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アドラー心理学は、実証科学ではなく、思想。

 アドラー心理学が流行りすぎている。今やニーチェよりも流行っており、人々に受け入れられている。
 しかし、まずは、アドラー心理学は、科学ではなく、思想であることを理解する必要がある。残念ながら、アドラー心理学には、実証科学的根拠はないのである。因果律ではなく、目的論を採用していることからも、それはわかる。科学は、統計学的手法により、因果図式で対象を捉えるからである。

 アドラーは、無意識が人の精神や行動を規定するという因果律を唱える精神分析学を否定する。また、過去のトラウマが精神状態に影響を与えるという因果律を唱えるトラウマ学(ハーマン)を否定する。人間は、因果律で動くのではなく、主体的に体験を意味付けることで、与えられたものを利用するという立場を取る。
 従って、目的によって選択された意味付け次第で精神や行動はいかようにもなると考える。さらに、個人は、性格分類等で分析的にバラバラにして捉えることが不可能であると考え、個人心理学という立場をとる。不可分の個別性は、実証科学の外である。科学は、反復する一般性のみを対象とし、唯一無二の個別性は対象にできないからである。主観によって、世界や体験を解釈するというのなら、心理構成主義の一種とも言えるかもしれない。

 アドラーは、幸福になるための三つの原理を提示している。自己受容、他者信頼、他者貢献の三つである。
 自己受容とは、ありのままの自分を受け入れること。
 他者信頼とは、他者は敵ではなく、味方=仲間であるという感覚をもつこと。
 他者貢献とは、自分の価値は、他者の役に立つと思うことで得られること。
 これは、ロジャースがあみだした無条件の肯定的配慮、共感的理解、自己一致というカウンセリングの三原則に似ているが、アドラーの三原則のほうが範囲が広い。つまり、アドラーは、カウンセリング関係のみならず、人間関係一般を射程に入れているからである。

 アドラーは、この三原則を実践することで、人間は共同体感覚を得て幸福になれると考えている。簡単に言えば、いかなる他者とも仲良くし、善行を為すことで、他者とつながり合って、幸福になるという考え方である。これは、エゴイズムを否定する究極の性善説であり、科学的根拠はない。これを実践して幸福になった人間を調査し、統計的な因果関係が立証されないかぎり、科学とは言えない。思想のレベルにしかすぎない。
 
 しかし、私は科学的手法のみが正しいという固定観念からは自由なので、アドラーの思想が真理であるという可能性は否定しない。というよりか、近代社会では、アドラーの思想に反対する価値観をもっている人は少ないと思われる。アドラーの思想を所有することで、近代社会が平和になり争いがなくなるのに役立つのである。つまり、世界平和に役立つ思想である。平和を望む社会では、アドラーの思想は、(社会的)真理となるだろう。つまり、道徳的真理として機能するわけである。
 
 特に、アドラーのいう共同体感覚というのは、全ての他者との肯定的な関係性(仲間意識)を感じる感覚であり、個別の国家共同体を越えて、人類社会を含む宇宙全体を意味している。従って、個別の国家共同体という枠ではなく、人類社会という枠がより上位の共同体であり、国家間の争いや対立は相対化されることになる。人類はみんな仲間であり、戦争は否定されることになる。さらに重要なことは、世界の中心に自分をおくべからずと、アドラーは考えていることである。世界の全ての他者と対等に関係しているのが真実だと主張し、自己を中心におく思考では真に幸福になれないと考えているのである。これは、脱エゴイズムである。
 
 アドラー心理学は、平和な世界社会を可能にする思想なのである。しかし、アドラー心理学と同じような立場をとる思想や哲学は世の中に多くある。人々に注目される目新しさはどこにあるのかと思ってしまう。
 思想的には目新しくないが、人々に流行るのは、心理学という科学の装いをしていること、加えて全ての問題は人間関係にあると考える点だと思われる。つまり、心理学が科学だと思われており、科学のみが真理だと思っている現代人には受け入れやすいこと、さらに人間関係で悩む人が多い現代社会では、全ての問題は人間関係に帰着するというアドラーの価値観は適合的であるからである。

 いずれにしろ、アドラー心理学という思想が後期近代社会にどのように機能していくか見極めて行くことが、社会学の役目である。

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by merca | 2017-05-07 23:52 | 理論

時間的実体としての意味システム(意識と社会)

 生物体システムと意味システムの違いは、要素の配列の次元において、(空間/時間)という区別があることである。つまり、生物体システムにおいては、要素が空間に配置されており、意味システムにおいては時間に要素が配置されている。生物体は空間システムであり、意味システムは時間システムである。
 生物体システムの要素である細胞は、空間的に存在する。すでに過去に死滅した細胞は、現在のシステムの要素足り得ない。システムの内外環境も、空間的に存在する。
 
 しかし、意味システム(意識システムや社会システム)は、その要素である思考やコミュニケーションが、空間的に存在するのではなく、現在・過去という時間の配列の中に存在する。意識システムという意味システムにおいては、その都度の思考は、過去の思考(記憶)との関係で規定される。意識システムの要素は、現在意識化中の思念(要素)と過去に思考した複数の思念(要素)が連動し、要素間の関係が形成され、意識システムを創発させている。過去の思いと現在の思いが意識システムの要素となるのである。あるゆる意識が過去の意識(記憶)との関係で規定されることは明らかである。

 一方、社会システムの要素であるコミュニケーションは、現在生じているコミュニケーションと、直前や過去のコミュニケーションを合わせた集合である。複数の要素が、時間座標の中に収まっているのである。現在は消滅したコミュニケーションもシステムの構成要素として勘定のうちに入っているのである。もし現在生起しているコミュニケーションのみがシステムの要素なら、要素が単数となり、システムは成り立たない。複数の要素があって、かつ、それらの関係性があり、初めてシステムは成り立つ。

