タグ:自己責任 ( 12 ) タグの人気記事

つくられる反中感情の脱構築

 他国・他社会の視点・視座から構成された事実を虚構と見なし、自国・自社会の視点・視座のみに準拠して構成された事実に基づいて、他国・他社会を価値判断し、敵国感情を抱くことは、社会病理現象の一つである。
 中国社会は意図的に反日感情を煽る教育をしているわけではなく、中国社会の視点から構成された侵略行為という事実に基づいて自国の歴史教科書をつくっているわけである。この場合、侵略かどうかを決定する権利は被害を受けた側にあり、その視点から事実が構成されることになる。
 例えば、いじめはいじめを受けた者がいじめと思うことでいじめとなるのと同じであり、中国が日本から侵略を受けたというのなら、中国人たちのその思いは真実であり、日本人には否定できない。
 これは、少しでも臨床心理学、犯罪被害者学、社会構成主義を習得したものであれば、手に取るようにわかる原理である。これをわからずに中国を非難するのは、浅学と言わざるを得ない。
 
 一つの出来事は、多様な視点・視座によって、多様な解釈が与えられ、複数の事実が構成され、その事実に対する価値判断として複数の物語が誕生することになる。
 小林よしのりが反中感情を煽っているが、彼は客観的事実に準拠していると思い込んでいる。しかし、その客観的事実たるものこそ曲者である。例えば、同じ食べ物を食べても、ある人はまずいと感じ、ある人は美味しいと感じたりする。同じ物理的対象なのに味覚が異なることになる。しかし、二人とも自身の味覚を事実であると思い込み、言い争い、対立が続くのはナンセンスである。味覚が個人ごとに異なるという感覚の相対性が現実であるということを知っている賢者・相対主義者のみが二人の対立を和解させる視点を提供できるのである。

 出来事は単一であるが、事実は複数存在し、事実に関する解釈も複数存在する。このような人々の認識における相対主義を嫌う科学主義者は多いが、このこと(認識の相対性)は人間の事実認識の本質的構造であり、相対主義が正しいわけであり、それが現実である。
 この現実から目を背け、事実は一つであるという固定観念から、絶対主義的な独断によって、他者批判に至るのが一番怖いのである。相手の視点・視座を理解することで、絶対性の呪縛から解放され、人は寛容になれる。寛容さを欠いた反日・反中感情は愚かである。

 中国人が非人道的であり、利己的であると多くの日本人が思い込んでいるが、これは部分の全体化という認知の歪みであり、日本社会がもつ集団認知の歪み=社会病理現象である。
 まず、中国人が非人道的で利己的であるという人たちに対しては、具体的に中国人を対象とした規範意識の調査をしてみたのかと問いたい。どのような実証的な社会調査を根拠にして、このような認識を構成したのか問いたい。
 共同体の外にある他者に対する利他的行為というのなら、中国人のほうが優れているかもしれない。敵国である日本人の残留孤児を自らが貧困であるにもかかわらず、育てた中国人養父母は極めて人道的・倫理的である。日本人残留孤児を育てた中国人養父母たちは、共同体内部への帰属意識=愛国心のみを強調する小林よしのりよりも、哲学的に見て倫理的である。
 ちなみに、同じように共同体の外部に利他的であった人物は日本人にもいる。自国の命令に違反してまでも、出国ビザを発行しナチスドイツからユダヤ人を救った杉原千畝である。
 中国人であろうと、日本人であろうと、人類は、状況によっては、元来共同体を越えた倫理性を創発する可能性をもっているのである。この倫理性への可能性はイエスの「汝の敵を愛せ」、仏教の「一切衆生悉く仏性あり」という世界宗教の根底をなすものである。他者性の哲学者レヴィナスが追い求めた究極の倫理性である。
 北朝鮮問題も、北朝鮮人民が悪いと思っている日本人は少ないと思われる。独裁制国家というシステムの問題であることを賢い日本国民は理解している。
 
 マスコミや煽動家の煽りに騙されず、つくられた反中感情・反日感情に翻弄されず、敵国感情を捨てよう。ジョンレノンのイマジンを思い出そう。国境がないと全世界の人類が思えば、全ての国家は一瞬にして消滅するのである。社会は、国家であれ、企業であれ、人々のコミュニケーションによって創発された仮象=システムにしかすぎないのである。創発の妙理からしても、原理的にジョンレノンのイマジン思想は、正しい。
 中国人養父と残留孤児の関係、杉原千畝とユダヤ人の関係においては、すでに国家は存在せず、寂滅し、倫理コミュニケーションが創発されているのである。

