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複雑系科学は、社会を捉えきれない。

 創造システム論という形而上学を唱える社会学者がいる。社会学者井庭崇である。創造システム論は、西條氏の構造構成主義に匹敵するほどの独創的な和製の理論である。簡単に言えば、全ての存在は、創造システムとして観察することが可能であるという壮大な形而上学である。自然科学と社会科学の両方の対象も射程に入れている。この理論は、複雑系科学から必然的に導かれる一つの思想的帰結である。社会構成主義の帰結が構造構成主義であったように、複雑系科学の帰結は創造システム論なのである。
 しかし、創造システム論が準拠する複雑性と自己組織化という概念は、ある一つの社会原理を見落としている。以下、それを説明しよう。
 
 複数の存在(要素)が関係し合い、その関係性によって自然に一つの特性が発生することを自己組織化という。秩序は、誰かの意図や作為によって計画的に出来上がるのではなく、偶然に生じたものであるというところが、自己組織化理論の面白さである。そして、社会もそのような要素間の相互作用による偶然性の産物であるということになる。社会変動には、マルクス主義が想定したような必然の法則などなく、単に偶然の積み重ねによって社会は出来上がっている。出来上がった社会秩序(言語、規範、習慣、法律)は、何ら根拠もなく、人々の相互行為の偶然の賜物であるということになる。
 しかし、このような社会秩序の究極的非合理性・無根拠性に耐えうるのは困難であり、人々は社会秩序に対して納得のいく意味付けを与えようとする。例えば、神から与えられた掟であるとか、人権を守るためとか、科学的根拠があるとか、一定の社会的機能を有するためにあるとかである。偶然では耐えきれず、秩序の存在理由を追求するのが人間の人間たる所以である。実は、このような人間の意味付与作用こそが自己組織化の原理を無効化する社会的装置なのである。
 
 一つの社会秩序が人々に受容され、生き残るためには、意味が与えられなければならない。無意味なものは採用されず、滅び行く定めにある。社会秩序は、複数の意識システムによる第二次観察にさらされており、様々な区別に準拠して観察され、意味付与される。そして、一つの意味が多くの人々に共有されることで、逆に人々の行為を拘束することになり、社会秩序が再生産されることになる。これを物象化原理という。物象化によって無根拠性と偶然性は隠蔽され、社会秩序には存在理由=価値が宿ると人々は思うようになるわけである。同一のコミュニケーションが再生産される仕組みは、物象化理論にある。かくして、社会秩序の本当の成立過程である複雑性による自己組織化は隠蔽され、別の物語が付与され、書き換えられるのである。そして、一度、社会秩序が機能しだすと、自己組織化という誕生過程は隠蔽され、書き換えられた新たな物語が実演され、社会的リアリティを獲得し、社会内真実となるのである。自己組織化による誕生秘話は雑音として外部に追いやられるのである。
 
 創造システムがいくら創造物をつくったとしても、その生成過程は隠蔽され、書き換えられ、人々が賛同する別の物語にすり替えられるのである。例えば、人類の誕生は無根拠な偶然であるのが真実だとしても、神による創造神話や科学的物語である進化論によって、書き換えられ、社会に流布するのである。人類の誕生は、全くデタラメの偶然から自然発生したという複雑系科学による真実は人々には堪え難いのである。宗教に準拠して神の子として作られたとか、進化論科学に準拠して進化の頂点として人類は誕生したとか、様々な物語を付与するのである。ちなみに、この意味において、創造論と進化論は機能的等価であると言えよう。
 
 いずれにしろ、仮に社会秩序生成がカオスからの自己組織化によるものだとしても、それは最初だけの話であり、成立後においては、社会システムは物象化原理によって維持されているのであり、自己組織化がなくても回るのである。もっと正確にいうならば、社会秩序は物象化のために必要な意味を付与されるまでは社会秩序として機能しないのである。

  参考エントリー
  「物象化現象の記述」
  http://mercamun.exblog.jp/7502792/
  「言語の恣意性と物象化現象」
  http://mercamun.exblog.jp/10421161/

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by merca | 2012-08-05 10:54 | 理論

反ホッブス命題・裏社会学への誘い

 社会学者パーソンズをはじめとする多くの理論社会学者たちは、「社会秩序はいかにして可能か?」という命題によって動機付けられ、社会理論を構築してきた。一般に「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、ホッブス命題と呼ばれている。
 社会秩序が存在するということは、人々の行動が一定の規則に従い、一定の範囲内で他者の行動が予測可能であり、社会が全体として秩序だったものとなっているということである。例えば、人々が使用する言葉は文法という規則に従うことで、伝達可能となっている。大凡、社会があることろには規則があり、規則に伴う秩序なしには社会は成り立たない。近代社会であろうと、前近代社会であろうと、これは普遍的な事実である。従って、社会を認識するとは、社会に存在する規則としての社会秩序を認識することに他ならないわけである。社会秩序を記述したものが社会理論の原型となる。これが典型的な表社会学の発想である。

 「社会秩序はいかにして可能か?」という命題は、現実の社会は規則による秩序があるものであり、それは自然なことではなく摩訶不思議な現象であり、秩序を維持するからくりが人為的に存在するという前提に基づいている。つまり、人々の集まりや諸関係は、自然状態としての無秩序=カオスが本来の姿であり、秩序があること自体が不自然なことであるという発想である。無秩序たるカオスから秩序たるノモスへの移行に社会の成立過程をみようとする立場なのである。
 
