人気ブログランキング | 話題のタグを見る

東浩紀氏の訂正可能性の哲学は、相対主義の一変種である。

 哲学者・東浩紀が、訂正可能性の哲学なるものを発案し、訂正する力による社会変革について語り出した。
 この独自の社会哲学思想について分析を加え、今後、この思想が多くの人々にコミュニケートされていき、現代日本社会において、社会統合や自我統合の機能を果たすことができるか社会学的に検証していきたい。
 さて、訂正可能性の哲学が言わんとすることは、真なる民主主義や平和を実現するためには、既存の社会の否定や修正ではなく、訂正によって可能となるということである。既存の社会の否定は左翼やリベラルの立場であり、既存の社会の修正は右翼や保守主義の立場に対応することになる。このような二つの対立する立場を止揚し、訂正する力のみが持続可能な社会を可能にするというのである。そして、明治維新や戦後の象徴天皇制などは、訂正する力の賜物だと主張している。これまでの日本社会の社会改革は、既存の社会体制を全否定する革命ではなく、また単なる伝統の修正でもないというのである。日本社会は、革命でもなく、伝統の継承でもなく、訂正する力によって生き残ってきたと考えるわけである。
 さらに、個のレベルにおいては、訂正可能な存在であるためには、交換不可能な存在でなければならないと言っている。交換不可能な取り替えのきかない存在、すなわち単独者のみが訂正可能性に開かれた存在になるというわけである。
 そもそも、最初から、それぞれの人間は、世界に一人しかいない唯一の存在=実存である。ただ、その属性はいつでも変動し、訂正可能である。例えば、この私は、子供であったり、大人であったり、教師であったり、親であったり、色々と述語面は変化し、訂正可能である。このような訂正可能性は、かえって主語の交換不可能性を前提としている。主語そのものは訂正されず、述語面の属性のみが訂正される。従って、個人は、自身を取り替えの効かない存在であるという実感を得ることが大切になってくる。そのような実感は、家族や親密圏でのみ得られることになる。自我統合において、このことは大きい。矛盾対立した複数の部分的アイデンティティを自身の自我に統合するには、究極的には個の単独性=交換不可能性=唯一性によって可能だからである。自我統合の作法として、訂正可能性の哲学は、一応、合格である。
 訂正されざる個の単独性においてこそ、訂正可能性が可能となるのである。社会学の観点からすると、この思想は、宮台真司が懸念した社会の過剰流動性に対する、解決策となっているのである。
 
 これを個人のレベルではなく、社会のレベルに置き換えてみると、日本社会という主語は不動に存在し、述語のみが訂正されていくことになる。左翼が唱える革命とは、主語たる日本社会の存在そのものの存在否定である。一方、右翼が唱える伝統保持とは既存の日本社会の変化を否定する立場である。東氏は、絶対否定と絶対肯定の二元対立を嫌い、この対立を温存しつつも、訂正という立場をとることで、止揚しようとする。明治維新も戦後の象徴天皇制も、既存の社会の全否定ではなく、実は日本社会はこれこれであったという訂正によって成し遂げられたというわけである。
 また、自然と作為(社会)の二元対立についても、両者を否定するのではなく、ルソーを引用し、「自然を作為する」という立場をとり、それが訂正する力によって為されると考えている。
 ここでいう自然とは、端的にルソーのいう一般意志のことを指し示していると考えられる。そもそも、自然は作為されないから自然と言われるにもかかわらず、作為された自然を認めている。これは、社会契約思想における自然法という概念がそもそも物理世界のような不動の法則によって貫かれているものではなく、究極的には人間や社会が作り出した物語だということを意味している。しかし、一旦、作り出されると、それがあたかも自然界の不動の法則のように人々に表象される。しかし、実は、自然法も、所詮、人間や社会が作り出した物語にしか過ぎないということである。つまり、ルソーのいう自然法や一般意志は、不動の存在として君臨しているように人々は捉えるが、いつでも訂正可能な可変的なものなのである。いつでも訂正できるが、一旦、出来上がると、不動の存在のように認識され、人々を拘束することになる。
 
