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精神医学はニセ科学か? 内海医師のニセ科学批判。

  ニセ科学とは、科学でないのに科学を装うことで、人を騙す学説や商品のことをいう。さらに、そのような学説や商品をニセ科学として摘発し、クレーム申し立てをすることをニセ科学批判と呼ぶ。ホメオパシー、マイナスイオン、水からの伝言、血液型性格判断などがニセ科学批判の対象とされ、ニセ科学批判運動が盛んにネット上を中心に行われてきた。そして、対抗レトリックとしてニセ科学批判批判も形成され、ネット議論を盛り上げてきた。
 ニセ科学批判はしばしば「水からの伝言」のような非科学と簡単に分かる対象を標的にばかりしているという批判を受けてきていたが、今回、それを覆すようなニセ科学批判が現れた。それが、医師内海聡氏による精神医学(特に薬物療法)に対するニセ科学批判である。同氏の著作「精神科医は今日も、やりたい放題」における精神医学に対する批判は、ニセ科学批判という言葉は使用していないものの、内容はニセ科学批判そのものだと言っても過言ではない。同氏は、精神医学を非科学と断定し、患者を薬漬けにして騙していると喝破している。もしかりに同氏のニセ科学批判が正しければ、大変なことになる。多くの精神病患者が科学の名のもとに騙され、迫害されて続けてきていたことになるからである。これは、ホメオパシーどころの被害の問題をはるかに越えおり、社会ぐるみの詐欺行為ということになる。同氏はこのような医学会を震撼させる爆弾を投げたわけであるが、なのにあまり流行っていないという現状がある。それに、ホメオパシー、マイナスイオン、水からの伝言、血液型性格判断などを批判してきたこれまでのニセ科学批判クラスタたちが、内海聡氏の精神医学に対するニセ科学批判に同調する兆しが全く見られない。重要なニセ科学批判であるにもかかわらず関心を示さないのはどうしたことかと思う次第である。非科学と一目瞭然であるホメオパシー医療は叩くが、精神医学は権威と伝統があるので怖くて叩かないということであろうか? ニセ科学批判に好意的な精神科医香山リカは、内海氏のニセ科学批判をどう思っているか知りたいくらいである。

 内海氏のニセ科学批判の要点は、精神の症状に対して科学的に精神疾患の原因が解明されていないにもかかわらず、脳内の異常として決めつけ、科学的に効果が実証されていない危険な薬物で治療しようとするところにある。例えば、うつ病の原因とされてきたセロトニン説は、実証されておらず、科学的事実ではないという。また、精神科医が異なると、同一の患者にも異なった診断名が下されることがあり、科学的ではなく、主観的判断によって病名がつけられているという。主観的判断で適当に病名をつけられ、それに見合った薬物の服薬を指示され、結局、製薬会社の利益になっているというわけである。さらに、家族と医者が組んで性格が偏った扱いにくい子供を閉鎖病棟に隔離する手段として、精神医学が利用されているという。また、明確な科学的根拠がないのに、多動性障害やアスペルガー症候群というレッテルを貼り、精神薬を投与し、その衝動性をコントロールし、社会適応させることはよくある。学校教育においても、多動性障害やアスペルガー症候群のレッテルを貼り、不適応児童を教育の現場から医学の現場の領域に排除していることもある。さらに、刑事政策においても、心神喪失者等医療観察法という制度があり、精神疾患のある犯罪者を刑事司法の領域から医療の領域に排除している。
 メンタルヘルスについても、うつ病は心の風邪というスローガンでうつ病患者を増やし、心療内科への敷居を低くし、投薬治療の機会が増え、製薬会社が儲かっているという。新型うつ病という病名を開発し、煩しい職場の対人関係から逃避するための疾病利得を簡単に得ることができるようになった。生活保護の受給理由として、うつ病のために稼働不可能とするのもよくある。
 
 内海氏の精神医学に対する批判は、単なるニセ科学批判にとどまらず、社会批判も射程に入れている。社会学的にいうと、精神医学は、社会の様々な分野において、一定の機能を有しており、今やその診断なしには社会は回らないほど多くの役割をになっている。このように社会の仕組みに深く食い込んでいるのは、精神医学が科学であるという前提があるからである。占いで大殺界だから休職したいというのは通らないが、精神科医にうつ病の診断をもらって休職するのは正当化される。究極的に、占いも精神医学も非科学として同一なのにである。精神医学が科学であると社会から認定されているからこそ、これらの社会的機能を発揮し、現代社会は回っている。もし科学でないことが事実であり、それが人口に膾炙すれば、社会はパニックに陥るであろう。原子力安全神話と同じ理屈である。
 精神医学が科学を装うことで、社会は回る側面はあるものの、精神薬大量処方問題などによって個人の人権が侵害されている問題は無視できない。うつになって医者にかかり、薬漬けになって調子が悪い人をよく見かけるのである。うつ病と自称する方のブログは溢れており、大量服薬の記述などをよく見かける。精神薬大量処方問題の被害者が声をあげているらしい。
 
 社会が既存の領域で処理できないノイズを全て精神医学の領域に委ねてしまっていないだろうか? 唯物論者が心霊現象や超能力などの超常現象を精神疾患として処理しようとするのと同様に、不適応児童、触法障害者、メンタルヘルス、生活保護の怠者などの社会的ノイズを全て精神医学に委ね、処理しているわけである。精神医学を純粋な科学として回復させるためには、社会の要望による精神医学の多機能化現象を食い止め、本来の姿に戻すべきかもしれない。
 その意味で。脳の異常に精神疾患の根拠を求める薬物療法ではなく、カウンセリング中心のフロイト学派の精神医学の復活を望むのである。現在、純粋にフロイトの精神療法に忠実な精神科医は日本にも少なく、異端視され、薬物治療派から排除されていると思われる。心の病を個人の意味世界及び環境世界の病として捉え返すことが必要なのである。
 
