タグ:科学 ( 34 ) タグの人気記事

ギデンズの二重の解釈学という社会学的啓蒙

 ルーマンやブルデューと並ぶ現代社会学の巨人と言えば、英国の社会学者ギデンズである。ギデンズは、二重の解釈学、構造化理論、再帰的近代化、親密な関係など、多くの有意味な社会を観察する方法を提示し、日本の社会学者や大学院生に影響を与えている。
 ギデンズ社会学の核心は、二重の解釈学という考え方にある。これは、社会は対象と認識の一致という素朴な自然科学的な真理観では観察できないということを意味している。
 
 二重の解釈学によれば、出来事、行為、コミュニケーションなどの意味付けは、社会内で行為する当事者の共同主観的な意味付けと、社会学者が行う意味付けの二つのレベルが存在している。また、この二つのレベルは、相補的な関係にあり、当事者の主観的な行為が社会構造を創造・再生産するというのである。
 具体例を示そう。例えば、結婚するという行為は、結婚する当事者たちにとっては、恋愛を成就させて一緒に暮らしたいという目的で遂行されるわけであるが、社会システムから見れば、家族や社会階層の形成や将来の社会成員の再生産を意味していることになる。社会システムを維持するために結婚したという人はいないにもかかわらず、結婚によって未来の労働人口を確保し、結果として社会システムの構造を維持することにつながるのである。恋愛は結婚で成就する、あるいは結婚して家庭をつくることが人間の幸福という思想が共同主観として男女に内面化され、求婚活動を動機付けているのである。誰もわざわざ社会構造維持のために結婚して家庭をつくっていると思っておらず、好きな人と結婚して子供をつくりたいと思っているだけなのである。
 とにかく、社会内当事者たちが共同主観に基づいて主体的に行動すればするほど、社会の構造が再生産されるわけである。重要な点は、当事者の意味付けの内容と社会学者の意味付けの内容が一致してなくてもいいということである。時と場合によっては、内容が矛盾していても、かまわない。
 例えば、過去の全共闘運動においては、共産主義革命という意味付けの学園闘争をすればするほど、資本主義社会は成熟化していくという逆説的な結果が起こった。個々人の思惑を離れて、個々人の行為の総和が全く異なるかたちで社会全体に影響を与えるということは、よくある。これも一種の創発の妙理であろう。
 ちなみに、システム論の文脈で言うと、当事者間の意味付けは共同主観的意味付けであり、社会学者による意味付けは機能主義的意味付けということになる。前者は第一次観察に対応し、後者は第二次観察に対応する。また、ハーバーマス社会学の文脈でいうと、当事者間の意味付けは生活世界を構成し、社会学者による構造に対する意味付けは、システムということになる。
 ハーバーマスは、システムが生活世界を植民地化するという危機意識をもっていたが、ギデンズは構造が人々の主体的な行為を支配するのではなく、逆に人々の主体的な行為が構造を生産すると考えており、社会に対する疎外意識・拘束感を視野の外に入れた。
 
 ともあれ、社会学者は、対象となる出来事や行為に対して、当事者である人々による内面的な意味を把握しながらも、社会全体に対する意味を見つけ出し、この二つのレベルの相互関連を注意深く分析していくことになるのである。
 付け加えると、この二つのレベルの解釈は、どちらが正しいということはない。例えば、祭りは神様へのお礼のためにするという当事者たちの共同主観的意味と、祭りは共同体の凝集性を高めるという社会学者による機能主義的意味のどちらも間違いではないということである。むしろ、神様へのお礼という共同主観的意味が単純な科学主義によって否定され、人々が祭りをしなくなり、共同体がバラバラになるほうが有害なのである。社会学は、科学主義が事実の名のもとに人々の生活世界(意味世界)を破壊することを唯一防ぐことができる学問なのである。ギデンズの二重の解釈学は社会学的啓蒙の一つなのである。
 
人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2011-05-01 10:58 | 理論

具体的批判対象を提示できない反社会学講座は空虚である。

 私は、反社会学講座が藁人形論法だと断じた。その理由は、具体的事例を出さないことにもある。
 つまり、パオロ氏が批判する個人的な偏見をへ理屈で理論化した社会学者については、反社会学講座では具体的批判対象たる実名が出てこない。
 結局、具体的批判対象としての実例を出せないということは、該当する社会学者が一人もこの世の中にいないことになり、社会学は個人的な偏見をへ理屈で理論化したものであるというパオロ氏の主張は全く成立たなくなる。また、数人の名前をだしたところで、そんな少ないサンプルで社会学者全てを代表させることは、統計学上、全く意味をもたず、非科学的である。
 
 さて、パオロ君に告ぐ!!
 一体、パオロ君のいうところの社会学者とは、誰かね? 例えば、有名な日本の社会学者には、土場学、太郎丸博、高坂健次、富永健一、浅野智彦、土井文博、そして社会学の巨人・宮台真司など多数いるが、誰のことかね。本当に全ての社会学者の著作を読んだのかね。
 実例を示せないというのなら、君の言説は嘘であり、非科学的である。それとも、実例を示すと、本格的に批判されるから怖いのかね。
 このように実例もないのに、反社会学講座を読んで説得力があると賞賛する読者は、非科学的でメディアリテラシーが全くないことになるのである。本当に自己を辱めることになるので、反社会学講座を賞賛することはやめよう。
 あるニセ科学批判者曰く、実例がない主張は空虚である。ここでも、私のライバルであるニセ科学批判者の論法がそのまま反社会学講座に当てはまるのである。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2011-04-02 19:37 | 社会分析

ホリスティックな思考は、全て非科学か?

