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国家主義(右翼)も戦後民主主義(左翼)も同じ。

 今や日本社会は二分されている。二つの思想にである。国家主義と戦後民主主義の二つにである。国家主義とは、国家の目的のために個人が存在するという価値観に準拠しており、個人や家族の命よりも国家の存亡のほうが大切だとする思想である。戦前は、その思想を強制され、戦争に駆り出され、多くの人々が命を失い、自分の家族も失った。
 戦後民主主義とは、そのような軍国主義的な国家主義に対する反省のもとに、反戦主義・平和主義を中心に社会の民主化を唱える思想である。戦後民主主義を植え付けられることによって、日本人は日本を侵略した敵国アメリカを恨むことなく、復興を遂げてきた。 アメリカによって真の自由がもたらされたと思ったわけである。このような戦後民主主義の思想は、朝日新聞等のマスコミや左翼政党に受け継がれた。そして、自らは代案を示すことなく、闇雲に時の政治体制を批判することを役割としてきた。政治・国家を批判することで、社会はよくなると考えていた。
 しかし、戦後民主主義は、現実を直視しない理想主義のために、小林よしのりなどの事実主義を標榜する右翼思想家や保守政治家たちに批判され、今や衰退している。戦後民主主義者や護憲論者の主張は、事実認識があまく、論理的ではなく、頼りないイメージがある。基本的にマルクス主義的な左翼発想に準拠しているので、非科学的であり、そこが限界であったと言わざるを得ない。戦後民主主義を基礎付ける社会理論が左翼系のマルクス主義ではなく、全く別の社会学理論であれば、戦後右翼の事実主義者たちに太刀打ちできたであろう。戦後民主主義=左翼が敗北した理由は、マルクス主義しか理論がなかったからである。社会理論の貧困である。マルクス主義とは無縁の社会理論を取り入れる知的才能がなかったのである。

 さて、国家主義(右翼)と戦後民主主義(左翼)は、前提を共有しており、同一だと人々は気づいていない。この盲点は、社会システム論のみが指摘できる。何が同一かというと、両者はともに政治主義であるということである。つまり、政治のあり方が変われば、社会が全て変わるという発想である。政治が社会をよくするという考えは、政治以外の社会の分野での活動を見えなくしている。いうまでもなく、人々は政治の中だけでは生きていない。
 最高の理論社会学的立場からいうと、後期近代社会においては、法システム、政治システム、経済システム、宗教システム、教育システム、科学システム、芸術システムなど、社会のそれぞれの分野が自律的に機能分化し、上下関係がなくなる。完全な成熟社会では、原理的に、一つのシステムは他のシステムに還元されず、支配されず、対等である。
 しかるに、国家主義も戦後民主主義も、政治システムが他の全てのシステムを統制する力をもつと考えている。確かに、戦前の軍国主義社会や共産主義社会では、政治システムが教育システムを支配し、国民を洗脳することがよくおこる。ある意味、中国社会や韓国社会も、戦前の日本軍国主義社会と同型の政治優先社会てあり、政治システムが教育システムを利用し、反日教育によって国民を統合しようとしている。しかし、社会進化論的には、このように一つのシステムが他のシステムを従属・支配するという構造の社会は、遅れているのである。また、社会病理学的には、社会構造にまつわる社会病理現象である。
 このように政治システムが他のシステムを従属させる社会病理現象を政治システムの中心化現象と呼ぼう。戦争がおこる条件の一つして、政治システムの中心化現象がある。例えば、経済システムを優先させれば、国家間の戦争は怒りにくくなるだろう。ある意味、政治に無関心な人々が多くいる社会ほど、成熟しており、平和である。
 経済システムにおいては、他国の会社との貿易なしには考えられず、多国籍企業も増えている。国家間の戦争は経済活動の妨げになる。科学システムは、既に国家の壁を越え、人類共通の知的財産の累積をつくりだしている。科学的知識の真理性は、国家によって左右されない独立性をもっており、科学には国境はない。また、宗教にも国境はなく、世界宗教は全世界に伝播している。教育においても、学校制度によって、組織(ゲゼルシャフト)への適応と科学的真理の伝授が行われている。法律においても、人権思想をベースに国際化してきている。人権に反する行為をした国家は国際的に弾劾される。各国の法律は、自由と平等という一つの方向性に収斂しつつある。芸術の分野では、日本のアニメも中国や韓国、そして全世界に受容されている。ディズニーはアメリカだが、全世界を相手にしている。政治システム以外の分野では、国境や政治的成果は二の次であり、異なる目標によって動いているのである。政治システムの目標とは関係なく、他のシステムは稼働しているのである。

 政治によって社会を変えようとするいかなる目論みも時代遅れである。政治主義を標榜する限り、国家主義も戦後民主主義も同じであり、限界がある。政治の口出しできない領域を確保していき、政治(あるいは国家)システムの肥大化を押さえることが、他のシステムを健全化させ、世界平和につながるのである。

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by merca | 2014-02-11 10:31 | 社会分析

国家主義による俗流日本人論、俗流韓国人論、俗流中国人論

 非常に単純なことであるが、社会学から冷静に分析すると、反日・嫌韓・反中は、全て国家主義が原因である。このような社会学的的真理が分かっていない連中が騒いでいるだけなのである。
 万民に対して、社会学的啓蒙を施すと、たちどころに、反日思想、嫌韓思想、反中思想の束縛から人々は解き放たれるであろう。

 (国民社会/世界社会)という区別に準拠して観察すると、反日思想、嫌韓思想、反中思想は、国民社会の次元におけるイデオロギーだということになる。
 韓国が国家として反日教育を行い、自国民を洗脳しているが、これは人々に対する国家主義の押し付けにしかすぎない。親日を選択する自由を国家が剥奪しているのである。端的に、国家による思想の自由の制限という人権侵害である。
 そもそも日本人全てが悪であるという思想を国家が植え付けているのがおかしい。社会調査によって、日本人に対する道徳観・倫理観を調べて統計的に分析したことがないのに、日本人全てが悪であるという虚構を主張しているのである。これは俗流若者論よりひどい。韓国による俗流日本人論である。
 一方、日本社会では、国家が韓国人や中国人が全て悪であるという思想を植え付けたりはしていないし、特定の国家に所属する人たちを貶める教育など、非人道的であり、行ったりしない。
 しかし、日本でも国家主義に基づいて、韓国人や中国人に道徳性・倫理性が欠如していると主張し、ヘイトスピーチをしている連中もいる。科学的根拠なしに、俗流韓国人論や俗流中国人論を発する人たちが多くいる。また、非科学的な反中・嫌韓の憎悪本がよく売れている。
 