 しかし、東氏のあまいところは、社会=一般意志の発生を人々の意図的な作為としてのみ捉えており、人々の相互作用によって意図せざる方向に向かって自然に発生するものであるという社会的事実を見損なっていることである。
 デュルケーム流に言うと、外存性と拘束性をもった第二の自然である一般意志=社会は、個人の作為や複数の人々の共同の作為から発生したのでもない。人々の共同主観的意図とは関係なく発生する、社会による社会の産物である。
 例えば、言語は誰か一人が発明したものではなく、人々のコミュニケーションの積み重ねによって、人々の意図とは関係なく、出来上がったものである。確かに一般意志は訂正可能性はあるが、訂正する主体は、個人ではなく、社会である。社会が社会を訂正するわけである。いくら学者や政治家が社会の訂正について発言しても、その内容の通りに社会が訂正されるわけではなく、その思想が人々に共有され、人々のコミュニケーションに影響を与え、その結果として、色んな方向に社会が変わることになる。平等社会を目指すマルクス主義が平等社会を生み出さずに、思想の自由のない独裁主義による階級社会を生み出したように、思想内容とその影響による結果は一致しないのである。それが社会創発の妙理である。
 多くの場合、人々の作為が作為の内容とは異なる結果を生み出すのである。社会学の立場からすると、訂正可能性の哲学は、社会が訂正内容どおりに訂正されないということを見落としている。

 最後に、訂正可能性の哲学が、やはり相対主義の一変種であることを述べておこう。
 訂正可能性の哲学は、ある存在に対して、絶対否定も絶対肯定もせず、訂正のみを行う。先にも述べたが、交換不可能な主語の存在の同一性=単独性は、温存し肯定され、訂正によって交換可能な述語たる属性のみが部分否定される。
 つまり、訂正可能性の哲学の論理的正体は、主語面における絶対主義と述語面における相対主義の二つを織り込んでいる相対主義である。それは、柄谷行人のいう、「単独性と特殊性」という区別に準拠している。「主語ー述語」「単独性と特殊性」という区別に準拠し、絶対主義と相対主義を共に肯定するタイプの相対主義であり、無論、単純な相対主義よりも高度な哲学思想である。

  参考
「バウマン社会理論の射程」書評 他者性の社会学は可能か?
 https://mercamun.exblog.jp/19834975/
  抜粋
「中島氏によれば、これと対応して、社会批判も二種類あるという。内在的社会批判と外在的社会批判である。内在的社会批判とは、社会共同体の歴史や伝統に照らし合わせて現代社会を批判する方法である。例えば、小林よしのりのように、日本には古来からの価値観や風習があり、現代日本社会はそこから外れており、正すべきという論法がそれである。この場合、他の共同体の歴史や伝統を基準にせず、あくまでも自己の所属する共同体の歴史と伝統を基準にすることになる。従って、道徳も、日本、アメリカ、中国、韓国、アフリカでは異なってくることになり、文化相対主義となる。保守主義者は本来相対主義者なのである。西部邁がその典型である。
 一方、外在的社会批判とは、共同体を離れた普遍的な価値から社会を批判する立場である。例えば、自由と平等という人類に普遍的だと思われている価値に基づく人権思想や民主主義の立場から、独裁制国家の人民殺戮や搾取を批判する場合である。また、ブッダがカースト社会の階級差別を批判したのも、生命の平等という普遍的価値からである。」

 内在的社会批判と外在的社会批判の二元対立も、訂正する力で止揚できるだろうか。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。
 
 

# by merca | 2023-11-25 11:01 | 相対化作法

人権思想の副作用としての感動ポルノ論 愛なき福祉社会

 テレビや本等において障害者が障害を克服して生きて行く姿を見て感動することを感動ポルノと名付けて批判する言論が存在する。つまり、感動を消費の対象としており、障害を持つ当事者にとってはよい迷惑だとする考えである。この考え方からすると、子供がヘレンケラーの物語に感動することも、感動ポルノとして、批判されることになる。
 しかし、感動する視聴者は、本当に障害者の努力物語を自己のストレスを解消するために消費しているだろうか?
また、感動とはそもそもストレス解消行為なのだろうか?
 