 ところが、もともと自然科学が対象とする物理世界では、森羅万象が因果法則に貫かれており、無秩序状態こそあり得ない。自然こそが必然の法則=絶対秩序の世界であり、ホッブスが想定するような自然状態こそが人為の産物である。だから、むしろ我々はこう問うべきである。「無秩序はいかにして可能か?」かと。本来自然界は秩序があるのに、なぜ人間だけが無秩序をつくりだすことが可能なのかということである。
 実は、無秩序とは、言い換えれば、偶然性や自由と言い換えることができる。そして、無秩序という観念は、個人の自由の意識の誕生と並行しているのである。万人の万人による闘争である自然状態は、個人が自由に振る舞うことができるという観念を前提としている。個人が本能や習慣や伝統に従い、規則正しく行動しているとすると、万人の万人による闘争などあり得ない。無秩序という観念は、伝統社会から近代社会への移行に伴い、人々に自由の意識が芽生えたことに起因しているわけである。 
 もっというのなら、近代社会が無秩序をつくりだしたのである。自由に基づく偶然性と無秩序を可能とする社会的からくりを解明することも、社会学の役目である。「社会秩序はいかにして可能か?」という命題を追求するのが表社会学だとすると、「無秩序はいかにして可能か?」を追求するのが裏社会学である。
 
 多くの社会学者は、表社会学の立場に立っており、ルーマンですら、その例外ではない。ルーマンは無限なる複雑性として世界そのものを捉えており、原初的状態としてカオスを前提にしている点において、ホッブス命題から思考している。反ホッブス命題である「無秩序(自由)はいかにして可能か?」から出発した社会学者にお目にかかったことがない。自然科学の対象である物理世界や動物世界は必然の規則で貫かれているのに、人間の近代社会のみに、自由に基づく偶然や無秩序がありうることこそが、社会の不思議、玄妙なのである。
 
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by merca | 2012-06-23 19:36 | 理論

社会学の科学力

 社会学は役が立たない学問であるとよく言われている。その科学性が未熟である故に、実学になり得ないというのである。この考え方に少し待ったをかけておきたい。というのは、科学の公準の一つである予測性という意味においては、かなりの精度をもつ理論があるからである。
 社会学について、予測性を語るのなら、大凡、四つの次元に分けることができる。

   1 行動(コミュニケーション)の予測性
   2 社会構造の変動の予測性
   3 価値意識の変動の予測性
   4 社会階層におけるライフコースの予測性

 行動の予測性はコミュニケーション・システムに対応し、社会構造の変動は社会システムに対応し、価値意識の変動は意識システムに対応し、ライフコースの予測は社会階層システムに対応している。簡単に言うと、人がどのように動くか当てることができ、社会がどうなるか当てることができ、人々がどう考えていくようになるのか当てることができ、人がどのような人生を歩むのか当てることができるということである。

1 社会学における行動の予測性について
 社会学は、様々な社会理論を使うことで、人の未来の行動を当てることができる。
 ある人間がコンビニに行き、商品をレジにおき、店員にお金を渡したとする。社会学からは、店員の次の行動は予測ができる。店員はその人を客として認識し商品を渡すことになる。また、警察官が赤信号なのに通過している原付バイクを運転している若者を見つけたとする。社会学からは、警察官が原付バイクを運転している若者を捕まえにいくことは予測できる。
 前者の売買行為については、合理的選択理論や権力の予期理論によって説明ができる。もし店員が代金を支払った客に商品を渡さないのなら、店員は客から訴えられ店長から怒られ解雇される可能性があるので、商品を渡すという行動にでるわけである。商品を渡さずにお金だけもらうという行動は選択せずに、商品を渡すのである。後者の警察の取締行動については、パーソンズの役割理論から簡単に説明がつくことになる。違法行為を取り締まることが警察官の役割内容だからである。

 一般に誰がどんな社会状況で誰に対してどんな行動したかを代入することで、その行動に対する反応行動を予測することができる。しかし、よくよく考えると、基本的に人々の自己選択・自由意思という偶然性からコミュニケーションが創発されているにもかかわらず、このような必然性が生み出されていること自体が一つの妙なのである。そこで、社会の必然性そのものも、つくられたものであるという観点を社会学はとる。社会の偶然性から社会の必然性をつくりだす装置のことを、物象化という。物象化は、貨幣、真理、権力、愛などの一般化されたコミュニケーションメディアというかたちで作用する。

 秩序が乱れている不安定な社会では、売買行為も警察の行為も、より不確定となり、必然性の度合いが低くなり、人々の行動予測が困難となるが、秩序が安定化した社会では、必然性の度合いが高くなり、人々の行動予測が可能となる。ルーマン社会学では、偶然性を低くすることを複雑性の縮減という。
 要するに、社会の安定性によって、予測性は変わってくるわけであり、社会学の予測能力という科学力も、各国民社会の状態ごとによって異なり、相対的なものなのである。自然科学の絶対的な予測能力とは異なる訳である。ただし、物象化装置そのものの作動の度合いは社会学のみが分析しうるのであり、国民社会ごとの社会診断は可能である。一般に、より近代化した社会すなわち機能分化した社会ほど、社会の必然性は高まるのである。
 もし日本社会でいうのなら、どこの地域のコンビ二においても、お金を支払えば、商品を渡すという行動が予測できるのである。金を支払う=原因が商品を渡す=結果は、必然であり、誰でも予測できるのである。社会学者のみならず、一般市民も他者の行為を予期することができ、社会は回っているのである。しかし、このような社会法則は単に維持されているにしかすぎないことを忘れないのが、社会学者が専門家である所以である。
 ちなみに、ジョンレノンがイマジンで、国家も人々の思い込みで維持されているにすぎないと喝破したのは驚くべきことである。イマジンは、再帰的近代化意識による社会学的啓蒙の一つである。

