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貧困・犯罪の自己責任論と社会責任論は同根である。

 貧困や犯罪が自己責任に帰着する現象であったとしても、ホームレスや犯罪者が貧困や再犯に陥らないように支援することは十分に正当化される。
 しかし、新自由主義者等は、自己責任だから個人で何とかすべきであり、国家や市民からの社会的援助を受けるのは道徳的に間違いであるという発想をとる。反対に、自己責任論神話からホームレスや犯罪者を守るために、社会責任説をとり、ホームレスや犯罪者を社会的弱者・社会的犠牲者として捉え、道徳的正当性を担保しようとする者もいる。それが、湯浅氏や浜井氏である。これは、知識社会学的には、戦後の左翼思想と同根の道徳観に基づいている。社会的弱者・社会的犠牲者は守るべきであるという道徳観である。
 ところが、皮肉なことに、湯浅氏や浜井氏のように貧困と犯罪の自己責任説を論破しようとする論客たちは、(自己責任=個人責任/自己責任でない=社会責任)という区別に準拠して議論し、社会責任という項をマークし、自己責任論者を否定しようとすることで、自ずとその反対者と同一の地平にいることになってしまうのである。ここが盲点となる。
 つまり、自己責任論者も社会責任論者も、(自己責任/自己責任でない)という同じ区別に準拠している。マークする項は反対でも、同じ区別に準拠して議論している限り、反対者を逆に再生産してしまうのである。社会責任と自己責任の二項対立図式に準拠している限り、対立的に互いの存在を必要としてしまうのである。このような区別の論理は、あらゆる差別解放運動につきものである。女性の人権を強調するあまり、逆に男女の区別を強化してしまい、差別解放運動が逆に敵をつくりだしてしまうことはよくある。ニセ科学批判者が(科学/ニセ科学)の区別に拘泥するあまり、ニセ科学批判批判者などの敵をつくりだすのと同じである。
 システム論的には、対立二項図式に準拠する全ての社会運動は、自らが敵を作り出し、永久闘争に陥るのである。このような不毛な対立から抜け出すためには、現象を別の区別から観察する他ない。 

  話をもとにもどすと、貧困と犯罪は(自己責任/社会責任)という区別だけで一元的に観察するのではなく、貧困については(生産性をあげる/生産性をさげる)という区別で観察し、犯罪については(治安改善/治安悪化)という区別で観察することで、脱パラドックス化が図られると考えられる。
 国民社会全体が豊かになるために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会はホームレスの社会復帰を支援することになる。また、国民社会全体の治安を良くするために、自己責任か社会責任かに関係なく、社会は犯罪者の更生を支援することになる。
 にもかかわらず、自己責任だから支援すべきでないとか、社会責任だから支援を受けて当然だとかという議論が、ブロガーのうちでも広がりすぎている。この議論のために、かえって貧困と犯罪の問題が責任の所在という道徳の問題にすり替わっているのである。
 湯浅氏をはじめとする多くのホームレス支援団体の人たちが、一般大衆が自己責任論という物語でホームレスを評価することに対して反発し、貧困の社会責任を強調すればするほど、責任という道徳の問題にとなり、敵をつくることになるのである。いやむしろ、社会的弱者・社会的犠牲者のみを援助すべきであるという単純な道徳を一般大衆も活動家も共に共有しているのである。批判する相手は自己と同じ道徳観であるのに、それに気づいていないのである。
 
 社会的弱者・社会的犠牲者であろうがなかろうが、貧困と犯罪は国家が処理しなければならない課題である。責任があるないの問題ではなく、社会政策として貧困と犯罪の問題を処理するシステム論的思考が必要かと思われるのである。
 社会的弱者・社会的犠牲者のみが援助を受ける道徳的正当性や権利があるとする戦後左翼的な道徳観を活動の動機付けとする活動家は、(自己責任/社会責任)という区別の再生産し続けるのである。
 一般大衆や活動家の弱者保護という通俗道徳とは関係なく、治安を維持するために、社会的弱者・社会的犠牲者でない多くの犯罪者に対しても、更生のために社会的援助を受けさせるべきであり、同様にして、社会の生産性向上のためには、怠け癖の自己責任でホームレスやニートになった人間に対しても、国家が社会復帰を援助すべきなのである。

 逆説的であるが、社会学的には、貧困と犯罪の自己責任論と社会責任論は、社会的弱者保護の道徳観という同一の源をもつのである。

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by merca | 2009-12-27 18:56 | 社会分析
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