 次のような事例を考えてみよう。 
 会社が倒産し借金して失業した時に、気分が落ち込みうつ状況になった。心療内科を訪ねてうつ病と判断され、薬を投薬された。例えば、こんなケースなら、弁護士に相談して破産宣告をしたり、占い師に今は辛いが必ず将来は復活すると予言してもらったり、カウンセラーに話して気持ちをうけとめてもらったり、宗教に入信し価値観を変えるなどし、元気になって治るのではないかなと思う。極端な話し、宝くじがあたって一億円が入ってきたら、薬を飲まなくても、この人の落ち込み状態は治るのである。これは、意味世界の喪失に起因する気分の落ち込みなので、脳とは関係ないのである。
 また、職場の上司にいじめられてうつ状態になって会社を休み、死にたいと思い、心療内科を訪ねてうつ病と判断され、薬を投薬された。よくあるケースであるが、これについても、この職場の上司がいない職場を確保するか、もっとよい別の仕事に転職できれば、薬を飲まなくてもよいである。パワーハラスメントで上司を法的に訴えて慰謝料を請求したり、職業安定所の相談員に適職を紹介してもらえれば、治るのである。環境を変えるだけで、薬はいらない。これは社会環境の問題であり、脳の障害の問題ではないのである。
 要するに、これらの事例のように外的ストレスが原因で精神に異常を来している場合、免疫学的には原因となるストレス要因を除去することが解決となり、精神薬はなんら解決の策とはならないのである。すなわち、精神医学ではなく、法律学、社会学、心理学、経済学、場合によっては占いや宗教によって治る問題なのであり、それを精神疾患として扱うのはナンセンスであり、問題のすり替えにしかすぎない。
 このようなケースで精神科や心療内科を受診し、自己に精神疾患があると思い込み、薬物治療を受け続け、医者と製薬会社が儲かっているというわけである。
 また、怠け者やひきこもりが、精神科からうつ病や適応障害として認定されることで不就労の理由が正当化され、生活保護となって国家予算に負担をかけていないだろうか? 社会的に孤立化したメンヘル系の若者やホームレスに多いケースである。しかし、もし精神医学がニセ科学であると社会の多数が思い出したら、このような不正はまかり通らないことになるだろう。精神疾患による生活保護よりも就労支援による就職のほうが明らかに正しいのである。内海氏のニセ科学批判は、既存の精神科医だけではなく、さぼりのニセ弱者にとっても脅威なのである。
 私流に結論を言うと、多くのうつ病は、社会病理学や臨床社会学によって治るのである。臨床社会学士なる職種があれば、社会資源をコーディネイトして、社会学的処方箋を出すことができると思われるので、意味世界と生活環境の改善で治る落ち込みに関しては、任せてほしいくらいである。

 最後に、ニセ科学批判クラスタが内海氏のニセ科学批判に同調してこない理由がわからない。ニセ科学批判者のリーダーであるNATROM氏は医者であるが、精神医学をニセ科学と思わないのだろうか? 内海氏の精神医学批判は、内容が厳密に正しいかどうかは精神医学肯定派との論争を見てから判断すべきだと思うが、はじめて学会の権威に対抗した勇気あるニセ科学批判である言えよう。

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by merca | 2013-02-03 11:14 | ニセ科学批判批判

盛山和夫著「社会学とは何か」書評

 一人の大物社会学者が真っ正面から社会学について論ずる一つの書物を書いた。それが、盛山和夫著「社会学とは何か」である。盛山氏には、「制度論の構造」という名著があるが、それを発展させたかたちになっている。以下、同著の批判的検証をしてみたい。

1、社会観念説
 盛山氏は、社会は実在するものではなく、人々が共有する理念的な意味世界であるという考え方から議論を組み立てている。社会に実体がないという発想は、社会が人々の相互作用によって構築されたものであるという社会構築主義をはじめとして、意味システムとしてのルーマンの社会システム論や大澤真幸が唱える第三者の審級論にも見られる。ただし、森山氏が社会に実体がないという時、それは人々の心の中にある観念的存在ということを意味しており、社会構築主義のようにつくられた存在とか、システム論のように創発された存在とかという意味ではない。この点の区別は、正に要注意である。つくられた存在だから実体がないというのではなく、観念的存在だから観察可能な物理的実体がないということである。
 一方、システム論においては、社会は人々が共有する観念そのものではなく、行為やコミュニケーションとして観察可能なかたちで現象化・創発化し、実際に人々の認識に立ち現れる現象として社会を考えている。単に観念を保有している状態は何ら社会ではない。実際に、その観念に準拠して行為やコミュニケーションがなされないと、社会とは呼ばない。共有観念=社会ではない。共有ではなく、実演され、共演されないと、社会ではない。
 社会を曲に例えるのならば、盛山氏は楽譜がそのまま曲であると考える勘違いをおかしている。曲は演奏されてはじめて曲となり、それを聞くことで人々ははじめて曲を知るのである。別の例えを使うのなら、盛山氏は、建築物の設計図がそのまま建築物だと思い込んでいるようなものである。演奏されることで曲ははじめて曲となり、建築物はつくられることではじめて建築物となり、同じように社会も演じられることで、はじめて社会として生成するのである。人間社会が生成するためには、意味世界としての観念が必要であるが、社会イコール観念だと考えるのは間違いである。社会には実体がないが、かといって観察不可能な虚構存在ではなく、観察可能なかたちで立ち現れるものなのである。ただし、社会学理論という観察道具を使用した者(社会学者)のみが社会を正確かつ明快に観察できるわけであり、素人にははっきりと見えない。社会学がセカンドオーダーの観察であるとルーマンが喝破したごとくである。単なる統計調査ではなく、社会学理論という観察道具のほうが社会学にとっては、より根本的な観察道具であるということも付け加えておきたい。

2 社会学の方法 
 盛山氏が主張するように、社会が意味世界ならば、社会学の方法の本道は、数量的な統計調査ではなく、人々の内面的世界を理解する調査ということになる。というのは、もし社会が意味世界ならば、それは本質的に数量化できるものではないので、理解するものになるからである。人々の共有する観念をよりよく理解し、解釈することが社会学の本道となる。つまり、これは、端的にいうと、ウェーバーの理解社会学の方法である。
 しかし、となると、統計調査の役割は、せいぜい一つの観念がどれだけ多くの人に共有されているかという意義しかもたなくなってしまう。さらに、女性の方が男性よりも喫煙率が低いとか、高所得者のほうが低所得者よりもエンゲル係数は低いとかという類いの調査は、社会調査ではなくなってしまう。社会を調べることイコール人々の所有する共通観念だとしたら、そのような調査は社会についての調査ではなく、単なる経済調査にしかすぎなくなってしまうわけである。
 無論、私は、自然科学的方法では、社会の本質は捉えることはできないという点については、大賛成である。社会を記述するとは、必然的に社会創発のための種となる意味世界の理解なくしてはあり得ないからである。社会システムの要素であるコミュニケーションは、他者の意味世界=観念による了解なしには成り立たないのである。単なる統計調査で社会を記述したと勘違いしている学者が多いなか、社会を観察するには、観念の理解を伴うという点を重要視する盛山氏の視点は重要である。

