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耳かき殺人事件・・・善良な市民=裁判員は人を殺せない?

 報道によると、耳かき殺人事件の裁判員裁判による判決が、被害者の意に反して、死刑ではなく、無期懲役になった。裁判員は、自己の感情・価値観に忠実に従ったと言われている。そのことは次の事実を証明している。 
 人間は、もともと人を殺すことができないようにつくられている。これを社会化という。特に、近代化した社会では、自国の人間だけではなく、全ての人間を殺してはいけないという感性が人々に埋め込まれているのである。これは、理念的な価値規範だけではなく、好悪のレベル=生理的レベルにおいてもそうである。まともに社会化された人間は、殺人は悪であり、また殺人をするのは生理的に嫌であると感じるのである。
 要するに、推測するに、耳かき殺人事件の裁判員は、自身が社会から埋め込まれた感情・価値観によって、殺人ができなかったのである。殺人にすべき事案であっても、社会から殺人ができない価値規範と感情・感性をもともと埋め込まれている善良な市民なので、死刑を避けることは、当然の社会科学的帰結である。

 特殊な状況において、職務として、人を殺さなければならない職業がある。つまり、合法的殺人をしなければならない職業である。例えば、軍人、警察官、裁判官、刑務官、医者、大臣である。軍人は、敵国の兵士を殺害し、自国を守る義務がある。警察官は、時と場合によっては、市民を守るために発砲することがある。裁判官は死刑の宣告、刑務官は執行をする。医者は妊娠中絶をする。大臣は、大臣として、戦争の決断、死刑の執行にかかわる。
 職務として殺人をしなければならないわけであるが、これらの殺人の正当性は、国を守るため、人命を守るため、保安のためとか正当化されている。人を殺すことが可能なために専門的訓練を受けているのではないかと思われる。
 
 裁判員に相応しい善良な市民ほど、殺人禁止という社会的価値観が強く埋め込まれており、殺人はできないのである。裁判員が死刑制度に賛成であったとしても、それは理屈の上での話であり、実際には殺人はしたくないのである。裁判員にとって、被告人は自分とは直接関係のない人物であり、恨みもないので、殺す理由はない。善良な市民は、自分に危害を加えていない人物を殺すことができない。
 一般市民である裁判員には、殺人ができるような職業的訓練が施されていないのである。そのために、心的外傷を受けるおそれがあるのである。

 裁判官から見たら法律的には死刑の事案であっても、裁判員が殺人ができないという社会の価値規範・感情・感性を身につけているために、正当な法律の適用が妨げられることになるのである。かくして、裁判員裁判における法律の適切な適用は困難になるのである。

 裁判員制度は、社会学者による「人は人を殺さないようにできている」という社会科学的事実を無視した制度なのである。確かに、徴兵制がある国では、合法的殺人に対する敷居が低く、市民が訓練を受けており、合法的殺人に躊躇はないが、日本のような徴兵制のない国では、合法的殺人に躊躇するのである。

 制度設計の際に、法曹関係の専門家は社会学の真理を無視したために、適切な法律の適用ができなくなったのである。もし裁判員制度を可能にしたいのなら、全ての市民に合法的殺人ができるように訓練しないといけないことになる。あるいは、死刑制度を廃止するかである。
 裁判員制度を存続したいのなら、国家が合法的殺人に躊躇しないという価値規範・感性を国民に教育するか、それとも死刑を廃止するのか選択する必要がある。

 テレビの前に座り、報道される凶悪犯罪の容疑者に「世の中は犯罪者に甘い。そんなやつは、すぐに死刑にすべきだ!」と豪語している小市民的道徳オヤジほど、実際には自分が直接合法的殺人をする勇気はないのである。ただ、そのような小市民的道徳オヤジの公憤が厳罰化の国民の声として、裁判員制度ができたのは皮肉である。無責任発言の代償として、自分で手を汚してもらうことになるのである。一連の厳罰化の流れが、事件や裁判などの刑事司法的現実を自分の世界の出来事ではなく、テレビの中の出来事だと妄想し、無責任発言を連発している小市民的道徳オヤジであることはもう許されないのである。
 刑事政策は国家の犯罪に対する戦争である。この戦争のために職業専門家ではなく、国民が裁判員として徴兵されているのである。裁判員制度は、全国民が合法的殺人をしなければならない司法的徴兵制なのである。