 ホーリズムとは、要素に還元されない全体が要素を決定するという論理である。ホリスティックなどという言葉でもよく使用されており、自然治癒力を重視するホリスティック医療等というものも存在し、ホメオパシーの正当性を根拠付けている場合も見受けられる。
 ちなみに、ホーリズムに基礎をおく知識体系は、ニセ科学批判者に嫌われており、非科学として断罪されるケースが多い。例えば、脳科学者の茂木健一郎のクオリア論も、ニセ科学批判クラスターから叩かれた。クオリア論におけるクオリアは、要素に分解できない全体的感覚であり、要素還元主義からは説明がつかず、一種のホーリズムな知識体系である。また、複雑系や宇宙論もホーリズムと関連してくると、ニセ科学批判者の批判対象となる。トランスパーソナル心理学やニューエイジの東洋思想も、実証性を重んじるニセ科学批判者の批判の的になるのである。
 要するに、目に見えない怪しい全体なるものが存在し、その全体が部分に作用するという理屈は、ニセ科学批判者にとっては、ニセ科学と見なされる。
 例えば、人間は精神と肉体の二元論で説明することはできず、心身を統一する全体としての生命体として存在し、従って生命力があがれば、肉体面の病気も治るという考えは、ニセ科学批判者に否定されることになる。なぜなら、生命(魂)という全体的存在は、目に見えず、科学的に観測されないからである。自然科学的に直接認識できるのは、分子と分子の関係からなる細胞、さらにその細胞同士の関係にしかすぎず、生命体という全体は存在しないからである。自然科学からしたら、ホリスティックな生命全体は虚構であるというわけである。
 また、部分から説明がつかない全体の存在を認めてしまうと、永遠の生命の存在を容認することにもなりかねず、科学主義者は嫌がるわけである。
 実は、ホリスティックな存在は、直観的にしか捉えることができない。ホリスティックな認識は、全て直観的認識であり、自然科学的認識ではない。物の全体性を捉える能力は、最初から生得的に一部本能として人間に備わっているのである。我々は、多少間違うことはあるにしても、科学を学ばずに対象を生物か無生物かに直観的に区別することができる。(ちみなに自然科学は細胞から出来ていると生物だと判断する) さらに、人間は自然科学を学ばなくても、対象を触ることで液体と固体を区別することができる。また、一定の社会環境で、人間として育つと、音の羅列を音楽として認識し、色の羅列を絵画として認識することができる。
 このような全体性を捉えることができる直感的認識は、自然科学的認識より劣っており、偽であると断言することはできない。問題は、ホリスティックな全体性と思えるものは、単なる主観的な人間の認識枠組みなのか、それとも客観的な外部対象の属性なのかということである。この点は、検討の余地があり、一番本質的な課題である。
 それはさておくとしても、物事をホリスティックに捉えることは、有用であることには疑問の余地はない。我々人間はあらゆる物事を一つの全体として捉え、意味付与し、カテゴライズして外界の複雑性を縮減し、世界に適応しているからである。
 自然科学的立場を絶対化し、ホリスティックな思考を全てニセ科学として断罪し、嘘であると排除するのは、よくないのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
  
[PR]
by merca | 2011-02-20 23:59 | ニセ科学批判批判

反社会学講座の正体は、社会学に対する藁人形論法。

 多くの知的な若者たちが反社会学講座に騙されている。ここで、私が警告を鳴らしておく必要があると感じ、当エントリーを書いている。
 「スタンダート 反社会学講座」 http://pmazzarino.web.fc2.com/index.html#mokuji
 見てのとおり、パオロ・マッツァリーノ氏の反社会学講座には、全く社会学理論が使用されておらず、社会学の手法や論理とは無縁である。社会学とは、社会学理論という観察道具を通して社会現象を記述することで成立つ学問である。多くの社会学者は、デュルケーム、ウェーバー、ジンメル、パーソンズ、ルーマン、ハーバーマス、ミード、ブルデュー、ゴフマンなどの社会学理論を現象に適用して観察し、記述してきた。従って、これらの社会学者たちが作り出した社会学理論の伝統の上に、社会学は成立っているわけである。
 例えば、宮台氏の著作は一般向けであって比較的分りやすくて人気があるが、あらゆるところに様々な社会学者や社会学理論による解釈がある。
 パオロ・マッツァリーノ氏の著作には、ほとんどこれらの社会学者の名も出てこず、社会学理論の適用が認められない。単なる統計や史実による記述等が大半を占めている。社会学理論という観察道具を用いない記述は、居酒屋談義と同じであり、社会学ではない。
 従って、パオロ・マッツァリーノ氏が社会学の手法や論理を使用していると豪語しているのは全くのデタラメである。そして、この嘘にはめられている読者は可哀想である。
 