 国家が悪いことをしたら、その国家に属する全ての国民も悪いという思考形態は、社会学的に誤謬である。社会共同体と個に根本的差異があるという社会学的真理がわかっていない。
 韓国社会と中国社会に蔓延る国家主義者たちが、反日思想を自らの国民に植え付けているのである。一方、日本でも国家主義に基づき、ネット右翼などが韓国人や中国人に対する差別発言をしているのである。実は、あまりにも韓国国家や中国国家による反日発言が多いために、日本人による親中や親韓の発言はほとんどネットでは見られなくなってしまった。さらに、反日発言が経済・宗教・教育・芸術・スポーツなどの分野での庶民間の交流の障害になっている。
さらに、韓国による従軍慰安婦問題提起は、人権主義の立場から主張しているように装っているが、実は人権主義ではなく、国家主義であり、本質はなんらネット右翼と変わらない。韓国が、真の人権主義国家であれば、国家による反日教育の押しつけをやめるべきであろう。日本はアメリカに原爆を投下されたが、反米教育はしていない。万民の基本的人権が尊重されているので、ある特定の国を卑しめるような教育はしない。しかし、差別発言をするネット右翼は国家主義に基づいてるために、他国民にヘイトスピーチし、人権侵害をする。 
 ちなみに、社会病理学的には、皮肉な事に、韓国・中国による反日発言や反日行動がネット右翼層をつくりあけだ根本原因であり、ネット右翼のアイデンティティはかえって韓国・中国の反日に依存しているのである。

  さて、社会システム論的にいうと、国家主義社会とは、国家(政治)システムが他のシステムを支配する構造の社会である。全てのシステムが対等に機能分化している成熟社会とはかけ離れており、遅れた社会である。庶民は果たして政治システムを優先させる社会=国家主義的社会を望んでいるのだろうか? 中国、韓国、日本も、庶民のレベルでは、国家に束縛されず、豊かに自由に生きていきたいと思ってるのではないか?
反日思想、嫌韓思想、反中思想も、全て国家主義が正体であり、科学的根拠のない俗流日本人論、俗流韓国人論、俗流中国人論を生み出し、世界平和を乱し、経済・宗教・教育・スポーツ・芸術などの交流を阻害しているのである。

 人々は、経済・宗教・教育・スポーツ・芸術などにおいて世界社会の中で生きているのであり、国民社会の中だけでは生きていないのである。韓国も中国も日本のネット右翼も、国民社会を絶対化する価値観である国家主義に毒されているのである。
  私は、後藤和智のような狭い国民社会を範囲とした俗流若者論批判ではなく、世界社会に準拠した俗流日本人論批判、俗流韓国人論批判、俗流中国人論批判を展開する論客の登場期待しているのである。

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by merca | 2014-01-25 10:07 | 社会分析

若者論に科学的根拠はいらない。

 俗流若者論批判で有名な後藤和智が、とうとう「「あいつらは自分たちとは違う」という病」という書物をだし、自らの主張を整理した。同著は、これまでの若者論が基本的に科学的根拠のない思いつきにしかすぎず、世代アイデンティティとして活用されきたと主張し、科学的根拠のある若者層の実態把握を提唱する。
 私は、当ブログにおいて、あらゆる学説や論は、真実か虚構か、また科学的か非科学的かに関わらず、思想として受容される可能性があると指摘して来た。若者論が若者や若者を批判する大人の側の自我統合=アイデンティティの統合(あるいは獲得に)をもたらすことは、社会学からは当たり前のことである。例えば、宮台社会学、反貧困論、ニセ科学批判などが、学問ではなく、思想として観察できると繰り返し述べて来た。簡単に言えば、思想として機能するとは、自我統合や社会統合(集団生成や社会規範の補強)をもたらすことである。各時代の若者論が世間に流布し、受容されるということは、人々にアイデンティティを付与することなのである。
 
 例えば、俗流若者論で登場するフリーター、ニート、ひきこもり、ヤンキー、おたくなどの若者概念は、若者自身の自己概念に採用され、若者自身がその価値観を内面化し、それを演じ、その結果、特定の若者層を形成するに至っている。これらは、若者が選択する生き方の種類であり、ある意味、人生の指南として機能する。
 実は、科学的根拠のない若者論が作り出した適応類型概念は、若者に影響を与え、自らの概念を社会的事実として成就させているのである。日本社会では、若者の実態が先にあるのではなく、若者論が先にあり、実態はあとでできあがることになるのである。無論、若者に採用されなかった若者論は、真実になり得なかった虚構として退けられることになる。
 
 社会心理学では、アイデンティティは、他者からの評価、他者との比較、集団への所属で獲得されるものである。つまり、「あいつらは自分たちとは違う」という差異化の意識が必要となる。一つの世代層は、他の世代層との比較によってしかアイデンティティを得ることはできない仕組みになっている。若者論は、必然的に比較論になる。たとえ科学的に若者の実態を調査しても、比較することなしに、その実態に意味を付与することはできない。そして、何と比べるかによって、意味が異なってくる。これは、貧困論も同じ構造を持つ。若者世代は、他の世代と比較して、規範意識が希薄だとか、個人主義的だとか判断することが可能になる。
 つまり、同一の実態調査でも、比較対象が異なると、全く世代の特性は異なって記述されることになる。さらに、何を比較対象とするかは、恣意的であり、調査者の目的や価値基準に左右される。例えば、調査によって現在の若者の平均収入がわかったとしても、どの世代と比較するかによって、異なった評価となるのである。ロスジェネ世代は、自分たちの世代は貧乏だと思っているようだが、バブル世代との比較にしかすぎず、戦前の若者に比べれば、かなり裕福である。
 若者に対する科学的調査であっても、結局は、比較対象選択の恣意性によって、解釈が多様になってしまい、真実は一つではなくなるのである。調査者自身の解釈の相対性を考慮しないと、本当の意味での科学性は担保できない。
 
 また、もし仮に統計的調査によって、世代別の実態が科学的に把握できたとしても、かえってアイデンティティとして利用されるであろう。つまり、科学的根拠というお墨付きになるので、よけいに採用されやすくなるであろう。後藤氏は科学的根拠のある実態把握であればアイデンティティとして利用されないと思っているようであるが、それは全く逆である。科学的根拠があると思えば思うほど、真実味が増し、人々にアイデンティティとして利用されるであろう。ニセ科学が流行る理屈と同じである。
 科学的根拠のある若者実態調査をするにしても、調査目的を明らかにし、その目的によって比較対象が選定された理由を説明した上で、人々に公表しないと、俗流若者論よりもひどい結果になるのである。古市氏は、現在の若者は幸福であると豪語するが、比較対象の恣意性を説明していないところに欠点がある。

 後藤氏は、「世代論を今一度科学や政策のフィールドに下ろして論じなければならない。」と述べ、若者論における世代論の不毛からの脱却を短絡的に科学的根拠のある若者の実態把握に求めているが、それは根本的解決にならない。
 そうではなく、原理上は、比較対象を変更することが根本的解決になる。つまり、他の世代の若者と比較してデータを解釈するのではなく、他県の若者との比較、異なる社会階層に所属する若者との比較、学歴別の若者の比較、他国の若者との比較などにすれば、世代論から脱却できるのである。科学的根拠があっても、世代ごとのデータを集めて世代間の比較によって分析する限り、世代論からは脱却できないのである。