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by merca | 2010-11-03 10:31 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)

東浩紀・宮台真司著「父として考える」書評

 東浩紀・宮台真司著「父として考える」という新書が出ている。これは、デリダのポストモダン思想を受け継いだ郵便的脱構築で有名な東浩紀と、ルーマン社会学を受け継いだ社会学の巨人・宮台真司の対談である。
 
 二人と言えば、俗流若者論批判者である後藤和智から批判されているのは周知のとおりである。思想地図においては、今や事実やエビデンスを絶対化する後藤氏らの事実主義思想の登場によって、観念的なポストモダンの論客は時代遅れとして否定されつつある。事実に基づかない反自然科学的な知識体系として、東浩紀や宮台真司らの思想は、駆逐すべきであるというわけである。
 今後、ニセ科学批判運動と同じく、学問の世界において、反自然科学的な知識体系が魔女狩りされていく傾向は強まっていくと考えられる。ルーマン社会学の観点からは、これは、ある意味、科学が自律性のあるシステムとして分出している現代社会では、仕方のないことである。(理論)社会学に残されている道は、社会思想として社会統合と自我統合を担うことに特化されていくことしかないかもしれない。

 さて、そのような思想地図で起こっている戦争状態を踏まえた上で、本書で面白いことが書かれていたので指摘しておきたい。本書は、父として考えるという表題であるが、基本的には社会を語っている社会評論=社会解釈である。
 
 宮台氏は、自らがラディカル構築主義者であるにもかかわらず、鋭く社会構成主義を批判する。
 全てはつくられたもの、つまり構成されたものであるとしても、視座によっては構成されたものは構成されざる無為のものとして観察され、虚構ではなく、真理=事実として認識されるという。詳しく言うと、共同体に所属している内的視座から観察すると、共同体を支える価値規範や知識体系は、根拠のない物語ではなく、真実であるということである。例えば、雷を神様が怒っていると考える共同体があるとすると、その知識体系は共同体に所属する人々にとっては真理であると受け取られるということである。もちろん、共同体の外にいる者の外的視座から観察すると、根拠レスの虚構とうつるわけである。雷は神様の怒りという知識体系があることで、回っている共同体では、それは違和感なく人々に受け取られ、真理として機能するのである。
 とにかく、宮台氏の主張を私なりに解釈すると、一つの共同体を支える価値規範や知識体系は、共同体の外から観察した時には虚構であり、根拠レスにうつるだけであるので、社会構成主義のようにやみくもに全ての共同体の価値規範を全て根拠レスと見なし否定するのはおかしいと指摘しているのである。言い換えれば、社会構成主義者の視座は、一切の共同体から超越した常に外的視座からの観察であり、外的視座を絶対化しているわけである。外的視座のみが正しいわけでなく、内的視座によって相対化されなければならない。社会構成主義者が全ての共同体の価値規範や知識体系は根拠レスであり真実ではないという時、自らを絶対化しているのである。これは、悪しき相対主義である。悪しき相対主義は、内的視座から観察すると、共同体の価値規範が真実であるという事実を虚偽とみなす誤謬を犯しているのである。

 このように(内/外)という別の区別を再参入することで、社会構成主義=相対主義の盲点を見抜き、相対化した宮台は、やはり哲学においても一流と言わざるを得ない。
 ただ、内外の区別は流動的であり、内的視座からの観察と外的視座からの観察が弁証法的な関係に有り、他なくしては自己もない縁起関係にあることも踏まえなければならない。内的視座からは事実であり、外的視座からは物語となるが、事実と物語が相まって共同体と外部は可能になるのである。これはレヴィナス級の哲人である柄谷行人の論理でもある。
 とにかく、一つの知識体系は、ある視座からは真理となり、別の視座からは虚偽となるのである。絶対的な視座たる神の視点は存在し得ず、視座の差異によって、真理値がコロコロと変わるのである。このように考えると、科学はどんな場合でも、真理であるとする科学主義者の観念は誤謬であることがわかる。科学が真理だと思うのは、科学が真理だと信じられている現代社会に属している内的視座から観察しているからである。このことに関してニセ科学批判者は盲目である。
 