3 規範的秩序の外存性・拘束性
 規範の特徴は、人々を外から拘束して一定の行動へとしむけることにある。しかし、盛山氏の議論では、規範的秩序の外存性・拘束性が十分に説明できていない。社会が人々の共有観念だとしても、その観念が規範として働く仕組みが説明されなければならない。規範として働くとは、規範が期待する内容に合致すると他者(みんな)から肯定され、それに外れると他者(みんな)から否定されるということである。要するに、賞罰があるということである。そして、規範があたかも人を動かし、規範自らに賞罰を人々に下す力が宿るように思えたときに、はじめて一つの観念は規範化される。その意味で、神の観念は、規範の最高形態である。人々は神の観念を共有することで、善行をなし、悪行をなさないのである。規範としての神は自己の外にあり、自己を拘束する者として人々に表象される。
 しかし、真実は、規範が外存性・拘束性をもつ原因は、規範自身にあるのではなく、他者の反応たるサンクションにあるのである。他者のサンクションこそが規範を構築・維持させるものなのであり、規範があるからサンクションがあるのではない。元来的に他者は自己の外にあり、外から制限を加えてくる存在であり、その他者を一般化した観念が規範であるからである。ちなみに、大澤真幸のいう、第三者の審級がこれにあたる。
 ところが、人々は、他者のサンクョンが原因で規範が結果であるのに、規範が原因で他者のサンクョンが結果であると、転倒して考えてしまうのである。この転倒的錯誤こそが物象化作用と呼ばれるものであり、規範を強固に規範たらしめる根源的仕組みである。
 規範の成立根拠がもともと多数の他者からのサンクョンだとすると、社会(規範)の外存性と拘束性は当然のことであり、社会が個人の外に存在するという意識は正常なのである。ミードの説に従えば、多数の他者からの反応をまとめあげて他者一般が内面化され、規範として機能するのである。他者一般を平たく言えば、「みんな」という観念である。この「みんな」という観念に準拠してコミュニケーションが創発されたときに、社会は生成する。お金を払えばみんな商品を受け取ることができるとか、人から物を盗んだらみんなから非難されるとか、全てのコミュニケーションは、メタコードとして(みんな/みんなでない)に準拠している。みんなという観念に対応する外的対象は、これまで体験した外部の他者の反応であり、完全に対象物をもたない虚構観念ではない。外存性と拘束性の源は、みんなという観念にあるのだが、盛山氏は説明が十分でない。
 ただし、役割存在として外的対象を認識するとき、その対象以上の内容が付与されて認識されるという盛山氏の指摘は貴重である。大人として認識された人は、実際に大人としての振る舞いに欠いていても、大人としての振る舞いを期待されることになる。このような仕組みは、廣松渉の認識論の四肢構造で解き明かされている。廣松渉の認識論の四肢構造においては、究極的にいかなる純粋な客観的事物も世界には存在しない。人は、生の認識対象物に対してそれ以上の意味を付与する。商品を店で買うときに、客は店員を単なる人ではなく、特定の役割を帯びた存在として認識する。商品について聞いたら、その値段を教える存在だと思う。この属性は、店員がつくったものではなく、社会的に生成されたものである。人は、事物を「として」というかたちで認識する。この役割認識をみんなが共有しているはずであると思い込むことで、コミュニケーションが生成される。しかし、自己の目的のために道具的な「として」というかたちで利用するのと区別をつけておく必要がある。あくまでも、みんなが了解しているということが規範として作用するのには重要なのである。役割を付与するのは自己ではなく、みんなであるということで、はじめて規範となるのである。このみんなという観念の対応物は、外部の他者の反応であり、対応物のない純粋な虚構的観念ではない。役割体系を規範として支えるのは、みんなである。他者一般という観念が人の頭のなかにしかないとうことで社会を理念的ものと断定してしまうのは早計であり、その外的対応物はきちんとあるのである。
 つまり、社会には固定的実体はないが、外に存在し、拘束してくるというのは、ある意味、正しいのである。デュルケームが社会は人々の頭のなかにあるといいつつも、社会的事実は外存性・拘束性をもつと言わざるを得なかったのは、当然である。他者一般は観念として人々の頭のなかに出来上がるが、それはもともと外部の他者からの反応からできあがったわけであるから当然なのである。ただし、社会そのものは人々の頭の中の観念だけではなく、それを人々が選択・利用してコミュニケーションとして観察可能なかたちにならないと、生成しないことを、重ねて釘を刺しておきたい。この点の誤解が社会学に大きな混乱をもたらしているのである。
 社会規範が外存性・拘束性をもつ根拠は「みんな」という観念であり、その観念に基づいてコミュニケーションが生成されることで、さらに規範は外に立ち現れ、拘束するものとして、人に観察され、人は規範を再内面化するのである。この循環過程は、バーガー著「社会的世界の意味構成」で明かされているのである。それは有名な「外化・客観化・内在化」という社会構築主義の公理である。

  参考
 機能主義が人々の主観的意味世界を離れて、外的視点から社会の機能を特定し、その機能を維持するために社会秩序があると記述する場合があるが、そのような視点が単なる学者の意味世界として相対化されないなら、一つの社会科学的立場を確立できると考えられる。
 社会成員を再生産する装置として結婚・教育があるといった場合、それは人々=当事者の意味世界とは関係なく、主張できる理論である。社会内当事者の意識や意味世界とは関係なく、社会というものが客観的実体として存在するという理屈である。このような客観的機能主義を完全に否定しない限り、盛山氏の社会観念説は成り立たないと思われる。また、機能主義が完全に否定されないのなら、社会統計が社会学の有効な手段となると思われる。社会統計を重視する社会学者太郎丸氏がその点に敏感だと思われる。その点の克服については、ギデンズの二重の解釈学を読まれたい。外的視点と当事者の内的視点の統合こそ、社会学の役目だとするギデンズの理論がある。合わせて、ハーバーマスの(生活世界/システム)という区別も参考にされたい。

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙 
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by merca | 2012-12-24 17:27 | 理論

選択肢の共有(偶然から必然が生ずるからくり。)

 個々の要素が自己選択性に基づいて偶然な動きをしているにもかからわらず、全体としては秩序が現れ必然の相をもって現象化することがある。
 例えば、1万2千人の人間がサイコロを振ったとする。個々人のサイコロが1から6のどの目を出すかは、全くの偶然である。にもかかわらず、全体としてはある一つの目が出た数は、限りなく2千に近い数となり、1から6の目のでる回数は均等分されてくる。偶然の総和がかえって秩序をもたらすのである。1万2千人の人がサイコロをふったら、ほぼ一つの目が出た回数は等しくなるという必然の秩序を生み出す。
 これと同じであり、社会においても、人々が自己選択性に基づいて好き勝手に行動しても、社会全体として必然の秩序を生み出すことになる。人々の自己選択に基づいた行為あるいはコミュニケーションが結果として、必然の秩序を生み出す仕組みを社会学は解明する役目がある。個々人の自由な消費行動が市場に秩序をもたらすと考えたアダムスミスの神の見えざる手も、これと同じ仕組みである。
 これまで、古典的な社会学では、共通の価値規範やそれに伴う賞罰によって、人々の行動に秩序が生ずると考えてきたが、そのような規範主義パラダイムに基づかなくても、社会秩序生成のメカニズムは説明しうる。ルーマンは、共通の価値規範を共有しなくても、二重の偶有性に基づく予期の総和によって秩序が生成されると考えていた。複雑性の縮減という考えにそのポイントがある。
 実は、社会秩序生成のからくりは、サイコロの例にヒントがある。サイコロの目は6つしかなく、無限に存在する他の自然数が出ることはない。例えば、7や10は出ないのである。つまり、このような限定された事象空間=選択肢を共有することで結果的に秩序をもたらしている。社会秩序もこれと同じである。人々があらかじめ範囲が限定された行為の選択肢を共有し、その範囲内で自己選択することで社会秩序は成り立つのである。例えば、ある商品を買う場合、誰でも100円で買える商品は限られているのである。このような限定された選択肢の共有こそが秩序をもたらすのである。無限の可能性と唯一の可能性の間に選択肢が存在することで、秩序は生成するのである。
 