 事実の相対主義=寛容と倫理の単一性こそが平和をもたらすのである。
 
人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-12-19 10:59 | 社会分析

コミュニケーション弱者の受皿としての宗教の機能

 成熟社会においては、経済的資本や文化的資本をいくら所有していても、人間は幸福になれない仕組みになっている。この社会では、社会関係資本(人脈・友人関係など)こそが決定的な幸福格差をつくる。社会関係資本の産出・使用には、コミュニケーション能力が必要となる。
 コミュニケーション能力とは、場の空気(状況)を読み、他者を理解し、正確に自身の意思を伝え、他者を動かすことで、コミュニケーションを連接させていく能力のことを指す。このような能力に長けたものが、いつでも頼ることができる人間関係を構築し、成熟社会の勝者となる。
 残念ながらコミュニケーション能力の差によって排除されることは社会責任にすることはできない。例えば、結婚できないことや恋人ができないことは、自己責任だと思われている。社会が悪いから俺は恋人ができないという言葉に共感する者はほとんどいないだろう。それと同じで、俺を雇ってくれないのは社会のせいだというのも、おかしいことがわかる。成熟社会では、恋愛・結婚と同じく、失業・就職も自己責任として処理される。共同体的呪縛から解放された成熟社会では、むき出しの個と個の関係が中心となり、あらゆる行為は社会的に自己選択・自己責任として処理される。

 また、コミュニケーション弱者は、様々な社会的排除の対象となる。コミュニケーション能力の欠如は、自己責任であり、セフティネットがなく、社会的に排除され続ける。

(職業社会からの排除)
 組織労働における対人関係に適応できずに、失業する。また、コミュニケーション能力を重視する企業から面接で落とされる。
(家族関係からの排除)
親を説得する話術がないために、良好な家族関係を保てず、家を追い出される。
(結婚・恋愛・性からの排除)
コミュニケーション能力が低いために、不器用で異性の気持ちを理解できず、恋愛ができず、見合いをしても断られ、結婚できない。自ずと、性的関係まで至らず、性欲もセックスで満たすことができない。
(学校社会からの排除)
コミュニケーション弱者は、スクールカーストの身分は下層となり、学校の学業に適応できても、友人関係やクラス内のグループに参加できず、孤立化する。いじめの標的となり、不登校となり、排除される。
(友人関係からの排除)
コミュニケーション能力が低いために会話に面白みがなく、友達ができない。
(自身からの排除)
 人は他者から褒められるなど、コミュニケーションを通して自己肯定感をえるものであるが、それがないために否定的な自己イメージしかもてず、自己肯定感が低い。

 上記のようなコミュニケーション能力のなさによる社会的領域からの排除がコミュニケーション弱者の経済的貧困・ホームレス化をもたらすわけであり、景気や経済的貧困によって社会的に排除されるわけではない。湯浅氏は、この部分の因果関係を見誤っている。

 しかし、どんなコミュニケーション弱者も唯一受容してくれるものがある。それが宗教である。宗教は、コミュニケーションができるかどうかで人を評価しないからである。これからは、コミュニケーション弱者を取り込む新興宗教が益々大きくなる可能性がある。
 宗教によって自身を肯定されたコミュニケーション弱者は、宗教に認められたことを足がかりに一気に積極的なコミュニケーションをとりだし、熱く人に布教するであろう。これは、よくあることである。
 もし宗教による受容が怪しくて嫌なら、ボランティアや福祉サークルへの参加によって、無宗教的に自己肯定感を高める処方箋もある。ボランティアや福祉の世界も、コミュニケーション能力によって人を評価せず、人権ということだけで受け入れてくれる仕組みになっているからである。ボランティや福祉は、コミュニケーション弱者がカルト新興宗教に吸収されないようにする防波堤として機能しているのである。

 システム論社会学の立場からすると、コミュニケーション弱者救済のシステムをつくりだすことが急務である。反貧困論やマルクス主義のような浅薄な社会責任論・社会原因論ではなく、社会システム論を前提とした高度に再帰性な自己選択論・自己責任論に立脚したシステム構築が必要なのである。社会科学を専攻する者ですら、古典的な社会観にとらわれており、この点を理解できる者は極めて少ないのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
 
[PR]
by merca | 2010-11-23 11:16 | 社会分析

ホームレスは減っている! 貧困化社会論は統計的にはウソ。

 ホームレスが増えて社会が貧困化しているという貧困化社会論は、神話である。実は、統計上、ホームレスの数は減っている。7年前に比べてほぼ半減しているのである。
 社会実情データ図録 厚労省「ホームレスの実態に関する全国調査結果」
 http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2970.html
 