 視聴者や読者は、障害者だから感動しているわけではない。障害者であろうがなかろうが、一人の人間の生き様に心を打たれ、尊敬の念を抱き、勇気づけられ、エンパワーメントされているだけである。それは、他と比べることができない実存的な出来事、遭遇である。真なる感動は消費されず、お金に変えることはできない。
 ヘレンケラーの物語に感動する人たちは、消費ではなく、学びを得ているのである。このことを全く感情ポルノ論者はわかっていない。感動とは、決して消費されるような類いものではない。感動は、かけがいのない出来事であり、一般化できない。比較できるような感動は偽物の感動であり、ストレス解消にしかすぎず、そこからは何も学ぶこともなく、心の成長にはつながらない。
 ある人の生き様を見て感動し涙を流すことの意味は、他者の人格を敬うことであり、心の成長や学びにつながる。決して、感動ポルノという安易な言葉には還元できない実存的な心の出来事なのである。
 さらにいうと、障害者の努力を見て同情して涙を流す人も、相手が障害者だから涙を流しているのではなく、相手が苦境に負けずに努力する姿や周囲の温かな支援に涙を流しているのである。同情をする人は、障害者じゃなくても、一様に苦しんでいる人に同情し、涙を流すのである。
 同情する人は、貧困にあえぎ餓死しそうな子供たち、虐待を受け痣のある子供たち、闘病生活に苦しむ患者、いじめにあって不登校になっている子供たち、衰弱した路上のホームレス、劣悪な家庭環境の中でも更生しようとする非行少年、戦争で犠牲になった人たちなどにも同情するであろう。
 ワンピースの物語であるが、コラソンが孤児のローに同情して流した涙は偽物ではなかった。その涙は自らの命を犠牲にしてローを守り、彼に自由をもたらした。決して見捨てることはなかった。同情したコラソンの愛は偽物ではなかった。この物語が示すように、人は同情心から自然に相手を救いたいという気持ちが出てくるものである。
 しかし、今や、そういう人たちの愛や慈悲に対して、同情することは一種の差別であるとレッテルを貼るようになってきた。人の善意を偽善とみなし、人の同情を差別と見なし、人の温かさを感じることができなくなってしまっているのである。これは一種の社会病理現象である。

 実は、社会学的には、人の涙を卑しめ、人の温かさを差別とみなす思考回路は、近代社会の人権思想を基礎とする福祉主義に由来している。そもそも、特別に同情されなくても、健常者と同様に生きていけるノーマライジェーションが実現した共生社会では、社会的障壁がなくなり、同情による支援に頼らなくても、普通に生きていけるわけである。人々の善意や同情がなくても、国家の精緻な福祉制度があれば、その支援によって、健常者と同じように生きて行けるし、完全な社会参加と自由を実現することができる。そうなると、善意や同情は無用の産物となるばかりか、やっかいな代物となる。障害者が求めるものは愛や慈悲という不確かなものではなく、国家の福祉制度という確かなものなのである。
 つまり、障害をもつ者にとって、国家の福祉制度による支援があれば、生きて行ける時代になりつつあり、人々の善意や同情は差別として観察されるようになったのである。このような社会では、障害者にとっては、端的に人々からの愛は差別なのである。
 しかし、皮肉なことに、そもそも福祉の歴史は、熱い心を持つ宗教家や篤志家たちによる慈善事業から始まっている。つまり、善意、同情、慈悲、愛が動機となっている。ところが、人が人を助け合うことの基本に、愛がなくても可能な社会、それが福祉主義が目指す共生社会である。たが、そのような社会はかえって心が貧困化した社会となるであろう。
 
感動ポルノに話を戻そう。
 人々が障害者の克服物語を見みて感動することを感動ポルノと見なすことは、結局のところ、一部の障害者やその支援者がもつ価値観のフィルターから構成された考え方である。
 本当に感動するとは、その人の人生を変えるほどの衝撃とエネルギーが与えられる出来事=奇跡であり、感情ポルノ論者のいう消費行動には還元されない。マスメディアが流す障害者の生き様を描いた努力物語が一部の障害者が不快感を感じるのは、人権思想に基づく福祉主義の価値観のためである。その本質は、健常者=強者=悪、障害者=弱者=正義という区別に基づくルサンチマン思想である。一部の障害者やその支援者たちが、人の純粋な善意を偽善とみなし、人の同情や愛を差別と見なすようなったのは、この価値観に洗脳されているからである。この価値観を近代社会の作り出した価値観にしかすぎないと相対化し、視野を広げ、認知の歪みをなくすことが大切である。
 ちなみに、サイコパスと対照的な存在であるエンパス(極度に共感性の高い人)という人たちがいるが、この価値観からは、エンパスは感動ポルノ依存症のレッテルを貼られてしまうであろう。
 ともあれ、人権思想の副作用は、人の愛や慈悲を否定する感情ポルノ論者の中にも観察できることがわかった。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。

