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世界からの祈り(Pray for Japan) 他者愛の連鎖

 このサイトを見よ!!

 Pray for Japan
 http://prayforjapan.jp/message/
 
 東日本大震災が起こり、多くの人々が犠牲になった。しかし、世界中にいる無数の人たちが祈りを捧げてくれ、普通の人々の間で利他的行動が伝染・連鎖している。一体、これはどういうことか!!
これは、宮台真司が提唱する卓越した一人の利他的カリスマへのミメーシス(感染的模倣)とは全く異なる精神である。また、共同体を越えて、世界に住む無数の他者から祈りと支援が届いてくるわけであり、当然、小林よしのりが重んじる郷土愛・愛国心とも全く異なる精神である。
 カリスマでもなく、国家社会でもなく、平凡な普通の人たちの中にこそ、神仏はいるのである。これは物語ではなく、まぎれもない事実である。街角では、多くの人たちが献血や募金をしている。 ニーチェはこの事実に気づかず、ニヒリズムに陥った。レヴィナスやマザーテレサたちが、共同体を越えた一人一人の他者の中に神をみた。それは、他者愛である。他者愛は、平凡な一人一人の人々の中に宿る。
 それは、困っている人たちがいると、「あなたがたは、一人じゃない」と囁くのである。そして、そのメッセージは、共同体を越えて全世界の人々に連鎖していき、祈りと支援を生み出していくのである!! 
そして、世界平和がもたらされるのである。国家どうしの憎しみ合いは、他者愛の連鎖の前には消え去るのである。韓国と中国も日本を支援してくれている。他者愛の前には、小林よしのりの未熟な愛国心も何も意味をもたなくなる。我々は、異国=他者であるオバマの演説にむしろ励まされるのである。なぜだろうか?

 リンカーンのスピリットを受け継いだ平和主義者オバマは、言う。
 「私たちは日本とともにいます」と。

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by merca | 2011-04-04 23:17 | 反ニーチェ

具体的批判対象を提示できない反社会学講座は空虚である。

 私は、反社会学講座が藁人形論法だと断じた。その理由は、具体的事例を出さないことにもある。
 つまり、パオロ氏が批判する個人的な偏見をへ理屈で理論化した社会学者については、反社会学講座では具体的批判対象たる実名が出てこない。
 結局、具体的批判対象としての実例を出せないということは、該当する社会学者が一人もこの世の中にいないことになり、社会学は個人的な偏見をへ理屈で理論化したものであるというパオロ氏の主張は全く成立たなくなる。また、数人の名前をだしたところで、そんな少ないサンプルで社会学者全てを代表させることは、統計学上、全く意味をもたず、非科学的である。
 
 さて、パオロ君に告ぐ!!
 一体、パオロ君のいうところの社会学者とは、誰かね? 例えば、有名な日本の社会学者には、土場学、太郎丸博、高坂健次、富永健一、浅野智彦、土井文博、そして社会学の巨人・宮台真司など多数いるが、誰のことかね。本当に全ての社会学者の著作を読んだのかね。
 実例を示せないというのなら、君の言説は嘘であり、非科学的である。それとも、実例を示すと、本格的に批判されるから怖いのかね。
 このように実例もないのに、反社会学講座を読んで説得力があると賞賛する読者は、非科学的でメディアリテラシーが全くないことになるのである。本当に自己を辱めることになるので、反社会学講座を賞賛することはやめよう。
 あるニセ科学批判者曰く、実例がない主張は空虚である。ここでも、私のライバルであるニセ科学批判者の論法がそのまま反社会学講座に当てはまるのである。

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by merca | 2011-04-02 19:37 | 社会分析

反社会学講座の正体は、社会学に対する藁人形論法。

 多くの知的な若者たちが反社会学講座に騙されている。ここで、私が警告を鳴らしておく必要があると感じ、当エントリーを書いている。
 「スタンダート 反社会学講座」 http://pmazzarino.web.fc2.com/index.html#mokuji
 見てのとおり、パオロ・マッツァリーノ氏の反社会学講座には、全く社会学理論が使用されておらず、社会学の手法や論理とは無縁である。社会学とは、社会学理論という観察道具を通して社会現象を記述することで成立つ学問である。多くの社会学者は、デュルケーム、ウェーバー、ジンメル、パーソンズ、ルーマン、ハーバーマス、ミード、ブルデュー、ゴフマンなどの社会学理論を現象に適用して観察し、記述してきた。従って、これらの社会学者たちが作り出した社会学理論の伝統の上に、社会学は成立っているわけである。
 例えば、宮台氏の著作は一般向けであって比較的分りやすくて人気があるが、あらゆるところに様々な社会学者や社会学理論による解釈がある。
 パオロ・マッツァリーノ氏の著作には、ほとんどこれらの社会学者の名も出てこず、社会学理論の適用が認められない。単なる統計や史実による記述等が大半を占めている。社会学理論という観察道具を用いない記述は、居酒屋談義と同じであり、社会学ではない。
 従って、パオロ・マッツァリーノ氏が社会学の手法や論理を使用していると豪語しているのは全くのデタラメである。そして、この嘘にはめられている読者は可哀想である。
 