 厚労省のデータによれば、2003年は25296人であったものが、2010年には13124人に減っているのである。これは正しく、貧困化社会論・格差社会論を反証するデータとなっている。
 ホームレスが減っているのにホームレス問題がなぜこんなに取り沙汰されるのだろうか? ホームレスが客観的に減少しているのなら、公設派遣村は本当に必要だったのだろうか? そのような疑問がわいてくる。
 実は、ホームレスは貧困の象徴であり、貧困化社会論を唱える人たちにとってはホームレス減少は都合の悪いデータなのである。
 また、近年、失業率はあがっているにもかかわらず、ホームレスは減っているのである。失業率とホームレスの相関関係は、統計上、全く関係ないことになる。統計から科学的に解釈するとそうなる。統計的事実からは、不景気で失業率があがると、職を失い、ホームレスになるという理屈は反証されるわけである。

 キッセの社会問題における社会構築主義理論で解釈すると、湯浅氏のような活動家たちによってホームレス問題が社会問題(社会責任)として取り上げられ、マスコミで報道され、ホームレスが増えているという印象を人々に与え、社会は貧困化していると、人々が思い込んでいるのである。ホームレス問題は疑似社会問題である。

 これは社会学でいうモラルパニックの一種である。ホームレス問題の報道が増えたことで人々が問題を社会責任として意識化してしまった結果、ホームレス問題が社会問題として構築されたのである。ネットで自己責任説を唱えてみたまえ、たちまちそれは間違っていると非難の嵐がくるだろう。
 湯浅氏の反貧困論の戦略に見事に社会ははまったのである。反貧困論の社会思想としての社会機能には感服する次第である。国策までに影響を与えている。今や自己責任論を唱える人は世間から叩かれるようになったのである。そして、生活保護率は上がっている。反貧困思想の煽りで厚生年金に加入していない老人が生活保護を受けやすくなり。高齢化に伴い生活保護世帯は増えている。
 ともかく、これほどまでに思想=物語が社会に影響を与えた例は近年ない。宮台氏と寺脇氏の成熟社会論という思想による「ゆとり教育」政策以来である。
 統計的事実ではなく、社会思想が社会をつくるという私のテーゼは、反貧困思想によって見事に実証されているのである。私が客観的事実に立脚してホームレスの自己責任説が正しいとか、ホームレスは減っており、社会は貧困化していないと言ったところで、その事実が社会を動かすことはないのである。
 
 それと重要なことをもう一つ。ホームレス化は自己責任であるというのは、次の事実からもわかる。男女という区別からホームレスを観察することで、ホームレス問題が相談力という対人スキルの問題であることが明確化してくる。ここはホームレス問題の盲点であり、みんなあまり気づいていない。
 ホームレスの男女比率は、2010年の統計によれば、男性が12253人、女性が384人、性別不明が487人らしい。ほぼ95%以上が男性であり、女性は数パーセントにしかすぎない。この差異はどこからくるのか?
 それは、女性のほうが人に頼るコミュニケーション能力が高いからである。女性は、離婚して、母子家庭になっても、ホームレスにはならないのである。両親の家庭を頼ったり、友人の援助を受けるための相談交渉能力があるのである。女性は男性よりも、悩みを人に相談する相談力があるので、援助を受ける機会が増えるのである。貧困になっても、相談する女性は生き残り、相談するスキルのない男性は不器用でホームレス化するのである。
 とにかく、ホームレスになる前に、プライドを捨てて相談しまくることが必要であり、これは自己責任の話である。女性はうまく人に相談することでホームレスにならないのに、男性はうまく相談することができず、ホームレスになる。自己責任として、男性ホームレスも人にうまく相談する対人スキルを学びなさいということである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
  
[PR]
by merca | 2010-11-07 21:21 | 社会分析

貧困の自己責任説蔓延というウソによって蔓延する反貧困思想

 「若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因」というエントリーは、反響が大きかった。しかし、そのほとんどの意見は、私に対する批判で、自己責任論否定であった。
   
http://b.hatena.ne.jp/entry/mercamun.exblog.jp/14320171/

 さて、湯浅氏によれば日本社会では貧困の自己責任説が蔓延っているというが、ネットでの反応を見る限り、自己責任説をとる者はほとんどいない。私くらいである。つまり、湯浅氏が主張する、日本社会に貧困の自己責任説が蔓延している、という仮説は事実ではないことが証明された。従って、自己責任説の蔓延がホームレス支援の妨げになっているという湯浅氏の主張は全くデタラメだということになる。
 日本社会で、ホームレスが自己責任であると思っている人間は、私を除いて誰もいないのではないかと思うほどである。つまり、多くの国民は、ホームレスは自己責任だと思っていないのである。
 皮肉なことに、多くのネット論客は「日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている」という虚構を信じることで、自己の価値基準からそれはいかんと思い、躍起になって貧困の社会責任説を支持する仕組みになっているのである。これが、私の自己責任論を道徳的に叩くネット論客の心理構造である。このことによって、日本国民がほとんどホームレスの自己責任説を支持していないという事実が隠蔽されることになる。
 
