兵救助
・上杉謙信が武田信玄に塩を送った。
・日本人残留孤児を育てた中国人
・逆襲のシャア
 アクシズの墜落をジオン軍兵士も連邦軍兵士も一緒に防ぐ。
・起動戦士ガンダムのククルス・ドアン
 戦争で子供の親を殺し、ジオン軍から離脱する。
・超時空要塞マクロス 映画「愛・おぼえていますか」
 リン・ミンメイの歌声に敵が文化を感じ、停戦する。

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by merca | 2015-08-16 09:59

柄谷行人の交換史観による憲法9条の存在意義

 柄谷行人は、現代日本における真なる思想家である。独自の思想を構築しており、デリダ、レヴィナス、ドゥルーズに匹敵する現代思想家である。
 柄谷行人は、カントを援用しながら、長年にわたりマルクスと向き合うことで、一つの体系的な社会思想を完成させたのである。それが「トランスクリティーク」「世界史の構造」「帝国の構造」という三部作を通じて完成させた交換様式に準拠した社会理論である。私は、それを交換史観と呼びたい。つまり、社会(構成体)の在り様は、交換様式という経済構造によって規定されるという理論である。
 ただし、実証主義的な方法はとられていないので、社会科学的に一つの確立した社会理論として見なすことができるかどうかは検討の余地はあるが、マルクス主義よりも説明能力が高い理論体系であることには間違いがない。
 
 マルクス主義では、社会構成体においては下部構造が上部構造を規定すると考えるが、その下部構造についての捉え方が異なる。マルクスは下部構造を生産様式としてのみ捉えたが、柄谷行人は下部構造を交換様式として捉え直す。従って、マルクスにおいては上部構造だと考えられていた国家や民族共同体は、下部構造として見なされる。ここが柄谷行人の交換史観における最大の思想的な独創性である。
 
 交換史観について説明しよう。まず、三つの交換様式があり、それが混在しているのが現実の社会構成体であるという。その三つとは、民族=ネーションに準拠する互酬(贈与-返礼)という交換様式A、国家=ステートに準拠する略奪と再配分(支配と保護)という交換様式B、資本(商品交換)に準拠する交換様式Cである。そして、近代社会は、基本的に交換様式Cが中心となる社会構成体である。

 マルクスは、国家主義と民族主義を単なる上部構造として甘く見ていたために、必然的に高度に発達した資本主義社会で社会主義革命が起ると考えてしまった。しかるに、先進国の資本主義社会では社会主義革命は起りはしなかった。先進国の資本主義社会では、民族としての平等性や統合性を強調したり、国家が資本に介入して不平等を是正したりすることで、階級格差による不満を押さえて来たために、共産主義革命などは起らず、依然として資本主義経済のままである。
 また一方で、多くの社会主義国は、民族主義をかかげる独裁者が現れるなどして、国家の力が強くなり、全体主義化し、人々の人権や自由を束縛した。つまり、国家主義と民族主義によって、資本主義社会が延命し、社会主義革命が全体主義化したのである。
 柄谷行人によれば、国家主義と民族主義は上部構造ではなく、社会構成体を決定する交換様式という下部構造なのであるが、マルクスはそれを見損なったというわけである。すなわち、資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、全ての主権国家における国民社会においては、資本=民族=国家が三位一体となるボロメオの環が機能しているというわけである。ちなみに、これは、システム論的には、三つのシステムの構造論的カップリングとして記述できる。
 ともあれ、資本主義社会が福祉国家として階級格差を是正し自らを延命するとともに、社会主義社会においても、ソ蓮が崩壊し複数の民族国家に分裂し、中国が市場経済を導入するなど、民族主義や資本主義を導入することなしには、成り立たなくなっているのである。
 つまりは、政治形態が資本主義であれ、社会主義であれ、主権国家としての国民社会は、資本=民族=国家という三位一体のボロメオ型社会となるというわけである。社会学でいとうところの後期近代社会は、全てこの形態をとることになり、原則的に社会進化は終焉するわけである。柄谷行人は、これをフクヤマの歴史の終焉になぞらえている。
 しかし、柄谷行人は、この先に一つのユートピアを希求する。それがカントのいう世界共和国である。異なる国民社会どうしが互酬(贈与-返礼)を結び、超越論的仮象としての世界共和国を目指して、諸国連邦を形成するということである。交換様式Aの世界規模での回復としての交換様式Dによる下部構造をもつ社会構成体の実現である。
 ちなみに、交換史観では、世界社会は、四つのレベルで考えられている。交換様式Aのレベルの氏族社会=ミニ世界社会、交換様式Bのレベルの世界帝国、交換様式Cのレベルの世界経済、そして交換様式Dのレベルの世界共和国である。
 社会システム論の視点からいうと、柄谷行人が希求する交換様式Dの世界社会とは、交換様式A、交換様式B、交換様式Cが全て対等に自律的に機能分化する社会を意味している。それは、友愛をもたらす交換様式A、平等をもたらす交換様式B、自由をもたらす交換様式Cの三つが対等に互いに自律的に関係しあう世界規模の社会である。
 