 バオロ君、悔しかったら社会学理論を用いて社会現象を観察してみたまえ!!
 準拠集団論、行為の四類型、社会圏の交差、他者一般、システムによる生活世界の植民地化、顕在的機能と潜在的機能、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、複雑性の縮減、近代化の後発的発展理論、コミュニケーション的理性、役割距離、ハビトゥス論など、これらの社会学理論を駆使して社会現象を観察し、記述してみなさい。(ご存知のとおり、私のブログではルーマンやブルデューや宮台の社会理論を多用している。例えば、私の理論的核心である価値次元相対主義はルーマンの機能分化論に基礎をおく。)

 私のライバルであるニセ科学批判者たちの御得意の論理を拝借させていただくと、バオロ氏の反社会学講座の正体は、社会学に対する藁人形論法である。つまり、社会学者の虚像として自分勝手に藁人形をつくりだし、その虚像である藁人形に対して批判をしているのである。パオロ氏の反社会学講座は、社会学理論による観察を得た記述がない全くのニセ社会学なのである。

 ルーマンやブルデューやギデンズとまではいかなくとも、少なくともデュルケームやウェーバーやジンメルなどの基礎的・古典的社会理論を学んだ社会学の徒なら、パオロ氏の嘘とトリックがわかるはずである。
 もし社会学部の学生でパオロ氏の読者コントロールに騙されている者がいるのなら、今すぐに、反社会学講座を捨て、デュルケームの「自殺論」やウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの社会学の古典的名著を読むべし。反社会学講座による洗脳から解けると思う。

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by merca | 2011-02-12 23:33 | 理論

ベーシックインカムによる社会革命に備えるべし!!

 全ての国民に対して、最低生活を維持するための所得を給付する制度をベーシックインカムという。基礎所得保証ともいう。この制度の導入に肯定的な政治家も多くいることから、夢ではない話らしい。
 重要な点は、これによって、働かなくても食べていけることも可能となることである。そうなると、ひきこもり、ニート、ヤンキー、ホームレスなどは、大手を振って喜ぶであろう。ひきこもりは、組織労働に付随する対人関係の煩しさから解放されることになるし、またニートやヤンキーは働かず怠けて遊んで暮らせることになるのである。ホームレスにとっては、椅子取りゲームたる社会の競争に参加せずに毎日のんびりと暮らせることになる。皮肉なことに、社会的自立を支援する、ひきこもり支援団体やホームレス支援団体の苦労が水の泡になるのである。
 また、共産主義を唱える意味がなくなる。マルクスが前提とした資本主義社会は消滅することになるからである。ベーシックインカムは、共産主義の存在価値を全否定することになる。全ての人民が労働し、その生産物を共有財産として平等に分配する共産主義の理念からすると、正当な理由がなく働かずに食べていく人間を認めることは原理上できないのである。共産主義では、生産物は全ての人間に平等にあてがわれることになり、そのかわり勤労の義務も平等に生ずるのである。正当な理由なく労働をしない人間という例外は認められないわけである。だから、左翼系や共産主義者でベーシックインカムを否定する者も多い。
 反対に、勤労道徳を美徳とする右翼も精神主義的観点からベーシックインカムを否定するであろう。道徳的な理由から、怠け者は許せないのである。
要するに、左翼も右翼も働かずに食べる人間がいることに耐えられない人種なのである。

 誰かが労働することなしに、社会は成立たないのは事実である。ベーシックインカムは、全ての国民が働かないという選択をした場合には破綻する制度である。もっと厳密に言うと、一定多数の国民が働くことがないと、破綻する制度である。逆にいうと、ベーシックインカムは人間は労働を好む存在であるという人間観に基づいている。
これは社会心理学者マクレガーのXY理論におけるY理論に基づく人間観である。X理論とは、人間は怠け者であり、賞罰がないと働かないという根本仮説である。Y理論とは、人間は自己実現のために進んで働く存在であるという根本仮説である。マクレガーは、マズローの欲求段階説に準拠し、低次の欲求(衣食住)が満たされると高次の欲求を満たすようになると考え、Y理論を支持した。ベーシックインカムが破綻しないためには、Y理論とマズローの欲求段階説が人間科学的に正しいことが前提となる。
 確かに、食べていける財産はあるのに、働く人たちが多くいることも事実である。地域社会においては、自らの生計とは関係なく、自治会長、民生委員、保護司など、公務員がすべき労働をやっている人たちがいる。また、ボランティアをしている学生や主婦なども多くいる。食べていくことと関係のない活動で社会を支えることをしている人たちがいるのである。また、一生食べていける資金がある企業家が、食べていけるから働かなくなることはほとんどない。大企業家は、食べていける財産があるのに、資本の論理によって、よく働くのである。得たお金をまた投資し、資本を増やすために働くのである。
 確かに、こういう人たちはY理論が当てはまるかもしれないが、まだ人口のごく一部である。ヤンキー、ひきこもり、ニート、ホームレスは、X理論かY理論のどちらで生きているのか調査する必要があるのである。ベーシックインカムで一番怖いのは、食べるお金を得るためだけに働いているヤンキーが肉体労働をしなくなり、人手不足で建築業界などが打撃を受けることである。社会分業が破綻することが懸念される。自分の好まない労働につくことを拒否できる社会になるのである。
 また、上意下達による組織労働が破綻するおそれがある。食いはぐれがないから、上司の命令に従わない会社員が増え、会社の経営が成立たなくなるのである。さらに、押し進めると、「いい学校 いい会社 いい人生」という文化的目標も完全否定され、受験競争の脅しから子供たちは解放されるだろう。人生のレールからはずれたら食べていけなくなるという脅迫観念で悩む必要がなくなるのである。教育システムが根底から破壊され、ゆとり教育が復活するのである。
 ベーシックインカムの導入は、根底から社会を変革することになり、その影響力は計り知れないのである。経済、法律、教育、政治、福祉、道徳、宗教など、全ての社会分野に影響をもたらすのである。社会システム論的には、これは、共産主義革命をも凌ぐ、左翼と右翼を消滅させる社会革命である。その影響を全体的に計測することのできる科学力は、経済学ではなく、近代化理論を対象とする理論社会学にしかないのである。ベーシックインカムの導入に際しては、デュルケームの社会分業論、パーソンズとルーマンの社会システム論、ブルデューのハヴィトゥス論など、全ての社会学理論を統合した大理論が求められるであろう。大理論社会学の復権が望まれるのである。