2 社会構造の変動の予測性
 社会構造とは、社会階層、国家、市場、組織体、家族、地域共同体などの一定の関係を指し、その関係の変化を予測できるかどうかが、社会学の科学力が問われるところである。社会変動論の中核は、近代化論である。近代化しつつある社会は、近代社会特有の構造をもつことになる。例えば、近代化が進めば、家族形態は、三世代家族から核家族になり、家族は生産ではなく、消費の単位となる。このような構造上の変化は、マクロ社会学的に予測可能である。社会学の近代化理論からすると、近代化しつつあるアジア社会の変化は予測できる。マルクス主義の社会変動論よりも、社会学の社会変動論のほうが、明らかに科学的なのである。

3 価値意識の変動の予測性
 人々の価値意識がどのように変化していくのか予測するのも社会学の役目である。基本的には、これも近代化理論によって予測可能である。自由や人権感覚の価値意識、男女平等の価値意識、民主主義を肯定する価値意識、個人主義などの価値意識が人々に内面化していくのである。近代化しつつあるアジア社会の価値意識の変化はこのように予測できる。

4 社会階層におけるライフコースの予測性
 ある特定の社会階層に生まれた者やある特定の学歴を取得した者が、どのような社会的地位につくのか予測できる。これは、ブルデューのハビトゥス論、文化的再生産論によって予測可能である。例えば、日本社会では、建築作業員のヤンキーの子は、学校で勉強ができなければ、ヤンキーになり、やはり建築作業員等のブルーワーカーになる。このような文化的再生産は頻繁に起っている。小学校の先生が家庭環境と本人の生育歴から類推してヤンキーの子がヤンキーになることを当てることができるのはそのためである。親の社会階層と家庭環境、それに能力と学力を掛け合わせると、大凡、その人が背負っている社会的宿命を予測でき、職業選択を含めたライフコースを予測できるのである。

まとめ
 臨床社会学の分野では、おそらくもっとも行動予測力が高く一般化できる実学は、やはりパーソンズの行為の準拠枠か宮台氏の権力の予期理論である。心理学理論よりも人の行動を予測できる科学力があると考えられる。宮台の権力の予期理論は、正確な個々の変数を代入することで、個人の行動を予測することができるのみならず、社会生成のメカニズムを同時に解明しているところに素晴らしさがある。宮台氏の権力の予期理論は、社会学における相対性理論と言っても過言ではない。

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by merca | 2012-03-04 11:18 | 理論

後発的近代化論と世界社会論による愚民社会論(宮台・大塚対談)批判

 宮台真司と大塚英志の対談をまとめた「愚民社会」という書物が社会に出ている。愚民社会といういかにも民衆をバカにしたタイトルのように思えるが、実際のところ、内容もそのとおりである。
 まず、宮台氏と大塚氏は、近代化をすべきだという点において、共通の目標をもっている。端的にいうと、日本社会は近代化に失敗しており、日本人は愚民のままであるという。愚民とは「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」という三つの特徴をもつという。さらに皮肉を込めて愚民ではなく、二人とも土人という用語を使用している。宮台氏は、この三つに対して、「引き受けて考える社会」「知識を尊重する社会」「善いことをすると儲かる社会」を提案し、近代化を完成させる社会的処方箋と考えている。特に、個人ではなく、地域自治体を主体とした自立的共同体にその可能性を期待している。
 大塚英志に至っては、阪神大震災と東日本大震災の両方の被災者に対して、行政を頼りにする点において、愚民だと思っているようである。例えば、原子力発電所の津波による被害の可能性などは、震災前から共産党の赤旗などで流されていたわけであり、情報を収集をしなかった方が悪いという論調である。
 
 さて、果たして、このような近代化の失敗が全ての諸悪の根源であるという仮説は今更成り立つであろうか?そもそも近代化が失敗したと言えるのだろうか? またこれまで、宮台氏は、現代日本社会を成熟社会つまり後期近代社会として論じてきたが、日本社会がそもそも近代化した社会ではないのなら、宮台氏の成熟社会論は破綻することになる。
 
 結論からいうと、社会学の権威である富永健一の近代化論などの正統派社会学の立場からすると、現代日本社会は、近代化した社会であり、後期近代社会=成熟社会である。ただし、西洋諸国と異なり、後発的近代化というかたちで近代化が進んできた。社会学者富永健一によれば、欧米社会の近代化が、社会的近代化と文化的近代化から始まり、政治的近代化を経て経済的近代化へと進展したのと反対に、日本社会を含むアジア社会の近代化は、経済的近代化から始まり、政治的近代化を経て、社会的近代化と文化的近代化が進んだという。このことは、欧米社会と日本社会の歴史を少しでも紐といてみれば明らかである。西洋社会では対人関係のスタイルや思想などの分野から近代化から始まるわけであるが、日本や中国などの後発近代化社会では経済や政治という社会の構造(システム)から始まり、対人関係のスタイルや思想が近代化されるという順番となる。
 
 この分析からわかるように、日本社会では、宮台氏が指摘する「任せて文句を垂れる作法」「空気に縛られる作法」「行政に従って褒美をもらう」などという人々の心の習慣は最終段階で近代化されることになる。なので、社会変動論的には、後発的近代化社会においては、これは当たり前の現象なのであり、意識面における近代化の遅れの原因を日本人の文化的特性に帰属させるのは社会科学的には誤りである。
 宮台氏と大塚氏がこのような誤謬に陥るのは、西洋社会の近代化モデルにとらわれているからである。近代化には多様なかたちがあると認める後発的近代化論の立場からは、近代化を西洋モデルだけで判定しようとする両氏の愚民社会論は成り立たない。愚民社会論を唱える両氏は(西洋/非西洋)という区別に準拠し、西洋をマークし、その観点から日本社会を観察しているにすぎない。