 反貧困運動は、虚構物語としての貧困の自己責任説蔓延説を仮想的敵として、運動の動機付けを調達しているのである。この社会運動上の巧妙なトリックに気づいている者は少なく、多くの浅学のネット論客は、貧困の自己責任説蔓延説を事実と勘違いし、自己責任説を叩くのである。

 日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている、という確かな事実はない。少なくとも、もし自己責任説を否定する多くのブコメの論客たちが日本国民の意見を代表しているというのなら、なおさらそうであろう。

 もし自己責任説が蔓延しているというのなら、自己責任説に賛同するブコメのコメントが欲しいものであるが、全くない。やはり貧困の自己責任説を唱える者はおらず、仮に唱えても私のように叩かれるわけであり、貧困の自己責任説を持つことは世間の集合的制裁にあうのである。自己責任説を唱えている人をネットで探すのは困難である。
 
 私見であるが、むしろホームレス支援団体のケースワーカーや福祉事務所職員たちの方が、本音においては自己責任説が実感として正しいと思っていると思う。日頃からホームレスと関わる福祉事務所職員や施設職員たちは、自己責任説が正しいと心の中で思っていても、世間や反貧困思想をもつ人たちに叩かれるので、口に出せないのが実情ではないだろうか?
 
 ちよっとした職場でのトラブル、飲酒やギャンブルなど、自分勝手な理由で仕事をやめ、自分勝手な理由から家族を頼らず、福祉事務所に金を出せと脅迫にくるホームレスに深く傷つけられた福祉職員たちが、蔓延している反貧困思想のせいで、大きな声で自分たちの本音を表明できない状況をつくっている。

 よかったら、自己責任説を支持しているブログを探してみはと思う。ほとんどないだろう。それは、自己責任説を唱えると叩かれるからである。これではネットは、大衆全体主義社会と同じである。ここでも、ニセ科学批判運動と構図は同じである。
 
人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
  
[PR]
by merca | 2010-11-06 11:05 | 社会分析

若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因。

 ホームレス支援施設に、二十代、三十代の青年が入所しており、若年ホームレスの割合が増加しているという。
 若年ホームレス化は、経済的貧困や失業が原因というよりも、コミュニケーション能力の欠如のほうが根本原因であると言える。ホームレスになる前に、生活を立て直すために、他者の協力を得る対人関係能力や交渉能力がないからである。

 例えば、派遣切りにあっても、故郷の親や兄弟、元彼女、友人、元派遣先同僚などに頭を下げて宿泊させてもらうとか、当面のホテル代を貸してもらうなどして、住込み就労先を見つけるなどすることもできる。つまり、対人交渉能力があれば、他者の協力を取り付けることで、ホームレスにならずに済む。しかし、若年ホームレスには、それができない。なぜなら、人に頭を下げて相談し、援助を要請するコミュニケーション能力が欠如しているからである。また、プライドが高いので、人を頼ろうとはしない者もいる。

 他人が自分のために援助してくれるためには、日頃から良好な対人関係を保っておく必要があるが、自己中心的な若年ホームレスには頼れる友人も少なく、孤立化しており、いざという時に誰も助けてくれない。つまり、もともと対人関係が苦手なので、家族関係も友人関係も恋愛関係も保つことができず、いざという時に頼れず、ホームレス化するわけである。
 このように、コミュニケーション弱者が若年ホームレス化しているのである。湯浅氏が考えるような経済的要因=貧困が原因ではなく、対人関係能力が若年ホームレス化の真の原因なのである。
 
 ホームレスから立ち直るためには、ホームレス化したことを社会のせいにするのではなく、自身に対人関係能力が備わっていないという自己責任として事実認識し、自己の行動を改め、人間力をアップすることが大切なのである。若年ホームレスにとっては、社会責任論は自己の問題状況の合理化・正当化の手段にしかすぎない。社会責任論という観念的な物語に甘えるのではなく、コミュニケーション能力の欠如という具体的事実から出発することでしか、問題は解決しない。
 反貧困論は、若年ホームレスには人間力をアップすることがお金よりも大切であるという現実を覆い隠すことで、ホームレスを再生産する思想装置として働くのである。貧困化社会ではなく、コミュニケーション格差社会こそが日本社会の実態なのである。