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by merca | 2011-01-15 10:50 | 理論

ニーチェはいらない。

 善悪の内容は、社会によって異なり、相対的であるのが事実であり、異なる社会同士の道徳観は対立することもある。何を善とし、何を悪とするかは、倫理学の根本的テーマである。
 さて、古くから、西洋哲学では、功利主義(幸福主義)に基づく道徳観と理性主義に基づく道徳観との対立がある。ベンサムに代表される功利主義とは、人々の利益になることが善であり、人々の不利益になることが悪であると考える道徳観である。簡単に、アリストテレス風に表現すると、善とは幸福の手段であり、悪とは不幸の原因であるということになる。功利主義は、行為の結果に着目した道徳観と言える。
 これに対し、カントに代表される理性主義とは、損得とは関係なく、すべきことをし、してはならいことをしないことが善であり、すべきことをせず、してはならないことをすることが悪となる道徳観である。例えば、人の命を救うことは、すべきことであり、結果の損得とは関係なしに、善である。また、人の物を盗むことは、してはならないことであり、結果の損得とは関係なしに、悪である。このように、行為の結果に関係なく、善悪はあらかじめ無条件に定められているということになる。簡単に言えば、道徳規範に従うことが善であり、反することが悪であるということである。道徳規範の内容が問題になるが、カントの場合、実践理性による自由の実現が道徳規範の内容となる。

 いずれにしても、功利主義も理性主義も、何を善とし、何を悪とするかについて、満足のいく回答ではない。そこで、善悪を別の区別から観察してみたい。
 (利他/利己)という区別で観察すると、善は利他に対応し、悪は利己に対応することになる。よく思い起こしてみると、我々は、普通に利他的人物を見ると感動するし、利他的人格の人間をいい人だと人格判断している。宮台真司が指摘するように、多くの人々は利己主義者には感動が湧かず、利他主義者に感動と尊敬の念を抱き、その価値観に感染することは事実である。
 逆に、多くの人たちは、自分のことしか考えない利己的人物をつまらぬ悪い人だと感じる。全く他人に思いやりのない利己主義者は人から軽蔑され、嫌われる。
 このように、利他と利己は、純粋に善悪の観念と直結しているように思える。この感覚は重要であり、ここに功利主義と理性主義を越える秘訣が隠されている。
 
 実は、利他主義は、功利主義の要素と理性主義の要素の両方を含んでいる。利他主義は、目的において他者の利益や幸福のために行為するわけであるから功利主義的であるし、また自己の利益や幸福を度外視して他者のために行為すべきと考え、自己犠牲的に振る舞う点において理性主義的である。動機において自己の欲望を抑えてまでも他者のためにすべきと考え、結果において他者に利益と幸福をもたらそうとする。仮に、結果的に自己の行いが他者のためにはならなかったら、利他主義者は後悔の念に襲われ、自己を責めることになるだろう。つまり、利他主義こそが善なのである。そして、利他的行為を妨げる利己主義が悪となる。とにかく、利他主義は、功利主義と理性主義を止揚するジンテーゼの位置にあるのである。
 
 さらに、キリスト教、仏教、儒教などの世界宗教においては、(利他/利己)という区別はそのまま善悪と同義である。仏教では、端的に善行とは利他を意味している。儒教においても仁愛とは、他者への思いやりの情である。キリスト教の隣人愛も他者へのいたわりである。このように文化を越えて伝播する世界宗教は、善悪の基準として(利他/利己)という区別を採用している。世界宗教の場合、利他の「他」とは特定の共同体の内部を越えた人類全てを指すということはいうまでもない。利他的行為の対象である他者は全人類であり、全人類を救済の対象にするからこそ、世界宗教たりうるのである。

 人々のおおよその自然な善悪感覚及び世界宗教の倫理観からすると、「利他は善であり、利己は悪である。」 簡単であるが、これが事実的な善悪の基準の回答である。これには多くの人はさして異議はないと思うし、これで十分である。多少異議が有ろうとも、私は、利他を善と呼び、利己を悪と呼ぶことに違和感はない。
 
 なお、明確で厳密な善悪の基準の定義=概念を求めたがる人は、善悪の基準を法則と勘違いしている人である。人と人の関係に先立って、善悪は宇宙の法則のようにあらかじめ存在するものではない。人と人が関係しあうことでコミュニケーションが創発され、それを一つの区別から観察することで後から善悪は構成されるものである。
 私は、利他を善と名付け、利己を悪と名付けるだけであるし、そうすることで、他者とのコミュニケーションにおいて差し障りはない。私が利他的行為をなす人を見て善人であると言ったとしても、私の言葉の使い方がおかしいという人はいないであろう。
 私の場合は、ニーチェのように絶対的で明確な善悪の基準にこだわりすぎて、ニヒリズムに陥り、ことの本質を見失うということはないだろう。
  