# by merca | 2022-12-03 21:59 | 社会分析

精神医学と心理学の境界線 精神科医による心理学への不当侵略

 精神科医が社会について語ることがよくある。香山リカなどを筆頭に、斉藤環、和田秀樹、松本俊彦などの精神科医がその類いである。人々は、それが科学に基づいていると勘違いし、安易に受けとる。
 しかし、精神科医は、社会学理論を学んだり、社会調査法などの訓練を受けておらず、その社会分析に社会科学的な根拠は何らない。精神医学の対象は、社会ではなく、精神であり、精神医学から社会を科学的に分析することはできない。これは、カテゴリーの混同の誤謬である。精神科医の社会論は、評論にしかすぎず、全てニセ科学である。にもかかわらず、人はそれを科学として信じて本を買う。
 おなじような現象が心理学にも起こっている。精神科医による心理学領域への不当侵略である。精神科医というだけで、臨床心理学の専門的知識やカウンセリング技術の専門的訓練を受けずに、安易にカウンセリングを行っている場合がある。実は、心理学の専門家からすると、きちんと、臨床心理学に基づいた専門的訓練なしに、カウンセリングをする精神科医は、えせカウンセラーと何ら変わりはない。産業カウンセラーでも、ロジャース心理学に基づいたそれなりの訓練を受けており、臨床心理学を学んでいない精神科医よりも、カウンセリングはできると思われる。
 基本的に、カウンセリングは人の心理に対して行うものであり、精神科医の領域外である。ただ、心理学よりも、精神医学のほうが、格が高く、科学性があると勘違いされている。同じ国家資格でも、業務独占の医師免許の権威性は、名称独占の公認心理師を凌駕しており、人々は、心理学よりも医学の方が科学的であり、たとえカウンセリングの訓練を十分に受けていない精神科医であっても、そちらを選択するのである。人々が学問に対する科学的リテラシーがないために、このようになる。
 もう一つの問題として、精神医学の対象である精神と心理学の対象である心理はよく似ており、これらの対象は区別できるのかという議論がある。精神病の人には、カウンセリングは効果がない、とよく言われている。カウンセリング等の心理療法では、精神病を治療できないことはよく知られている。脳神経における神経伝達物質に働きかける投薬治療が必要となり、公認心理師では、それは扱えない。このように対象と方法は区別されている。一方、人生の意味や道徳観念による苦悩で悩んでいる人に、いくら投薬治療をしても、根本的に解決できない。心の意味世界の領域の問題は、カンウセラーとの対話による気づきによって、心が整理され、解消されていくことになる。
 システム論的にいうと、精神医学の対象である精神は脳神経系システムによって創発された精神現象であり、一方、心理学の対象である心は精神現象の意味内容のシステムであると言える。両者は、閉鎖性のある自律システムであるが、影響を与え合っている。
 例えていうのなら、ガラスのコップと水の関係である。ガラスのコップが精神であり、水が心である。濁った水が入っている場合、いくらコップを洗っても落ちない。奇麗な水に入れ替える必要がある。また、水をいくらいれても、コップに穴が空いていたら、水は漏れてしまい、たまらない。
 また、もっと言えば、精神と心の区別は、形式と内容、ハードとソフトの関係に対応している。精神が、形式、ハードに対応し、心が内容、ソフトに対応する。例えば、ハードであるテレビがあっても、ソフトとしての番組の放送がなければ、意味がない。また、ソフトとしての番組が放送されても、ハードであるテレビが故障して映らなければ、意味がない。
 また、精神科医がカウンセラーにリファーし、カウンセラーが精神科医にリファーするためには、精神と心の区別を弁える学問的知見が必要となる。この区別ができないと、精神科医が心理学の対象に侵入し、その科学性を見失うことになる。
 事例を示そう。
 何をやっても意欲がわかないという人が相談に来た場合、それが心の問題なのか、精神の問題なのか、区別することが大切である。意欲がわかない原因が過去の失敗体験に基づき、自尊心の低下にあるのなら、心の問題であり、カウンセラーのテレトリーであるが、ストレスによる鬱病に原因があるのなら精神科医のテレトリーである。前者の場合、投薬治療を受けても根本的に解決できない。後者の場合、カウンセリングを受けても治らない。
 社会福祉士や精神保健福祉士などのソーシャルワーカーによるインテークにおいては、適切にスクリーニングすることがことが求められる。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。