 若年ホームレスに対しては、資金援助ではなく、心理療法たるSST(ソーシャルスキルトレーニング)の提供こそが真なる処方箋となるのである。

参考
反貧困思想の教典 「椅子とりゲーム」のトリックを暴く

貧困社会論、若者はかわいそう論は、ニセ社会問題

 ちなみに、若年ホームレス化の原因がコミュニケーション能力にあるという説は、様々な論客が唱えており、私だけが提唱しているわけではない。
 仮に若年ホームレス化の問題が社会にあるとしても、それは湯浅氏が主張するような貧困などのような経済的問題にあるのではなく、学校教育の問題である。学校教育は組織労働に耐えうるコミュニケーション能力をもつ人材を育成すべきであるのに、その教育機能が十分に発揮されていないわけである。
 
人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-10-31 17:21 | 社会分析

児童虐待は、個人や社会でなく、家族責任。

 貧困・虐待・犯罪の原因・責任を,個人と社会に分ける考え方があるが、(個人/社会)という区別はあまりにも単純すぎる。社会といった時に、それが何を指すのか全く論じられていないからである。社会といっても、仲間集団、家族、企業、国家、社会階層、市場など色々なレベルがある。それを抽象して、社会と一括りにしては粗雑な議論になる。
 例えば、児童虐待の原因は、核家族化にあり、国家や社会全体に問題があるのではなく、家族に問題があるのである。祖父母が同居する直系家族であれば、祖父母による育児サポートや監視があるので,虐待コミュニケーションは起きないとされる。虐待を防止できないのは、個人や社会のせいではなく、家族形態のせいである。育児に有利な家族形態を選択しなかった個々の家族の責任である。
 貧困も犯罪も、社会のせいではなく、多くは家族関係に規定されている。貧困化は、単身生活で起こりやすい。祖父母が年金生活をしている場合、ニートやフリーターでも食べていける。一人ずつの収入が少なくても、共同生活をすれば、やっていける。私は、家族と喧嘩して故郷に帰れず、ホームレス化した派遣社員をよく見てきたが、多くは家族関係の解体が背景にある。
 犯罪・非行の原因も、もとをたどれば、離婚や家族関係の悪化が背景にあったりする。社会と個人のどちらに原因・責任があるのかという議論は、家族に原因・責任があるという根本的な視点を隠蔽する。湯浅氏の反貧困論の思考枠組みである(個人/社会)という区別コードは、家族問題を隠蔽する装置としてはたらいている。 また、高齢単身世帯の問題も、自分の子供が親と同居しないことからくる問題である。最近の貧困・虐待・犯罪という社会病理現象は、家族というシステムが社会の構成単位として十分に機能しなくなったことに起因している。
 この社会的事実を隠蔽するのが、(個人/社会)という単純な思考方法である。個人と全体社会の間には、多くの組織システムがあり、原因・責任の帰属はそれらのシステムに負わせることも可能なのである。家族責任という社会的概念をつくり、個人と社会という単純な思考方法から解脱する必要がある。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ

 
[PR]
by merca | 2010-08-22 11:35 | 社会分析

社会変革福祉集団ほっとポットに見る専門エリート意識

 特定非営利活動法人「ほっとポット」が、これまでの古典的な社会変革とは全く異なるかたちで社会変革を推し進めようとしている。これまで社会変革と言えば、政治システム、経済システム、法システムを変えるという方向が多かった。しかし、成熟社会に入り、福祉システムを変革することが社会変革の中心になってきた。その象徴が、まさしく特定非営利活動法人「ほっとポット」の支援活動である。
 「反貧困ネットワークの実践」という書物に活動の理念や実績が克明に書かれている。
 福祉の壁、つまり住所がないと生活保護の申請ができないという虚構を見抜き、家主等の協力者と組んでホームレスを保護し、自立に導いている。実に、素晴らしい実践である。
 その本質は、被支援者が求めるものを分野を越えてコーディネイトするジェネラルソーシャルワークという理念である。福祉事務所は、支援対象者を分類し、一つのカテゴリーに押し込め、型にはまらないと排除するという方法をとって来た。福祉の水際作戦の底流に流れる分類主義である。ほっとポットは、そのような福祉行政を全て否定する。
 多くの支援対象者=ホームレスなどは、病気、住居、高齢、家庭問題、就労問題など、関連する複数の問題を抱えている。ほっとポットにおいては、これらを分割して支援するのではなく、支援対象個人に集点を当てて、トータル・コーディネイトするわけである。例えば、就労するためには、住居が必要であり、病気治療も必要である。単に職業安定所にいけと言っても、住所がないので職を紹介できませんとか、病気の人を雇ってくれる会社はないと言われるので、住居の確保からはじめ、医療、就労へと広げていくことになる。公的相談機関は、問題を分類し、バラバラに捉えて措置することで、適切に援助できないわけであるが、ほっとポットが援助の中心となることで、各々の分野の相談機関の支援を有機的に連動し、真に支援対象者を助けることが可能となるのである。