 最後に、永遠平和を提唱する戦争放棄の憲法第9条こそが、日本国による全世界の国への贈与となり、世界規模での交換様式Dとしての意味を持ち、来たるべき世界共和国への第一歩となると提言する。
 しかし、武力を放棄することで、他国もその返礼として侵略しないという関係が本当に形成されるのか?
 ここに不安を抱く人も多いだろうが、これは他国が日本の憲法9条をどう評価しているか調査することでわかるであろう。戦争をしない憲法をもつ国を世界の諸国はどう観察するのだろうか?
 これは、自国の平和のみを願うという偏頗な意識ではなく、世界の平和を望むという高い意識の人々が登場することになしには困難だと思われる。交換様式Dによってつくられる人々の道徳意識は、「各人は他者をたんに手段としてのみならず同時に目的として扱え」であるからである。これは人権思想の根幹でもある。
 
 もはや世界平和なしに一国の平和もあり得なくなった時代であり、日本国のためではなく、世界平和のために憲法9条は必要だということである。
 このことを了解した上で、交換史観に根拠付けられた柄谷行人の護憲思想が若者に浸透していき、憲法9条改正反対運動の思想的根幹となっていくか観察していきたい。
 今流行っている学生社会運動であるSEALDs「自由と民主主義のための学生緊急行動」等に代表される平和主義の若者たちが、全共闘時代における古典的な唯物史観(マルクス主義)ではなく、世界平和を掲げる柄谷行人の交換史観を運動の思想的なベースとしていく可能性はないだろうか?平和主義運動をする若者たちが、こぞって交換史観を自己の思想的アイデンティティとしたとき、柄谷行人は今世紀最大の思想家となろう。
 やっと、マルクスの唯物史観ではなく、柄谷行人の交換史観による世界社会革命が始まりつつあるのである。

  参考
・マルクス主義でいう社会構成体という概念は、いわゆる社会学(システム論社会学)でいう社会ではない。この点を押さえておくべきである。社会学でいう社会とは、あくまでも、創発されたコミュニケーション(あるいは行為)の総体であるが、マルクス主義でいう社会構成体とは、コミュニケーションの結果生じた物象化された社会関係の総体をさす概念である。創発論的社会観ではなく、存在論的社会観に準拠した概念である。
 実のところ、社会システム論の観点からは、社会構成体は実体ではなく、(意識/存在)というコードで第二次観察された社会の記述にしかすぎない。


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by merca | 2015-07-12 10:24 | 理論

正義からの解放(相対主義の勝利)

 人類は、そろそろ正義という暴力装置から解放されるべきである。社会学的に分析すると、正義という暴力装置は、肥大化すると、世界を破壊する悪魔と化す。実は、絶対化された正義そのものが、社会病理現象である。
 国家や共同体が正義を独占した時に、この社会病理現象は人々に蔓延し、人々を集合的に殺人鬼に変える。国家は、正義を自己目的化してはならない。
 
 正義のために戦争は行われ
 正義のためにテロは行われ
 正義のためにいじめは行われ
 正義のために差別され
 正義のためにバッシングされ
 正義のために排除され
 そして、正義のために、人々は家族、友人、居場所、そして自分も失い、不幸になっていく。

 社会科学に出来ることは、この正義という暴力装置を科学的に解明し、正義の副作用を無効化する処方箋をつくることである。
 ニーチェは、正義を無効化する思想=積極的ニヒリズムを開発したが、この思想は諸刃の剣であり、成熟社会では、もはや十分に機能していない。ニーチェの企ては失敗したのである。
 いかなる正義も自己目的化すると、世界を破壊する力となる。正義は常に相対化されることで、人類社会は平和でいることができる。
 古来より、あらゆる哲学者が正義とは何かという問いを追求して来たが、カントを含めて万人を納得させる結論を出した者は未だいない。相対主義の勝利である。
 神は、決して人間に正義を与えることはないであろう。もし正義を手にした者がいたとしたら、正義に反する者を殺戮する悪魔となるのであろうから。
 プロタゴラスに始まる相対主義は、正義の暴走をとめる優れた人類の英知である。してみれば、正義は、暴力であり、煩悩である。

正義によって煽動されることなかれ
正義への囚われを捨てよ
正義を得たと思った瞬間に、人は堕落し、他者を迫害するであろう
だから、宇宙の法則=相対主義は、人に正義を与えない
もし正義という化物が世界を支配しようとしたら、許しと愛が解毒剤となろう

 参考
 「西洋道徳の本質は暴力」
  http://mercamun.exblog.jp/6329988 
 「アドルフに告ぐ」・・・手塚治虫の反戦漫画
  正義の愚かさが説かれている。

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by merca | 2015-05-06 11:07

小林よしのりの新戦争論は、事実を括弧に入れて読むべし

 ネット右翼の生みの親と呼ばれている小林よしのりが、ネット右翼の梯子を外しにかかるために、漫画思想書である新戦争論を書いた。過去に、小林よしのりは、エイズ薬害訴訟運動について、運動にのめり込むあまりに左翼思想に染まっていった若者たちの梯子を外したのと同じでバターンである。またかである。
 戦争論からネット右翼になった若手右翼思想家KAZUYAや古谷経衡たちは、ある意味、同書によって見事に梯子を外され、日常に戻って仕事で地道に頑張れと勧告されたことになるのである。若者たちは、思想家小林よしのりの梯子外しに気をつけるべきである。
 小林よしのりは、等身大を超えて膨張した自我が嫌いであるので、読者はその点を注意すべきであり、すぐにかぶれてはならないのである。自尊心を調教できない若者は排除されるのである。
 