 コミュニケーションは、空間ではなく、時間に沿ってコミュケーションA→コミュニケーションB→コミュケーションC→コミュニケーションD→コミュニケーションEという具合に流れていく。この場合、A、B、C、D、Eと五つの時間を異にする要素からなる社会システムが生成することになる。Eの時点が現在だとすると、後の四つの要素は過去になるが、これらの過去のコミュニケーションがなければ、コミュニケーションEもシステムも創発されない。これらの5つのコミュニケーションが同一の区別コードでなされていると観察されて初めてシステムは創発される。
 そして、要素には順番、つまり序列的接続性がある。前のコミュニケーションそれ自体を観察することで、次のコミュニケーションが生ずる。曲(メロディ)に例えると、わかりやすい。音符という要素どうしの序列的つながりが曲を構成するが、過去の音符がないと、現在鳴っている音符が意味ある曲の要素として認識できなくなる。コードを外すと、不協和音となり、曲が成り立たない。曲は時間の中で生成する。同じく、意味システムも時間の中で生成する。曲も意味システムの一つである。
 
 社会システムは、時間システムである限り、三次元体としての物理的実体をもたない。社会は生物体のように空間に存在する物理的実体ではない。無論、意識システムとしての精神も、時間システムであり、空間に存在する物理的実体ではない。意味システムとしての社会システムも意識システムも、物理的実体ではないが、時間的実体をもち、存在するのである。また、意味システムにおいては、システムと環境の区別も、空間的になされない。意味境界によって区別される。
 このような空間に物理的実体をもたないにもかかわらず、確かに時間的に実在する意味システムなるものを発見したルーマンの功績は大きい。
 
 これは心身問題の解決策ともなる。すなわち、古来より哲学を悩まして来た精神と肉体の二元論問題の解決の糸口となる。生物体たる身体は、空間的システムとしての物理的実体であるが、意識=精神は時間的システムであり、時間的実体となるのである。心は時間に根拠をもち、身体は空間に根拠をもち、時空間の統合点として人間生命を捉えることができるのである。

 このように、存在の根拠について(空間的実体/時間的実体)という区別に基づき、存在を分類することが可能なのである。意識(精神)や社会は、時間的実体にカテゴライズされるのである。そして、時間的存在は、空間的存在と同等の実在性を有することを忘れてはならない。ここでは、存在(=システム)には、二種類があり、自らの要素が空間座標にある物質や生物、自らの要素が時間座標にある精神(意識)や社会に分類されることを押さえておこう。

 また、これまで、社会とその要素を空間的にイメージすることで、社会に対する認識に様々な誤謬が生じてきた。社会の空間的実体視である。例えば、国土の境界と社会の境界の混同することや、人間が社会の要素であるという考え方は、空間的実体のみが実存するという先入観に基づいている。時間的実体が確かに存在することを理解すれば、その先入観にとらわれなくてもすむのである。 

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by merca | 2016-10-02 07:23 | 理論

社会構築主義による観察 言葉(概念)が現実をつくる。

 社会構成主義における、言葉(概念)が現実をつくるとはどういうことか?
 それを説明してみたい。
 つまり、それは、言葉の意味する役割や機能を遂行することで、あとから現実が構成されるというメカニズムのことである。言葉が先にあり、後から認識対象が形成されるというわけである。
 簡単な例でいうと、一本の竹竿があり、ある人が釣り竿と見なし、釣り竿として使用できれば釣り竿となるし、別の人が武器と見なし、武器として使用すれば武器となる。また、さらにまた別の人が物干竿として使用すれば物干竿になる。このように一本の竹竿について、釣り竿、武器、物干竿という概念を付与し、そのように機能すれば、本当に釣り竿、武器、物干竿という認識対象が出来上がり、実在することになる。
 そして、釣り竿、武器、物干竿という三つの認識は、どれも正しく、相対主義となる。一つの対象に複数の認識が妨げ合わず成り立つわけである。認識主観の側に認識の原因があり、認識主観のもつ目的に応じて、複数の真理がある世界となる。一つの真理しか認めない自然科学とは異なり、社会科学の世界では複数の真理が成り立つ相対主義の王国となる。 
 要するに、以上のように、何々として見なして使用することで、後から認識対象が構成されることになる。

 また、別の角度の例をあげてみたい。例えば、教師は教員資格に合格して生徒に教えるという役割を遂行することで教師として世間から認められる。役割存在は、役割を遂行し、役割が他者から承認されてはじめて役割存在となるわけである。教師は最初から教師になる人物に内存していた性質ではなく、役割という概念が先にあり、役割付与とその遂行を通して後から現実が形成されることになる。
 一般化していうと、言葉を付与され、その機能を果たしたり、その役割を遂行することで、事後的に社会的現実が形成されることになる。
 虐待という言葉が人々の相互作用を通して虐待をつくり、セクシャルハラスメントという言葉が人々の相互作用を通してセクシャルハラスメントをつくる。感情のレベルでも、親からの体罰的躾を虐待と解釈することで、あとから虐待を受けたという恨みの感情が生まれることがある。感情さえも後から言葉によってつくられる。犯罪行為も、法律による裁判を通して犯罪として社会的に構成される。
  このように、社会的事実においては、言葉(概念)が先にあり、後から現実が構築される。ポンイトは、後から構成されたとしても、認識対象が全くの無ではなく、実在するものとして人々の前に現象化するということである。社会的事実は、人々の意識(意味世界)の外にあるのではなく、意識を離れては成り立たない意存的対象ということになる。社会構築主義の立場からは、人々の意識から全く独立した自存的対象としての社会はあり得ないと結論付けられることになる。ちなみに、社会のメカニズムや構造は、人々の意識から独立して実在する自存的対象であると主張する批判的実在論の立場とは全く異なるわけである。
 
 そこで、種々の分類概念や分析概念をつくりだす社会学者が気をつけないといけないのは、自らがつくった社会理論が社会思想として人々に作用し、本当に社会的事実となることである。いわゆる予言の自己成就である。社会学理論が社会をつくるのである。マルクス主義がそれである。
 批判的実在論も例外ではなく、批判的実在論の科学観が社会をつくるのである。社会構築主義の観点からすると、近代社会における批判的実在論の役割は、科学を確固たる真理として社会に流布し、科学を正常に機能させることである。

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by merca | 2016-01-03 12:26 | 理論

