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作動一元論批判 システム論に伴う論難

 システムは作動している時のみ、実在し、停止している時は、消滅する。そして、作動と停止を繰り返す。意識システムにあてはめると、これはわかりやすい。起きている時は作動し、睡眠している時は停止する。社会システムも、コミュニケーションが連接している間は作動しているが、コミュニケーションが途絶えると停止し、消滅する。
 問題は、停止しいてる時も完全無に帰したと断ずることはできないことである。むしろ、停止中こそポイントである。停止中の周囲の状況こそが次の作動の条件をつくるからである。停止中にシステム作動条件が確保されていないと、システムは作動しない。例えば、生命システムと脳神経システムが作動している条件でのみ、意識システムは、作動と停止を繰り返すことが可能となる。また、社会システムは、複数の意識システムが作動しているという条件でのみ、作動と停止が可能となる。
 
作動と停止の区別があって、はじめてシステムは真実在する。このことは、作動一元論=創発論的社会観の欠点と限界をしめしている。
ルーマンのシステム論は、作動一元論であると批判されることがよくある。つまり、システムが創発された時のみ、システムたりうるという考えである。しかし、作動一元論だけでは、社会現象の拘束性・規則性は説明できない。作動一元論だけでは、社会は完全な偶然性としてしか観察できず、社会現象の拘束性・規則性=蓋然性は観察できない。
 
 実は、選択という概念に、この問題を解く鍵がある。コミュニケーションは相互選択である。他者からの情報を理解する際に、多くの観察コードから一つの観察コードを選択して理解し、コミュニケーションを連接させていく。選択された観察コードは顕在化し、選択されなかったコードは温存される。システムが作動すると、選択されなかった状態と選択された状態の区別が生ずることになる。何を選択するかは偶然ではあるが、実は選択肢の数が限定されていることが、社会の規則性・拘束性の起源である。
 つまり、意識システムが所有する選択コードの数は限定されているのである。もっと簡単に言えば、個人が所有する概念や価値観は限られているのである。限られた選択肢から、個人は行為を選択し、他者に対してコミュニケートし、他者も限られた選択肢から理解してコミュケートし返すのである。自他が共有している限定された選択肢こそが、社会の規則性・拘束性をもたらし、秩序を生成するのである。この限定された選択肢は、共同主観と呼ばれるものである。無限の選択肢は神のみがもつが、社会的人間には有限な選択肢しか与えられていないのである。ただ、限定された範囲での選択肢から、どの選択肢を選択するかは、自由であり、偶然である。必然の中の偶然こそが蓋然性と呼ばれる事態なのである。

 作動一元論からは、選択肢の温存という発想は出てこない。むしろ、作動が可能になるのは、停止中に可能態として選択に必要な選択肢が温存されているという条件である。社会システムが停止中に、複数の意識システムに選択肢が所有されていないと、そもそも社会システムの起動はありえないのである。作動は停止を前提とし、停止は作動を前提としているのである。

 コミュニケーションが何でもありになり、予期理論だけでは、社会秩序の生成を説明することができないというシステム論に対する論難は、意識システムに所有されているゼマンティクが限定されていることで説明がつくのである。

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by merca | 2010-05-08 10:54 | 理論
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