ジグムンド・バウマンと言えば、液状的近代(リキッドモダニティ)というポストモダン社会論で有名である。しかし、社会学者中島道男は、著書「バウマン社会理論の射程」において、リキッドモダニティ論以前のバウマンの道徳論にこそ彼の思想の本質があると主張している。
まず、同著においては、バウマンの道徳論は、道徳の起源について、デュルケームの道徳社会学と全く反対の立場にあることを明確にしている。簡単に言えば、デュルケームは、道徳の起源を共同体に求めており、バウマンは他者(レヴィナスのいう)に求めているというわけである。また、中島氏は、この対比は、コミュ二タリア二ズムとリベラリズムの区別にも対応すると指摘している。ただし、デュルケームの道徳社会学がコミュ二タリア二ズムと対応するのはわかるが、レヴィナス流の他者論倫理学は単純にリベラリズムに対応しているとは言いがたい。リベラリズムは、共同体と離れた個人を単位とするものの、個人のエゴイズムと切り離せない概念であり、同じ個人でも、他者論倫理学の利他的な個人とは似ても似つかないからである。 このような概念の未整理はあるものの、中島氏のバウマン解釈は、社会学に関わる根本的なテーマを提示している。それは、共同体を離れた単独者どうしの顔と顔の関係が社会科学の領域に属するか哲学の領域に属すると考えるかという難問である。パーソンズやミードなどの通常の社会学の考え方からすると、道徳は、社会共同体の教育によって個人に内面化されるわけであり、道徳は社会によって異なるとする相対主義をとることになる。しかし、他者論倫理学の立場からすると、倫理や道徳は、社会共同体とは関係なく、顔としての個人と個人の非対称的かつ単独的な関係で生ずることになり、人類世界の普遍的な倫理が存在することになるのである。つまり、社会学の道徳論は相対主義であり、他者論倫理学は絶対主義である。倫理と道徳においては、社会学の相対主義が正しいのか、他者論倫理学の絶対主義が正しいのかという本質的テーマを投げかけてくるのである。果たして、普遍的かつ絶対的倫理が生ずる他者論倫理学の領域は、社会学の領域に入るのであろうか? このような疑問がわいてくるのである。 ちなみに、中島氏によれば、これと対応して、社会批判も二種類あるという。内在的社会批判と外在的社会批判である。内在的社会批判とは、社会共同体の歴史や伝統に照らし合わせて現代社会を批判する方法である。例えば、小林よしのりのように、日本には古来からの価値観や風習があり、現代日本社会はそこから外れており、正すべきという論法がそれである。この場合、他の共同体の歴史や伝統を基準にせず、あくまでも自己の所属する共同体の歴史と伝統を基準にすることになる。従って、道徳も、日本、アメリカ、中国、韓国、アフリカでは異なってくることになり、文化相対主義となる。保守主義者は本来相対主義者なのである。西部邁がその典型である。 一方、外在的社会批判とは、共同体を離れた普遍的な価値から社会を批判する立場である。例えば、自由と平等という人類に普遍的だと思われている価値に基づく人権思想や民主主義の立場から、独裁制国家の人民殺戮や搾取を批判する場合である。また、ブッダがカースト社会の階級差別を批判したのも、生命の平等という普遍的価値からである。 中島氏が提唱するこの二つの社会批判の区別は、思想地図をつくる上でもっとも有効な手段となると思われる。 話はそれたが、他者論倫理学は、共同体の歴史や伝統とは無縁であり、単独者どうしの関係において、普遍的に「汝殺すことなかれ」という倫理が生ずるという考えである。バウマンは、この立場に立ち、ナチスドイツのホロコーストを批判した。近代官僚制が、顔と顔の関係を隠蔽することで、個人の責任感覚や倫理観を希薄化させ、ユダヤ人虐殺を可能にしたというのである。社会学が現代社会を批判する「公共哲学としての社会学」を目指すのなら、文化相対主義に基づく内在的社会批判だけでいいのかという問題が出てくる。これは大きな問題である。 この問題は、人間存在の二重性とも関わってくる。人間は、役割を持つ共同体的存在であると同時に、世界に一つしかいない単独者でもある。「私は教師である」という判断においては、「私」は単独者であり、「教師」は共同体内の役割である。