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人権思想の副作用としての感動ポルノ論 愛なき福祉社会

 テレビや本等において障害者が障害を克服して生きて行く姿を見て感動することを感動ポルノと名付けて批判する言論が存在する。つまり、感動を消費の対象としており、障害を持つ当事者にとってはよい迷惑だとする考えである。この考え方からすると、子供がヘレンケラーの物語に感動することも、感動ポルノとして、批判されることになる。
 しかし、感動する視聴者は、本当に障害者の努力物語を自己のストレスを解消するために消費しているだろうか?
また、感動とはそもそもストレス解消行為なのだろうか?
 
 視聴者や読者は、障害者だから感動しているわけではない。障害者であろうがなかろうが、一人の人間の生き様に心を打たれ、尊敬の念を抱き、勇気づけられ、エンパワーメントされているだけである。それは、他と比べることができない実存的な出来事、遭遇である。真なる感動は消費されず、お金に変えることはできない。
 ヘレンケラーの物語に感動する人たちは、消費ではなく、学びを得ているのである。このことを全く感情ポルノ論者はわかっていない。感動とは、決して消費されるような類いものではない。感動は、かけがいのない出来事であり、一般化できない。比較できるような感動は偽物の感動であり、ストレス解消にしかすぎず、そこからは何も学ぶこともなく、心の成長にはつながらない。
 ある人の生き様を見て感動し涙を流すことの意味は、他者の人格を敬うことであり、心の成長や学びにつながる。決して、感動ポルノという安易な言葉には還元できない実存的な心の出来事なのである。
 さらにいうと、障害者の努力を見て同情して涙を流す人も、相手が障害者だから涙を流しているのではなく、相手が苦境に負けずに努力する姿や周囲の温かな支援に涙を流しているのである。同情をする人は、障害者じゃなくても、一様に苦しんでいる人に同情し、涙を流すのである。
 同情する人は、貧困にあえぎ餓死しそうな子供たち、虐待を受け痣のある子供たち、闘病生活に苦しむ患者、いじめにあって不登校になっている子供たち、衰弱した路上のホームレス、劣悪な家庭環境の中でも更生しようとする非行少年、戦争で犠牲になった人たちなどにも同情するであろう。
 ワンピースの物語であるが、コラソンが孤児のローに同情して流した涙は偽物ではなかった。その涙は自らの命を犠牲にしてローを守り、彼に自由をもたらした。決して見捨てることはなかった。同情したコラソンの愛は偽物ではなかった。この物語が示すように、人は同情心から自然に相手を救いたいという気持ちが出てくるものである。
 しかし、今や、そういう人たちの愛や慈悲に対して、同情することは一種の差別であるとレッテルを貼るようになってきた。人の善意を偽善とみなし、人の同情を差別と見なし、人の温かさを感じることができなくなってしまっているのである。これは一種の社会病理現象である。

 実は、社会学的には、人の涙を卑しめ、人の温かさを差別とみなす思考回路は、近代社会の人権思想を基礎とする福祉主義に由来している。そもそも、特別に同情されなくても、健常者と同様に生きていけるノーマライジェーションが実現した共生社会では、社会的障壁がなくなり、同情による支援に頼らなくても、普通に生きていけるわけである。人々の善意や同情がなくても、国家の精緻な福祉制度があれば、その支援によって、健常者と同じように生きて行けるし、完全な社会参加と自由を実現することができる。そうなると、善意や同情は無用の産物となるばかりか、やっかいな代物となる。障害者が求めるものは愛や慈悲という不確かなものではなく、国家の福祉制度という確かなものなのである。
 つまり、障害をもつ者にとって、国家の福祉制度による支援があれば、生きて行ける時代になりつつあり、人々の善意や同情は差別として観察されるようになったのである。このような社会では、障害者にとっては、端的に人々からの愛は差別なのである。
 しかし、皮肉なことに、そもそも福祉の歴史は、熱い心を持つ宗教家や篤志家たちによる慈善事業から始まっている。つまり、善意、同情、慈悲、愛が動機となっている。ところが、人が人を助け合うことの基本に、愛がなくても可能な社会、それが福祉主義が目指す共生社会である。たが、そのような社会はかえって心が貧困化した社会となるであろう。
 