 ちなみに、小林よしのりは、ネット右翼は戦争論の誤読によって生じたといい、自分だけがネット右翼の生みの親のように思い込んでいるが、嫌韓・嫌中の潮流はテレビ「たかじんのそこまで言って委員会」によって生み出されたことが大きいと思われるのである。この番組が関西人を右傾化させた役割は大きい。
 小林よしのりだけに右傾化の原因を押し付けるのは気の毒であるし、自分だけがネット右翼を作り出したという肥大化した意識を小林よしのりに植え付けてはいけない。
 
 ここで、多くの若者たちに、小林よしのりの漫画思想書を読むにあったての注意をしておきたい。その注意点は、二つである。

(事実として描かれている部分は括弧に入れ、物語として受けとめる。)
 まず、同書で事実と主張されていることは、括弧にいれて読むべきである。事実を分析した歴史書ではなく、あくまでも特定の価値を提示した思想書として読むべきである。
 歴史的事実については、大学の科学的な専門教育を受けた歴史学者にまかすか、あるいは自分で第一次文献にあたるべきである。そのような暇がないのなら、事実であるかどうかは判断できないので、事実判断はアポケーし、純粋に価値判断を提示する思想書として読むことを勧めたい。その思想に感銘するかしないかは、個人の判断で自由である。
 いずれにしろ、事実は括弧に入れて、事実のように描かれている部分は、物語として受け止める態度が、小林よしのりの漫画思想書を読む基本的な作法である。これを忘れる者がかぶれてしまい、自我を肥大化させ、挙げ句の果てに梯子を外される羽目になるのである。

(事実判断と価値判断を結合してはならない。)
 歴史的事実だから小林よしのりの保守思想の価値も正しいと思ってかぶれてはいけない。ここに心理学的詐術を見抜くべきである。戦争論にかぶれた多くの人たちは、歴史的事実だから、その思想も正しいと思い込んで洗脳されてしまったのである。
 例えば、本当は、ひめゆり学徒隊や神風特攻隊は自ら進んで志願したのであり、軍国主義による洗脳や強制ではないとことが事実であると描くことで、読者に太平洋戦争は悪ではないという価値観を植え付けることに成功しているのである。人々が自ら志願したことが事実であっても、太平洋戦争肯定という価値観には直結しない。戦争論にかぶれた右翼は、事実の正当性のインパクトが強いために、その事実に基づいた価値判断までも受け入れてしまう傾向にある。小林よしのりの書物全般に見られるこの心理トリック、すなわち認識と価値の同一化現象=「事実を述べる者は、価値判断においても正しい」という錯覚を見破らないといけない。事実を知る者が正しい倫理観をもつとは限らないのである。
 そもそも、事実判断と価値判断は別次元であり、事実判断が正しいからといって価値判断も適切であると言えないのである。
 例えば、人類社会は戦争の歴史であるという事実判断から、必然的に戦争は正しいという価値判断は導出されない。リンゴてあるという事実判断から、美味しいという価値判断が一般的に導出できないないとの同じである。リンゴが嫌いな人にとっては美味しくない。価値論的にいうと、真理は価値ではないのである。
 自虐史観が歴史的事実と異なるというインパクトを与えた上で、事実判断の正当性と価値判断の正当性を結合させるという心理的トリックによって、戦争論は、多くの若者を保守化へと誘ったのである。少し哲学や社会科学をかじった若者なら、この点のメディアリテラシーはあってもよさそうなものである。
 
 思想・哲学を表現した漫画家としては、手塚治虫のほうが断然レベルが高いことを忘れてはならない。マンガ史的にいうと、所詮、手塚治虫がいなかったら、日本の漫画会が成立しておらず、小林よしのりの漫画もないのである。戦争論を読んだあとに、火の鳥を読むと、戦争論で語られている価値観が非常にケツの穴が小さいことがわかるであろう。
 手塚治虫は事実に頼るのではなく、物語をつくることで深遠な哲学・思想を提示したのである。事実に頼ろうとする小林よしのりとは、その逆である。手塚治虫は世界で読まれるだろうが、小林よしのりは世界では読まれないだろう。
 
 小林よしのりは、国家という大きなものに依存して自我が肥大化した右傾化した人たちに日常に戻れと宣告するが、それは自らにも言えることなのである。小林よしのりは、天下国家についてゴーマンをかますことで多くの人たちを煽動して来た自己を天才と思い込む万能感を調教し、普通の漫画家に戻るべきなのである。漫画家は事実ではなく、物語をつくるプロなのであり、安易に事実に頼るな!! と言いたい。
 
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by merca | 2015-02-21 21:01

国民性は、他国民につくられる。

 社会心理学では、アイデンティティは、他者との比較、集団への所属、他者からの評価によってつくられると考えられている。関係主義の公理からも、他者との差異関係がなければ、自己はない。
 このことは、国民社会レベルでも同じであり、一つの国民社会は、他の国民社会の存在を前提とする。一つの国民社会は、他の国民社会との区別によって成立する。
 同じく、国民性は、他国の国民性との比較、共通の文化圏や政治体制への所属、他国民からの評価によって構築される。
 例えば「日本人は礼儀正しい」という国民性は、他国民との比較や評価によって獲得されたアイデンティティであり、日本人がつくりあげたものではない。そして、日本人は国外において日本人らしく振る舞うことを要求される。また、社会科学的に国民性を調査する場合でも、基本的に他国との比較によって把握され、表現される。
 日本人の国民性は中国人の評価によって部分的につくられるし、中国人の国民性は日本人の評価によって部分的につくられる。韓国人、アメリカ人、フランス人、ロシア人・・・・全世界の国民も同様である。全ての国民社会の国民は、自身では国民性アイデンティティをつくることができず、他国に依存しているのである。
 言い換えれば、他国の存在を否定したり、他国との関係を断絶すると、他国と比較できなくなり、自らの国民性の否定につながるのである。
 