 宮台氏は、後藤氏に対してエビデンス厨というレッテルを貼っているが、後藤氏は、自然科学的手続きを経た知識のみが根拠があり事実だと見なしましょうという現代社会の約束事に忠実なだけなのである。つまり、後藤氏は、現代社会の価値規範に過剰適応してしまっているのである。ニセ科学批判者の菊池氏も同様である。後藤氏も菊池氏も、科学的手続きを真理の根拠とみなす社会でたまたま教育されただけの話なのである。ただ、そのような社会学的見解を彼らに言うと、相対主義だと我々は見なされるのである。端的に言うと、彼らは、自己の視座を再帰的に認識できず、相対主義者よりも、視野が狭いということになる。それだけの話である。
 
 何を知識の正しさの根拠と見なすかは、社会によって異なり、その差異を観察するのが社会学の役目である。

 参考
 記憶が定かではないが、確か社会学者芹沢一也が脱社会性という言葉によって少年を怪物化し治安悪化神話の片棒を担いだと宮台氏を批判していたが、それに対して何かの書物で宮台氏が視座と視点の混同であると反論していたことがあったと思う。これが何を意味していたのかわからなかったが、もしかしたら、宮台氏は、体感治安という人々の内的視座による観察を一方的に非真実として棄却し、犯罪統計という外的視座のみを真理として絶対化する治安悪化神話論批判者の在り方を批判したのかもしれない。

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by merca | 2010-10-24 08:31 | Trackback | Comments(0)

社会学玄論講義 相対化作法の類型5

 (別の区別の再参入)
 自己言及のパラドックスは、相手の言説が準拠する(相対/絶対)、(原因/結果)、(目的/手段)、(真/偽)、(善/悪)などの区別を暴露し、同じ区別を自己適用させることで、決定不可能な自己矛盾を指摘し、否定に追い込む方法であったが、それとは逆に、相手の言説が準拠する区別とは全く異なる区別を投入することで、相手の言説を相対化するとともに、コミュニケーションの契機として取り入れていく手法がある。それが、別の区別の再参入である。つまり、相手の言説を別の区別に準拠する観察点から観察し、コミュニケーションを連接さていくということである。相手の言説は別の意味に変容されることで相対化されるものの、コミュニケーションの中に別のかたちで生かされていくのである。
 これは、自己言及のパラドックスに陥り、コミュニケーションが行き詰まった時に、脱パラドックス化の手段として使用することもできる。
 
 宮台真司が、殺人がなぜ悪いかという哲学的難題について、別の区別の再参入によって脱パラドックス化を図ったのは有名である。殺人が悪であることは、哲学的議論として論証することはできない。なぜなら、善悪の基準を正当化するためには、その基準が正しいかどうかを判定するそのまた基準が必要になり、結局、基準の基準を無限遡及することになってしまうからである。善悪の絶対的な基準があってもなくても、道徳システムは成立しないのである。
 宮台氏は、このような道徳システムのパラドックス化を社会学の観点から救い上げたのである。道徳システムを(意味/強度)という別の区別に準拠して観察すると、善悪の絶対的な基準を論証しようとする態度は意味(理性)の立場に立っており、強度=好嫌や快苦の立場に立っていないことが暴露されることになる。さらに、社会学的に説明すると、社会は、仲間を殺すことはできないように人間を社会化しているのであり、社会化された普通の人間は殺人を生理的に嫌い殺人ができないようにプログラムされているのである。
 そこで、殺人がなぜ悪いかという問い自体は、いかにして社会が殺人を好むような人間をつくらないかという課題に変換され、コミュニケーションされていき、有意義化されるのである。善悪の究極的基準によって殺人禁止の道徳的根拠を見いだすという不毛な哲学論争は、社会学的観点から見事に相対化され、別のコミュニケーションへと変換され、有意義に連接していくことになるのである。