 ルーマン社会学では、選択肢の範囲を限定することを複雑性の縮減という。簡単に言えば、人々は限られた同じ範囲から行為を選ぶということである。人々はサイコロを振らされているのと同じなのである。また、限られた選択肢から選択するので、自己の選択も他者は理解でき、コミュニケーションが接続していくのである。人々が自己選択における意味地平(選択肢の集合)を共有することで、秩序は可能となるのである。

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by merca | 2012-12-02 10:22 | 理論

多原因相対主義の宣揚(究極の平和思想)

 一つの現象は、一つの原因から生ずるのではなく、多数の原因があってはじめて生ずると考える。これを多原因論という。例えば、仏教では、因縁説をとり、一切と一切が関係してはじめて一つの現象が生ずると説く。また、社会病理学の分野でも、犯罪非行、少子化、いじめ、虐待、貧困、戦争などの社会病理現象については、多原因論が正しい。貧困の原因は、失業のみならず、失業プラス他の複数の原因から起る。複数ある原因から一つの原因だけを絶対化し、あたかもその原因だけで現象が生ずると考えるのは、間違っているのである。ある一つの原因だげが一つの結果をもたらすと考えてしまうのは、認識主観の価値観による選択化にしかすぎない。
 
 一輪の花が咲くのは、空気があり、水があり、太陽からの光があり、土があるなど、自然界の複数の要因が重なってはじめて可能となる。自然科学の世界においても、多原因論は正しい。水だけで花が咲くと考えるのは間違いなのである。また宇宙がなぜ生じたのかというのも、多原因なのである。物理学は一つの理論で宇宙の成り立ちを説明しようとするが、それは原因の一元化という人間理性の誤謬である。同じく、社会がなぜ生ずるのかというのは多原因なのである。しかるに、法則科学は、現象を抽象化し、単一原因論に準拠し、自然界を記述する。例えば「石を投げたら地面に落下した。」という現象の原因は万有引力の法則から一元的に説明されるわけであるが、石を投げた人物の自由意志という原因は無視されている。石を投げるというその人物の心の決定がなければ、その石は投げられることもなく、落下することもないのである。
 このように、科学的説明においては、一つの現象が成り立つために必要な一つの原因だけがピックアップされ、他の原因は全て隠蔽されてしまうのである。具体的現象を抽象化することで、一つの原因を取り出し、一つの結果と結合することで、因果法則は構成されるのである。そういう意味では、科学が発見した全ての因果法則は、人間が独自の観点から自然界から抽象化して構築されたものにしかすぎない。厳密に言えば、ある視点から切り取られた人間の主観の産物である。
  
 ありのままの現実世界は把握しきれない無限の多原因からなる複雑な世界である。ありのままに世界を観察するとは、一つの原因を絶対化せずに無数の多原因を受け入れることである。つまり、全ての原因は等価であり、等しく価値があるとする究極の相対主義をとることである。このような全ての複数ある原因が存在論的に平等であるという立場を、多原因相対主義と呼ぼう。
 多原因相対主義の宇宙観は、仏教の縁起思想と同様に、宇宙に役に立たない存在は何ひとつなく、一つの存在が欠けるだけでも宇宙全体が成り立たなくなるという考えとなる。世界に一つしかいないあなたは尊いとするオンリーワン思想とは別の仕方で、全ての存在を肯定する思想を構築することが可能となる。一切が一切と関わることで宇宙全体は成り立ち、どの一つの存在も平等に必要であり、尊いことになる。
 
 しかし、複雑系科学を多原因相対主義と勘違いしてはならない。複雑系科学は、無限なる要素間の相互作用から一つの創発特性が生ずると説くが、多原因相対主義とは異なる。なぜならば、自己の外部の環境要因が排除されているからである。一つの創発特性は、自己のシステムの内部にある要素間の関係だけではなく、その外部にある存在との関係も必要とするのに、それが排除されているのである。あたかも自己の内部にある要素間の関係から自己が成り立つような記述になっている。やはり、ここでも抽象化が起きている。一輪の花が咲くのは、一輪の花を構成する細胞間の相互作用から成り立つと考えており、空気、水、光、土などの外部の要素を無視していることになるのである。やはり、複雑系科学も科学にしかすぎず、抽象化の産物なのである。
 自己組織化システム論の欠点は、自己の内部の要素に特権を与え、自己の外部の存在や要素が自己を支えているという観点を無視し、多原因的世界観を貫徹していないところにある。要素が要素を産出するという考えにそれが露骨に現れている。

 科学思想は、一つの原因を選択化し、他を必要なく排除するという争いにあけくれるが、一方、多原因相対主義は正反対である。
 一つの存在が存在するためには一切の存在が必要であり、一切の存在が存在するためには一つの存在が必要である。このような立場に立つ多原因相対主義は、他を排除しない争いのない究極の平和思想をもたらすのである!!

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by merca | 2012-08-07 09:25 | 理論

複雑系科学は、社会を捉えきれない。

 創造システム論という形而上学を唱える社会学者がいる。社会学者井庭崇である。創造システム論は、西條氏の構造構成主義に匹敵するほどの独創的な和製の理論である。簡単に言えば、全ての存在は、創造システムとして観察することが可能であるという壮大な形而上学である。自然科学と社会科学の両方の対象も射程に入れている。この理論は、複雑系科学から必然的に導かれる一つの思想的帰結である。社会構成主義の帰結が構造構成主義であったように、複雑系科学の帰結は創造システム論なのである。
 しかし、創造システム論が準拠する複雑性と自己組織化という概念は、ある一つの社会原理を見落としている。以下、それを説明しよう。
 
 複数の存在(要素)が関係し合い、その関係性によって自然に一つの特性が発生することを自己組織化という。秩序は、誰かの意図や作為によって計画的に出来上がるのではなく、偶然に生じたものであるというところが、自己組織化理論の面白さである。そして、社会もそのような要素間の相互作用による偶然性の産物であるということになる。社会変動には、マルクス主義が想定したような必然の法則などなく、単に偶然の積み重ねによって社会は出来上がっている。出来上がった社会秩序(言語、規範、習慣、法律)は、何ら根拠もなく、人々の相互行為の偶然の賜物であるということになる。
 しかし、このような社会秩序の究極的非合理性・無根拠性に耐えうるのは困難であり、人々は社会秩序に対して納得のいく意味付けを与えようとする。例えば、神から与えられた掟であるとか、人権を守るためとか、科学的根拠があるとか、一定の社会的機能を有するためにあるとかである。偶然では耐えきれず、秩序の存在理由を追求するのが人間の人間たる所以である。実は、このような人間の意味付与作用こそが自己組織化の原理を無効化する社会的装置なのである。
 