反社会学講座の盲点をつく・・・批判的実在論の観点から

 反社会学講座は、ほとんどの場合、人々の抱く常識を統計的データや史実によって否定し、常識と反対の命題を提示するという脚本で出来上がっている。これは一見すると、常識の根拠を問い直す社会学の方法とよく似ている。
 しかし、この脚本が読者に功を奏するのは、統計的データや史実こそが客観的な事実であるという常識が人々に流布しているからである。もし人々が統計的データや史実こそが客観的事実であるという真理観・科学観を抱いていなかったら、何のリアリティもパオロ氏の説に抱かないであろう。統計的データは、科学でもなんでもなく、特定の観点から現象を記述したものであり、様々な諸要因から生じた偶然の産物にしかすぎないのにである。 
 このように、パオロ氏は、多くの人々に共有されている共通の真理観・科学観を利用して逆説的な自説を真実に見せかけているのである。
 ここで、もしパオロ氏が本気で自説が正しいと思っているのなら、「統計的データ=客観的事実」という世間の常識に自らが染まっていることになる。
 パオロ氏は人々は常識や通説に騙されていると主張するが、自らも社会の常識に騙されていることになるのである。きちんと科学哲学を知っていれば、「統計的データ=客観的事実」という短絡的思考に行き着くことはない。また、自己の論理を自己適用しないところがパオロ氏が社会学でない証拠でもある。 
 
 具体的に示そう。
 さて、パオロ氏は、昔に比べると少年犯罪は減少しているという統計データでもって、古い世代の人間は今の世代の人間よりも凶悪であると結論付けている。本当にそうか?
 実のところ、これは、端的に社会条件を無視した議論である。戦後間もなくの日本社会と現代日本社会とでは、全く社会条件が異なる。戦後間もなくは、経済的、政治的にも不安定な社会であり、食べるのに困る人たちで溢れかえっていた社会である。また、教育制度や刑事政策制度も今のように進んでいない。そのような不安定な社会では、犯罪が多発するのは当然である。秩序は緩み、生きていくために犯罪をする人たちも多くいたわけである。
 
 このような社会条件を無視して、古い世代の人間は現代の世代の人間よりも凶悪であるというのは全くの戯論である。過度の孤立、貧困、失業が犯罪を生み出す要因になるという犯罪発生のメカニズム、それと犯罪抑制要因である刑事政策の進歩を無視した非科学的思考である。
 同一の社会条件のもとで、犯罪が減少したのなら今の若者のほうが凶悪でないと言えるが、このように著しく社会条件が異なるのに同列に比較し評価する彼の手法は明らかに科学的に間違いである。
 
 また、逆に戦後社会が安定して教育制度も充実化して来たにもかかわらず、犯罪をする現在の少年の方が凶悪化しているとも言えるわけである。殺人をしてみたいから殺したという理由のない殺人=脱社会性の少年による猟奇的犯罪のほうが明らかに凶悪である。
 社会学者宮台氏の分析のほうが優れているのである。質的観点からいうと、裕福な家庭に育ち理由なき猟奇的殺人をする現代の少年のほうが、貧困にあえぎ食うに困って強盗する戦後間もなくの多数の少年よりも明らかに凶悪である。

 他にも、パオロ氏は、近代化論を無視して、前近代社会である江戸時代の日銭稼ぎの就労者と後期近代社会である現代のフリーターを同列に扱い、フリーターになることを奨励したりしている。社会条件が全く異なるのに、過去の日本人と現在の日本人を単純比較し、昔はパラサイトシングルやフリーターも肯定されていたみたいな説を唱えている。 

 いずれにしろ、ほとんどパウロ氏の議論は、故意かどうかわからないが、社会条件を無視して、比較できないものを比較するという過ちを犯している。この過ちは、「統計的データ=客観的事実」と考える統計的実証主義の科学観にありがちな誤謬である。パウロ氏には、批判的実在論を勉強することを勧めたいものである。

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by merca | 2016-01-01 22:47

「批判的実在論を考える」第2回 社会構築主義の克服

2 批判的実在論は、社会構築主義を克服したか?
 批判的実在論は、社会構築主義と一線を画する。社会構築主義は、科学も含む全ての人間の知識は社会的に構成された相対的なものであり、客観的なものではあり得ないと主張する。しかし、批判的実在論においては、人間の意識とは独立に外界に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとり、それらを把握することが科学の目的であると主張する。
  実験という方法で「閉じられた系」を作り出し、近似的に生成メカニズムや構造を解明していくことになるという。実験は意識が予測していない結果を出してくれるわけであり、意識の外にある自然界からの応答であるとも言える。つまり、人間の意識とは独立した自然界からの反応をメッセージとしてキャッチすることが実験の目的である。このような実験の意義については、自然科学の世界では当たり前の話であり、何も批判的実在論でなくても、たぶん科学者は普通にそのように考えていると思われる。実験が意味をもつためには、意識とは独立した存在=自存的対象を前提とする必要があるというわけである。
 さて、ここでポンイトは、外界に実存すると言っても、素朴実在論や経験的実在論のように経験的に存在する事物が実在すると言っているわけではないのを押さえておく必要がある。経験的に実在する事物は、意識によって加工された意存的対象にしかすぎない。例えば、目の前にあるイスや机などである。これらのように意識によって認識された目に見えたままの世界は、実在物ではなく、かえって意識や言葉によって構成されたものにしかすぎず、社会構築主義によってその実在性を骨抜きにされるのである。
 要するに、批判的実在論は、直接観察可能な事物=現象が実在すると言っているではなく、直接観察不可能であり実験でしか把握できないものこそが実在すると言っているである。この直接観察不可能で経験を越え、実験の積み重ねによる論理的推論やリトロダクションでしか捉えることができないものとは、生成メカニズムや構造のことであり、これのみが意識や社会による構成とは別に、世界で実在するというのである。
具体的にいうと、イスや机は意識によって把握された概念的存在=人工物であるが、イスや机を構成する木の細胞や細胞を構成する分子は実在するというのである。おそらく自然階層ごとの一個体のみが実在するということになると思われる。このような立場は、自然科学においては、科学的実在論というかたちで、洗練化されつつある。批判的実在論は、どらちかというと、社会科学をターゲットにしている。
 
 批判的実在論においては、人間の心も社会も直接観察不可能であるが、階層として異なる次元に独立に実在するという立場をとる。しかし、批判的実在論は、自然のメカニズムのように不動の存在として、社会が実在するとは捉えていないようである。
 バスカーは、社会構造に制約されたかたちで人間は相互行為をするが、その相互行為を通して社会構造も変化していくと捉えている。また、変化した社会構造が相互行為を制約する。パスカーは、このような螺旋状の循環的相互作用を見抜き、「社会構造とエージェンシーとの相互作用における分析的サイクル」として定式化している。これは、社会学者ギデンズの構造化理論と同型の社会理論である。
 