 さて、社会学的な立場から、ほっとポットの若者たちに関して非常に興味をもったのは、自分たちの専門性と資格へのこだわりである。社会福祉士という国家から付与された専門性と資格こそが彼らを支えているという事実である。ほっとポットの若者が高い倫理性と志をもち、活動を続けている理由は、社会システムから付与された専門的役割と社会的使命感に基づいているからである。それは、法システムの専門家である弁護士が社会運動するのと似ているのである。無資格のボランティアではなく、社会福祉学という人間科学を学んだ専門家だという誇りが、専門エリート意識をもたらし、彼らの活動を動機付けているのである。
 特定の分野に置いて、特別な存在として社会的に自尊心を満たすことができること、これは非常に社会学的には高い動機付けの仕組みである。臨床心理士や精神保健福祉士などにも、同様の専門エリート意識がある。もはや学歴が自尊心の根拠になるのではなく、専門的資格が自尊心の根拠となっている。
 反貧困創始者の湯浅氏は東大法学部卒の学歴を有し、社会を実体化し社会責任説を唱えるなど古典的な社会観にとらわれている。ほっとポットは全く違っている。学歴ではなく、社会福祉士という資格をもつ者こそが社会変革の中心なのである!! 
 今後、(社会責任/自己責任)という社会的に構築された区別に拘らず、社会福祉士の使命として、求める支援対象者に対して平等に支援してくれることを期待したい。
 
 現在、大学では、人間科学系や福祉系の学部が多く出来ている。社会福祉士、精神保健福祉士、臨床心理士などの資格をとることで、社会から肯定され、専門エリートとして育成されるのである。
 序列のある学歴社会から対等な専門職が活躍する社会への移行、これは教育社会学者・本田氏の理想でもあるのである。
 今後、福祉会のスターである、ほっとポットに憧れる福祉系の若者たちが増え、社会福祉士の資格に魅了されていくであろう。社会主義や新興宗教に走る救済者願望の強い意味系の若者たちが、成熟社会の花形職業である福祉職に流れ込み、社会から生きる意味=使命感を与えられ、無害化されることを期待したい。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
   
[PR]
by merca | 2010-07-11 11:48 | 社会分析

貧困社会論、若者はかわいそう論は、ニセ社会問題

 浜井浩一や安原女史などの治安悪化神話批判論者たちは、統計上は犯罪が減少していることを根拠に、世間にはびこる治安悪化論をマスコミや評論家等がつくりあげた虚像として断罪してきた。そして、多くのブロガーたちは、世間の常識を覆す治安悪化神話批判論者の言説に追従した。
 同じように、統計的事実を根拠に、世間にはびこる貧困社会論及び雇用不安社会論をマスコミや学者がつくりあげてきた虚像として批判する理論が登場した!! 
 それが、人事コンサルタントの海老原嗣生氏による「若者はかわいそう論」のウソ データで暴く「雇用不安」の正体、という書である。
 端的に言うと、同書は、貧困社会論批判、雇用不安社会論批判の書である。また、加えていうと、俗流若者論批判批判の書でもある。

 同書では、統計的根拠に基づき、若者の焦点を絞り、貧困社会論にまつわる通説をことごとく否定する。
 若者の就職難はウソである。大企業の求人も減っていないし、中小企業の求人は非常に多いという。からくりは、大学進学率の増加によって大学生の数=母数が増加し、学生たちが中小企業の求人を拒否し、大企業の求人に殺到することにあるという。椅子取りゲームの椅子ではなく、椅子取りゲームの参加人数に原因があり、競争倍率を吟味することなく、殺到する若者たちの就職意識に問題があるわけである。湯浅氏の反貧困論はここで破綻する。これは、大企業への就職競争に殺到する若者たちの自己責任なのである。中小企業を選択すると、椅子取りゲームにはならないのである。椅子取りゲームは社会から強制されているのではなく、プライドの高い若者の自己選択の結果、つまり自己責任である。また、20代の前半の正社員が激減しているというのも、学生アルバイトの増加を考慮しない虚像なのである。職業の選り好みという若者の自己責任要因によって、就職難の体感意識が形成されていると考えられるのである。

 貧困社会論、つまり日本が貧困になった、貧困格差が拡大したというのもウソである。OECDの貧困率(平均所得以下の世帯の割合)については、高齢者世帯の増加が考慮されていないわけであり、貧困率をもって貧困格差が広がったと言い辛い。全体世帯の7%弱の非正規社員が増加して貧困率があがったのは、ウソである。つまり、ワーキングプアが増加して日本社会が貧困になったというのは、マスコミがつくったウソである。
 市民活動家、マスコミ、ブロガー、政党が貧困社会論や格差社会論を煽り、人々に日本は貧困化しているとの意識を植え付けたのである。その結果、国民の一億総中流意識もなくなってきたのである。これは、もはや貧困論におけるモラルパニックである。日本が貧困化してきているという貧困社会論は世間の常識となったのである。