 バオロ君、悔しかったら社会学理論を用いて社会現象を観察してみたまえ!!
 準拠集団論、行為の四類型、社会圏の交差、他者一般、システムによる生活世界の植民地化、顕在的機能と潜在的機能、ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、複雑性の縮減、近代化の後発的発展理論、コミュニケーション的理性、役割距離、ハビトゥス論など、これらの社会学理論を駆使して社会現象を観察し、記述してみなさい。(ご存知のとおり、私のブログではルーマンやブルデューや宮台の社会理論を多用している。例えば、私の理論的核心である価値次元相対主義はルーマンの機能分化論に基礎をおく。)

 私のライバルであるニセ科学批判者たちの御得意の論理を拝借させていただくと、バオロ氏の反社会学講座の正体は、社会学に対する藁人形論法である。つまり、社会学者の虚像として自分勝手に藁人形をつくりだし、その虚像である藁人形に対して批判をしているのである。パオロ氏の反社会学講座は、社会学理論による観察を得た記述がない全くのニセ社会学なのである。

 ルーマンやブルデューやギデンズとまではいかなくとも、少なくともデュルケームやウェーバーやジンメルなどの基礎的・古典的社会理論を学んだ社会学の徒なら、パオロ氏の嘘とトリックがわかるはずである。
 もし社会学部の学生でパオロ氏の読者コントロールに騙されている者がいるのなら、今すぐに、反社会学講座を捨て、デュルケームの「自殺論」やウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などの社会学の古典的名著を読むべし。反社会学講座による洗脳から解けると思う。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2011-02-12 23:33 | 理論

因果関係確定とニセ科学批判者の二枚舌

 因果関係とは、AがあればBが生ずるという関係である。例えば、火があれば、煙が生ずるなどである。因果関係には、三世界論に対応して、以下の種類がある。
 
(物理的因果関係)
対象は、物質世界における因果関係。
観察方法は、外から五感を通して認識し、個物を一般化した相で捉え、帰納的に発見する。
記述方法は、必然の法則として記述する。同じ属性をもつ全ての物質に当てはまる。
例 エネルギー保存の法則、熱量の法則、万有引力の法則など、物理法則。
 
(心理的因果関係)
対象は、精神世界(意味世界)における因果関係。
観察方法は、分析対象そのものに質問して認識し、個別的な因果関係を構成する。
記述方法は、動機として記述する。個別のケースのみに当てはまる。ただし、類似の事例には類似の因果関係が蓋然的に認められることがあり、それを臨床知と呼ぶ。
例 精神分析学のヒステリー分析。

(社会的因果関係)
対象は、社会世界(意味システム)における因果関係。
観察方法は、コミュニケーションを観察して認識し、集合的な因果関係を構成する。
記述方法は、規則や規範として記述する。特定の共同体のみに当てはまる。
例 文法、売買行為(店で金を払うと、商品が手に入る)、違法行為(盗むと、逮捕される)等。
 
 これらの三つの世界は、相互影響(構造的カップリング)=相互条件にあるが、原理的に互いに閉じており、システムとしては自律している。従って、相互に関係はあるが直接的にコントロールできるまでの関係性(一対一対応)はない。
 例えば、物体に浮かび上がれと念じたところで、浮遊することはない。(心理的要因が物質的要因をコントロールできない。) また、気温があがったからといっても、喜ぶ人もおれば残念がる人もいる。(物理的要因が心理的要因をコントロールできない。) さらに、一人の受験生が受験競争なんてなくなれと思っても、行動しなければ(コミュニケーション過程にあがってこなければ)、社会の仕組みは変わらない。(心理的要因が社会的要因をコントロールできない。)
 このような三世界における「相互コントロール不可能の原則」は、宇宙の根源的秩序である。ちなみに、この原則を破った世界観は、松本人志監督の「しんぼる」で描かれている。この原則が破れた世界ほど怖いカオスはない。

 さて、それぞれの世界における因果関係は、観察方法が異なる。
 物理現象においては、外から物体を観察することになる。ある現象の後にある現象が生ずることが繰り返されることで、因果関係を発見していこうとする。実験と呼ばれる方法である。しかし、ある現象に含まれるどの要因が本当の原因かわかるまで、疑似相関を排除するために、要因に統制を加えて精度を高めていくことになる。観測と実験が自然科学における因果確定の方法である。