 奇妙なことであるが、国外においてこそ、日本人は日本人と見なされるのである。国外で「あなたは誰ですか」と聞かれたら、「私は日本人です。」と答えるであろう。国外においては、個としてよりも、日本国民として見なされてしまうのである。当然、敵国に行けば、個人の意思と関係なく、敵国民として非難・排除されるのである。
 反日教育で「日本人は悪い」と韓国人が思っていれば、善人の日本人が韓国に行ったとしても、日本人だから悪いと見なされるのである。罪のない個人がレッテルを貼られ、差別、排除、迫害がそこから生ずるわけである。ある人間を国民として観察するのか人類として観察するのか、その選択は、多くの場合、初対面の外国人であれば、国民として観察してくるであろう。
 つまり、他国民とコミュニケーションをとるためのメディアとして国民性はあるのである。国民性によって相手の反応を予期することで、複雑性を縮減し、コミュニケーションを可能にするのである。初対面の外国人であったとしても、その国の国民性がわかれば、コミュ二ケーションがとりやすくなるのである。そのように(自国民/他国民)という区別に準拠してなされるコミュニケーションは、国際社会システムを創発するのである。
 ちなみに国際社会システムは、世界社会とは区別される。国際社会システムのユニットは(諸)国民であるが、世界社会は人類がユニットだからである。つまり、全世界の異なる複数の国民社会から構成されるシステムこそが、国際社会なのである。また、国際社会システムの行政機関が国際連合である。
 
 ともあれ、国民の役割としての国民性は、国際社会において、他国民の期待によってつくられるのである。右翼は自国の歴史的伝統のみから国民性を導きだそうとしているが、他国民との差異と評価によって自国の国民性が形成されることに気づいていない。自国民が自国民は優れていると思っても、それは真なる国民性ではなく、単なる自己満足にしかすぎない。本当の国民性は、他国との関係で形成される対他規定性のものなのであるから。
 
 戦後の日本国民は、反戦主義の平和国家の国民として世界から期待されているのであり、その役割を遂行しなければならないのである。人類社会が進歩するために、世界からの期待として平和憲法が押し付けられたのは当然であり、戦争をしない国という役割を負わされてしまったのである。それが日本の宿命である。世界によってつくられた国民性である。
 日本国民は、戦後、「過去の戦争を反省する反戦主義の平和国家の国民」として役割期待を背負わされてきたのであり、この崇高な使命は、来たるべき世界(宇宙)社会の先駆けである。
 
 地球を外から眺める火の鳥(宇宙生命)は、日本国民たちを観察しながら、戦争を繰り返す人類がやっと自らの過ちに気づいたと思っているだろう。

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by merca | 2015-02-01 23:23 | 社会分析

右傾化への対抗思想としてのクリティカルシンキング。

 今、世界が荒れている。人類は、(歴史的)事実という言葉に惑わされているのである。
 
 多くの日本人たちが、中国が言うような南京大虐殺、韓国が主張するような従軍慰安婦問題は存在しないと思うようになり、謝罪する必要がないと考えるようになっている。
 
 小林よしのりの「戦争論」というトンデモ本からはじまる新世代の保守右翼思想は、多くの若者たちに流布し、在特会、某国のイージス、KAZUYAなどのネットを中心とする右翼思想家が登場しだした。
 そして、これらのネット右翼思想のおかげで、ネットでは南京大虐殺や従軍慰安婦問題が事実であると主張する日本人はほとんどみかけなくなってしまった。
 おそらく、仮に南京大虐殺や従軍慰安婦問題が事実であると主張するブロガーがいたら、ネット右翼たちから攻撃され、炎上するものと考えられるのである。言論が一元化している状況は異常とも言えるが、つまるところ、南京大虐殺や従軍慰安婦問題が虚構であり、中国と韓国の言いがかりとして、多くの日本人が受け取るようになって来たという証拠である。
 ネットで南京大虐殺や従軍慰安婦問題は虚構であるとの発言が溢れかえっていると、それを見た一般大衆はいとも簡単に南京大虐殺や従軍慰安婦問題は虚構であると思い込んでしまうのである。今や新聞よりもネット言説のほうが正しいと思われる傾向がある。
 
 というのは、一般大衆は、一人の新聞記者の記事よりも、多数の人が支持していることが正しいと信じるからである。
 社会心理学者アッシュの集団力学の実験でも明らかなように、人の判断は多数の人の判断に作用されるのである。また、社会学者トマスの公理「人々がそれをリアルだと信じれば、結果においてもリアルになる」がはたらいているのである。このような社会学や心理学という人間科学の知識から観察すると、ネット言説の多さが、社会的事実を作り出すということになる。
 
