統計より凶悪犯罪に共感する若者の感性こそ事実 

 統計上、少年の凶悪犯罪は減っているという理屈から、少年の脱社会化現象をマスコミのつくりだした虚構として指摘する論客やブロガーが多くいるが、そういう人たちは統計信仰に騙されているのである。統計=事実だと思い込んでいることは、非常に危険で短絡的な思考である。まずは、統計そのものを疑ってない点が短絡的である。統計は、直接体験したものではなく、間接的な情報であり、本当かどうかは、統計調査を担当した社会調査の専門家にしかわからない。統計を安易に信じるブロガーたちは、政府の統計担当者=官僚を短絡的に信じているわけである。自分の目で見て感じた現象と統計がマッチングしている時のみ、統計はリアルである言えよう。統計信者たちは、マスコミ報道をたたく反面、官僚に煽動されやすいのである。
 
 実は、社会病理学的には、サカキバラ事件や秋葉原無差別殺人などの凶悪犯罪者に対して、多くの若者たちが共感したことこそが注目に値するのである。凶悪犯罪者を英雄化する若者たちも現れたりした。自己の自尊心のためには、殺人をしてもいいという脱社会性感覚に共感し、それを公言することも恥ずかしいと思わない一部の若者の登場こそが、底の抜け社会における社会病理現象なのである。
 
 一部の若者が凶悪犯罪者に共感したこと、それは若者の中に脱社会性感覚がある証拠であり、数字よりも明らかに確かなのである。何よりも、若者自身の直接的判断であるから、それ以上に確かなものはないと言えよう。若者それ自体が感じる感覚であり、若者の内面的真実そのものである。統計のように表面的で間接的な数的虚構ではない。さらに、若者が脱社会性感覚をもったからといって、すぐに行動化して犯罪し、統計にあがってくると思い込み、統計こそが社会をあらわす絶対的指標だと思い込む人たちほど、浅学の者たちはいない。脱社会性感覚に共感する若者が全て実際に凶悪犯罪をすると考えてはならない。犯罪に対する刑罰で自由を奪われるのが損なので、本当に凶悪犯罪などするものはほとんどいないのである。このような人間の損得勘定の行動原理を無視して、少年の凶悪犯罪の数のみで判断する統計信者ほど、短絡的で愚かな者はいない。反社会学講座で簡単に騙される読者に多いタイプである。
 問題なのは、何度も繰り返すが、そのような殺人をしてもいいという感性の持ち主が裁判員として適切な道徳判断を下すことができるかどうかである。

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by merca | 2010-07-03 09:51 | Comments(14)
Commented by dankkochiku at 2010-07-03 11:58
Commented by dankkochiku at 2010-07-03 11:45 x
お久しぶりです。 凶悪犯だろうと万引き程度の犯罪だろうと、それをマスコミなどで知り、内心、自分では、やりたくてもできなかったことを犯人が代わってやってくれたことに共鳴する人は多いのでは? そのくせ、犯人へ厳罰を求め、自分がいかにも正義の士で、犯罪者とは異人格者かのように装い、内心に抱いた罪悪感を払拭しようとするのでは? となると、犯罪報道は、ストレス社会の清涼剤とは、言い過ぎでしょうか。
Commented by merca at 2010-07-11 10:26
dankkochikuさん お返事おくれましてすみませんでした。論宅です。
 マートンの機能主義的社会学では、潜在的機能という考え方があります。ある社会現象が人々の意図せざるかたちで社会のために機能していることがあるという考えです。その観点からすると、dankkochikuさんのおっしゃる犯罪報道のストレス発散機能は十分あり得ると思います。
 凶悪犯罪に共感して管理社会のストレスを発散すること、逆に犯罪報道における犯罪者に道徳的非難を浴びせることで道徳感情を満たすことなどです。犯罪社会学者の大村英昭氏などは、凶悪犯罪の報道が道徳の境界線を明確化する機能があると指摘しています。
 どちらも、社会秩序を維持するかたちで機能していることがポイントです。社会学は、犯罪や貧困が必ずしも社会にとって有害であるという単純な立場に立っていません。デュルケーム曰く、一定数の犯罪は社会学が健康であるという証拠である。また、一定数の貧困も社会が健康である証拠です。
Commented by at 2010-07-11 18:22 x
「犯人に共鳴凶=悪犯罪者を英雄化」する若者について、論宅さんのご意見からすればちょっと的外れ的な私的意見かもしれませんが、私としては社会に何か憤懣があるなら、社会を改正するという意味でもなぜ犯罪(憤懣の解消=社会への復讐)に手をそめたりせずに有権者としてちゃんと一票を投じ、社会の問題点を解消しようと思わないのか?とも思いたくなります。選挙は国民が人間らしく生きるための国民の責務であり、未来への希望です。未来に続く道です。しかし、大人も信用できなければ社会も信用できない、ひいては選挙という仕組みも信用出来ない、そうした孤立した人間にとっては、時に犯罪という血塗られた行為が唯一の合法的な解消の糸口と映ってしまいかねません。私には、「犯罪への共感」という現象には、上記の様なやるせなさや絶望感が広く若者に共有された心理的背景としてまず第一にあると思います。かくいう私も、秋葉原無差別殺人については、「ああいう凶悪犯は即刻死刑にせよ」といった憤慨が湧き上がるというよりも、犯人に対する同情心が強く喚起されたのです。
Commented by ama at 2010-07-11 18:59 x
はじめまして。少々質問させてください。