 科学は、認識と対象の一致という真理観を採用しているが、そのために認識と対象の一致を判断する基準そのものが正しいかどうか判断するそのまた基準が必要になり、最終的に対象と認識が一致しているという絶対的根拠を示すことができなくなる。(対象/認識)の区別に(対象/認識)を自己適用すると、パラドックスに陥る。かくして、対象と認識の一致として真理を捉える科学観は行き詰まることになる。そこで、構造構成主義などは、(対象/言葉)という別の区別から観察し、言葉(の使用法)の同一性から科学を根拠づけることで、客観性を担保しようとする。
 また、科学的真理の正しさは、事実についての認識の正しさという観点ではなく、利用可能性や説明可能性の観点から判断するということも可能である。すなわち、科学的真理が、事実についての絶対的に正しい認識であるかどうかが最終的に判断できないのなら、(利用可能/利用不可能)あるいは(説明可能/説明不可能)という別の区別から判断して正しさとすることもできるわけである。
 利用可能性とは、科学的真理が様々な目的のために利用価値があるかどうかである。現代人の生活は科学的知識を利用することで成立っている側面が多く、その意味では科学は真理として見なすことができる。また、あらゆる現象を説明する能力も科学は高いのであり、説明可能性からしても真理として見なすことができる。
 科学は、事実についての認識の正しさ、つまり対象と認識の一致という真理観を採用しなくても、現代社会では、利用可能性、説明可能性という観点から真理として正当化できるのである。対象と認識の一致という古い科学観に拘り続け、事実は一つしかないという観点から、他説をニセ科学として否定するニセ科学批判者の科学観は素朴で古すぎるのである。対象と認識の一致という真理観を採用する古典的科学主義こそがニセ科学批判者の科学観の本質である。真理の効用説=科学の利用可能性や真理の整合説=科学による説明可能性に基づいた新しい科学観からしたら、ニセ科学批判はナンセンスなのである。
 
 とにかく、別の区別の再参入は、相手が準拠する区別とは、別の区別から相手の区別を観察し、相手の区別それ自体を自己の区別の片方の項に入れ込むことで相対化し、コミュニケーションを連接していくわけである。重要な点は、相手の区別それ自体をうまく自己の区別の片方の項に入れ込む作業であり、入れ込みがうまくいかないと、コミュニケーションは連接していかないことになるので注意しないといけない。闇雲に、どんな区別からでも相手の区別を観察できるわけではなく、何でもありの相対主義にはならないことを釘をさしておこう。一つの目的によってなんでも他者の区別を手段化する方法とは一線を画するのである。
 斜めから別の区別を投入する技は、極めて社会学的センスが求められ、宮台レベルのコミュケーションの達人論客にしか使えない技と知るべきである。

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by merca | 2010-09-20 12:47 | 理論 | Trackback | Comments(0)

(目的/手段)という区別の脱構築

 (目的/手段)という二項図式においては、手段よりも目的のほうが時間的にも先にあり、価値論的にも優位であると考えられている。しかし、この二項図式も脱構築されてしまう。
 
 一般に行為の意味は、他者から(目的/手段)という枠組みで解釈され、人々に理解可能なものとなる。つまり、目的が手段たる行為をつくりだすのではなく、行為は他者に解釈されることで、後付けで目的がつくられる。他者に理解可能でコミュニケーションされた行為のみが、社会的事実だとすると、行為の目的や意味はあとでつくられるものである。目的があたかも時間的に先行したと思うのは、一つの錯覚である。犯罪行為の目的や動機が取調べ機関の濾過を経て、社会的に形成されることはよく知られている。行為の意味はあとから付与されるのである。
 
 とにかく、このように手段たる行為が先にあり、手段を条件として、他者の観察によって目的が形成されることになる。コミュニケーションとは、情報、伝達、理解の選択過程であり、特に他者がどのような区別を選択して理解するかが重要なのである。コミュニケーションの事後成立性は、目的と手段の優劣関係を逆転させることになる。
 
 また、(原因/結果)という区別から観察すると、手段が原因となって目的達成という結果を生み出すわけであり、これまた手段が目的をつくりだすことになる。目的は手段に依存していることになる。
 
 実は、何か目的があって手段を選択するというのは、意識システムの次元だけの話であり、意識システムにおいてのみ手段は目的に先行することになる。行為者の意識システムの目的や意図とは別様に、行為は他者による観察によって目的や意味が付与され、コミュニケーションされていくことで、社会的事実となるのである。

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by merca | 2010-09-18 09:01 | 理論 | Trackback | Comments(0)