 さらにいうと、もう一つの盲点がある。それは、小林よしのりと同様に、両者の議論が国民社会だけに準拠した議論になっている点である。両者の議論の対象はあくまでも、日本社会に限定されており、従って頻繁に天皇制や自治的共同体とか、あるいは三島由紀夫や柳田民俗学などの国民社会レベルの事柄が論じられている。しかし、近代化が進み、後期近代社会になると、コミュニケーションは世界規模になる。全体社会は国民社会ではなく、世界社会となる。震災時に世界からの援助やメッセージがあったのは無視できない事実である。また、一つの国民社会が滅亡しようとしても、多数の他国が必ず介入し、人々を支援したりする。
 意識しようがしまいが、今や世界の人々は国際社会=世界社会に支えられて生きている。経済(市場)、政治、法律、宗教、科学、スポーツ、恋愛など、一つの国民社会を越えて、コミュニケーションが創発されている。我々は国家が統治する国民社会の中に生きている前に、世界社会の中にいるのである。ルーマンやボルツが全体社会がもはや国民社会ではなく、世界社会であると喝破したごとくである。ポストモダン社会は世界社会が範囲となるのであり、国民社会ではない。ここでも、両者は(国民社会/世界社会)という区別に準拠し、国民社会維持という観点から愚民社会論を唱えているのである。

 このように愚民社会論が準拠する区別を相対化し、世界社会という別の観察地点から観察すると、全く日本人は愚民ではないことがわかるであろう。震災においては、世界から日本人の行動は賞賛されているのである。

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by merca | 2012-02-12 11:41 | 社会分析

ブルデュー「科学の科学」は、科学の民主化批判か?

 現代社会学の巨人であるブルデューが、科学の本質に対する深い分析を加えている。大学での科学をテーマにした講義をまとめて出版された「科学の科学」がそれである。これは、基本的に科学社会学の書である。
 STSの中心的存在である科学社会学者平川秀幸らが主張する専門性の民主化(「科学の民主化」を意味する)という流れとは全く逆の科学観に準拠していることがもっとも興味深い。ブルデューの科学観によれば、科学的知識とは、一定の資格をもつことで科学界に所属することを許された=科学者たちや科学者集団が作り出す権威付けられた専門的知識である。
 つまり、ブルデューによれば、科学的知識とは、科学者個人が単に研究対象との関係から得るのものではなく、科学界において他の科学者との競争・協力関係から構築されるものであり、集合的産物であるということである。
 自然科学の場合、数学、統計学、語学などの素養があり、特定の分野の専攻学歴があるという参入資格を得たメンバーたちによって、科学界が形成されており、観測と実験で得られた研究の成果は、科学界の他の科学者たちに検証、討議された後、合意を得て、はじめて対象と認識が一致した知識と公認され、科学的知識ができあがる。この社会的手続きなしには、客観的な科学的知識だとは言えない。そして、重要なのは、観測と実験の方法については科学界における特定の規則があり、その規則に従っていることが求められる。単純に実験における対象の反応結果が審判を下すのではなく、実験で得られた知識は、他の科学者による検証・討議による合意を得ないと駄目なのである。
 科学的知識とは、実験と観測で得られ、かつ科学界で検証・討議され合意を得た知識なのである。ブルデューは言っていないが、私見から言うと、それプラス国家=官僚が認めたことで、人々は科学的知識として安心して受容することになる。
 このような科学的知識の社会的構築過程を考えると、科学的リテラシーとか科学の民主化などは、ほとんど期待できない。まずは、数学の素養がないと科学的議論には参加できない。数学ができない文系人間は、科学的討論の外におかれることになる。非専門家が討議できるのは、科学的知識の社会における有用性くらいになる。

 視点は変わるが、先述のようにブルデューは、科学的知識が社会的に構築されたものであるという考えをとるものの、科学的知識の内容には社会的要因が入り込む余地がないと考える。ここが最大のポイントである。
 実は、対象と認識の一致=物理的リアリティを保証する装置として、科学界は機能していると言っているのである。科学社会学の祖であるマートンは、科学者集団によって科学的知識はつくられると言って入るが、その内容の真理性は括弧に入れており、不問にする。これは、ちょうど、宗教社会学者が研究対象である特定の宗教の教義内容の真理性や道徳的価値を問わないのと同じである。ちなみに、内容に対する真偽や善悪を問わないこの姿勢こそが社会学者に共通する価値中立の態度である。
 科学社会学の中には、エジンバラ学派のデヴィット・ブルアのように、科学的知識の内容が社会の影響を受けると考える流れもある。これは、科学的知識を相対化する極端な相対主義の立場をとることになる。ニセ科学批判者が一番嫌がるタイプの科学社会学である。科学的知識は社会によって異なるというテーゼは、科学の普遍性を卑しめることになる。このような相対主義ともブルデューは一線を画する。
 社会的条件が科学的知識の構築に影響を与えることにブルデューは、一面では否定しており、別の面では肯定しているようである。まず、ブルデューは、社会的条件が科学的知識の内容に影響を与えることはないと確信する。その理由は、科学界が存在するからである。科学界が専門的に定めた実験と観測の規則に従って得られた研究成果を携える各の学者たちが、一つの真理のポストを巡って討議し争うことで、社会に左右されない正しい知識が確定できると考えている。一つの知識は、実験と討議という二重の審判にかけられて真偽が決定されるわけである。
 このような社会的過程が、むしろ社会的条件が知識に影響を与えることを排除して、社会とは無縁な正しい物質に関する知識を得ることを可能にするというわけである。言い換えれば、科学界は、科学的知識における社会的影響排除機能があるのである。
 そして、科学界の機能が科学を進歩させてきたのである。しかし、この機能は、科学界が参入者の資格制限など閉鎖性をもつことで、担保されることは言うまでもない。
 ブルデューは、科学界の機能のおかけで、社会構築主義者の極端な知識相対主義と、物理的な真理の構築には他者の意見は必要ないとする素朴実在論という二つの極端な立場の対立を止揚することができると考えている。
 科学的知識は、社会(間主観的関係=科学界の検証・討議・合意)を必要とするが、そのことでかえって物理的リアリティを担保できるというわけである。個人ではなく、社会が物理的にも正しい科学的真理をつくりだすということである。つまり、社会を離れた科学的知識は存在しないものの、その内容それ自体は物理的に正しいのである。一番重要な点なので、何度ども強調するが、近代科学においては、知識獲得方法及び真理認定過程は社会的(共同主観的)であるが、知識内容それ自体は社会に左右されない真理として定立されるのである。