脱社会性感覚を恥じない若者は、最近になって登場してきたのでしょうか。

実際は昔からそういった若者は存在しており、単に公言しやすい環境になって我々が見聞きする機会が増えただけ、とは考えられないでしょうか。

最近になって上記性質の若者が登場(増加)した、という根拠があれば教えていただきたいです。
Commented by merca at 2010-07-12 01:24
amaさん 論宅です。
これに関しては、極めて単純に答えることができます。
 昔の若者とは今の大人です。昔の若者である今の大人たちは、サカキバラ事件のような凶悪犯罪に対して、理解できない異様な行為と見なし、道徳的な若者バッシングのほうに走りました。昔の若者である大人は、凶悪犯罪に共感せず、凶悪犯罪をする脱社会的な若者を批判・否定しています。
 大人たちは、道徳の退廃を嘆いています。これは、今大人である昔の若者たちがいかに道徳的であり、凶悪犯罪に共感しない人間が多いかをあらわしています。逆説的ですが、この点については、後藤氏の俗流若者論批判において、大人=オヤジによる若者バッシングがいくつもあげらています。
Commented by merca at 2010-07-19 09:34
皮肉なことに、後藤氏が見つけ出した今の大人が道徳的に若者を非難している事実そのものが、昔の若者は道徳的であったことを実証してしまうことになります。もし、昔の若者も凶悪犯罪に共感する者が多かったとすると、今の大人の多くが若者の凶悪犯罪に共感するはずですが、全くその気配がありません。後藤氏が言うように、確かに現代の大人は若者の凶悪犯罪に共感せず、若者を道徳的にバッシングしています。つまり、道徳的観点にこだわって現代の若者を批判する今大人である昔の若者たち=旧世代の人たちは極めて道徳的であり、脱社会的ではないことになります。従って、昔よりも今の若者のほうが脱社会的なものに共感していると言えます。