 しかし、ここまでくれば、社会構築主義とあまり変わらなくなる。基本的に、社会構築主義とは,社会は言語的コミュニケーションによってつくられたものであるという説である。その基礎は,バーガーとルックマンの知識社会学にある。社会構築主義の公理を定式化すると,外存化,客体化,内存化の三つの循環的過程となる。外存化とは,人間の内的世界が外部世界に投影され,なんらかの形をなすものとしてあらわれることを言う。客体化とは,その外在化されたものが所与の現実として客観的でリアルなものとして現れることを言う。さらに,内在化とは,その客体化された現実を内的世界に取り入れることである。例えば,法律は,人々がつくったものである(外存化)。その後,人々にとってその法律が社会環境の一部になる(客体化)。さらに,その法律を内面に取り入れ,自己の行動を規制していく内的な規範としていく(内在化)。
 
 批判的実在論と異なる点は、社会構築主義が社会の中に意識を取り込んだ理論にしている点である。パスカーによる「社会構造とエージェンシーとの相互作用論」では、意識の次元と存在の次元が交わることがない。ギデンズの構造化理論も同じてある。当事者の意識の次元と社会構造の次元を独立したものとして区別している。
 一方、社会構築主義は、意識の次元の内容が存在次元の客観的な規範=社会構造として外化し、さらにまたそれを意識が内在化することで個々人の行為に制約を加えるという構図になっている。
 かたやバスカーの相互作用論では、どのように社会構造が相互行為を制約し、どのように相互行為が社会構造を変化させるのか具体的に説明がない。
 というよりか、社会構造と相互行為の相互作用のメカニズムを説明していない。意識(=心)と社会が別次元の階層に属するという批判的実在論の立場からは、原理的に相互行為と社会構造の具体的関係は解明されないことになるのである。
 
 このような困難は、実はルーマンのシステム論では克服されている。別次元にありつつも、社会も意識も同じ意味システムであるという視点をとることで解決される。つまり、コミュニケーションを要素とする社会システムという発想で解決できるのである。
 コミュニケーションは、情報、伝達(発信)、理解についての選択からなる。意識システムが他の意識システムに何を伝えるか選択し、その伝達方法も選択し、そして他の意識システムが選択的に理解する。この一連の過程がコミュニケーションである。そして、コミュニケーションがどのようなコードに準拠して創発されたかで、創発されるシステムの種類が決まる。創発されたシステムは、コミュニケーションを通して自己を再生産する。事前のコミュニケーションが後続するコミュニケーションの前提となることで、コミュニケーションを再生産していくことになる。
 いずれにしろ、社会の創発に関して、意識システムが介在することになるわけであり、意識と存在の並行論とはならない。ルーマンは、社会構築主義と同じく、意識と存在の交差論の立場をとる。

 社会構造(ないしは社会システム)が前提となり、相互行為(コミュニケーション)をつくり、相互行為(コミュニケーション)が社会構造(ないしは社会システム)をつくるという循環過程については、社会学の本質的メカニズムにかかわる問題であり、簡単に語り尽くすことはできない。
 とりあえず、ここでは、並行論と交差論という二つの立場があることを確認しておこう。そして、批判的実在論が並行論をとることで、人々の意識によって社会が構築されるという相対性を排除していることを確認しておこう。

参考文献
 ロイ・バスカー著「科学と実在論」
 バース・ダナーマーク他著「社会を説明する」

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by merca | 2015-12-31 18:15 | 理論

超越論的実在論の科学観・・・メカニズム論の肯定

 超越論的実在論は、ロイ・バスカーが打ち立てた科学哲学である。超越論的実在論は、批判的実在論として発展していき、一つの思想的潮流を形成している。さらに、批判的実在論においては、今、社会構成主義=相対主義を越えた社会科学を基礎付ける哲学として注目されている。批判的実在論の哲学的基礎は、全てロイ・バスカーが提唱した超越論的実在論にある。

 超越論的実在論による科学観によれば、科学が追求する真理とは、観察可能な経験的現象ではなく、その背後にある実在する生成メカニズムについての真理であるという。しかるに、これまでの科学哲学においては、ヒュームの古典的経験論を源流とする経験論的実在論が科学哲学の主流を占め、経験的実在論のみが科学を基礎付けると勘違いされてきたというのである。経験論的実在論には、ポパーの反証主義も含まれるし、エビデンス主義に代表される統計的実証主義も含まれる。
 ロイ・バスカーは徹底的に経験的実在論の科学観を否定する。最大のアンチ・ヒューム主義者である。カントの認識論も超越論的観念論として位置づけ批判している。因果関係は人間の認識の形式ではなく、独立に外部世界に実在するメカニズムの発現であるという立場から、カントの観念論も否定される。
 近代科学を基礎付けることができるのは、経験的実在論でもなく超越論的観念論でもなく、唯一、バスカーによる超越論的実在論のみであるというわけである。言い換えれば、実験という科学の営みが意味をもつのは、超越論的実在論の世界観以外にはあり得ないということである。実験は、事象間の相関関係を検証するのが目的ではなく、その背後に潜むメカニズムや構造を見つけ出すことが目的である。色々な条件で実験し、探ろうとしているのは、単に事象間の統計的な相関関係ではないのである。科学者は、メカニズムを解明するために条件を変えていき実験しているわけである。
 例えば。統制された条件(閉じられた系)において、水は100度で沸騰するという命題が実証されたとしても、その命題は何ら科学的真理ではない。水の分子構造からその現象が説明されてはじめて科学的真理となるのである。つまり、メカニズムが解明されてはじめて科学的真理となるのである。また、気圧が低ければ、100度でなくても、水は沸騰するわけであり、それは水の分子構造を把握してはじめて説明できる現象である。
 医学の分野でも、偽薬効果が統計的に実証されても、そのメカニズムが解明されない限り、偽薬効果は科学的真理ではないのである。この点を勘違いし、偽薬効果を科学的真理だと思い込んで議論するニセ科学批判者はよく見かける。
 