 ブルデューの議論からすると、平川氏のように、科学は誰のものかと叫び、科学的専門性の民主化を啓発し、万人に科学を解放すると、科学的知識の内容それ自体に社会の影響を持ち込むことになり、科学的知識の真理性を脅かすことになる。その意味で、平川氏のプランには、慎重さが必要である。
 科学の民主化・大衆化の事例としては、やはりニセ科学批判があげられる。ニセ科学批判は、素人による科学的知識の真偽の判定を伴っており、実験や観測もせず科学界の合意も得ていない自分の意見を述べて、言わばニセ科学コミュニケーションをしている。ニセ科学批判の祖である菊池氏も、専門外である医学まで口出ししている。
 科学的討論においては、その資格がある者のみが参加可能であり、科学界内部における限定された民主主義であることを弁えるべきである。 閉鎖性・自律性をもつ科学界への信頼を寄せるブルデューの議論からは、科学の民主化・大衆化は科学そのものを否定することになるのである。
 ブルデューの科学観については、ルーマンの「社会の科学」を読むことによって、さらに検討していくことにしたい。

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by merca | 2011-12-25 11:32 | ニセ科学批判批判

「居場所の社会学」書評 「自分探し」から「居場所探し」へ

 阿部真大という社会学者がいる。「居場所の社会学」という若者論を書いている。興味のある点は、居場所の社会学が独自の幸福観に準拠していることである。それは、居場所のない人間は生き辛さを感じ、不幸であり、居場所のある人間は幸福であるという思想である。この幸福観は、人間科学的に何ら実証的根拠をもつものではないが、阿部真大氏の個人の社会体験に根付いた貴重な思想なのである。
 阿部氏は、居場所がある人間は幸福であるという思想に基づき、家庭、職場、学校、地域社会、サークル、仲間集団、恋愛など、あらゆる社会的領域を人々の居場所にすることで、社会全体がよくなると考えている。
 ただし、各社会集団が人々の居場所となっても、それがイコール各社会集団の社会的機能遂行に直結するとは限らない。この点は、保留しておきたい。
 
 これまでの社会学の分析概念から居場所という概念に近い概念を考えてみたい。社会学者ハーバーマスが準拠する(システム/生活世界)という区別のうち、居場所というのは、生活世界に対応する。また、社会学者テンニースが準拠する(ゲゼルシャフト/ゲマインシャフト)という区別のうち、居場所というのは、ゲマインシャフトに対応する。要するに、居場所は、肯定的である人格的、情緒的な人間関係が存在する場所ということになる。
 阿部氏は、居場所は個々の主観が居場所と感じる場所ということで客観的定義をすり抜けようとするが、それでは社会科学的には何も定義したことにならないのであり、私なりに定義すとる次のようになる。

 居場所とは、ある人間にとって、肯定的である人格的、情緒的なかかわりを提供する人間関係や集団である。

 阿部氏は、高齢フリーターなどの職場に生き辛さを感じる人たちに「ひとりの居場所」という処方箋を提示しているが、これは人と無関係な場所というわけではなく、周囲が本人に関わらない配慮をするという形態の対人関係であり、完全な独我状態ではない。バスや電車の中で、全くの他人に話しかけないように人々が配慮するのと同じである。互いに話しかけないという無関心という名の配慮で、バスや電車の中は心地よい瞬間的な居場所になるのである。

 社会に存在するあらゆる集団や対人関係には、その社会的役割とは別に、自然に生々しい人間関係が発生し、好き嫌い、包摂・排除が起る。人間が役割存在としてだけ生きていない証拠である。学校や職場において、インフォーマルな仲間集団が形成され、そこで承認されなければ、生き辛さを感じ、結果的に挫折・離脱することになる。
 国家が不登校児童対策や就労支援対策としてどんな制度システムを構築しても、個々人の居場所にならなければ、定着性がなく、うまくいかない。ミクロ社会学の知見が必要となる。あるいは、社会学者・内藤朝雄氏の中間集団全体主義論の観点が必要である。

 社会的包摂とは、単にホームレスやニート等を職に就かせることだけではない。彼らにとってその職場が居場所にならなければすぐに辞めてしまい、包摂の意味がなくなる。社会的包摂の真の意味は、排除された人たちに居場所を与えることである。