 では、心理現象においては、因果関係の確定はどのようになされるのであろうか? 自然科学のように外から観察していても、心理内容は記述できないことは言うまでもない。表情や行動だけからの観察は類推の域をでない。そこで、分析対象そのものに質問して聞くことになる。
 例えば、カウンセラーが悩んでいる学生に質問し、「辛い気持ちになっている原因は、不登校で親から怒られているからです。」と答えたとする。「親から怒られる」ことが原因で辛い気持ちという結果をもたらしているという因果関係を確定できるわけである。しかし、あくまでも個別的因果関係を確定していることに注意しておこう。親から怒られると辛いという心理的次元における因果関係は全ての学生に当てはまるとは限らないからである。また、辛いという気持ちを起こす原因は親から怒られることだけではなく、いくらでも存在するのである。これは、個別のケースに関する現在における特定の因果関係の確定である。
 精神分析に基づく心理療法は、カウンセリングを通じて、因果関係をこのように個別的に特定していく。さらに、本人が気づかなかった(抑圧・隠蔽されていた)因果関係を気づくようにもっていくことになる。分析対象自身が因果関係を知っているというわけである。因果関係確定の根拠は、外からの観察ではなく、本人自身にあるということである。これを非科学的と言って切り捨てることはできない。そればかりか、内からの観察なので疑似相関に悩まされる自然科学よりも完璧な因果関係の確定となる。因果関係の確定に関しては、外側からしか観測できず不確かな自然科学よりも精神分析学のほうが完璧なのである。この点、全く気づかれていない。
 
 次に、社会現象については、人々のコミュニケーションを観察することになる。心理現象は、観察対象が個人の内面であったが、社会学の場合は、人々の行為となる。コンビニでお金を出して商品を買うという社会現象は、心理過程とは異なる次元である。例えば、一人の男がコンビ二で弁当を買ったとしても、その男がなぜ弁当を買うのかという動機(心理的次元)を店員が理解していなくても、お金を支払うだけで、店員は行為の意味を理解し、弁当を男に手渡すであろう。コミュニケーションにおいては、相互の内面的動機を提示しなくても、成立するわけである。
 また、同じ国民社会内では、どこのコンビ二に行っても、お金を支払うだけ弁当を買えるのである。金を払うという行為が原因となり、商品が手に入るという結果が成立しており、一つの因果関係が成立っているのである。
 さらに、この因果関係は規則・規範として維持されていることで、逸脱現象は起こらない。金を支払わずに商品を手に入れようとすると、万引きや強盗で逮捕され、処罰されるのである。逸脱現象に社会的制裁が伴うことで、社会的因果法則は保たれているのである。賞罰があることで社会的因果関係は維持されているのである。
 重要な点は、社会的因果関係は、社会学者自身が社会生活を送り、コミュニケーションをすることで観察・発見することができるものであり、自然科学のように、統計や実験はいらないことである。 平たく言えば、それなりに社会生活を送っていれば、わかることである。しかし、社会理論を使用して社会生活におけるコミュニケーションを観察・記述することができなければ、社会学とは言えない。社会理論という観察道具のない人の観察は、ただの居酒屋談義である。
 理論社会学の基礎を修めていない統計屋は、社会学者ではない。新聞社の世論調査そのものは社会学ではない。パオロ氏の反社会学講座は全く理論社会学の観点からの考察が抜けており、社会学的手法とはほど遠いのである。何度も述べているところであるが、人々のコミュニケーション過程にあがってこない客観的統計は、いくら正しくても社会を構成することはできず、社会的事実の資格はないということである。客観的統計=社会的事実と思い込んでいるパオロ氏の反社会学講座は、全くそのことを理解していない未熟な思考なのである。(真理のコミュニケーション説)

 因果関係の確定は、分析対象を内面から知ることができる心理学や社会学のほうが明確である。それに比べて自然科学は物質に聞くとこができず、外からしか観察することができないわけであり、実験を繰り返し、疑似相関を排除していく手続きが必要であり、因果関係の確定はいつも不明瞭なのである。「科学は全て仮説だから」という弁解が多いのはこのためである。偽薬効果は科学的仮説の段階であって確定した科学的事実ではない。
 自然科学中心主義のニセ科学批判者は、仮説に逃げることで自説の絶対化から免れつつも、仮説なのに他者を批判して自説を絶対化する二枚舌が特徴である。

 ニセ科学批判者は、科学を絶対化しているというニセ科学批判批判者や多くの常識人からの助言を真摯に受け取らず、仮説だから絶対的に正しいとは思っていないと弁解し、科学を理解していないと反論するわけであるが、その一方でその仮説でもって他説を全否定することで、自己が正しいと絶対化しているのである。この二枚舌のからくりは、科学の本質とも関係してくるのでニセ科学批判者の誤りだけに帰責できないかもしれないが、この課題をどう処理するのか見守っていきたい。

 さらに、ニセ科学批判者による科学と通俗道徳の使い分けにも注意しておう。この点についてはまたの機会に論じたい。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2011-02-06 11:54 | ニセ科学批判批判

代替医療としての臨床心理士の心理療法

 一部の臨床心理士は、ホメオパシーを使用しているらしい。「ホメオパシー」と「臨床心理士」を一緒にネット検索したら割とヒットする。私の知合いの臨床心理士に聞いたら、自らレメディを使用し、ホメオパシーは偽薬効果でないと断言した。驚いた。