 海老原氏の貧困社会論批判は、広い射程をもつ。一つには、貧困社会論の大御所である反貧困論の虚構を暴いた点があげられる。椅子取りゲームの前提は崩れた。椅子取りゲームになるような雇用情勢は、大企業就職を希望する若者のプライドの高さによる自己選択の結果である。雨宮氏などのワーキングプア論も一部の現象であり、全体の貧困率とはあまり関係がないことが実証された。
 もう一つは、社会から若者がバッシングされているという「若者はかわいそう論」や俗流若者論批判も虚像であったことがわかった点である。少なくとも雇用面では排除されているわけではないことになる。排除されるのは、ひきこもり系の対人折衝の苦手な若者たちであり、それ以外の大多数の若者は排除されていない。「若者はかわいそう論」や俗流若者論批判などに共鳴する若者たちは、おそらく自らが不登校やひきこもり体験をもつなど、一部の内向的な若者たちであり、そのイデオロギーに基づくものと考えられる。あたかも全ての種類の若者が社会全体からバッシングされていると虚像をつくりあげる後藤氏の俗流若者論批判には注意しておこう。若者の雇用不安とひきこもり系若者の雇用不安は区別されるべきなのである。

 ともあれ、貧困社会論、若者はかわいそう論(俗流若者批判等)などは、同書によってニセ社会問題であることがわかった。高齢化社会問題、学歴社会問題こそが、隠された本当の社会問題だと思う次第である。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
 
[PR]
by merca | 2010-06-19 15:26 | 社会分析

資本の運用が貧富の差をつくる。

 資本は、収入や財産などの経済資本、学歴や資格や教養などの文化資本、人脈や社会的信頼などの社会(関係)資本の三種類に分けることができる。一般に、これらの資本が多いほど、豊かな社会生活を送ることができる。経済資本、文化資本、社会資本は、それぞれ互いに変換性をもつ。お金があれば、塾に通うことができ、高学歴という文化資本に変換できる。また、高学歴で医者や弁護士などに就職すると、高収入という経済資本を得ることができる。また、社会資本が多ければ、商売でも人脈を使用し、顧客を得ることができ、儲かることになり、経済資本を蓄積できる。
 
 これらの資本は、社会階層ごとに不平等に分配されており、下層ほど資本が少ないということになる。例えば、病気で失業しても、資本を多く所有する上層の人たちは、失業期間は貯蓄でまかない、最新の治療を受けて病気を治し、人脈と学歴を使用してすぐに就職ができ、豊かな生活を送ることができる。
 ところが、資本が少ない下層の人たちは、病気で失業すると、失業期間中でも食べることに困り、求職しても低学歴のために見つからず、そのうち家賃も支払えず、さらに生活保護受給の窓口と手続の知識も知らないためにホームレス化する。湯浅氏のいう溜めとは、ここでいう資本のことである。そして、資本を不平等に分配する格差社会を批判する。
 
 ところで、当たり前のことであるが、資本は所有するだけでは機能しない。所有しているだけでは、宝の持ち腐れである。お金をもっていても、使用しなければ、飢え死にする。人脈も学歴も使用しなくては、意味がない。資本の使用権限は、誰にあるのか? もちろん、使用権限は、その所有者である個人にある。個人が自己の所有する資本を使用する場面を自己選択するわけである。
 どんな社会的状況でも、資本の使用が有効であるわけではない。外国に行くと、自国の文化資本や社会資本はあまり役に立たない。経済資本が役に立つのである。資本といっても、特定の国民社会の中でのみ、資本たり得るわけであり、有効である。
 (使用する/使用しない)という区別に準拠して観察すると、資本は使用されている時のみ、社会的機能を発揮するのである。究極的に資本を使用するかしないかは、個人の自己選択に帰着することになる。極端な話し、自己の所有する資本=お金を使用しないのなら、いくら金持ちでも、失業すると、ホームレスになるのである。
 どのような社会的場面で、どのようなかたちで資本を使用するのが適切なのか判断する知恵=社会学的啓蒙があって、はじめて資本は適切に機能する。ブルーワーカーの職業では学歴はあまり役に立たない。高学歴なのに、組織労働の伴う事務労働を嫌い、単純な肉体労働を選択し、その結果、重労働で体を壊して失業し、貧困化したら、これは自己責任である。また、低学歴なのに、選り好みして、公務員や事務労働ばかりを希望し、就職できないままいるひきこもり系ニートが貧困化した場合も、自己の資本の見積もりを間違って使用しているので、自己責任である。