 究極の立場からすると、若者論が人々にアイデンティティを供給することが役割であるとしたら、若者論にわざわざ科学的根拠は要らない。さらに、事実とは無縁な「べき論=若者への役割期待」でもかまわない。統計調査で対象とするのは、若者一般である。
 してみれば、若者一般は、実在しない虚構であり、個別対象としては存在しない。概念としてのみ存在する。若者一般は、後から構成されたものである。統計調査が若者一般をつくるのであって、統計調査の前にあらかじめ若者一般が存在するわけではない。

 参考
 ブロ教師の会の諏訪哲二は、「オレ様化する子供たち」という俗流若者論を展開している。彼は全国の子供に意識調査をして統計的に分析し、子供たちが自己中心的になっていると判断しているわけではないのに、「子供が自己中心的になっている」という仮説を事実のごとく語っている。しかし、諏訪哲二の仮説は、規範主義社会学的な視点(規範に従うことで秩序が成立するという立場)から多数の子供たちを観察した結果であり、教師としての彼の臨床的知識に基づいている。世代の異なる多くの子供を見て来ているのである。
 統計のように間接的ではなく、このように対象に直接触れていることで知ることができる事実がある。医者も臨床的知識に基づいて診断することがある。このようなプロの臨床的知識は、科学的知識よりも確かであることが多い。

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by merca | 2013-12-01 23:57 | 社会分析

古市憲寿著「誰も戦争を教えてくれなかった」書評を通して

 最近、社会学専攻の院生・古市憲寿氏があらゆるメディアに登場し、発言している。古市氏の著作「絶望の国の幸福な若者たち」については、すでに私は過去のエントリーで、若者による俗流若者論であると位置づけ、批判的に評論している。
 私の予測とは裏腹に、古市氏は多くのメディアに取り上げれ、若者論、国家論、戦争論と幅広く、発言をし、現在に至っている。だが、社会学の鉄人である宮台氏ほど社会学理論そのものに準拠した観察をしているとは言いがたい。これは仕方ない。
 ここでは、古市氏の最近の著作「誰も戦争を教えてくれなかった」について評論を加えるとともに、戦争が起きたら自分は逃げるという古市氏の国家観がネット右翼から道徳的に批判されている現状について社会学の立場から多少擁護したい。
 
 さて、古市著「誰も戦争を教えてくれなかった」においては、各国の戦争博物館を見学することで、アメリカ、中国、韓国、ドイツなど各国における戦争の記憶の残し方に焦点が当てられ、各国との比較において、日本社会における戦争の記憶の残し方を批判的に論じるている。
 結局、日本は国民全体が共有できる戦争の物語を構築できなかったと結論付けているようである。最後には、もはや日本社会においては戦争体験は古くなり、平和体験が長く続きすぎているので、この際、平和ポケを肯定し、平和体験に基づいて思想や政治を作り出していくことを提唱する。
 言い換えれば、平和体験に基づく国家観こそがこれからの日本社会の国家観ということになる。そして、平和体験に基づくことで、かえって条件付きの戦争を肯定するという方向に議論を進めている。
 
 まず、話は方法論にそれるが、同書の面白いところは、各国の戦争観を調査するのに、意識調査や統計調査に準拠するのではなく、博物館を観察するという手法をとっているところである。これは、俗流若者論者の後藤和智が若者論を分析する際に、文献調査や統計調査を重んじるあまり、市町村などにある青少年会館等の若者育成のための施設を見学するという手法を疎かにしているのとは対照的である。
 国家がどのように戦争体験を残そうとしているのかは、統計調査をせずとも、確かにその象徴である戦争博物館を調査すれば一目瞭然にわかるわけである。つまり、社会調査法的に言うと、代表性のある事例を一つ調査するだけで全体を調査したのと等価であるというわけである。統計調査よりもコストがかからず、全体を推し量ることができるのである。社会学系のあらゆる大学でゼミ生がこのような事例調査やフィールドワークを行い、卒論を書いている。今後も、古市氏にとっては、施設見学は事実を認識するために得意とする手法となっていくかもしれない。
 さらに、自国の社会を分析するのに、他国と比較し、相対化するという手法をとっている。物事は、比較して初めて明確になることが多い。また、他国との差異・区別によって国民社会を分析する際に、複数の国と比較しているところがポイントである。後発的近代化論からすると、欧米だけを基準にして社会の進歩や成熟度を測るという考えは古いのであり、アジア諸国との比較も必要なのである。
 
 以上は古市氏の良い点であるが、一方でかなり抜けている点もあった。それは、日本社会には戦争体験に対する共通の物語がなく、残し方も中途半端であると見なしている点である。これは事実とは異なる。
 戦後の日本社会では、日教組を中心とする教師たちが、戦後民主主義教育というかたちで、軍国主義を悪とし、反戦主義、平和主義を子供に教育し、マスコミを中心に社会もそれを支持してきた。図書館に反戦教育の急先鋒として配置された「はだしのゲン」のテーマは正しくこれである。戦争は絶対だめという価値観は、左翼だけでなく、多くの戦争体験者からも発せされた。戦争絶対悪という価値観は、左翼でなくても、団塊の世代を中心に染み付いているのである。終戦記念日にNHKが戦争ドキュメンタリーを深夜に流し続け、戦争反対という価値観を国民に教育している。田原総一郎が言う通り、戦争を生理的に嫌うのが戦後日本社会の共有する価値観であった。
 日本社会が共有する絶対的反戦主義や絶対的平和主義は、最近、小林よしのりやネット右翼によって自虐史観として批判され、多少揺らいできているが、古市氏も絶対的反戦主義の相対化を試みようとし、戦争も場合によってはOKみたいな相対主義的な戦争観を若者に流布しようとしている。
 しかし、古市氏が考えるほど、日本人に植え付けられた絶対的反戦主義や絶対的平和主義は浅いものではない。なぜなら、それは田原総一郎が考えるように、理屈を越えて戦後の日本人の心に染み込んでいるからである。
 戦争体験者が戦争の悲惨さを語り、平和の大切さを唱えるというかたちの教育方法は価値伝達の手段としてはかなり有効であり、子供たちにこのような手法の教育が施されてきた。また、家庭でも祖父が戦争体験を語り、戦争は絶対にするなと言い聞かせることも多くある。社会学的には、道徳は物語=体験とセットになってはじめて効果的に内面化される。従って、戦後民主主義教育が日本人に植え付けた反戦主義・平和主義の価値観や思想は、そんなに簡単に変わるものではない。実は、戦後日本社会において、平和主義の内面化は、唯一成功した道徳教育である。
 そしてさらにいうならば、反戦主義・平和主義という価値観は、根本的に人権主義という普遍主義思想が根拠となっており、世界思想そのものであり、国際社会から認められている。戦争を放棄し崇高な世界思想に合致した価値観をもつ日本国は、倫理的に世界から否定されないことになる。このように反戦主義と平和主義はもともと人類普遍の価値と合致しているために、倫理的に否定することが困難であり、相対化し辛いのである。
 いくらネット右翼や小林よしのりが、反戦主義や平和主義を相対化したところで、人類社会は明らかに成熟した世界社会へと進化しつつあり、その普遍性・絶対性を論破することは困難である。
 一方、小林よしのりやネット右翼は、人類共通の絶対的価値規範は存在しないとする相対主義が本質であることを忘れてはならない。右翼は、基本的に、人類社会の普遍的価値はなく、それ故に、それぞれの社会ごとに異なる伝統に従うべきだとする保守的相対主義が本質てある。つまり、絶対的に正しい価値はないから、既存の伝統にすがるべきだとする思想である。人権思想に準拠した右翼は見たことがない。メタな視点からすると、左翼=絶対主義と右翼=相対主義の対立として描くことができる。
 