 臨床心理学という人間科学は、心理学的に実証された知識や理論を応用して、心の病や精神的な悩みを解消する学問であると習ったし、実際、そうであると考えたい。臨床心理士を目指す女子大生はかなり多く、今や花形職業である。
 実際、臨床心理士は精神病院に勤務することが多く、薬物療法の補助としてカウンセリングなどの心理療法を行っている。認知行動療法やSSTなどは、心理療法のなかでもよく使用されている。聞く所によると、刑務所などでも性犯罪者の改善更生のために利用しているという。国家が科学として心理療法たる認知行動療法を認めているということである。ちなみに、統計大好きの犯罪学者浜井浩一氏は臨床心理士でもある。
 しかし、未だに臨床心理士の心理療法には保険が利かず、代替医療の枠組みで扱われているのである。厚労省の官僚たち=国家は、易々と臨床心理士に科学のお墨付きを与えないようである。
 確か日本の臨床心理学の祖は、ユング系の心理学者河合隼雄であり、大乗仏教思想が色濃いスピリチュアル系の学者である。河合隼雄の「カウンセリングの実際問題」は名著であり、多くの和製カウンセラーに多大な影響を与えてきた。

 科学的に実証されていないが、医療現場で使用されている様々な代替医療が存在する。鍼灸、アロマセラピー、指圧、漢方、カイロプラテックなどもそうであり、臨床心理士による心理療法もその一つである。また、ホメオパシーもそうである。西洋医学と比べれば、心理療法とホメオパシーは、代替医療としてカテゴライズされており、機能的に等価だと思われている。
 ニセ科学批判者は、代替医療が全て偽薬効果だと言わんばかりであるが、当の偽薬効果という理論そのものが科学的に解明されておらず、代替医療と科学的にレベルは同じなのである。もしニセ科学批判者が科学的に解明されていない=科学的に根拠がない、という理由でホメオパシーや鍼灸を批判するのなら、同時に偽薬効果理論も否定しなければ、自己矛盾を起こすことになる。正しく目くそ鼻くそを笑うの関係になってしまう。

 代替医療の中で果たして治療効果のあるものが本当に存在するのだろうか?唯一あるとしたら、精神分析学による心理療法だけであると考えられる。例えば、心理的原因でヒステリー症状を起こす場合、心理的原因は本人自身が無意識を意識化して気づくものであり、悩みの原因が分かれば、その結果を取り除くことができるからである。心理過程のみにおける因果関係は当の患者本人が知っており、患者本人からカウンセリングで聴く以外、因果関係を見つけることができないからである。
 
 実は、精神分析学の方が自然科学よりも因果確定が安定的なのである。治療対象に因果関係を聞くことができるわけであり、自然科学のように外から観察して疑似相関に騙されたりすることがないからである。精神現象=意味世界の現象は、対象自身が自らの因果関係を認識できるわけであり、この利点は大きい。不眠症を治療するのに、不眠症患者に睡眠薬を与えるのではなく、なぜ悩んでいるか聞いてやり、心理的原因を除去してやり、安心すると眠るのである。精神分析による心理療法は個別的因果関係による個別的なメカニズムを解明するわけであり、自然科学よりも科学的なのである。精神現象=意味世界は、自然科学のような普遍的因果関係(法則)に支配されておらず、個別的因果関係に支配されているのである。個人の内面=意味世界の個別的因果関係は、精神分析学によるカウンセリングによって治療者と被治療者が共同で見つけ出すものなのである。
 ポパーの科学観は、個別的因果関係を無視しており、端的に誤っているのである。フロイトの偉大さに気づいていない。また、意味論的因果関係から構成されている社会システムについても、自然科学的な普遍的因果関係(法則)からは認識できないのである。
 とにかく、心理的次元の病は心理的因果関係の解明と心理的はたらきかけで治療効果が出るのであり、心理療法は科学的なのである。身体的次元の病は西洋医学が効果的であるが、心理的次元の病は代替医療でも治療効果があるかもしれないのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2011-02-02 23:37 | ニセ科学批判批判

仮説主義科学論はニセ科学である。

 竹内薫氏は、科学作家であり、多くの科学評論を手がけており、科学マニアのうちでは特異な位置をしめている。著書においては、「99.9%は仮説」「なぜ科学は「ウソ」をつくのか」「白い仮説 黒い仮説」という疑似科学批判やニセ科学批判に関わる本をだしており、自身の科学観を浮き彫りにしている。竹内氏の科学観をひとことで言うと、仮説主義科学論ということになる。つまり、全ての科学的知識は、仮説であり、いずれ反証される可能性をもつ相対的知識であるということである。