 利他は善であり、利己は悪であることで、倫理は成立ち、世界社会は回るのである。ニーチェはいらないのである。

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by merca | 2010-12-26 23:35 | 理論

つくられる反中感情の脱構築

 他国・他社会の視点・視座から構成された事実を虚構と見なし、自国・自社会の視点・視座のみに準拠して構成された事実に基づいて、他国・他社会を価値判断し、敵国感情を抱くことは、社会病理現象の一つである。
 中国社会は意図的に反日感情を煽る教育をしているわけではなく、中国社会の視点から構成された侵略行為という事実に基づいて自国の歴史教科書をつくっているわけである。この場合、侵略かどうかを決定する権利は被害を受けた側にあり、その視点から事実が構成されることになる。
 例えば、いじめはいじめを受けた者がいじめと思うことでいじめとなるのと同じであり、中国が日本から侵略を受けたというのなら、中国人たちのその思いは真実であり、日本人には否定できない。
 これは、少しでも臨床心理学、犯罪被害者学、社会構成主義を習得したものであれば、手に取るようにわかる原理である。これをわからずに中国を非難するのは、浅学と言わざるを得ない。
 
 一つの出来事は、多様な視点・視座によって、多様な解釈が与えられ、複数の事実が構成され、その事実に対する価値判断として複数の物語が誕生することになる。
 小林よしのりが反中感情を煽っているが、彼は客観的事実に準拠していると思い込んでいる。しかし、その客観的事実たるものこそ曲者である。例えば、同じ食べ物を食べても、ある人はまずいと感じ、ある人は美味しいと感じたりする。同じ物理的対象なのに味覚が異なることになる。しかし、二人とも自身の味覚を事実であると思い込み、言い争い、対立が続くのはナンセンスである。味覚が個人ごとに異なるという感覚の相対性が現実であるということを知っている賢者・相対主義者のみが二人の対立を和解させる視点を提供できるのである。

 出来事は単一であるが、事実は複数存在し、事実に関する解釈も複数存在する。このような人々の認識における相対主義を嫌う科学主義者は多いが、このこと(認識の相対性)は人間の事実認識の本質的構造であり、相対主義が正しいわけであり、それが現実である。
 この現実から目を背け、事実は一つであるという固定観念から、絶対主義的な独断によって、他者批判に至るのが一番怖いのである。相手の視点・視座を理解することで、絶対性の呪縛から解放され、人は寛容になれる。寛容さを欠いた反日・反中感情は愚かである。

 中国人が非人道的であり、利己的であると多くの日本人が思い込んでいるが、これは部分の全体化という認知の歪みであり、日本社会がもつ集団認知の歪み=社会病理現象である。
 まず、中国人が非人道的で利己的であるという人たちに対しては、具体的に中国人を対象とした規範意識の調査をしてみたのかと問いたい。どのような実証的な社会調査を根拠にして、このような認識を構成したのか問いたい。
 共同体の外にある他者に対する利他的行為というのなら、中国人のほうが優れているかもしれない。敵国である日本人の残留孤児を自らが貧困であるにもかかわらず、育てた中国人養父母は極めて人道的・倫理的である。日本人残留孤児を育てた中国人養父母たちは、共同体内部への帰属意識=愛国心のみを強調する小林よしのりよりも、哲学的に見て倫理的である。
 ちなみに、同じように共同体の外部に利他的であった人物は日本人にもいる。自国の命令に違反してまでも、出国ビザを発行しナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝である。
 中国人であろうと、日本人であろうと、人類は、状況によっては、元来共同体を越えた倫理性を創発する可能性をもっているのである。この倫理性への可能性はイエスの「汝の敵を愛せ」、仏教の「一切衆生悉く仏性あり」という世界宗教の根底をなすものである。他者性の哲学者レヴィナスが追い求めた究極の倫理性である。
 北朝鮮問題も、北朝鮮人民が悪いと思っている日本人は少ないと思われる。独裁制国家というシステムの問題であることを賢い日本国民は理解している。
 
 マスコミや煽動家の煽りに騙されず、つくられた反中感情・反日感情に翻弄されず、敵国感情を捨てよう。ジョンレノンのイマジンを思い出そう。国境がないと全世界の人類が思えば、全ての国家は一瞬にして消滅するのである。社会は、国家であれ、企業であれ、人々のコミュニケーションによって創発された仮象=システムにしかすぎないのである。創発の妙理からしても、原理的にジョンレノンのイマジン思想は、正しい。
 中国人養父と残留孤児の関係、杉原千畝とユダヤ人の関係においては、すでに国家は存在せず、寂滅し、倫理コミュニケーションが創発されているのである。

 事実の相対主義=寛容と倫理の単一性こそが平和をもたらすのである。
 
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by merca | 2010-12-19 10:59 | 社会分析

「「正義」について論じます」書評 宮台対大澤!!