 要するに、若者の戦争観について(知識/価値)の区別に準拠して観察すると、戦後日本社会においては、必ずしも戦争の事実に対する知識は十分に伝達されていないかもしれないが、反戦主義や平和主義の価値観はきっちりと伝達されているのである。
 実際、「誰も戦争を教えてくれなかった」の巻末対談において、古市氏が若者の代表としてももいろクローバーZに対して戦争の知識について質問しているが、戦争の詳しい知識はないにもかかわらず、しっかりと戦争否定の価値観を内面化していることがわかる。若者にも、戦争に対する知識は伝達が不十分であるかもしれないが、価値伝達はなされているのである。
 つまり、戦争は悪であると誰もが教えてくれる社会であるが、戦争の歴史的経緯は詳しくは知らないというのが事実である。古市氏が知識伝達のみをもって戦争を教える教育だと勘違いしたことは非常に残念である。むしろ、社会学的には、知識伝達よりも、平和主義や反戦主義という価値伝達のほうが大切なのである。
また、歴史的知識習得は、社会階層によって異なる。古市氏のようにインテリ階層であれば、詳しい歴史的知識を知っているが、非インテリ層は詳しい歴史的知識をもっていないし、そのような知識がなくても生きていけるわけである。古市氏は自ら属している社会階層が若者の全体像であるというバイアスに気づいていない。
 
 ある番組で、古市氏が戦争が起ったら逃げるという発言をしたために、ネット右翼から批判されているが、社会学の基礎知識があれば、そう答えるのは原理的に間違いでない。社会システム論的にいうと、個人は国家システムの要素ではないからである。個人が国民として創発するコミュニケーションは国家システムの要素であるが、個人は国家の要素でなく、国家と分離可能である。
 このようなことは、社会学の基礎中の基礎である。個人は、究極的には(国民/非国民)のどちらも自己選択できる。
 ネット右翼等の国家主義者が古市氏の発言に戸惑うのは、社会の仕組みを扱う社会学を知らない無知からである。国家主義者が、古市氏を非道徳者として批判するのは、そもそも国家主義が個人は国家の部品であるべきだという思想に準拠しているからである。国家主義は、科学的真理ではなく、人間は国家の部品であるという虚構に準拠した思想なのである。国家主義が社会的真理であると唱える社会学者がいたとしたら、ニセ社会科学である。
 「人間は国家の部品である」という思想を本当だと信じ込むか、あるいはあえて演じることを是とする合意があった時のみ、国家全体主義的社会は創発されることになる。多くの人間が「人間は国家の部品である」という思想を共有・共演しなくなると、瞬時に消滅するはかないものである。
 ちなみに、人類の歴史においては近代国民国家の誕生は新しく、日本国民が誕生したのは明治以降の話である。それまでは、庶民にとっては、村落社会が全体社会(欲望充足に必要な範囲)であり、日本列島全域が全体社会ではなかった。これも社会学の基礎知識である。社会科学的知識の欠如こそがネット右翼の問題点であり、若者に社会学原理を必須科目として教えると、国家主義者はいなくなるだろう。
 ともあれ、古市氏は、社会学を学んだために国家主義者からバッシングされているのである。

 最後に、戦争が殺人を伴わなくなってくるという古市氏の仮説は、あまりにも安易である。全ての戦争の先に核戦争があるという認識が全くできていない。アメリカが躍起になって核拡散を防止しようとするのは、核戦争をおそれてのためである。戦争イコール核戦争による全人類の絶滅というイメージこそが正しいのである。

 田原総一郎に認められたそうだが、これからが古市氏の試練だと思う。今後、右翼(国家主義)と左翼(戦後民主主義)の相互から批判されるおそれもあり、かつまた後藤和智氏が批判する実証性のない東浩紀のごときポストモダンおたくになることも避けないとならないからである。
 私としては、社会的事実を観察する社会学理論が古市氏においては未熟なために混乱が起きているようなので、早く自らが準拠する社会学理論を確立し、その立場を明示するべきだと思う次第である。

  追伸
 「誰も戦争を教えてくれなかった」のなら、戦争に行ってみたら分かるよ。戦場カメラマンみたいに戦場に行ったらどうかね。外から眺めても真実はわからないかもしれない。それでどんな思いを持つかが大切だ。兵士や戦争に巻き込まれている人の気持ちがわかるかも。

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by merca | 2013-11-04 00:31 | 社会分析

「国が滅んでも家族は滅ばず」映画「少年H」によせて

 国家や国民社会が滅んでも家族は残る。映画「少年H」を見てそう思った。私流に解釈すると、これは、国家がなす家族への虐待を乗り越えていく話である。家族の勝利である。国家が勝手に戦争したために、多くの家族の生活が貧困化するなか、主人公の家族も苦しめられるが、しのいで生きていく話である。
 国家の脆さと、家族の強さが対照的であった。また、勝手な戦争で家族の命を奪った国家主義という化物=社会病理を退治するのが、社会学の役目だと痛感した。
 国家を守るために戦争をすることが家族を守ることにはつながらない。国家を守ることと、家族を守ることはイコールでない。国家と家族には、根源的な差異がある。この差異を無視して、家族を守るために戦争をすることは愚かである。
 
 また、社会科学の立場からすると、「国家を守ることは、家族を守ることである。」という仮説は明らかに論理の飛躍がある誤謬である。この誤謬命題を強制されていたのが、戦前の軍国主義社会の国民たちである。
 しかし、敗戦によって、「国家が滅んでも家族は残る」という真理に目覚めた日本人たちは、あっさりと民主主義や普遍的な人権主義を採用し、国家主義を捨て去った。敗戦という絶対的事実の前に、国家が国民を守るという思想が嘘であり、また客観的に見ると、むしろ国家の戦争によって多くの家族の命が失われたことがわかったのである。
 
 してみれば、家族の自律性は、国家の存在を遥かに凌駕する。日本社会でも、朝鮮、中国、ブラジル、ベトナムなど、他国から来た家族が少なからず生活している。彼らは、強固な家族関係や親族関係を維持し、生活している。世界中に国を失った難民は溢れかえっているが、他の社会で、家族で助け合い、生きている。移民が可能なのは、国民社会と家族が分離可能だからである。そして、移民した後は、移民先の社会構造の組み込まれていく。どんな荒れ地でも、強い家族の絆さえあれば、国境を越えて家族は生きていく。
 
