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ハビトゥスの機能する社会の終焉


 ブルデュー社会学は、社会宿命論の完成体である。社会を必然の相で観察するためには、ブルデューが開発したハビトゥスという社会学概念を使用する他ない。これは、規範や価値観とは異なる社会学の説明原理である。パーソンズやルーマンと全く異なる概念でもって、ブルデューは社会を観察する。
 ハビトゥスは、人々に身体感覚として埋め込まれた習慣である。行為は自由な自己選択によって決定されるのではなく、ハビトゥスによって方向付けられるのである。クラシック音楽を好むのは、上流の社会階層に育った人間に埋め込まれた性向だという。育ちによって好みが異なり、その結果、学校への適応力や職業の好みも異なってくるというのである。
 ハビトゥスが、一人の人間の学習態度、職業、結婚、趣味等を規定するというわけである。さらに、所属する社会階層や民族社会によって、ハビトゥスは異なる。言わば、ハビトゥスは文化的遺伝子である。また、社会的宿業とも言える。例えば、育ちによって親からヤンキーのハビトゥスを植え付けられた子はヤンキーとなり、育ちによって親からおたくの遺伝子を植え付けられた子はおたくとなる。確かに、ヤンキーの子がヤンキーになる社会的確率はかなり高いと言えるし、医者の子が医者になる確率も高いような気がする。
 家族から埋め込まれたハビトゥスによって人生は決定され、そのことで社会階級が文化的に再生産されるというのが、ブルデューの言わんとするところである。さらに、社会階級によって社会分業システムは維持され、社会秩序が保たれるわけである。
 なお、合理的選択理論からすると、ハビトゥスは、選好構造と約すこともできる。選好構造は行為を選択する前から与えられている個人の性質であり、さらに社会階級によって共通している。
 ハビトゥスは、規範のように違反しても罰則はないし、思想や価値観のように意識的なものではない。強いて言うと、好悪の感覚である。ブルデューは、価値規範から社会を説明するのではなく、無意識の身体化された感覚や習慣=ハビトゥスから社会を説明しようとした。

 しかし、これは日本社会に当てはまるだろうか?
  ポストモダン社会では、社会階級あるいは社会階層が消滅していくと言われている。文化的再生産という社会装置が消滅化していくのがポストモダン社会の定義である。偶然性の高い社会内移動が自由である流動的な社会の到来である。昔に比べ、親の社会階層に子供が規定されるという現象=文化的再生産は弱まってきているというデータもある。
 ブルデューのように社会を必然の相で観察する方法が通用しない社会になりつつあるのではと考えられる。武士の子は武士、百姓の子は百姓という時代には適合的であるが、ポストモダン社会では社会的宿業論は通用しなくなっている。
 ブルデュー社会学は、前期近代社会までは有効であるが、社会階層が希薄な社会の観察方法としては不適合である。皮肉なことに、ブルデューの得意とする統計的調査でもって、日本社会における社会階層の希薄化が実証されてきている。社会階層が消滅すればするほど、統計的な調査は、価値が薄れてくるのである。統計調査は社会が固定的で必然な場合のみ有効である。
 社会は必然性に支配されていた前期近代社会から、統計調査を無効化してしまう偶然性に支配されたポストモダン社会=成熟社会に変わったのである。この変化に一番敏感なのが、ルーマンや宮台学派なのである。今やハビトゥスの機能停止の社会となりつつあるのである。 

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by merca | 2009-10-05 22:17 | 社会分析
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