 経験的実在論は、経験したままが真実だと勘違いしているのである。これを認識論的誤謬という。人間が認識したままの世界が真実であり、それが科学的知識であると思い込む誤謬である。
 手品を例にとろう。手品で人間を箱の中に入れて切断し、また体がもとにもどるというものがよくあるが、認識したままが本当なら、人間は切断されていることになる。また、ステックから鳩がでる手品なら、認識したままでいうと、本当にステックから鳩が生まれたことになる。お客は、手品で起った現象を真実だとは誰も思わない。手品には必ず種があり、背後に錯覚させるメカニズムがあるのである。もし種がなければ魔法使いだということになる。経験的実在論者は、手品師を魔法使いだと勘違いし、経験的に認識した出来事をそのまま科学的真理である独断するのである。
 バスカーの言わんとすることは、このような経験的現象を絶対化する経験的実在論に基づく科学は、真の意味で科学足り得ないということである。超越論的実在論からすると、事象間の有意な相関関係の統計的検定さえも、科学的根拠になり得ないのである。メカニズムを提示してこそ真なる科学的根拠となるのである。

 西條氏の構造構成主義の科学観も、超越論的実在論から否定される。構造構成主義は、外部の存在の実在性を否定し、人間の共同主観的な言葉の使用法の同一性を科学の根拠とする哲学的立場である。カントの観念論に近い立場である。
 ロイ・バスカーは科学を人間の社会的活動であると認めつつも、人間の認識とは独立に、生成メカニズムや構造が実在するという立場をとるわけであり、明らかに外部存在の実在性なしに科学が成り立つとする構造構成主義の科学観は否定されることになる。

 社会科学的関心からすると、最大の問題は、超越論的実在論ないしは批判的実在論が、社会構築主義を克服している科学哲学になりうるかである。反証主義や単なるエビデンス主義に代表される統計的実証主義の科学観よりも深い科学哲学だとは認めよう。
 実は、批判的実在論は、社会学にとっては、一つの救いとなる。理論社会学が提示する統計的根拠のない社会理論は物語ではなく、実在する社会のメカニズムであると言えることも可能であるからである。例えば、パーソンズの社会体系論は、観念論的ではなく、実在する社会のメカニズムや構造になるのである。統計的根拠がない社会理論は全て個々の学者によって構築された物語であるという考えを退け、相対主義を回避できるからである。
 
 しかし、事態はそんなに簡単なことではないだろう。社会のメカニズムを認識することが社会学の役目であるが、システム論のように社会が人間の行為ないしはコミュニケーションという要素から構成されているシステムだと考えると、人間は再帰的に社会のメカニズムを構築することもできるからである。社会のメカニズムに意義を申し立て、メカニズムの発現を阻止することもできるのである。 批判的実在論は、社会はその都度創発されものであるとするルーマンのラディカル構築主義と真っ向から対立する。批判的実在論は、マルクス主義同様に存在論的社会観に立脚するが、ルーマンの社会システム論は創発論的社会観に立脚する。
 
 超越論的実在論のバスカーは、(閉じた系/開いた系)を区別し、実験は人間が作為的に閉じた系を作り出すことで可能となると考える。開いた系においては、多様な諸要因が働き、純粋にメカニズムが発現したり、発現を認識できたりし得ないというのである。社会は、雑多な開いた系であり、社会学では実験は困難であるという。
 しかし、ルーマンによれば、社会は開いた系ではなく、むしろ閉じた系、区別によって閉じられた閉鎖システムである。区別によって閉じられることで社会は創発されるのであり、バスカーの社会観とは逆である。バスカーは、社会よりも自然は閉じられており、実験しやすいと考えているが、本当は社会のほうが閉じられているのである。社会システムは自ら閉じることで社会システムたりえるのである。自ら条件統制された内部環境をつくりだすのである。一つの社会がどのような区別コードに準拠して閉じているか認識すること=第二次観察することが、社会の構造ないしはメカニズムを捉えたことになる。しかし、それは創発されたものにしかすぎず、創発された時には実在性はあるが、そうでない時には、可能態としてあるだけで実在性はない。
 例えば、コンビニに行くと、お金を払えば商品が手に入るという因果仮説は、店員と客が経済システムを創発することで可能となるのである。批判的実在論者ならば、売買行為を資本主義社会のメカニズムの発現として説明するであろう。資本主義社会が実在するので売買行為が存在するというわけである。
 しかし、究極の社会理論からは、それは逆である。むしろ売買行為が発生したから、資本主義社会が実現されたと考えるのである。もし売買行為が一切起らなかったら、資本主義社会は創発されず、そのメカニズムも実在しないのである。
 システム論社会学では、人々の相互行為によってメカニズムはあとからつくられるものなのであると考える。また、他人の意思による自己選択(他者性)は自己の意思を制限することになるので、それが社会の拘束性の源になる。最初に不動の資本主義社会のメカニズムが実在し、それが個々人の意思を制約するというのは、マルクス主義の錯誤的発想である。社会の拘束性と外存性は、大澤氏の第三審級論によって解明されているとおり、他者とのコミュニケーションによって作動する。
 
 とりあえず、ここで言えることは、批判的実在論は、自然科学には通用するが、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるかぎり、社会科学の世界には不適合であるということである。
 社会には、つくられざるメカニズムは存在しない。その代わり、その都度、創発される閉じたシステムがあるのみである。

  参考
「科学と実在論」ロイ・バスカー著
「「メカニズム論の誤謬」という菊池流科学思想」
 http://mercamun.exblog.jp/14829440/ 
「偽薬効果は現象的事実であって科学的事実にあらず!!」
 http://mercamun.exblog.jp/14839902/
「偽薬効果を前提にしたニセ科学批判はニセ科学である。」
 http://mercamun.exblog.jp/14793660/

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by merca | 2015-12-21 00:11 | 理論

