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科学が扱えない領域について

 何でも科学の対象にできると考えている方がおられるので、ここで釘を刺しておきたい。もし森羅万象を科学は対象とすることが可能であると考えるのなら、それこそ科学万能主義と言われるものになってしまう。科学は、自己の限界設定ができてはじめてその意味を獲得する。
 基本的に、反証可能性のない対象については、科学の対象ではない。従って、「神は存在する」や「死後も霊魂は存在する」という反証不可能な命題にかかわる対象については、科学の外にある。神や霊魂は、科学の対象外であり、科学的に扱うこと自体がナンセンスなのである。

 社会学では、世界の根源的偶然性については、科学の対象外であり、宗教のみが処理することが可能だと考える。世界の根源的偶然性とは、例えばこういうことである。交通事故にあってある人間が死んだとする。死亡の原因は科学的(医学的)には説明がつく。しかし、なぜこの人だけがたまたま交通事故にあって死なないといけないのかという原因はなく、偶然だとしかいいようがない。
 また、なぜ私は奴隷の身分で生まれてきたのだろうかと思う人がいたとする。しかし、その原因はなく、偶然としか言いようがない。この偶然性は、反証不可能であり、科学の扱うべき対象ではない。
 また、熱量の法則や質量保存の法則など、自然科学が発見した法則があるが、その法則自体が存在すること自体は原因がなく、偶然である。
 
 社会や人間は、このような世界の偶然性を未処理のままにしておくことができず、何らかの解釈や物語をつくりだす。それが宗教である。輪廻転生や神の存在である。そして、人間はその物語を生きることで意味を獲得するし、それが多くの人々に共有され、実践されている時、ある種の社会的リアリティが生ずる。例えば、近代の物語である人権も一つの虚構物語であるが、人権があることを前提にして法秩序が成立って社会が回るわけである。
 このように、そもそも物語である宗教に対して、科学が真理の一致説に基づき、物語の内容に関して真偽を判断するのは、はなからおかしいのである。物語に対して物理的リアリティを求めるのはカテゴリーの混同である。
 科学は世界の偶然性を対象とできないし、処理できない。科学は世界の偶然性を対象とした途端に、ニセ科学となり、宗教化してしまうのである。科学が宗教の教義内容の真偽について語ることは本来できないのである。
 
 参考
「社会学入門一歩前」書評
 
★社会学者・若林幹夫の「社会学入門一歩前」を読まれたい。同氏の考えは、社会学の徒がおおよそ共有している見解であり、当エントリーを理解するのに役立つと思われる。自然科学を修めた方にも理解できる良書である。

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by merca | 2009-10-18 22:42
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