 全ての人がどこかに居場所を見つけることができるような社会こそが阿部氏の理想とする社会であろう。阿部氏が社会のどこにも居場所を見つけることができず、生き辛さを感じていた青春時代を送っていたことが類推される。
 
 社会学では、意識調査などの統計調査よりも、このような学者個人の主観的な体験が実は一番客観的であったりする。それは、はなから社会という化物がストレートに阿部氏の主観に宿っているからである。主観的であればあるほど客観的になるのである。最高の玄妙なる立場から言うと、客観=社会と主観=個人の区別がなくなるところに、社会における真理は開ける。大型の理論社会学はその類いの真理である。
 
 若者の意識が「自分探し」から「居場所探し」へシフトしていることを察知した阿部氏の社会学的洞察眼は高く評価したい。そして、今後、阿部氏の居場所思想が若者の生き辛さ論と相まって居場所探しブームを引き起こすことを期待したい。

  参考 
 阿部氏は、宗教について語っていない。宗教が全ての社会的領域から排除された者の受皿=居場所として機能することを見落としている。社会の中に居場所を見いださせない者は、世界の中に居場所を見いだすのである。神仏から無条件で肯定される宗教の世界は、社会の不十分性を補完するのである。以下が参考記事である。
 コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能
 http://mercamun.exblog.jp/14456650/

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by merca | 2011-10-30 18:46 | 社会分析

俗流若者論としての「絶望の国の幸福な若者たち」書評

 社会学者古市憲寿が「絶望の国の幸福な若者たち」という若者論を出版した。早速、自費で購入して読んだ。古市自身も20代の若者であるので、これは若者による若者論である。近年、後藤和智が、オヤジ世代による科学的根拠のない若者論を批判し、俗流若者論批判というジャンルを確立したのはよく知られているところである。俗流若者論批判は、ニセ科学批判と並ぶ思想上の発明品である。
 実は、古市氏による若者論も、俗流若者論として観察できる。俗流若者論は、中高年によるものだけではなく、若者によるものも含むのである。
 
 まず、「絶望の国の幸福な若者たち」で言わんとすることは、全体社会たる国民社会の行末がどうであれ、若者たちがコンサマトリー化しており、終わりなき日常である等身大の日常生活空間で承認を得ることで満足しているということである。従って、小林よしのりが国家存亡の危機感を煽ろうが、経済評論家が国家の経済破綻を叫ぼうが、将来大震災が起ろうが、全く今の日常を生きる若者にとっては、全て未来のことであり、若者の幸福感に何ら関係のないことになるのである。
 要するに、古市氏は、(生産/消費)(意味/強度)(将来のために今を耐え忍ぶ/今が楽しければいい)という区別に基づいて観察している。これは、宮台氏の「まったり革命」と全く同じ観察点=区別に準拠した若者論であるということである。
 
 中高年世代である宮台氏の観察点を採用しているのであり、とても若者による若者論とは思えない。社会学を勉強することで自ずと、宮台氏の区別に準拠し、それを採用してしまっているのである。後藤和智は、俗流若者論として宮台氏の成熟社会論を厳しく批判するが、同じ区別に準拠している以上、古市氏の若者論も俗流若者論となってしまうだろう。若者の視点ではなく、宮台氏という前世代の中高年の視点から若者を観察しているのである。
 たとえ、生産ではなく消費、意味ではなく強度、将来のために耐え忍ぶではなく今が楽しければいいという適応形式を肯定するにしても、この区別に準拠するかぎり、古い世代のものの見方だと言わざるを得ない。
 
 さて、これらの区別ではもはや社会や若者は捉えきれない。意味や目的にとらわれず、終わりなき日常をまったりと生きることが成熟社会に適合的な生き方であると主張した「まったり革命」なるものが挫折したことはあまりにも有名である。社会の過剰流動性の中で、まったり革命の希望の星であったコギャルたちがリストカットやメンタル系に走り、決して自身の承認不足感を埋めることができなかった現実が見落とされている。近代社会の人間は、今が楽しければそれでいいという生き方だけでは、破綻するのである。幸福な生を営むには、最低限の自身を保証する安定的なものが必要なのである。
 
 また、同著においては、若者の震災ボランティアについて、若者の自分探しや自己承認という解釈をしており、これも一つの俗流若者論である。所詮、若者のボランティアは自分探しや自己承認の域をでない利己的なものであるという俗説に基づいている。若者による義援金や献血が自分探しや自己承認と関係あるのだろうかと思う。義援金や献血に自分探しや自己承認の機能があるとは到底思われない。
 震災ボランティアの本質は、若者であれ、中高年であれ、単純に、困っている人を見て助けたいという倫理性であって、それを自分探しだの、承認のためだとかいうのは、事実ではなく、外的視点による解釈にしかすぎない。ある種のボランティアに自分探し機能や自己承認機能があることは結果であって、その動機ではない。震災ボランティアは、被災した人や街の姿や声があって、それを見て何とかしたいという感情が出発点である。他者の姿が最初にあり、自分は勘定の外にあるものである。古市氏が、自分探し・自己承認のためのボランティア活動というありがちな俗説に取り込まれたのは惜しいと言わざるを得ない。承認の共同体という一種の偏った視点から若者の行動を観察したために、他者性倫理というボランティアの本質を見誤ってしまっているのである。そして、ありがちな俗流若者論になっているのである。
 