 しかし、純粋に物理的リアリティとしての事実だけに向かい合うことができる人たちが日本に唯一いる。ニセ科学批判者たちである。ニセ科学批判が準拠するクリティカルシンキングの立場から、南京大虐殺を分析したサイトがある。
  「目からウロコの南京大虐殺論争」
  http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin00.htm#mokuji
 
 同サイトの山本弘氏は、ニセ科学批判の源流であるト学会なる組織の開祖であり、科学的根拠のないトンデモ本を取り上げて批評、批判する活動をしている。いわゆるトンデモ本おたくである。
かなり昔になるが、戦争論に対してトンデモ本としてレッテルを貼り、論争を繰り広げている。そして、どうみても、科学的には山本氏のクリティカルシンキングのほうが正しく、小林よしのりは間違っている。中国のいうような30万人を虐殺したのは事実ではないが、数万人(少なくとも1万人)は殺害したことは事実であるという山本氏の結論は、妥当であり、正しいと思った。数万人殺害したのなら、十分、謝罪を要求する国際的に正当な理由となる。数万人の南京大虐殺は存在したのであり、その歴史的事実に向き合っていると思われていないので、よけいに中国の反日教育に拍車をかけているのである。数十人しか殺害していないとする虐殺まぽろし派の小林よしのりの戦争論は、物語にしかすぎない。その虚構を真実と勘違いして自己正当化してできあがったのが、ネット右翼である。
 私はニセ科学批判批判者であるが、山本弘氏のクリティカルシンキングによる分析は賞賛に値する。もし中国側と歴史的事実をすり合わすのなら、クリティカルシンキングによって慎重になされるべきである。
 
 一方、小林よしのりの戦争論は、歴史書ではなく、思想書として人々は受け取るべきであったのに、歴史的事実として受け取った未熟な人たちがネット右翼になり、KAZUYAなどの若手右翼思想家を生み出して来た。小林よしのりは、事実に準拠する歴史家ではなく、価値観に準拠する漫画思想家である。だから、自らの漫画思想書によって、日本国民としてのアイデンティティを提供し、多くの人たちの自我統合をもたらし、初期ネット右翼を生み出して来た。実は、人々に日本国民としてのアイデンティティを供給する点では、平和思想、反戦思想を団塊世代の人々に伝えた「はだしのゲン」と同じである。システム論社会学の観点からすると、内容は正反対であるが、「戦争論」と「はだしのゲン」は機能的に等価である。戦争論は、「はだしのゲン」にとって代わり、見事に多数の人々における日本国民としてのアイデンティティの書き換えに勝利したのである。

 ところで、「目からウロコの南京大虐殺論争」における山本氏の結論については、異論がある。これは、山本氏が深く社会学を勉強していないことからくる。山本氏は、日本が中国に謝罪するというのではなく、実際に中国人を殺した日本人が殺された中国人やその遺族に謝罪すべきだと結論付け、日本人全てが謝罪する必要はないと主張する。そして、一部の日本人の属性をあたかも日本人全体の属性と決めつける思考の誤謬(部分の全体化)を差別的認識として批判する。
 山本氏の考え、つまりクリティカルシンキングからは、日本国民は謝罪する必要はなく、殺人の当事者らが個人として謝罪すべきだとする結論となるが、それは科学的には正しい。
 しかし、これは国際的には通用しない論理である。殺人の当事者が個人として謝罪すべきで、関係ない他の日本国民は謝罪しなくていいという主張をすると、中国も韓国も怒るであろう。
 
 中国や韓国は、戦後生まれの戦争に関係のない世代であっても、日本国民なら謝罪しろと求めてくるであろう。というのは、虐殺が国家の軍隊組織の役割として遂行されているかぎり、国家の責任となり、同時に国家の責任とはそれを支持した国家に属する国民の責任となるからである。日本人は、個人責任はないが、日本国民の役割行為として反省・謝罪する必要があることになる。少なくとも自虐史観の国家観からはそうなる。一個人として、あるいは一人の人間として、謝罪するのではなく、日本国民として謝罪することになる。
 戦後日本においては、反戦平和思想と平和憲法を尊重し、侵略戦争を反省することが日本国民の役割義務となってきた。つまり、日本国民の国際的役割概念の中にアジア諸国への謝罪と反戦の誓い、平和憲法遵守が含まれていたわけであり、右翼が批判する自虐史観の左翼知識人たちは、反日・売国奴であるどころか、かえって国際社会における日本国民の役割義務を果たしていたことになるのである。ちなみに、この日本国民の国際的役割に意義申し立てをしたのが他ならぬ戦争論である。
 従って、実は、社会学的には、右翼よりも、戦後民主主義者のほうが義務として平和憲法の精神を遵守しており愛国的なのである。この点、全く誤解されているようである。
 
 話を戻すと、山本氏の結論は、確かに自然科学的には正しい結論であるが、役割存在という社会的次元についての認識がないめために、社会科学的には間違った結論となっているのである。
 もし国家がなければ国家の役割としての軍隊もなく、戦争もなく、虐殺は存在しないわけである。虐殺の主体、犯人は個人ではなく、国家共同体=社会という化物なのである。この化物が人々に役割義務を内面化させることで、戦争という殺人をもたらすのである。それを殺人した軍人たちが個人として謝罪することだけですませるのは筋違いである。
 部分の全体化は認識論的誤謬であるが、部分の中に全体が入り込み、社会的なるものが創発されると、この誤謬が正しくなるのである。