 竹内氏は、菊池氏のように科学的知識を知識獲得方法によって定義するのではなく、仮説であることにそのアイデンティティを見いだしている。また、複数の矛盾対立する仮説が乱立することも肯定している。さらに、自己と異なる他者の仮説を理解したうえで、議論することの重要性を説く。極めて寛容である。
 さらに、全ての科学的知識は仮説なわけであり、端的に言えば、科学はウソをつくという発想となる。従って、科学的知識は仮説であるにもかかわらず、それを事実とみなし、他人に押し付けることは、ウソを押し付けたことになる。科学的知識は仮説としての虚構なので、その虚構に基づいて他説を否定することはできないことになる。要するに、原理的に、仮説主義科学論は、ニセ科学批判の正当性そのものを否定することになる。これは、すでに一種のニセ科学批判批判である。
 ちなみに、社会構成主義は、全ての科学的知識は科学的方法によって科学者集団によって人為的に構成されたものであり、相対的なものであると主張する。従って、仮説は科学者によって構成されたものであると考える仮説主義科学論も、究極的に社会構成主義と同一であり、原理主義的相対主義を本質とする。
 ニセ科学批判者は相対主義を批判するが、当の科学が相対主義だったのかと思うと、自己矛盾的だと思った。

 システム論社会学の観点からすると、竹内氏の仮説主義科学論は、科学が絶対主義を含んでいることを見落としているという誤謬をおかしている。科学が、真理あるいは事実は一つという観念を所有していることを見落としている。科学システムは、もともと真偽というコードに準拠しており、社会的には事実は一つであるという前提に基づいて進化・発展してきたのである。事実が複数あるのなら、そもそも科学的議論自体がありえず、知識の真偽の区別はつかず、科学の進化もあり得ない。
 科学者は、正しい知識を求めて実験し、他の学者と議論することで、古い仮説を否定し、正しい仮説を真理として定立するのである。真理が複数あるのなら、古い仮説を否定する必要はなくなるのである。真理に近似している仮説が採用され、古い仮説は否定されるのである。観測や実験によって新しい仮説が採用され、古い仮説が否定されるのは、事実や真理が一つという観念が存在するからである。
 その点を完全に無視して、仮説だから全て科学的知識はウソであるというのなら、ウソである点において科学も迷信と変わらなくなるのである。

 相対主義者である私がこのような議論をするのはおかしなものであるが、真理が唯一性・絶対性(事実はひとつしかないという観念)をもつという科学観こそが正統であり、菊池氏に代表される過激派ニセ科学批判者こそが正統な西洋の自然科学の後継者なのである。科学純粋主義者からしたら、竹内氏は異端者である。異端審問にかかるおそれがある。

 竹内氏の仮説主義的科学論からは、ニセ科学批判は成立たない。全てが仮説であり、真理や事実が複数あるのなら、究極的に知識の正当性は皆同一になるからである。ニセ科学批判者が嫌う悪しき相対主義の典型である。
 
 これまでの科学的知識から演繹して水が人間の言葉に反応することはあり得ないとする菊池流の批判は、菊池氏が科学的知識を仮説ではなく、真理だと思っているからこそ、可能になる。これまでの科学的知識が仮説=ウソだと思っていたら、水伝を否定できなくなる。竹内氏の仮説主義的科学論からは、水伝、ホメオパシー、ゲーム脳も、全て批判できなくなるのである。仮説というウソでもってウソを否定することはできないからである。

 竹内氏の仮説主義科学論に準拠すると、全ての科学的知識は、仮説として平等であり、否定すべきではないことになる。そして、科学は仮説であり、全て究極的にはウソである、ということになる。
 これは、科学主義者によるニセ科学批判批判である。しかし、これは、より事実に一致した知識のみが真理だとする科学の理念に対する冒涜なのである。
 
 竹内氏の仮説主義科学論は、正しく科学の理念である真理は一つという観念を含まないニセ科学である。

 参考エントリー
科学の絶対性とは何か?


人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-11-21 10:15 | ニセ科学批判批判

社会学玄論講義 相対化作法の類型2

相対化作法の類型2

(弁証法)
 弁証法による相対化について説明したい。弁証法と言えば、やはりヘーゲルやマルクスである。しかし、ヘーゲルやマルクスが流行っていた時代があったが、かなり廃れて来たように思える。あまり弁証法を使用するネット論客を見かけなくなった。寂しさを感じるのである。
 簡単に言うと、弁証法による相対化とは、相手の命題と反対の命題を立てることで、相手を相対化するという手法をとる。詳しく言うと、反対の命題を立てて、相手の命題とその反対の命題はともに同等の正当性があり、どちらの主張も正しいという自己矛盾を指摘し、その矛盾を止揚するジンテーゼに導き、相手の説を否定するとともに包含し、より高次の立場に導くわけである。だから、単なる相対化とは話が違うことになる。相手を相対化するものの、ジンテーゼという解決策を示すことで、ニヒリズムに陥ることもない。
 具体例を示そう。「世界は有限である。」という命題を相対化するために、「世界は無限である」という命題を立てる。カントのアンチノミーであるとおり、この二つの命題は互いに矛盾しているが、同等の正当性を主張し、どちらが正しいかわからない。そこで、「世界は生成変化する」という命題を提示することで、有限と無限を止揚することができる。生成変化においては、一瞬一瞬の状態は区別され有限であるが、次の瞬間に別のものに変わることで無限に続いていく。生成変化のエレメントとして、有限と無限があり、有限だけでも無限だけでも、生成変化という運動を説明することはできないのである。かくして、「世界は有限である」と「世界は無限である」という二つの命題は、「世界は生成変化する」という命題によって止揚される。
 ヘーゲルは、同一性と別異性、有と無、善と悪、真と偽などの哲学的な概念は、弁証法によって克服されていくと考えた。このような弁証法は、一般に正反合の過程で形式化される。
 これを科学主義やニセ科学批判を相対化することに応用するとなると、かなり難しい。弁証法は哲学的な抽象概念を相対化する技法であるからであり、かなりレベルを抽象化しないと適用しにくい。適用するとすると、科学やニセ科学批判の根本的前提にかかわる部分だけになる。
 