児童虐待は、個人や社会でなく、家族責任。

 貧困・虐待・犯罪の原因・責任を,個人と社会に分ける考え方があるが、(個人/社会)という区別はあまりにも単純すぎる。社会といった時に、それが何を指すのか全く論じられていないからである。社会といっても、仲間集団、家族、企業、国家、社会階層、市場など色々なレベルがある。それを抽象して、社会と一括りにしては粗雑な議論になる。
 例えば、児童虐待の原因は、核家族化にあり、国家や社会全体に問題があるのではなく、家族に問題があるのである。祖父母が同居する直系家族であれば、祖父母による育児サポートや監視があるので,虐待コミュニケーションは起きないとされる。虐待を防止できないのは、個人や社会のせいではなく、家族形態のせいである。育児に有利な家族形態を選択しなかった個々の家族の責任である。
 貧困も犯罪も、社会のせいではなく、多くは家族関係に規定されている。貧困化は、単身生活で起こりやすい。祖父母が年金生活をしている場合、ニートやフリーターでも食べていける。一人ずつの収入が少なくても、共同生活をすれば、やっていける。私は、家族と喧嘩して故郷に帰れず、ホームレス化した派遣社員をよく見てきたが、多くは家族関係の解体が背景にある。
 犯罪・非行の原因も、もとをたどれば、離婚や家族関係の悪化が背景にあったりする。社会と個人のどちらに原因・責任があるのかという議論は、家族に原因・責任があるという根本的な視点を隠蔽する。湯浅氏の反貧困論の思考枠組みである(個人/社会)という区別コードは、家族問題を隠蔽する装置としてはたらいている。 また、高齢単身世帯の問題も、自分の子供が親と同居しないことからくる問題である。最近の貧困・虐待・犯罪という社会病理現象は、家族というシステムが社会の構成単位として十分に機能しなくなったことに起因している。
 この社会的事実を隠蔽するのが、(個人/社会)という単純な思考方法である。個人と全体社会の間には、多くの組織システムがあり、原因・責任の帰属はそれらのシステムに負わせることも可能なのである。家族責任という社会的概念をつくり、個人と社会という単純な思考方法から解脱する必要がある。

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by merca | 2010-08-22 11:35 | 社会分析 | Trackback | Comments(2)

真理のコミュニケーション説(社会学の真理観)

 社会とは、コミュニケーションを要素とするシステムである。経済、法律、教育、政治、宗教、科学などは、社会そのものではなく、コミュニケーションを要素とするシステムたる社会が生み出した産物(人工物)=社会現象にしかすぎない。
 しかし、経済システム、法律システム、教育システム、政治システム、宗教システム、科学システムとなれば、それぞれ独自のコードに準拠したコミュニケーションを要素とするシステムであり、社会である。社会学独自の対象は、コミュニケーションを要素とするシステムであり、経済、法律、教育、政治、宗教、科学は社会学そのものの対象ではなく、それ故、これらの社会的産物を扱うのは、経済学、法律学、政治学などの他の社会科学である。

 社会そのものと社会的産物(人工物)との区別は、社会学にとって非常に重要である。例えば、犯罪発生率、人口増加率、経済成長率、貧困率、科学的真理などは、コミュニケーションの外にあるもの、つまり社会の外にあるものである。これらの社会的産物は、人々に情報や知識や思想としてコミュニケートされてはじめて社会的事実となる。実は、犯罪発生率、人口増加率、経済成長率などの統計的事実を語ることは、社会そのものを語ることにはならない。社会そのものを語るためには、それらの社会的産物についてのコミュニケーション過程を語らなければならない。
 
 ところが、どんなかたちであれ、社会について語ることが社会をつくるという自己言及的側面を忘れてはならない。語るとは、すでにある種のコミュニケーション過程であるからである。
 ただし、厳密にいうと語るだけでは学コミュニケーションを創発したにすぎない。人々が実演することで本当の意味での社会的事実となる。経済成長率が上がったという情報がマスコミで人々に伝えられ、その情報に促され、消費行動=売買コミュニケーションに変化が生じた時には、社会的事実となる。また、治安が悪化したというマスコミの報道を人々が受けて、それを信じて人々が防犯活動をしだした時には、社会的事実となる。このように人々のコミュニケーション過程の内実に影響を与えることができた時のみ、社会的産物は社会的事実となる。
 社会学的発想からは、コミュニケートされないものは実在しないのである。つまり、実在するとは、コミュニケートされることである。科学主義者ドーキンスがどういおうが、神についてのコミュニケーションが接続されるかぎり、社会学的には神は実在するのである。これは、物理的事実と対等の実在性をもつ。
 ここで釘を刺しておこう。物理的事実のみが本当の実在性だと考えるのは、科学至上主義者の発想である。学問的には、物理的事実も社会的事実も心理的事実も同等の実在性をもつ。神は物理的事実としては無であるかもしれないが、社会的事実や心理的事実としては実在するのである。物理的世界、社会的世界、心理的世界の三つは対等であり、物理的世界のみが正しいとするのは科学絶対主義者の偏った発想なのである。