 とはいえ、ト学会開祖である山本氏やニセ科学批判者たちの批判的思考が、虚構に彩られた吉本隆明などの戦後民主主義にとってかわり、右傾化に抗して、日本の平和主義を支える思想になる可能性がある。
 右翼に負けた戦後民主主義者はだらしないが、クリティカルシンキングなら、小林よしのり、在特会、KAZUYAなどの右翼思想に対抗できると思う次第である。思想多様性のためにも必要である。

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by merca | 2015-01-24 11:19 | 社会分析

近代化の一貫性社会変動論

 アジア社会は、後発的近代化の道を辿っている。
 
 近代化とは、経済においては資本主義、政治においては民主主義、法においては人権主義と平等主義、教育においては学校主義、学問においては科学主義、思想においては言論の自由、宗教においては信教の自由、対人関係のスタイルは個人主義、軍事外交は平和主義、家族においては核家族主義となることをいう。それぞれの社会領域において、かくのごとき価値観が原理となる現象が近代化なのである。日本社会のように後期近代化社会=成熟社会に移行しても、あいるはポストモダンに突入したと主張しても、これらの近代的価値観は依然として根本原理のままである。
 
 どの社会領域から近代化するかは、国によって異なってくるが、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義は、近代的価値のセットとなっており、究極的には切り離すことはできない。これらは、近代化の尺度となり、これらが達成されている国は近代化されているのである。
 また、一つの社会領域が近代化すると、自らを維持するために、別の社会領域も近代化せざるを得なくなるのである。例えば、思想において言論の自由が進むと、政治の分野においても民主主義を採用ざるを得なくなってくる。言論の自由はあるのに、政治体制だけが全体主義という社会は不整合であり、その不整合を正すために社会変動が起きるわけである。
 
 ルーマンのシステム論的社会学では、各社会領域については、経済システム、政治システム、法システム、学システム、教育システム、宗教システムなど、自律的な機能システムとして記述する。こられの異なる機能システムが近代社会では、先述の近代的価値観でプログラミングされていることになる。それぞれの機能システムはコードによって自律的に閉じているが、一つの機能システムは、別の機能システムとの関係によって制限を受けることになる。
 また、異なる機能システムどうしの相性の良さを構造的カップリングという。例えば、資本主義をプログラミングした経済システムと民主主義をプログラミングした政治システムは相性が良く安定性がある。
 
 ここから一つの社会変動論を構築することができる。構造的カップリングによる社会変動論である。システム論的社会変動論である。定式化していうと、優位な社会領域システムに合わせて他の社会領域システムが構造的カップリングするように変動することになる。システム相互の力関係に左右されるものと考えられる。近代化については、近代的価値の一貫性による構造的カップリングが必要となり、そのような方向で各社会領域において社会変動が起るのである。
 
 アジア社会を見ると、中国社会では、政治システムが民主主義ではなく、近代化されていない。香港や上海で資本主義を採用しているが、政治システムと経済システムの構造的カップリングが悪く、経済が発展すると、自ずと民主主義国家に変わることになる。
 すでに、香港では自由選挙制を掲げて民主化を求めてデモが起っているが、システム論的社会変動論においては、当たり前の社会現象である。経済が近代化されると、他の分野も近代化されることになり、政治システムが民主主義を採用せざるを得なくなるのである。資本主義を維持するためには、自由選挙制=民主主義が必要である。また、民主主義を維持するためには資本主義が必要となる。
 
 世界は、資本主義、民主主義、人権主義、学校主義、科学主義、自由主義、平等主義、個人主義、平和主義、核家族主義に基づく近代化の方向に進んでおり、この流れをとめることは、今の人類にとっては不可能である。国連も準拠するこれらの近代的価値に共通する根本原理の正体は何か? これには私も哲学的関心を抱いてしまう。
 
 いずれにしろ、この流れからすると、究極的にはマルクス主義と国家主義は消滅することになり、非マルクス主義的左翼=ハイモダン主義が勝利することになるだろう。
 皮肉なことだが、ネット右翼も歴史に対する事実主義(科学主義)という近代的価値を採用する限り、自己の思想に不整合が生じ、近代的価値全体に取り込まれ、国家主義を捨てる方向に向かうことになるであろう。右翼にも左翼にも言いたいが、近代的価値という文化を越えて伝播する人類普遍の価値(と思われる)についての哲学的考察を怠ることなかれである。
 
 左翼であれ、右翼であれ、資本主義、民主主義、人権主義、平等主義、学校主義、科学主義、自由主義、個人主義、平和主義、核家族主義のうち、どれか一つでも近代的価値観を受け入れると、思想に論理的一貫性を保つために、近代的価値全体に染まってしまうことになるだろう。

