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ムヒカ元大統領の幸福論が世界社会を変える

 今、日本でウルグアイ元大統領であるムヒカ氏の旋風が起っている。この方は、マザーテレサ級の偉人である。また、何となくワンピースに登場しそうなキャラクターでもある。ネット右翼や小林よしのりの反応を見てみたいものである。
 左翼や右翼という既成概念にとらわれ、そのような固定観念による視点でしかムヒカ氏を見ることができないとしたら、思想的に愚かである。人々の幸福に左翼も右翼もない。そこにあるのは、ただ経験に根付いた社会的真理のみである。
 
 ムヒカ氏の重い言葉に比べれば、社会学者・古市憲寿氏の幸福論がいかに軽く浅薄なものであるか実感させられた。雲泥の差である。人間としての本当の幸福は、古市氏が考えるような軽薄のものではない。「絶望の国の幸福な若者たち」において、単なる内閣府の社会調査統計によって、日本の若者は、絶望の国にあって、意外に幸福だという非常に浅薄な結論を導き出しているが、本当の不幸と幸福を知らない者の戯言にしか思えない。
 
 まずは、絶望の国? 何が絶望だと言いたい。本当の絶望を知らないから、安易に絶望だと言い放つことができるだけである。また幸福な若者たちと言い放つが、本当の幸福が何か知らない若者たちばかりである。不幸のどん底を知ってはじめて本当の幸福を知ることできる。
 そもそも絶望とは、不幸のどん底である。不幸のどん底にある社会とは、今のような日本社会には該当しない。いつ自分が死ぬかわからない戦時中の日本こそが絶望の国であったのである。戦後の日本社会を絶望の国というのはおこがましいに程がある。ムヒカ氏は、投獄され、拷問を受け、不幸のどん底から、本当の幸福を悟った。古市氏は、絶望という言葉を軽々しくよく使えたものだと思う。

 ムヒカ氏の幸福論からすると、本当に貧しく不幸な人とは、無制限な欲望をもち、いくらあっても満たされることがない人である。また本当に豊かで幸福な人とは、少しのことで満足できる人のことであるという。
 消費社会に踊られている日本人は、貧しく豊かではなく不幸だということになる。また、人間は一人では生きていけない存在であるという、ムヒカ氏の悟った真理からすると、日本社会で孤独化している若者や高齢者は不幸になる。孤独が最大の不幸という思想は、ムヒカ氏の長い投獄経験によるものである。
 
 ムヒカ氏は、人々が分かち合うことで、貧困はなくなると考えているようである。他者と分かち合うとは、単に物資を分かち合うだけでなく、愛を分かち合うことになる。分かち合うためには、人に対する愛が前提にないとできないからである。なぜ人は分かち合うのか、それは人の幸福を思うからである。
 かの歴史主義者・司馬遼太郎氏は、社会とは人々が分かち合うための仕組みである考えていたようであるが、ムヒカ氏は、その思想の体現者である。ヒトラー、毛沢東、スターリンのような独裁者とは対極の人物である。今世紀最大の哲人政治家である。
 
 さらに、ムヒカ氏は、マララと同じく、自分を虐待して来た人たちに対して恨みや憎しみをもつことは不毛であり、暴力革命ではなく、文化を変えることで、社会はよくなると信じている。ムヒカ氏は、愛する人とともに生活できることが最大の幸福であると信じている。
 世界社会となった今や、ムヒカ氏が理想とする博愛の社会は、平和を分かち合う世界社会においてはじめて達成される。個人のレベルだけでなく、世界の各国が平和を分かち合うことが求められている。日本国憲法における戦争放棄の思想は、来たるべき世界思想の先駆けとなるであろう。

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by merca | 2016-04-25 23:25 | 社会分析

貧困の自己責任説蔓延というウソによって蔓延する反貧困思想

 「若年ホームレス化は、貧困ではなく、コミュニケーション能力に原因」というエントリーは、反響が大きかった。しかし、そのほとんどの意見は、私に対する批判で、自己責任論否定であった。
   
http://b.hatena.ne.jp/entry/mercamun.exblog.jp/14320171/

 さて、湯浅氏によれば日本社会では貧困の自己責任説が蔓延っているというが、ネットでの反応を見る限り、自己責任説をとる者はほとんどいない。私くらいである。つまり、湯浅氏が主張する、日本社会に貧困の自己責任説が蔓延している、という仮説は事実ではないことが証明された。従って、自己責任説の蔓延がホームレス支援の妨げになっているという湯浅氏の主張は全くデタラメだということになる。
 日本社会で、ホームレスが自己責任であると思っている人間は、私を除いて誰もいないのではないかと思うほどである。つまり、多くの国民は、ホームレスは自己責任だと思っていないのである。
 皮肉なことに、多くのネット論客は「日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている」という虚構を信じることで、自己の価値基準からそれはいかんと思い、躍起になって貧困の社会責任説を支持する仕組みになっているのである。これが、私の自己責任論を道徳的に叩くネット論客の心理構造である。このことによって、日本国民がほとんどホームレスの自己責任説を支持していないという事実が隠蔽されることになる。
 