 家族システムのコードは(愛する/愛しない)である。愛とは、見返りを期待せずに与えることをいう。経済のような交換原理ではなく、一方的に与えることで完結する関係である。これを相互関係と区別して、非対称的関係という。
 例えば、当たり前のことであるが、障害をもった子が生まれて来ても、親は見返りなしに衣食住を与え続け、子供の幸福に喜びを感じる。子供に将来支えてもらおうとなんか思はない。もし相互的関係が家族の原理なら、障害をもった子を捨てる親もいるだろう。しかし、家族の原理が愛である限り、そうはならない。決して見捨てず、与え続ける。一方的な非対称な関係が家族の本質だからである。 家族関係は利他的で非対称的関係であり、人間が家族で生まれ育つかぎり、限定的な範囲での性善説が正しい。無論、一部の家族においては、それが崩れており、子を虐待する親もいるが・・・。
 
 戦前、国家が天皇を中心とする家族的国家観を植え付けようとした理由は、正に個々の家族の自律性を奪い取とり、「国家を守ることは、家族を守ることである。」を信じ込ませ、人々をコントロールすることにあった。
 しかし、どのような手段であろうと、原理的に家族の自律性を剥奪することはできない。そのような社会はいずれ滅ぶ。国親思想のように国が家族となるような国家観はやめるべきである。
 
 現在、小林よしのりや維新の会など国家主義が流行っているが、国家主義は、家族や個人よりも国家や民族社会を優先させることに思想的根幹がある。しかし、それは、人間が本来的に取り替えのきかない「個別的な家族」で生育するという社会学的真理に反する虚構なのである。
 国家の崩壊は家族の崩壊を招かないが、家族の崩壊は、社会の機能を低下させ、いずれ国家の崩壊を招く。人類社会は、国家主義から普遍的家族主義や普遍的個人主義へと進化していく。これからは、国民社会から世界社会へと思考を切り替える必要があるのである。家族は、国民社会ではなく、世界社会の単位なのである。

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by merca | 2013-08-18 22:39 | 社会分析

ヒュームの懐疑論は通用しない。

 デビット・ヒュームが、因果律は対象の側に内在する法則ではなく、人間の単なる習慣的な思い込みであると主張したことは有名である。所謂、ヒュームの懐疑論である。哲学や思想系の学徒なら誰でも学んでおり、よく知られている。
 ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、その後に起った現象を結果だと錯覚するわけである。本当に原因かどうかは確かめようがないというわけである。
 問題は、このヒュームの懐疑論からすると、因果律あるいは物理法則は、客観的に存在しないことになり、因果関係を探求する科学は全て虚構になるわけである。
 もし哲学者がヒュームの懐疑論でもって闇雲に科学者が見つけた科学的因果関係を否定したとしたら、科学者は怒るだろう。本当にヒュームの懐疑論は科学に勝利したのだろうか?
 
 ところが、実は、(外的視点/内的視点)という区別から観察すると、ヒュームの懐疑論は自然科学には通用しても、人間科学には通用しないことになる。例えば、人から押されて転倒した場合、倒れた当人の内的感覚からは押されて転倒したという因果関係は明確である。また、殴られて怒ったというケースでは、殴られたことで怒るという結果を引き起こしたという因果関係が当人の内的視点から確実である。さらに、他人が挨拶し、自分も挨拶したとしたら、礼儀作法に従って挨拶したという因果関係は当人に聞けばわかるのである。また、本が欲しいから店で本を買ったとかという目的手段関係による因果関係も聞くことで確認できる。このように、心理学や社会学のような人間行動や社会的行為を対象とする人間科学(社会科学も含めて)は、内的視点から理論を構成するために、全くヒュームの懐疑論は通用しない。
 
 ヒュームの懐疑論が通用するのは、外的視点から物体を観察する自然科学のみである。ビリヤードの前の玉が後ろの玉に衝突して動いた場合、衝突したから動いたのかどうかは後ろの玉に聞くことができないのである。人間には聞けるが玉には聞けないのである。
 このように、因果関係の確定は、内的視点をとる人間科学では確実であるが、外的視点をとる物理学では究極的に不確実である。人間科学の方が因果関係の究明については、自然科学よりも優れており、むしろ真理性は高いのである。人間科学には、実験やベイズ主義統計学に頼らなくても、観察や調査だけで因果関係の真理を確実に獲得できる利点があるのである。
 ともあれ、ヒュームの懐疑論は、限定付きであることを確認しておこう。

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by merca | 2013-07-15 22:03 | 理論

「バウマン社会理論の射程」書評 他者性の社会学は可能か?

 ジグムンド・バウマンと言えば、液状的近代(リキッドモダニティ)というポストモダン社会論で有名である。しかし、社会学者中島道男は、著書「バウマン社会理論の射程」において、リキッドモダニティ論以前のバウマンの道徳論にこそ彼の思想の本質があると主張している。
 まず、同著においては、バウマンの道徳論は、道徳の起源について、デュルケームの道徳社会学と全く反対の立場にあることを明確にしている。簡単に言えば、デュルケームは、道徳の起源を共同体に求めており、バウマンは他者(レヴィナスのいう)に求めているというわけである。また、中島氏は、この対比は、コミュ二タリア二ズムとリベラリズムの区別にも対応すると指摘している。ただし、デュルケームの道徳社会学がコミュ二タリア二ズムと対応するのはわかるが、レヴィナス流の他者論倫理学は単純にリベラリズムに対応しているとは言いがたい。リベラリズムは、共同体と離れた個人を単位とするものの、個人のエゴイズムと切り離せない概念であり、同じ個人でも、他者論倫理学の利他的な個人とは似ても似つかないからである。
 このような概念の未整理はあるものの、中島氏のバウマン解釈は、社会学に関わる根本的なテーマを提示している。それは、共同体を離れた単独者どうしの顔と顔の関係が社会科学の領域に属するか哲学の領域に属すると考えるかという難問である。パーソンズやミードなどの通常の社会学の考え方からすると、道徳は、社会共同体の教育によって個人に内面化されるわけであり、道徳は社会によって異なるとする相対主義をとることになる。しかし、他者論倫理学の立場からすると、倫理や道徳は、社会共同体とは関係なく、顔としての個人と個人の非対称的かつ単独的な関係で生ずることになり、人類世界の普遍的な倫理が存在することになるのである。つまり、社会学の道徳論は相対主義であり、他者論倫理学は絶対主義である。倫理と道徳においては、社会学の相対主義が正しいのか、他者論倫理学の絶対主義が正しいのかという本質的テーマを投げかけてくるのである。果たして、普遍的かつ絶対的倫理が生ずる他者論倫理学の領域は、社会学の領域に入るのであろうか? このような疑問がわいてくるのである。
 ちなみに、中島氏によれば、これと対応して、社会批判も二種類あるという。内在的社会批判と外在的社会批判である。内在的社会批判とは、社会共同体の歴史や伝統に照らし合わせて現代社会を批判する方法である。例えば、小林よしのりのように、日本には古来からの価値観や風習があり、現代日本社会はそこから外れており、正すべきという論法がそれである。この場合、他の共同体の歴史や伝統を基準にせず、あくまでも自己の所属する共同体の歴史と伝統を基準にすることになる。従って、道徳も、日本、アメリカ、中国、韓国、アフリカでは異なってくることになり、文化相対主義となる。保守主義者は本来相対主義者なのである。西部邁がその典型である。
 一方、外在的社会批判とは、共同体を離れた普遍的な価値から社会を批判する立場である。例えば、自由と平等という人類に普遍的だと思われている価値に基づく人権思想や民主主義の立場から、独裁制国家の人民殺戮や搾取を批判する場合である。また、ブッダがカースト社会の階級差別を批判したのも、生命の平等という普遍的価値からである。
 中島氏が提唱するこの二つの社会批判の区別は、思想地図をつくる上でもっとも有効な手段となると思われる。
 