 
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by merca | 2014-11-23 09:41

社会的包摂主義ファシズムの対抗思想としての切断論

 福祉の道に進んだ人たちや反貧困主義者は、(包摂/排除)という区別から社会を観察し、排除型社会を否定し、包摂型社会を理想としている。民主主義や平和主義という政治思想よりも、包摂主義を尊重する思想的傾向にある。また、政治家も官僚も基本的に包摂型社会を支持しており、包摂主義に準拠した施策を打ち出している。このように社会的包摂主義は、あらゆる分野において民主主義にとって変わる価値観になりつつある。
 包摂型社会とは、雇用、教育、経済、法律、科学、医療、政治、スポーツ、芸術等のあらゆる社会の分野において、特定の負因をもった人々が排除されず、コミュニケーションに参加できる社会をさす。正社員と非正社員の二極化社会に対する批判にかかる言説なども、この系譜に属する思想である。反貧困主義者たちが、階級闘争によって社会革命を起こそうとするマルクス主義(共産主義)に安易に吸収されないのは、包摂主義の価値観を所有しているためである。日本社会におけるあらゆる立場の人々に、包摂主義は浸透しており、共通の価値観になりつつある。
 しかし、一部には違う動きもある。例えば、ニセ科学批判のように、科学的コミュニケーションから、クリティカルシンキング(批判的思考)を欠いた疑似科学を排斥するという排除主義も認められる。疑似科学を科学として包摂する寛容性や価値観の多様性は、ニセ科学批判者にはない。同じく、ネット右翼のように政治的コミュニケーション等から外国人を排斥しようとする排除主義も認められる。とはいえ、包摂主義が現代社会の中心的価値観を占めつつあるということに変わりはない。
 
 論理的には、包摂主義は、民主主義と同じであり、論理的矛盾のある思想である。包摂主義は、排除主義を包摂しても排除しても、論理的に成り立たず、自己言及のパラドックスに陥るからである。一方、排除主義は、論理的には、包摂主義を排除することで論理的一貫性をもち、自己言及のパラドックスに陥ることはない。
 その意味で、排除主義は、道徳的には人々に賛同されないものの、論理的には包摂主義に勝ることになる。従って、論理的純粋性を尊重する人たちは、排除主義の立場をとるであろう。ニセ科学批判者しかり、ネット右翼しかりである。そして、さらに言うと、接続過剰社会を批判する切断論者もそうである。包摂による自己矛盾を抱えたくないために切断論者は、多様な存在との関係を断ち切り、自己の論理的一貫性を保とうとするのである。
 
 社会学的には、(包摂/排除)という区別は、そのまま(接続/切断)という区別に対応し、同じ内容を別の言葉で表現しているだけであり、機能的等価である。包摂されているものは接続されつながっており、排除されているものは切断され分離しているのである。
 従って、究極のところ、哲学者千葉雅也の切断論は、排除主義のカテゴリーに入るのである。接続過剰社会は包摂過剰社会と同義であり、接続過剰社会批判は包摂型社会批判でもあるのである。
 放浪生活を好んでしているホームレスに社会的包摂を勧める反貧困論者は、切断論者から根本的に否定されるであろう。社会的孤立者の中には、自ら自己選択で社会からの切断を望んだものがいる。にもかかわらず、強制的に、包摂主義者は、自己選択・自己責任でホームレスになった人たちを包摂し社会に関係づけようとするのである。包摂主義ファシズムである。
 
 実は、このような包摂主義ファシズムに対抗できる哲学的根拠を示したのが、千葉氏の切断論となるのである。切断論の本質は、排除論なのである。自己を束縛する社会(関係)を自己から排除することを唱える。
 そこで、包摂主義の流布や包摂主義に基づく国家の施策(ニート・ひきひもり支援など)によって、接続過剰型社会が生み出され、身動きがとれなくなっている人たちが多くいるという社会診断が正しいかどうか検証してみる必要があるのである。
千葉氏の切断論は、湯浅氏の反貧困論(社会的包摂論)とは逆の提案をしているわけであるが、それが有効であるためには、包摂を望む人たちと切断を望む人たちが、どれだけ社会にいるのか社会調査が必要かと思われる。有効な包摂主義ファシズムへの対抗思想になるかどうかはそれ次第である。 
 
 ここからは社会的予言をしておこう。社会学者ルーマンによれば、社会進化は分節化、階層化、機能分化(近代化)の段階で進んで来たが、今後、未来社会は(包摂/排除)に基づいた社会分化に進む可能性があると指摘している。おそらく、それは、社会の内にいることも社会の外にいることも、同時に肯定されるような社会であろう。社会の内を居場所とすることも、社会の外を居場所とすることも、自己選択することができる社会であろう。

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by merca | 2014-09-07 10:29

千葉雅也の切断論に対する哲学的批判

 哲学者・千葉雅也が切断論において唱える切断とは、非意味的切断のことである。非意味とは、自己選択によらない偶然の切断のことを指している。この点、ルーマンの自己選択=意味による複雑性の縮減とは根本的に異なる形而上学的概念であり、意識レベルではなく、存在レベルで語られている。
 
 意識レベルでは、存在論的に接続していても、意識の外においやることで、切断することはいくらでも可能である。つながっているもの全てを意識しているわけではなく、意識は常に意識されるものとされないものの区別をもち、意識化された事物のみを接続していると認識する。意識化されたものは認識作用を通じて接続されていく。そもそも、意識とは、意識化されていないものを意識するとともに、すでに意識化されたものを意識の外においやる運動である。接続と切断を同時に行う運動である。意識は、意味によって接続と切断を同時に行う同時的弁証法なのである。
 一方、切断論のいう非意味的切断(あるいは非意味的接続)は、このような意識が行う接続・切断運動のレベルではなく、意識の外での出来事であり、存在論レベルのことを指している。