 宮台よりも観念的な社会学が存在する。それが大澤真幸の社会学である。大澤氏の著作はかなり読んできたが、あまり当ブログで取り上げることはなかった。大澤氏の第三者の審級論は、社会の根本原理を定式化したものとして名高い。
 また、大澤氏は、柄谷行人との親和性もあり、浅田彰、東浩紀などのポストモダンの論客たちと、最高度の文化的かつ知的な日本の思想界を形成してきたのである。
 そんな大澤氏が社会学の鉄人である宮台氏と対談し出版されたものが「「正義」について論じます」である。日本思想界における最高度の観念論的知性がぶつかりあう姿は興味をひいた。数ページ開くと、二人の顔のアップが突然出てくる。すでに、二人とも、学者ではなく、思想家の顔であった。
 大澤氏はいく分普通に見えたが、やはり宮台氏の顔はどこか違っていた。それは、単なる思想家ではなく、社会変革者の顔なのである。私は直感的・霊的にそれを察知できた。
 もうすでに、宮台思想は、ニーチェのごとき陳腐な西洋哲学を越えているのである。日本の学者や思想家は遅れていると思っている西洋かぶれした大学院生たちは多いが、実は、宮台氏に限っていうと、世界レベルの哲学的知性なのである。

 さて、本題の書評の内容に入りたい。三つの話題に絞りたい。三つの話題とは、私なりに整理すると、「正義の唯一性と善の多様性」「利他性への感染(ミメーシス)」「社会的包摂における中間集団の必要性」ということになる。

・「正義の唯一性と善の多様性」について
 正義の唯一性と善の多様性について議論されていた。これは、文化相対主義の問題である。正義とは、各々の文化共同体を越えて人類が従うべき一つの正義=道徳規範を意味する。一方、善とは、各々の文化共同体が所有する個別の道徳規範であり、現実的には共同体の数だけ多様である。
 この二つの区別の重要性が説かれ、さらに正義の唯一性という観念は現実には不可能であるが、必要不可欠であるという議論に収斂していくことになる。この議論は、共同体を越えた外部を思考することと同じであり、他者性の認識不可能性=超越性と哲学的には同義である。
 残念ながら、柄谷行人の名著「探求Ⅰ」「探求Ⅱ」において、この種の議論は結論が出ており、そちらを読むことをすすめたい。ちなみに、柄谷行人の言葉では、正義が倫理に対応し、善が道徳に対応することになる。
 
 宮台と大澤の対談では正義の結論はでなかったが、ここで、正義の唯一性と善の多様性の問題解決についての回答を言っておきたい。
 正義の唯一性は人類社会という無限世界を前提としており、超越的であり、具体的な内容としては認識できず、到達不可能であるが、超越的である故に、かえって善の多様性の前提を形成することになる。唯一の正義は、神のごとく、自身は具体的・個別的な姿を現さず、内容のレベルでは認識不可能であるが、具体的な善の多様性の前提を形成するというかたちで作用しているのである。
 このように正義の問題は、否定神学的弁証法のみが解決してくれることになる。これは、相対主義と絶対主義が対立的に依存関係にあるという論理と同じてある。わかりにくければ、ベタであるが、善の多様性も正義の唯一性の範囲内で許容されるとでも言っておきたい。これが回答である。

・「利他性への感染(ミメーシス)」について
 次に、利他性のある人物への感染についてテーマになっている。人は利己的な人物をモデルにするのではなく、利他性のある人物に魅力を感じ、その価値観に感染するようになるという。これは、宮台氏の考えであるが、非常に現実的である。確かに、そのように私も感じる。
 例えば、薬物依存やリストカットや虐待で悩む多くの若者を救ってきた夜回り先生という人は有名であり、多くの若者たちが夜回り先生という高度な利他性を所有する人格に感染し、自分も他者を助けたいと思うようになっている。
 さて、本当の利他性とは何かと考えていくと、共同体の外の他者への利他性ということになる。自己の所属する共同体に属する仲間のためだけではなく、自己の外にいる他者を救う者が一番感染性がある。大澤氏は聖書の「善きサマリア人の喩え」の例を引き、弱者への感染の可能性を述べていたが、本質は弱者への感染ではない。弱者という他者ではなく、共同体の外の他者を救った高度な利他性への感染こそが、この説話の本質なのである。
 共同体の内外に関係なく、他者を救う者こそが本当の利他性をもっており、そのような利他性に人は感染し、その感染の連鎖こそが、文化相対主義を越え、人類社会の正義の唯一性へとつながっているのである。このような思考回路を論理的に開いたのは、柄谷行人であるが、「利他性への感染」という事実に立脚して、正義の唯一性という到達不可能な倫理の存在の作用を例示した宮台の観察眼はやはり一流である。

・「社会的包摂における中間集団の必要性」について
 中間集団の重要性が議論されていた。中間集団の存在を無視したリベラリズムもコミュ二タリアリズムも、成立たないということが議論されていた。これは極めて社会学的な立場からの議論であり、個人と全体社会の二元論に基づく観念的な政治哲学と一線を画する。
 