 このように自己の所有する資本を適切に使用できない責任は、社会ではなく、個人にあるのである。社会を変えるよりも、貧困化している若者に対しては、所有資本の正確な見積もりと、その使用の仕方について、教えていくことが必要である。資本が乏しいと嘆く前に、資本の認識と使用方法について吟味し、資本を増やすことを心がけてはと思う次第である。資本の自己管理と適切な使用、それに資本の増加について、努力していない若者が貧困になっていることはないであろうか?
資本が少ない貧困な家庭からも、資産家になった人たちはいくらでもいるのである。これらの成功者は、資本の運用について優れているのである。
 資本の運用こそが貧富の差をつくる原因であり、それは個人の自己選択の結果によるのである。社会を変える前に、溜め=資本の運用についての知識=社会学的啓蒙を学ぶべきである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-06-13 23:50 | 社会分析

貧困の自己責任説の根拠=ハビトゥス


 貧困の自己責任説は、ブルデューのハビトゥス論から説明がつく。ハビトゥスとは、社会階級ごとに人々に身体感覚として埋め込まれた習慣=心的傾向性であり、個人の自己選択の前提=選択肢の範囲を形成する機能を持つ。例えば、上流階級の子息は、音楽についてはロックよりもクラシックを選択する。下層階級で育った若者は、医者や弁護士になろうとは思わず、工員や土木作業員になろうとする。自分が希望する物事が、社会階級ごとに家族を通して植え付けられた文化的遺伝子たるハビトゥスによって無意識に決定されているというのである。
 
 しかし、だからといって、個々人は社会からの拘束や強制を感じているわけではない。当事者たちにとっては、それが自身の本当の希望であり、自己選択だと感じているのである。希望格差社会論を唱える学者がいるが、実はハビトゥスによって希望格差が生じているのである。人の社会的行為の規則性や秩序も、社会的賞罰があるからではなく、ハビトゥスによる習慣的行動の結果なのである。
 重要な点は、ハビトゥスは個人の内部に内面化した性質であり、個人の外部にある国民社会や国家ではないということである。従って、論理的かつ法的には、ハビトゥスが自己選択に作用しているとしても、それは自己責任であり、社会や国家の責任ではない。ハビトゥスは個人が所有する文化的遺伝子であり、個人の一部なのである。
 例えば、ハビトゥスの作用で結婚相手も無意識に所属階級が同一の異性から選択するわけであるが、結婚した当人にあなたの自由意志で結婚したのではないと言い放つと違和感をもたれるであろう。誰もが結婚相手は自由意志で選択した思っているわけである。当事者的には自由意志で行為したと思っているわけであるし、実際、ハビトゥスは個人に内面化したものであり、事実的には個人に原因がある。溜めのない貧困な下層階級の家庭を再生産してしまうのも、配偶者選択の原理がハビトゥスにおける自己選択が働いているからである。
 逆説的であるが、貧富の差を生み出すのは、ハビトゥスに限定された個々人の自己選択の結果なのである。
 
 高度経済成長期の日本社会では、「いい学校、いい会社、いい人生」という文化的目標をハビトゥスに抗して、異なる全ての社会階級に共通に強制された時代があった。その結果、農村から都市への大移動があり、経済が発展した。多くの人たちが、自己の所有するハビトゥスと異なる価値規範を強制され、受験戦争を強いられた。なぜ勉強しないといけないのだと疑問を抱いた若者が多く出て来た。社会が個人を束縛するものとして若者に映った時代である。近代化の過程で必ず起こる意識である。
 皮肉なことに、ハビトゥスではなく、ハビトゥスを否定する価値規範こそが個人に社会的束縛感をもたらすのである。自己を束縛する社会的事実=学歴社会こそが、本来の意味で自己を社会的宿業から解放するものであることに気づいていた若者はいたであろうか?
 いずれにしろ、どんな社会階級の家族のもとに生まれるかは自己決定の外であり、本人の原因ではない。また、社会の原因でもない。この不平等は単なる偶然である。
 
 しかし、少なくとも、事実的かつ実体的には、貧富の差の原因と責任は、社会にあるのではなく、個人が内面化したハビトゥスを前提にした自己選択にあるのである。ハビトゥスによって、湯浅氏のいう溜の量も規定されるのである。社会からの解放ではなく、自己の社会的宿業からの解放こそが、貧困からの解脱につながるのである。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
人気blogランキングへ
 
[PR]
by merca | 2010-06-13 11:31 | 社会分析