感動ポルノに話を戻そう。
 人々が障害者の克服物語を見みて感動することを感動ポルノと見なすことは、結局のところ、一部の障害者やその支援者がもつ価値観のフィルターから構成された考え方である。
 本当に感動するとは、その人の人生を変えるほどの衝撃とエネルギーが与えられる出来事=奇跡であり、感情ポルノ論者のいう消費行動には還元されない。マスメディアが流す障害者の生き様を描いた努力物語が一部の障害者が不快感を感じるのは、人権思想に基づく福祉主義の価値観のためである。その本質は、健常者=強者=悪、障害者=弱者=正義という区別に基づくルサンチマン思想である。一部の障害者やその支援者たちが、人の純粋な善意を偽善とみなし、人の同情や愛を差別と見なすようなったのは、この価値観に洗脳されているからである。この価値観を近代社会の作り出した価値観にしかすぎないと相対化し、視野を広げ、認知の歪みをなくすことが大切である。
 ちなみに、サイコパスと対照的な存在であるエンパス(極度に共感性の高い人)という人たちがいるが、この価値観からは、エンパスは感動ポルノ依存症のレッテルを貼られてしまうであろう。
 ともあれ、人権思想の副作用は、人の愛や慈悲を否定する感情ポルノ論者の中にも観察できることがわかった。

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# by merca | 2022-12-03 21:59 | 社会分析

精神医学と心理学の境界線 精神科医による心理学への不当侵略

 精神科医が社会について語ることがよくある。香山リカなどを筆頭に、斉藤環、和田秀樹、松本俊彦などの精神科医がその類いである。人々は、それが科学に基づいていると勘違いし、安易に受けとる。
 しかし、精神科医は、社会学理論を学んだり、社会調査法などの訓練を受けておらず、その社会分析に社会科学的な根拠は何らない。精神医学の対象は、社会ではなく、精神であり、精神医学から社会を科学的に分析することはできない。これは、カテゴリーの混同の誤謬である。精神科医の社会論は、評論にしかすぎず、全てニセ科学である。にもかかわらず、人はそれを科学として信じて本を買う。
 おなじような現象が心理学にも起こっている。精神科医による心理学領域への不当侵略である。精神科医というだけで、臨床心理学の専門的知識やカウンセリング技術の専門的訓練を受けずに、安易にカウンセリングを行っている場合がある。実は、心理学の専門家からすると、きちんと、臨床心理学に基づいた専門的訓練なしに、カウンセリングをする精神科医は、えせカウンセラーと何ら変わりはない。産業カウンセラーでも、ロジャース心理学に基づいたそれなりの訓練を受けており、臨床心理学を学んでいない精神科医よりも、カウンセリングはできると思われる。
 基本的に、カウンセリングは人の心理に対して行うものであり、精神科医の領域外である。ただ、心理学よりも、精神医学のほうが、格が高く、科学性があると勘違いされている。同じ国家資格でも、業務独占の医師免許の権威性は、名称独占の公認心理師を凌駕しており、人々は、心理学よりも医学の方が科学的であり、たとえカウンセリングの訓練を十分に受けていない精神科医であっても、そちらを選択するのである。人々が学問に対する科学的リテラシーがないために、このようになる。
 もう一つの問題として、精神医学の対象である精神と心理学の対象である心理はよく似ており、これらの対象は区別できるのかという議論がある。精神病の人には、カウンセリングは効果がない、とよく言われている。カウンセリング等の心理療法では、精神病を治療できないことはよく知られている。脳神経における神経伝達物質に働きかける投薬治療が必要となり、公認心理師では、それは扱えない。このように対象と方法は区別されている。一方、人生の意味や道徳観念による苦悩で悩んでいる人に、いくら投薬治療をしても、根本的に解決できない。心の意味世界の領域の問題は、カンウセラーとの対話による気づきによって、心が整理され、解消されていくことになる。
 システム論的にいうと、精神医学の対象である精神は脳神経系システムによって創発された精神現象であり、一方、心理学の対象である心は精神現象の意味内容のシステムであると言える。両者は、閉鎖性のある自律システムであるが、影響を与え合っている。
 例えていうのなら、ガラスのコップと水の関係である。ガラスのコップが精神であり、水が心である。濁った水が入っている場合、いくらコップを洗っても落ちない。奇麗な水に入れ替える必要がある。また、水をいくらいれても、コップに穴が空いていたら、水は漏れてしまい、たまらない。
 また、もっと言えば、精神と心の区別は、形式と内容、ハードとソフトの関係に対応している。精神が、形式、ハードに対応し、心が内容、ソフトに対応する。例えば、ハードであるテレビがあっても、ソフトとしての番組の放送がなければ、意味がない。また、ソフトとしての番組が放送されても、ハードであるテレビが故障して映らなければ、意味がない。
 また、精神科医がカウンセラーにリファーし、カウンセラーが精神科医にリファーするためには、精神と心の区別を弁える学問的知見が必要となる。この区別ができないと、精神科医が心理学の対象に侵入し、その科学性を見失うことになる。
 事例を示そう。
 何をやっても意欲がわかないという人が相談に来た場合、それが心の問題なのか、精神の問題なのか、区別することが大切である。意欲がわかない原因が過去の失敗体験に基づき、自尊心の低下にあるのなら、心の問題であり、カウンセラーのテレトリーであるが、ストレスによる鬱病に原因があるのなら精神科医のテレトリーである。前者の場合、投薬治療を受けても根本的に解決できない。後者の場合、カウンセリングを受けても治らない。
 社会福祉士や精神保健福祉士などのソーシャルワーカーによるインテークにおいては、適切にスクリーニングすることがことが求められる。

