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科学教の本質

  ニセ科学批判者たちが使用するレトリックの自己矛盾を指摘しておきたい。
 ニセ科学批判者たちは、科学的知識は事実そのものである絶対的真理には到達不可能であるが、科学によってそれに近づくことができると主張する。つまり、個々の科学的知識は事実と思われる認識内容であって、永遠に事実そのものには到達できないが、実験と観測を重ねることで事実そのものに限りなく近づいていくことが科学の営みであるというわけである。この論理からすると、かえって科学は、絶対的真理を前提としていることがわかる。もう少し詳しく言うと、科学は、事実そのもの=絶対的真理=対象と認識内容が完全に一致した命題の存在に近づくことを目標とすることで成り立っている。しかし、何を根拠に事実そのものにより近づいていることを判断できるのだろうかという疑問がすぐに湧いてくる。ここで科学そのものがパラドックスに陥ることは、システム論者なら誰でもわかる。それはともかく、ここでは科学は決して自身を絶対化しないというレトリックの自己欺瞞性を粉砕しておきたい。
 
 このように、科学という営みは、絶対的真理=事実そのものという妄想=物語の存在によって動機付られ成り立っている。しかし、皮肉なことに、人間の意識から断絶した事実そのものが存在し、決して到達不可能だとしたら、これはすでに哲学的観念としては、科学が否定してきた神の観念と同義になってしまうのである。また、事実そのものの総体を自然と呼ぶ科学主義者もおり、やたら自然という神秘物語に科学の根拠を求める連中もいる。
 科学は、絶対者としての事実そのもの,あるいはその総体である自然の存在を前提とする絶対主義なのである。このことを理解せずに、科学は絶対主義ではないという浅はかな理解しかできないニセ科学批判者は多い。科学は絶対的真理という観念なしには、成り立たない思想なのである。
 科学が信仰する事実そのものという観念は、宗教、特にキリスト教の神観念に近い。これは科学が西洋社会を起源にもつ文化現象であるという一つの証拠である。キリスト教の神観念は、人間の外にある絶対者であり、人間にとって認識不可能かつ到達不可能な存在である。これは正しく科学が前提とする事実そのものの存在と同じである。ちみなに、仏教では一切の存在に仏の生命が宿ると考える。仏性=真理は外にある絶対のものではなく、個々の存在に宿る内面的なものである。真理は自身のうちにあり、外にはないと考える。科学は真理を人間の意識の外に求めようとする点において、極めてキリスト教的、西洋的である。到達不可能な絶対者を立てる科学は、キリスト教と同型の思考形態をもつ。真理そのものがはなから自己のうちに宿ると考える仏教的発想によって、科学は相対化されるのである。また、構造構成主義もシステム論も、意識から隔絶した事実そのものを定立することなく、世界を記述するので、科学とは観察方法が根本的に異なることになる。 

 科学は、意識から隔絶した事実そのものを絶対者として定立し、その仮構の存在を信仰する一つの宗教である。その挙句の果て、科学を標榜する者たちは我こそが真理に近づいたりと闘争し、自己と似た者たちに対して疑似科学やニセ科学という邪教のレッテルを張り、排斥するのである。科学が手段にとどまらず、自己目的化し、スピリチュアル、宗教、占いを破壊し、暴走する可能性は、この本質構造にあるのである。
 ニセ科学批判者たちが科学は永遠に事実そのものには到達できないが、実験と観測を重ねることで事実そのものに限りなく近づいていくから、科学は絶対化されることはないと言うのは、かなり陳腐で恥ずかしい弁解なのである。
 ただし、科学を手段=道具として相対化して利用することで、科学は科学教=ニセ科学批判運動にならず、解毒されるのである。


   参考
 ある観点からは科学も宗教も機能的に等価だという相対主義を嫌う科学主義者もいる。これは、客観的事実の分野においては、科学のみが特権化·絶対化されるという絶対主義のあらわれである。しかし、実際のところ、科学的手続きと客観的事実は、論理的には全く無関係である。科学的手続きを経ない客観的事実は、いくらでも見出させるからである。

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by merca | 2008-12-29 17:40 | ニセ科学批判批判 | Trackback | Comments(6)
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Commented by ak at 2008-12-30 00:32 x
読んでて眠くなりました
Commented by っっk at 2008-12-30 03:15 x
科学的にしらべられた事実は証拠があるがそれ以外の事実はquolity approvedされてないだろ、ばかか
Commented by あおい at 2008-12-30 13:14 x
記事自体が思い込みと決め付けで構成されていて、はじめからまともな話をする気がないんだなと感じました。なんでしょう、科学と宗教は等価であるといい、自らの妥当性すら疑わない相対主義なんてかなり残念なことになっていると気づかないのでしょうか?
Commented by ビオス at 2008-12-30 15:48 x
 うわー” やっぱり来たね。
 ニセ科学批判者の周辺者たちが・・・。頭が悪い暴力的なコメントが・・・。感情的なコメントが論宅さんの社会病理現象という仮説を実証していますね。皮肉ですね。
Commented by 宗教学の工作員 at 2008-12-30 16:54 x
大変痛快な記事をありがとうございます。

「科学」に関する記述に関してはまったくの素人ですのでコメントは控えますが、宗教学に少なくない人生を浪費してしまった者として、宗教の側に言及した記述がいささか"不用意"といいますか、いくつか語の理解について老婆心ながら質問させていただきたい気分になりました。

比較する一方がそれっぽくみえるようになると、全体の印象もかわります。もうすこし慎重に言葉を補って下されると、私のような文系馬鹿も煙に巻けるかと思いますので、素晴らしい次回作を期待しております。
Commented by ああ at 2009-12-18 18:02 x
この記事には同意です。
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