 日本では、成熟社会に入り、家族・親族・企業・労働組合・新興宗教などの、全体社会(国民社会=国家と市場)と個人の間に存在する中間集団の凝集性が弱まり、その恩恵にあずかることが困難になってきたという。そのために、国民社会の代表機関である国家が個人をサポートしなければならないという発想が出て来た。中間集団から排除された個人を国家がサポートすべきというわけである。
 この考えの典型が、貧困は社会責任=国家責任とする湯浅氏の反貧困思想である。国家が排除された個人のセフティーネットを構築し、最低限の生活保障をしてやるというわけである。
 しかし、このような考え方は、すでにヨーロッパでは古いという。むしろ、国家と個人の間に存在する中間集団の自立性が焦点となっているらしい。つまり、自立的な中間集団が個人を包摂するというかたちで、社会的排除を防止することが大切であると考えられているのである。反貧困思想のように、国家のみが個人をサポートするという発想は極めて時代遅れでおかしいのである。これは、日本だけである。
 ともあれ、宮台氏も大澤氏も、社会学者であり、個人が相対的に中間集団に包摂されることが重要であると認識しているのである。個人責任でもなく、社会責任でもなく、家族責任や企業責任や学校責任など中間集団の責任という概念を流布すべきであるという結論となる。
 中間集団が責任をとるためには、中間集団の自立性・自律性が求められる。国家や市場に相対的にしか依存しない自立的な中間集団の存在が必要であり、社会的排除の解決策の本丸は中間集団にありとするのが、社会学の本流の考え方である。
 よく考えてみればわかるが、個人は様々な社会集団に関わりながら、欲望を充足するわけであり、全体社会と直結しているわけではない。従って、個人が所属する社会集団が個人の面倒を部分的に見ていくことが、古典的な国家のみによるセフティーネットよりも現実的なのである。
 
 社会学的には、国家は各々の中間集団を調整・支援し、各々の中間集団が個人を支援するというかたちがベストなのである。社会責任論を前提とした国家による個人のサポートを強化するという政策は、財政破綻をきたすだけであり、無意味である。
 国家と個人の二項関係こそが、現実的な個人の孤立化を意味しているのであり、中間集団の支援なしに生活保護を受けるのは孤立化をすすめることと機能的に等価である。国家と個人の二項関係に準拠した反貧困思想こそが孤立化の温床となってしまう逆説があるのである。
 中間集団=共同体の再帰的再構築と、中間集団の国家や市場からの相対的自立性によって、個人を包摂することが貧困問題・虐待問題などの解決策となるのである。国家から相対的に自立した中間集団による個人の社会的包摂こそが、孤立化による貧困問題を解決する社会学的処方箋なのである。

 全般的に、大澤氏の社会学思想というよりも、大澤氏が宮台思想を引き出したという対談の内容であると思った。
 
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by merca | 2010-12-04 11:37 | 社会分析

社会妄想=マルクス主義による犯罪行為

 社会心理学者エリクソンによれば、近代社会においては、ちょうど大学生くらいになると、自我同一性=アイデンティティを確立することが発達課題となるらしい。職業社会に出るためには、若者は自分が何であるかを確立することが求められるわけである。
 その際に自我を統合するツールとして、思想は機能する。自我観念は、それを取り巻く世界観とセットになっており、若者は一定の確立した世界観を提供する思想に飛びつくことになる。新興宗教が大学生を狙って勧誘するのはこのためである。
 宗教でなくても、社会思想や政治思想も、青年期の若者の自我同一性を支える世界観を提供する。このようなエリクソンの近代社会における自我の発達段階理論こそが、あの過激な全共闘学生運動の意味を説明してくれる。要するに、全共闘の学生たちは、自我を確立するために、マルクス主義という物語に飛びついたのである。さらに、それが反体制的思想であったがために、親=社会に対する反抗期としても機能したのである。しかし、不幸なことにマルクス主義は、近代社会=資本主義社会に適合的な思想でないために、多くの若者はそれに埋没するほど犯罪行為に至り、社会不適応に至った。過激化し、カルト化していったのである。
 
 全共闘学生運動は、革命のためと言いつつも、結局、社会学的に分析すると、自我の確立という若者の利己的な動機をもととする活動にしかすぎなかったのである。それはともかく、当時、マルクス理論が実証的根拠を欠く非科学的ものであることを気づいていた学生はほとんどいなかった。
 当時の日本社会は、資本家によって搾取されて貧困が日常化しているどころか、高度経済成長期に入り、豊かになっていた時期である。むしろ、学生運動の大学生は、学歴社会の勝者であり、貧困とは無縁な存在である。低所得層のブルーワーカーになったヤンキー系の若者たちからみたら豊かなのである。頭もいいはずなのに、経済や労働状況などに関する戦後からの社会統計に目を通さず、一気に観念的なマルクス主義思想が真実だと勘違いし、飛びついたのである。自身の家庭が資本家に搾取されて貧乏だったという実感体験からマルクス主義を支持した大学生などいなかったのである。社会統計による事実も無視し、体感的な貧困感覚にも根付かず、知的な若者が自己の自我同一性を統合してくれる絶対的真理を求めて、マルクス主義に走り、全共闘運動に走ったのである。
 
 若者たちは、社会統計的事実からも体感事実からも遊離した反科学的な思想=ウソであるマルクス主義に自我を託したのである。当時の学生の社会に対する妄想はすごい。教育問題、政治問題、家庭問題など全ての社会問題を資本主義社会の問題にしようとする認識の歪みが認められる。共産主義革命が起これば、全ての社会問題が解決されると考えていた。そして、全世界が共産主義革命が起こりつつあり、日本社会でも起こると考えていた。そして、有名大学の知的な若者が、強盗や暴力や殺人などの犯罪行為に手を染めていった。思想のために殺人を平気でするのである。
 命よりも大切なものがあると小林よしのりは言っているが、戦後は、皮肉なことに左翼思想によってそれが体現されているのである。人の命よりも、自己の自我を支える思想の方が若者にとっては大切に思えたのである。