 とにかく、このような真理のコミュニケーション説こそが、社会学の真理観である。犯罪発生率や人口増加率という社会外の事実をもって社会を客観的に語ったという人たちは、社会学とは何であるかをまったく理解していないのである。理論社会学を勉強していない社会学の素人である。
 コミュニケーション過程に無関係な事実は社会学的には価値はなく、そもそも原理的に社会学の対象外である。これらは、他の社会科学に委ねるべきなのである。

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by merca | 2010-08-22 09:21 | 理論 | Trackback | Comments(0)

ホメオパシーは科学的である故に、批判される。

 私がブログ夏休み中にすごいことになっていた。システム論をペースにしたネット論客である情報学ブログさんのブロクが炎上したようである。
http://informatics.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-5cb3.html
「科学はホメオパシーを否定できない」というニセ科学批判者の道徳意識を逆なでするタイトルにも炎上の原因がある。はてブもすごいことになっている。「科学はホメオパシーを否定できない」というタイトルがニセ科学批判者によるブログ炎上プラスはてブの多量批判コメントを招くことぐらいは、もはや情報学の池田氏なら、情報学的に予測していたことと察する。
 ブログ炎上ついては、今更という気がするので、何も言わないが、気になったのは、ホメオパシーそれ自体である。
 
 情報学さんの主張は、ホメオパシーが西洋近代医学=科学の論理と根本的に異なる故に、科学によってホメオパシーが否定されないという意味と受け取った。システム論的には、もし異なる論理=異なるコードに基づくのなら、互いに閉じており、互いに否定することができなくなるので、情報学さんの理解は正しいと思う。
 
 しかし、ホメオパシーは、西洋近代医学と根っこは同じであると言いたい。そもそも創始者のサームエル・ハーネマンは西洋ドイツの医者である。つまり、西洋近代医学の人である。ただし、実証的な根拠が希薄であり、類似の法則などと称する飛躍的な仮説を立てていることから、批判されているだけである。医学の歴史からすると、これは西洋医学内の闘争、つまり科学内部の闘争である。ホメオパシーは未発達な西洋医学であり、現代の科学からすると誤りであるということである。ホメオパシーは未発達な誤った科学であり、現代の科学者から批判されても仕方がない。
 ホメオパシーが科学と共有している部分があるから、科学から批判されることになる。ホメオパシー理論に基づいた「水の記憶」を発表したジャック·ベンベニストも、科学者である。
 とにかく、これは、科学内部の闘争だから、科学自身が自己言及的に真偽の決着をすることになる。ホメオパシーの論理は、神や心霊などの宗教と比較すれば、明らかに科学と認識枠組みを共有している。科学と同じく、物質世界の因果関係を対象としており、なおかつ実験的な方法を取り入れている。ホメオパシーの本質は、できそこないの科学である。それ以外、言いようがない。
 ただし、ニセ科学批判としてよりも、医学(科学)論争として決着をつけるべきことがらである。また、多くの場合、ニセ科学を生み出すのは、当の科学であり、科学の自己責任である。

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by merca | 2010-08-16 00:14 | Trackback | Comments(0)

反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く

 社会に貧困の原因や責任があるという反貧困思想の原理的本質は、椅子とりゲームという理論的物語にある。反貧困思想にとって、このモデルは、社会契約思想の原初状態の物語に匹敵する理論的仮定である。
 椅子とりゲームとは、要するに、椅子の数がゲーム参加者の数よりも少ないために必ず椅子に座れない脱落者が出るという仕組みをもつシステムである。敗者こそが貧困者となるわけである。
 重要な点は、反貧困思想では、敗者に敗因があるのではなく、椅子の数に原因があると考える点である。椅子の数は社会の喩え、ゲームでの敗者は貧困者の喩えであり、椅子の数が少ない社会が悪いと考えるわけである。必ず敗者=貧困者が出るという社会の仕組みこそが貧困の原因であり、従って社会を変革する必要があると考えるわけなのである。
 
 ところが、果たして椅子の数に敗者の敗因はあるのであろうか? 敗者がでるのは、椅子の数に原因があるのではなく、参加者の数に原因があると考えることもできるのである。参加者が椅子の数よりも多いことが原因であり、椅子の数には原因はないとも考えられるのである。つまり、一方的に椅子の数=社会が悪いと決めつけることはできず、ゲームの参会者側に原因があるとも言えるわけである。椅子の数は限られているのに、それを見極めず、闇雲に座ろうとする参加者の方に原因があるのではないか?
 
