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人間科学・社会科学からは、脳科学は疑似科学?


 (ハード=形式/ソフト=内容)という区別から、心を観察すると、ハード面は確かに脳科学者がいうように脳神経細胞のネットワークから創発するものかもしれないが、ソフト面は社会的につくられて発生したものである。つまり、思考や論理は言語によって可能となり、価値意識や規範意識は教育によって可能となるし、その他、感情や感覚も家庭での躾が影響してくる。要するに、思考、価値、感情、感覚は社会的につくられる。このことを社会化という。
 心の構造は脳神経細胞のネットワークによって規定されるかもしれないが、心の内容は社会によって規定される。これはごく当たり前のことであり、社会が存立するためには、ある程度、必要なことである。
 さらに重要なことは、自我意識は、社会がなくしては生成しないということである。赤ん坊には感覚・感情レベルの心はあるかもしれないが、自我意識はまだ生成しておらず、自他未分化だとよく言われる。言語を習得してから自我意識が芽生える。一番古い私の記憶と呼べるものは言語を習得しはじめた4歳ころであることからもわかる。言語とは、まさしく社会的なるものなのである。発達心理学的には、感覚、感情、思考、価値観の順番に心が発達していくと考えられる。これは、胎児が卵細胞から細胞分裂を繰り返し、動物の進化の過程をなぞっていくのと同じであり、心も赤ん坊から大人になるまで社会の進化の過程をなぞっていくものと考えられる。赤ん坊が思考を身につけるには、社会=他者とのコミュニケーションが必要なのである。

 社会心理学者ミードによれば、具体的な他者との関係の中で、他者一般なるもの=社会という観念を心に構築化・内面化することで、自我意識が発生すると考えた。心の発達とは、社会化の過程なのである。他者一般に対する自己の反応の仕方も一般化し役割として取得していく。他者一般と自己の反応を調整するために両者を鳥瞰する自我意識=主我も発生することになる。

 社会なくしては心の発生はない。脳が心のハード面をつくり、社会が心のソフト面をつくることになる。ソフト面のない心は無意味であり、空っぽであり、心とは呼べないと考えると、社会が心を創造すると言ったほうが適切である。人間の脳の進化はクロマニヨン人のころからほとんど止まっているらしく、その代わり、人間は社会を進化させて発展してきた。いわゆる、社会進化である。

 脳科学は心の誕生の物理的条件のみを解明するだけであり、その社会的条件を解明していない。物理的条件のみでは心は発生しないことを考えると、心の誕生の解明には、社会学や発達心理学という社会科学や人間科学が必要となるであろう。

 脳科学だけではなく、社会科学や人間科学の知見からしても、植物に心が宿る、水に心が宿ることはあり得ない。植物や水は人間によって躾や教育を受けていないからである。また、人工意識も、人間による教育を受けることができないのなら、自我意識を作り出すことはできず、心にはなり得ない。自然科学の知識だけではなく、人間科学や社会科学の知識からも、ニセ科学批判は可能なのである。

 社会学は、心の源は社会にあることを発見した最初の学問なのである。脳科学者や唯脳論者が神経細胞のネットワークからのみ心は発生すると断言するとしたら、それは人間科学や社会科学がこれまで蓄積してきた知識体系と矛盾しており、偽であり、疑似科学になるのである。


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by merca | 2009-02-15 08:48 | ニセ科学批判批判
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