 反貧困運動は、虚構物語としての貧困の自己責任説蔓延説を仮想的敵として、運動の動機付けを調達しているのである。この社会運動上の巧妙なトリックに気づいている者は少なく、多くの浅学のネット論客は、貧困の自己責任説蔓延説を事実と勘違いし、自己責任説を叩くのである。

 日本社会に貧困の自己責任説が蔓延し、それがホームレス支援の妨げになっている、という確かな事実はない。少なくとも、もし自己責任説を否定する多くのブコメの論客たちが日本国民の意見を代表しているというのなら、なおさらそうであろう。

 もし自己責任説が蔓延しているというのなら、自己責任説に賛同するブコメのコメントが欲しいものであるが、全くない。やはり貧困の自己責任説を唱える者はおらず、仮に唱えても私のように叩かれるわけであり、貧困の自己責任説を持つことは世間の集合的制裁にあうのである。自己責任説を唱えている人をネットで探すのは困難である。
 
 私見であるが、むしろホームレス支援団体のケースワーカーや福祉事務所職員たちの方が、本音においては自己責任説が実感として正しいと思っていると思う。日頃からホームレスと関わる福祉事務所職員や施設職員たちは、自己責任説が正しいと心の中で思っていても、世間や反貧困思想をもつ人たちに叩かれるので、口に出せないのが実情ではないだろうか?
 
 ちよっとした職場でのトラブル、飲酒やギャンブルなど、自分勝手な理由で仕事をやめ、自分勝手な理由から家族を頼らず、福祉事務所に金を出せと脅迫にくるホームレスに深く傷つけられた福祉職員たちが、蔓延している反貧困思想のせいで、大きな声で自分たちの本音を表明できない状況をつくっている。

 よかったら、自己責任説を支持しているブログを探してみはと思う。ほとんどないだろう。それは、自己責任説を唱えると叩かれるからである。これではネットは、大衆全体主義社会と同じである。ここでも、ニセ科学批判運動と構図は同じである。
 
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by merca | 2010-11-06 11:05 | 社会分析

資本の運用が貧富の差をつくる。

 資本は、収入や財産などの経済資本、学歴や資格や教養などの文化資本、人脈や社会的信頼などの社会(関係)資本の三種類に分けることができる。一般に、これらの資本が多いほど、豊かな社会生活を送ることができる。経済資本、文化資本、社会資本は、それぞれ互いに変換性をもつ。お金があれば、塾に通うことができ、高学歴という文化資本に変換できる。また、高学歴で医者や弁護士などに就職すると、高収入という経済資本を得ることができる。また、社会資本が多ければ、商売でも人脈を使用し、顧客を得ることができ、儲かることになり、経済資本を蓄積できる。
 
 これらの資本は、社会階層ごとに不平等に分配されており、下層ほど資本が少ないということになる。例えば、病気で失業しても、資本を多く所有する上層の人たちは、失業期間は貯蓄でまかない、最新の治療を受けて病気を治し、人脈と学歴を使用してすぐに就職ができ、豊かな生活を送ることができる。
 ところが、資本が少ない下層の人たちは、病気で失業すると、失業期間中でも食べることに困り、求職しても低学歴のために見つからず、そのうち家賃も支払えず、さらに生活保護受給の窓口と手続の知識も知らないためにホームレス化する。湯浅氏のいう溜めとは、ここでいう資本のことである。そして、資本を不平等に分配する格差社会を批判する。
 
 ところで、当たり前のことであるが、資本は所有するだけでは機能しない。所有しているだけでは、宝の持ち腐れである。お金をもっていても、使用しなければ、飢え死にする。人脈も学歴も使用しなくては、意味がない。資本の使用権限は、誰にあるのか? もちろん、使用権限は、その所有者である個人にある。個人が自己の所有する資本を使用する場面を自己選択するわけである。
 どんな社会的状況でも、資本の使用が有効であるわけではない。外国に行くと、自国の文化資本や社会資本はあまり役に立たない。経済資本が役に立つのである。資本といっても、特定の国民社会の中でのみ、資本たり得るわけであり、有効である。
 (使用する/使用しない)という区別に準拠して観察すると、資本は使用されている時のみ、社会的機能を発揮するのである。究極的に資本を使用するかしないかは、個人の自己選択に帰着することになる。極端な話し、自己の所有する資本=お金を使用しないのなら、いくら金持ちでも、失業すると、ホームレスになるのである。
 どのような社会的場面で、どのようなかたちで資本を使用するのが適切なのか判断する知恵=社会学的啓蒙があって、はじめて資本は適切に機能する。ブルーワーカーの職業では学歴はあまり役に立たない。高学歴なのに、組織労働の伴う事務労働を嫌い、単純な肉体労働を選択し、その結果、重労働で体を壊して失業し、貧困化したら、これは自己責任である。また、低学歴なのに、選り好みして、公務員や事務労働ばかりを希望し、就職できないままいるひきこもり系ニートが貧困化した場合も、自己の資本の見積もりを間違って使用しているので、自己責任である。