 一つの社会秩序が人々に受容され、生き残るためには、意味が与えられなければならない。無意味なものは採用されず、滅び行く定めにある。社会秩序は、複数の意識システムによる第二次観察にさらされており、様々な区別に準拠して観察され、意味付与される。そして、一つの意味が多くの人々に共有されることで、逆に人々の行為を拘束することになり、社会秩序が再生産されることになる。これを物象化原理という。物象化によって無根拠性と偶然性は隠蔽され、社会秩序には存在理由=価値が宿ると人々は思うようになるわけである。同一のコミュニケーションが再生産される仕組みは、物象化理論にある。かくして、社会秩序の本当の成立過程である複雑性による自己組織化は隠蔽され、別の物語が付与され、書き換えられるのである。そして、一度、社会秩序が機能しだすと、自己組織化という誕生過程は隠蔽され、書き換えられた新たな物語が実演され、社会的リアリティを獲得し、社会内真実となるのである。自己組織化による誕生秘話は雑音として外部に追いやられるのである。
 
 創造システムがいくら創造物をつくったとしても、その生成過程は隠蔽され、書き換えられ、人々が賛同する別の物語にすり替えられるのである。例えば、人類の誕生は無根拠な偶然であるのが真実だとしても、神による創造神話や科学的物語である進化論によって、書き換えられ、社会に流布するのである。人類の誕生は、全くデタラメの偶然から自然発生したという複雑系科学による真実は人々には堪え難いのである。宗教に準拠して神の子として作られたとか、進化論科学に準拠して進化の頂点として人類は誕生したとか、様々な物語を付与するのである。ちなみに、この意味において、創造論と進化論は機能的等価であると言えよう。
 
 いずれにしろ、仮に社会秩序生成がカオスからの自己組織化によるものだとしても、それは最初だけの話であり、成立後においては、社会システムは物象化原理によって維持されているのであり、自己組織化がなくても回るのである。もっと正確にいうならば、社会秩序は物象化のために必要な意味を付与されるまでは社会秩序として機能しないのである。

  参考エントリー
  「物象化現象の記述」
  http://mercamun.exblog.jp/7502792/
  「言語の恣意性と物象化現象」
  http://mercamun.exblog.jp/10421161/

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by merca | 2012-08-05 10:54 | 理論

社会学の科学力

 社会学は役が立たない学問であるとよく言われている。その科学性が未熟である故に、実学になり得ないというのである。この考え方に少し待ったをかけておきたい。というのは、科学の公準の一つである予測性という意味においては、かなりの精度をもつ理論があるからである。
 社会学について、予測性を語るのなら、大凡、四つの次元に分けることができる。

   1 行動(コミュニケーション)の予測性
   2 社会構造の変動の予測性
   3 価値意識の変動の予測性
   4 社会階層におけるライフコースの予測性

 行動の予測性はコミュニケーション・システムに対応し、社会構造の変動は社会システムに対応し、価値意識の変動は意識システムに対応し、ライフコースの予測は社会階層システムに対応している。簡単に言うと、人がどのように動くか当てることができ、社会がどうなるか当てることができ、人々がどう考えていくようになるのか当てることができ、人がどのような人生を歩むのか当てることができるということである。

1 社会学における行動の予測性について
 社会学は、様々な社会理論を使うことで、人の未来の行動を当てることができる。
 ある人間がコンビニに行き、商品をレジにおき、店員にお金を渡したとする。社会学からは、店員の次の行動は予測ができる。店員はその人を客として認識し商品を渡すことになる。また、警察官が赤信号なのに通過している原付バイクを運転している若者を見つけたとする。社会学からは、警察官が原付バイクを運転している若者を捕まえにいくことは予測できる。
 前者の売買行為については、合理的選択理論や権力の予期理論によって説明ができる。もし店員が代金を支払った客に商品を渡さないのなら、店員は客から訴えられ店長から怒られ解雇される可能性があるので、商品を渡すという行動にでるわけである。商品を渡さずにお金だけもらうという行動は選択せずに、商品を渡すのである。後者の警察の取締行動については、パーソンズの役割理論から簡単に説明がつくことになる。違法行為を取り締まることが警察官の役割内容だからである。

 一般に誰がどんな社会状況で誰に対してどんな行動したかを代入することで、その行動に対する反応行動を予測することができる。しかし、よくよく考えると、基本的に人々の自己選択・自由意思という偶然性からコミュニケーションが創発されているにもかかわらず、このような必然性が生み出されていること自体が一つの妙なのである。そこで、社会の必然性そのものも、つくられたものであるという観点を社会学はとる。社会の偶然性から社会の必然性をつくりだす装置のことを、物象化という。物象化は、貨幣、真理、権力、愛などの一般化されたコミュニケーションメディアというかたちで作用する。

 秩序が乱れている不安定な社会では、売買行為も警察の行為も、より不確定となり、必然性の度合いが低くなり、人々の行動予測が困難となるが、秩序が安定化した社会では、必然性の度合いが高くなり、人々の行動予測が可能となる。ルーマン社会学では、偶然性を低くすることを複雑性の縮減という。
 要するに、社会の安定性によって、予測性は変わってくるわけであり、社会学の予測能力という科学力も、各国民社会の状態ごとによって異なり、相対的なものなのである。自然科学の絶対的な予測能力とは異なる訳である。ただし、物象化装置そのものの作動の度合いは社会学のみが分析しうるのであり、国民社会ごとの社会診断は可能である。一般に、より近代化した社会すなわち機能分化した社会ほど、社会の必然性は高まるのである。
 もし日本社会でいうのなら、どこの地域のコンビ二においても、お金を支払えば、商品を渡すという行動が予測できるのである。金を支払う=原因が商品を渡す=結果は、必然であり、誰でも予測できるのである。社会学者のみならず、一般市民も他者の行為を予期することができ、社会は回っているのである。しかし、このような社会法則は単に維持されているにしかすぎないことを忘れないのが、社会学者が専門家である所以である。
 ちなみに、ジョンレノンがイマジンで、国家も人々の思い込みで維持されているにすぎないと喝破したのは驚くべきことである。イマジンは、再帰的近代化意識による社会学的啓蒙の一つである。