 とにかく、マルクス主義は、極めて、実証性を欠く反社会科学的思考であり、妄想である。こんな根拠レスな社会妄想を打ち砕いてくれるエビデンス厨もいなかった。もし当時、俗流若者論批判者である後藤氏のような統計的事実主義者がいたら、面白かったことだろうに。連合赤軍の社会妄想を後藤氏なら見事に打ち砕くであろう。統計的にはマルクス主義は間違いということで、全共闘の学生たちの自我を一撃で粉砕したことであろう。「あんたら自分で社会調査して調べたのか?資本主義に原因があるという実証的証拠を見せてみなさい」というだけで、論破できるのである。
 もしそんな科学主義者たちがいたら、社会妄想から若者を解放し、連合赤軍の殺人行為も防げたかもしれない。マルクス主義というつまらぬ社会妄想のために、いじめを受けて死んでいった人たちは可哀想である。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」に描写されているとおりである。一度、見てみたらわかると思う。思想のために人を十二人殺している。
 
 とにかく、全共闘の学生たちは、マルクス主義理論による認識が事実であると勘違いし、物語として相対化できなかったのである。自身の思想を事実として絶対化し、それに従わぬ者に暴力的制裁を加えたのである。当時は、前期近代社会であり、物語を物語として相対化し、自己選択していく器用さがなかったのである。ウソだとわかりつつも、あえて選択するという成熟社会の意識ではなく、マルクス主義が不変の絶対的真理であるという感覚で受容していたところに問題があるのである。当時の若者たちは、動かぬ社会という感覚をもっており、社会を実体視していたのである。彼らは、社会がその都度生ずる空なるものであるという妙理=創発論的社会観を知らなかったのである。

 今、反貧困運動も学生運動家を育成しつつある。社会が悪い、という思考形態は、マルクス主義と同型であり、少し注意しておく必要がある。なんでも社会問題にしてしまう思考形態は、すぐに共産主義と結合する傾向にある。反貧困運動に参加する若者たちに、貧困体感経験があるのなら、まだ健全であるが、知識の上での貧困しか認識していない一流大学の学生には、反貧困理論を思想として内面化して欲しくないものである。

 学生運動と機能的に等価なのが、ボランティア活動である。ボランティア活動は分野も色々とあるし、思想的強制はないので、安全である。ボランティア活動が発展することで、他者と関わり、自我を確立することが成熟社会には適合的な在り方なのである。

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by merca | 2010-11-14 21:30 | 社会分析

ニセ科学批判者(通俗道徳主義者)はマイケル・サンデルの正義を学ぶべし

 ニセ科学批判者がニセ科学批判する正当性の根拠は、科学的事実にあるのではなく、最近、世間の通俗道徳にあることがわかってきた。これは、ニセ科学批判批判派の一部のブロガーのうちでは常識となっている。
 つまり、「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」「人を殺すのはよくない」「他人に迷惑をかけてはいけない」と言った通俗道徳に最終的な自説の正当性の根拠があるようである。このような通俗道徳に準拠して世間の集合的非難と公憤を動員する方法は、週刊誌やスポーツ新聞と同じである。一種のポビュリズムである。
 
 しかし、これらの道徳律は確かに世間の道徳規範として流布しているが、よくよく道徳や正義について深く考えていくと、そんなに道徳判断は単純でないことがわかる。

 「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」 
 例えば、殺人犯に追われている女性が自分の家に逃げ込み、殺人犯が探しに来たら、「私の家にはいません」というのは、道徳的に悪なのだろうか?

 「人を殺していはいけない」
 例えば、秋葉原無差別殺人事件のような殺人鬼が路上で暴れ、通行人に刃物で襲いかかっているのを目の前にして、他に止める手段がなくて、警察官が発砲して殺人鬼を射殺することは道徳的に悪であろうか?

 「他人に迷惑をかけてはいけない」
 例えば、車両の故障が発覚し整備のために電車をとめ、多くの通勤客に迷惑がかかったとする。安全確保のために車両整備で通勤客に迷惑をかけたことは道徳的に悪なのだろうか?  

 「ウソをついてはいけない」「人を騙すのはよくない」「人を殺すのはよくない」「他人に迷惑をかけてはいけない」などの通俗道徳を単純に適用するだけでは、現実の道徳判断はできない。行為のおかれた状況やその他の条件を加味し、議論し、合意をえることでしか、道徳的判断はできない。
 マイケル・サンデルが正義に関する議論で主張しているのは、このような道徳の複雑性である。通俗道徳を単純に振り回すだけでは、道徳判断できないということに尽きる。
 道徳的議論は重要である。ちなみに、社会学でいうと、ハーバーマスが主張する理想的発話状況による対話的理性こそが、道徳的議論で求められるコミュニケーション・システムである。

 しかるに、ニセ科学批判者は、通俗道徳を振りかざし、複雑な道徳に関する民主的議論をすっ飛ばし、したり顔でニセ科学というレッテルを付与した知識、技術、商品などを否定しまくる。科学的事実や通俗道徳という正論で単純に他者を否定する。正論だからという意識に甘えて、他者との正当な議論を経ずに、自説を押し付けて他者を否定する。
 