 例えば、宝くじが当たらないのは、宝くじのシステムの責任であるといい、宝くじの主催者を訴える人間はいるだろうか? 宝くじが当たらず、はずれて損した責任は、宝くじを自由意思で買った本人の責任である。それと同じであり、椅子取りゲームに参加して敗者になったのは、敗者がゲームに参加した自己責任なのであり、決して椅子の数に原因があるわけではない。
 競争倍率を考えずに、ゲームへの参加を選択する個人責任なのである。コンテストの脱落者、受験の失敗、これらは本人に原因があると見なすのが普通の考えであり、落ちたからといって、コンテスト主催者や大学を訴える人はいないのである。椅子とりゲームもこれと全く同じなのに、反貧困思想のトリックに騙され、貧困は社会が悪いと思わされているのである。
  それでも社会が悪いと言えるためには、富が人々に平等分配されるべきあると国家社会が約束した時のみである。全ての参加者が椅子に座れるようにしますと約束したときのみである。つまり、完全平等主義の社会が正しいと人々が合意したときのみである。反貧困思想の椅子とりゲームのモデルを見て、社会を変えるべきだと思ってしまう人は、自身が完全平等主義が正しいという前提を所有しているだけなのである。
 繰り返して言うと、反貧困思想の椅子取りゲームのモデルでもって社会が悪いと主張できるのは、平等主義が正しい場合のみであり、そうでない場合は全く正当化できないのである。
 要するに、反貧困思想の本質は、単なる結果の平等主義のイデオロギーである。これが結論である。従って、平等主義に賛成しない人たちを説得できないのである。
 
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by merca | 2010-06-05 10:10 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)

反貧困思想は、努力主義を否定する。

 貧困の原因は社会にあると考える反貧困思想からすると、当然のごとく、富裕の原因も社会にあることになる。つまり、貧富格差は、社会に原因があり、貧困も富裕も、自己責任ではないというのである。
 一流企業の役員、医者、高級官僚たち、タレント、スポーツ選手など、これらの高給の人々は、みんな自己の努力の結果ではなく、たまたま社会の恩恵にあずかって裕福な生活をしているだけということになる。自己選択に基づく自己の努力の結果によって裕福になったわけではないことになる。反貧困思想からすると、必死に勉強して東大に入り裁判官や医者になった青年も、下積み生活を忍しんで成功した漫才師も、日々の激しい練習に耐えて技術を磨いてきたプロ野球選手も、みんな本人の努力の結果で、裕福になったわけではないことになる。
 
 貧困の社会的原因のみならず、裕福の社会的原因も分析して、はじめて貧富格差の社会原因説は完成する。反貧困思想が、社会科学的に富裕の社会的原因を精緻に分析しているとは思えない。
 それはともかく、貧富格差を、自己責任ではなく、社会責任に求める理論は、全て努力主義的価値観と衝突する。自分の為した行為の結果が自分の社会的地位を決定するということがないのなら(要するに努力しても社会的に報われないのなら)、努力は不必要となるからである。

 個人の才能、勤勉、努力と貧富格差が無関係であるという説は、次のような社会哲学的前提に基礎付けられている。それは、たまたま生まれ落ちた社会がある特定の才能、勤勉、努力が生み出す成果を高く評価する社会であるからだという考えである。例えば、野球のない社会では、野球が出来ても裕福にはなれないわけだから、ブロ野球選手は単に野球のある社会の恩恵によって裕福になっているだけの話なのである。また、未開社会に生まれたら、いくら頭がよくても腕力がないと獲物をとることができず餓死するわけであり、腕力のない学者が高給を得ることができるのは、現代社会のシステムの恩恵に授かっているだけである。
 このように、生まれ落ちた社会の価値基準によって、貧富格差が決定されるわけである。つまり、人間は生まれてくる社会を自己選択できないという意味において、個々人の貧富格差(社会的資源の差別的分配)は自己責任ではないというのである。これを社会的生の根源的偶然性と呼ぼう。
 そして、社会的生の根源的偶然性=所属社会の自己選択不可能性は、人々に一定の不条理観を与えることになる。その結果、社会を悪とし、社会を変革しなければならないと考えだす。それが社会思想である。マルクス主義や反貧困思想もその一つにしかすぎない。社会思想は、社会的生の根源的偶然性が生み出す不条理を解消する社会変革計画を打ち出すことで、不条理を強いられる人々を解放しようとする。