 簡単に言うと、もともと永遠に無関係な存在どうしがあったり、切断されたら永遠に無関係になるものどうしがあったりするということである。しかし、そのような存在論は、関係主義に基づく哲学や仏教思想では否定されている。一切は一切のものと関係しているとする形而上学とは真っ向から対立する。全てのものは差異関係にあるという構造主義、全ての存在は関係し合っているとする縁起の法、それに全ての存在が全ての存在を映し出すというライプニッツのモナド論とも相容れない。
 
 このような関係主義の哲学を否定するために、千葉氏は、関係の外在性という観念を持ち出す。関係の外在性とは、関係が変わっても、関係項の本質が変わらないという原理である。例として、コップはテーブルの上にあるという位置関係を持ち出す。確かに、コップをテーブルから離しても、コップはコップとして変化しない。位置関係が変化しても、関係項の観念は変化しないわけである。コップの内的本質にとっては、テーブルは無関係であり、テーブルとの関係には左右されず、分離されているというわけである。コップが存在する原因はテーブルであるとは言えない。

 しかし、この議論には、この性=単独性が抜け落ちている。このコップがこのテーブルの上にある場合、このテーブルにのっている状態があってこそ、このコップをこのコップと指し示すことができる。このテーブルの上になければ、このコップではなく、別のコップになってしまう。このコップは、このテーブルの上にあることによって、このコップたりえ、あのコップと個別的に区別されるのである。このコップと別のコップの区別は、位置関係も含めて全ての具体的状態を含んでいる。世界に一つしかない個別=単独のものとしてコップを捉えると、このテーブルの上にあるという位置関係は根本的に重要である。このコップがこのテーブルの上に存在することによって、別のコップがこのテーブルの同じ位置に存在することができない関係にあるのである。かけがいのない今の瞬間にどのような具体的状態にあるのかという、この性は、明らかに全ての存在との位置関係に規定されている。
 そもそも、ライプニッツ の不可識別者同一の原理からしても、この世に同じ位置を占める存在はなく、全ての存在が全ての存在と異なるという関係性でかえって結合されているのである。
 
 実は、千葉氏の切断論は、一見、存在論を装いながらも、個別的関係=存在論的関係をコップの概念の同一性の問題にすりかえているのである。具体的個物は、他の具体的個物との関係によって、具体的個物足り得るのである。私の考えからすると、関係の外存性は、むしろ概念のレベルあるいは意識のレベルで成り立つのであり、存在論のレベルでは成り立たない。
 
 いかなる切断、無関係化も、存在論のレベルでは不可能である。そもそも、関係の存在形式には、最初から項と項が区別=切断されていることと同時に、項と項が不可分で同一であることが含まれている。関係性とは、切断=別異と接続=同一の二つの要素を含むのである。もし関係するものどうしが完全に同一なら関係は成り立たないし、もし完全に別異ならば無関係となり成り立たなくなる。関係するものどうしは、同一でもなく、別異でもなく、同一かつ別異でもなく、それら全てを離れても成り立たないと表現する他ない不思議なるものであり、それが存在の実相である。
 また、このような同一性と別異性を含んだ一切と一切の関係の形而上学は、ホーリズムに還元されず、他者性も確保できるのである。ジャン=リュック・ナンシーの「複数にして単数の存在」などにも、関係項どうしが同一性と差異性を含むものとして捉えられているが、ホーリズムに陥っていない。レヴィナスにおいても、他者性は他者との完全な切断ではなく、むしろ顔と顔の関係性のおいて捉えられている。
 関係性が即ホーリズムにつながるという千葉氏の思考は短絡的である。むしろ無関係性が独我論に陥るという論理的必然性こそを見極めてほしい。
 
 ちなみに関係しているものは常に変化している。静止していては、互いに影響を与えていないことになり、関係していないことになるからである。関係することと、変化することは同一である。縁起の法と所行無常は同一である。変化するとは、関係する他者と関わる側面を変えていくことに他ならない。接続している部分と切断されている部分を変えていくということである。

 完全に無関係なものどうしは、論理的に互いを認識できないことになり、相互に独立したバラバラな独我となる。認識もできないし、関わることもできないものは、我々にとって存在しないのと同じであり、哲学的に思考することもできない。別の言い方をすると、世界には、関係の中にないものは存在しないのである。
 さらに、世界には究極的に一つの全体的存在しか存在しないというホーリズムも独我論=実体論である。世界に一つの存在しかないのなら、関係はあり得ない。関係は複数の存在が必要だからである。同じく世界には互いに影響を与えない存在がバラバラに存在するという原子論も、自分以外の存在を必要としない独我論=実体論である。ホーリズムも切断論(無関係論)も、他者に依存しない独我論という点においては全く同一である。切断論だけではなく、その反対であるホーリズムも関係性を否定する世界観であるという論理が千葉氏には全く哲学的に理解できていない。千葉氏は、ホーリズムこそが関係性を否定する形而上学であるということがわかっていないので、レヴィナスやナンシーの哲学も理解できていないと考えられる。千葉氏は、一切の存在が実体なき空なるものであるという龍樹の中論を勉強し、出直すべきである。
 
 最後に切断論を脱構築しておこう。
 切断とは接続されているものを切断するわけであり、接続とは切断されているものを接続するわけであり、そのような運動としてしか捉えることができず、接続と切断は関係し合っており、互いに前提となっている。接続が絶対あり得ない非意味的切断のような完全な切断は、自己矛盾的であり、決して成り立たない。完全な切断は、接続を肯定しても否定しても成り立たない。

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by merca | 2014-06-15 23:10 | 理論