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千葉雅也の「切断論」よりもルーマンの「複雑性の縮減」の方が有効

 哲学者・千葉雅也が「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物を世に出した。日本のポストモダン思想の系譜でいうと、浅田彰の「構造と力」、東浩紀の「存在論的、郵便的」に続く大作であると騒がれており、注目されている。余談ではあるが、この人物が若手社会学者・古市憲寿と手を組むと、どうなるのか楽しみである。
 しかし、千葉氏が唱える「切断論」は大した思想ではない。接続過剰社会において、多数の関係に束縛され身動きが取れなくなることから解放されるために、自由に接続したり切断したりしながら生きようということに他ならない。言っていることは、おそらくノマド論と変わらない。
 
 千葉氏は、このような切断論を唱える思想的根拠をドゥルーズの哲学に求める。要約すると、ドゥルーズの哲学が、世界の連続的同一性(ホーリズム的関係主義)を唱えるベルグソンの生の哲学と世界の切断的原子論的世界観(無関係主義)を唱えるヒューム哲学の中間にあることを確認した上で、あえて切断の重要性を強調する。切断がなければ、個体の生成も他者性もなく、全てが一体化した世界に飲み込まれるというのである。最後に、神のモナドを抜いたモナドロジーこそがドゥルーズの哲学の究極的立場ではないかと類推しているように読め、千葉氏が唱える切断論の哲学的根拠をそこに定めている。
 かなり大雑把な要約で申し訳ないが、結局、思想的本質を述べるとかようになる。これ以上これ以下でもない。全体性や同一性を否定・批判する思想的傾向は全くポストモダン思想のそれであり、進歩はない。共同体や連帯性を主張する右翼思想や絶対主義を主張する左翼思想とは異なり、やはりポストモダン的である。
 ただし、これまでのポストモダン思想と少し異なる点は、切断論による関係主義批判を強調した点である。全てのものは差異関係の中にあり、実体がなく、相対的であるというポストモダンの関係主義から距離をとっている。全体性に準拠するツリーの関係のみならず、横の関係=リゾーム的関係も過剰ならば切断すべきだと論じている。全体性や共同体に包括されない単独的関係=非対称的関係も絶対化しないところに少し斬新さがある。現代社会が接続過剰であり、人々が身動きできなくなってしまっているという感覚があるのだろう。若者や老人の孤独化が問題視されるなか、逆に切断論は孤独化・原子化を勧める。接続可能な社会という言葉も流行っているが、その反対を主張している。

 千葉氏の切断論は、そもそも(接続/切断)という区別に準拠しているわけであるが、この区別に対して(全体/部分)と(現実態/可能態)という二つの区別から第二次観察していくことが可能である。
 例えば、あるものに全ての側面において接続しているのが嫌なだけであり、部分的に接続しているくらいなら接続を否定する必要はないかもしれない。何をするにも全てその人と一緒だと窮屈だが、部分的にある時間帯だけつき合うならかえってよいとも言える。全面接続による包括化は不自由だが、部分接続なら自由は確保できるのである。
 また、現実に接続している人、切断している人と、これから接続していく人、切断していく人を区別しておくことができる。全ての人との接続可能性と切断可能性を温存させておき、状況に応じて自己選択し、接続したり切断したりしていくことも可能である。
 このやり方は、ルーマン社会学における複雑性の縮減と同じである。各種のゼマンティクを使用し、あるものを接続するとともに、あるものを切断し、またその反対の可能性も温存していくのである。
 
 ルーマン社会学では、そもそも世界は無限の複雑性として前提されており、意識システムにとっては、接続過剰であるので、この複雑性を概念によって処理して縮減する。完全な切断や接続によって複雑性を処理するのではなく、部分的に接続・切断し処理する。現代成熟社会では、切断論に頼らなくても、社会システム論的には、コミュニケーションメディア(貨幣・権力・真理・愛など)によって接続過剰性は処理されているのである。
 千葉氏の切断論は、接続過剰社会における処方箋としては、単純すぎると言わざるを得ない。単につき合う人とそうでない人を整理しましょうみたいな話にしかならないだろう。あるいは過剰な対人関係から退却して無人島や山ごもりするという話にしかならない。そうではなく、社会システム論に基づく処方箋では、違うコードでコミュニケーションをして関わり方を変えることで、過剰な関係を縮減し無害化することも可能なのである。
 
 ともあれ、浅田彰の逃走論のように、千葉雅也の切断論も一つの思想として若者の価値観に採用され、生活スタイルに影響を与えていくか見ていきたい。切断論は、スローライフを重んじるメンタル系の若者やひきこもりには流行りそうな気がする次第である。

 余談
 ちなみに、ニセ科学批判者の視点からすると、おそらく「動きすぎてはいけない」(ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学)という書物は、科学的実証性を欠く、わけのわからない空想であると相手にされないであろう。社会調査もなしに社会を語るなという人もいるだろう。

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by merca | 2014-06-11 00:02 | 理論
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