 確かに、貧富の格差は、社会哲学的には根源的に偶然であり、自己選択性や自己責任とは無関係であるように見えるが、社会学的には自己選択性や自己責任として観察するほうが科学的であることを次の記事で述べたいと思う。
 つまり、貧富格差の社会原因説をとるよりも、貧富の差の自己原因説をとるほうが、明らかに社会学的、科学的であることを論証したい。
 浅学のブロガーたちは、貧富格差の社会原因の探求こそが社会学の役割だと勘違いしているようである。実は、事態は全く逆であり、貧富格差の自己責任論・自己原因論こそが社会学の立場であることを明かそうと思う。

 ひとまず、ここでは、反貧困思想が努力主義を否定する思想であることを確認しておくこととする。

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by merca | 2010-05-29 22:25 | 社会分析 | Trackback | Comments(0)

コミュニケーションの事後成立性


 マックス・ヴェーバーは、行為の主観的意味が他者に理解されることで、社会的行為が成り立つと考えた。この場合、程度や質の差はあるものの、一応、行為の主観的意味は目的-手段図式で表され、理解されることになる。行為は、社会の最小単位である。別の観点からは役割とも呼ばれる。行為を要素として成立するシステム論を行為システム論という。パーソンズの社会システム論は、行為(役割)システム論である。
 
 ところが、ルーマンは、行為者自身の主観的意味を行為の社会的意味とするのではなく、他者による解釈を優先させ、行為を他者がどう解釈するのかというところに力点を置き、社会システムの要素をコミュニケーションとした。このことの意味は大きく、行為者の自己完結した主観的意味や他者と共有する解釈枠組とは関係なく、コミュニケーションが発生するという事態を意味する。この考えにより、より多くの社会現象を記述することが可能になった。行為者の主観的意味を他者が誤解していても、コミュケーションは連接していくということである。

 コミュニケーションは、情報、伝達、理解の三構成要素の選択過程からなる。例えば、レンタルビデオ屋でビデオを借りる際に、客がレジにビデオを置き、店員が「何日借りますか。」と言ったとする。この場合、客は多くの情報から「ビデオを借りる」という情報を選択し、多くの方法からビデオをレジに置くという方法を選択して伝達したことになり、一方店員は数多くの理解枠組みから客がビデオを借りるということだと理解し、「何日借りますか?」と言ったということになる。そして、客は「3日」と答え、現金を払い、コミュニケーションは連接していく。
 しかし、例えば「何日借りますか?」という店員の言葉に、客が「いやこのビデオが床に落ちていましたよ」と答えたとすると、店員は最初の理解を訂正し、「かたずけておきます。ありがとうございます。」と言うだろう。この場合、客の意図は「ビデオが床に落ちていた」ということを伝えたかっただけであるが、それを店員が誤解しても一連のコミュニケーションは続くことがわかる。また、時と場合によっては、誤解されたままでも、コミュニケーションが続くことはある。
 コミュニケーションの意味の確定は、連接する次のコミュニケーションによって確定することを、コミュニケーションの事後成立性という。重要な点は、コミュニケーションが連接していく限り、一区切りのコミュニケーションは、いつでも別の意味として解釈される可能性があることである。つまり、一つのコミュニケーションは、仮に意味を同定されているだけであり、究極的には不確定であるということである。

 例えば、これは、ブログにおける議論コミュニケーションにおいても重要であり、発言の意味内容の同一性は究極的には不確定なのであり、実体として固定化されてあるわけではない。発話者の主観的な意味が普遍かつ不動のコミュニケーションの意味ではないのである。
 コミュニケーションの事後成立性を掘り下げることで、社会なるものが創発する仕方を探求したい。

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by merca | 2009-01-18 19:28 | 理論 | Trackback | Comments(0)