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ポストモダン社会は、メタ道徳社会!!

 社会学は近代化を扱う学問であるが、ポストモダン社会とはどんな特徴をもつ社会なのか、宮台真司の著「日本の難点」を手がかりにそれを論じたい。
 
 ポストモダン社会について、様々な特徴を宮台真司は述べている。
 まず、ポストモダン社会とは多くの人が社会の底が抜けていることを知っている社会であるという。つまり、万民に共通な絶対的な真理や善悪の基準は存在し得ず、それらは恣意的に選択され構成された物語にしかすぎないということを、社会の多くの人々が自覚している社会である。
 ちなみに、このような相対主義から、殺人を肯定し、自己の殺人の動機を合理化する脱社会性馬鹿も時折散見される。絶対的真理や善悪の基準がないからと言ってニヒリズム殺人に走るという感覚は、成熟したポストモダン社会と全く無縁であり、かえって近代前期の古典的ニヒリズムの域をでない。
 そうではなく、ポストモダン社会では、底が抜けていると自覚しつつも、底があるかのように振る舞うことが不可欠であるという意識が人々に共有されてくる。このような意識を再帰性という。宮台氏はこれを「普遍主義の不可能性と不可避性」と表現している。
 つまり、全ての前提には絶対的・究極的な根拠はないが、それを意識化した上で、あえて物事を選択し、善悪と真理の物語を構築することが必要であるという意識である。
 全ての前提は恣意的に選択されたものであるから、これからも選択していく他ないという意識である。ただし、選択・構築された物語に底=根拠があるかのように擬制する手段も必要となる。そのツールが科学と民主主義である。
 絶対的な真理の根拠はないが、科学的手続きを得た知識は、一応、信じるに値する知識=真理の烙印を押され、人々が採用する。
 絶対的な正義であるという根拠はないが、民主主義的手続きを得た意見は、一応、受け入れるに値する正当性の烙印を押され、人々が採用する。
 科学と民主主義は、底が抜けた知識や道徳の世界に底があるかのように半ば期待を抱かさせる社会的装置なのである。この擬制装置が機能しないと、ポストモダン社会は回らない。宮台氏は、「民主主義の不可避性と不可能性」という文句でこれを的確に表現している。これは科学についても言えることで、「科学の不可避性と不可能性」が認められる。
 
 絶対的な基準がないから、何でもありの無秩序なニヒリズムに行きつくのではなく、恣意的に選択された前提を自覚・利用し、次の選択の材料としつつ、新たな選択をし続けることで回るのがポストモダン社会である。選択することそのものが道徳化された社会であり、選択しないことも一つの選択として処理される社会である。その意味において、実は、ポストモダン社会の隠されたメタ道徳規範は、自己選択性なのである。
 
 一部のニセ科学批判者のように、ポストモダン社会をニヒリズムや相対主義と勘違いして論じる論客もいるが、ポストモダン社会は自己選択性=自由意思を尊重する極めて洗練されたメタ道徳社会なのである。もう少し平たく言えば、ポストモダン社会は、全ては究極的には無意味だけれども、そのことにとどまらず、相対的な意味をつくるべきだという道徳命題を提唱しているのである。この道徳は、ニヒリズムも一つの選択として自己に取り込む強靭な思想であり、ニーチェの積極的ニヒリズムの論理的誤謬も克服している。

 ポストモダン社会のメタコードは、(選択可能/選択不可能)である。

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by merca | 2009-06-28 11:40 | 社会分析
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