2 社会構造の変動の予測性
 社会構造とは、社会階層、国家、市場、組織体、家族、地域共同体などの一定の関係を指し、その関係の変化を予測できるかどうかが、社会学の科学力が問われるところである。社会変動論の中核は、近代化論である。近代化しつつある社会は、近代社会特有の構造をもつことになる。例えば、近代化が進めば、家族形態は、三世代家族から核家族になり、家族は生産ではなく、消費の単位となる。このような構造上の変化は、マクロ社会学的に予測可能である。社会学の近代化理論からすると、近代化しつつあるアジア社会の変化は予測できる。マルクス主義の社会変動論よりも、社会学の社会変動論のほうが、明らかに科学的なのである。

3 価値意識の変動の予測性
 人々の価値意識がどのように変化していくのか予測するのも社会学の役目である。基本的には、これも近代化理論によって予測可能である。自由や人権感覚の価値意識、男女平等の価値意識、民主主義を肯定する価値意識、個人主義などの価値意識が人々に内面化していくのである。近代化しつつあるアジア社会の価値意識の変化はこのように予測できる。

4 社会階層におけるライフコースの予測性
 ある特定の社会階層に生まれた者やある特定の学歴を取得した者が、どのような社会的地位につくのか予測できる。これは、ブルデューのハビトゥス論、文化的再生産論によって予測可能である。例えば、日本社会では、建築作業員のヤンキーの子は、学校で勉強ができなければ、ヤンキーになり、やはり建築作業員等のブルーワーカーになる。このような文化的再生産は頻繁に起っている。小学校の先生が家庭環境と本人の生育歴から類推してヤンキーの子がヤンキーになることを当てることができるのはそのためである。親の社会階層と家庭環境、それに能力と学力を掛け合わせると、大凡、その人が背負っている社会的宿命を予測でき、職業選択を含めたライフコースを予測できるのである。

まとめ
 臨床社会学の分野では、おそらくもっとも行動予測力が高く一般化できる実学は、やはりパーソンズの行為の準拠枠か宮台氏の権力の予期理論である。心理学理論よりも人の行動を予測できる科学力があると考えられる。宮台の権力の予期理論は、正確な個々の変数を代入することで、個人の行動を予測することができるのみならず、社会生成のメカニズムを同時に解明しているところに素晴らしさがある。宮台氏の権力の予期理論は、社会学における相対性理論と言っても過言ではない。

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by merca | 2012-03-04 11:18 | 理論

科学と疑似科学の境界線は恣意的である。

 ニセ科学批判クラスタのサブリーダーである、なとろむ氏が早川教授と議論しているのを見つけた。しきりに、なとろむ氏は、ニセ科学批判批判者である私の議論を薄っぺらいと批判している。
  http://togetter.com/li/69786
  http://togetter.com/li/77766
 しかし、ニセ科学批判の本質が科学主義を利用した通俗道徳主義であるという私の分析は、いまや多くのニセ科学批判批判者たちが共有している認識であり、社会学的にも正しいと考えられる。社会運動論的には、菊池派のニセ科学批判は科学主義と通俗道徳という二重構造をもつことで、議論に負けない正論となっており、その正論にのっかりたがるネット論客たちが菊池氏のもとに参集し、現在のニセ科学批判クラスタが生成した。正論に安住してネット議論できるニセ科学批判という思想は、ネット議論好きの人たちが寄生するネット思想として急速に流布していき、彼らの自尊心の拠り所となった。ここまでの分析は、普通の社会学者なら誰でもわかる部分である。
 そしてさらに「ニセ科学批判」とか「ニセ科学批判批判」という言葉が多くのブロガーにコミュニケートされ、これらの言葉に多くの意味が付与されるようになり、ニセ科学批判議論は一つの確立したジャンルを形成してきた。このような思想伝達のコミュニケーション過程を分析するのが社会学の役目である。ニセ科学批判者たちが自分たちと反発する論者と議論することにより、第三者=世間の観察に晒され、好むと好まざるに関係なく、ニセ科学批判の一定の社会的なイメージが構築されていくわけである。私はニセ科学批判について自己のブログで言明することで、このような社会的過程を促進させたと思っている。
 多くの人たちにコミュニケートされて出来上がったニセ科学批判という言葉にまつわる意味や価値を受容できない者はニセ科学批判から卒業していった。それがTAKESAN氏である。同氏は、ニセ科学批判がコミュニケートされる社会過程が自分たちの意図せざる方向に暴走する恐ろしさを嗅ぎ取り、ニセ科学批判という言葉から距離をとったと思われる。
 また、ちなみにニセ科学批判クラスタが平川氏のSTSに噛み付く現象も興味深い。STSにはニセ科学批判クラスタたちを脅かす要素が隠されていると見ている。

 さて、なとろむ氏は科学と疑似科学の境界線について以下のように疑問を呈している。
   http://twitpic.com/3egpj3
 ここでは、グレーゾーン論の例として、白と黒の明度のスペクトラムが取り上げられている。結論からというと、限定付きで線引きは可能である。まず、任意の二つの明度の比較は可能だと考えられる。異なる明度Aと別の異なる明度Bを比較し、どらちが黒に近いか比較することができ、その中間点に線引きすれば分けることができる。比較できるということは、比較するための判断基準があるからである。それは光の反射量である。光の反射量という連続性尺度が隠蔽されているのである。科学と疑似科学が連続的であっとしても、比較する判断基準が必ず隠されているのであり、任意の二つの点を比較することで区別可能となる。
 さらに、実は、ニセ科学批判者が採用するグレーゾーン論は、より科学的かどうかを比較する判断基準そのものが論者によって異なり、曖昧であるという事実を隠蔽する手段である。逆にいうと、曖昧な量的な思考で科学と疑似科学を分けているだけであり、はなから質的な二分法で分けるという発想を理由なく排除している。ニセ科学批判者は、科学であるかどうかの問題について、量の問題として捉え、質の問題として捉えることを避けているのである。例えば、どこまでが明るくてどこまでが暗いのか、どこまでが寒くてどこまでが暑いのかという量の問題は、それを判断する主観に委ねられる。同じく、科学であるかどうかを量の問題として捉えると、どこまでが科学でどこまでが科学でないかは、それを判断する主観に委ねられる。科学を量の問題として捉える限り、科学と疑似科学の境界線は、ニセ科学批判者の主観すなわち恣意性に委ねられることになるのである。そして、自分たちの恣意的な判断を客観に見せかけて、非難対象にレッテルを貼るのがニセ科学批判者の常套手口である。
 そもそも、ある現象に対して、観察道具として連続性尺度を採用するか、質的二分法を採用するかは、観察者の全くの恣意的な事柄である。ニセ科学批判者は、科学という知識に対して、連続性尺度を適用する必然性があるかのように装っているわけである。連続性尺度の場合、任意の点を基準にして、白黒の区別をつけることになる。つまり、任意の基準点は、判断者の恣意性や価値観に委ねられることになる。ニセ科学批判者による科学と疑似科学の区別は、恣意性や価値判断が混入しているので要注意である。恣意性に科学という名前を使うことで正当性があるように見せかけているのである。
 ニセ科学批判者は、科学とは何にかという本質的問題から逃避し、非難対象にニセ科学のレッテルを貼ることで我こそは正当科学だと自己満足しているのである。