小林よしのりの新戦争論は、事実を括弧に入れて読むべし

 ネット右翼の生みの親と呼ばれている小林よしのりが、ネット右翼の梯子を外しにかかるために、漫画思想書である新戦争論を書いた。過去に、小林よしのりは、エイズ薬害訴訟運動について、運動にのめり込むあまりに左翼思想に染まっていった若者たちの梯子を外したのと同じでバターンである。またかである。
 戦争論からネット右翼になった若手右翼思想家KAZUYAや古谷経衡たちは、ある意味、同書によって見事に梯子を外され、日常に戻って仕事で地道に頑張れと勧告されたことになるのである。若者たちは、思想家小林よしのりの梯子外しに気をつけるべきである。
 小林よしのりは、等身大を超えて膨張した自我が嫌いであるので、読者はその点を注意すべきであり、すぐにかぶれてはならないのである。自尊心を調教できない若者は排除されるのである。
 
 ちなみに、小林よしのりは、ネット右翼は戦争論の誤読によって生じたといい、自分だけがネット右翼の生みの親のように思い込んでいるが、嫌韓・嫌中の潮流はテレビ「たかじんのそこまで言って委員会」によって生み出されたことが大きいと思われるのである。この番組が関西人を右傾化させた役割は大きい。
 小林よしのりだけに右傾化の原因を押し付けるのは気の毒であるし、自分だけがネット右翼を作り出したという肥大化した意識を小林よしのりに植え付けてはいけない。
 
 ここで、多くの若者たちに、小林よしのりの漫画思想書を読むにあったての注意をしておきたい。その注意点は、二つである。

(事実として描かれている部分は括弧に入れ、物語として受けとめる。)
 まず、同書で事実と主張されていることは、括弧にいれて読むべきである。事実を分析した歴史書ではなく、あくまでも特定の価値を提示した思想書として読むべきである。
 歴史的事実については、大学の科学的な専門教育を受けた歴史学者にまかすか、あるいは自分で第一次文献にあたるべきである。そのような暇がないのなら、事実であるかどうかは判断できないので、事実判断はアポケーし、純粋に価値判断を提示する思想書として読むことを勧めたい。その思想に感銘するかしないかは、個人の判断で自由である。
 いずれにしろ、事実は括弧に入れて、事実のように描かれている部分は、物語として受け止める態度が、小林よしのりの漫画思想書を読む基本的な作法である。これを忘れる者がかぶれてしまい、自我を肥大化させ、挙げ句の果てに梯子を外される羽目になるのである。

(事実判断と価値判断を結合してはならない。)
 歴史的事実だから小林よしのりの保守思想の価値も正しいと思ってかぶれてはいけない。ここに心理学的詐術を見抜くべきである。戦争論にかぶれた多くの人たちは、歴史的事実だから、その思想も正しいと思い込んで洗脳されてしまったのである。
 例えば、本当は、ひめゆり学徒隊や神風特攻隊は自ら進んで志願したのであり、軍国主義による洗脳や強制ではないとことが事実であると描くことで、読者に太平洋戦争は悪ではないという価値観を植え付けることに成功しているのである。人々が自ら志願したことが事実であっても、太平洋戦争肯定という価値観には直結しない。戦争論にかぶれた右翼は、事実の正当性のインパクトが強いために、その事実に基づいた価値判断までも受け入れてしまう傾向にある。小林よしのりの書物全般に見られるこの心理トリック、すなわち認識と価値の同一化現象=「事実を述べる者は、価値判断においても正しい」という錯覚を見破らないといけない。事実を知る者が正しい倫理観をもつとは限らないのである。
 そもそも、事実判断と価値判断は別次元であり、事実判断が正しいからといって価値判断も適切であると言えないのである。
 例えば、人類社会は戦争の歴史であるという事実判断から、必然的に戦争は正しいという価値判断は導出されない。リンゴてあるという事実判断から、美味しいという価値判断が一般的に導出できないないとの同じである。リンゴが嫌いな人にとっては美味しくない。価値論的にいうと、真理は価値ではないのである。
 自虐史観が歴史的事実と異なるというインパクトを与えた上で、事実判断の正当性と価値判断の正当性を結合させるという心理的トリックによって、戦争論は、多くの若者を保守化へと誘ったのである。少し哲学や社会科学をかじった若者なら、この点のメディアリテラシーはあってもよさそうなものである。
 
 思想・哲学を表現した漫画家としては、手塚治虫のほうが断然レベルが高いことを忘れてはならない。マンガ史的にいうと、所詮、手塚治虫がいなかったら、日本の漫画会が成立しておらず、小林よしのりの漫画もないのである。戦争論を読んだあとに、火の鳥を読むと、戦争論で語られている価値観が非常にケツの穴が小さいことがわかるであろう。
 手塚治虫は事実に頼るのではなく、物語をつくることで深遠な哲学・思想を提示したのである。事実に頼ろうとする小林よしのりとは、その逆である。手塚治虫は世界で読まれるだろうが、小林よしのりは世界では読まれないだろう。
 
 小林よしのりは、国家という大きなものに依存して自我が肥大化した右傾化した人たちに日常に戻れと宣告するが、それは自らにも言えることなのである。小林よしのりは、天下国家についてゴーマンをかますことで多くの人たちを煽動して来た自己を天才と思い込む万能感を調教し、普通の漫画家に戻るべきなのである。漫画家は事実ではなく、物語をつくるプロなのであり、安易に事実に頼るな!! と言いたい。
 
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by merca | 2015-02-21 21:01

ヒュームの懐疑論は通用しない。

 デビット・ヒュームが、因果律は対象の側に内在する法則ではなく、人間の単なる習慣的な思い込みであると主張したことは有名である。所謂、ヒュームの懐疑論である。哲学や思想系の学徒なら誰でも学んでおり、よく知られている。
 ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、その後に起った現象を結果だと錯覚するわけである。本当に原因かどうかは確かめようがないというわけである。
 問題は、このヒュームの懐疑論からすると、因果律あるいは物理法則は、客観的に存在しないことになり、因果関係を探求する科学は全て虚構になるわけである。
 もし哲学者がヒュームの懐疑論でもって闇雲に科学者が見つけた科学的因果関係を否定したとしたら、科学者は怒るだろう。本当にヒュームの懐疑論は科学に勝利したのだろうか?
 