 話はそれたが、他者論倫理学は、共同体の歴史や伝統とは無縁であり、単独者どうしの関係において、普遍的に「汝殺すことなかれ」という倫理が生ずるという考えである。バウマンは、この立場に立ち、ナチスドイツのホロコーストを批判した。近代官僚制が、顔と顔の関係を隠蔽することで、個人の責任感覚や倫理観を希薄化させ、ユダヤ人虐殺を可能にしたというのである。社会学が現代社会を批判する「公共哲学としての社会学」を目指すのなら、文化相対主義に基づく内在的社会批判だけでいいのかという問題が出てくる。これは大きな問題である。

 この問題は、人間存在の二重性とも関わってくる。人間は、役割を持つ共同体的存在であると同時に、世界に一つしかいない単独者でもある。「私は教師である」という判断においては、「私」は単独者であり、「教師」は共同体内の役割である。レヴィナス流に言えば、役割存在は「他者とともにあること」に対応し、単独者は「他者のためにあること」に対応している。前者は他者とともに共同体を維持してく側面であり、後者は共同体とは関係なく、他者に関わっていることを示している。
 ポイントは、単独者は独我でなく、かえって他者との関係によって成り立つ倫理的主体だということである。他者から呼びかけられたら、他の誰でもなく、この私に呼びかけられており、その他者に返事するかしないか選択を迫られることになり、そこに世界に一つしかない私という存在が意識されることになる。「私は私である」という判断は、他者からの呼びかけによって可能となるわけである。独我では、私は成り立たないのである。一方、「私は教師である」という判断は、私の判断ではなく、共同体の判断によって可能となる。
 このような絶対主語と述語の連結こそが人間存在の二重性を意味しており、実は社会生成の根本的条件をなしている。ちなみに、「私は教師である」という判断をしても、実際に教師としての役割を演じなければ社会共同体は生成しない。個人には演じることをしない選択の自由があるからである。これを自己選択性という。そして、他者の自己選択性は自己にとっての他者性として立ち現れる。
 問題は、この二つの側面が矛盾対立するものであるかどうかである。現代の社会学理論の構築に成功するかどうかは、この二つの側面をうまく取り入れることができるかどうかにかかっている。
 実は、パーソンズですら、規範主義パラダイムに準拠しながらも、ダブルコンテンジェンシーというかたちで他者の偶然性を取り入れている。ルーマンは、社会システムの要素を個人ではなくコミュニケーションにすることで、この問題を処理している。ゴフマンは、役割距離という概念で個人と役割の差異を描いた。
 現代社会学では、「私は教師である」という判断と役割遂行は、役割概念を適用する具体的な他者の判断や自己の選択にも委ねられており、コミュ二タリア二ズムが言うような自動的で強固に安定したものではない。政治学、法学、経済学の出身の学者がよくコミュ二タリア二ズムと社会学を同一視しているが、コミュ二タア二ズムと社会学を同一視するのは間違いである。社会学は、共同体を記述するだけではなく、他者の偶然性や自己選択性を含む人間存在の二重性も理論に組み入れようとしているのである。共同体のロボットとして人間を捉えているわけではない。
 ただし、単独者と単独者の関係を他者の偶然性や自己選択性というかたちではなく、倫理として捉え返し、共同体を越えた普遍的倫理として観察する社会学者はほとんどいない。中島氏が指摘するとおり、バウマンのみである。社会共同体の道徳は、その社会共同体の役割と地位の体系に付随する価値内容を観察すれば記述でき、その内容を明確化しやすい。一方、顔と顔の関係あるいは単独者と単独者の関係においては、どのような方法でその普遍的形式を記述したらいいのかわからず、明確な社会の倫理道徳として確立するのは困難かもしれない。しかし、何らかの普遍的な一定の形式構造があると考えるのなら、それを倫理として普遍化することで、内容をもつ人類の普遍の倫理道徳となると思われる。個と個の関係の論理的かつ普遍的構造は、ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界、ナンシーの無為の共同体など、形而上学的探求はなされているが、これを現実の社会構造を批判するために使用するのは見たことはない。
 しかし、私見では、それは可能であり、共同体の道徳内容が顔と顔の普遍的な関係性に反する場合、それを批判するというかたちで、「公共哲学としての社会学」が成り立つのではないかと思われる。これは私が究極的に目指す立場である。ただし、それは自然科学的方法とは全く異なる。
 ちなみに、この方法が確立すれば、倫理学や道徳学において、構造構成主義的発想はいらなくなる。社会学を悩ませてきた原理性相対主義はここに克服されるわけである。

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by merca | 2013-01-14 13:07 | 理論

盛山和夫著「社会学とは何か」書評

 一人の大物社会学者が真っ正面から社会学について論ずる一つの書物を書いた。それが、盛山和夫著「社会学とは何か」である。盛山氏には、「制度論の構造」という名著があるが、それを発展させたかたちになっている。以下、同著の批判的検証をしてみたい。

1、社会観念説
 盛山氏は、社会は実在するものではなく、人々が共有する理念的な意味世界であるという考え方から議論を組み立てている。社会に実体がないという発想は、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるという社会構築主義をはじめとして、意味システムとしてのルーマンの社会システム論や大澤真幸が唱える第三者の審級論にも見られる。ただし、森山氏が社会に実体がないという時、それは人々の心の中にある観念的存在ということを意味しており、社会構築主義のようにつくられた存在とか、システム論のように創発された存在とかという意味ではない。この点の区別は、正に要注意である。つくられた存在だから実体がないというのではなく、観念的存在だから観察可能な物理的実体がないということである。
 一方、システム論においては、社会は人々が共有する観念そのものではなく、行為やコミュニケーションとして観察可能なかたちで現象化・創発化し、実際に人々の認識に立ち現れる現象として社会を考えている。単に観念を保有している状態は何ら社会ではない。実際に、その観念に準拠して行為やコミュニケーションがなされないと、社会とは呼ばない。共有観念=社会ではない。共有ではなく、実演され、共演されないと、社会ではない。
 社会を曲に例えるのならば、盛山氏は楽譜がそのまま曲であると考える勘違いをおかしている。曲は演奏されてはじめて曲となり、それを聞くことで人々ははじめて曲を知るのである。別の例えを使うのなら、盛山氏は、建築物の設計図がそのまま建築物だと思い込んでいるようなものである。演奏されることで曲ははじめて曲となり、建築物はつくられることではじめて建築物となり、同じように社会も演じられることで、はじめて社会として生成するのである。人間社会が生成するためには、意味世界としての観念が必要であるが、社会イコール観念だと考えるのは間違いである。社会には実体がないが、かといって観察不可能な虚構存在ではなく、観察可能なかたちで立ち現れるものなのである。ただし、社会学理論という観察道具を使用した者(社会学者)のみが社会を正確かつ明快に観察できるわけであり、素人にははっきりと見えない。社会学がセカンドオーダーの観察であるとルーマンが喝破したごとくである。単なる統計調査ではなく、社会学理論という観察道具のほうが社会学にとっては、より根本的な観察道具であるということも付け加えておきたい。