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by merca | 2012-02-25 09:58 | ニセ科学批判批判

科学哲学者・戸田山和久の科学観の矛盾

 科学哲学者たちは、科学とは何かについて探求し、一定の科学観を構築しようと努める。そして、科学と非科学(疑似科学)の境界線を引くことができる科学観こそが確立した科学観の資格をもつと考えられてきた。ただし、科学哲学者たちの科学観は、世界的に有名な超一流の社会学者たち、例えばウェーバー、マートン、ルーマン、ブルデューなどの社会学的視点による科学観とは異なる。社会学における科学と非科学の境界線は、社会システムの構造と相関しており、視点が異なるからである。社会学の場合は、科学的知識の内容の真偽は括弧に入れ、その社会的、歴史的な発生条件によって科学を定義することになる。
 
 さて、疑似科学批判者あるいはニセ科学批判者たちが準拠する科学観は、概ね伊勢田哲治(ベイズ主義)や戸田山和久などの科学哲学者の科学観に源流がある。ニセ科学批判の祖である菊池誠氏の科学観もこれらの科学思想を受け継いでいると考えられる。数年前に、社会学玄論ブログ内のコメントで、菊池氏が私に伊勢田哲治の「疑似科学と科学の哲学」を勧めてきたことも記憶に鮮明に残っている。
 菊池氏の科学観の特徴として、科学と疑似科学が連続しているというグレーゾーン論を見てとることができる。つまり、一つの学説は科学か疑似科学に完全に分けることができないが、限りなく疑似科学に近い学説を科学と称する場合、ニセ科学として批判するというわけである。さらに、科学と疑似科学を二分法的に明確に分ける科学観を批判している。
 現在のニセ科学批判クラスターたちも、グレイゾーン科学観を共有しているものと考えられる。戸田山和久氏著作の「「科学的思考」のレッスン」という著作においては、このグレイゾーン科学観が分かりやすく説明されている。以下、この科学観を批判的に検証していきたい。

 まず、科学哲学者・戸田山和久氏は、「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法に基づき、科学概念を整理する。「科学が語る言葉」とは、科学の研究対象物の属性を記述する科学的概念である。酸素、DNA、自然淘汰などである。一方、「科学を語る言葉」とは、仮説、理論、反証、実験など、科学的知識の獲得方法にまつわるメタ科学的概念である。さらに、戸田山氏は、これまでの科学教育が単なる科学的概念の伝授となっており、メタ科学的概念の学習こそが必要だと主張する。このメタ科学的概念を学習することで、一般市民の科学的リテラシーの基礎ができると考えている。
 明らかに、(科学的概念/メタ科学的概念)という区別は、(目的=知識内容/手段=知識内容の獲得方法)という区別に対応していることが分かるのである。つまり、科学のアイデンティティが、その知識内容にあるのではなく、知識獲得方法や手続きにあるとする科学観である。この点を押さえておこう。

 科学の本質がその知識獲得方法にあるとするのなら、自ずと科学と疑似科学の境界線も、知識獲得方法を判断基準として、分別されることになる。しかるに、戸田山氏のグレーゾーン論は、そういう立場をとらずに、知識内容に準拠して科学と疑似科学の区別をつけようとしている。説明しよう。

 戸田山氏は、科学的知識は絶対的真理ではなく全て仮説であり、より良い仮説とそうでない仮説があるだけであると考える。さらに、より良い仮説とそうでない仮説を区別する基準は真理に近いことであるという真理の近似値説を否定する。
 その代わりに、「より多くの新奇な予言をしてそれを当てることができる」「その場しのぎの仮定や正体不明の要素をなるべく含まない」「より多くのことがらを、できるだけたくさん同じ仕方で説明してくれる」の三つの基準を用いることが妥当であると考える。言い換えると、予測能力、明確性、説明能力の三つが科学的知識の本質であるというわけである。例えば、天動説よりも地動説のほうが、予測能力、明確性、説明能力があり、より科学的だというわけである。
 ここでは、ある仮説や理論が事実そのものと合致していることが科学的であるとする論理実証主義的な素朴科学観は、否定されるわけである。事実と合致していることを確かめる手段として実験なるものが存在するが、実験で得られた仮説や理論があまり説明能力がないのなら、実験結果よりも既存の科学的仮説がよりよい科学的知識のまま君臨することになる。
 物理的リアリティに単純に訴えること、つまり自然による審判(実験)は二次的な要素にすぎないことになる。これは、ニセ科学批判者の菊池氏が水伝に対して既存の科学的学説と矛盾しており、反証実験の必要なしと喝破したのと同じ理屈である。既存の公認された科学的学説と矛盾することなく、既存の学説も含めて説明できることが求められるのである。
 
 幽霊や超能力や波動の研究などの超常現象を扱う研究は、いくら科学的手法で実験しても、既存の科学的学説と矛盾しており、予測能力、明確性、説明能力がないため、現代科学から排除されることになる。つまり、戸田山氏や菊池氏からすると、端的にニセ科学となる。これらは現代科学に居場所はない。

 いずれにしろ、予測能力、明確性、説明能力は個々の科学的知識の内容=仮説や理論を対象としている判断基準であり、その知識獲得方法や手続を対象にしている判断基準なわけではない。つまり、科学か疑似科学かの判断基準を科学的知識の内容に準拠して区別し、グレーゾーン論を唱えているわけである。本来は、知識獲得方法に準拠して科学と疑似科学は区別されるべきであるのに、科学的知識の内容に照準を合わせてしまっているわけである。戸田山氏は、折角、科学の本質はメタ科学的概念=科学的知識獲得手続にありきと提唱しているにも関わらず、科学と疑似科学の境界線を知識内容の予測能力、明確性、説明能力に求めてしまっているのである。この矛盾は誠に残念である。

 このように戸田山氏の科学観に矛盾が起るのは、一つの類推であるが、ニセ科学批判者特有の一つの先入観や価値観からではないかと考えられる。それは、はなから超常現象を扱う研究を科学から排除すべきだという先入観や価値観である。予測能力、明確性、説明能力の乏しさによって、超常現象を扱う研究は簡単に排除されるのであるから。
 公認された科学的手法で得られ、既存の科学的知識を覆す実験結果によって構築された仮説や理論が、予測能力、明確性、説明能力がなく、既存の学説と不整合であるとする理由だけで、却下され、ニセ科学のレッテルを貼られることは、科学の進歩の妨げになるのである。

