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「かぐや姫の物語」評論「もし天人の音楽ではなく、カノンだったら」

 高畑監督の「かぐや姫の物語」のラストシーンにおいて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンがある。このシーンは、色々と話題になっているようである。特に、BGM 「天人の音楽」はあまりにも軽快で明るく優美であったために、違和感を感じる人も多かったようである。
 しかし、天人の音楽は、極めてスピリチュアルであり、この音楽でないと、この場面は成り立たない。かぐや姫の本心である地上界に止まりたいとする欲望は、あけっなく無慈悲に断たれる。優美で明るいにもかかわらず、この曲が怖いと感じた人たちも多くいるようである。それは、天人の世界とは涅槃=死を意味するからである。涅槃とは一切の煩悩のない境地である。高畑監督の描写でも分かるように、天人の世界は、苦悩のない平和な阿弥陀仏の極楽浄土と同じであり、出迎えの光景は阿弥陀二十五菩薩来迎図そのものである。
 死とは、自己の意思とは関係なく、そのように無慈悲に突然やってくるものである。死によって、人生は突然途切れる。地上でのかぐや姫の生も途切れ、この世における一切の記憶はなくなる。記憶がなくなることで一切の煩悩から解放される。この場面における天人の音楽が怖いと感じる人たちは、自己の生もいずれは死によって途切れるという恐怖からくる。
 しかし、一方で、涅槃への誘いとしての昇天は、全ての記憶を失いリセットされる感覚があり、何も考えず、一切から解放され、自由になった気分もする。実は、この昇天の儀式そのものが何度も繰り返されてきたような感覚に襲われる。この昇天の儀式そのものがとても懐かしい気がする。心地よさと懐かしさを感じるのは、私だけであろうか?
 それにしても、死に際して、全てを忘れて何も残さず地上から去ることができる人などいるであろうか? 多くの人たちは、煩悩を断ち切れず、幽霊として地上界に半ば止まり続けているような気がする。
 ともあれ、天人の音楽には、どんなことも全て忘れてリセットしようじゃないかみたいなスピリチュアルメッセージがある。かぐや姫の物語を見てこの曲が耳に残った人たちが多くいるようである。魂の深い部分と共鳴したものと考えられる。昇天の儀式の記憶である。皮肉な事であるが、地上の記憶は忘れてしまうが、逆に昇天の儀式の記憶は魂に刻まれているのである。
 
 さて、天人たちがかぐや姫を迎えにくるというシーンが、もし天人の音楽ではなく、神曲「パッヘルベルのカノン」だったらどうなるだろうか? カノンは、天から授かった人類史上最高のスピリチュアルな曲である。カノンは、一切肯定の曲である。記憶も含めて全てのこれまでの過去を肯定し、未来永劫に生きることを肯定する曲である。煩悩も肯定され昇華されていくことになる。これに対して、天人の音楽は、過去の生を無にするリセットの曲である。ある意味、対極にある。仏教的にいうと、阿弥陀経と法華経の違いである。
 あのシーンに、カノンを流すと、おそらく、かぐや姫の物語の意味が一変することになる。かぐや姫は自己の生を肯定し、煩悩の意味を転換し、昇天し、永遠の生命を生きることになる。
 そうすると、高畑監督が描こうとした物語のテーマを変えてしまうことになる。手塚治虫の火の鳥と同じになってしまう。カノンのスピリチュアルメッセージである「宇宙に存在するものには全て意味がある」が物語の意味を一変させてしまう。かぐや姫の物語から切なさが消えてしまうだろう。
 そうなると、かぐや姫が輪廻転生して再度地上界に生まれ、同じく来世でも夫婦になった竹取の翁のもとに子供として生まれないといけなくなっしまう。宇宙生命によって、がくや姫の煩悩は肯定されることになる。その際、カノンを流すべきである。カノンは生命の曲である。
 
 「魔法のプリセンセスミンキーモモ」を知っているだろうか? 実は、大体、 魔女っ子物シリーズは古典竹取物語の設定にモデルがある。 同作も設定が似ており、夢のファナリナーサから来て、地上世界の夫婦のもとで暮らするというパターンである。いずれ別れはやってくるが、その別れがかぐや姫と異なる。主人公のモモは、子供をかばって交通事故で死ぬが、今度は地上界の父母の本当の子供として生まれ変わることになる。まさしく、ミンキーモモの最終話こそが、かぐや姫の希望=煩悩の肯定の物語なのである。このような物語ならば、天人の音楽ではなく、生命の再生・誕生を肯定するカノンがふさわしくなるであろう。
 確かに「かぐや姫の物語」においても、ラストに地球を見て自然に涙するかぐや姫と月に映し出された赤ん坊のかぐや姫のシーンによって、地上界の思い出は煩悩の消滅した極楽浄土に行っても意識としての記憶からは消えるが、魂の記憶として未来永劫に残るという可能性を示唆して終わっている。
 しかし、それは、あくまでも魂の記憶としてであり、本当にまた地上界の懐かしき場所に帰ってくることができるかはわからない。だから、切なさが表現できる。そして、魂の記憶としてこの希望はかえって永遠化されることになる。
 私は、「かぐや姫の物語」に、魂に刻まれた記憶は永遠不滅である、というメッセージを読みとったのである。このメッセージを伝えるためには、天人の音楽による極楽浄土の描写がないといけない。カノンを使用すると、昇天によって記憶を永遠に魂に封じ込めるのではなく、命の再生のイメージとなってしまい、昇天が新たな別の生を生きるための儀式となってしまう。
 お迎えの場面のBGMをカノンにしたら、「かぐや姫の物語」は、魂の記憶の問題ではなく、永遠の生命(輪廻転生)をテーマとしたものとなってしまうのである。物語のもう一つの可能性として、それはそれでよしかもしれない。

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by merca | 2015-03-21 15:51
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