 例えば、ニセ科学批判者は「事実は一つしか存在しない」(客観主義)という命題を前提とし、ニセ科学の知識が虚偽であると批判するわけである。その場合、ニセ科学批判者の「事実は一つしか存在しない」という命題に対して、「事実は複数存在する」(主観主義)という対立命題を定立して科学を相対化したとする。どちらが正しいかは決めることができず、結局、決定不可能に陥る。そこで、事実は、対象と認識主体の関係性で形成・構成されると考え、同じ認識方法を採用すれば、事実は一つになり、異なる認識方法を採用すれば、事実は異なり複数になるという考え方で止揚する。
 つまり、同じ認識方法で認識すれば、必ず同じ認識内容を生ずることになり、対象についての事実は一つになる。一対一対応となり、客観化される。しかし、認識方法が異なると、事実も異なることになる。対象と認識主体の分離主義ではなく、関係主義をとることで、止揚することができる。認識内容の客観性は認識方法の同一性によって担保されるし、認識内容の主観性は認識方法の別異性によって担保されることになる。かくして、客観性と主観性の対立矛盾は、関係主義によって止揚されるのである。
 ニセ科学批判者は、相手の認識方法が異なることを無視し、事実は一つであるから、自己が正しいとしてニセ科学の主張を批判する。さらに、認識方法が全く異なるスピリチュアルまでも批判するのである。事実を根拠にして、相手を批判する場合は、相手も自己と同じ認識方法を採用している場合だけである。ニセ科学批判者は、しはしば、この鉄則に違反していることがあるので、要注意である。

 さて、以上のように、弁証法は、相手の説に対して反対の説を提示し、相手の説を相対化しつつも、相手の説を取り入れることで、思考を発展させていき、総合的解決へと導くのである。弁証法は、固定化された原理主義とはほど遠いのである。また、「相対性も特定の目的を実現するためにのみ有用」や機能的等価主義などとも異なる作法である。弁証法は対立する考えを総合する運動が目的であり、目的は固定化されているところが異なるのである。世界にある全ての異なる観点を総合へと向けて無限に発展させていくのである。目的が固定化されているからといっても、相手を完全排除するのではなく、むしろ包摂していくところが弁証法の特徴であると言えよう。特定の目的から相手を完全排除するタイプの相対主義のほうがむしろ原理主義になってしまうのである。

 弁証法はポストモダン思想の前に流行った思想であり、日本でも弁証法をうまく使用できるタイプのネット論客をほとんど見かけない。ヘーゲルのドイツ観念論をきっちりと習得したネット論客は少なく、いたとしてもかなり年配であり、つまらぬネット議論からは距離をとっておられることと思われる。若手のネオ・ヘーゲリアンの登場に期待したい。

                                    続く

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-12 12:38 | 理論

ニセ科学批判に釣られる相対主義者たち

 逆転の発想をとって別の視点から観察してみよう。もしや我々相対主義者たちは、ニセ科学批判者の本来の意図はさておき、結果として今までニセ科学批判に釣られてきたのではないか? 実際、そのようにも観察できる。私も含めて多くの文系相対主義ブロガーたちが、科学は絶対的でないとニセ科学批判者に言うことで、ニセ科学批判に釣られてきたのではないか?
 自説を絶対化している人間を見ると、一言いいたくなる傾向が相対主義者にはもともとある。そこをうまく利用され、今までニセ科学批判に釣られて来たとも言える。これは反省しないといけない。
 今更ながら、ニセ科学批判の恐るべし、ネットパワーを痛感する次第である。もうこれは一つのネット文化となっていると断言したい。あっぱれなり、ニセ科学批判!! 
 ネット議論で、ニセ科学批判関係ほど、甘美なものはない。これはもう科学論争として観察するよりも、ネットコミュニケーションによる大スペクタル・エンターティメントとして観察したほうが面白い。ニセ科学批判、おそるべし、おそるべし・・・。
 しかし、それでも、私は、科学は絶対的でないという主張をやめないであろう。もはやそれが私の役割として固定化しているからである。(これまでと異なる視点からの観察でした。)

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-09-08 01:02 | ニセ科学批判批判

知性発展段階説

 相対主義の問題については、実はかなり前から以下の説=知性発展段階説のように私は捉えている。あまりにも難解なことなので、あえて単純な相対主義の立場をとっていたし、現状ではそれが適切だと判断していたのである。
 情報学ブログさんが色々と誤解している節がある。(意図的に誤解していただき、議論を発展させたいのだと思うことに期待) しかし、なかなかおもろしい議論なのでのってみよう。単純な相対主義とそうでない相対主義の区別を明確化しておく必要があるからである。天台仏教にアイディアがあるが、人間の知性は次のような段階で発展すると私は考えている。