 科学のアイデンティティをどこに求めるかで、科学とニセ科学の区別基準が変わってくるわけであるが、知識獲得手続を対象として境界線を引くことで、明確な二分法的基準を確立することができる可能性がある。例えば、科学界で公認された方法(観測・実験している/観測・実験していない)という二分法には、グレーゾーンは存在しないのでないとかと思われる。科学界で公認されていない観測・実験方法で得られた知識を科学的知識と豪語すると、はきっりとニセ科学となる。
 二分法的思考は重要なのである。実のところ、当の戸田山氏自身が「科学が語る言葉」と「科学を語る言葉」という明確な二分法で科学概念を整理し、自らの科学観を確立しているわけであるから、自身が二分法を否定するのは自己矛盾なのである。さらに、二分法が駄目だという言明こそが、(断続性=二分法/連続性)という二分法に準拠しているというパラドクスにニセ科学批判者は盲目である。 システム論的に言うと、人間の思考は区別=二分法から生じ、区別=二分法に終わる他ないのであり、二分法は思考の根源である。さらに、一つの二分法への執着を別の二分法で相対化する営みこそが、必要とされ、それが本当の科学的リテラシーにつながるのである。

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by merca | 2012-01-08 11:34 | ニセ科学批判批判

世界とは何か?

 世界あるいは宇宙は、一つの全体性=同一性ではない。そのような全体性や同一性を越えたところに世界はある。もしかりに世界が一つの同一性であるのなら、その同一性を根拠付ける外部が必要となり、世界に外があることになる。世界の外があると、世界は世界足り得なくなる。世界とは、一切であり、その外に出ることができないから世界なのである。世界は、内外の区別を越える真無限である。
 また、世界は場所であり、実体ではないので、本来、主語化できないものである。世界は主語化された途端に、一つの実体となり、世界足り得なくなるのである。つまり、「世界はこれこれだ」と述定した途端に、世界に同一性が付与され、世界は世界でなくなってしまい、世界は捉えられなくなってしまう。つまり、原理的に、世界は決して認識することはできないのである。認識できはしないが、それがあることを私たちは知っているのである。このような世界に対する知は、科学的知識の外にある。科学が宇宙がこれこれだと分析した途端に、宇宙は宇宙でなくなるのである。宇宙は認識作用ではなく、別の仕方で感じ取るものなのである。認識作用ではない知を人々は忘れており、科学のような認識作用のみが知である勘違いしているのである。

 しかし、強いて言うと、世界とは、一切と一切の関係であり、万物はその関係項である。ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界が世界論を正確に捉えている。またルーマンは、世界を無限なる複雑性として捉えた。このような哲学者たちの知は、科学のような認識作用による知ではなく、生得的な直観知によって得ているのである。
 世界論では、世界は、それぞれの万物の唯一性によって成り立っていることになる。それぞれの万物に区別がないのなら、世界は同一化してしまい、世界は世界足り得なくなる。無数の万物が世界の無限性をもたらすのである。
 
 星空を眺めたときに、我々は一つの全体性ではなく、無限性として世界・宇宙を感じる。その無限性は、無数のそれぞれの星が輝いていることからくる。星が一つもない暗闇という同一性に世界を感じるのではなく、無数の星の存在があることに世界の無限を感じるのである。世界という感覚は、そのように感受される。それが生得的な直観知である。
 
 社会も一つの世界だと考えると、この生得的な直観知は、人類社会=世界社会=万人と万人の関係を知る場合にも、必要となってくるのである。ある種、認識作用を越えた知でもって、世界社会を観察するのが、理論社会学の要諦である。世界社会の無限性を考えるときに、無数の人々の行為やコミュニケーションのそれぞれ性、唯一性こそが必要となる。
 今回、世界社会は、国民社会を越えて、東日本大震災において海外から支援や励ましのメッセージが届き、それに感謝する被災地との倫理的コミュニケーションにおいて、創発されたことが観察できた。そのメッセージの唯一の無数性が世界社会の無限性を支えているのである。ともあれ、そのような世界社会を観察する知は、ある意味、直観知であり、社会学玄論の玄とは、そのような玄妙な知を意味するのである。

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by merca | 2011-09-10 08:43 | 理論

生物多様性は自然の摂理 思想多様性は社会の摂理

 相対主義は、多様性を肯定する思想である。実は、人為を越えた自然界も相対主義が貫かれており、意外にも、相対主義の根拠は自然界にもある。
 考えてみよう。もし自然界に一つの種類の生物しか存在しないのなら、生物は絶滅しているだろう。生物多様性という言葉が流行っているが、生物は多様性をもつことで、生き残ってきたのである。さらに、その多様な種類の生物が関係すること(食物連鎖=生態系の形成)で、それぞれの種が維持されている。多様な生物は相互依存することで、生き残っている。
 自然界では、どれか一つの形態の生物のみが正しいわけではない。みんな正しいのである。多様性を肯定し、多くの選択肢を温存させるこの自然界の知恵=摂理こそが、相対主義の原型なのである。
 
 思想においても、同様であり、人間社会に溢れる多くの異なる思想は、どれか一つだけが正しいというわけではなく、多様性をもちつつ、相互依存しているのである。人類は多様な思想を生産してきたからこそ、状況に応じて多数の思想から適切な思想を選択し、現在、生き残っているである。人類社会は、多様な思想を生産することで、発展し、絶滅を逃れているのである。
 自然界の多様な個々の生物は、他の生物の存在との関係性を前提として生かされており、バラバラに存在するのではない。関係性こそが多様性を可能にしているのである。それと同じく、一つの思想が他の思想と関係し合うことで、一つの思想は成り立つ。多様な思想はバラバラでは存在し得なくなるのである。論理面において、このことに最初に気づいたのが西洋ではヘーゲルである。
 なお、念のためにいうと、悪しき相対主義は孤立的にバラバラに思想が存在すると捉えるが、私の主張する相対主義は関係性を前提とした相対主義であり、全く異なる。この点の重要な区別がつかず、原理性相対主義などと私を批判する者がいるが、それは的外れだと言えよう。私の相対主義を批判する者たちは、(関係性/無関係性)というコードのうち、無関係性のコードに準拠していることに気づかない未熟な論客なのである。
 さて、話を戻すと、生物多様性が自然界の摂理であるように、思想多様性は、社会の摂理である。
 にもかかわらず、科学のみが正しい知識・思想であるという科学主義がはびこり、思想多様性が破壊されつつある。ニセ科学批判がそれである。ニセ科学批判者は、相対主義を批判することで、思想多様性という人類の社会進化を否定していることになるのである。
 ニセ科学批判という思想は、ニセ科学という思想を獲物にしなければ生存できないわけであり、ニセ科学を完全に否定しては成り立たないのである。また、ニセ科学批判は通俗道徳という他の思想に依存しなければ死滅する。
 相対主義たる思想多様性の摂理に基づき、思想の生態系=思想地図を作成し、思想の相互依存性を解明することは、まさしく、これからの新知識社会学の使命なのである。

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by merca | 2011-07-24 09:58 | 理論