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# by merca | 2022-10-09 01:47 | 理論

コロナ自殺の防止 社会福祉士、公認心理師が果たすべき役目(天命)

 全ての社会福祉士、公認心理師たちへ

 もし心あるのなら、その倫理に従い、
 以下のことをボランティアで実行されたい
 あなた方は、見捨ててはならないのです。
 アウトリーチしてほしい

 再度の緊急事態宣言が出された。
 コロナ自殺が増えて来た。
 世界人類が抱えた今世紀最大の苦難である。

 次のような話しがよく聞かれる。

 夢と希望をもって、銀行等から借金をし、長年の苦労が報われ、
 一人の料理人が念願だった自分の店をもった。
 しかし、開店してまもなく、コロナ過が襲って来た。
 必死に店を守り続けたが・・・。
 赤字経営となり、閉店。
 借金を抱えたまま、苦境に立たされる。
 そして、夢も希望も断たれ、自らの無力を感じ、
 借金と引き換えに、妻子を残し、自らこの世を去って行った。
 残された子供は、こう叫ぶ。
 帰って来てお父さん・・・。

 もしこのような状況になり、SOSを発することなく、死んでいった人たちがいたとするのなら
 それを救うのがあなた方の天命です。


 今、コロナ禍で人生にいきづまっている人たちへ

 是非とも、ツィッターで社会福祉士、公認心理師を検索し、
 その人が心ある人だと思ったら、その人にDMで直接SOSを発して下さい。
 相談すること、それはあなたが生きるための権利です。
 きっと、心ある本物の社会福祉士や公認心理師なら、あなたを助けてくれるはずです。
 あなたのSOSを受けとめる優しさと社会的資源につなぐ専門的能力をもっています。
 最後に、もし死にたいと思ったら、その前に、ネットで検索し、パッヘルベルのカノンを聴いてほしい。
 カノンは、あなたの存在を肯定します。

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# by merca | 2021-01-09 16:17 | 反ニーチェ

新型コロナウイルス緊急事態宣言の自粛解除後に自殺増加となった原因について

 新型コロナウイルス感染予防対策における緊急事態宣言中の本年4月から6月は自殺率が前年度より13%ほど下がり、緊急事態宣言解除後の本年7月からは、前年度よりかなり自殺率が増加している。
 これは一体、どういことであるのか?
この事実は、自粛という観点からいうと、下の仮説を実証したかたちになった。

「新型コロナウイルス感染拡大防止による自粛で、逆に自殺者は減少する。(デュルケームの自殺論からの考察)」
 https://mercamun.exblog.jp/30073433/

 緊急事態宣言中の自粛が解かれたことによって、人々には自粛という国民的目的による社会連帯もなくなってしまい、再度、孤立化に向かったためだと思われる。また、仕事や学校が再開し、嫌な対人関係の中で生き辛さを感じてしまう人たちもいたと思われる。
 つまり、緊急事態宣言による自粛による社会連帯や欲望の規制によって抑止されていた自己本位的自殺やアノミー的自殺が、抑止要因がなくなり、増えだしたのである。また、学校や仕事が始まったために、いじめやパワハラなどの嫌な対人関係におかれ、宿命的自殺がおこりやすい状況になったものと思われる。
 また、自粛による諸々の効果によっておさえられていた本年4月から6月の自殺者の数が、そのまま自粛解除後の数字にずれ込んで上乗せされたのではないかと推察される。
 社会学的には、自粛による自殺抑止効果がなくなったことが、本年7月から自殺増加となった原因である。

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# by merca | 2020-11-15 23:57 | 社会分析

「正しさよりもやさしさを」ニーチェへのメッセージ 


 「正しさよりもやさしさを」
 
これは、バッシング社会(排除型社会)への心理学的処方箋である。

多くの人は自分が正しいと思って他者を非難する。
しかし、愛のない正義(道徳)、愛のない権力、愛のない科学は、ニヒリズムに行きつくだろう。

例えば
人々は、正義という道徳的観点から犯罪者を評価し、社会から排除し、更生の機会を奪う。
しかし、それは正しくても、愛はなく、利己的である。
このように、正義に基づいた社会的排除が、かえって再犯を生み出し、被害者を出す。
これは社会学的真理である。

今、必要なのは、正しさよりもやさしさである。

                 ニーチェへのメッセージ

  
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# by merca | 2020-05-27 22:20 | 反ニーチェ