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ヒュームの懐疑論は通用しない。

 デビット・ヒュームが、因果律は対象の側に内在する法則ではなく、人間の単なる習慣的な思い込みであると主張したことは有名である。所謂、ヒュームの懐疑論である。哲学や思想系の学徒なら誰でも学んでおり、よく知られている。
 ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、その後に起った現象を結果だと錯覚するわけである。本当に原因かどうかは確かめようがないというわけである。
 問題は、このヒュームの懐疑論からすると、因果律あるいは物理法則は、客観的に存在しないことになり、因果関係を探求する科学は全て虚構になるわけである。
 もし哲学者がヒュームの懐疑論でもって闇雲に科学者が見つけた科学的因果関係を否定したとしたら、科学者は怒るだろう。本当にヒュームの懐疑論は科学に勝利したのだろうか?
 
 ところが、実は、(外的視点/内的視点)という区別から観察すると、ヒュームの懐疑論は自然科学には通用しても、人間科学には通用しないことになる。例えば、人から押されて転倒した場合、倒れた当人の内的感覚からは押されて転倒したという因果関係は明確である。また、殴られて怒ったというケースでは、殴られたことで怒るという結果を引き起こしたという因果関係が当人の内的視点から確実である。さらに、他人が挨拶し、自分も挨拶したとしたら、礼儀作法に従って挨拶したという因果関係は当人に聞けばわかるのである。また、本が欲しいから店で本を買ったとかという目的手段関係による因果関係も聞くことで確認できる。このように、心理学や社会学のような人間行動や社会的行為を対象とする人間科学(社会科学も含めて)は、内的視点から理論を構成するために、全くヒュームの懐疑論は通用しない。
 
 ヒュームの懐疑論が通用するのは、外的視点から物体を観察する自然科学のみである。ビリヤードの前の玉が後ろの玉に衝突して動いた場合、衝突したから動いたのかどうかは後ろの玉に聞くことができないのである。人間には聞けるが玉には聞けないのである。
 このように、因果関係の確定は、内的視点をとる人間科学では確実であるが、外的視点をとる物理学では究極的に不確実である。人間科学の方が因果関係の究明については、自然科学よりも優れており、むしろ真理性は高いのである。人間科学には、実験やベイズ主義統計学に頼らなくても、観察や調査だけで因果関係の真理を確実に獲得できる利点があるのである。
 ともあれ、ヒュームの懐疑論は、限定付きであることを確認しておこう。

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by merca | 2013-07-15 22:03 | 理論
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