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社会妄想=マルクス主義による犯罪行為

 社会心理学者エリクソンによれば、近代社会においては、ちょうど大学生くらいになると、自我同一性=アイデンティティを確立することが発達課題となるらしい。職業社会に出るためには、若者は自分が何であるかを確立することが求められるわけである。
 その際に自我を統合するツールとして、思想は機能する。自我観念は、それを取り巻く世界観とセットになっており、若者は一定の確立した世界観を提供する思想に飛びつくことになる。新興宗教が大学生を狙って勧誘するのはこのためである。
 宗教でなくても、社会思想や政治思想も、青年期の若者の自我同一性を支える世界観を提供する。このようなエリクソンの近代社会における自我の発達段階理論こそが、あの過激な全共闘学生運動の意味を説明してくれる。要するに、全共闘の学生たちは、自我を確立するために、マルクス主義という物語に飛びついたのである。さらに、それが反体制的思想であったがために、親=社会に対する反抗期としても機能したのである。しかし、不幸なことにマルクス主義は、近代社会=資本主義社会に適合的な思想でないために、多くの若者はそれに埋没するほど犯罪行為に至り、社会不適応に至った。過激化し、カルト化していったのである。
 
 全共闘学生運動は、革命のためと言いつつも、結局、社会学的に分析すると、自我の確立という若者の利己的な動機をもととする活動にしかすぎなかったのである。それはともかく、当時、マルクス理論が実証的根拠を欠く非科学的ものであることを気づいていた学生はほとんどいなかった。
 当時の日本社会は、資本家によって搾取されて貧困が日常化しているどころか、高度経済成長期に入り、豊かになっていた時期である。むしろ、学生運動の大学生は、学歴社会の勝者であり、貧困とは無縁な存在である。低所得層のブルーワーカーになったヤンキー系の若者たちからみたら豊かなのである。頭もいいはずなのに、経済や労働状況などに関する戦後からの社会統計に目を通さず、一気に観念的なマルクス主義思想が真実だと勘違いし、飛びついたのである。自身の家庭が資本家に搾取されて貧乏だったという実感体験からマルクス主義を支持した大学生などいなかったのである。社会統計による事実も無視し、体感的な貧困感覚にも根付かず、知的な若者が自己の自我同一性を統合してくれる絶対的真理を求めて、マルクス主義に走り、全共闘運動に走ったのである。
 
 若者たちは、社会統計的事実からも体感事実からも遊離した反科学的な思想=ウソであるマルクス主義に自我を託したのである。当時の学生の社会に対する妄想はすごい。教育問題、政治問題、家庭問題など全ての社会問題を資本主義社会の問題にしようとする認識の歪みが認められる。共産主義革命が起これば、全ての社会問題が解決されると考えていた。そして、全世界が共産主義革命が起こりつつあり、日本社会でも起こると考えていた。そして、有名大学の知的な若者が、強盗や暴力や殺人などの犯罪行為に手を染めていった。思想のために殺人を平気でするのである。
 命よりも大切なものがあると小林よしのりは言っているが、戦後は、皮肉なことに左翼思想によってそれが体現されているのである。人の命よりも、自己の自我を支える思想の方が若者にとっては大切に思えたのである。

 とにかく、マルクス主義は、極めて、実証性を欠く反社会科学的思考であり、妄想である。こんな根拠レスな社会妄想を打ち砕いてくれるエビデンス厨もいなかった。もし当時、俗流若者論批判者である後藤氏のような統計的事実主義者がいたら、面白かったことだろうに。連合赤軍の社会妄想を後藤氏なら見事に打ち砕くであろう。統計的にはマルクス主義は間違いということで、全共闘の学生たちの自我を一撃で粉砕したことであろう。「あんたら自分で社会調査して調べたのか?資本主義に原因があるという実証的証拠を見せてみなさい」というだけで、論破できるのである。
 もしそんな科学主義者たちがいたら、社会妄想から若者を解放し、連合赤軍の殺人行為も防げたかもしれない。マルクス主義というつまらぬ社会妄想のために、いじめを受けて死んでいった人たちは可哀想である。若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」に描写されているとおりである。一度、見てみたらわかると思う。思想のために人を十二人殺している。
 
 とにかく、全共闘の学生たちは、マルクス主義理論による認識が事実であると勘違いし、物語として相対化できなかったのである。自身の思想を事実として絶対化し、それに従わぬ者に暴力的制裁を加えたのである。当時は、前期近代社会であり、物語を物語として相対化し、自己選択していく器用さがなかったのである。ウソだとわかりつつも、あえて選択するという成熟社会の意識ではなく、マルクス主義が不変の絶対的真理であるという感覚で受容していたところに問題があるのである。当時の若者たちは、動かぬ社会という感覚をもっており、社会を実体視していたのである。彼らは、社会がその都度生ずる空なるものであるという妙理=創発論的社会観を知らなかったのである。

 今、反貧困運動も学生運動家を育成しつつある。社会が悪い、という思考形態は、マルクス主義と同型であり、少し注意しておく必要がある。なんでも社会問題にしてしまう思考形態は、すぐに共産主義と結合する傾向にある。反貧困運動に参加する若者たちに、貧困体感経験があるのなら、まだ健全であるが、知識の上での貧困しか認識していない一流大学の学生には、反貧困理論を思想として内面化して欲しくないものである。

 学生運動と機能的に等価なのが、ボランティア活動である。ボランティア活動は分野も色々とあるし、思想的強制はないので、安全である。ボランティア活動が発展することで、他者と関わり、自我を確立することが成熟社会には適合的な在り方なのである。

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by merca | 2010-11-14 21:30 | 社会分析
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