2 社会学の方法 
 盛山氏が主張するように、社会が意味世界ならば、社会学の方法の本道は、数量的な統計調査ではなく、人々の内面的世界を理解する調査ということになる。というのは、もし社会が意味世界ならば、それは本質的に数量化できるものではないので、理解するものになるからである。人々の共有する観念をよりよく理解し、解釈することが社会学の本道となる。つまり、これは、端的にいうと、ウェーバーの理解社会学の方法である。
 しかし、となると、統計調査の役割は、せいぜい一つの観念がどれだけ多くの人に共有されているかという意義しかもたなくなってしまう。さらに、女性の方が男性よりも喫煙率が低いとか、高所得者のほうが低所得者よりもエンゲル係数は低いとかという類いの調査は、社会調査ではなくなってしまう。社会を調べることイコール人々の所有する共通観念だとしたら、そのような調査は社会についての調査ではなく、単なる経済調査にしかすぎなくなってしまうわけである。
 無論、私は、自然科学的方法では、社会の本質は捉えることはできないという点については、大賛成である。社会を記述するとは、必然的に社会創発のための種となる意味世界の理解なくしてはあり得ないからである。社会システムの要素であるコミュニケーションは、他者の意味世界=観念による了解なしには成り立たないのである。単なる統計調査で社会を記述したと勘違いしている学者が多いなか、社会を観察するには、観念の理解を伴うという点を重要視する盛山氏の視点は重要である。

3 規範的秩序の外存性・拘束性
 規範の特徴は、人々を外から拘束して一定の行動へとしむけることにある。しかし、盛山氏の議論では、規範的秩序の外存性・拘束性が十分に説明できていない。社会が人々の共有観念だとしても、その観念が規範として働く仕組みが説明されなければならない。規範として働くとは、規範が期待する内容に合致すると他者(みんな)から肯定され、それに外れると他者(みんな)から否定されるということである。要するに、賞罰があるということである。そして、規範があたかも人を動かし、規範自らに賞罰を人々に下す力が宿るように思えたときに、はじめて一つの観念は規範化される。その意味で、神の観念は、規範の最高形態である。人々は神の観念を共有することで、善行をなし、悪行をなさないのである。規範としての神は自己の外にあり、自己を拘束する者として人々に表象される。
 しかし、真実は、規範が外存性・拘束性をもつ原因は、規範自身にあるのではなく、他者の反応たるサンクションにあるのである。他者のサンクションこそが規範を構築・維持させるものなのであり、規範があるからサンクションがあるのではない。元来的に他者は自己の外にあり、外から制限を加えてくる存在であり、その他者を一般化した観念が規範であるからである。ちなみに、大澤真幸のいう、第三者の審級がこれにあたる。
 ところが、人々は、他者のサンクョンが原因で規範が結果であるのに、規範が原因で他者のサンクョンが結果であると、転倒して考えてしまうのである。この転倒的錯誤こそが物象化作用と呼ばれるものであり、規範を強固に規範たらしめる根源的仕組みである。
 規範の成立根拠がもともと多数の他者からのサンクョンだとすると、社会(規範)の外存性と拘束性は当然のことであり、社会が個人の外に存在するという意識は正常なのである。ミードの説に従えば、多数の他者からの反応をまとめあげて他者一般が内面化され、規範として機能するのである。他者一般を平たく言えば、「みんな」という観念である。この「みんな」という観念に準拠してコミュニケーションが創発されたときに、社会は生成する。お金を払えばみんな商品を受け取ることができるとか、人から物を盗んだらみんなから非難されるとか、全てのコミュニケーションは、メタコードとして(みんな/みんなでない)に準拠している。みんなという観念に対応する外的対象は、これまで体験した外部の他者の反応であり、完全に対象物をもたない虚構観念ではない。外存性と拘束性の源は、みんなという観念にあるのだが、盛山氏は説明が十分でない。
 ただし、役割存在として外的対象を認識するとき、その対象以上の内容が付与されて認識されるという盛山氏の指摘は貴重である。大人として認識された人は、実際に大人としての振る舞いに欠いていても、大人としての振る舞いを期待されることになる。このような仕組みは、廣松渉の認識論の四肢構造で解き明かされている。廣松渉の認識論の四肢構造においては、究極的にいかなる純粋な客観的事物も世界には存在しない。人は、生の認識対象物に対してそれ以上の意味を付与する。商品を店で買うときに、客は店員を単なる人ではなく、特定の役割を帯びた存在として認識する。商品について聞いたら、その値段を教える存在だと思う。この属性は、店員がつくったものではなく、社会的に生成されたものである。人は、事物を「として」というかたちで認識する。この役割認識をみんなが共有しているはずであると思い込むことで、コミュニケーションが生成される。しかし、自己の目的のために道具的な「として」というかたちで利用するのと区別をつけておく必要がある。あくまでも、みんなが了解しているということが規範として作用するのには重要なのである。役割を付与するのは自己ではなく、みんなであるということで、はじめて規範となるのである。このみんなという観念の対応物は、外部の他者の反応であり、対応物のない純粋な虚構的観念ではない。役割体系を規範として支えるのは、みんなである。他者一般という観念が人の頭のなかにしかないとうことで社会を理念的ものと断定してしまうのは早計であり、その外的対応物はきちんとあるのである。
 つまり、社会には固定的実体はないが、外に存在し、拘束してくるというのは、ある意味、正しいのである。デュルケームが社会は人々の頭のなかにあるといいつつも、社会的事実は外存性・拘束性をもつと言わざるを得なかったのは、当然である。他者一般は観念として人々の頭のなかに出来上がるが、それはもともと外部の他者からの反応からできあがったわけであるから当然なのである。ただし、社会そのものは人々の頭の中の観念だけではなく、それを人々が選択・利用してコミュニケーションとして観察可能なかたちにならないと、生成しないことを、重ねて釘を刺しておきたい。この点の誤解が社会学に大きな混乱をもたらしているのである。
 社会規範が外存性・拘束性をもつ根拠は「みんな」という観念であり、その観念に基づいてコミュニケーションが生成されることで、さらに規範は外に立ち現れ、拘束するものとして、人に観察され、人は規範を再内面化するのである。この循環過程は、バーガー著「社会的世界の意味構成」で明かされているのである。それは有名な「外化・客観化・内在化」という社会構築主義の公理である。