Commented by E at 2010-07-29 00:56 x
初めまして。

現代の「凶悪犯罪者に共感した“一部の”若者」と、「若者をバッシングする現代の大人(=昔の若者)」とを対比して世代論に繋げる論理展開がよく分からないのですが、どういう理屈なんでしょうか?
つまり、「一部の若者が凶悪犯罪者に共感したこと」を、一般に「若者の中に脱社会性感覚がある証拠」であると見なせる理由が、いまひとつ分からないということです。
この点、ご教授いただけると幸いです。
Commented by merca at 2010-07-29 02:43
 現代の若者の全てが脱社会性感覚があるとは主張していないはずです。中には、道徳的な若者も存在するでしょう。
 ただし、「若者をバッシングする現代の大人(=昔の若者)」たちは、その一部の若者の非道徳的感性を若者全てに一般化してバッシングします。つまり、凶悪犯罪に共感するような非道徳的な若者が存在すること自体が自分たちの世代の価値観からは考えられないほどのカルチャーショックだからなんです。このように大人たちに心理学でいう過度の一般化という心的反応や認知の歪みが起こること自体が、大人たちが極めて道徳的であるという証拠になります。世代論的には意義がある道徳的ヒステリーです。
 一方、一部の凶悪犯罪に共感する脱社会的な若者に対して、同世代の若者たちは、大人が起こすような道徳的ヒステリーを起こしていません。つまり、許容的です。殺人鬼をなくそうという運動をする若者はいません。
Commented by merca at 2010-07-29 03:09
 少年の凶悪犯罪やそれに共感する一部の若者の脱社会的な感性について、現代の若者たちが、大人のように道徳的批判や道徳的ヒステリーを起こさず、許容的であるのは、絶対的確信をもって殺人が悪であるという道徳的根拠を示すことができないからです。
 非道徳的な若者に殺人をするなと価値観を押し付けることのできる理論的自信をもつ道徳的な若者がいたら教えて下さい。
 いるとしたら、絶対的真理が存在すると信じている新興宗教(殺人禁止の教義のある宗教)の若者たちだけだと思います。彼らのみが他の若者と違って、自己の道徳観や価値観を他人に押し付ける絶対的な道徳規範をもっています。
 宮台のいう底の抜けた社会=ポストモダン社会とは、絶対的な善悪の基準は存在せず、究極的に他者に殺人禁止も内面的に強制できないという考えをもつ人たちが増えている社会です。自分は殺人は嫌だけれども、理論的に他者に殺人禁止の価値観を押し付けることはできないと考えているから、現代の若者は大人よりも凶悪犯罪に対して道徳的に許容的になっていると思います。
Commented by E at 2010-07-29 16:23 x
お答えありがとうございました。
脱社会性感覚に関しては、現代の若者を一般化する意図はないわけですね。

なお、ある種の凶悪犯罪に大して許容的な者をヒステリックに攻撃する若者なら、ホットな凶悪犯罪を扱ったニュース記事や大型ブログのコメント欄にでも出向けば、いくらでも見られるかと思います。ただし、道徳観を押し付けるというより、社会的排除を唱えるスタンスが主なので、道徳的ヒステリーというより、まさに「底が抜けた社会」的だと言うべきでしょうか。
Commented by クリシェ at 2010-08-01 07:26 x
 お説を拝見して疑問に思った点についてご質問させていただきます。
 確かに犯罪統計には暗数が付き物ですし、取り締まり方針の転換や法律の改正といった事情によってバイアスがかかるので、統計上の数字と実際の治安が完全にリンクするとは言えないと思いますが、しかし統計が有用なのは体感と一致した時のみという主張には全く賛同できません。もしそうであれば世の科学分野に実験というものは不必要ではないでしょうか? 実験の前には仮説を立てますが、お説によらば実験結果について仮説を裏打ちするようなもの以外は不要なデータとして捨象するということになり、これは大変に非社会学的な態度であると感じます。そういった読解は本意ではないのでしょうか? それとも私のうがちすぎなのでしょうか?
Commented by merca at 2010-08-01 20:57
極めて自然科学的な発想であり、かえって非社会学的です。社会が自然科学の対象のように固定的・実体的に存在するという前提ならば、仮説を実験するという自然科学的方法も通用するかもしれませんが、社会という対象はそのようには構成されません。
 人々が共有する主観的な意識=集合表象に基づいて行為し、その結果、社会が創発するという社会学上の原理に反するからです。体感治安=人々が思うところの社会の在り方=集合表象が、人々の行為を方向付け、社会をつくるわけです。統計はかえってそれの材料・手段以外の意味を持ちません。人々の共有する社会観念に合致しない統計的事実は、社会の外にある観察点からの情報であり、それを人々が採用した時のみにおいて、社会的な事実を構成すると考えます。
 社会に関する科学的統計は、人々の価値基準によって選択的に採用され、社会をつくるために利用されるものであり、決してその逆ではありません。社会に対する統計そのものは社会そのものではあり得ず、人々が社会観として採用したときのみ、社会的事実となります。
Commented by merca at 2010-08-01 20:57
さらに、裏打ちされていない仮説であっても、人々の意識が変わり、人々が採用しだすと、社会的事実として構成されます。仮説が人々の意識を変えるという側面も社会学では重要です。予言の自己成就です。従って、全ての仮説(思想も含む)は潜在的に人々の社会観を構成する可能性は否定できませんから、ある意味、価値があります。
Commented by ソシオフィリア at 2010-08-06 22:02 x
はじめまして。

「脱社会」「反社会」すら超越した「非社会派」とでも呼ぶべきブロガーが存在します
http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006
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