 このように自己の所有する資本を適切に使用できない責任は、社会ではなく、個人にあるのである。社会を変えるよりも、貧困化している若者に対しては、所有資本の正確な見積もりと、その使用の仕方について、教えていくことが必要である。資本が乏しいと嘆く前に、資本の認識と使用方法について吟味し、資本を増やすことを心がけてはと思う次第である。資本の自己管理と適切な使用、それに資本の増加について、努力していない若者が貧困になっていることはないであろうか?
資本が少ない貧困な家庭からも、資産家になった人たちはいくらでもいるのである。これらの成功者は、資本の運用について優れているのである。
 資本の運用こそが貧富の差をつくる原因であり、それは個人の自己選択の結果によるのである。社会を変える前に、溜め=資本の運用についての知識=社会学的啓蒙を学ぶべきである。

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by merca | 2010-06-13 23:50 | 社会分析

貧困の自己責任説の根拠=ハビトゥス


 貧困の自己責任説は、ブルデューのハビトゥス論から説明がつく。ハビトゥスとは、社会階級ごとに人々に身体感覚として埋め込まれた習慣=心的傾向性であり、個人の自己選択の前提=選択肢の範囲を形成する機能を持つ。例えば、上流階級の子息は、音楽についてはロックよりもクラシックを選択する。下層階級で育った若者は、医者や弁護士になろうとは思わず、工員や土木作業員になろうとする。自分が希望する物事が、社会階級ごとに家族を通して植え付けられた文化的遺伝子たるハビトゥスによって無意識に決定されているというのである。
 
 しかし、だからといって、個々人は社会からの拘束や強制を感じているわけではない。当事者たちにとっては、それが自身の本当の希望であり、自己選択だと感じているのである。希望格差社会論を唱える学者がいるが、実はハビトゥスによって希望格差が生じているのである。人の社会的行為の規則性や秩序も、社会的賞罰があるからではなく、ハビトゥスによる習慣的行動の結果なのである。
 重要な点は、ハビトゥスは個人の内部に内面化した性質であり、個人の外部にある国民社会や国家ではないということである。従って、論理的かつ法的には、ハビトゥスが自己選択に作用しているとしても、それは自己責任であり、社会や国家の責任ではない。ハビトゥスは個人が所有する文化的遺伝子であり、個人の一部なのである。
 例えば、ハビトゥスの作用で結婚相手も無意識に所属階級が同一の異性から選択するわけであるが、結婚した当人にあなたの自由意志で結婚したのではないと言い放つと違和感をもたれるであろう。誰もが結婚相手は自由意志で選択した思っているわけである。当事者的には自由意志で行為したと思っているわけであるし、実際、ハビトゥスは個人に内面化したものであり、事実的には個人に原因がある。溜めのない貧困な下層階級の家庭を再生産してしまうのも、配偶者選択の原理がハビトゥスにおける自己選択が働いているからである。
 逆説的であるが、貧富の差を生み出すのは、ハビトゥスに限定された個々人の自己選択の結果なのである。
 
 高度経済成長期の日本社会では、「いい学校、いい会社、いい人生」という文化的目標をハビトゥスに抗して、異なる全ての社会階級に共通に強制された時代があった。その結果、農村から都市への大移動があり、経済が発展した。多くの人たちが、自己の所有するハビトゥスと異なる価値規範を強制され、受験戦争を強いられた。なぜ勉強しないといけないのだと疑問を抱いた若者が多く出て来た。社会が個人を束縛するものとして若者に映った時代である。近代化の過程で必ず起こる意識である。
 皮肉なことに、ハビトゥスではなく、ハビトゥスを否定する価値規範こそが個人に社会的束縛感をもたらすのである。自己を束縛する社会的事実=学歴社会こそが、本来の意味で自己を社会的宿業から解放するものであることに気づいていた若者はいたであろうか?
 いずれにしろ、どんな社会階級の家族のもとに生まれるかは自己決定の外であり、本人の原因ではない。また、社会の原因でもない。この不平等は単なる偶然である。
 
 しかし、少なくとも、事実的かつ実体的には、貧富の差の原因と責任は、社会にあるのではなく、個人が内面化したハビトゥスを前提にした自己選択にあるのである。ハビトゥスによって、湯浅氏のいう溜の量も規定されるのである。社会からの解放ではなく、自己の社会的宿業からの解放こそが、貧困からの解脱につながるのである。

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by merca | 2010-06-13 11:31 | 社会分析