  参考
 機能主義が人々の主観的意味世界を離れて、外的視点から社会の機能を特定し、その機能を維持するために社会秩序があると記述する場合があるが、そのような視点が単なる学者の意味世界として相対化されないなら、一つの社会科学的立場を確立できると考えられる。
 社会成員を再生産する装置として結婚・教育があるといった場合、それは人々=当事者の意味世界とは関係なく、主張できる理論である。社会内当事者の意識や意味世界とは関係なく、社会というものが客観的実体として存在するという理屈である。このような客観的機能主義を完全に否定しない限り、盛山氏の社会観念説は成り立たないと思われる。また、機能主義が完全に否定されないのなら、社会統計が社会学の有効な手段となると思われる。社会統計を重視する社会学者太郎丸氏がその点に敏感だと思われる。その点の克服については、ギデンズの二重の解釈学を読まれたい。外的視点と当事者の内的視点の統合こそ、社会学の役目だとするギデンズの理論がある。合わせて、ハーバーマスの(生活世界/システム)という区別も参考にされたい。

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙 
 http://mercamun.exblog.jp/15407334/

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by merca | 2012-12-24 17:27 | 理論

選択肢の共有(偶然から必然が生ずるからくり。)

 個々の要素が自己選択性に基づいて偶然な動きをしているにもかからわらず、全体としては秩序が現れ必然の相をもって現象化することがある。
 例えば、1万2千人の人間がサイコロを振ったとする。個々人のサイコロが1から6のどの目を出すかは、全くの偶然である。にもかかわらず、全体としてはある一つの目が出た数は、限りなく2千に近い数となり、1から6の目のでる回数は均等分されてくる。偶然の総和がかえって秩序をもたらすのである。1万2千人の人がサイコロをふったら、ほぼ一つの目が出た回数は等しくなるという必然の秩序を生み出す。
 これと同じであり、社会においても、人々が自己選択性に基づいて好き勝手に行動しても、社会全体として必然の秩序を生み出すことになる。人々の自己選択に基づいた行為あるいはコミュニケーションが結果として、必然の秩序を生み出す仕組みを社会学は解明する役目がある。個々人の自由な消費行動が市場に秩序をもたらすと考えたアダムスミスの神の見えざる手も、これと同じ仕組みである。
 これまで、古典的な社会学では、共通の価値規範やそれに伴う賞罰によって、人々の行動に秩序が生ずると考えてきたが、そのような規範主義パラダイムに基づかなくても、社会秩序生成のメカニズムは説明しうる。ルーマンは、共通の価値規範を共有しなくても、二重の偶有性に基づく予期の総和によって秩序が生成されると考えていた。複雑性の縮減という考えにそのポイントがある。
 実は、社会秩序生成のからくりは、サイコロの例にヒントがある。サイコロの目は6つしかなく、無限に存在する他の自然数が出ることはない。例えば、7や10は出ないのである。つまり、このような限定された事象空間=選択肢を共有することで結果的に秩序をもたらしている。社会秩序もこれと同じである。人々があらかじめ範囲が限定された行為の選択肢を共有し、その範囲内で自己選択することで社会秩序は成り立つのである。例えば、ある商品を買う場合、誰でも100円で買える商品は限られているのである。このような限定された選択肢の共有こそが秩序をもたらすのである。無限の可能性と唯一の可能性の間に選択肢が存在することで、秩序は生成するのである。
 
 ルーマン社会学では、選択肢の範囲を限定することを複雑性の縮減という。簡単に言えば、人々は限られた同じ範囲から行為を選ぶということである。人々はサイコロを振らされているのと同じなのである。また、限られた選択肢から選択するので、自己の選択も他者は理解でき、コミュニケーションが接続していくのである。人々が自己選択における意味地平(選択肢の集合)を共有することで、秩序は可能となるのである。

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by merca | 2012-12-02 10:22 | 理論

善悪(利他/利己)の対称性の破れ

 一応、善を利他と定義し、利己を悪と定義して考えてみたい。時折、人間は、善=利他心と悪=利己心の駆け引きが心の中で起り、行為の選択を迫られる。所謂、良心の呵責である。そして、天使と悪魔のささやきのどちらに組するのか決めるのは、本人自身である。実は、この自己選択性こそが倫理的行為の大前提である。
 他者論的倫理学からすると、天使の声とは、端的に他者の声と言えよう。助けを求めている他者を自己の都合をよりも優先させたり身代わりになって助けるかどうかの決断を迫られるわけである。自己の都合を優先させると、悪をなしたことになり、自己を犠牲にして他者を助けたら善をなしたことになる。
 
 いずれにしろ、人間は性善説でも性悪説でもなく、悪と善を含みつつも超越し、選択できる立場にあるというわけである。もう少し言うと、悪の心を完全に排除した善行は、善悪に関する選択性を欠くことになり、倫理的行為とはならない。悪の誘惑を断ち切って善を選択したときにこそ、本当の意味での尊い善行=倫理的行為となる。
 人間は性善説でも性悪説でもないと言ったが、善が悪よりも少し勝っているのが人間的真実である。この対称性の破れを説明しよう。善と悪の心が人間にあり、もし勇気を持って善を選択したのなら、一時的な自己の利益は失うが、悔いは残らず、すっきりと人生を歩むことができる。しかし、もし悪を選択したら、一生自己の善の心によって罪悪感に苛まれることになるのである。悪を選択しても、最初から善の心がある以上、罪悪感が人を責め続けるのである。戦場で上官の命令でやりたくない殺人をやってしまった兵士は、一生罪悪感で苛まれるのである。それは、悪をなしても、もともと善の心があるからである。罪悪感と償いの感情は利他心の現れである。この意味で、選択性に基づく悪は、善悪の葛藤のない単純な善行よりも倫理的である。ある意味、選択性があれば、善悪ともに倫理的行為である。そこで、次のような価値序列を立ててみた。
 
 選択性を媒介とした善行が一番目に価値があり、選択性を媒介とした悪行は二番目に価値があり、選択性を介在としない善は三番目に価値があり、選択性を介在としない悪は一番価値がない、という道徳的価値序列をつけることができるのである。
 良心の呵責や罪悪感なしに人を殺す者は最低である。かたや、自己の所属する共同体からの制裁(悪の誘惑)があるにもかかわらず、あえて他者を助ける者こそ、最高善をなすものであり、この世で一番美しい倫理的行為なのである。罪悪感をもちつつも悪をなしてしまった凡人たちは、この最高善をなした者を敬い、信仰するのである。それが許しとなるのである。ニーチェはこのことに最後まで気づかなかった愚か者である。

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by merca | 2012-11-30 11:12 | 反ニーチェ