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俗流若者論としての「絶望の国の幸福な若者たち」書評

 社会学者古市憲寿が「絶望の国の幸福な若者たち」という若者論を出版した。早速、自費で購入して読んだ。古市自身も20代の若者であるので、これは若者による若者論である。近年、後藤和智が、オヤジ世代による科学的根拠のない若者論を批判し、俗流若者論批判というジャンルを確立したのはよく知られているところである。俗流若者論批判は、ニセ科学批判と並ぶ思想上の発明品である。
 実は、古市氏による若者論も、俗流若者論として観察できる。俗流若者論は、中高年によるものだけではなく、若者によるものも含むのである。
 
 まず、「絶望の国の幸福な若者たち」で言わんとすることは、全体社会たる国民社会の行末がどうであれ、若者たちがコンサマトリー化しており、終わりなき日常である等身大の日常生活空間で承認を得ることで満足しているということである。従って、小林よしのりが国家存亡の危機感を煽ろうが、経済評論家が国家の経済破綻を叫ぼうが、将来大震災が起ろうが、全く今の日常を生きる若者にとっては、全て未来のことであり、若者の幸福感に何ら関係のないことになるのである。
 要するに、古市氏は、(生産/消費)(意味/強度)(将来のために今を耐え忍ぶ/今が楽しければいい)という区別に基づいて観察している。これは、宮台氏の「まったり革命」と全く同じ観察点=区別に準拠した若者論であるということである。
 
 中高年世代である宮台氏の観察点を採用しているのであり、とても若者による若者論とは思えない。社会学を勉強することで自ずと、宮台氏の区別に準拠し、それを採用してしまっているのである。後藤和智は、俗流若者論として宮台氏の成熟社会論を厳しく批判するが、同じ区別に準拠している以上、古市氏の若者論も俗流若者論となってしまうだろう。若者の視点ではなく、宮台氏という前世代の中高年の視点から若者を観察しているのである。
 たとえ、生産ではなく消費、意味ではなく強度、将来のために耐え忍ぶではなく今が楽しければいいという適応形式を肯定するにしても、この区別に準拠するかぎり、古い世代のものの見方だと言わざるを得ない。
 
 さて、これらの区別ではもはや社会や若者は捉えきれない。意味や目的にとらわれず、終わりなき日常をまったりと生きることが成熟社会に適合的な生き方であると主張した「まったり革命」なるものが挫折したことはあまりにも有名である。社会の過剰流動性の中で、まったり革命の希望の星であったコギャルたちがリストカットやメンタル系に走り、決して自身の承認不足感を埋めることができなかった現実が見落とされている。近代社会の人間は、今が楽しければそれでいいという生き方だけでは、破綻するのである。幸福な生を営むには、最低限の自身を保証する安定的なものが必要なのである。
 
 また、同著においては、若者の震災ボランティアについて、若者の自分探しや自己承認という解釈をしており、これも一つの俗流若者論である。所詮、若者のボランティアは自分探しや自己承認の域をでない利己的なものであるという俗説に基づいている。若者による義援金や献血が自分探しや自己承認と関係あるのだろうかと思う。義援金や献血に自分探しや自己承認の機能があるとは到底思われない。
 震災ボランティアの本質は、若者であれ、中高年であれ、単純に、困っている人を見て助けたいという倫理性であって、それを自分探しだの、承認のためだとかいうのは、事実ではなく、外的視点による解釈にしかすぎない。ある種のボランティアに自分探し機能や自己承認機能があることは結果であって、その動機ではない。震災ボランティアは、被災した人や街の姿や声があって、それを見て何とかしたいという感情が出発点である。他者の姿が最初にあり、自分は勘定の外にあるものである。古市氏が、自分探し・自己承認のためのボランティア活動というありがちな俗説に取り込まれたのは惜しいと言わざるを得ない。承認の共同体という一種の偏った視点から若者の行動を観察したために、他者性倫理というボランティアの本質を見誤ってしまっているのである。そして、ありがちな俗流若者論になっているのである。
 
 現代の若者の生き辛さを唱える論客も多くいる中、古市氏は若者は幸福だと信じている。「現代の若者が幸福である」という仮説については、内閣府の「国民生活に対する世論調査」という単純な統計を根拠にしているようであるが、幸福ほど推し量るのに難しい概念はない。
 拝金主義者は金があれば幸福だと答えるし、恋愛主義者は交際相手がいれば幸福だと答えるし、健康第一主義者は健康であれば、幸福だと答えるであろう。幸福感ほど相対的なものはない。社会科学的に若者論を語るのなら、若者の多くを占める幸福感の変遷を調査すべきであろう。例えば、社会が不況になっても、若者に家族主義者が多くいれば、家族で一緒に暮らせることで、幸福に感じるのである。若者が何に幸福を求めているかの実証的な調査が必要である。古市氏には、承認こそが若者の幸福を保証するものであるという信仰が認められる。全共闘時代には、承認ではなく、思想を求めた若者が多かった。これも時代とともに変わるのである。
 また、これは致命的であるが、社会情勢と個人の幸福に相関関係があるという信仰を前提にしてしまっている。個人の幸福は、社会が決めるのではなく、基本的には個人の個別的条件で個人が個別的に感じるものである。社会がよくなることが個人の幸福をもたらし、社会が悪くなることが個人の不幸をもたらすというのは、社会学者がもつ信仰=方法論的全体主義にしかすぎない。人の幸福・不幸は社会がつくるものであるという暗黙の前提に基づいているが、この前提を抜き取れば、全体社会が悪くなっても、個人の幸福とは関係なく、絶望の社会においても、個々の若者が幸福感を感じていても不思議ではないのである。絶望の国の若者が幸福だということへの驚きは驚きでも何でもなく、実のところ社会学を勉強したためにもった社会学信仰のフィルター(社会が人をつくる)に原因がある。

 俗流若者論批判者の後藤和智が、社会学者古市憲寿の「絶望の国の幸福な若者たち」にどのような評価を下すか非常に興味があるのである。これは私のみならず、多くのネット論客の注目するところであると思う。
 仮に「絶望の国の幸福な若者たち」の主張が事実でなかったとしても、同著に共感する若者が多く現れ、その生き方が若者たちにコミュニケートされ、規範化されていくようならば、もはや俗流若者論ではなく、社会思想として社会的リアリティを獲得するであろう。社会科学は社会思想として多くの人々に観察され採用された時にはじめてその社会的機能を全うするのである。私は、「絶望の国の幸福な若者たち」を俗流若者論として観察することで、それを防止する試みをしてみた次第である。

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by merca | 2011-09-18 22:50
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