レヴィナス流に言えば、役割存在は「他者とともにあること」に対応し、単独者は「他者のためにあること」に対応している。前者は他者とともに共同体を維持してく側面であり、後者は共同体とは関係なく、他者に関わっていることを示している。 ポイントは、単独者は独我でなく、かえって他者との関係によって成り立つ倫理的主体だということである。他者から呼びかけられたら、他の誰でもなく、この私に呼びかけられており、その他者に返事するかしないか選択を迫られることになり、そこに世界に一つしかない私という存在が意識されることになる。「私は私である」という判断は、他者からの呼びかけによって可能となるわけである。独我では、私は成り立たないのである。一方、「私は教師である」という判断は、私の判断ではなく、共同体の判断によって可能となる。 このような絶対主語と述語の連結こそが人間存在の二重性を意味しており、実は社会生成の根本的条件をなしている。ちなみに、「私は教師である」という判断をしても、実際に教師としての役割を演じなければ社会共同体は生成しない。個人には演じることをしない選択の自由があるからである。これを自己選択性という。そして、他者の自己選択性は自己にとっての他者性として立ち現れる。 問題は、この二つの側面が矛盾対立するものであるかどうかである。現代の社会学理論の構築に成功するかどうかは、この二つの側面をうまく取り入れることができるかどうかにかかっている。 実は、パーソンズですら、規範主義パラダイムに準拠しながらも、ダブルコンテンジェンシーというかたちで他者の偶然性を取り入れている。ルーマンは、社会システムの要素を個人ではなくコミュニケーションにすることで、この問題を処理している。ゴフマンは、役割距離という概念で個人と役割の差異を描いた。 現代社会学では、「私は教師である」という判断と役割遂行は、役割概念を適用する具体的な他者の判断や自己の選択にも委ねられており、コミュ二タリア二ズムが言うような自動的で強固に安定したものではない。政治学、法学、経済学の出身の学者がよくコミュ二タリア二ズムと社会学を同一視しているが、コミュ二タア二ズムと社会学を同一視するのは間違いである。社会学は、共同体を記述するだけではなく、他者の偶然性や自己選択性を含む人間存在の二重性も理論に組み入れようとしているのである。共同体のロボットとして人間を捉えているわけではない。 ただし、単独者と単独者の関係を他者の偶然性や自己選択性というかたちではなく、倫理として捉え返し、共同体を越えた普遍的倫理として観察する社会学者はほとんどいない。中島氏が指摘するとおり、バウマンのみである。社会共同体の道徳は、その社会共同体の役割と地位の体系に付随する価値内容を観察すれば記述でき、その内容を明確化しやすい。一方、顔と顔の関係あるいは単独者と単独者の関係においては、どのような方法でその普遍的形式を記述したらいいのかわからず、明確な社会の倫理道徳として確立するのは困難かもしれない。しかし、何らかの普遍的な一定の形式構造があると考えるのなら、それを倫理として普遍化することで、内容をもつ人類の普遍の倫理道徳となると思われる。個と個の関係の論理的かつ普遍的構造は、ライプニッツのモナド論や仏教の事事無碍法界、ナンシーの無為の共同体など、形而上学的探求はなされているが、これを現実の社会構造を批判するために使用するのは見たことはない。 しかし、私見では、それは可能であり、共同体の道徳内容が顔と顔の普遍的な関係性に反する場合、それを批判するというかたちで、「公共哲学としての社会学」が成り立つのではないかと思われる。これは私が究極的に目指す立場である。ただし、それは自然科学的方法とは全く異なる。 ちなみに、この方法が確立すれば、倫理学や道徳学において、構造構成主義的発想はいらなくなる。社会学を悩ませてきた原理性相対主義はここに克服されるわけである。 人気blogランキングの他ブログも知的に面白いですよ。 人気blogランキングへ
by merca
| 2013-01-14 13:07
| 理論
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