1 有見=素朴実在論
 認識できる現象には全て実体があり、存在するものの根拠=底があるという考え方。素朴実在論がそれにあたる。我々の日常的思考である。日常生活を円滑におくる上で、必要な思考である。真理の対応説をとる。科学も基本的には、この立場であると考えられる。
 しかし、このものの見方にこだわり、相対的な現象を永遠不変な実体であると思い込み、それに執着すると、我着となり。苦が生ずる。
 
2 空観=単純相対主義
 一切の事物は、つくれたものであり、無常であり、固定的な実体がなく、相対的であると悟るものの見方である。仏教では空の思想と呼ばれる。現代風にいうと、底が抜けているということである。真理や道徳に絶対的で固定的な基準自体などなく、底が抜けていると考えるわけである。所謂、相対主義である。老荘思想や社会構成主義などがこの立場に入る。
 ただし、空観も、これを絶対化すると、一切が無意味だというニヒリズムに陥る。世界にある全ての思想を絶対的でなく、相対化して否定するだけであり、何も現実に選択できなくなるからである。生きるとは価値判断の連続であり、何かを選択することなしには生きていくことができないのである。仏教でも、空観=単純相対主義が悪しき場合には、無見と呼ばれることになる。私がこの立場に陥っていると情報学さんは思っている。
  
3 仮観=相対主義の相対化
 一切の現象には固定的な実体がなく、構成されたものであるが、その都度、現実に差別相をもって現象は立ち現れており、全くの無ではない。従って、やみくもに事物を相対化して否定するのではなく、状況に応じて選択していくことが求められる。仮観とは、固定的なものの見方をせず、その都度、適切なことを判断していく立場である。胃が悪い人には胃薬を、目が悪い人には目薬を与えるわけである。胃薬も目薬も同じであると相対化し、胃の悪い人に目薬を与えては間違いとなる。現実の差別相を観察し、目的に応じた適切な選択をとるのである。
 この立場は、相対主義の相対化と呼ばれるものである。例えば、現代社会においては、民主主義には絶対的な正しさはないと悟りつつも、あえて民主主義を採用しているわけである。宮台真司が、「民主主義の不可避性と不可能性」」という主張をしているがそれにあたる。ポストモダン社会においては、絶対的なものはないと知りつつも、あえて現実を生きるために仮に民主主義のような相対的なものであっても、目的に応じて選択していくことが求められるというのである。
ちなみに構造構成主義は、相対主義そのものを前提として、全ての科学の統合を目指そうとしているわけであり、この段階の思想である。
 宮台流の「あえて主義」については、このブログでも何度も論じて来た。情報学ブログさんも、この段階の思想であり、自らは相対主義ではないと言っているのである。そして、情報学ブログさんは、おそらく私の思想を空観の相対主義だと見なし、自己とは異なると考えている。
 情報学ブログさんが悪しき相対主義に陥らず、科学を肯定的に捉えようとする態度に表れている。ただし、科学を仮に肯定する究極目的は明かしていないように思われる。時と場合によっては、科学を批判し、ニセ科学を肯定するおそれがあるので、ニセ科学批判者が気味悪がっているのだと思う。
 ニーチェの積極的ニヒリズムもこの段階の思想かと思われるが、肯定するための目的が不明確であるため、結果として、悪しき相対主義と変わらない。
 仏教では、この立場が悪しきものになると、亦有亦無見と呼ばれることになる。

4 中道第一義観=関係主義 
 これは、全てのものには、実体がなく、底が抜けているというものの見方=空観(相対主義)と、それでもあえて状況に応じて現実に選択していくことが必要であるというものの見方=仮観(相対主義の相対化)が、互いに依存しあっているとするものの見方である。
 仮観だけならば、現実を選択肯定するだけで終わってしまう。しかし、選択においては何かを肯定することが常に別の何かを否定することをともなっていることを悟る必要がある。あえて何かを選択することは、あえて別の何かを否定することを伴う。肯定することだけに目が奪われ、この否定の側面=相対化の側面が見落とされると、不十分となる。あえて民主主義や科学を選択することは、それ以外のものの仮の相対化を伴う。
 いずれにしろ、これまで述べてきた全ての知性の段階は、バラバラに存在するのではなく、つながっており、関係し合っている。その関係性を深く認識し、なぜ人がそのようなものの見方に陥るのか観察していくことが求められるのである。

 平和のためには、単純な相対主義をあえて選択したほうがいいというのが、私の立場である。
 また、私は、ニセ科学批判者や科学主義者などの原理主義者にはあえて単純な相対主義で対応しておいた方が適切であると選択している。その理由は、原理主義者は自己の主張を究極のところで絶対化しているからである。この我着=絶対主義を否定しておかなくては、次の段階の思想に進めないのである。徹底的な相対化を経ないと、知性は後退したままになるのである。相対主義も方便であり、人を見て法を説けということである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-09-05 03:37 | 理論