 ところが、実は、(外的視点/内的視点)という区別から観察すると、ヒュームの懐疑論は自然科学には通用しても、人間科学には通用しないことになる。例えば、人から押されて転倒した場合、倒れた当人の内的感覚からは押されて転倒したという因果関係は明確である。また、殴られて怒ったというケースでは、殴られたことで怒るという結果を引き起こしたという因果関係が当人の内的視点から確実である。さらに、他人が挨拶し、自分も挨拶したとしたら、礼儀作法に従って挨拶したという因果関係は当人に聞けばわかるのである。また、本が欲しいから店で本を買ったとかという目的手段関係による因果関係も聞くことで確認できる。このように、心理学や社会学のような人間行動や社会的行為を対象とする人間科学(社会科学も含めて)は、内的視点から理論を構成するために、全くヒュームの懐疑論は通用しない。
 
 ヒュームの懐疑論が通用するのは、外的視点から物体を観察する自然科学のみである。ビリヤードの前の玉が後ろの玉に衝突して動いた場合、衝突したから動いたのかどうかは後ろの玉に聞くことができないのである。人間には聞けるが玉には聞けないのである。
 このように、因果関係の確定は、内的視点をとる人間科学では確実であるが、外的視点をとる物理学では究極的に不確実である。人間科学の方が因果関係の究明については、自然科学よりも優れており、むしろ真理性は高いのである。人間科学には、実験やベイズ主義統計学に頼らなくても、観察や調査だけで因果関係の真理を確実に獲得できる利点があるのである。
 ともあれ、ヒュームの懐疑論は、限定付きであることを確認しておこう。

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by merca | 2013-07-15 22:03 | 理論

生命体の根源的偶然性を解釈する数学神話=確率論

 複数の要素が組み合わさり、要素に還元できない一つの性質を生み出す現象を創発という。そして、創発された性質のことを創発特性という。創発特性として現象を捉えると、要素は取り替えがきくことになる。例えば、生命体を一つの創発システムとして捉えると、細胞は新陳代謝しており、常に取り替えられており、一つの細胞を入れ替えても、生命体は死滅しない。
 また、臓器移植が可能なのは、生命体が要素に還元されないシステムだからである。一般に、この取り替え可能な要素の働きのことを機能的代替項目という。同じ働きをするのなら、別の同じ働きをするもので置き換えることができるという発想である。
 例えば、義足や義歯などの人工物であっても、同じ働きをするのなら、足や歯の代用物として生命体システムを支えることになる。ある意味、要素の取り替え可能性は、創発特性が実在する根拠となるのである。これは、社会システムでも同じであり、同一の機能を果たす行為やコミュニケーションがあれば、取り替え可能である。例えば、組織体システムでは、社長が変わっても組織は存続するわけである。取り替え不可能なのは、要素でなく、創発特性たる全体性だけである。取り替え不可能な全体性があるからこそ、取り替え可能な要素があることになる。
 
 一つの創発特性は、確かに個々の要素には還元されないが、複数の要素が担う機能=役割の相互関係によって、維持されていることがわかる。その意味からすると、単純に考えると、創発特性という結果は、一応、複数の要素の働きから合成された多原因から発生したと記述できる。
 しかし、生命体が単なる複数の要素から合成された複合物であると捉えるであれば、実在するのは個々の要素であるという要素還元主義の亜種にしかすぎなくなり、複数の要素を確定すれば、必然的にその複合物という結果を類推できることになる。このような要素還元主義的な自然科学的思考は、物理学の世界では妥当かもしれないが、生物学や社会学の世界の説明原理としては不十分であるばかりか誤謬となる。
 そもそも複数の要素を原因として見なすことは妥当かという疑問も出てくる。要素に還元されない全体が、自らを維持するために、要素を選択しているという図式も成り立ちうるからである。つまり、因果関係を逆転し、結果こそが原因をつくりだすというふうに読み込む必要がある。端的に言うと、目的ー手段図式による解釈である。目的ー手段図式に従えば、結果は目的であり、原因は手段である。物理世界の因果関係を利用して、特定の結果を得るために、手段を選択するわけである。
例えば、生命体は外部から栄養を摂取し、自らを維持しているわけであるが、この現象を記述する際に、因果論的な記述ではなく、目的ー手段図式による解釈も可能である。
 因果論的な記述=要素還元論的記述をすると、外部から摂取した栄養が原因で生命体システムが維持されるという結果をもたらすというふうになる。
 片や目的=手段図式による記述=創発論的記述をすると、生命体が自らを維持する目的が根本原因となり、自らを動かして、外部から栄養を摂取して体を維持したという結果をもたらしたことになる。
 後者の記述のほうが、生命現象を捉える上で、説明能力が高いのは一目瞭然である。
 また、例えば、環境の変化によって、栄養を補給できない時には、栄養を摂取する代わりに冬眠のように一時的にエネルギー代謝を控え身体活動を休止するという選択肢によって、生命体維持の手段とする場合がある。生命体維持という目的を遂行するために、栄養摂取と機能的等価な別の選択肢を採用することもあるのである。
 つまり、生命体システムにおいては、一つの結果をもたらすのに、一つの原因が対応するわけではない。進化論は、自己選択性を前提としている。栄養摂取の手段として肉食と草食は機能的等価であるが、肉食を選択するか草食を選択するかは、種の進化にとって、必然的ではない。そもそも、物理世界から生命体が発生したのは、必然ではない。
 
 生物学では、物理学と違って、因果関係の特定は、容易ではないばかりか、選択性原理が働いており、そもそも不確定である。つまり、極論かもしれないが、ある状況において、目的のために、どの手段を選択するかは、個々の生命体の任意ではないかと考えられるわけである。人間の自由意志とは次元が異なるが、生命体は機械ではなく、自己選択性をもっているのである。同じ状況におかれても、同じ手段をとるとは限らず、厳密な因果関係が成り立たないというわけである。
 
 生物体が、そもそも自然界の複数ある機能的等価な因果法則から一つを選択・利用し、自らの目的を遂行する存在であるのなら、物理学のような単純な因果関係に基づいた分析は却下される。
 そして、人間という生物体に関する病理学としての医学には、要素還元論的な自然科学的手法は成り立たない。
病気とは、生命体の機能障害である。その機能を補う別の要素の働きによって代替できるのなら、治癒するのである。生命体という存在を要素還元論的因果図式で模写しようとする科学的手法は、間違いである。生命体という存在はシステム論的な目的-手段図式で模写することで、認識と対象が一致した記述になるのである。
 