 ホメオパシーに対しても「人に迷惑がかかるから悪い」「効果がないのに効果があるとウソをついているから悪い」「人が死ぬから悪い」という単純な通俗道徳から批判する。
 水伝においても、思想の自由(人権)という道徳要因を無視して、「科学的事実ではないウソだから悪い」という単純な通俗道徳から批判する。

 安易な通俗道徳に基づく価値判断に正当性の根拠を求めず、科学のアイデンティティを穢すから科学的に中途半端な知識を批判するという純粋な科学原理主義に立脚したニセ科学批判者のほうがまだ筋が通っているのである。そういう正当派をみかけなくなった。大槻教授くらいである。菊池氏は通俗道徳主義者である。

 多くのニセ科学批判者は、通俗道徳に流されず、マイケル・サンデルの正義に関する議論を学ぶべきである。

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by merca | 2010-11-14 11:35 | ニセ科学批判批判

耳かき殺人事件・・・善良な市民=裁判員は人を殺せない?

 報道によると、耳かき殺人事件の裁判員裁判による判決が、被害者の意に反して、死刑ではなく、無期懲役になった。裁判員は、自己の感情・価値観に忠実に従ったと言われている。そのことは次の事実を証明している。 
 人間は、もともと人を殺すことができないようにつくられている。これを社会化という。特に、近代化した社会では、自国の人間だけではなく、全ての人間を殺してはいけないという感性が人々に埋め込まれているのである。これは、理念的な価値規範だけではなく、好悪のレベル=生理的レベルにおいてもそうである。まともに社会化された人間は、殺人は悪であり、また殺人をするのは生理的に嫌であると感じるのである。
 要するに、推測するに、耳かき殺人事件の裁判員は、自身が社会から埋め込まれた感情・価値観によって、殺人ができなかったのである。殺人にすべき事案であっても、社会から殺人ができない価値規範と感情・感性をもともと埋め込まれている善良な市民なので、死刑を避けることは、当然の社会科学的帰結である。

 特殊な状況において、職務として、人を殺さなければならない職業がある。つまり、合法的殺人をしなければならない職業である。例えば、軍人、警察官、裁判官、刑務官、医者、大臣である。軍人は、敵国の兵士を殺害し、自国を守る義務がある。警察官は、時と場合によっては、市民を守るために発砲することがある。裁判官は死刑の宣告、刑務官は執行をする。医者は妊娠中絶をする。大臣は、大臣として、戦争の決断、死刑の執行にかかわる。
 職務として殺人をしなければならないわけであるが、これらの殺人の正当性は、国を守るため、人命を守るため、保安のためとか正当化されている。人を殺すことが可能なために専門的訓練を受けているのではないかと思われる。
 
 裁判員に相応しい善良な市民ほど、殺人禁止という社会的価値観が強く埋め込まれており、殺人はできないのである。裁判員が死刑制度に賛成であったとしても、それは理屈の上での話であり、実際には殺人はしたくないのである。裁判員にとって、被告人は自分とは直接関係のない人物であり、恨みもないので、殺す理由はない。善良な市民は、自分に危害を加えていない人物を殺すことができない。
 一般市民である裁判員には、殺人ができるような職業的訓練が施されていないのである。そのために、心的外傷を受けるおそれがあるのである。

 裁判官から見たら法律的には死刑の事案であっても、裁判員が殺人ができないという社会の価値規範・感情・感性を身につけているために、正当な法律の適用が妨げられることになるのである。かくして、裁判員裁判における法律の適切な適用は困難になるのである。

 裁判員制度は、社会学者による「人は人を殺さないようにできている」という社会科学的事実を無視した制度なのである。確かに、徴兵制がある国では、合法的殺人に対する敷居が低く、市民が訓練を受けており、合法的殺人に躊躇はないが、日本のような徴兵制のない国では、合法的殺人に躊躇するのである。

 制度設計の際に、法曹関係の専門家は社会学の真理を無視したために、適切な法律の適用ができなくなったのである。もし裁判員制度を可能にしたいのなら、全ての市民に合法的殺人ができるように訓練しないといけないことになる。あるいは、死刑制度を廃止するかである。
 裁判員制度を存続したいのなら、国家が合法的殺人に躊躇しないという価値規範・感性を国民に教育するか、それとも死刑を廃止するのか選択する必要がある。

 テレビの前に座り、報道される凶悪犯罪の容疑者に「世の中は犯罪者に甘い。そんなやつは、すぐに死刑にすべきだ!」と豪語している小市民的道徳オヤジほど、実際には自分が直接合法的殺人をする勇気はないのである。ただ、そのような小市民的道徳オヤジの公憤が厳罰化の国民の声として、裁判員制度ができたのは皮肉である。無責任発言の代償として、自分で手を汚してもらうことになるのである。一連の厳罰化の流れが、事件や裁判などの刑事司法的現実を自分の世界の出来事ではなく、テレビの中の出来事だと妄想し、無責任発言を連発している小市民的道徳オヤジであることはもう許されないのである。
 刑事政策は国家の犯罪に対する戦争である。この戦争のために職業専門家ではなく、国民が裁判員として徴兵されているのである。裁判員制度は、全国民が合法的殺人をしなければならない司法的徴兵制なのである。

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by merca | 2010-11-03 10:31 | 社会分析