# by merca | 2022-10-09 01:47 | 理論

コロナ自殺の防止 社会福祉士、公認心理師が果たすべき役目(天命)

 全ての社会福祉士、公認心理師たちへ

 もし心あるのなら、その倫理に従い、
 以下のことをボランティアで実行されたい
 あなた方は、見捨ててはならないのです。
 アウトリーチしてほしい

 再度の緊急事態宣言が出された。
 コロナ自殺が増えて来た。
 世界人類が抱えた今世紀最大の苦難である。

 次のような話しがよく聞かれる。

 夢と希望をもって、銀行等から借金をし、長年の苦労が報われ、
 一人の料理人が念願だった自分の店をもった。
 しかし、開店してまもなく、コロナ過が襲って来た。
 必死に店を守り続けたが・・・。
 赤字経営となり、閉店。
 借金を抱えたまま、苦境に立たされる。
 そして、夢も希望も断たれ、自らの無力を感じ、
 借金と引き換えに、妻子を残し、自らこの世を去って行った。
 残された子供は、こう叫ぶ。
 帰って来てお父さん・・・。

 もしこのような状況になり、SOSを発することなく、死んでいった人たちがいたとするのなら
 それを救うのがあなた方の天命です。


 今、コロナ禍で人生にいきづまっている人たちへ

 是非とも、ツィッターで社会福祉士、公認心理師を検索し、
 その人が心ある人だと思ったら、その人にDMで直接SOSを発して下さい。
 相談すること、それはあなたが生きるための権利です。
 きっと、心ある本物の社会福祉士や公認心理師なら、あなたを助けてくれるはずです。
 あなたのSOSを受けとめる優しさと社会的資源につなぐ専門的能力をもっています。
 最後に、もし死にたいと思ったら、その前に、ネットで検索し、パッヘルベルのカノンを聴いてほしい。
 カノンは、あなたの存在を肯定します。

 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。

 
 

# by merca | 2021-01-09 16:17 | 反ニーチェ

新型コロナウイルス緊急事態宣言の自粛解除後に自殺増加となった原因について

 新型コロナウイルス感染予防対策における緊急事態宣言中の本年4月から6月は自殺率が前年度より13%ほど下がり、緊急事態宣言解除後の本年7月からは、前年度よりかなり自殺率が増加している。
 これは一体、どういことであるのか?
この事実は、自粛という観点からいうと、下の仮説を実証したかたちになった。

「新型コロナウイルス感染拡大防止による自粛で、逆に自殺者は減少する。(デュルケームの自殺論からの考察)」
 https://mercamun.exblog.jp/30073433/

 緊急事態宣言中の自粛が解かれたことによって、人々には自粛という国民的目的による社会連帯もなくなってしまい、再度、孤立化に向かったためだと思われる。また、仕事や学校が再開し、嫌な対人関係の中で生き辛さを感じてしまう人たちもいたと思われる。
 つまり、緊急事態宣言による自粛による社会連帯や欲望の規制によって抑止されていた自己本位的自殺やアノミー的自殺が、抑止要因がなくなり、増えだしたのである。また、学校や仕事が始まったために、いじめやパワハラなどの嫌な対人関係におかれ、宿命的自殺がおこりやすい状況になったものと思われる。
 また、自粛による諸々の効果によっておさえられていた本年4月から6月の自殺者の数が、そのまま自粛解除後の数字にずれ込んで上乗せされたのではないかと推察される。
 社会学的には、自粛による自殺抑止効果がなくなったことが、本年7月から自殺増加となった原因である。

人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。


# by merca | 2020-11-15 23:57 | 社会分析