 現代の若者の生き辛さを唱える論客も多くいる中、古市氏は若者は幸福だと信じている。「現代の若者が幸福である」という仮説については、内閣府の「国民生活に対する世論調査」という単純な統計を根拠にしているようであるが、幸福ほど推し量るのに難しい概念はない。
 拝金主義者は金があれば幸福だと答えるし、恋愛主義者は交際相手がいれば幸福だと答えるし、健康第一主義者は健康であれば、幸福だと答えるであろう。幸福感ほど相対的なものはない。社会科学的に若者論を語るのなら、若者の多くを占める幸福感の変遷を調査すべきであろう。例えば、社会が不況になっても、若者に家族主義者が多くいれば、家族で一緒に暮らせることで、幸福に感じるのである。若者が何に幸福を求めているかの実証的な調査が必要である。古市氏には、承認こそが若者の幸福を保証するものであるという信仰が認められる。全共闘時代には、承認ではなく、思想を求めた若者が多かった。これも時代とともに変わるのである。
 また、これは致命的であるが、社会情勢と個人の幸福に相関関係があるという信仰を前提にしてしまっている。個人の幸福は、社会が決めるのではなく、基本的には個人の個別的条件で個人が個別的に感じるものである。社会がよくなることが個人の幸福をもたらし、社会が悪くなることが個人の不幸をもたらすというのは、社会学者がもつ信仰=方法論的全体主義にしかすぎない。人の幸福・不幸は社会がつくるものであるという暗黙の前提に基づいているが、この前提を抜き取れば、全体社会が悪くなっても、個人の幸福とは関係なく、絶望の社会においても、個々の若者が幸福感を感じていても不思議ではないのである。絶望の国の若者が幸福だということへの驚きは驚きでも何でもなく、実のところ社会学を勉強したためにもった社会学信仰のフィルター(社会が人をつくる)に原因がある。

 俗流若者論批判者の後藤和智が、社会学者古市憲寿の「絶望の国の幸福な若者たち」にどのような評価を下すか非常に興味があるのである。これは私のみならず、多くのネット論客の注目するところであると思う。
 仮に「絶望の国の幸福な若者たち」の主張が事実でなかったとしても、同著に共感する若者が多く現れ、その生き方が若者たちにコミュニケートされ、規範化されていくようならば、もはや俗流若者論ではなく、社会思想として社会的リアリティを獲得するであろう。社会科学は社会思想として多くの人々に観察され採用された時にはじめてその社会的機能を全うするのである。私は、「絶望の国の幸福な若者たち」を俗流若者論として観察することで、それを防止する試みをしてみた次第である。

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by merca | 2011-09-18 22:50

世界とは何か?

 世界あるいは宇宙は、一つの全体性=同一性ではない。そのような全体性や同一性を越えたところに世界はある。もしかりに世界が一つの同一性であるのなら、その同一性を根拠付ける外部が必要となり、世界に外があることになる。世界の外があると、世界は世界足り得なくなる。世界とは、一切であり、その外に出ることができないから世界なのである。世界は、内外の区別を越える真無限である。
 また、世界は場所であり、実体ではないので、本来、主語化できないものである。世界は主語化された途端に、一つの実体となり、世界足り得なくなるのである。つまり、「世界はこれこれだ」と述定した途端に、世界に同一性が付与され、世界は世界でなくなってしまい、世界は捉えられなくなってしまう。つまり、原理的に、世界は決して認識することはできないのである。認識できはしないが、それがあることを私たちは知っているのである。このような世界に対する知は、科学的知識の外にある。科学が宇宙がこれこれだと分析した途端に、宇宙は宇宙でなくなるのである。宇宙は認識作用ではなく、別の仕方で感じ取るものなのである。認識作用ではない知を人々は忘れており、科学のような認識作用のみが知である勘違いしているのである。

 しかし、強いて言うと、世界とは、一切と一切の関係であり、万物はその関係項である。ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界が世界論を正確に捉えている。またルーマンは、世界を無限なる複雑性として捉えた。このような哲学者たちの知は、科学のような認識作用による知ではなく、生得的な直観知によって得ているのである。
 世界論では、世界は、それぞれの万物の唯一性によって成り立っていることになる。それぞれの万物に区別がないのなら、世界は同一化してしまい、世界は世界足り得なくなる。無数の万物が世界の無限性をもたらすのである。
 
 星空を眺めたときに、我々は一つの全体性ではなく、無限性として世界・宇宙を感じる。その無限性は、無数のそれぞれの星が輝いていることからくる。星が一つもない暗闇という同一性に世界を感じるのではなく、無数の星の存在があることに世界の無限を感じるのである。世界という感覚は、そのように感受される。それが生得的な直観知である。
 
 社会も一つの世界だと考えると、この生得的な直観知は、人類社会=世界社会=万人と万人の関係を知る場合にも、必要となってくるのである。ある種、認識作用を越えた知でもって、世界社会を観察するのが、理論社会学の要諦である。世界社会の無限性を考えるときに、無数の人々の行為やコミュニケーションのそれぞれ性、唯一性こそが必要となる。
 今回、世界社会は、国民社会を越えて、東日本大震災において海外から支援や励ましのメッセージが届き、それに感謝する被災地との倫理的コミュニケーションにおいて、創発されたことが観察できた。そのメッセージの唯一の無数性が世界社会の無限性を支えているのである。ともあれ、そのような世界社会を観察する知は、ある意味、直観知であり、社会学玄論の玄とは、そのような玄妙な知を意味するのである。

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by merca | 2011-09-10 08:43 | 理論