 真理の対応説の観点からしても、生物学や医学の分野においては、単純な因果律を使用する科学的認識は誤謬である。要素に還元されない全体性が現象の原因となっているのが真実なのに、要素が原因と勘違いしているからである。そもそも生物学やその病理学としての医学においては、生命体に自己選択性があるために、厳密な意味での科学(自然科学を模範とする科学観)は、成り立たないのである。全ての個体に効く薬は存在しないのである。薬を効くように利用するかしないかは、個体の自己選択性にかかっているからである。薬の効用は、多くが効いたという確率の問題にしかすぎないのである。確率は科学の手段であるが、科学そのものではない。エビデンス主義は科学主義ではなく、確率論絶対主義である。
 
 ちなみに、生命体機械論を唱えるのではなく、生命体の自己選択性に生命体の生命体たる所以を求めるのなら、そこに新たな神学=生命学が成り立ち、医学上の奇跡と言われるものの説明領域となるであろう。医学ではメカニズムが不明な現象は多いが、それらは全て生命体の自己選択性という神学の領域によって処理・説明されることになるであろう。メカニズムはあったとしても、究極的にはそのメカニズム以外の機能的等価なメカニズムを選択することも、生命体にとっては可能なのであり、究極的に神学的領域を排除することは不可能である。これを生命体の根源的偶然性(自己選択性)と呼ぼう。この生命体の根源的偶然性にもっとも敏感であったのは、ブラックジャックの作者・手塚治虫医師なのである。
 
 生命体の根源的偶然性の領域は、因果律を標榜する科学主義の適用外であり、神話の領域である。そして、実は、エビデンスに基づく確率主義こそが生命体の根源的偶然性の記述方法の一つなのである。なぜなら、多くの個体の自己選択の数をカウントしたのが確率であるからである。世界が本当に必然ならば、確率はいらない。偶然だから確率になるのである。メカニズム不明である生命体の根源的偶然性の領域が、エビデンス主義=確率論という数学神話によって解釈されているのである。ちなみに、生命体の根源的偶然性の領域は、確率論ではなく、別の神話によって説明することも可能である。聖書の創造論もダーウィンの進化論も機能的等価な神話である。どの神話を採用するかは、社会の合意によって決定されるだけである。

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by merca | 2013-06-15 10:51 | ニセ科学批判批判

スピリチュアルペインによるうつ症状に薬は効かない。

 スピリチュアルペインという痛みが存在し、それを治癒するための学会までもある。医師日野原重明氏が理事長をする日本スピリチュアルケア学会である。
 スピリチュアルペインとは、身体的苦痛、精神的苦痛、社会的苦痛ではなく、それらを超えた霊的苦痛のことを意味する。具体的には、不治の病や死期を迎えつつある時に感じる、自己の存在価値の消失に伴う苦痛のことである。また、愛する人の死に際する遺族の喪失感もスピリチュアルペインに含まれる。殺人事件の被害者遺族を襲う苦痛は、精神的苦痛ではなく、スピリチュアルペインである。
 スピリチュアルケアの第一人者である村田氏によれば、スピリチュアルペインは、カウンセリングや薬では治癒せず、傾聴等による気づきによって治癒するという。
 スピリチュアルペインは、うつ病の際にも、発現することがある。うつ病患者は、生きる意味がわからない、自分には価値がないという思いに苛まれ、苦痛を感じる。うつ病患者のこのようなスピリチュアルペインは薬やカウンセリングでは治癒しないのに、精神科医は投薬治療で治そうとする。自己肯定感の喪失によってうつ症状が出ている人に対して、投薬治療をし、薬漬けにする医師は最悪である。
 
 スピリチュアルペインによる苦痛は、薬やカウンセリングのような科学的処方箋ではなく、傾聴することや宗教や哲学による気づきによって治癒されると考えられている。私見であるが、音楽等の芸術を通しても、気づきにつながれば、治癒するかもしれない。例えば、パッヘルベルのカノンを聞くとスピリチュアルペインが和らぐのである。手塚治虫の火の鳥で治癒する人もいるかもしれない。魂に響く芸術もスピリチュアルペンインの一つの処方箋となる。
 
 スピリチュアルペインの正体について、システム論社会学から分析すると、生物体システム、心理システム、社会システムのどれにも還元されないシステムを想定するしかない。社会学では、唯一、パーソンズの想定したテリックシステムがそれに該当すると考えられる。ライプニッツのモナド論、スピノザの無限、仏教の事事無碍法界の思想、レヴィナスの他者論なども魂の次元の論理である。
 
 ともあれ、脳の機能障害に還元できない苦痛によるうつ症状を脳の機能障害と勘違いし、投薬治療する精神科医ほど罪な存在はない。スピリチュアルペインによるうつ症状は、抗うつ剤よりも、哲学、宗教、あるいは神曲であるパッヘルベルのカノンのほうが効くのである。
 スピリチュアルペインは、科学の対象ではなく、形而上学の対象であり、医学等の科学的処方箋は通用しないのである。医者たちは、医学の外で苦しむ者を医学で救おうとする愚者となっていないか自問する必要がある。かのブラックジャックにもこのテーマはよくでてくる。
 
 さて、魂の次元の痛みを対象とするスピリチュアルケア学会は、トンデモやカルトだろうか? おそらく、ニセ科学批判者は、トンデモやカルトと見なさないだろう。なぜなら、新興宗教ではなく、排他性のない既存宗教の信頼できる人たちが唱えているから、そうは見なさないだろう。同じことでも新興宗教が主催しているとトンデモやカルトと見なすのがニセ科学批判クラスタの選定基準だからである。
 
 ともあれ、魂の痛みを心身の痛みと勘違いし、痛みの原因を脳の機能障害と断定する医者こそニセ科学の人となるのである。全国自死遺族連絡会の調査で自殺者の7割が精神科を受診していたという事実もあるが、自殺願望や希死念虜というスピリチュアルペインを脳機能の障害と勘違いし、投薬治療を行った精神科医の罪は大きいと言わざるを得ない。時代は、医者自らが非科学であるスピリチュアルケアを重視する方向に進みつつある。

  参考記事
  鬱病の苦悩
  http://mercamun.exblog.jp/8140415/
 
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by merca | 2013-04-21 21:58 | ニセ科学批判批判