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙

 ルーマンやブルデューと並ぶ現代社会学の巨人と言えば、英国の社会学者ギデンズである。ギデンズは、二重の解釈学、構造化理論、再帰的近代化、親密な関係など、多くの有意味な社会を観察する方法を提示し、日本の社会学者や大学院生に影響を与えている。
 ギデンズ社会学の核心は、二重の解釈学という考え方にある。これは、社会は対象と認識の一致という素朴な自然科学的な真理観では観察できないということを意味している。
 
 二重の解釈学によれば、出来事、行為、コミュニケーションなどの意味付けは、社会内で行為する当事者の共同主観的な意味付けと、社会学者が行う意味付けの二つのレベルが存在している。また、この二つのレベルは、相補的な関係にあり、当事者の主観的な行為が社会構造を創造・再生産するというのである。
 具体例を示そう。例えば、結婚するという行為は、結婚する当事者たちにとっては、恋愛を成就させて一緒に暮らしたいという目的で遂行されるわけであるが、社会システムから見れば、家族や社会階層の形成や将来の社会成員の再生産を意味していることになる。社会システムを維持するために結婚したという人はいないにもかかわらず、結婚によって未来の労働人口を確保し、結果として社会システムの構造を維持することにつながるのである。恋愛は結婚で成就する、あるいは結婚して家庭をつくることが人間の幸福という思想が共同主観として男女に内面化され、求婚活動を動機付けているのである。誰もわざわざ社会構造維持のために結婚して家庭をつくっていると思っておらず、好きな人と結婚して子供をつくりたいと思っているだけなのである。
 とにかく、社会内当事者たちが共同主観に基づいて主体的に行動すればするほど、社会の構造が再生産されるわけである。重要な点は、当事者の意味付けの内容と社会学者の意味付けの内容が一致してなくてもいいということである。時と場合によっては、内容が矛盾していても、かまわない。
 例えば、過去の全共闘運動においては、共産主義革命という意味付けの学園闘争をすればするほど、資本主義社会は成熟化していくという逆説的な結果が起こった。個々人の思惑を離れて、個々人の行為の総和が全く異なるかたちで社会全体に影響を与えるということは、よくある。これも一種の創発の妙理であろう。
 ちなみに、システム論の文脈で言うと、当事者間の意味付けは共同主観的意味付けであり、社会学者による意味付けは機能主義的意味付けということになる。前者は第一次観察に対応し、後者は第二次観察に対応する。また、ハーバーマス社会学の文脈でいうと、当事者間の意味付けは生活世界を構成し、社会学者による構造に対する意味付けは、システムということになる。
 ハーバーマスは、システムが生活世界を植民地化するという危機意識をもっていたが、ギデンズは構造が人々の主体的な行為を支配するのではなく、逆に人々の主体的な行為が構造を生産すると考えており、社会に対する疎外意識・拘束感を視野の外に入れた。
 
 ともあれ、社会学者は、対象となる出来事や行為に対して、当事者である人々による内面的な意味を把握しながらも、社会全体に対する意味を見つけ出し、この二つのレベルの相互関連を注意深く分析していくことになるのである。
 付け加えると、この二つのレベルの解釈は、どちらが正しいということはない。例えば、祭りは神様へのお礼のためにするという当事者たちの共同主観的意味と、祭りは共同体の凝集性を高めるという社会学者による機能主義的意味のどちらも間違いではないということである。むしろ、神様へのお礼という共同主観的意味が単純な科学主義によって否定され、人々が祭りをしなくなり、共同体がバラバラになるほうが有害なのである。社会学は、科学主義が事実の名のもとに人々の生活世界(意味世界)を破壊することを唯一防ぐことができる学問なのである。ギデンズの二重の解釈学は社会学的啓蒙の一つなのである。
 
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by merca | 2011-05-01 10:58 | 理論

世界からの祈り(Pray for Japan) 他者愛の連鎖

 このサイトを見よ!!

 Pray for Japan
 http://prayforjapan.jp/message/
 
 東日本大震災が起こり、多くの人々が犠牲になった。しかし、世界中にいる無数の人たちが祈りを捧げてくれ、普通の人々の間で利他的行動が伝染・連鎖している。一体、これはどういうことか!!
これは、宮台真司が提唱する卓越した一人の利他的カリスマへのミメーシス(感染的模倣)とは全く異なる精神である。また、共同体を越えて、世界に住む無数の他者から祈りと支援が届いてくるわけであり、当然、小林よしのりが重んじる郷土愛・愛国心とも全く異なる精神である。
 カリスマでもなく、国家社会でもなく、平凡な普通の人たちの中にこそ、神仏はいるのである。これは物語ではなく、まぎれもない事実である。街角では、多くの人たちが献血や募金をしている。 ニーチェはこの事実に気づかず、ニヒリズムに陥った。レヴィナスやマザーテレサたちが、共同体を越えた一人一人の他者の中に神をみた。それは、他者愛である。他者愛は、平凡な一人一人の人々の中に宿る。
 それは、困っている人たちがいると、「あなたがたは、一人じゃない」と囁くのである。そして、そのメッセージは、共同体を越えて全世界の人々に連鎖していき、祈りと支援を生み出していくのである!! 
そして、世界平和がもたらされるのである。国家どうしの憎しみ合いは、他者愛の連鎖の前には消え去るのである。韓国と中国も日本を支援してくれている。他者愛の前には、小林よしのりの未熟な愛国心も何も意味をもたなくなる。我々は、異国=他者であるオバマの演説にむしろ励まされるのである。なぜだろうか?

 リンカーンのスピリットを受け継いだ平和主義者オバマは、言う。
 「私たちは日本とともにいます」と。

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by merca | 2011-04-04 23:17 | 反ニーチェ